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ドストエーフスキイの会

ドストエーフスキイの会「第220回例会のご案内」を転載します

お知らせが遅くなりましたが、「第220回例会のご案内」と「報告要旨」を「ニュースレター」(No.121)より転載します。

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下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

                                      

日 時2014年3月22日(土)午後2時~5時

 場 所:千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分)

        ℡:03-3402-7854

報告者:堀 伸雄 氏

題 目: 黒澤明と「カラマーゾフの兄弟」に関する一考察

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 報告者紹介:堀 伸雄(ほり のぶお)

1942年(昭和17)生まれ。日本ビクター㈱定年後、新興企業で上場準備、監査を担当。現在はフリー。「黒澤明研究会」会員。世田谷文学館「友の会」運営に参加。同「友の会」の講座で「黒澤映画と『核』」(2012)、「核を直視した四人の映画人たち」(2013)を担当。論文「試論・黒澤明の戦争観」「『野良犬』における悪」(黒澤明研究会会誌)など。資料・記録集「黒澤明 夢のあしあと」(黒澤明研究会編・共同通信社・1999年)の編纂に参加。

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第220回例会報告要旨

“創造は記憶である。”黒澤明が生前、随所で口にしていた言葉である。創造は、単なる瞬時の閃きや直感からではなく、倦まず弛まず蓄積してきた芸術的渉猟による記憶から生まれるとの信念を抱いていた。黒澤は、その記憶の引き出しから溢れ出るイマジネーションをシナリオとして書きなぐる。黒澤明の記憶の大きな分野を占めていたのが、ドストエフスキー、トルストイ、バルザック、シェイクスピアである。特に、こだわったのが『白痴』であり、苦闘の末に映像化した(1951公開)。国内での一般的な評価は、惨憺たるものがあったが、旧ソ連のグリゴーリー・M・コージンジェフ監督は、黒澤版『白痴』をもって、「古典を映画に再現した奇蹟である」と絶賛した。

然るに、黒澤明は、ドストエフスキーの最高傑作かつ生涯最後の作品となった『カラマーゾフの兄弟』については、『白痴』をはじめ、『罪と罰』、『虐げられた人々』、『死の家の記録』等の作品に比べ、なぜかあまり語っていない。例えば、「キネマ旬報」1977年4月上旬号の映画評論家・清水千代太との対談「黒澤明に訊く」や、1981年にNHK教育テレビで放映された「黒澤明のマイブック」、1993年の大島渚監督との対談「わが映画人生」等の中で、『白痴』やドストエフスキーに対する思いを、かなり詳述しているにもかかわらず、『カラマーゾフの兄弟』については、特に言及はしていない。2007年4月から京都の龍谷大学と黒澤プロダクションの共同監修により、インターネットに公開されている「黒澤デジタルアーカイブ」に掲載された膨大な黒澤の直筆ノート等を確認しても見当たらない。

その中にあって、『カラマーゾフの兄弟』について注目したい数少ない発言がある。1975年8月に「サンデー毎日」に掲載された小説家・森敦(1912~1989)との対談と、1993年発行のインタビュー集「黒澤明・宮崎駿・北野武~日本の三人の演出家」(ロッキング・オン)での発言である。前者では、「いま、ドストエフスキーのもので何かやるとすれば、『カラマーゾフの兄弟』ね。(中略)ドストエフスキーが書けなかったところを書いてみたいという気持ちはありますね」、後者では、「アリョーシャっていう神学校に行っている天使みたいな弟がいるでしょ?それもドストエフスキーのノートによるとそのアリョーシャは最後に妻(ママ)の暗殺を企てるんですよね。で、ラディカルな革命家になっていくんですよね。そういう予定だったみたいだけど、それはびっくりですよ。あの天使みたいな存在がね」と語っているのである。何れも、ドストエフスキーが生前に構想を抱いていたと思われる『カラマーゾフの兄弟』の「続編」に着目した発言である。黒澤明は、一体、どんなことを考えていたのだろうか。

