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井上ひさし

『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』のご感想(憲法学者・樋口陽一氏)

これまで上梓した拙著に対しては幸い多くの方から温かいご感想やご意見を頂いており、それらはその後の私の研究や考察に活かさせ頂きました。

ただ、法律関係の専門でもない私が青春時代に「憲法」を獲得した明治の文学者たちの視点で「憲法」のない帝政ロシアで書かれ、権力と自由の問題に肉薄した『罪と罰』を読み解いたのは、は安倍政権の「壊憲」的な手法による「憲法改正」の問題がきわめて切実な問題になってきたからです。

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社 

 また、内田魯庵の『罪と罰』観を調べる中で『罪と罰』訳の第二巻には、前巻の代表的な批評が18も掲載されていたことを再確認しました。むろん、雑誌などに掲載されたものと個人宛の私信に記された批評や感想は異なりますが、頂いたなかには個人で所蔵しておくだけではもったいないような貴重な意見も含まれています。

 それゆえ、今回は著者の方から了解を得られたご感想などに関しては、固有名詞を省くなどの処置をした上でご披露させて頂き、その後に拙著での試みやその後で考えたことなどを記すようにします。

 最初に憲法学者・樋口陽一先生のお葉書をご快諾頂いた事に深く感謝しつつ以下に引用させて頂きます。

  *   *   *

 内外の作品と登場人物と書き手を縦横に配置した座標の中にとりわけ藤村像を浮き彫りにして下さり、「時代」への文学のかかわり方について私なりの認識を研ぎ加えるための貴重な示唆をいただいております。全編を通して著書の藤村に対する畏敬を愛情のまなざし、それと決して矛盾することのない明澄な観察を読み、を感じ取りました。

 小林秀雄については、かねてから、他の点では信頼するもの書きの人達がなぜ敬意の対象としているか理解しかねていたところ、ご論旨に全く蒙を啓かれました(p.188第四段落は痛快!!)

 前後しますが司馬作品の誤読を匡し、「立憲」への近代の日本の知識人の感受性の系譜に読者の眼を向けて下さったことに、感謝しております。

             樋口陽一
  *  *   *

 拙著を高く評価して頂いた文章を私が引用させて頂くのは、自画自賛のようで恥ずかしいとの思いもありましたが、小林秀雄や司馬遼太郎の歴史認識は、現在の「改憲」問題にも深く関わっています。、

 それゆえ、今も「評論の神様」と称されている小林秀雄について記した箇所に対するご感想はたいへん励みになりました。また、ご贈呈頂いた「歴史・歴史学・歴史小説――『坂の上の雲』を議論する方法」(『現代史二講――日露戦争と朝鮮戦争をめぐって和田春樹さんに聴く』(関記念財団、2012年所収)は、「記述の方法」を考える上で、たいへん参考になりました。拙著ではその議論を踏まえて「神国思想」の批判者としての司馬遼太郎氏に焦点をあてて記すようにしました。

なお、『現代史二講――日露戦争と朝鮮戦争をめぐって和田春樹さんに聴く』(関記念財団)に記された該当箇所については、『日本国紀』の問題にも言及しながら稿を改めて紹介・考察したいと考えています。

 

樋口陽一・小林節著『「憲法改正」の真実』(集英社新書)を読む(改訂版)

樋口・小林対談(図版はアマゾンより)

 樋口陽一氏の井上ひさし論と井上ひさし氏の『貧しき人々』論

「日本国憲法」を読み直す 岩波現代文庫 (書影は「紀伊國屋書店」ウェブ・サイトより) 

「明治維新」一五〇年と「立憲主義」の危機

本書の構想を何回か変更したために予想以上に手間取りましたが、ようやく原稿を脱稿しました。

日露戦争の直後に自費出版された島崎藤村の長編小説『破戒』については学生の頃からずっと気になっていました。『罪と罰』から強い影響を受けていることが以前から指摘されているこの長編小説では、激しい差別ばかりでなく教育制度の問題の考察をとおして、危機の時代における「支配と服従」の問題にも鋭く迫っているからです。

しかも、暗い昭和初期の時代に島崎藤村は、武家社会の横暴を見たことから平等な世の中を目指して「平田篤胤没後の門人」となり、「維新」のために奔走した彼の父・島崎正樹を主人公のモデルとした長編小説『夜明け前』を連載していました。

この長編小説の完結後に日本ペンクラブの初代会長に就任した藤村の作品を論じた文芸評論家・小林秀雄の評論と「『罪と罰』についてⅠ」とを考察するとき、「天皇機関説」事件で「立憲主義」が崩壊する前年に書かれ、現在も影響力を保っている小林のドストエフスキー論の問題点が浮かび上がってきます。

ただ、私が日本文学の専門家ではないことや、幕末から明治初期までの激動の時代が描かれている『夜明け前』を読み解くためには、「復古神道」だけでなく維新後の藩閥政府による宗教政策をも理解しなければならなかったために執筆を躊躇していました。

しかし、グローバリズムの強い圧力に対抗して世界の各地でナショナリズムが台頭する中、日本でも二〇一八年が「明治維新」の一五〇年ということで、「維新」を讃美する発言や評論だけでなく、独裁的な藩閥政府との厳しい闘いをとおして獲得した「立憲主義」をも揺るがすような発言や動きも強まっています。

それゆえ、本書では日露の近代化の比較という視点から、北村透谷の評論や島崎藤村の『破戒』や『夜明け前』などの作品をとおして、「憲法」のない帝政ロシアで書かれ権力と自由の問題に肉薄していた『罪と罰』を詳しく読み解くことにしました。『罪と罰』の受容とその変容をとおして幕末から昭和初期にいたる日本の歴史を振り返ることは、「明治維新」一五〇年を迎えた現代の日本を考えるうえでも重要だからです。

たとえば、江戸時代に起きた日露の戦争の危機を防いだ商人・高田屋嘉兵衛を主人公とした長編小説『菜の花の沖』を書いた作家の司馬遼太郎氏はエッセー「竜馬像の変遷」で「明治国家」をこう記していました。

「人間は法のもとに平等である」というのが「明治の精神であるべき」で、「こういう思想を抱いていた人間がたしかにいたのに、のちの国権的政府によって、はるか彼方に押しやられてしまった」。そして司馬氏は「結局、明治国家が八十年で滅んでくれたために、戦後社会のわれわれは明治国家の呪縛から解放された」と続けていたのです。

明治が四五年で終わったことを考えると、「明治国家が八十年で滅んでくれた」という記述は不正確のようにも思えますが、「王政復古」が宣言された一八六八年から敗戦の一九四五年までが、約八〇年であることを考えるならば、明治国家の賛美者とされることの多い司馬氏は、「明治国家」を昭和初期の敗戦まで続いた国家として捉えていたといえるでしょう。

しかも『竜馬がゆく』で、幕末の「神国思想」が「明治になってからもなお脈々と生き続けて熊本で神風連(じんぷうれん)の騒ぎをおこし国定国史教科書の史観」となったと記し、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループ」にひきつがれたと書いた司馬氏は、『この国のかたち』の第五巻で幕末における「復古神道」の影響の大きさを「篤胤によって別国が湧出したのである」と説明していました。

幕末と昭和初期の「神国思想」の連続性を指摘した司馬氏が、「昭和初期」を「別国」あるいは「異胎」の時代と呼んで批判していたことを想起するならば、ここでも「別国」という独特の単語が用いられていることは、昭和の「神国思想」と平田篤胤の「復古神道」との関係をも強く示唆していると思われます。

