高橋誠一郎 公式ホームページ

三島由紀夫

チェコ事件でウクライナ危機 を考えるⅠ

はじめに 堀田善衞と三島由紀夫のチェコ事件観

ロシア軍のウクライナ侵攻というニュースを聞いて、最初に思ったことはソ連軍がワルシャワ条約五カ国軍とともに民主化運動を展開していたチェコスロヴァキアに侵攻した1968年のチェコ事件のことでした。

むろん、ソ連の政権下で起きたチェコ事件とソ連崩壊後の今回の侵攻とでは性格も大きく異なります。しかし、前回考察したように、西欧列強に滅ぼされないためにはナポレオンに勝利したロシア帝国を盟主とする「全スラヴ同盟」を結成して対抗すべきだと主張したダニレフスキーの考えは、露土戦争以降、ロシア正教を国教としていたロシアで広まりました。また、革命政権が誕生した後の1918年に行われた日本やアメリカなどの連合国によるシベリア出兵で多くの死傷者を出し、この戦争以降も常に外国からの圧力を感じていたソ連や、ソ連時代の情報将校だったプーチン大統領にもその「恐怖」は受け継がれているように思われます。

他方で、ゼレンスキー大統領が今回のロシアの侵略を「真珠湾攻撃」にたとえたことが日本の右派の怒りを買っているようですが、ダニレフスキーの歴史理論は昭和初期の「大東亜共栄圏」の思想にも影響を与えており、今回のドネツク・ルガンスクの建国を図ったロシアのように満州国の建国をしたことなどから経済制裁を受けた日本は戦争を開始する理由として、A・B・C・D包囲網を挙げていたのです。

 ところで、ワルシャワ条約5カ国軍が武力で8月21日にはチェコスロバキア全土を占領下においたことを知った堀田善衞は、1956年のハンガリー事件を連想して、「単純な怒りとともに、呆れてしまい、また同時に、彼らのやりそうなことをやったものだ、という感をもったものであった」と記しています。

しかし、堀田は丸山眞男や久野収らが提唱したチェコ事件をめぐる抗議声明に署名しませんでした。それは、9月20日から25日までタシケントで開催されたアジア・アフリカ作家会議の一〇周年記念集会に出席して、「長年の友人である」ソ連の作家たちが「どんな顔をして何を言うか、このことだけをでもたしかめてみようと思い立った」からでした。

つまり、この時の事件に堀田はまず現場に行って観察しようという鴨長明と同じような精神で対応していたのです。こうして、9月19日に日本を出発した堀田は記念集会に参加した後で、ヘルシンキ、ストックホルム、ロンドン、パリ、プラハ、ウィーン、ベルリン、ブラティスラバなどヨーロッパ各地を訪問して、ことに不幸なチェコスロヴァキアには前後二回、約1カ月滞在して、さまざまな人々と話し合い、約3カ月後の12月24日に日本に帰国しました。その間に見聞きしたことや考えたことを詳しく記したのが堀田善衞の『小国の運命・大国の運命』です。

一方、『文化防衛論』に収められた「自由と権力の状況」という論考でチェコ事件について考察した三島由紀夫は、「学生とのティーチ・イン」でもこの問題に言及しており、この事件が「三島事件」を起こすきっかけの一つになっていたことが感じられます。

それゆえ、本稿ではまずチェコ事件をとおして「政治と文学」の問題について考察した三島の「自由と権力の状況」を簡単に見た後で、昭和初期に流行った小林秀雄の『罪と罰』論にも注意を払いながら、三島の革命観とテロリズム観を考察します

そして、最後に堀田の小国の運命・大国の運命』を詳しく分析することにより堀田の視野の広さと考察の深さを示すことにします。

そのことによってウクライナ危機に際しての維新や自民党安倍派の対応と、チェコ事件に対する三島の反応との類似性を明らかにし、報道や言論への圧力を徐々に強めながら昭和初期と同じように戦争へと急速に傾斜している現代日本の危険性を示すことができるでしょう。

