高橋誠一郎 公式ホームページ

ドストエーフスキイの会

ドストエーフスキイの会、第234回例会(合評会)のご案内

「第234回例会のご案内」を「ニュースレター」(No.135)より転載します。

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第234回例会のご案内

今回は『広場』 25号の合評会となりますが、論評者の報告時間を10分程度とし、エッセイの論評も数分に制限して自由討議の時間を多くとりました。記載されている以外のエッセイや書評などに関しても、会場からのご発言は自由です。多くの皆様のご参加をお待ちしています。

日 時 2016年7月30日(土)午後2時~5時

 場 所神宮前穏田区民会館 第2会議室(2F)今回は会場が変更になりました。ご注意ください!

       ℡:03-3407-1807 (ドストエーフスキイの会」のHPの「事務局」だよりの案内をご覧ください)

 

掲載主要論文とエッセイの論評者

泊野論文:『カラマーゾフの兄弟』の対話表現方法が持つ意味について――国松夏紀氏

樋口論文:『死の家の記録』のカーニバル的な人々 ――木下豊房氏

冷牟田論文:『永遠の夫』と「地下室」      ――近藤靖宏氏

長瀬論文:ドストエフスキーとアインシュタイン  ――福井勝也氏

 エッセイなど:前田彰一、井桁貞義、大木昭男、西野常夫、岡田多恵子――フリートーク

司会:高橋誠一郎氏

 

*会員無料・一般参加者-500円

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木下豊房氏の「国際ドストエフスキー・シンポジュウム(スペイン・グラナダ)参加報告」と「会計報告」は、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

前回例会の「傍聴記」は、次のブログでアップします。

 

第16回国際ドストエフスキー・シンポジュウムのお知らせ(Ⅱ)

Organizing Committee of the XVI IDS Symposium より新しいサイトのお知らせが届きましたので以下に記します。

トップページの「新着情報」と「新着情報」のタイトル一覧にも掲載しました。

詳しい内容についてはリンク先で情報をご確認ください。

the new site of the Symposium:

リンク→ www.ugr.es/~feslava/ids2016/

the Cultural Program:

リンク→ http://goo.gl/NfW8gB. 

ドストエーフスキイの会「第229回例会のご案内」

掲載が遅くなりましたが、ドストエーフスキイの会「第229回例会のご案内」を「ニュースレター」(No.130)より転載します。

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第229回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。今回は火曜日の開催ですので、ご注意ください!                                    

日 時2015年9月22日(火)午後2時~5時            

場 所場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分)

       ℡:03-3402-7854

 報告者:冷牟田幸子 

題 目 :『永遠の夫』と「地下室」 

*会員無料・一般参加者=会場費500円

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報告者紹介:冷牟田幸子(ひやむた さちこ)

1937年生。早稲田大学第一文学部英文科卒業。

著書;『ドストエフスキー―無神論の克服』(近代文芸社、1988年)

訳書;ワッサーマン編『ドストエフスキーの「大審問官」』(ヨルダン社、小沼文彦、冷牟田訳 1981年)

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『永遠の夫』と「地下室」

冷牟田 幸子

『永遠の夫』(l869年秋完成、70年『黎明』1,2月号に発表)には、後期諸作品に共通する思想性も宗教性もなく、格別魅力的な人物も見当たりません。風采のあがらない実直な「永遠の夫」トルソーツキーと軽薄才子の「永遠の情夫」ヴェリチャニーノフという、対照的な一見分かりやすい二人の中心人物の間で繰り広げられる、謎めいた心理戦を読んで楽しめば事足りるような『永遠の夫』を、なぜ取り上げる気になったのか。ひとえに、ドストエフスキーの手紙(小沼文彦訳)にあります。1869年3月18日、ストラーホフに宛てて次のように書いています。

この短篇(『永遠の夫』)は今から4年前の兄が亡くなった年に、小生の『地下生活者の手記』を褒めてくれ、そのとき小生に「君はこういったふうのものを書くといいよ」と言ったアポ(ロン)・グリゴーリイェフの言葉に答えて書いてみようと思い立ったものです。しかしこれは、『地下生活者の手記』ではありません。これは形式の上からは、まったく別なものです。もっとも本質は──同じで、小生のいつもながらの本質です。ただし貴兄が、ニコライ・ニコラーイェヴィッチ、作家としての小生の中に、多少とも独自の、特殊な本質があると認めてくださるならばの話ですがね。