一九三八年の日中戦争で戦死した戦車隊の陸軍中尉西住小次郎が「軍神」とされたことについても、司馬氏は「明治このかた、大戦がおこるたびに、軍部は軍神をつくって、その像を陣頭にかかげ、国民の戦意をあおるのが例になった」と『竜馬がゆく』を執筆中の一九六四年に指摘していました(『歴史と小説』、集英社文庫)。

このとき司馬氏の批判は小林秀雄の歴史認識にも向けられていた可能性が高いと思われます。なぜならば、一九三九年に書いた「疑惑 Ⅱ」というエッセーで「インテリゲンチャには西住戦車長の思想の古さが堪えられないのである。思想の古さに堪えられないとは、何という弱い精神だろう」と書いた小林はこう続けていたからです。

「今日わが国を見舞っている危機の為に、実際に国民の為に戦っている人々の思想は、西住戦車長の抱いている様な単純率直な、インテリゲンチャがその古さに堪えぬ様な、一と口に言えば大和魂という(……)思想にほかならないのではないか」(『小林秀雄全集』第七巻)。そして小林は「伝統は生きている。そして戦車という最新の科学の粋を集めた武器に乗っている」と書いて国民の戦意を煽っていました。

一方、一九七二年に発表したエッセーで当時の日本の戦車はソ連などと比較するとすでに時代遅れのタイプであると指摘した司馬氏は、「戦車であればいいじゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂でおぎなう」とした「参謀本部の思想」を厳しく批判していたのです(「戦車・この憂鬱な乗り物」)。

こうして、一九〇二年には日英同盟の締結に沸いていた日本は、それからわずか四〇年足らずの一九四一年にイギリスとアメリカを「鬼畜米英」と断じて、「神武東征」の神話と「皇軍無敵」を信じて無謀な太平洋戦争へと突入していました。それは日米同盟を強調しつつ復古的な教育改革をおこなっている日本の未来をも暗示しているでしょう。

それゆえ、戦前の「大和魂」の美化と「神国思想」を批判した司馬氏は、劇作家・井上ひさし氏との対談で、戦後に出来た新しい憲法のほうが「昔なりの日本の慣習」に「なじんでいる感じ」であると語り、「ぼくらは戦後に『ああ、いい国になったわい』と思ったところから出発しているんですから」、「せっかくの理想の旗をもう少しくっきりさせましょう」と続けていたのです。(「日本人の器量を問う」『国家・宗教・日本人』講談社)。

司馬氏との対談もある憲法学者の樋口陽一氏も、「幕末維新の時代には『一君万民』という旗印で平等を求める動き」があり、その後も「全国各地で民間の憲法草案が出ていた」ことに注意を促して「日本国憲法」が明治の「立憲主義」を受け継いでいることを明らかにしています。

さらに、樋口氏は井上氏との共著『日本国憲法を読み直す』(岩波現代文庫)の「文庫版あとがき」で、「井上ひさしの不在という、埋めることのできない喪失感を反芻しながら、一九九三~九五年の対論を読み返した。(……)そのことにつけても、日本の現実を私たち二人と同様に――いや、もっとはげしく――憂えていた司馬遼太郎さんのことを、改めて思う」と記しているのです。

 このような日本の状況や「憲法」についての議論を踏まえて、本書では司馬氏が深く敬愛していた正岡子規や夏目漱石の「写実」や「比較」という方法に注目しながら、広い視野を持っていた明治の文学者たちの考察をとおして、「弱肉強食の理論」や「非凡人の理論」の危険性を描いていた『罪と罰』の現代的な意義に迫ろうとしました。

一九世紀のグローバリズムにも匹敵するような強い圧力に対抗するために、世界中で広がっている「自国第一主義」の影響下に歴史修正主義やヘイトスピーチが横行し、国の公文書の改竄や隠蔽すらもなされ、各国で軍拡が進んでいる現在、『罪と罰』をきちんと読み解くことによって原水爆の危険性を踏まえて成立した日本国憲法の現代的な意義をも明らかにできると考えたからです。(「あとがきに代えて」より) 

近刊『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(目次)

「様々なる意匠」と「隠された意匠」――小林秀雄の手法と現代

→ 第50回総会と251回例会(報告者:高橋誠一郎)のご案内

(「堀田善衛のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に」)

 (2019年1月5日、加筆。2月24日、5月2日、リンク先を追加)

近著『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』(のべる出版企画)の発行に向けて

ゴジラ

(図版は露語版「ウィキペディア」より)

今回の選挙でも「改憲」の問題はまたも隠される形で行われるようになりそうですが、日本の未来を左右する大きな争点ですので、今年中にはなんとか「世田谷文学館・友の会」の講座で発表した「『坂の上の雲』の時代と『罪と罰』の受容」を中核とした本を書き上げたいと思っていました。

しかし、今朝のニュースでも原子力規制委員会が「40年廃炉」の原則をなし崩しにして、老朽原発に初の延長認可を出したとのニュースが報道されていたように、核戦略をも視野に入れた安倍政権や目先の利益にとらわれた経済界の意向に従って、地震大国であり火山の噴火が頻発しているにもかかわらず、川内原発などの再稼働に舵を切った自公政権の原発政策は、これまでこのブログで指摘してきたように国民の生命や財産を軽視したきわめて危険なものです。

「原子力規制委員会」関連記事一覧

また、68回目の終戦記念日の安倍首相の式辞では、これまで「歴代首相が表明してきたアジア諸国への加害責任の反省について」はふれられておらず、「不戦の誓い」の文言もなかったことが指摘されています。

終戦記念日と「ゴジラ」の哀しみ

一方、一九九六年に起きたいわゆる「司馬史観」論争では、「新しい歴史教科書をつくる会」を立ち上げた藤岡氏が『坂の上の雲』を「戦争をする気概を持った明治の人々を描いたと讃美する一方で、きちんと歴史を認識しようとすることを「自虐史観」という激しい用語で批判していました。

しかし、このような考えはむしろ司馬氏の考えを矮小化し歪めるものと感じて『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、2002年)を発行しました。なぜならば、作家・井上ひさし氏との対談で、戦後に出来た新しい憲法のほうが「昔なりの日本の慣習」に「なじんでいる感じ」であると語った司馬氏は、さらに、「ぼくらは戦後に『ああ、いい国になったわい』と思ったところから出発しているんですから」、「せっかくの理想の旗をもう少しくっきりさせましょう」と語り、「日本が特殊の国なら、他の国にもそれも及ぼせばいいのではないかと思います」と主張していたからです(「日本人の器量を問う」『国家・宗教・日本人』)。

最近になって相次いで「日本会議」に関する著作が出版されたことにより、現在の安倍政権と「新しい歴史教科書をつくる会」との関係や、『永遠の0(ゼロ)』の百田直樹氏と「日本会議」が深く繋がっていることが明らかになってきました。

菅野完著『日本会議の研究』(扶桑社新書)を読む

国民の生命や安全に関わる原発の再稼働や武器輸出などが「国会」で議論することなく、「日本会議に密着した政治家たちが」「内閣の中枢にいる」(『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』)閣議で決まってしまうことの危険性はきわめて大きく、戦前の日本への回帰すら危惧されます。

『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書) を読む

憲法学者の樋口陽一氏が指摘しているように、「法治国家の原則が失われており、専制政治の状態に近づいている。そういう状態に、我々は立っている」(『「憲法改正」の真実』)のです。

樋口陽一・小林節著『「憲法改正」の真実』(集英社新書)を読む

それゆえ、原爆や原発の問題や歴史認識などの問題を可視化して掘り下げるために、『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』と題した映画論を、急遽、出版することにしました。

