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山県有朋

明治の藩閥政府と平成の安倍政権――『新聞紙条例』(讒謗律)と「特定秘密保護法」、「保安条例」と「共謀罪」との酷似

「日本に貴族をつくって維新を逆行せしめ、天皇を皇帝(ツァーリ)のごとく荘厳し、軍隊を天皇の私兵であるがごとき存在にし、明治憲法を事実上破壊するにいたるのは、山県であった。」(『翔ぶが如く』文春文庫)

現在、日本の「憲法」の形にも深くかかわる「共謀罪」の議論が拙速な形で行われていますので、征韓論から西南戦争に至る激動の時代を描いた『翔ぶが如く』で山県有朋を厳しく批判していた上記の文章をトップページの〈司馬遼太郎の「神国思想」批判と憲法観に追加しました。

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今回は作家・司馬遼太郎の山県有朋観を簡単に考察することで、山県有朋の思想を強く受け継いでいると思われる安倍首相の危険性を明らかにしたいと思います。

1,山県有朋と政商との癒着と公金横領事件

現在、日本は安倍首相夫妻と「森友学園」や「加計学園」の問題で大きく揺れていますが、「征韓論」の発端となったのは、元奇兵隊の隊長で戊辰戦争の後に横浜で生糸相場を張るようになり「わずか一二年で横浜一の巨商」になった野村三千三〔みちぞう〕による山城屋事件でした。

元部下の野村から頼まれた山県有朋は、「兵部省の陸軍予算の半分ぐらいに」相当したかもしれぬ五十万円という巨額の公金を貸したばかりでなく、御用商人にも取り立てていたのですが、生糸相場に失敗して六四万九千円もの公金を返せないような事態に陥ったので野村は切腹し、山県も明治5年に辞職していました(『歳月』上・「長閥退治」)。

しかし、薩長のパワーバランスにより山県は翌年には初代陸軍卿として復職したばかりでなく、同じような横領がやはり旧長州藩の「井上馨を独裁者とする大蔵省」でも起きたのです。

「信じられぬほどの悪政がいま、成立したばかりの明治政府において進行している」ことに憤激し、太政官での議論でも「法の前では何人〔なんびと〕も平等である」と力説して受け入れられずに辞職した司法卿の江藤新平が明治7年に起こしたのが佐賀の乱でした。

司馬氏は『翔ぶが如く』ではフランス革命時の「フランス革命の闘士」でありながらも、利権で私腹を肥やしさらには、「王政の復活のために暗躍」したタレーランと山県有朋の類似性を指摘したあとでこう続けています。「『国家を護らねばならない』/と山県は言いつづけたが、実際には薩長閥をまもるためであり、そのために天皇への絶対的忠誠心を国民に要求した。」

2,薩長藩閥政府への批判の広がりと明治8年の「新聞紙条例」(讒謗律)

元司法卿の江藤新平が起こした佐賀の乱が鎮圧されたあとも、薩長藩閥政府の汚職と腐敗に対する国民の怒りは収まらず、燎原の火のように広がる薩長藩閥政府への批判を弾圧するために発布されたのが「新聞紙条例」でした。司馬氏はこの条例の問題点をこう指摘しています。

「明治初年の太政官が、旧幕以上の厳格さ在野の口封じをしはじめたのは、明治八年『新聞紙条例』(讒謗律)を発布してからである。これによって、およそ政府を批判する言論は、この条例の中の教唆扇動によってからめとられるか、あるいは国家顛覆論、成法誹毀(ひき)ということでひっかかるか、どちらかの目に遭った」。(太字は引用者、『翔ぶが如く』第5巻「明治八年・東京」)。

3、内務省の設置(明治6年)と保安条例の公布(明治20年)

「普仏戦争」で「大国」フランスに勝利してドイツ帝国を打ち立てたビスマルクと対談した大久保利通は、「プロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立」しようとしましたが、西南戦争の後で暗殺されます(『翔ぶが如く』第1巻「征韓論」、拙著『新聞への思い』、88頁)。