1,「政治と文学」の考察――「自由と権力の状況」

三島は「自由と権力の状況」という論考の冒頭でチェコの問題への強い関心の理由をこう記しています。

「チェコの問題は、自由に関するさまざまな省察を促した。それは、ただ自由の問題のみではなく、小国の持ちうる、政治的なオプションの問題でもある。それは、力と力の世界の出来事であると同時に、イデオロギーの対立の中に、いかに身を処しうるかという微妙な戦術の心理的出来事でもある。事、表現の自由に触れるかぎり、「政治と文学」の問題も、ここにドラマティックなモデル・ケースを作り出した。それに比べると、日本で語られている政治と文学の対立状況などは児戯に類する。極端に言えば、あそこでは文学と戦車との対立が劇的に演じられたのである。」(『文化防衛論』、ちくま文庫、119頁、以下頁数のみをかっこ内に記す)。

そして、「安保条約下の日本もアメリカの大国主義に対して警戒し、これを排除し、あるいはこれに抵抗しなければならないと教えるであろう」(123)という意見も紹介した三島は「大国の強大な武力の前には、多少の自衛上の武力など持っても何にもならない。だから非武装中立こそは、国を護る最上の良策である、という考えの論理的矛盾は明らかである」(125)としています。

そして、三島はかろうじて核戦争を回避したキューバ危機後の世界のあり方をも批判して、「われわれにけじめを失わせ、弁別を失わせたものが、冷戦と平和共存の論理」(129)であると結論していました。

2,「みやび」とテロリズム――「文化防衛論」

注目したいのは、「反革命宣言」で神風特攻隊員が遺書に記した「『あとにつづく者あるを信ず』の思想こそ、『よりよき未来社会』の思想に真に論理的に対立するものである」と記した三島がここでも「自由と権力の状況」に言及していることです。

「文化防衛論」で「『みやび』は、宮廷の文化的精華であり、それへのあこがれであったが、非常の時には、『みやび』はテロリズムの形態をさえとった」とした三島は、「天皇のための廠起は」「一筋のみやび」を実行した桜田門の変の義士たちのように、「容認されるべきであった」と主張したのです(74)。

ここからは幕末に頻発した「天誅」という名前のテロを称賛する姿勢が感じられますが、このような三島の主張とは正反対の主張をしたのが、『竜馬がゆく』で主人公の坂本竜馬を、殺すことを嫌う武士として描いたにもかかわらず、「新しい歴史教科書をつくる会」から高く評価されたことで誤解されることになった司馬遼太郎でした。

ベトナム戦争や学生紛争の時期にこの長編小説を読んだ私は、「天誅」を「正義の殺人」とする思想に『罪と罰』に描かれている「非凡人の理論」と同じような傲慢さを感じて、司馬作品にも熱中しました。あまり知られていないようですが、幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となったと指摘した司馬は、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と明確に記していたのです(『竜馬がゆく』文春文庫)。

一方、桜田門外の変を「一筋のみやび」と解釈した三島は、そのような視点から「西欧的立憲君主政体に固執した昭和の天皇制は、二・二六事件の『みやび』を理解する力を喪っていた」(75)と厳しく批判していました。

たしかに、二・二六事件で処刑された磯部一等主計の視点から描いた『英霊の聲』などにおける三島由紀夫の主張は、亡くなった者たちの無念の思いも伝えて迫力がありますが、しかし、情報将校だったプーチンと同様の「国粋主義」的な視野の狭さを感じます。

一方、堀田善衞は誕生したばかりの革命政権を打倒も意図して日本がアメリカなどの連合国と共に行ったシベリア出兵を描いた『夜の森』で、1919年には日本が併合した韓国で三・一独立運動が起きていたことや、この出兵ではすでに満州国に先立って傀儡国家の樹立もはかられていたことなどを記しています。  