参議院選挙には間に合いそうにありませんが、事前に出版の予告を出すことで、日本の自然環境を無視して原発の稼働を進め、「戦争法」を強行採決しただけでなく、「改憲」すら目指している安倍政権の危険性に注意を促すことはできるだろうと考えています。自分の能力を超えた執筆活動という気もしますが、このような時期なので、なんとか6月末頃までに書き上げて出版したいと考えています。

(2016年11月2日、リンク先を追加)

『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』の「あとがき」を掲載

「忍び寄る『国家神道』の足音」と井上ひさし《闇に咲く花――愛敬稲荷神社物語》

闇に咲く花、アマゾン(図版は「アマゾン」より)

忍び寄る「国家神道」の足音〉という題名は今年1月23日付けの「東京新聞」朝刊「こちら特報部」の特集記事から引用したものですが、そこで「安倍首相は二十二日の施政方針演説で、改憲への意欲をあらためて示した。夏の参院選も当然、意識していたはずだ」と書いた特集記事はこう続けていました。

「そうした首相の改憲モードに呼応するように今年、初詣でにぎわう神社の多くに改憲の署名用紙が置かれていた。包括する神社本庁は、いわば『安倍応援団』の中核だ。戦前、神社が担った国家神道は敗戦により解体された。しかし、ここに来て復活を期す空気が強まっている。」

そして記事は「神道が再び国家と結びつけば、戦前のように政治の道具として、国民を戦争に動員するスローガンとして使われるだろう」と結んでいたのです。「戦争法」だけでなく「改憲」さえも強行しようとしている安倍政権の危険性を、井上ひさし氏の劇《闇に咲く花――愛敬稲荷神社物語》はすでに予告していたように思えます。

30年ほど前に書いた井上ひさし氏の《闇に咲く花――愛敬稲荷神社物語》について書いた劇評を再掲します。

*   *   *

「昭和庶民伝・第二部」にあたるこまつ座の劇《闇に咲く花――愛敬稲荷神社物語》(井上ひさし作)もやはり記憶の喪失をテーマにしていた。

この劇では戦争が終った直後の一神社を舞台に物語は進んでいく。主人公の一人である神主の牛木公麿はかつては境内に捨てられていた赤ん坊をひろってわが子として育て、今も近所の主婦達の内職の場を提供するだけでなく、糊口を凌ぐためには神社の品を売り払ってヤミ米を買い、彼女達にも与える程、人が好く、心やさしい人物であるが、戦時中は国の政策を素朴に信じ、若者達を戦場へと送り出す役割を担っていたのだった。

この人物設定は前作の登場人物である実直で愛国的な傷痍軍人の源一郎を想起させるが、しかし大きな違いの一つは、前の劇が太平洋戦争に突入する直前だったのに対し、ここでは戦後の混乱がようやく収まり再び秩序が戻りつつある時期に設定されていることである。それゆえ、劇では源一郎と脱走兵正一の対立とは別の、しかし現在に生きる我々に直接係わってくる次元で神主の公麿と息子健太郎との対立が描かれている。

劇はヤミ米の買い出しから戻った主婦達と神主のやりとりで観客を笑わせたり、戦死した健太郎が実は捨子だったと彼の友人に語る神主の言葉でほろっとさせたりしながら進んでいくが、南方で戦死した筈の健太郎が戻って来るところから佳境に入っていく。彼は戦場で傷を負い、記憶喪失に陥って治療を受けていたのだ。名ピッチャー健太郎の帰還は父ばかりではなく、友人や知り合いの人々すべてを歓喜させる。だが彼の到着を追うようにして、無実の彼にC級戦犯の容疑がかけられていることが知らされ、それを聞いた健太郎は再び記憶を失う。

父はこのまま治療せずに審理から逃れさせようとするが、しかし彼と元バッテリーを組んだ医者の稲垣は、ともかく治してから山奥に隠すと請け合い、治療に専念して再び彼の記憶を呼び戻すことに成功する。

だが、父が「記憶を失って赤ン坊になるか、正気に返って怯えながら生きるか、そのどっちかしかないんだから、可哀想な子だ」と嘆きながら、山奥へ隠そうとしている所に捜査官が録音機を持って現れスイッチを入れると、語られたばかりの健太郎の言葉が再び発せられる。

「父さん、ついこのあいだおこったことを忘れただめだ、忘れたふりをしちゃなおいけない。……」「……過去の失敗を記憶していない人間の未来は暗いよ。なぜって同じ失敗をまた繰り返すにきまっているからね。神社は花だ。道ばたの名もない小さな花……」。

ここでもまた記憶のテーマが語られているのだが、井上氏は録音機という手段を用いることによってこのテーマを無理なく繰り返し、強調することに成功しているが、さらにそれは自分の声を聞く健太郎の心理と結びつけられて悲劇的だが感動的な結末へと導かれているのだ。

すなわち、最初健太郎は健忘症を装おおうとするが、しかし自分の声に励まされるようにして、自分の考えを最後まで述べるのである。

「花は黙って咲いている。人が見ていなくても平気だ。…中略…花と向かい合っていると、心がなごんで、たのしくなる、これからの神社はそういう花にならなくちゃね。花は心を落ちつかせる色をしているよ。(一瞬の、微かな怯え。しかし立ちなおって浄く明るく)ぼくは正気です」。

こうして健太郎は無実でありながら戦時中の日本人の罪を背負ってグアムで死刑になるのだが、この劇を『闇に咲く花』と名付けた井上氏は、健太郎のうちに人間の罪を背負って十字架に架けられたとされるキリストのイメージがだぶっていたのかもしれない。

見終えた後の印象は重苦しいものであったが、それはこの作品の持つテーマが現在に生きる我々とも深く結び付くものだったからだろう。殊に最近の日本の報道や風潮は、都市の外観だけをそのままに、一気に大正末へとタイムスリップしてしまったような感すら抱かせる。

劇団「夢の遊眠社」主宰の野田秀樹氏は「日本は主権在民といいながらも、この四十年間で天皇制にかわる思想の核というものをつくりきれなかったことが明らかになった、という気がします」と語っているが確かにそうだろう。一度の強い風でメッキは剥げ落ち、借り物の衣装や地表を覆っていたかに見えた根のない草木は吹き飛んだのだ。

だが、少なくとも「明らかになった」ことはよいと思える。私たちは飾り立てた自分の姿だけではなく、裸の自分の姿もしっかりと見据えておく必要があるのだ。盆栽や鉢植えの草木ではなく、戸外の自然の中で、激しい風雨や厳しい冬の寒さの中で大地に根を張るような草木をこそじっくりと育てるべきなのだろう。その時にこそ草木は美しい「花」を咲かせるだろう。

〈この劇評は同人誌『人間の場から』(第13号、1989年)に掲載された「見ることと演じること(4)――記憶について」の前半の箇所である。なお、本稿では文体レベルの簡単な改訂を行った〉。

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30年前に書いたこの劇評を読み直して感じたのは、自然を愛する心優しい神主とその息子の苦悩を描いたこの劇が、宗教学者の島薗進氏と政治学者の中島岳志氏が、現在の日本の危機的な状況を踏まえて、熱く深く語り合った対談『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書) のテーマと深く関わっていることです。

来る選挙での野党の統一を求めている多くの方々だけでなく、自然を愛する心やさしい神主の方々や仏法を信じる公明党の党員の方々に、いまこそ観て頂きたい劇です。

(2017年2月22日、一部改訂して図版を追加、2023年5月3日、ツイートを追加)