つまり、『永遠の夫』の登場人物たちと「地下室者」との関連性、さらにいえば、ドストエフスキーのいう「いつもながらの本質」を探りたいと思ったのです。

ここに注目すべき、作品からの引用があります。モチューリスキイ著『評伝ドストエフスキー』(松下裕・松下恭子訳)における『永遠の夫』からの引用です。

1 「情夫はかっとなって夫に叫ぶ。『捨ててしまうんだ。君の地下室のたわごとは。君自身が地下室のたわごと、がらくたなんだから』」(第九章)

2 「ヴェリチャニーノフはトルソーツキーに『われわれは二人とも堕落した醜悪な地下室の人間です』と白状している。」(第十三章)

ここからモチューリスキイは、ヴェリチャニーノフとトルソーツキーを「地下室者」と結びつけます。一方、代表的な日本語の訳書(a)河出版(米川訳)と(b)筑摩版(小沼訳)は、先の二つの文章に該当する部分を次のように訳しています。

1(a)「床下から引っぱり出したようなけがらわしい話をもってとっとと出てうせろ!それに第一、あんた自身からして床下のねずみみたいなやくざ者だ。」

(b) 「その床下のがらくたみたいなものを引っかついで、どこへなりと出て失せろ!第一あんたからして床下のがらくたみたいな代物じゃないか。」

2(a) 「われわれはお互いにけがらわしい床下のねずみみたいな胸くその悪くなるような人間なんです。」

(b)「われわれはふたりとも実に罪深い、床下でうごめいているような、なんとも汚らわしい人間なんですよ。」

これらの訳書で用いられている「床下のねずみみたいな」、「床下」、「床下でうごめいている」が、原典の「地下室の」(подпольный)に当たりますが、さきの文脈の中で何ら違和感なく読めて、そこに敢えて「地下室」を読み取るのは難しいでしょう。モチューリスキイは、ストラーホフに宛てた手紙を念頭において読んでいますので、ドストエフスキーがここにさりげなく忍び込ませた「地下室の」という単語を、『地下生活者の手記』の「地下室」と結びつけることができたのだと思います。

訳書の「床下」に当たる原語は何かを原典にあたって調べようとしたとき、偶然に『永遠の夫』の「創作ノート」(準備資料)を見つけました。それは、『永遠の夫』と「地下室」の関連性を考えるうえで、さらに先のドストエフスキーの書簡を理解するうえで大きなヒントを与えてくれるものでした。(一)作品論と(二)『永遠の夫』と「地下室」の関連性の二部構成でお話しします。

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例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

ドストエーフスキイの会「第46回総会と227回例会のご案内」を掲載

「第46回総会と第227回例会のご案内」と「報告要旨」を「ニュースレター」(No.128)より転載します。

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下記の要領で総会と例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

ご注意! 今回の会場は奥の和室です)                                     

 日 時2015516日(土)午後1時30分~5 

場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分)  ℡:03-3402-7854 

 総会:午後1時30分から40分程度、終わり次第に例会

議題:活動・会計報告、運営体制、活動計画、予算などについて

 

例会報告者:樋口稲子 氏

題 目: 旧約聖書「エデンの園」と「大審問官」における「カーニバル原理」と「救済原理」―「自由」に対する観点から―

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:樋口稲子(ひぐち いねこ)

ロシア文学作品を読み始めたのはラスプーチン、パウストフスキー等の比較的現代の作家の作品からであったが、次第に古典に関心が移り、主にドストエフスキーの作品と関わるようになった。それと同時に、聖書、特に旧約の原初史に関心を持ち、広大な聖書の世界を覗いた。ドストエフスキーの作品でも『死の家の記録』は、他の作品には無い魅力を感じている。現在では、多くの作家の作品に関心を持っているが、特に、オドエフスキー、ドストエフスキー、ザミャーチンを一線上に関連付けて見ている。

 

第227回例会報告要旨

 古来より楽園と見なされてきた「エデンの園」と、「大審問官」の言説をとりあげ、「カーニバル原理」と「救済原理」の機能的内容を見ながら「自由」の問題を考察してゆく。カーニバル原理については、ミハイル・バフチンのカーニバル文学理論を適用し、キリスト教の救済原理については、プロテスタントのジョン・マーレーの救済理論を適用した。言うまでもなく、二つの原理は全く対立する原理である。さらに、バフチンは、「カーニバル理論」の一応の要件と特性の定義をしているが、どうみてもその定義には揺れがある。