一方、三島の視野には、併合された韓国や「五族協和」というスローガンで樹立されながら、土地を奪われた満洲の人々などの苦悩や不満は入ってきていないのです。

3,「決闘」と「暗殺」をめぐる議論 と『罪と罰』の解釈

「学生とのティーチ・イン」でも三島はチェコの民主化運動についてこう批判しています。「いよいよ世間は米ソ二大強国の共存時代に入ってきた、これなら大抵のことをやったって片一方が手を出すわけはない、キューバ事件もそうだからあれでもそうだろう。これはいまがやり時だ、ここで両方のいいところをちょっと取ってやれば、共産主義体制に属しながらしかも自由というものをアメリカ並みに味わえるのじゃないか、こうしたら世界中に一番いいお手本を示してやれる、という山気があったに違いない。こんな山気に私は同情しない」(288)

しかし、私が「学生とのティーチ・イン」で一番興味を持ったのは、学生Dの「三島先生はさきほど、暗殺的行為は一つの思想が一つの思想を殺すことで、これは決闘である、決闘という行為は非常に美しいものであると、賛美なさいましたけれども、(……)暗殺というのは非常に卑怯な行為だと思うのです」(202)という核心を突いた質問に対して、三島が少したじろぎながら、こう答えていたことです。

「決闘との比較は多少当を得ていなかったと思いますけれども」としながらも、警備がきわめて厳重なことを考慮するならば、「だからプラクティカルな問題として、暗殺が卑怯に見えても、暗殺という形をとらざるを得ないと思うのです」(203)。

こうして三島は学生の批判を受け入れて、「暗殺が卑怯」であることは認めつつも「暗殺という形」の殺人を認めているのです。

 このような主張は一見、不合理で説得力を欠いていると思えます。しかし、なぜ三島がそのような主張をしたのかを考えると、二・二六事件が起きる2年前の1934年に小林秀雄が書いた「『罪と罰』についてⅠ」の構造が浮かんできます。ここで「超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」とした小林は、「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」とその義理の妹を殺した主人公のラスコーリニコフには、「罪の意識も罰の意識も」ついに現れなかったと断言していたのです(全集、6・45)。

つまり、「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」を殺害しても「罪の意識」が現れなかったと解釈するならば、「政府要人」を「悪人」と見なして殺した青年将校たちにも「罪の意識も罰の意識も」現れるはずはなかったのです。

このような解釈は、我田引水のように思える人もいるかも知れませんが、「文化防衛論」で「社会主義が厳重に管理し、厳格に見張るのは、現に創造されつつある文化についてであるのは言うまでもない。これについては決して容赦しないことは、歴史が証明している」と記した三島が、「ソヴィエト革命政権がドストエフスキーを容認するには五十年かかってなお未だしの観があるが」と続けています。

 この記述からはドストエフスキーへの三島の深い関心がうかがえ、当時、流行していた小林秀雄の『罪と罰』論からも影響を受けたことが感じられるのです。

「耽美的パトリオティズム」の批判――「美神との刺違へ」という表現と林房雄の「玉砕」の美化

4,復讐と絶望の分析と人類滅亡の危険性――『罪と罰』から『白痴』へ

 神西清は三島由紀夫論「ナルシシスムの運命」で、「戦争は確かに、彼の美学の急速な確率を促した。(略)美の信徒は、今やはっきりと美の行動者になったからである」と記していました(『神西清全集』第6巻、484頁)。

実際、三島由紀夫はデビュー作といえる『仮面の告白』のエピグラフで、「美の中では両方の岸が一つに出合つて、すべての矛盾が一緒に住んでゐるのだ」という『カラマーゾフの兄弟』のセリフを引用していたのです。

これらのことを紹介した宮嶋繁明氏は、三島にとって「美」が如何に重要な理念として確立したかに注意を促した神西が、さらに「美の殉教者が一変して、美による殺戮者になったのだ。彼は美という兇器をふりかざして、あらゆる敵へ躍りかかって行った」と続けて、「三島事件」を予見するような考察も行っていたことに注意を促しています(『三島由紀夫と橋本文三』弦書房、2011年、46~47頁)。

