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『罪と罰』

「安倍談話」と「立憲政治」の危機(1)――明治時代の「新聞紙条例」と「安全保障関連法案」

今回は8月14日に発表された「安倍談話」の問題を取り上げます。

なぜならば、「戦後70年」の節目として語られたはずにもかかわらず、その談話ではそれよりもさらに40年も前の「日露戦争」の勝利が讃えられる一方で、「憲法」や「国会」の意義にはほとんどふれられていいなかったからです。その文章を以下に引用したあとで、それらの問題点を具体的に考察することにします。

*   *   *

「終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。」

こう語り始めた安倍氏が「歴史の教訓」の例として取り上げたのが、「立憲政治」の樹立と日露戦争の勝利でした。

「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。」(太字は引用者)

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日露戦争の勝利を讃美することの危険性については、次に考察したいと思いますが、今回はまず「明治憲法」と「国会」開設の問題を取り上げます。

自分の祖父である岸信介氏を理想視する安倍首相は、「立憲政治」の意義についてはさらりと言及しただけでしたが、日露戦争をクライマックスとした長編小説『坂の上の雲』で司馬氏が比較という手法をとおして力を込めて描いていたのは、皇帝による専制政治のもとで言論の自由がなかった帝政ロシアと、「憲法」を持ち、「国民」が自立していた日本との違いでした。

しかも、俳句の革新を行っただけでなく、新聞記者としても活躍していた正岡子規を主人公の一人としたこの長編小説では、権力におごっていた薩長藩閥政府との長く厳しい戦いをとおして、「明治憲法」が発布され、「国会」の開設に至ったことも描かれていました。

そのことは西南戦争に至る明治初期の日本を描いた長編小説『翔ぶが如く』とあわせて読むことで、いっそう明白となるでしょう。『坂の上の雲』が終わる頃から書き始められたこの長編小説では、「讒謗律(ざんぼうりつ)」や「新聞紙条例」を発布することで、江戸幕府以上に厳しく言論の自由を制限していた薩長藩閥政府の問題がくっきりと描かれているのです。

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一方、多くの憲法学者や元最高裁長官が指摘しているように「憲法」に違反している可能性の高い「安全保障関連法案」を安倍内閣は推し進め、自民・公明両党も衆議院でこの法案を強行採決しました。

特徴的なのは、この法案を審議する特別委員会で、「ヤジ」を飛ばしたりして厳しく諫められた首相が、今度は国会での審議中にもかかわらず、民間のテレビ局で自説を述べるなど、「国会」の軽視がはなはだしいことです。

さらに、参議院での議論をとおして問題がより明確になってきたにもかかわらず、自民党の高村副総裁も国民の理解が「十分得られてなくても、やらなければいけない」と述べて、「国民」の意向を無視してでも、参院でも「戦争法案」を強行採決する姿勢を明確に示しています。

その一方で高村氏は、「選挙で国民の理解が得られなければ政権を失う」と話し、次の衆議院選挙で国民の審判を仰ぐ意向を示したとのことですが、それは順序が逆で、選挙を行う前に「公約」として掲げていなかったこの法案を廃案とし、改めて次の国会で議論すべきでしょう。

なぜならば、このHPでも何度も取り上げてきたように、昨年末の総選挙の前に菅官房長官は「秘密法・集団的自衛権」は、「争点にならず」と発言していました。そして自民党も「景気回復、この道しかない」というスローガンを掲げ、「アベノミクス」を前面に出して総選挙を戦っていたからです。

安倍首相も「さきの衆院選では昨年七月の閣議決定に基づき、法制を速やかに整備することを明確に公約として掲げ、国民から支持を頂いた」と、安保法案は選挙で公約済みと強調しましたが、「東京新聞」の記事が具体的に指摘したように、昨年の選挙での自民党公約では、安保法制への言及は二百七十一番目だっただけでなく、「集団的自衛権の行使容認」は見出しにも、具体的な文言にもなかったのです。

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このように「憲法」と「国会」をとおして現在の日本の政治を見るとき、安倍首相などの言動は「70年談話」で語られた「アジアで最初に立憲政治を打ち立て独立を守り抜きました」という日本の歴史を否定し、日本の民主主義を「存亡」の危機に立たせているように感じます。