「記憶」の痛みと「未来」への希望 ――井上ひさし《きらめく星座――昭和オデオン堂物語》

30年ほど前に書いた劇評を読み直していて、戦時中の日本を描いた井上氏の劇《きらめく星座――昭和オデオン堂物語》が、現代日本の状況をすでに示唆していたことと過酷な状況にもかかわらず未来への希望を示していたことに気づきました。古い劇評ですが、改題した上で再掲します。

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井上ひさし氏の作品については、じっくりと論じてみたい気がするが、少しずつにせよ、やはり書いておくことにする。なぜなら、身体で演じる劇は、印刷された文学作品と異なり再生はきかず、時とともに「記憶」が薄れていくからであり、そして井上ひさし氏の『昭和庶民伝・三部作』の主題そのものも生身の人間の「記憶」に深く関わっているからでもある。

『昭和庶民伝・三部作』は、戦時中の日本を舞台にした独立した三つの作品――『きらめく星座――昭和オデオン堂物語』、『闇に咲く花』、『雪やこんこん』――から成り立っている。

遅筆堂と自ら名乗る井上氏の執筆の遅さには定評があるが、こん回の公演でも第一部以外の書下ろしの二本の台本が大幅に遅れ、公演日をずらし、切符の一部を払い戻しにするなどの措置を取るに至り、氏の遅筆ぶりを咎める記事も出た。

しかし、一連の経過の中で私が感じたのは、小説の執筆だけでも忙しい氏が座付き作者として興行的なリスクを負いながらも、期限付きの芝居の台本を自らに課すその意気込みである。

氏は『闇に咲く花』の登場人物に「過去の失敗を記憶していない人間の未来は暗いよ。なぜって同じ失敗をまた繰り返すにきまっているからね」と語らせているが、ここには、今語らねばまた語ることのできない時期がくるのではないかという氏の危機感が現れているように思える。

ただこのような危機感はいたずらに激しく直接的な表現で語られるのではなく、重苦しい時代をけなげに、しかも明るく生きる庶民の生活を再現することによって、語りかけるような調子で私達の心にしみこんでくる。

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さて、『きらめく星座――昭和オデオン堂物語』は、今まさに太平洋戦争に突入しようとしていた時代を背景に、長男正一が軍隊から脱走したことによって「非国民の家」とされた浅草のレコード店・オデオン堂の音楽好きな一家とその下宿人たちの生きざまを描いている。

兄の脱走を知った妹は汚名をそそぐために、それまで文通していた「白衣の勇士」と呼ばれる傷痍軍人たちの一人と結婚して、「非国民の家」を「軍国美談の家」に変え、レコード店がつぶされることを防いだ。

こうして劇は軍隊を脱走した長男と彼を追う憲兵との緊迫した場面や、解放的なオデオン堂の人々と実直な傷痍軍人との「敵性音楽」と「軍国歌謡」をめぐる対立を軸に進んでいく。 しかしこの深刻な主題を氏は、正一にちゃめっけの強い陽気な性格を与え、さらに彼を様々な職業に就かせながら日本中を転々とさせることによって、単調になりがちな劇に意外性と重層感、すなわち下からの視点を持たせ得ている。

たとえば九州の飯場から戻った正一は「脱走兵がこんなこと言っちゃいけないよね」と断りながら、そこには五十人程の朝鮮人がいたが「話を聞くと、そのうちの十人が畑仕事の最中に連れてこられたそうだ。町に出たところを待ち伏せられた人もいる。これは奴隷狩りよりもひどいんじゃないか」と語るのだ。このような彼の言葉が説得力を持つのは、彼もまた音楽学校を中退して兵隊になった程の軍国青年だったと性格付けられており、また彼の脱走も反戦的な思想からではなく、普通の人でもその三人に一人が神経症にかかるほど騒音の激しい砲兵に音感の発達した彼が配属されてしまったことにその動機を求めているからであるだろう。この無自覚な逃亡者である彼は、逃走の中で当時一般の庶民からは隠されていた現実と出会うのである。

このような理想と現実の落差は、実直で愛国的な傷痍軍人源次郎の幻肢痛という病を通して一層鋭い形で提起されている。すなわち彼は左手を失っているのだが、彼には時折そのなくなった手が今もあるかのように思える、するとなくなっている筈の手が激しく痛みだすのだ。しかもその痛みは、正一の話を聞き、自分でも高級軍人と工場主との会話を耳にしたことから、今もある筈の帝国の「道義」が実は既に、「自分の左手が吹つ飛んだ」ようになくなってしまっているのではないかと、疑った時にも激しく彼を襲うのである。

こうして井上氏は、内面的な苦しみを肉体的な痛みを通して視覚的に観客に訴えかけているのだが、恐らく劇の成功の一因はこの愛国的な傷痍軍人源次郎の形象がきちんと描かれていることにあると言えるのではないだろうか。「戦いの野に屍さらす栄光に恵まれず、生きながらえて祖国に帰って」きたことを心の底から恥いり、せめて銃後の柱になって一億の民を鍛えようとする彼の純粋な人柄は、その信頼が裏切られた時に悲劇的な様相をすら示すのである。

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源一郎の対極にいるのが広告文案家の竹田である。彼は冒頭では「金は貯めよ、しかし便は貯めるなかれ。便秘にミクローゼ」といった自作の広告文を披露して皆を笑わす。

だが「悠久二千六百年! よくぞ日本に生まれける! そう思わんのか、あんたは」と問い詰める傷痍軍人の源一郎にたいして彼は、「思えばこそですよ。そう思えばこそ、こじつけで国を動かされちゃかなわんと言っているわけです」と答え「星の動きはだれが見ても同じです。そういう堂々たる論理で国の経営を行ってもらえるなら、もっとずっと日本が好きになれるんですがね」と真っ向から反駁をもするのである。

この考えはほぼ作者自身の考えと見なし得るだろうが、彼の言葉が単なる上滑りなものに終わっていないのは、とつとつと語るその語り口のせいばかりでなく、彼の語る思想が東北の文化の中で育った大地に根ざしたものだからであろう。それゆえ彼が引用する宮沢賢二の詩「星めぐりの歌」も唐突な感じはなく、星が好きな彼の言動を支えてもいるのである。

ところでこの劇では「星めぐりの歌」だけでなく、「月光値千金」「きらめく星座」「青空」など多くの歌が挿入されているが、これらの歌は当時の雰囲気をもかもしだしているとともに、レコード店という場面設定の中で有機的に劇の筋や劇の主題とも深く結び付いて、聴覚的にも観客に深い印象を呼び起こし得ている。

銚子から逃げ返った正一はコーヒーを出されるとすぐに「小さい喫茶店」を歌い始めて、それを義兄の源一郎に咎められると「歌は活力です」と反論しているが、これらの歌は一般庶民の持つ明るいエネルギーを十二分に伝えていた。

そしてこれらの歌に込められた作者のメッセージは、役柄をきちんと捉えて演じた端役にいたるまですべての俳優の熱演によって、私たちの心をうったのだった。

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〈同人誌『人間の場から』(第12号、1988年)に掲載された初出時の題名は、「見ることと演じること(3)――こまつ座公演 『昭和庶民伝・三部作』をめぐって」。なお、「見ることと演じること」の(1)に当たる劇評は、「モスクワの演劇――ドストエフスキー劇を中心に」という題で2013年8月25日に、「見ることと演じること」(2)の一部は、「劇《石棺》から映画《夢》へ」という題で2013年7月8日にホームページに掲載。本稿では文体レベルの簡単な改訂を行った。2016年4月14日改題と加筆。2023/05/03、ツイートを追加〉。

井上ひさしのドストエフスキー観――『罪と罰』と『吉里吉里人』、『貧しき人々』と『頭痛肩こり樋口一葉』をめぐって

雑誌「チャイカ」(第三号)のインタビューで、井上氏は自分とロシア文学との関わりについて語りながら、「まあ、全部読んでいるわけじゃないんですけど、やっぱり私の基本となっているのは、ドストエーフスキイとチェーホフですね」と語っている。この雑誌については知らない方も多いと思われるし、また両者の係わりを知ることは劇作家井上ひさしを考える上でも重要だと思えるのでその内容を簡単に紹介し、あわせて筆者の考えも二・三記しておきたい。

*   *   *

「井上  それから小説……『吉里吉里人』なんていうのは、もうあれです、『罪と罰』を側におきながらですね、

本誌 お書きになったんですか?