ドストエフスキーにおける美の問題は『白痴』の理解にも深く関わりますが、先にみたように、「学生とのティーチ・イン」では「暗殺」の正当性を主張するために「決闘」にも言及することで「暗殺」を「美化」しようとした三島がかえって学生から卑怯だと指摘されていました。

実は、この前段階で三島は「私はアウシュビッツを認めるわけじゃない。私はナチスのああいうやり方を認めるわけじゃない。/私があくまでそこを分けたいと思うのは、人間が全身的行為、全身的思想で、人と人とぶつかり合うという決闘の思想というものが私は好きなんです」と語っていました(196)。

さらにスターリンが行った「粛清」とも比較することで、「あれだけ警備の多勢いるところで、死刑を覚悟でやるというのは大変だと思う。私は人間の行動というのは、行動のボルテージの高さで評価する」と語った三島は、一対一で行う「勇気」にも言及して「暗殺」を正当化していました。

そのような人物の一人がドストエフスキーが『罪と罰』で描いたラスコーリニコフであり、 「非凡人の理論」を考え出して、「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」を殺害したのです。こうして、ドストエフスキーは「小説という方法を生かして「非凡人」の理論を、「他者」の殺人という極限的な事態の中で、主人公の身体や感情の動きをもきわめて具体的に分析しながら考察することにより、フロイトなどに先だって絶望の諸相や人間心理の無意識的な深みにまで迫り得た」のです(『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』刀水書房、9頁)。

『罪と罰』では老婆とその義理の妹を殺害したラスコーリニコフの更生が、エピローグでの「人類滅亡の悪夢」を見た後で示唆されていました。

一方、『白痴』ではスイスでの治療から戻ったムィシキンは出会った絶世の美女ナスターシヤの内に深い「絶望」を見抜いて、なんとか癒そうとしたのですが果たせずに終わります。「決闘」の問題を「復讐」のテーマともからめて考察しているこの長編小説では(拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、176~180頁)、さらにより深い「絶望者」が描かれています。

それが自分の余命が長くないことを知らされたイッポリートです。自殺をしようとして失敗していた彼は、自暴自棄となり「もしもいまこのぼくが急に思いたって、好き勝手に十人ばかりも人を殺したり」、あるいは「世の中で一番ひどいと思われることをしでかしたりした」らどうだろうかと問いかけていました。

 「つまり、ラスコーリニコフの「非凡人の理論」では、他者は軽蔑すべき対象としてでも存在したのにたいし、「自己」の可能性を見失って「絶望」したイッポリートにとっては、「他者の生命」も意味をなさなくなってしまって」いたのです(前掲書、217頁)。

この意味で興味深いのは、三島との討論の際に学生Eが、次のような鋭い質問を投げかけていました。 「たった一人でこの世の中を全(すべ)て破壊できると考える人間が、自分の考えを貫こうとして、この全世界を破壊するしかない」と考えて、「合理的に、自分の自殺と他の全世界の人々を滅ぼすということを同時にやったとして、それで全世界を滅ぼすことになっても、ボルテージの高まったその個人に意義はあるのですか。それを伺いたいのです」(206)。

この質問は私が『白痴』のイッポリート から受けた印象とも重なっていました。 彼が考えたのは「無差別殺人」のことでしたが、核の時代の現代においてそれは核兵器の使用になると思えるからです。

こうして、「憲法」を変えるために三島由紀夫が東部方面総監を人質にして自衛隊のクーデターを呼びかけ、その後、割腹自殺をした事件から私は激しい衝撃を受けたのですが、その一因は 椎名麟三が自殺した芥川龍之介が遺書の『或旧友へ送る手記』で、「僕の手記は意識している限り、みずから神としないものである」と記していることに注意を促していたことにもありました。

つまり、「三島事件」を知った時には、三島が芥川とは反対に「みずから神」となるために自刃をしたことに強い反発を覚えたのです。

その後、この衝撃的な事件の印象は薄れましたが、その関心は「昭和維新」を掲げた2・26事件に遭遇した若者を主人公とした堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』の考察 や、原爆パイロットをモデルにして原水爆の危険性を考察した『審判』の考察へと向かうことになりました。