その内務省の大臣となった山県有朋(任期1885~90年)が、「憲法」公布前の明治20年に発布したのが、集会・結社の自由を規制していた「集会条例」を大幅に強化して、後の治安維持法を準備したといえる「保安条例」でした。

内務省がこの条例を拡大解釈することによって、民間で私擬憲法を検討する事も禁じていたことを考慮するならば、この条例は民主主義を否定するような形での「改憲」を目指す安倍政権が、なぜ国内だけでなく、国際社会からの強い批判にもかかわらず「共謀罪」を強行採決しようとしているかをも物語っているが分かるでしょう。

ISBN978-4-903174-33-4_xl

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015年)

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「特定秘密保護法」強行採決への歩み(4)

戦車兵と戦争ーー司馬遼太郎の「軍神」観7月14日

大河ドラマ《龍馬伝》の再放送とナショナリズムの危険性7月14日

「改憲」の危険性と司馬遼太郎氏の「憲法」観7月19日

「特定秘密保護法」の危険性→「特定秘密保護法案」と明治八年の「新聞紙条例」(讒謗律)11月13日

「(国家そのものが)投網、かすみ網、建網、大謀網のようになっていた」→司馬遼太郎の「治安維持法」観11月14日

復活した「時事公論」と「特定秘密保護法」 11月24日

「司馬作品から学んだこと――新聞紙条例と現代」11月24日

改竄(ざん)された長編小説『坂の上の雲』――大河ドラマ《坂の上の雲》と「特定秘密保護法」11月24日

司馬作品から学んだことⅠ――新聞紙条例と現代11月24日

司馬作品から学んだことⅡ――新聞紙条例(讒謗律)と内務省

司馬作品から学んだことⅢ――明治6年の内務省と戦後の官僚機構

司馬作品から学んだことⅣ――内務官僚と正岡子規の退寮問題  

司馬作品から学んだことⅤ――「正義の体系(イデオロギー)」の危険性

司馬作品から学んだことⅥ――「幕藩官僚の体質」が復活した原因

司馬作品から学んだことⅦ――高杉晋作の決断と独立の気概2013年12月6

司馬作品から学んだことⅧ――坂本龍馬の「大勇」12月7日

「特定秘密保護法」と自由民権運動――『坂の上の雲』と新聞記者・正岡子規12月8日

「学問の自由」と「特定秘密保護法」――情報公開と国民の主権12月12日

司馬作品から学んだことⅨ――「情報の隠蔽」と「愛国心」の強調の危険性12月18日

(山口県萩市の中央公園に立つ「山県有朋公像」、北村西制作、出典は「ウィキペディア」)

(2017年6月10日、改題し全面的に改定)

「森友学園」問題と「教育勅語」の危険性――『夜明け前』論にむけて(5) 

前回は「森友学園」における「教育勅語」をめぐる問題のようなことは、内村鑑三の「不敬事件」以降、日本の近代化や宗教政策とも複雑に絡み合いながら常に存在しており、それを明治から昭和初期にかけて深く分析したのが作家の島崎藤村だったと記した。

今回は「教育勅語」の成立をめぐる問題をもう少し補った後で、島崎藤村と「教育勅語」の関わりを掘り下げることにしたい。

*   *   *

明治憲法は明治22年年2月11日に公布され、翌年の11月29日に施行されたが、この間にその後の日本の教育や宗教政策を揺るがすような悲劇が起きていた。すなわち、大日本帝国憲法発布の式典があげられる当日に「大礼服に威儀を正して馬車を待っていた」文部大臣の森有礼が国粋主義者によって殺されたのである。

林竹二は『明治的人間』(筑摩書房)において、この暗殺事件の背景には「学制」以来の教育制度を守ろうとした伊藤博文と国粋の教育を目指した侍講元田永孚のグループとの激しい対立があったと指摘し、この暗殺により「国教的な教育」を阻止する者はなくなり、この翌年には「教育勅語」が渙発(かんぱつ)されることになったと記している。