井上 ええ、まあ、ロシア語は全然わかりませんけど何となくこうアノ、文章の息の長さとかですね、まあ、日本の文章は非常に盆栽風になりまして、こう、短く、一つの意味を一つの文で、それを貨車みたいに繋いでという方法が一番正しいとされていますね。…中略…でもドストエーフスキイ読みますと、アノ、長いですよね。…中略…今連載中の『一分ノ一』というのは『白痴』を読みながら、別にそれを採るっていうんじゃなくて、ある、こう何ていうんですかね、心構えといいますか、いつもドストエーフスキイはあるんです」。

*   *   *

インタビューなので語り手の舌足らずな面もあり、氏はここでドストエフスキーの文体と姿勢について語っているにすぎないが、二作品が『罪と罰』や『白痴』を「側におきながら」書かれたという証言は重く、そこからは多くの興味ある類似点が派生する筈だ。

たとえば氏は別の箇所で「ドストエーフスキイの場合は、国家の作った法律よりも、こう、フォークロアっていいますかね、民間伝承とか諺でやってますね」と述べている。こうした民衆からの視点こそは長編小説『吉里吉里人』を支えていたものでもあった。そしてドストエフスキーには現代文明に対する鋭い危機意識とともに天下国家をも論じようとする広い視野があるが、それはまた、それ程前面には出ないにせよ井上氏の作品を特徴付けるものでもある。

それとともに、井上氏は「ドストエーフスキイの魅力」は「『謎解き・罪と罰』に全部出ていると思います」と述べながら、ドストエフスキーの「メチャクチャな」「名前のつけ方」や彼の笑いについて触れ、『罪と罰』が「叙情的でもありますし、反面、すごい叙事詩でもあるんですけど、それから哲学小説としても読めますけど」「滑稽小説」でもあるのだと主張し、「世の中つらいことばっかりあるわけじゃなくて、つらいことが九つあれば一つくらいバカバカしいオカシイことありますよね。それがやっぱり小説にも反映しなきゃいけないと思うんです」と語っているが、それは井上氏の小説作法の根幹に係わるものでもあるだろう。

さらに、第一章「あんだ旅券は持って居たが」、第二章「俺達の国語は可愛がれ」といった『吉里吉里人』の章の命名方が『カラマーゾフの兄弟』の章の題名を思い起こさせることも付記しておきたい。

*   *   *

この対談で私の最も印象深かったのは、氏が一番好きな作品として『貧しき人々』を挙げ「あれは最高ですね、何ともいえないですね、あれはもう僕にとってですけど、世界の文学のトップですね、あんないい小説ないですね」と語り、「いつ読まれたんですか」という問いに「あれは随分前です」と答えながら、「あれが僕の妙な部分を作っていると思いますね」とまで述べている箇所である。

初めは少し意外な感じもしたが、しかしユーモアとペーソスを持って中年の官吏とみなし子の乙女の心理を描きながら、同時に彼らの視線を通してペテルブルグやロシアの生活の全体像にまで肉迫しえている『貧しき人々』と井上文学は、確かに奥深いところで結び付いているようだ。

たとえば氏には『頭痛肩こり樋口一葉』という女性ばかり六人が登場する戯曲がある。同じインタビューで氏は「アノ、家庭といいますか、ある小さな共同体の移り変わりが、宇宙の移り変わりと、こう照合していて、何も大ゲサなことをやらなくても、深く五・六人のことを書けば、そのうしろに宇宙があるっていうのは、まあ、チェーホフから影響を受けていますね」と語っているので、この戯曲もチェーホフとの関連で論じるべきかもしれない。

だが『貧しき人々』について語った氏の言葉を読んで、私が真っ先に思い浮かべたのはこの作品だったのだ。むろん、直接的な影響を指摘することはできない。しかし『貧しき人々』がプーシキンやゴーゴリの作品をとりあげながら、その文学的業績を積極的に吸収しようとしていた作品であり、さらにその女主人公ワルワーラも一葉と同じように文学を愛した貧しく病弱な女性であったこと、そして何よりもそこではワルワーラの生きかたを通して「女性の不幸は、男性の不幸でもある」という思想が語られていたことを思い起こすなら、これら二つの作品の結び付きはかなり強いと言えるのではないだろうか。

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最後に、ここに挙げられた作品以外で両者の関係を物語っていると思われる二編を紹介してこの小論の結びとしたい。

昭和四九年の井上氏の作品に『合牢者』という短編がある。この作品の主な登場人物の原田と矢飼は共に明治初期の貧乏巡査であるが、一方の原田は内田魯庵訳の『罪と罰』を読みラスコーリニコフの考えに共鳴して、悪辣な質屋の未亡人を殺す。もう一人の巡査矢飼は上司の命令で、罪を認めない原田のアリバイを崩すために同じ牢に入り事実を聞き出そうとする。

しかし、原田の不幸な境遇に同情を覚え、「真実などどうでもよくなった」時に彼は事実を語られ、しかも上司からはそのまま牢に留まっているか昇格を選ぶかと迫られて事実を告げてしまう。小説は「堂々と罪を犯し、くだる罰を発止と受けとめて」死刑になった原田を思いながら「小説が人間よりも小さいのか、あるいは大きいのか、おれにはいまだによくわからないが、あいつのことを考えるたびに、小説は人間より大である、というような気がしてならぬ」という原田の感慨で終わる。この短編では『罪と罰』は単に原田の犯行を動機付けしているばかりでなく、小説の主題とも重なり、また小説全体の筋にも関わっている。

『私家版 日本語文法』(昭和五三年から五五年)で井上氏は、雨乞唄を紹介しながらその「言葉の冗舌性と技巧」にふれて、先人たちには「必要があれば八百でもウソをついてひとつの願いを成就させようという意気込みが」あったと述べ、「筆者は不真面目だから、ひとつの誠を言うために八百のウソをつく方へ行くしかない」と述べている。

全体にドストエフスキーと同様井上氏にも言葉、殊に嘘に対する考察や言及が多いのだが、この箇所は「僕が人間なのは嘘をつくからなんだ」と述べさらに「嘘をついていれば――真理まで達せるのだ」と主張する『罪と罰』のラズミーヒンの言葉と殆ど重なっているように見える。ここにも井上ひさし氏の文学とドストエフスキーとの深いかかわりをみるのは、筆者の思い入れがすぎるだろうか。

*   *   *

〈同人誌『人間の場から』(第13号、1988年)に掲載された初出時の題名は、「見ることと演じること(四)――記憶について」。後にその一部が「ドストエーフスキイと井上ひさし」という題で「ドストエーフスキイの会会報」(第107号、1989年)および、『場 ドストエーフスキイの会の記録Ⅳ』、244~245頁に転載される。本稿では地の文の表記をドストエフスキーで統一するとともに、誤記や文体レベルの簡単な改訂を行った〉。

 