 次回の「チェコ事件でウクライナ危機を考えるⅡ」では、ドストエフスキーについての言及もある堀田善衞の小国の運命・大国の運命』を詳しく考察することにより、彼の社会主義観や文明観に迫りたいと思います。

(2022年3月21日、加筆、改訂)

三島由紀夫作品でウクライナ危機を考える――「民族的憤激」の危険性

はじめに 「老い」について

ロシア軍によるウクライナ侵攻は今も続いており、「チェコの春」の際と同じような事態が起きていることに、「戦争反対」の声を挙げることしかできないことに暗澹たる思いに捉われる。

しかし、長い間ロシア文学だけでなく、ロシアの文化や歴史の研究に携わってきた者としては、やはりこの事態に対して「自分の声」で明確な意見を表明することが必要だと思える。

それゆえ、本稿では憲法改正のために自衛隊の決起を呼びかけた後で割腹自殺した三島由紀夫の文化論、歴史観と原爆観をとおして、無謀で野蛮なウクライナ侵攻を開始したプーチン大統領の心理に迫りたい。

二人の歴史観や原爆観を比較するのは奇異と思われる人もいるかもしれないが、後に見るように、昭和初期に唱えられた日本を盟主とする「大東亜共栄圏」の思想は露土戦争の頃に盛んになった「全スラヴ同盟」の思想から強い影響を受けていると思われるからである。

半世紀前の1970年に三島事件が起きた際に、強い衝撃を受けた私はすぐに血盟団事件をヒントとした『奔馬』などが収められている三島の最後の大作『豊饒の海』を読むことで、彼の行動の背景を知ろうとした。

しかし、神風連の乱にも度々言及されていることで『奔馬』の思想的な背景は分かったものの三島の行動の原因を解明することはできず、冒頭の長編小説『春の雪』や、第三作『暁の寺』や『天人五衰』からも文才の豊かさは感じたがあまり内容を理解できずに、それ以降は三島の作品からは遠ざかっていた。

人名もなかなか思い出せないような記憶力の衰えを感じるようになった70歳を過ぎてから、『豊饒の海』を久しぶりに再読したところ、ボディビルなどで鍛えた肉体を見せる事を好んだ三島が45歳の若さで、 転生する各巻の主人公の「観察者」であり、作品全体の主人公でもある本多の肉体の衰えへの怖れや「老い」への不安を見事に描いていたことに感心した。

そして、同じように柔道などの格闘技の写真を掲載させることを好むロシアのプーチン大統領が私より3歳若いだけであることに気付いて、長年、権力の居続けているこのような老人に安倍元首相がすり寄っていくことに不安も覚えた。

1,『豊饒の海』における「美意識」の問題と「テロ」の思想

最初の巻『春の雪』からは三島が若い頃に影響を受けた「日本浪曼派」の 「美意識」 が伝わってくるが、1961年(昭和36年)に二・二六事件に題材をとった『憂国』を発表した三島は、1966年にも「神帰(かむがかり)」となる川崎青年をとおして、自分が「道義的革命」と考えた二・二六事件で処刑された青年将校や特攻隊員の「神霊」(注:憑依した霊)の声を聴いた主人公の思いが、能の修羅物の2場6段の構成で描かれている『英霊の聲』を発表していた。

翌年に発表した「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」で
三島は 、 キリスト教と比較しつつ「テロ」行為だけでなく、自殺を美化する根拠をこう説明していた。

「天皇と一体化することにより、天皇から齎される不死の根拠とは、自刃に他ならないからであり、キリスト教神学の神が単に人間の魂を救済するのとはちがって、現人神は、自刃する魂=肉体の総体を、その生命自体を救済するであろうからである。」(『文化防衛論』ちくま文庫、116)。