このような「憲政」の危機に際して、「心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵」を学ぶためにも、これまで誤解されてきた長編小説『坂の上の雲』をもう一度丁寧に読み直す必要があると思えます。

正岡子規を主人公として、新聞『日本』を創刊した恩人・陸羯南との関わりや夏目漱石との友情をとおして『坂の上の雲』を読むとき、これまでの解釈とはまったく違った光景が拓けてくることでしょう。

*   *   *

残念ながら、「国民の生命や安全」に深く関わるいわゆる「戦争法案」が、9月17日に民主主義の根幹を揺るがすような方法で「強行採決」されたことにより、現在の日本は「憲法」が仮死状態になったような状態だと思われます。

それゆえ、次回からは「憲法」がなく言論の自由が厳しく制限されていた帝政ロシアで書かれた長編小説『罪と罰』が、なぜ法学部で学んだ元大学生を主人公とし、弁護士との激しい論戦が描かれているのかを考察することにします。

そのことにより日本では矮小化されて解釈されることの多い長編小説『罪と罰』が現代の日本に投げかけている問題が明らかになるでしょう。

リンク→「安倍談話」と「立憲政治」の危機(2)――日露戦争の賛美とヒトラーの普仏戦争礼賛

(2016年1月28日。改題と改訂。リンク先を変更)。

 

原子雲を見た英国軍人の「良心の苦悩」と岸信介首相の核兵器観――「長崎原爆の日」に(1) 

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(長崎市に投下されたプルトニウム型原爆「ファットマン」によるキノコ雲。画像は「ウィキペディア」)。

 

7月27日付けの「朝日新聞」は、長崎への原爆投下の際に写真撮影機にオブザーバーとして搭乗し、原子雲を目撃した英国空軍大佐のチェシャーの苦悩に迫る記事を「原子雲目撃者の転身」と題して掲載していました。

すなわち、「核兵器が実際に使用される場面を軍人の目で見守らせ、今後に生かそうという首相チャーチルの意向で」派遣された空軍大佐のチェシャーは、帰国後には「原爆には戦争の意味をなくすだけの威力があり、各国が保有すればむしろ平和につながる」と軍人としては報告していました。

しかし、その直後に空軍を退役したチェシャーは、戦後に「福祉財団を立ち上げ、障害者のための施設運営に奔走」するようになるのです。

チェシャーは亡くなる前年の1991年に開かれた国際会議でも、「原爆投下が戦争を早く終結させ、多くの人の命を救った」と語ってアメリカの行為を正当化していましたが、原爆雲を観た際には「安堵と、やっと終わったという希望の後から、そのような兵器を使ったことに対する嫌悪感がこみ上げてきた」と後年、自著では振り返ってもいたのです。

このことを紹介した記事は次のように結んでいます。「やむない手段だったとの信念を抱くと同時に、原爆による人道的被害に対しては良心の苦悩も抱え続けた。原子雲の目撃者から福祉の道へ転じた歩みには、その葛藤が映っている」。

*   *   *

一方、東条内閣の閣僚として満州政策に深く関わっていた岸信介氏は、首相として復権すると自国民に地獄のような苦しみを負わせた原爆投下の罪をアメリカ政府に問うことなく、むしろその意向に迎合するかのように、国会で「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」と答弁していたのです。

それゆえ、広島への原爆投下に関わったことで深い「良心の呵責」を感じて、精神病院に収容された元パイロットと書簡を交わしていた精神科医のG・アンデルスも1960年7月31日付けの手紙で岸信介首相を次のように厳しく批判していました(『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(筑摩書房、1962年。文庫版、1987年)。

「つまるところ、岸という人は、真珠湾攻撃にはじまったあの侵略的な、領土拡張のための戦争において、日本政府の有力なメンバーの一人だったということ、そして、当時日本が占領していた地域の掠奪を組織し指導したのも彼であったということがすっかり忘れられてしまっているようだ…中略…誠実な感覚をそなえたアメリカ人ならば、この男、あるいはこの男に協力した人間と交渉を持つことを、いさぎよしとしないだろうと思う。」