アリョーシャが教会から俗界に出て、魂の遍歴を辿り変貌していくという最も神秘的な部分に黒澤明がこだわりを抱き続けていたという事実は、特に、黒澤の後期から晩年にかけて、新たな創作への萌芽や作風の変容を予感させ、さらには黒澤自身の人間観・宗教観を考えるうえでも、看過できないように思われる。

今回の報告では、そのような視点から、身勝手な深読みではないかとの批判を覚悟のうえで、特に『乱』(1985公開)とシナリオ『黒き死の仮面』(未映画化・1977)を仮説的に考察し、併せ、一黒澤映画ファンとして、黒澤明の生涯と黒澤作品から感じ取れるドストエフスキーの精神を語らせていただくこととする。

― 参考文献:『全集黒澤明』(岩波書店1987~2002)所収のシナリオ(第3巻「白痴」「生きる」・第4巻「生きものの記録」・第6巻「乱」・最終巻「夢」「黒き死の仮面」)、『蝦蟇の油~自伝のようなもの』(黒澤明・岩波書店・1984)、『黒澤明 夢のあしあと』(黒澤明研究会・共同通信社・1999)

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例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

 

ドストエーフスキイの会、「第219回例会のご案内」と「報告要旨」を転載します

 

お知らせが遅くなりましたが、「第219回例会のご案内」と「報告要旨」を「ニュースレター」(No.120)より転載します。

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下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

                

日 時:2014年1月25日(土)午後6時~9時

場 所:千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車徒歩7分) ℡:03―3402―7854 

報告者:金 洋鮮 氏(職業:フリー、大阪外国大学地域文化東欧博士前期過程終了、新潮新人賞評論部門、最終候補「三位一体のラスコーリニコフ」)

題 目:謎のトライアングル(スヴィドリガイロフの場合)

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第219回例会報告要旨

 

 芸術作品の粋を評価するうえで欠かせない「韜晦」と「虚実皮膜」、この最も重要なふたつの要素を極めた作家が、ドストエフスキーだと思う。言い換えれば、彼の作品ほど謎とリアリティに満ちた作品は古今東西ないのではないだろうか?

 バフチンの「ドストエフスキーの詩学」によって、登場人物の対話がポリフォニックであることは、今やドストエフスキー読者にとって人口に膾炙したものとなっているが、言葉だけでなく人物そのものが多重であることを付け加えたい。

 作家はピカソに先駆けて、人物を360度の視座から捉えるキュビズム手法を、逸早くその作品に取り入れた。

それゆえ一読ぐらいでは、画期的な描写により衝撃を受けたとしても、その内容の把握はおぼつかない。

『罪と罰』は、彼の全作品においてキュビズムが最も際立った作品で、登場人物の殆どが、キュビズムを把握しやすいアンビヴァレントで描かれているということを、最も謎とされているスヴィドリガイロフと彼の恋を通して確認したい。

スヴィドリガイロフは過去においては少女姦、下男殺し、そして現行では妻を毒殺した、その背後にどれほどの闇があるのか測りようのない真っ黒な人物として現れる。

が、キルポーチンが指摘したように(スヴィドリガイロフはどこにおいても一本調子で書かれていない、彼は、一見そうみるような黒一色の人物ではない[・・・]スヴィドリガイロフは悪党、淫蕩で、シニカルであるくせに小説全体にわたって数々の善行を行うが、それは他の作中人物たちをみんな合わせたよりも多いほどである。)

また「スヴィドリガイロフこそ真の主人公」とミドルトン・マリが指摘する通り、「スヴィドリガイロフの方がラスコーリニコフよりも存在感がある」と感じる読者は結構いる。

清水孝純氏も彼のドーニャとの恋に「謎」を感じ、また(所詮彼の側からは、発動できない受身の求愛の形だったのです)と、従来とは違う新しい見解を述べている。

スヴィドリガイロフ側からすれば、〈私の気持は純粋そのものだったかもしれないし、それどころか、本気でふたりの幸福を築こうと思っていたかもしれませんものね!・・・私の受けた傷のほうがよほど大きかったようですよ!・・・〉と話が逆転する。