この記述だけでは分かりにくいが、『日本浪曼派批判序説』で「耽美的パトリオティズム」の問題を考察した評論家の橋川文三は、「日本の右翼テロリストは、その死生観において、ある伝統的な信仰につらぬかれていた」ことに注意を促してこう記していた(「テロリズム信仰の精神史」)

「それは、かんたんにいえば、己の死後の生命の永続に関する楽天的な信念であり、護国の英雄として祭られることへの自愛的な帰依」であり、「このような固有の神学思想は、一定の条件のもとでは、容易にいわゆる人権の抹殺をひきおこし、しかもそこに責任や罪を感じることのない心性をつくり出す」。

この記述に注目するならば、現代の日本社会の問題を描いた諸作品の後で、堀田が一転して、二・二六事件との遭遇や自殺についての考察を記した自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』を描き始めたのは、不安な時代に再び「日本浪曼派」的な思想が日本で拡がるのを予感して、昭和初期の時代を振り返ろうとしたためではないかと思える。

なぜならば、保田與重郎と小林秀雄とが「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」ことに注意を促していた評論家の橋川文三は、「保田の主張に国学的発想がつよくあらわれてくるにつれて、一切の政治的リアリズムの排斥、あらゆる情勢分析の拒否がつよく正面に押し」だされるにいたると記してからである。

実際、この事件と特攻隊の兵士の霊たちの呪詛を描いた『英霊の聲』は、亡くなった者たちの無念の思いが強く伝わり迫力のある作品となっているが、敵と戦うことが主な任務である軍人の視点には国を思う「純粋さ」はあっても広い国際的な視野や 戦争の被災者 への同情はない。

そのことを痛感するのは、後に見るように「唯一の被曝国」としての「輝かしい特権」として、戦前の貴族階級の子弟のための学習院で学んでいた三島には、「核武装」の権利を主張する一方で、実際に被爆した人々の肉体的、精神的な苦しみの考察が全く欠けているからである。

それは堀田善衞が太平洋戦争時の国策通信会社の社員を主人公とした『記念碑』で描いた特高警察の井田の観察に似ている。井田は「開戦後、わずか七ヵ月」のミッドウェイ海戦で大戦果を挙げたという発表があったが、「本当は我が方の全滅的敗戦」であったと知らされたときにも、「敗戦思想の一掃」を任務とする彼は「そんな風な事実など、知りたくもなかった」と記されているのである。

同じことはプーチン氏にも ある程度当 てはまるであろう。残念ながら、詳しい経歴には不案内だが、旧ソ連の情報将校であった彼は、いわゆるソ連の「赤い貴族」に属しており、やはり庶民階級の状況を詳しく知りえるような環境ではなかったと思える。さらに、エリツィンから権力を受け継ぎ、長年、権力の座にいるためにイエスマンばかりとなって最近では国内での情報統制や反対派への言論弾圧を強めていたプーチンにも正確な情報は入らず、 ウクライナ侵攻を命令した際には正確な情勢判断が出来なくなっていたのではないだろうか。

2,「大東亜共栄圏」と「全スラヴ同盟」の思想

ここで注目したいのは、長編小説『夜の森』でシベリア出兵は「日清日露などとはまるきり性質のちがう(……)日本の王道主義を世界にひろめる思想の戦争」(三・二五九)なのだと熱弁をふるう少尉をとおして、この出兵が「五族協和」などの「満州国の理念」を讃えて行われた満州事変にもつながっていることを示唆していたことである。

実際、「日本浪曼派」の保田與重郎は「『満州国皇帝旗に捧ぐる曲』について」で、「八紘一宇」などの理念が唱えられた「満州国の理念」を、「フランス共和国、ソヴエート連邦以降初めての、別箇に新しい果敢な文明理論とその世界観の表現」と讃えることになる。

しかし、このような「文明理論」はクリミア戦争後に唱えられて露土戦争の頃に盛んになったダニレフスキーのロシアを盟主とする「全スラヴ同盟」の思想から強い影響を受けていた。