私自身も「国家」を強調して「国民」には犠牲を強い、他の国民には被害を負わせた岸氏が、原爆の被害の大きさを知りつつも「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」と無責任な発言をしていたことを知ったときには、たいへん驚かされ、どのような精神構造をしているのだろうかといぶかしく思い、人間心理の複雑さを感じました。

*   *   *

そのような権力者の心理をある程度、理解できるようになったのはドイツの社会心理学者であるエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を読み、そのような視点から小林秀雄のドストエフスキー論を読み直してからのことでした

リンク→『罪と罰』とフロムの『自由からの逃走』(日高六郎訳、東京創元社、1985)

「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と長編小説『罪と罰』を解釈した文芸評論家の小林秀雄が、戦後の1946年に行われた座談会の「コメディ・リテレール」では「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」と語って、言論人としての責任を認めようとしていなかったのです。

このような小林秀雄の「罪と罰の意識」をとおして考えるとき、岸氏の心理もよく見えるようになると思われます。

つまり、独自の「非凡人の理論」によって「悪人」」と規定した「高利貸しの老婆」を殺害したラスコーリニコフは、最初は「罪の意識」を持たなかったのですが、「米英」を「鬼畜」とする戦争を主導した岸氏も自分を選ばれた特別な人間と見なしていたならば、A級戦犯の容疑に問われて拘留された巣鴨の拘置所でも「罪の意識も罰の意識も」持つことなく、復権の機会をうかがっていたことになります。

しかし、『白痴』との関連にも注目しながら、『罪と罰』のテキストを忠実に読み解くならば、ラスコーリニコフはシベリアの流刑地で「人類滅亡の悪夢」を見た後で、自分の罪の深さに気づいて精神的な「復活」を遂げたことが記されているのです。

リンク→「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」関連の記事一覧

リンク→映画《この子を残して》と映画《夢》

〈「様々な意匠」と隠された「意匠」〉を「主な研究」に掲載

先日のブログ記事では文芸評論家・小林秀雄の思想が、安倍氏のような政治家にも大きな影響を与えている可能性を指摘しました。

リンク→「戦前の無責任体系」の復活と小林秀雄氏の『罪と罰』の解釈

〈「様々な意匠」と隠された「意匠」〉と題したエッセイが『全作家』第98号に載りましたので、「主な研究(活動)」のページに掲載します。

リンク→「様々な意匠」と隠された「意匠」

安倍首相の吉田松陰観と井伊直弼の手法

「週刊誌を読む」という「東京新聞」の本日付の連載コラムには、「女性誌も巻頭で政権批判」という見出しで、「安保法案」への批判が日ごとに強まっている状況が詳しく分析されています。

現在、公共放送のNHKでは吉田松陰の妹を主人公とした大河ドラマ《花燃ゆ》が放映されていることもあり、私が強い関心を持って読んだのは、安倍首相が「吉田松陰が好んだ孟子の一節「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば千万人といえども吾(われ)往かん」を頻繁に口にしていることを指摘したフライデー』(8月7日号)の記事でした。

このことを指摘した月刊『創』編集長でもある筆者の篠田博之氏は次のようにこのコラムを締めくくっています。「主権者たる国民の意思を無視することを政治家の信念と勘違いしているとすれば、こればもう倒錯というべきだろう。」

*   *

弁護士の澤藤統一郎氏も「孟子にあっては、天子の天子たる所以は、民意に基づくところにある。天命とは、実は人民の意志にほかならない。政権は民意に背いてはならない」と説いていたとして、安倍氏の解釈の間違いを指摘しています(サイト「澤藤統一郎の憲法日記」7月22日)。

実際、独裁的な権力を行使した幕末の政治家・井伊直弼により安政の大獄で処刑されることになる思想家・吉田松陰の言葉を権力者である首相が信念としているならば、安倍首相は吉田松陰とではなく、国民の意思に逆らってアメリカと日米修好通商条約に調印した大老・井伊直弼と同じような感覚の独裁者に近いと言わねばならないでしょう。