「エデンの園」の物語において最も関心を引くのは、〈蛇〉の存在である。彼は、謎に満ち同時に魅力的な存在である。だが、神が万物の創造主であるならば、神の似姿を以って創られ、神の愛を他の誰よりも受けた人間が生きるエデンの園に、神に背信し人間を神に立ち向かわせる蛇が、神の被造物として何故存在するのか、こうした疑問は今までも多くの研究者の提起してきたものであった。しかも、創世記の「エデンの園」の登場人物は、アダムとイヴの関係を除けば互いに対立する存在であり、(蛇と神のように)、また、初めは神に対して従順な人物(アダムとイヴ)が蛇の唆しをきっかけに、神への反抗という背反的行動をして、そのことにより追放され、神の恩寵から離れ、異なる世界に移行することになる。エデンの園の物語は、こうした対立要素を必須要素として含有することで初めて成り立つ。こうした対立関係が生まれるための具体的な役割を持った存在が「蛇」である。もし「蛇」が存在しなければ、エデンの園の物語は成立しない。従って、人間が神の禁を破り〈善と悪を知る知識の木〉の実を食べて、独立と自由を獲得するというプロセスはありえなくなる。人間の発展にとって、絶対に必要な存在である蛇は、否むべき存在として位置づけられているが、しかし、その否むべき存在が、なぜ神の言葉と真実との矛盾を知っていて、人間にその神の言葉と真実との矛盾を告げる正しき者の役割を果たしたのか、そして同時に唆しの罪を犯す役割を担わされているのか、一体「蛇」はどの様な存在として理解すればよいのか、この点については今もって謎である。

「大審問官」には、最大のカーニバル性が認められる。キリストに対して奪冠し卑俗な存在におとしめたのは、つまり、カーニバル化の立役者は大審問官なのである。これは単に彼がイエスという神の一人子に対する奪冠を行ったというのではない。彼が本当に奪冠をした相手は、キリストの神性に対して行ったのであって、それは〈神〉に対する奪冠であった。だから、キリストの卑俗化、奪冠とは結局、キリスト教と神に対する卑俗化であり、奪冠なのである。それは、公認されたものへのこの上ない挑戦である。それにもかかわらず大審問官が、微塵もひるむことなく、キリストを見据えて、堂々と語った〈背信の思想〉は人間の真実であり真理でもあった。しかも、キリスト教が抱えることの出来ない、肯定もできない、キリスト教とは対極にある真理である。大審問官は人間の真理を代表し、キリストは神の真理を代って現わそうとしている。(大審問官の物語では、メニッペアの基本的性格5の特性が濃い。)

「大審問官」には、世界を支配する二つの原理が相克するさまが描かれている。取るに足らぬ存在の真理と神の真理は、それぞれ互いに対立する極に足場を置いて、その真理の正当性を主張する。

作家にとって、我々が神の原理を取ることにも、あるいは人間の原理を取ることにも、どちらの選択をするかについて本当は無関心であろう。彼の関心は、神の原理が、キリスト教的な言い方をすれば、神の〈愛〉の原理が、彼の理論に従えば、崩壊するということにある。これは、キリスト教文明の世界が今までの価値を失う事を意味する。それを承知で、作家はこの問題を提示しないではおれなかった。何故なら、彼が自らを〈懐疑と不信の子です〉と言い、信仰の危機に到ったのは、この問題、すなわち神の原理の崩壊の可能性に気付いたからではないだろうか。この問題は、作家自身が述べているとおり一生作家を悩まし続けたに相違ない。作家の最後の作品に組み込まれた『大審問官』は作家の答えになるべく構成され、神の原理と人間の原理の相克を描いたものである。

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例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

第16回国際ドストエフスキー・シンポジュウムのお知らせ

2016年の6月7日から10日にかけて第16回国際ドストエフスキー・シンポジュウムがスペインのグラナダで開催されます。詳しい内容についてはリンク先で情報をご確認ください。

 第16回国際ドストエフスキー・シンポジュウムの情報

  リンクhttp://www.ugr.es/~feslava/ids2016/index.html 

 国際ドストエフスキー学会(IDS)の情報

  リンク→ http://www.dostoevsky.org/

今回も多くの研究者の方に参加して頂けることを願っています。

(これまでのシンポジュウムについては、下記の著作の第3部を参照してください)。

 

33

リンク→ドストエフスキー その対話的世界

 

 

 

ドストエーフスキイの会「第226回例会のご案内」を掲載

ドストエーフスキイの会「第226回例会のご案内」を「ニュースレター」(No.127)より転載します。

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第226回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。今回は会場が変更になりました。ご注意ください!