すなわち、かつてドストエフスキーとともにフーリエの思想を広める会で活動していたダニレフスキーは、大著『ロシアとヨーロッパ――スラヴ世界のゲルマン・ローマ世界にたいする文化的および政治的諸関係の概要』(1869年)の第一章でクリミア戦争がどうして勃発したのかを問題とし、この戦争がこの前年に即位したナポレオン三世が国内の歓心を得るために聖地エルサレムにおけるカトリック教徒の特権をトルコに要求し、スルタンも一七七四年の条約に反してこれを認めて、ギリシア正教徒の権利の復活を実行しなかったために起きたと主張した。

そして、ナポレオン三世にとってこの戦争が「ナポレオン王朝を不信と悪意をもって見ているヨーロッパと和解させる」ために必要であったことを強調し、フランス政府は「戦争の機会を探していたのだ」と説明したダニレフスキーは、ポーランドの分割や二月革命以後のハンガリーの鎮圧の際には、オーストリアやプロシアなど西欧の諸国も関わっていたにもかかわらず、ロシアのみがその反動性を強く非難されており、ここでは不公平な「二重基準」が用いられると批判した。

 それゆえ、ダニレフスキーは「弱肉強食」の論理を正当化する西欧列強から滅ぼされないためには、「祖国戦争」に勝利したロシア帝国を盟主とする「全スラヴ同盟」を結成して西欧列強と対抗すべきだと主張した(拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、157~163頁参照)。

 しかも「祖国戦争」に勝利したロシアは、ポーランドを祖国の防衛線と捉えてその併合を正当化していたが、「日露戦争」の勝利後には日本も韓国の併合を同じような視点から正当化していたのである。

露土戦争を「十字軍」と捉えたドストエフスキーの『悪霊』や『作家の日記』にも強い影響を与えたダニレフスキーの歴史理論については、テーマが拡散するので拙著では保田與重郎が高く評価した「文明理論」の背景には触れなかったが、昭和初期に小林秀雄のドストエフスキー論が熱狂的に受け入れられた理由には、このような時代的な背景もあったと思える。

一方、『罪と罰』で「非凡人の思想」に囚われて、「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」を殺害したラスコーリニコフの行動と苦悩を、他者との激しい議論や、主人公の感情や夢の描写をとおして、「他者を殺すこと」と「自分を殺すこと」の問題を極限まで考察したドストエフスキーは、そのエピローグで「人類滅亡の悪夢」を描き、次作の『白痴』では死刑反対論者のムィシキン公爵を主人公として、混沌とした露西亜社会の問題を浮き彫りにしていた。
 感情の起伏の激しい思想家でもあったドストエフスキーは西欧でロシア皇帝の暗殺未遂事件を知った後では 『悪霊』 などの作品も書いたが、晩年の大作『カラマーゾフの兄弟』』では、「異端審問長官」の危険性も明らかにしていた。

 彼の問題意識を真摯に受け継いだのが、長編小説『審判』で原爆パイロットを主人公の一人とし、被爆者の家族の苦しみも描き、『若き日の詩人たちの肖像』で昭和初期の「祭政一致」的な国家体制の問題点を詳しく描いて、戦争と原爆の危険性を明らかにした 作家の堀田善衞であった。(拙著『堀田善衞とドストエフスキー』群像社)。

3,三島由紀夫とチェチェン武装勢力指導者の神風観と核兵器観

問題はドストエフスキーにも強い影響を与えたダニレフスキーの「文明理論」や西欧列強への恐怖感がその後ソ連でも受け継がれて、ハンガリーや「チェコの春」の際の侵攻につながり、さらにソ連の崩壊後に政治学者ハンチントンの「文明の衝突?」(1993年)がアメリカだけでなく、西欧社会でも拡がったことで、ロシアなどで軍事同盟であるNATOに対する警戒心や恐怖心が強まったことにも注意を払っておく必要があるだろう。