樋口陽一氏の井上ひさし論と井上ひさし氏の『貧しき人々』論

現在、井上ひさし・樋口陽一著『日本国憲法を読み直す』(岩波現代文庫、2014年)についての小文を書いていますが、対談後の2000年に亡くなられた劇作家・井上氏への深い追悼の念と同じ年に生まれた友人への熱い思いが綴られた樋口氏の「ある劇作家・小説作家と共に“憲法”を考える―井上ひさし『吉里吉里人』から『ムサシ』まで」を読み直すなかで、かつて書いたいくつかの短い演劇評を掲載することにしました。

3部作全部について論じるつもりで書き始めたものの他の仕事に追われて途中で打ち切っていたのですが、井上作品の意義を少しでも多くの人に伝えるためには、未完成なものでも劇から受けた感銘などを記した小文をアップすることも必要だと思えたのです。

順不同になりますが、井上氏の『貧しき人々』観と劇『頭痛肩こり樋口一葉』について記した箇所を最初にアップします。

日本の近代文学者たちについての深い考察が「面白く」描かれた多くの井上劇から深い感銘を受けていた私が、後に『貧しき人々』や『分身』、『白夜』などドストエフスキーの初期作品を詳しく分析した『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)を書くきっかけとなったのがこのときの考察だったのです。

拙著では引用しませんでしたが、作家の北杜夫氏もドストエフスキーの作品についての感想を記した後で、『貧しき人々』から受けた感銘を次のように記していたのです。

「古い記憶の中で殊に印象に残っているのは『罪と罰』(私は後半はこれを探偵小説のように読んだ)、『死の家の記録』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』などであった。それらの体臭があまり強烈すぎたので、処女作『貧しき人々』はそれほどの作品とは思っていなかったが、十年ほど前、偶然のことからこれを読み返した。すると、もはや若からぬ私の目からひっきりなしに涙が流れ、かつとめどなく笑わざるを得なかった。これまた、しかも二十四歳の作品として驚くべき名品といえよう」。

井上氏の『貧しき人々』観などを掲載した後でソ連の演劇にも言及しながら、劇『きらめく星座』と『闇に咲く花』から受けた強い印象を記した2つの劇評などを順次掲載します。

歪められた「司馬史観」――――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(11)

前回の記事では、『永遠の0(ゼロ)』の第10章「阿修羅」と映画《紅の豚》で描かれた空中戦のシーンとを比較することにより、「豚のポルコ」と宮部との類似性を示すとともに、作品に描かれている女性たちと主人公との関係が正反対であることを指摘しました。

同じようなことが、いわゆる「司馬史観」との関係でも言えるようです。

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宮崎駿監督が「書生」として司会を務めた鼎談集『時代の風音』(朝日文庫、1997)で司馬氏は、20世紀の大きな特徴の一つとして「大量に殺戮できる兵器を、機関銃から始まって最後に核まで至るもの」を作っただけでなく、「兵器は全部、人を殺すための道具ながら、これが進歩の証(あかし)」とされてきたことを厳しく批判していました(「二十世紀とは」)。

しかし、このような司馬氏の深い歴史観は、『永遠の0(ゼロ)』では矮小化された形で伝えられているのです。

*   *

第7章「狂気」では慶子が、「私、太平洋戦争のことで、いろいろ調べてみたの。それで、一つ気がついたことがあるの」と弟に語りかけ、「海軍の長官クラスの弱気なことよ」と告げる場面が描かれています。

さらに慶子は「これは私の個人的意見だけど」と断りながら、「もしかしたら、彼らの頭には常に出世という考えがあったような気がしてならないの」と語り、「出世だって――戦争しながら?」と問われると、「穿ちすぎかもしれないけど、そうとしか思えないフシがありすぎるのよ」と答えています。

その答えを聞くと「ぼくは心の中で唸った。姉の意外な知識の豊富さにも驚かされたが、それ以上に感心したのが、鋭い視点だった」と書かれています。

その言葉を裏付けるかのように、慶子はさらに「つまり試験の優等生がそのまま出世していくのよ。今の官僚と同じね」と語り、「ペーパーテストによる優等生」を厳しく批判しているのです。

*   *

慶子は「これは私の個人的意見だけど」と断っていましたが、いわゆる「司馬史観」をめぐって行われた論争に詳しい人ならば、これが司馬氏の官僚観を抜き出したものであることにすぐ気づくと思います。

すなわち、軍人や官吏が「ペーパーテストによって採用されていく」、「偏差値教育は日露戦争の後にもう始まって」いたとした司馬氏は、「全国の少年たちからピンセットで選ぶようにして秀才を選び、秀才教育」を施したが、それは日露戦争の勝利をもたらした「メッケルのやり方を丸暗記」してそれを繰り返したにすぎないとして、創造的な能力に欠ける昭和初期の将軍たちを生み出した画一的な教育制度や立身出世の問題点を厳しく批判していたのです(「秀才信仰と骨董兵器」『昭和という国家』)。

つまり、「ぼく」が「心の中で唸った」「鋭い視点」は、姉・慶子の視点ではなく、作家・司馬遼太郎氏の言葉から取られていたのです。

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『永遠の0(ゼロ)』では姉・慶子の言葉を受けて、「ぼく」は次のような熱弁をふるいます。

「高級エリートの責任を追及しないのは陸軍も同じだよ。ガダルカナルで馬鹿げた作戦を繰り返した辻政信も何ら責任を問われていない。…中略…ちなみに辻はその昔ノモンハンでの稚拙な作戦で味方に大量の戦死者を出したにもかかわらず、これも責任は問われることなく、その後も出世しつづけた。代わって責任は現場の下級将校たちが取らされた。多くの連隊長クラスが自殺を強要されたらしい」(371頁)。

さらに、姉の「ひどい!」という言葉を受けて「ぼく」は、「ノモンハンの時、辻らの高級参謀がきちんと責任を取らされていたら、後のガダルカナルの悲劇はなかったかもしれない」と続けています。

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実はこの記述こそは作家の司馬氏が血を吐くような思いで調べつつも、ついに小説化できなかった歴史的事実なのです。

「私は小説にするつもりで、ノモンハン事件のことを徹底的に調べたことがある」と記した司馬氏は、連隊長として戦闘に参加した須見新一郎元大佐の証言をとおして、「敗戦の責任を、立案者の関東軍参謀が取るのではなく」、貧弱な装備で戦わされ勇敢に戦った「現場の連隊長に取らせている」と指摘し、「天幕のなかにピストルを置いて、暗に自殺せよと命じた」ことを作家・井上ひさし氏との対談で紹介していたのです(『国家・宗教・日本人』)。

司馬氏が心血を注いで構想を練っていたこの長編小説は、取材のために、商事会社の副社長となり政財界で大きな影響力を持つようになっていた元大本営参謀の瀬島龍三氏との対談を行ったことから挫折していました。

この対談記事を読んだ須見元連隊長は、「よくもあんな卑劣なやつと対談をして。私はあなたを見損なった」、「これまでの話した内容は使ってはならない」との激しい言葉を連ねた絶縁状を司馬氏に送りつけたのです(半藤一利「司馬遼太郎とノモンハン事件」)。

リンク→《風立ちぬ》論Ⅳ――ノモンハンの「風」と司馬遼太郎の志(2013年10月6日 )

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問題は、このような姉・慶子の変化や「ぼく」の参謀観が新聞記者の高山隆司と「一部上場企業の社長まで務めた」元海軍中尉の武田貴則との対決が描かれている第9章の前に描かれているために、「私はあの戦争を引き起こしたのは、新聞社だと思っている」と決めつけた武田の次のような言葉を正当化してしまっていることです。すでにこのブログでも記しましたが、重要な箇所なのでもう一度、引用しておきます。