皆様のご参加をお待ちしています。                 

日 時2015年3月21日(土)午後2時~5時         

場 所神宮前穏田(おんでん)区民会館第3会議室(2F)

℡03-3407-1807

 報告者:槙田寿文 

 題 目: 「創造は記憶である」 黒澤映画におけるドストエフスキーとバルザックの受容

*会員無料・一般参加者=会場費500円

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報告者紹介:槙田寿文(まきたとしふみ)

1959年(昭和34)生まれ。商社、外資系メーカーを経て、現在、NPO法人映像産業振興機構所属。黒澤明研究会会員。黒澤明研究家&資料収集家。主な論文『黒澤明とバルザック』『黒澤明の青春』『謎解き「七人の侍」』(「黒澤明研究会会誌」所収)。『生誕百年 映画監督黒澤明展』(フィルムセンター)への資料協力とギャラリートーク。『イノさんのトランク~黒澤明と本多猪四郎 知られざる絆~』(NHKBS)の企画・監修。新資料発見に貢献。

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「創造は記憶である」 黒澤映画におけるドストエフスキーとバルザックの受容

槙田 寿文

 

映画監督黒澤明のドストエフスキーへの傾倒ぶりは隠れもないことであるが、実は黒澤明のバルザックへの傾倒ぶりも深いものがあったことが最近明らかになりつつある。一方、ドストエフスキーのバルザックへの深い敬愛も明らかな事実である。黒澤明、ドストエフスキー、バルザックの相互の関連性と影響度を黒澤明の終戦直後の二つのエッセイを起点として考察を展開するのが今回の発表の概要である。

二つのエッセイとは、一つは雑誌『芸苑』の昭和21年(1946年)7‐8月合併号に掲載された『わが愛読書』という題名の一文で、当時三十六歳の黒澤明が自身の愛読書に関して約二千五百字に亘って率直に述べている。もう一つは、雑誌『シナリオ』昭和23年(1948年)2月号に掲載された『シナリオ三題』というシナリオに関する当時の黒澤明の考えを述べたものである。

当時、戦後第1作『わが青春に悔いなし』を製作中であり、まだまだ、新進気鋭という枕詞がついて回る時期だった黒澤明は、『わが愛読書』の中で、「先ず、一番始めに『悪霊』という名前と『戦争と平和』という名前が浮かんできました。そして、それに続いて『カラマーゾフの兄弟』『アンナ・カレーニナ』『死の家の記録』『虐げられし人々』『白痴』と云う名前が次々に飛び出してきました。それから、少し間を置いて『従妹ベット』『ゴリオ爺さん』『セザール・ビロトー』『幻滅』と云う名前が続きます。(中略)だから、僕はやっぱり一番の愛読書はトルストイとドストエフスキーとバルザックのそれぞれの代表作であると申し上げる外はありません。(中略)何故なら、僕はこれ等の本を愛すると申すより、その前に跪づいていると申した方が適当だからです。云はば、僕にとってこれ等の本は聖書の様なものだからです。」と述べている。

一方、『シナリオ三題』の中では、「ひとつ、社会的に大きな波紋を投ずる程の人物が創造出来ないものだろうか。例えば、今の日本では、ヴォートランやスタブローギンやバザロフの様な人物の創造は不可能なのだろうか。」と述べている。この時期は、黒澤明の評価を決定づけた傑作『酔いどれ天使』の撮影開始直前である。つまり、二つのエッセイは巨匠黒澤明としてではなく、終戦後、日本人が生き方を模索していた時期に、同様に映画作家としての方向性を模索していた黒澤明として書かれたものであり、昭和20年代の黒澤映画と黒澤明の思想的発展を解くカギの一つとなりうると私はみなしている。

発表の前半では、この二つのエッセイを起点として、バルザックが各界に与えた様々な影響、ドストエフスキーのバルザックへの敬愛、そしてアンドレ・ジイドと寺田透によるドストエフスキーとバルザックの比較を通して黒澤作品への影響を考察してみたい。また、バルザック作品のドストエフスキーへの影響や、黒澤作品におけるポリフォニーとカーニバルに関しても再考したい。

発表の後半では、「戦後思想と黒澤明」を大きなテーマとして、「戦後の作家」である黒澤作品が昭和20年代に辿った精神・思想の成長過程と破綻をバルザックとドストエフスキーからの影響である自我の確立、ヒューマニズム、ニヒリズムといった切り口を交えながら見ていきたい。そこでは、最近、黒澤明がゴーストライターであったことが確認された戦中の映画『愛の世界』におけるドストエフスキー的ヒューマニズムの源流や、戦後の黒澤映画に登場するドストエスキー的人物を語ることになるだろう。また、『シナリオ三題』で挙げられたヴォートランやスタヴローギンへの強い関心や憧れはどこから来て、どのように消えたのかも類推してみたい。