今回は反論を覚悟で、大胆な仮説を述べる。

ドストエフスキー作品には、森有正やモチュリスキーが述べたように、有に一大長編となるものが、一挿話として片付けられている。

一挿話を一大長編にするのも、ドストエフスキー作品を読む上での楽しみのひとつであろうし、それが整合性あるものであれば、聞くに耐えられるのでは・・・、このような思いで報告します。

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 例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

 

小林秀雄の「『白痴』についてⅠ」を考察した「テキストからの逃走」の発表要旨を「主な研究(活動)」に掲載しました

 

日本比較文学会で口頭発表した論文のレジュメ注*6では、黒澤明監督と小林秀雄のドストエフスキー観との相違については、「小林秀雄のドストエフスキー観と映画《白痴》」というテーマで稿を改めて書く予定であると記していました。

小林秀雄の『白痴』論については、翌年の3月23日に行われた「ドストエーフスキイの会」の第214回例会で「テキストからの逃走――小林秀雄の「『白痴』について1」を中心に」という題名で考察しました。

報告要旨はすでに「ドストエーフスキイの会」の「ニュースレター」と「ネット」(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)に掲載されていますが、このホームページの「主な研究(活動)」のページでも再掲することにします。

発表に際しては「テキストからの逃走」という刺激的な題名を付けましたが、その一番大きな理由は「ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」とテキストとは全く違う解釈をしていたことによります。

発表後の質疑応答では、「『白痴』について1」だけでなく、戦後に書かれた「『白痴』についてⅡ」も視野に入れるとより分かり易かったとのご指摘もありました。そえゆえ、現在は小林秀雄の『白痴』論を中心に『罪と罰』論をも視野に入れつつ改稿中で、『ドストエーフスキイ広場』第23号に掲載される予定です。

ドストエーフスキイの会、第218回例会(11月23日)のレジュメを「新着情報」に掲載しました

11月23日に行われる第218回例会では、著名なチェーホフ研究者・翻訳者の中本信幸氏(神奈川大学名誉教授)の発表が行われます。

ドストエーフスキイの会の「ニュースレター」 No.119に掲載された報告者紹介とレジュメを「新着情報」に再掲しました。

例会の時間と場所、および前回例会の「傍聴記」や「事務局便り」など詳しくは、ドストエーフスキイの会のHPhttp://www.ne.jp/asahi/dost/jdsでご確認ください。

長編小説『白痴』から戯曲『三人姉妹』へ――劇《三人姉妹》の感想を「映画・演劇評」に掲載しました

すでに先月の出来事になってしまいましたが、9月17日に俳優座で《三人姉妹》を見ました。

小劇場での上演という事で最初はロシアの広大な空間の感覚が損なわれるのではないかと少し心配していました。

演出家・森一氏のユニークな状況設定もあり、劇が始まると次第に違和感は消えて、最後は俳優たちの息づかいも感じられる小劇場の醍醐味を満喫しました。

しかも、「ドストエーフスキイの会」ではドストエフスキー作品とチェーホフとの関係についてもたびたび取り上げられてきましたが、私も地方貴族の娘たちの生活が描かれたチェーホフの『三人姉妹』では、エパンチン家の三姉妹の孤独と苦悩をとおして貴族社会の腐敗が痛烈に批判されていた長編小説『白痴』のテーマが受け継がれていると感じていました。

今回見た劇団俳優座のこの劇からも三人姉妹の孤独と決意のテーマが強く伝わってきましたので、記憶が薄れている箇所もありますが、劇から受けた印象を「映画・演劇評」に簡単に記しておきます。

 

「主な研究活動」に大木昭男氏の例会発表の傍聴記を掲載しました。

劇《石棺》から映画《夢》へ」でふれたように農村派の作家ラスプーチンは、ドストエフスキーを深く敬愛していました。

イタリアの国際的文学賞を受賞した短編などを収録した作家ラスプーチンの短編集『病院にて――ソ連崩壊後の短編集』〈群像社〉の翻訳を公刊した桜美林大学名誉教授・大木昭男氏の例会発表「ドストエーフスキイとラスプーチン」の傍聴記を掲載します。