リンク→TPPと幕末・明治初期の不平等条約

リンク→菅原文太氏の遺志を未来へ

*   *

以下に、これまでに書いた大河ドラマ《花燃ゆ》関連の記事のリンク先も記します。

リンク→大河ドラマ《龍馬伝》と「武器輸出三原則」の見直し

リンク→大河ドラマ《龍馬伝》の再放送とナショナリズムの危険性 

リンク→総選挙を終えて――若者よ、『竜馬がゆく』を読もう

 

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」関連の記事一覧

先ほど、岸元首相の「核政策」だけでなく文芸評論家・小林秀雄の「沈黙」についても言及した〈「安全保障関連法案」の危険性(2)――岸・安倍政権の「核政策」〉という記事をアップしました。

それゆえ、ここでは1962年に発行された『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(筑摩書房)をとおして小林秀雄氏の「良心」観の問題を考察した記事の一覧を副題も示す形で掲載します。(下線部をクリックすると記事にリンクします)。

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(広島に投下された原爆による巨大なキノコ雲(米軍機撮影)。キノコ雲の下に見えるのは広島市街、その左奥は広島湾。画像は「ウィキペディア」による)

 関連記事一覧

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(1)――「沈黙」という方法と「道義心」

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(2)――『カラマーゾフの兄弟』と「使嗾」の問題

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(3)――岸信介首相と「道義心」の問題

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)――良心の問題と「アイヒマン裁判」

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(5)――ムィシキン公爵と「狂人」とされた「軍人」

アインシュタインのドストエフスキー観と『カラマーゾフの兄弟』

小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計

小林秀雄の『罪と罰』観と「良心」観

 

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(5)

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(広島に投下された原爆による巨大なキノコ雲(米軍機撮影)。キノコ雲の下に見えるのは広島市街、その左奥は広島湾。画像は「ウィキペディア」による)

 

 「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(5)――ムィシキン公爵と「狂人」とされた「軍人」

『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(筑摩書房)には、水爆などが使用される危険性を指摘して戦争の廃絶を目指した「ラッセル・アインシュタイン宣言」を1955年に発表していたバートランド・ラッセルの「まえがき」も収められていました。

ラッセルはその「まえがき」を次のように書き始めています。少し長くなりますが引用して起きます。

「イーザリーの事件は、単に一個人に対するおそるべき、しかもいつ終わるとも知れぬ不正をものがたっているばかりでなく、われわれの時代の、自殺にもひとしい狂気をも性格づけている。先入観をもたない人間ならば、イーザリーの手紙を読んだ後で、彼が精神的に健康であることに疑いをいだくことのできる者はだれもいないであろう。従って私は、彼のことを狂人であると定義した医師たちが、自分たちが下したその診断が正しかったと確信していたとは、到底信ずることができない。彼は結局、良心を失った大量殺戮の行動に比較的責任の薄い立場で参加しながら、そのことを懺悔したために罰せられるところとなった。…中略…彼とおなじ社会に生きる人々は、彼が大量殺戮に参加したことに対して彼に敬意を示そうとしていた。しかし、彼が懺悔の気持ちをあらわすと、彼らはもちろん彼に反対する態度にでた。なぜならば、彼らは、彼の懺悔という事実の中に行為そのもの〔原爆投下〕に対する断罪を認めたからである」。

*   *

「あとがき」を書いたユンクによれば、イーザリー少佐は「広島でのあのおそるべき体験の後、何日間も、だれとも一言も口をきかなかった」ものの、戦後は「過去のいっさいをわすれて、ただただ金もうけに専心し」、「若い女優と結婚」してもいました。

しかし、私生活での表面的な成功にもかかわらず、イーザリー少佐は夜ごとに夢の中で、「広島の地獄火に焼かれた人びとの、苦痛にゆがんだ無数の顔」を見るようになり、「自分を罪を責める手紙」や「原爆孤児」のためのお金を日本に送ることで、「良心の呵責」から逃れようとしたのですが、アメリカ大統領が水爆の製造に向けた声明を出した年に自殺しようとしました。