「日露戦争が終わって、ポーツマス講和会議が開かれたが、講和条件をめぐって、多くの新聞社が怒りを表明した。こんな条件が呑めるかと、紙面を使って論陣を張った。国民の多くは新聞社に煽られ、全国各地で反政府暴動が起こった…中略…反戦を主張したのは德富蘇峰の国民新聞くらいだった。その国民新聞もまた焼き討ちされた。」

しかし、「戦時中の言論統一と予」と題した節で德富蘇峰は、「予の行動は、今詳しく語るわけには行かぬ」としながらも、戦時中には戦争を遂行していた桂内閣の後援をして「全国の新聞、雑誌に対し」、内閣の政策の正しさを宣伝することに努めていたと書いていました(徳富蘇峰『蘇峰自伝』中央公論社、1935年)。

つまり、思想家・德富蘇峰の『国民新聞』が「焼き討ち」されたのは彼が「反戦を主張した」からではなく、最初は戦争を煽りつつ、戦争の厳しい状況を知った後ではその状況を隠して「講和」を支持し、「内閣の政策の正しさを宣伝」したからであり、その「御用新聞」的な性格に対して民衆が怒りの矛先を向けたからだったのです。

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司馬氏は日露戦争以降の日本で強まった「自殺戦術とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学」を長編小説『坂の上の雲』で厳しく批判していました。

そのような哲学を広めた代表的な思想家の一人が、『国民新聞』の社主でもあった徳富蘇峰でした。彼は第一次世界大戦中に書いた『大正の青年と帝国の前途』においては白蟻の穴の前に危険な硫化銅塊を置いても、白蟻が「先頭から順次に其中に飛び込み」、その死骸でそれを埋め尽し、こうして「後隊の蟻は、先隊の死骸を乗り越え、静々と其の目的を遂げたり」と記すようになります。

こうして蘇峰は、集団のためには自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを大正の青年が持つように教育すべきだと説いていたのですが、作家の司馬遼太郎氏が亡くなられた後で起きた1996年の「司馬史観」論争の後では『坂の上の雲』を「戦争の気概」を持った明治の人々を描いた歴史小説と矮小化する解釈が広まりました。

ことに、その翌年に安倍晋三氏を事務局長とする「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が立ち上げられると、戦後の歴史教育を見直す動きが始まったのです。

安倍首相が母方の祖父にあたる元高級官僚の岸信介氏を深く尊敬し、そのような政治家を目指していることはよく知られていますが、厳しい目で見ればそれは戦前の日本を「美化」することで、祖父・岸信介氏やその「お友達」に責任が及ぶことを逃れようとしているようにも見えます。

安倍氏は百田氏との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック株式会社、2013年)に収録されている対談で、『永遠の0(ゼロ)』にも「他者のために自分の人生を捧げる」というテーマがあると賞賛していました(58頁)。安倍首相と祖父・岸信介氏との関係に注目しながら百田氏の『永遠の0(ゼロ)』を読むと、「戦争体験者の証言を集めた本」を出すために、特攻隊員として死んだ実の祖父のことを知る「当時の戦友たち」をたずねて取材する姉・慶子の仕事を手伝うなかで変わっていく「ぼくの物語」は、安倍首相の思いと不思議にも重なっているようです。

百田氏は安倍首相との共著で、「安倍総理も先ほどおしゃっていたように、この本を読んだことによって、若い人が日本の歴史にもう一度興味を持って触れてくれることが一番嬉しいですね」と自著を誇っています(67頁)。

しかし、この『永遠の0(ゼロ)』で主張されているのは、巧妙に隠蔽されてはいますが、青年たちに白蟻のような勇敢さを持たすことを説いた徳富蘇峰の歴史観だと思われるのです。

*   *

「司馬史観」論争の際には『坂の上の雲』も激しい毀誉褒貶の波に襲われましたが、褒める場合も貶(けな)す場合も、多くの人が文明論的な構造を持つこの長編小説の深みを理解していなかったように思えます。

前著『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』(東海教育研究所、2005年)では、司馬氏の徳冨蘆花観に注目しながら兄蘇峰との対立にも注意を払うことで『坂の上の雲』を読み解く試みをしました。

たいへん執筆が遅れていますが、近著『司馬遼太郎の視線(まなざし)――子規と「坂の上の雲」と』(仮題、人文書館では、今回は「文明史家」とも呼べるような広い視野と深い洞察力を持った司馬遼太郎氏の視線をとおして、主要登場人物の一人であり、漱石の親友でもあった新聞記者・正岡子規が『坂の上の雲』において担っている働きを読み解きたいと考えています。

(1月18日、濃紺の部分を追加し改訂)

 

菅原文太氏の遺志を未来へ

元俳優の菅原文太氏が亡くなられたことが報じられました。

謹んで哀悼の意を表するとともに、震災後に「日刊ゲンダイ」のインタビューで語った記事(デジタル版)と、震災後の活動が比較的詳しく書かれている「日刊スポーツ」デジタル版の記事をご紹介することで菅原氏の強い遺志の一端をお伝えすることにします。

*   *

「ポスト震災を生き抜く」

あれだけの大震災と原発事故を経て、日本人の意識が違う流れに変わるかな、と期待したけど、変わらないな。何も変わらないと言っていいほど。戦後の日本はすべてがモノとカネに結びついてきた。そこが変わらないとな。

俺は09年から有機栽培に取り組んできた。在来種を扱うタネ屋は数えるほどで、売られている野菜は「F1」といって一代限りで、タネを残せない一代交配種で作られている。農薬もハッキリ言って毒だよ。米軍がベトナム戦争で散布した枯れ葉剤のお仲間さ。極論すれば農薬と化学肥料とF1種で成り立っているのが、今の日本の農業じゃないのか。

農薬の怖さはそれこそ放射能とおんなじさ。人体への影響は目に見えない。農民は危ないから子どもたちを農地に入れないよ。儲からない上に危険だしじゃあ、後継者不足も当たり前だ。原発に農薬にと、日本はアメリカの実験場にされてきたんだ。

戦後の日本人は「世界一勤勉な国民だ」とシリを叩かれ、働いてきた。集団就職列車に乗って、大都会の東京や大阪の大企業や工場に送り込まれてきた。日本人総出で稼ぎに稼いで、豆粒みたいな島国が一時は世界一の金満国家になったけど、今じゃあ1000兆円もの借金大国だ。

農業も原発もアメリカの実験場だ

農薬の怖さはそれこそ放射能とおんなじさ。人体への影響は目に見えない。農民は危ないから子どもたちを農地に入れないよ。儲からない上に危険だしじゃあ、後継者不足も当たり前だ。原発に農薬にと、日本はアメリカの実験場にされてきたんだ。

農薬いっぱいの土壌からできたコメや野菜でいいのか。化学肥料と農薬を使わない本当の土壌にタネをまけば、よく根を張って力強くおいしい作物ができる。「農」が「商」だけになってはダメだ。「工」にもあらずだ。このトシになって、今さら夢はないけどな、農業を安全な本来の姿に戻したい。それが最後の望みだね。

戦後の日本人は「世界一勤勉な国民だ」とシリを叩かれ、働いてきた。集団就職列車に乗って、大都会の東京や大阪の大企業や工場に送り込まれてきた。日本人総出で稼ぎに稼いで、豆粒みたいな島国が一時は世界一の金満国家になったけど、今じゃあ1000兆円もの借金大国だ。

国はカネがない、増税しかないと言うけど、ぜひ聞いてみたい。日本人が汗水流して稼いだカネはどこへ消えたんですか、と。何兆円と稼いだカネが雲散霧消したのなら、この国にはどんなハイエナやハゲタカが群がっているんだ。(後略)