多田道太郎は黒澤明の戦後の歩み(昭和20年代)を「黒沢明はずい分遠い道を歩いたものだ。(中略)しかし通してずっとみてみると、それは戦後の、芸術分野での、最高の歩みの一つである。」と述べているが、それを上記のような様々な切り口で追体験できればと考えている。

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 例会の「傍聴記」と「事務局便り」など会の活動については、「ドストエーフスキイの会」のHPhttp://www.ne.jp/asahi/dost/jdsでご確認ください。

なお、HPにはスペインのグラナダで2016年6月7日から10日に開催される国際ドストエフスキー・シンポジュウムの情報も掲載されました。

ドストエーフスキイの会「第224回例会」のご案内

ドストエーフスキイの会「第224回例会のご案内」を「ニュースレター」(No.125)より転載します。

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第224回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

                                    

 日 時20141129日(土)午後2時~5

 場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分)

       ℡:03-3402-7854

 報告者:木下豊房 氏

題目:小林秀雄とその同時代人のドストエフスキー観

*会員無料・一般参加者=会場費500円

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報告者紹介:木下豊房(きのした とよふさ

1969年、ドストエーフスキイの会の発足にあたり「発足の言葉」を起草。新谷敬三郎、米川哲夫氏らと会を起ちあげる。その後現在まで会の運営に関わる。2002年まで千葉大学教養部・文学部で30年間、ロシア語・ロシア文学を教える。2012年3月まで日本大学芸術学部で非常勤講師。ドストエフスキーの人間学、創作方法、日本におけるドストエフスキー受容の歴史を研究テーマとし、著書に『近代日本文学とドストエフスキー』、『ドストエフスキー・その対話的世界』(成文社)その他。ネット「管理人T.Kinoshita」のサイトで「ネット論集」(日本語論文・ロシア語論文)を公開中。

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小林秀雄とその同時代人のドストエフスキー観

木下豊房

去年、高橋誠一郎氏「テキストからの逃走―小林秀雄の「『白痴』についてⅠ」(214回例会)、今年、福井勝也氏「小林秀雄のドストエフスキー、ムイシキンから「物のあはれ」へ」(221回例会)と、小林秀雄をめぐる、論争性を内に秘めた報告がなされ、去る7月には高橋氏の『黒澤明と小林秀雄―「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』が上梓された。

私はこの両者の説にふれることで、自分が抱えている問題意識に火がつくのを感じた。とりわけ、高橋氏の小林批判は鮮烈で、私はそのレトリックとカリスマ性ゆえに敬遠してきた小林のドストエフスキー論の実体を解明したくなった。

「ムイシキンはスイスから還つたのではない。シベリヤから還つたのである」という表現に集約される小林の解釈に、高橋氏は多方面からの批判を加えていて、傾聴すべき点が多い。と同時に、昨年ですでに没後30年になる文学者を歴史的存在(歴史的制約を受けた存在)としてではなく、現在の時局論に引きつけ過ぎて論じているきらいがあり、また深読みと思われるところもあって、そのあたりには疑問を感じた。そこで私は、小林秀雄を歴史的存在として見て、彼の論の形成に影響した状況を踏まえて検証を試みようと思った。

俗に、小林の「ドストエフスキイの生活」はE.H.カーの剽窃であるとの噂はいまだに燻っているようであるが、その実情はどうなのか? ほとんど同年を生きた唐木順三、そしてやや後輩の森有正のドストエフスキー論、そして彼らをはじめ同時代の文学者に広く読まれたアンドレ・ジードの論、そして小林や唐木や森の論が日本で形成される時期には、おそらく未知の存在であったミハイル・バフチンの論、これらを対比して見た時に、共通する論点が多くあることに気づかされた。

それはドストエフスキーのリアリズムの性格と人間についての見方である。バルザックに代表され、ロシアではトゥルゲーネフやトルストイに見られる客観的写実主義ともいうべきリアリズムとは一線を画すドストエフスキーの内観的リアリズムともいうべきものである。そして、人間の心理の客観的分析を旨とするフロイド的精神分析に対する異口同音の批判であつた。

19世紀ロシア文学史上、ドストエフスキーにおいて人間の見方に新しい転換が起きた。徹底的に客体化されて描かれたゴーゴリの人物が、『貧しき人々』において、主観性を持った主体的人物として蘇った。いわば死者の復活である。

デカルト的理性を基盤とする19世紀の客観主義的リアリズムによって描かれる人物像はドストエフスキーの内観的リアリズムから見れば、十分に生を享受しているとは言えないだろう。ドストエフスキーの芸術思想によれば、「人間にはA=Aの同一性の等式を適用できない」 人間の本当の生は「人間の自分自身とのこの不一致の地点で営まれる」(バフチン)ドストエフスキーにとって、「人間は先ず何をおいても精神的な存在であり、精神は先ず何を置いても、現に在るものを受け納れまいとする或る邪悪な傾向性だ」(小林)