作家の司馬遼太郎も西南戦争の後で起きた竹橋事件を鎮圧して50余名を死刑とした旧長州藩出身の山県有朋が発した「軍人訓戒」が明治15年の「軍人勅諭」につながるばかりか、さらに「明治憲法」や「教育勅語」にも影響を及ぼしていることに『翔ぶが如く』(文春文庫)でふれていたが、このあとに総理大臣となった山県有朋は「勅語」の作成に熱心でなかった第二代文部大臣の榎本武揚を退任させ、代わりに内務大臣の時の部下であった芳川顕正を起用して急がせていた。

こうして、山県内閣の下で起草され、明治天皇の名によって山県首相と芳川文部大臣に下された「教育勅語」は、大日本憲法が施行されるより前の明治23年10月30日に発布され、また島崎藤村が長編小説『破戒』で描くことになる教育事務の監督にあたる郡視学や「小学校祝日大祭日儀式規程」などを定めた第二次小学校令もそれより少し前の10月7日に公布された。

注目したいのは、宗教学者の島薗進氏が「教育勅語が発布された後は、学校での行事や集会を通じて、国家神道が国民自身の思想や生活に強く組み込まれていきました。いわば、『皇道』というものが、国民の心とからだの一部になっていったのです」と語っていることである(『愛国と信仰の構造』集英社新書)。

このように見てくるとき、「言論の自由や結社の自由、信書の秘密」など「臣民の権利」や司法の独立を認めた明治憲法が施行される前に、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」と明記された「教育勅語」を、学校行事で習得させることができるような体制ができあがっていたように思われる。

実際、明治24年1月9日に第一高等中学校の講堂で行われた教育勅語奉読式においては教員と生徒が順番に「教育勅語」の前に進み出て、天皇親筆の署名に対して「奉拝」することが求められたが、軽く礼をしただけで最敬礼をしなかったキリスト教徒の内村鑑三は、「不敬漢」という「レッテル」を貼られ退職を余儀なくされたのである。

比較文明学者の山本新が指摘しているように「不敬事件」として騒がれた内村鑑三の事件は、「大量の棄教現象」を生みだすきっかけとなり、この事件の後では「国粋主義」が台頭することになったが、同じ年に「教育勅語」の解説書『勅語衍義(えんぎ)』を出版していた東京帝国大学・文学部哲学科教授の井上哲次郎が、明治26年4月に『教育ト宗教ノ衝突』を著して改めて内村鑑三の行動を例に挙げながらキリスト教を「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」とした「教育勅語」の「国家主義」に反する反国体的宗教として激しく非難したことはこのような動きを加速させた。

私たちの視点から興味深いのは、長編小説『春』(明治41)において『文学界』の同人たちの交友や北村透谷の自殺を描いた藤村が、徳富蘇峰の『国民之友』に掲載された山路愛山の史論「頼襄(のぼる)を論ず」を厳しく批判した透谷の「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」と題した論文からも長い引用を行っていたことである。

島崎藤村は後に北村透谷について「彼は私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人の一人だ。そして私達のために、早くもいろいろな支度をして置いて呉れたやうな気がする」と書いているが、「尊皇攘夷の声四海に遍(あまね)かりしもの、奚(いづくん)ぞ知らん彼が教訓の結果に非るを」と、頼山陽をキリスト教の伝道師・山路愛山が書いたことを厳しく批判した透谷の論文も、その2ヶ月後におきる「教育ト宗教ノ衝突」論争をも先取りしていたようにみえる。

そして、島崎藤村も北村透谷の批判を受け継ぐかのように、日露戦争の最中に書いた長編小説『破戒』で、「教育勅語」と同時に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた小学校教育の状況を、明治6年に国の祝日とされた天長節の式典などをとおして詳しく描いた。