【日刊ゲンダイ新春特別インタビュー、2012年1月1日号より抜粋】

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「菅原文太さん、安倍政権に反対の政治活動」(「日刊スポーツ」デジタル版、2014年12月2日)

菅原さんは2012年に俳優を引退後、政治活動に熱心に取り組んだ。政治支援グループを立ち上げ、安倍政権が進める特定秘密保護法や原発再稼働などの方針に反対。米軍普天間飛行場移設問題が争点になった沖縄県知事選では、移設反対派候補の集会に参加。代表作「仁義なき戦い」のセリフを引用し、「絶対に戦争をしてはならない」と訴えた。

菅原さんは先月1日、沖縄県知事選で、普天間飛行場の名護市辺野古への移設反対を訴えた翁長雄志氏の決起集会に出席した。那覇市のスタジアムで1万人を前に「政治の役割にはふたつある。1つは、国民を飢えさせてはならない。もう1つ。絶対に戦争をしないこと」と訴えた。

「私は少年時代、なぜ竹やりを持たされたのか。今振り返っても笑止千万だ」

政治を考えるとき、自らの戦争体験があった。辺野古移設を容認し3選を目指した仲井真弘多氏を「戦争を前提に沖縄を考えている」と批判。代表作「仁義なき戦い」のラストシーンで口にした、「弾はまだ残っとるがよ」というセリフを引用し「仲井真さんに(その言葉を)ぶつけたい。沖縄は国のものではない」と主張した。翁長氏当選の流れを生んだ場になった。(後略)

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日本ペンクラブ・前会長の井上ひさし氏も「憲法」や言論の自由の自由、さらに農業の重要性をも強調されていました。

菅原氏の言葉と活動は、原発事故の現在の実態だけでなく、国民の生命の問題にも深く関わるTPP交渉をも幕末の幕府と同じように国民にはその内容を示さないままに一方的に進め、さらに「特定秘密保護法」で問題点を隠そうとしている安倍政権の危険性を明らかにしていると思われます。

菅原氏は「日刊ゲンダイ」のインタビューを「なにより2012年こそ被災地に生きる人々にとって良い一年になって欲しい。本当に祈っているよ」という言葉で結んでいました。氏の強い遺志を受け継ぎ、2015年を良い年にするためにも今回の総選挙では独裁的な傾向を強める安倍政権に対して NO という意思を示しましょう。

 

追記:「東京新聞」の朝刊にも詳しい記事が載っていましたが、サイト「デモクラ資料室」の12月2日のブログには「菅原文太さんが遺したメッセージ」が掲載されています。

 

《風立ちぬ》論Ⅳ――ノモンハンの「風」と司馬遼太郎の志

アニメ映画《風立ちぬ》が「国内の映画ランキング」の一位の座から去ったことで、早くも話題は次の映画に移り始めているようにみえます。

しかし、アニメ映画というジャンルで、文明史家とも呼べるような雄大な視野を持った司馬遼太郎氏の志を表現していると思えるこの作品については、きちんと語り続けていかねばならないでしょう。

 宮崎駿監督が「書生」として司会を務めた鼎談集『時代の風音』(朝日文庫、1997)で司馬氏は、20世紀の大きな特徴の一つとして「大量に殺戮できる兵器を、機関銃から始まって最後に核まで至るもの」を作っただけでなく、「兵器は全部、人を殺すための道具ながら、これが進歩の証(あかし)」とされてきたことを厳しく批判していました(「二十世紀とは」)。

注目したいのは、映画の終わり近くでノモンハンの草原とそこに吹く風が描かれていることです。この場面を見たときに、司馬氏の作品を評論という方法で論じてきた私は、宮崎監督が司馬氏の深く重たい思いを見事に映像化していると感じ、熱い思いがこみ上げてきました。

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司馬氏は賞賛される一方で、批判されることも多い作家でしたが、司馬作品を比較的好意的に見ている人の中にも、ことに晩年には「参謀本部」や「統帥権」の問題を鋭く分析している司馬氏が、いろいろと批判しながらノモンハンの戦車部隊をテーマにした長編小説を書かなかったことには疑問をもっている方が多いようです。

しかし、司馬氏は「書かなかった」のではなく、「書けなかった」のです。この点については誤解している方も多いと思われるので、最近〔「書かなかったこと」と「書けなかったこと」〕と題するエッセーを書きました。(同人誌『全作家』第91号)。ここではその一部を引用することで、「ノモンハンの草原に吹く風」が描かれたシーンを見たときの私の熱い思いの説明に代えたいと思います。

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「私は小説にするつもりで、ノモンハン事件のことを徹底的に調べたことがある」と記した司馬氏は、「ノモンハンは結果として七十数パーセントの死傷率」だったが、それは「現場では全員死んでるというイメージです」と作家・井上ひさし氏との対談で語るとともに、連隊長として実際に戦闘に参加した須見新一郎元大佐の証言をとおして、「敗戦の責任を、立案者の関東軍参謀が取るのではなく」、貧弱な装備で戦わされ勇敢に戦った「現場の連隊長に取らせている」と指摘し、「天幕のなかにピストルを置いて、暗に自殺せよと命じた」ことを紹介している(『国家・宗教・日本人』)。

「このばかばかしさに抵抗した」須見元大佐が退職させられたことを指摘した司馬氏は、彼のうらみはすべて「他者からみれば無限にちかい機能をもちつつ何の責任もとらされず、とりもしない」、「参謀という魔法の杖のもちぬしにむけられていた」と書いている(『この国のかたち』・第一巻)。

こうして「ノモンハン事件」を主題とした長編小説は、『坂の上の雲』での分析を踏まえて、「昭和初期」の日本の問題にも鋭く迫る大作となることが十分に予想された。しかしこの長編小説の取材のためもあり、司馬氏が元大本営参謀でシベリアでの強制労働から戻ったあとには、商事会社の副社長となり再び政財界で大きな影響力を持つようになった瀬島龍三氏と対談をしたことが、構想を破綻させることになった。

すなわち、『文藝春秋』の昭和四十九年正月号に掲載されたこの対談を読んだ須見元連隊長は、「よくもあんな卑劣なやつと対談をして。私はあなたを見損なった」とする絶縁状を送りつけ、さらに「これまでの話した内容は使ってはならない」とも付け加えていた(「司馬遼太郎とノモンハン事件」)。

この話について記した元編集者の半藤一利氏は、「かんじんの人に絶縁状を叩きつけられたことが、実は司馬さんの書く意欲を大いにそぎとった」のではないかと推測している。また、小林竜夫氏は須見元大佐がこの長編小説の主人公だったのではないかと考え、「須見のような人物を登場させることはできなく」なったことが、小説の挫折の主な理由だろうと想定している(『モラル的緊張へ――司馬遼太郎考』)。

たしかに、惚れ込んだ人物を調べつつ歴史小説を書き進めていた司馬のような作家にとって主人公を失うことは大きく、小説は「書けなくなった」と思えるのである。

  *    *   *

アニメ映画を見ていたときは、広い草原を見て司馬氏がたびたび言及している蒙古の草原のようだと漠然と感じていたのですが、半藤一利氏との対談で宮崎監督は次のように語っていたのです。

「少年時代の堀越二郎の夢に出て来る草原は、空想の世界の草原です。でも、終わりの草原は現実で、『あれはノモンハンのホロンバイル草原だよ』ってスタッフに言っていた」(『腰抜け愛国談義』文春ジブリ文庫)。

その記述を読んだ時には、宮崎監督が映像をとおして作家・司馬遼太郎氏の志を受け継ぎ、表現していると改めて強く思いました。

(2015年11月4日。訂正と追加)。