このように客体化を拒む精神、自意識というものは、他者を客体としてではなく、もう一つの主体として認知する「われ-汝」の二人称的関係を希求する(バフチン、唐木順三)

しかしこの関係はきわめて不安定で、時空間の因果の網に拘束されない現時制の瞬間においてしか成立しない。それは過去化され、時空間で相対化された時、客体化を免れえない運命にある。この問題は作者の主人公に対する態度とともに、作中の人物間の関係にかかわる作品の主題としても現象するのが特徴である。

これをムイシキン像についていうならば、小説の前半では、登場人物達を読者に開示する二人称的、語り手的な機能を担わされ、読者はムイシキンとの出会いを通じて、人物関係図を知らされる。後半に至って、ナスターシャへのプロポーズの事件以降、彼は他の人物達との距離を失い、事件の渦中に巻き込まれて、客体化され、いわばトラブルメーカーに頽落していく。最終段階の創作ノートには「キリスト教的な愛―公爵」という記述があるのをおそらく知りながら、観念の意匠に敏感な小林は、人々に不安を与える無能なムイシキン、しかし作者が愛さないではおれない存在としてのムイシキンの現実を強調した。 ここに小林は作者の憐憫の眼差しを見ている。

最後にこの「憐憫」=「あわれ」の眼差が、小林の隣接する著作「本居宣長」の「あはれ」の概念とどう関係していくのか、福井氏の問題提起を受けて考えてみたい。

*   *   *

例会の「傍聴記」や「事務局便り」など会の活動については、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

ドストエーフスキイの会「第223回例会のご案内」を転載、「主な研究」に「傍聴記」を掲載

リンク「広場」23号合評会・「傍聴記」

 

ドストエーフスキイの会「第223回例会のご案内」を「ニュースレター」(No.124)より転載します。

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第223回例会のご案内 

       下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

日 時2014927日(土)午後2時~5

場 所:千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分)

℡:03-3402-7854

報告者:北岡淳也 氏

題 目: 晩年のドストエフスキーと「人民の意志」連続テロ事件

                      

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:北岡淳也(きたおか じゅんや)

1945年生まれ、早大文学部卒。

著書に「ドストエフスキー・クライシス ─   ユートピアと千年王国」。

 *   *   *

1878年1月、ザスーリッチによるトレーポフ特別市長官暗殺未遂事件に始まる連続テロは8月、クラフチンスキーによる憲兵司令長官、メゼンツェフ暗殺、翌、79年には3月、ミルスキーによるドレンチェリン長官襲撃事件、4月、ソロヴィヨフによるアレクサンドルⅡ世暗殺未遂事件、11月、列車爆破事件、80年にはハルトゥーリンによる冬宮爆破事件とつづいて、81年3月1日に、アレクサンドルⅡ世がエカテリーナ運河ぞいでグリュネヴィツキーの自爆テロによって横死した。急進派ナロードニキによる花々しいテロの時代に、「悪霊」の作者、ドストエフスキーは81年1月28日にひっそりと自宅で死亡した。

ドストエフスキーの友人で宗務院長官のポベドノスツェフは彼の作品について検閲官の役割をはたしている。政治的には保守陣営の大立者で、黒百人組にも深く関係している。

ところで、ミルスキーによるドレンチェリン第三課長官暗殺未遂事件に加担したピョートル・ラチコフスキーという人物、─ 彼は20世紀初頭、第三課長官になり、操り師、ラチコフスキーの偉名をとる ─ ペテルブルグ市の一般事務職員がテロの時代のさなか、79年4月に第三課職員として地下工作活動の世界に入っていく。

彼はドストエフスキーの作品を愛読していた。その時代、ドストエフスキーは「カラマゾフの兄弟」を雑誌に連載していた。作家は市民ホールなどでも章ごとに朗読している。ラチコフスキーも朗読会に聴衆のひとりとして聴きにいった。作家本人が読むと、俳優の朗読とは違った味わいがある。

現代イギリスの政治学者、テイラーによると、アレクサンドルⅡ世暗殺事件は近代政治テロの原点であるという。

この事件の真相にフィクションを用いて迫れないだろうか、それは30年近く前に、ドストエフスキーの死に疑問をもったこと、調べているうちにその当時、宮廷女官が言ったという「ロシアはこの2、3カ月のうちに大きく変る」という言葉が噂となって流布していたという。