この長編小説では、ロシア帝国における人種差別の問題にも言及しながら、四民平等が宣言されたあともまだ色濃く残っていた差別の問題を鋭く描き出していることに関心が向けられることが多い。しかし、現在の「森友学園」の問題にも注意を向けるならば、「『君が代』の歌の中に、校長は御影(みえい)を奉開して、それから勅語を朗読した。万歳、万歳と人々の唱へる声は雷(らい)のやうに響き渡る。其日校長の演説は忠孝を題に取つたもので」と、「教育勅語」が学校教育に導入された後の学校行事を詳しく描き出していた長編小説『破戒』の現代的な意義は明らかだろう。

一方、自伝的な長編小説『桜の実の熟するとき』で学生時代に「日本にある基督教界の最高の知識を殆(ほと)んど網羅(もうら)した夏期学校」に参加した際に徳富蘇峰と出会ったときの感激を「京都にある基督教主義の学校を出て、政治経済教育文学の評論を興し、若い時代の青年の友として知られた平民主義者が通った」と描いていた。実際、明治19年に『将来之日本』を発行して、国権主義や軍備拡張主義を批判した言論人・徳富蘇峰は、翌年には言論団体「民友社」を設立して、月刊誌『国民之友』を発行するなど青年の期待を一身に集めていた。

しかし、『大正の青年と帝国の前途』(大正5)で蘇峰は、「教育勅語」を「国体教育主義を経典化した」ものと高く評価し、「君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神」の養成と応用に「国民教育の要」があると主張していた。

この長編小説が発行されたのが、第一次大戦後の大正8年であったことを考慮するならば、長編小説『桜の実の熟するとき』における「若い時代の青年の友として知られた平民主義者が通った」という描写には、権力に迎合して「帝国主義者」に変貌した蘇峰への鋭い皮肉と強い批判が感じられる。

奉安殿2(←画像をクリックで拡大できます)

(写真は『別冊一億人の昭和史 学童疎開』(1977年9月15日 毎日新聞社、56~57頁より)

司馬遼太郎は昭和初期を「別国」と呼んでいるが、大正14年に制定された治安維持法が昭和3年に改正されていっそう取り締まりが厳しくなると、学校の奉安殿建築が昭和10年頃に活発になるなど蘇峰が「国体教育主義を経典化した」ものと位置づけていた「教育勅語」の神聖化はさらに進んだ。ロシア文学にも詳しい作家の加賀乙彦氏は、この時代についてこう語っていた。

「昭和四年の大恐慌から、その後満州事変が起こり軍国主義になっていく。軍需産業が活性化して、産業資本は肥え太っていく。けれども、その時流に乗れないのは農村、山村、そして東北の人々などの…中略…草莽の人々は、昭和四年から昭和十年にかけて、どんどん置き忘れられて、結局は兵隊として役に立つしかないようになる」。

島崎藤村の大作『夜明け前』は、このように厳しい時代に書き続けられていたのである。

奉安殿(←かつて真壁小学校にあった奉安殿。図版は「ウィキペディア」より)

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安倍政権閣僚の「口利き」疑惑と「長州閥」の疑獄事件――司馬氏の長編小説『歳月』と『翔ぶが如く』

TPP秘密交渉を担当した甘利元経済再生相の「口利き」疑惑が一大疑獄事件へと発展しそうな気配になってきましたが、そんなか、今度は遠藤利明五輪相にも「口利き」の疑惑が発生しました。

リンク→アベノミクス」の詐欺性(4)――TPP秘密交渉担当・甘利明経済再生相の辞任

リンク→まとめ役は遠藤さん」…文科省職員証言毎日新聞)

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このような事態は国内を揺るがした明治初期の汚職事件や疑獄事件を思い起こさせます。