むろん、このような反応を無用な恐怖と一笑に付すこともできるが、第二次世界大戦で多大な被害を受けたイスラエルが そのトラウマからパレスチナ問題などで過激な反応をすることがあるように、プーチンが戦後の生まれとはいえ100万人を超えるともいわれるような多大な犠牲者が出たペテルブルグで誕生していたことにも留意して、NATOには慎重な対応が求められるべきであったとも思える。

第二次世界大戦時のヒトラーや日本のように「恐怖心」や「自尊心」から、自滅をも厭わないような戦争を仕掛けることもあるからである。

たとえば、チェチェン紛争が勃発した時期にイギリスでロシアと日本の近代化の比較を研究していた私は、BBCやイギリスの新聞をとおして、圧倒的に不利な状況だったチェチェンの独立派武装勢力が、 ロシア軍に対して「カミカゼ」と称する自爆攻撃を行っていたことに驚かされた。

一方、 三島は『英霊の聲』で二・二六事件の将校の英霊に語らせただけでなく、「戦(いくさ)の敗れんとするときに、神州最後の神風を起さんとして、命を君国に献げた」神風特別攻撃隊の勇士の英霊に、「われらはもはや神秘を信じない。自ら神風となること、自ら神秘となることとは、そういうことだ。…中略…その具現がわれらの死なのだ」と神道的な視点から「神風」の意義を語らせていた。

さらに、「(日本は)単なる被曝国として、手を汚さずに生きて行けるものではない」と主張した三島は、「核大国は、多かれ少なかれ、良心の痛みをおさへながら核を作つている。彼らは言ひわけなしに、それを作ることができない。良心の呵責なしに作りうるのは、唯一の被曝国・日本以外にない。われわれは新しい核時代に、輝かしい特権をもつて対処すべきではないのか。そのための新しい政治的論理を確立すべきではないのか。日本人は、ここで民族的憤激を思ひ起こすべきではないのか」とも問い質していた(「私の中のヒロシマ」『三島由紀夫全集』第34巻、448頁)。

威勢のよい「核武装論」だが、 注意を払わなければ成らないのは、このような主張は自分たちの権利が武力で押さえつけられていると考え、自分たちには「復讐する権利」があると考えた者もそのように考える危険性がある。実際にチェチェン独立派武装勢力の指導者ドゥダーエフは、自分たちが核を持ったら「ロシアには核攻撃をしかける」とも語っていたのである。

アメリカののど元とも言えるキューバに核ミサイルが配置されそうになった際には、最悪の場合は核戦争さえも予想されるようなキューバ危機が起きたが、トランプ氏が大統領だった2019 年 2 月には、アメリカが「旧ソ連との間で結んだ INF(中距離核戦力)全廃条約からの一方的離脱を通告」したことで、隣国ウクライナが軍事同盟のNATOに参加することには、「ロシアの安全保障上の懸念」が一層強まっていた。

 日本ではロシア軍のウクライナ侵攻に乗じて、選挙に向けて「改憲」論だけでなく、三島が1967年に記した「核武装論」に似た言動が維新や自民党安倍派議員からなされるようになってきているが、「被爆国」が核武装に踏み切れば、旧植民地などの弱小国はこぞって核武装をしようと望むことになるだろう。

長年、「核の傘」理論などによって説明されてきたために日本では核への危機感が薄くなっているように思われるが、 大国同士の軍事バランスが保たれている状況でのみ「核抑止の思想」が成立するのであり、昭和初期の日本軍人たちの呪詛を汲んで表明された三島の「核武装論」の危険性は、現在、精神的に追い詰められて無謀で野蛮な攻撃に踏み切った民族主義的な政治家・プーチン大統領の心理にも通じていると思える。

 それゆえ、三島的な「民族的憤激」の危険性については 、堀田善衞の『小国の運命と大国の運命』を読み解く「チェコスロヴァキア事件でウクライナ危機を考える」の稿で再び考察することにし、 「『文化防衛論』と『方丈記私記』」はその後に移動する。

(2022年3月13日 改訂と改題。 14日および17日 加筆と移動。 3月28日 改題、
4月9日 加筆と改題)