自殺に失敗すると、今度は「偉大なる英雄的軍人」とされた自分の「正体を暴露し、その仮面をひきむく」ために、「ごく少額の小切手の改竄」を行って逮捕されます。しかし、法廷では彼には発言はほとんど許されずに、軽い刑期で出獄すると、今度は強盗に入って何も取らずに捕まり、「精神」を病んだ傷痍軍人と定義されたのです(ロベルト・ユンク「良心の苦悩」)。

*   *

このようなイーザリー少佐の行為は、「敵」に対して勝利するために、原爆という非人道的な「大量殺人兵器」の投下にかかわった「自分」や「国家」への鋭い「告発」があるといえるでしょう。

イーザリー少佐と手紙を交わしたG・アンデルスは、核兵器が使用された現代の重大な「道徳綱領」として「反核」の意義を次のように記しています。「いまやわれわれ全部、つまり“人類”全体が、死の脅威に直面しているのである。しかも、ここでいう“人類”とは、単に今日の人類だけではなく、現在という時間的制約を越えた、過去および未来の人類をも意味しているのである。なぜならば、今日の人類が全滅してしまえば、同時に、過去および未来の人類も消滅してしまうからである。」(55頁)。

さらに、ロベルト・ユンクも「狂人であると定義」されたイーザリー少佐の行為に深い理解を示して「われわれもすべて、彼と同じ苦痛を感じ、その事実をはっきりと告白するのが、本来ならば当然であろう。そして、良心と理性の力のことごとくをつくして、非人間的な、そして反人間的なものの擡頭と、たたかうべきであろう」と書き、「しかしながら、われわれは沈黙をまもり、落ちつきはらい、いかにも“分別を重ねつくした”かのようなふりをしているのである」と続けているのです(264-5頁)。

*   *

これらの記述を読んでドストエフスキーの研究者の私がすぐに思い浮かべたのは、「殺すなかれ」という理念を語り、トーツキーのような利己的で欲望にまみれた19世紀末のロシアの貴族たちの罪を背負うかのように、再び精神を病んでいったムィシキンのことでした。

この長編小説を映画化した黒澤映画《白痴》を高く評価したロシアの研究者や映画監督も主人公・亀田の形象にそのような人間像を見ていたはずです。

文芸評論家の小林秀雄氏も1948年の8月に行われた物理学者・湯川秀樹博士との対談「人間の進歩について」では、「私、ちょうど原子爆弾が落っこったとき、島木健作君がわるくて、臨終の時、その話を聞いた。非常なショックを受けました」と切り出し、こう続けていたのです。

「人間も遂に神を恐れぬことをやり出した……。ほんとうにぼくはそういう感情をもった」。

それにたいして湯川が太陽熱も原子力で生まれていることを指摘して「そうひどいことでもない」と主張すると、「高度に発達する技術」の危険性を指摘しながら、次のように厳しく反論していました。

「目的を定めるのはぼくらの精神だ。精神とは要するに道義心だ。それ以外にぼくらが発明した技術に対抗する力がない」(拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、139頁)。

*   *

湯川博士との対談を行った時、小林氏は日本に落とされた原爆が引き起こした悲惨さを深く認識して、水爆などが使用される危険性を指摘して戦争の廃絶を目指して平和のための活動をすることになるアインシュタインと同じように考えていたと思えます。

しかし、1965年に数学者の岡潔氏と対談で哲学者ベルグソン(1859~1941)と物理学者アインシュタイン(1879~1955)との議論に言及した小林氏は、「アインシュタインはすでに二十七八のときにああいう発見をして、それからあとはなにもしていないようですが、そういうことがあるのですか」ときわめて否定的な質問をしているのです(『人間の建設』、新潮文庫、68頁)。

この時、小林秀雄氏は「狂人であると定義」されたイーザリー少佐に深い理解を示したロベルト・ユンクが書いているように、かつて語っていた原水爆の危険性については「沈黙をまもり、落ちつきはらい、いかにも“分別を重ねつくした”かのようなふりをしている」ように思われます。

トーツキーのようなロシアの貴族の行為に深い「良心の呵責」を覚えたムィシキンをロゴージンの「共犯者」とするような独自な解釈も、小林氏のこのような「良心」解釈と深く結びついているようです。

 

リンク→

小林秀雄の『罪と罰』観と「良心」観

小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(3)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(2)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(1)

 