まず発覚したのは、横浜で生糸相場を張るようになっていた元奇兵隊の隊長・野村三千三〔みちぞう〕から頼まれた山県有朋が「兵部省の陸軍予算の半分ぐらいに」相当するような巨額の金を貸したにもかかわらず、野村が生糸相場に失敗して公金を返せないという事態に陥った「山城屋事件」でした(『歳月』上・「長閥退治」)。

しかもこの事件の直後に、南部藩の御用商人・村井茂兵衛が得ていた尾去沢銅山の採掘権を、大蔵省の長官として「今清盛」とも呼ばれるような権力を握っていた井上馨によって没収されるという事件が起きたのです。前代未聞の汚職とその隠蔽の問題と直面した司法卿の江藤が、「信じられぬほどの悪政がいま、成立したばかりの明治政府において進行している」と憤激したことが、西南戦争につながったと司馬氏は指摘していました。

さらに、「フランス革命」の時期に利権で私腹を肥やし、「王政の復活のために暗躍」したタレーランと比較しながら「山県も似ている」と長編小説『翔ぶが如く』で記した司馬氏は、「『国家を護らねばならない』/と山県は言いつづけたが、実際には薩長閥をまもるためであり、そのために天皇への絶対的忠誠心を国民に要求した」と厳しく批判していたのです(二・「好転」)。

このような明治初期の考察を踏まえて、司馬氏が『坂の上の雲』で描いたのが、俳人・正岡子規が入社した新聞『日本』の記者たちの気概だったのです。

リンク→高橋『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年)

ことに第二次安倍政権に強く見られるようになった「おごり」や「腐敗」を厳しく追及する記事を書く気概を、現代の放送局や新聞社にも持って欲しいと願っています。

「司馬遼太郎の戦争観」を「主な研究」に掲載 

リンク→司馬遼太郎の戦争観――『竜馬がゆく』から『菜の花の沖』へ

8月14日の安倍談話は日英の軍事同盟によって勝利した日露戦争の意義を強調することで故郷の先輩政治家・山県有朋の政治姿勢を評価した安倍氏は、国会でも十分な審議を行わずに戦争への参加を可能とする「安全保障関連法案」を「強行採決」して、祖父の岸信介氏と同じように軍拡路線を明確にしました。

一方、きわだった個性を持った吉田松陰とその弟子高杉晋作の悲劇的な生涯を生き生きと描いた長編小説『世に棲む日日』(1969~70年)で、「革命は三代で成立するのかもしれない」と分類した司馬氏は、三番目に現れる世代を「初代と二代目がやりちらした仕事のかたちをつけ、あたらしい権力社会をつくりあげ、その社会をまもるため、多くは保守的な権力政治家になる」と位置づけ、山県狂介(有朋)を「その典型」として挙げていました(三・「御堀耕助」)。

そして、長編小説『坂の上の雲』(1968年~72年)の第四巻の「あとがき」で、「日露戦争の勝利後、日本陸軍はたしかに変質し、別の集団になったとしか思えない」と書いた司馬氏は、「長州系の軍人だけでも二一人」を「華族」などに昇格させた「日露戦争後の論功行賞」の理由は、山県有朋を「侯爵から公爵に」のぼらせるためだったと説明していました(「『旅順』から考える」『歴史の中の日本』)。

つまり、明治維新に際しては「四民平等」の理念が強調されていましたが、1884年に成立した華族令で爵位が世襲とされたことにより、日本の社会は貴族階級のみが優遇される一方で、農民などの一般の民衆が過酷な税金と徴兵制度によって苦しんだ帝政ロシアと似た相貌を、急速に示すようになっていたのです。

(拙著『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』人文書館、2009年、277~278頁より。引用に際しては、文体を変更した)。

それゆえ、明治期に作られた「新しい伝統」に深い疑問を抱いた司馬氏は、世界でも誇りうる「江戸文明」に次第に関心を向けるようになり、江戸時代にロシアとの戦争を防いでいた町人・高田屋嘉兵衛を主人公とする長編小説『菜の花の沖』(1979~82年)を描くことになったのです。