アレクサンドルⅡ世とドストエフスキーの死で、ロシア・ルネッサンスといわれる時代は幕をおろした。では誰が幕引きを仕組んだのか。

Ⅱ世が死亡した瞬間、皇太子がアレクサンドルⅢ世に即位した。政治権力にキレ目があってはならない。皇太子の教育者、ポベドノスツェフはⅡ世の死以後、毎日、教会で鎮魂の儀式を欠かさなかったと伝えられる。彼の勧めもあって、ドストエフスキーはⅢ世に80年末、「カラマゾフの兄弟」を献本している。場所はアニチコフ宮殿である。

冬宮は改革派のアレクサンドルⅡ世、大理石宮は急進派のコンスタンチン大公、アニチコフ宮殿はポベドノスツェフ、皇太子らの保守派、上層部の分裂は深まり、社会の矛盾は深刻さをます。急進派のテロは相次ぎ、露土戦争で経済は悪化する時代、ドストエフスキーは「カラマゾフの兄弟」を書きあげた。

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 会の活動についてはドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

  

ドストエーフスキイの会「第222回例会のご案内」を転載

知らせが遅くなりましたが、「第222回例会のご案内」を「ニュースレター」(No.123)より転載します。

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第222回例会のご案内 

下記の要領で例会を開催いたします。今回は『広場』23号の合評会となります。

皆様のご参加をお待ちしています。

                    

日 時: 2014年7月19日(土)午後2時~5時

場 所:千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車徒歩7分)

       ℡:03―3402―7854 

 

掲載主要論文の論評者

原口論文:『白痴』におけるキリスト教思想――――――福井勝也 

高橋論文:「シベリヤから還った」ムイシキン――――木下豊房

大木論文:ドストエーフスキイとワレンチン・ラスプーチン―――――-近藤靖宏

清水論文:ドストエフスキーとグノーシス ――――――北岡 淳

エッセイ:――――熊谷のぶよし

司会:高橋誠一郎

 

*会員無料・一般参加者=会場費500円

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例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

 

ドストエーフスキイの会「第45回総会と第221回例会のご案内」を転載します

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分)

        ℡:03-3402-7854 

総会: 午後1時30分から40分程度、終わり次第に例会

議題:活動・会計報告、運営体制、活動計画、予算などについて

 

例会報告者:福井勝也 氏

 題 目:小林秀雄のドストエフスキー、ムイシュキンから「物のあはれ」へ

  *会員無料・一般参加者=会場費500円

 報告者紹介:福井勝也(ふくい かつや)

1954年東京生まれ、1978年ドストエーフスキイの会入会(現会員、運営編集委員)現在「全作品を読む会」(世話人) 、読書会「著莪」(日本近代文学、講師小森陽一氏)並びに「ベルクソン他講義」(講師前田英樹氏)に長らく参加させていただいている。著書等、『ドストエフスキーとポストモダン』(2001)『日本近代文学の<終焉>とドストエフスキー』(2008)、「日本のドストエフスキー」(『現代思想』、2010)ほか執筆。

 第221回例会報告要旨

 小林秀雄は、戦前から書き記して来た「ドストエフスキイ・ノート」のなかで最後の「『白痴』についてⅡ」が一番いいものだと評している(1963年の対談「文学と人生」)。この批評文は、1952.5月から1953.1月まで「中央公論」に連載され、第八回の末尾には「前編終わり」と付された。それから、10年以上の中断があって最終章(第9章)が書き加えられ、1964年5月に『「白痴」について』(角川書店)が単行本として発刊された。文字通り「未完」も多い小林の「ドストエフスキイ・ノート」にあって、とにかく結末が付けられて刊行されたことは注目すべき点だろう。この「ポイント」に着目し、この63年頃に「戦前から持続してきたドストエフスキイ論考が微妙に変異していた」として、ここに小林批評の「衰弱」(「クリティカル・ポイント」)を指摘したのが山城むつみ氏であった。それが氏の処女作「小林批評のクリティカル・ポイント」(1992)であって、その年の「群像」新人賞を獲得した。その山城氏が近年、大著『ドストエフスキー』(2010)の批評家として大成されてきているのは周知の通りである。

今回の当方の発表も山城氏が問題としたこの時期への関心から始めたい。しかしタイトルに「ムイシュキンから「物のあはれ」へ」と副題を付したように、話の到達点は山城氏のそれと大分違ったものになると考えている。だからと言って、余りこの問題に限局して論争的に係わるつもりはない。話の端緒と結び位で丁度良いと思っている。