この長編小説の意義については、昨年、学会で発表しましたが(リンク→「「商人・高田屋嘉兵衛の自然観と倫理観――『菜の花の沖』と現代」、昨年末には「司馬遼太郎の戦争観――『竜馬がゆく』から『菜の花の沖』へ」と題するエッセイを『全作家』に投稿しましたので、「主な研究」に掲載します。

(2016年1月18日。記事を差し替え)

 

安倍首相の国家観――岩倉具視と明治憲法

昨日の朝のニュースで安倍首相が施政方針で岩倉具視に言及した演説を聞いた時には思わず耳を疑い、次いでその内容に戦慄を覚えました。

ただ、どの新聞もあまりそのことには触れていなかったので、空耳かとも思ったのですが、よく読むとやはり語られていました。たとえば、「施政方針演説 安保、憲法語らぬ不実」と題した社説で「東京新聞」は、首相が「幕末の思想家吉田松陰、明治日本の礎を築いた岩倉具視、明治の美術指導者岡倉天心、戦後再建に尽くした吉田茂元首相」の四人の言葉を引用したことを伝えています。

そして、憲法についても「『改正に向けた国民的な議論を深めていこう』と呼び掛けてはいるが、具体的にどんな改正を何のために目指すのか、演説からは見えてこない。…中略…首相演説では全く触れず、成立を強行した特定秘密保護法の前例もある。語るべきを語らぬは不誠実である」と結んでいます。

少し長くなりますが、「時事ドットコム」により私が戦慄を覚えた箇所を全文引用した後で、司馬作品の研究者の視点から憲法との関連で首相演説の問題点を指摘するようにします。

*   *

【1・戦後以来の大改革】

「日本を取り戻す」/ そのためには、「この道しかない」/ こう訴え続け、私たちは、2年間、全力で走り続けてまいりました。/ 先般の総選挙の結果、衆参両院の指名を得て、引き続き、首相の重責を担うこととなりました。/  「安定した政治の下で、この道を、さらに力強く、前進せよ」 / これが総選挙で示された国民の意思であります。/ 全身全霊を傾け、その負託に応えていくことを、この議場にいる自由民主党および公明党の連立与党の諸君と共に、国民の皆さまにお約束いたします。  経済再生、復興、社会保障改革、教育再生、地方創生、女性活躍、そして外交・安全保障の立て直し。/ いずれも困難な道のり。「戦後以来の大改革」であります。しかし、私たちは、日本の将来をしっかりと見定めながら、ひるむことなく、改革を進めなければならない。逃れることはできません。 /

明治国家の礎を築いた岩倉具視は、近代化が進んだ欧米列強の姿を目の当たりにした後、このように述べています。 /  「日本は小さい国かもしれないが、国民みんなが心を一つにして、国力を盛んにするならば、世界で活躍する国になることも決して困難ではない」 /  明治の日本人にできて、今の日本人にできない訳はありません。今こそ、国民と共に、この道を、前に向かって、再び歩み出す時です。皆さん、「戦後以来の大改革」に、力強く踏み出そうではありませんか。

*   *

しかし、安倍首相は『世に棲む日日』や『竜馬がゆく』などの司馬作品の愛読者だと語っていましたが、その安倍氏が「改革」の方向性を示す人物として挙げた岩倉具視について司馬氏は、『翔ぶが如く』の第2巻でこう描いています。

「岩倉は明治四年に特命全権大使として大久保や木戸たちとともに欧州を見てまわったのだが、この人物だけは欧州文明に接してもなんの衝撃もうけなかった。(中略

かれの欧州ゆきの目的のひとつはヨーロッパの強国を実地にみてそれを日本国の建設の参考にしようというところにあったはずだが、ところがどの国をみても岩倉というこの権謀家は感想らしい感想をもたなかった。北欧の小国をみて日本の今後のゆき方についての思考材料にしてもよさそうであったが、しかしべつに何事もおもわなかった。岩倉には物を考えるための基礎がなかった。かれは日本についての明快な国家観ももっておらず、世界史の知識ももたなかった。」

その後で司馬氏はこう続けているのです

「岩倉がかろうじて持っている思想は、/ 『日本の皇室をゆるぎなきものにする』/ いうだけのもので、極端にいえば岩倉には国家というものも国民もその実感としてはとらえられがたいものになっていた。おおかたの公卿がそうであろう。」

そのような岩倉の理念を受け継いだ人物として司馬氏が注意を促したのが、長州出身の山県有朋なのです。

少し長くなりますが、安倍首相の憲法観を考える上でも重要だと思えますので、その核心部分を引用しておきます。

*   *

「『国家を護らねばならない』

と山県は言いつづけたが、実際には薩長閥をまもるためであり、そのために天皇への絶対的忠誠心を国民に要求した。(中略)

大久保の死から数年あとに山県が内務卿(のち内務大臣)になり、大久保の絶対主義を仕上げるとともに大久保も考えなかった貴族制度をつくるのである。明治十七年のことである。華族という呼称をつくった。(中略)

『民党(自由民権党)が腕力をふるって来れば殺してもやむをえない』

とまでかれは言うようになり、明治二十年、当時内務大臣だったかれは、すべての反政府的言論や集会に対して自在にこれを禁止しうる権限をもった。(中略)

天皇の権威的装飾が一変するのは、明治二十九年(一八九六年)五月、侯爵山県有朋がロシア皇帝ニコライ二世の戴冠式(たいかんしき)に日本代表として参列してからである。(中略)

山県は帰国後、天皇をロシア皇帝のごとく荘厳すべく画期的な改造を加えている。歴史からみれば愚かな男であったとしかおもえない。ニコライ二世はロシア革命で殺される帝であり、この帝の戴冠式のときにはロシア帝室はロシア的現実から浮きあがってしまっていた時期なのである。」

その後で、温厚な司馬氏には珍しく火を吐くように激しい文章を叩きつけるように記しています

「日本に貴族をつくって維新を逆行せしめ、天皇を皇帝(ツァーリ)のごとく荘厳し、軍隊を天皇の私兵であるがごとき存在にし、明治憲法を事実上破壊するにいたるのは、山県であった。」

重厚で深みのある司馬氏の文章とは思えないような記述ですが、それは学徒出陣でほとんど生還することが難しいとされた満州の戦車隊に配属されたことで「昭和別国」の現実を直視することになったためでしょう。

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「日本を取り戻す」  そのためには、「この道しかない」  こう訴え続け、私たちは、2年間、全力で走り続けてまいりました。

と施政方針演説で語った安倍氏は、次のように続けていました。

「安定した政治の下で、この道を、さらに力強く、前進せよ」  これが総選挙で示された国民の意思であります。

*   *

安倍政権がこの2年間、国民の声を無視して原発の推進や沖縄の基地建設を強行してきたことを考慮するならば、戦前のスローガンを思わせるような響きを持つ「日本を取り戻す」という安倍氏の言葉は、民主主義を打倒して「貴族政治を取り戻す」ことを意味しているのではないかという危惧の念さえ浮かんできます。

 

「特定秘密保護法」と「昭和初期の別国」――半藤一利氏の「転換点」を読んで

「特定秘密保護法案」が不意に法案として提出されたときにまず浮かんだのは、司馬遼太郎氏がご存命だったら、厳しい批判のエッセーを多くの新聞や雑誌に発表して頂けただろうという思いでした。

しかし、司馬氏はすでに鬼籍に入られており、司馬氏の深い理解者だった作家の井上ひさし氏、ジャーナリストの青木彰氏、さらに文明学者の梅棹忠夫氏なども亡くなられていました。