昨年は小林没後30年という年回りから、関連の書物が何点か刊行された。そのなかで記憶に残った一つが、盟友河上徹太郎との対談「歴史について」(1979)であった。対談の翌年に河上が亡くなり、二人のものが、結局は「小林秀雄最後の対談」となった。昨春そのような触れ込みで再録発表された。対談は既読であったが、掲載誌「考える人」にはCDが付されていて、二人の声がまさに生き返ったように響いて新鮮に聴き返した。

ここでも二人の主題はドストエフスキーに向かってゆく。小林は、「「白痴」をやってみるとね、頭ができない、トルソになってしまうんだな。「頭」は「罪と罰」にあることが、はっきりしてしまったんだな。「白痴」はシベリアから還ってきたんだよ」と持論の感慨を吐露する。河上はそれに「そりゃ、わかっている」と即答している。この科白の裏には、どうにか「白痴ノート」に結末を付けた、この間の小林の苦渋の声が聞こえるようだ。しかし同時に、小林は「トルソ」ではあっても、中断後10年以上を費やした最後、精一杯の「ムイシュキン」像を最終章に書き記している。それは、「白痴」の物語の最後に現れた「傍観するリアリスト(エヴゲーニイ)に「事件全体に、何一つ真面目なものがない」という言葉を吐かせながら、次のようにその「ムイシュキン」像を語って「ノート」末尾へと導いてゆく直前の言葉に表現された。

作者が意識の限界点に立って直接に触れる命の感触ともいうべき、明瞭だが、どう手のつけようもない自分の体験を、ムイシュキンに負わせた事はすでに述べた。この感触は、日常的生の構造或はその保存と防衛を目的とするあらゆる日常的真理や理想の破滅を代償として現れる。それは、その堪え難く鋭い喜びと恐怖とが證している。この内的感触に、作者は「唖のように、聾のように苦しむ」のだが、その苦しみもムイシュキンに負わせた。ただ限りない問いが、「限りない憐憫の情」として人々に働きかけるようにムイシュキンを描いた。殺人者と自殺者とがムイシュキンの言わばこの魔性を一番よく語り、どうしようもなく、彼に惹かれる。彼は孤独ではない。ムイシュキンは、ラゴージンのナイフを無意識のうちに弄ぶと言ってはいけないであろう。生きる疑わしさが賭けられた、堪えられぬほど明瞭な意識のさせる動作だと言った方がよかろう。ドストエフスキイの形而上学は、肉体の外にはないのである。

今回僕が着目したのは、ここの文章全体を背景にした下線を引いた箇所だ。つまり限りない問いに駆られて、「限りない憐憫の情」の人として描かれた「ムイシュキン」像だ。ここに、小林が生涯ドストエフスキーに追求した「ネガ」としての「キリスト」像が明らかになる。しかしそれだけではない。そのことの意味は、当日に譲りたいと思うのだが、ここで少しだけ触れておきたい。その前提には、山城氏も注目した1963(S.38)年(この年、小林は作家同盟の招きでソビエトを訪れ、ヨーロッパを廻って帰国している)前後の小林の旺盛な批評活動の推移がある。その一つが、1958(S.33)年から開始されて、結局未完に終わったベルグソン論「感想」であって、それが中断されたのがこの1963年であった。そして、小林はその「中絶」から踵を返すようにロシア旅行に出かけ、ドストエフスキーの墓を訪ねる機縁を得た。その「墓詣り」の希望に率直に触れたのが「ネヴァ河」(帰国後11/30~12/5まで朝日新聞連載)であり、そのソヴェト・ロシアという国家の歴史的特殊性を日本の「万葉集」を引き合いにして語ったのが「ソヴェトの旅」(11/26、文藝春秋際講演)であった。なお、この二編は他の注目すべきエッセーとともに『考えるヒント』に収録され(執筆は1959年から64年)、『「白痴」について』の刊行同年(64)に出版されている。ここにも注目したい。そしてもう一つ重要なのは、小林はベルグソン論「感想」の連載を続けながら、途中の1960(S.35)年に「本居宣長 ― 『物のあはれ』の説について」をすでに発表していたことだ。しかし何故かこの宣長論は、小林の生前に著作リストから除外されたらしい。この辺りは、前田英樹氏の『小林秀雄』(1998)に教えられた。いずれにしても、小林秀雄が最後に語ろうとしたドストエフスキーの「ムイシュキン」像は、「物のあはれ」に転移、連続してゆく機縁としてあり得たのではないかというのが、今回僕の発表の思いである。まあ、その一端だけでも語ることができればよいのだが。(2014.4.3)

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例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

(2015.4.30、総会の回数などを訂正)