こうして、多くの不備があるにもかかわらず、唐突に提出されたこの法案は、きちんとした批判が新聞や雑誌で行われず、国会での十分な議論も行われる前に強行採決されたのです。

   *   *   *

この「特定秘密保護法」が成立したとの報に接した時には、強い怒りを感じるとともに、司馬氏がこの「無残」ともいえる議会の状況を眼にされなくてよかったとも感じました。

なぜならば、司馬氏は『世に棲む日日』(文春文庫)において、当時は狂介と名乗っていた山県有朋が相手を油断させてたうえで「夜襲」をしかけたことを、武士ではなく足軽の発想であると厳しく断罪していたからです。

司馬氏の重い感慨を代弁していると思えるような半藤一利氏の記事「転換点 いま大事なとき」が、18日の「朝日新聞」に掲載されましたので、司馬氏の言葉とともに紹介して起きます。

   *   *   *

「この国はどこに向かおうとしているのでしょう。個人情報保護法だけでも参っていたのですが、特定秘密保護法ができた。絶望的な気分です。個人情報保護法で何が起きたか。軍人のメモや日記を調べに防衛省防衛研究所を訪ねても、「個人情報」にかこつけて見せてくれなくなった。」

歴史的にみると、昭和の一ケタで、国定教科書の内容が変わって教育の国家統制が始まり、さらに情報統制が強まりました。体制固めがされたあの時代に、いまは似ています。」

 「自民党の憲法改正草案には『公益および公の秩序』という文言が随所に出てきます。『公益』『公の秩序』はいくらでも拡大解釈ができる。この文言が大手をふるって躍り出てくることが、戦前もそうでしたが、歴史の一番おっかないところです。」

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 このような「悪法」を国民の強い反対にもかかわらず強行採決した安倍政権の支持率が今も高いのは、「アベノミクス」と名付けられた「バブル」を煽るような経済政策による一時的な好景気(感)に支えられたものだと思われますが、経済を優先させて日本人の倫理観を喪失させた「バブル」経済にもっとも厳しかった「有識者」の一人が司馬遼太郎氏でした。

「大地」の重要性をよく知っていた司馬氏は、「土地バブル」の頃には、「大地」が「投機の対象」とされたために、「日本人そのものが身のおきどころがないほどに大地そのものを病ませてしまっている」ことを「明石海峡と淡路みち」(『街道をゆく』第7巻、朝日文庫)で指摘していたのです。

しかも戦前や戦中の日本における「公」の問題も考察していた司馬氏は、「正しい意味での公」という「倫理」の必要性を次のように記していたのです。

すなわち、司馬氏は「海浜も海洋も、大地と同様、当然ながら正しい意味での公のものであらねばならない」が、「明治後publicという解釈は、国民教育の上で、国権という意味にすりかえられてきた。義勇奉公とか滅私奉公などということは国家のために死ねということ」であったとしました。そして司馬氏は、「われわれの社会はよほど大きな思想を出現させて、『公』という意識を大地そのものに置きすえねばほろびるのではないか」という痛切な言葉を記していたのです。

   *    *   *

 半藤氏は「この国の転換点として、いまが一番大事なときだと思います」と結んでいます(「朝日新聞」12月18日、38面)。

私も司馬遼太郎の研究者として新聞記者・正岡子規の気概を受け継ぎつつ、これからもこのホームページをとおして21世紀の新しい文明の形を考察し、それを発信していきたいと考えています。

最後に、ブログのタイトル「風と大地と」の由来を説明している記事のリンク先を記しておきます。

アニメ映画『風立ちぬ』と鼎談集『時代の風音』(ブログ)7月20日

「大地主義」と地球環境8月1日

「著書・共著」のページの『「竜馬」という日本人ーー司馬遼太郎が描いたこと』を著書一覧にリンクしました

「著書・共著」のページの『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』を著書一覧にリンクして図版を取り込みました。

それとともに著書紹介のページでも図版を取り込むとともに、目次を詳しいものと差し替えました、