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)

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(広島に投下された原爆による巨大なキノコ雲(米軍機撮影)。キノコ雲の下に見えるのは広島市街、その左奥は広島湾。画像は「ウィキペディア」による)

 

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)――良心の問題と「アイヒマン裁判」

前回のブログ記事では触れませんでしたが、小林秀雄氏が『ヒロシマわが罪と罰』についての沈黙を守った最も大きな理由は、この書物ではこのころ世界を揺るがしていたアイヒマンの裁判のことにも言及されていたからではないかと私は考えています。

ドストエフスキーは『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフに、非凡人は「自分の内部で、良心に照らして、流血をふみ越える許可を自分に与える」(下線引用者)のだと説明させていました。

一方、著者の一人のG・アンデルスは、「何百万という人間、ユダヤ人、ポーランド人、ジプシーなどの、みな殺し計画にあずかり、この計画を実行にうつした人間」であるアイヒマンが、「自分は“テロの機構の中の一本の小さなネジ”にすぎなかった、そして、ヒトラーへの忠誠の誓いを誠実に実行したにすぎなかったのだと、“良心にかけて”証言しているのだ」と原爆パイロットのC・イーザリーに説明していたのです(244-5頁)。

さらにG・アンデルスは、ケネディ大統領に送った1961年1月13日付けの書簡で、アイヒマンの裁判のことにも言及しながら、原爆パイロットのC・イーザリーを次のように弁護していました。

「ちがいます。イーザリーは決してアイヒマンの同類ではありません。それどころか、まさにアイヒマンとはまったく対蹠的な、まだ望みのある実例なのです。自己の良心の欠如をメカニズムに転嫁しようとするような男とちがって、イーザリーは、メカニズムこそ良心にとっておそるべき脅威であるということを、はっきりと認めているのです。そして、そのことによって彼は、今日における道徳的な根本問題の核心を、ほんとうに突いているのです。」(218-9頁)

*   *

一方、「非凡民族」という思想にもつながるラスコーリニコフの「非凡人の理論」の危険性を軽視していた小林氏は、鼎談「英雄について」でヒトラーを「小英雄」と見なしていました。

さらに、1940年に書いた『わが闘争』の書評では「これは天才の方法である、僕はこの驚くべき独断の書を二十頁ほど読んで、もう天才のペンを感じた、僕には、ナチズムといふものが、はつきり解つた気がした、(以下略)」とヒトラーを賛美していたのです。

問題はこのような初出における記述が、『全集』に収められる際に変えられていることです。このことを果敢に指摘した菅原健史氏の考察を拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』から引用しておきます。

〈初出時と『全集』との文章の差異を克明に調べた菅原健史は、『全集』では「天才のペン」の前に、《一種邪悪なる》という言葉が加筆されていることを指摘し、そのために『全集』に依拠した多くの研究者が、戦時中から小林がヒトラーを「一種邪悪なる天才」と見破っていたとして小林の洞察力を賞讃していたことに注意を促している。

しかも菅原は、初出では引用した個所の直前には「彼(引用者注──ヒトラーのこと)は、彼の所謂主観的に考へる能力のどん底まで行く、そして其処に、具体的な問題に関しては決して誤たぬ本能とも言ふべき直覚をしつかり掴んでゐる。彼の感傷性の全くない政治の技術はみな其処から発してゐる様に思はれる」という記述があったが、その部分は『全集』では削除されていることも指摘している。〉

数学者の岡潔氏との対談『人間の建設』(新潮社)について考察した〈「不注意な読者」をめぐって(2)〉では、小林秀雄氏が「ドストエフスキーという人には、これも飛び切りの意味で、狡猾なところがあるのです」と語り、小説の構造の秘密を「かぎ出さなくてはいけないのです。作者はそういうことを隠していますから」と主張していたことを紹介した後で、私は次のような疑問を記していました。

〈小林氏は本当に「作者」が「隠していること」を「かぎ出した」のだろうか、「狡猾なところがある」のはドストエフスキーではなく、むしろ論者の方で、このように解釈することで、小林氏は自分自身の暗部を「隠している」のではないだろうか。〉

「“テロの機構の中の一本の小さなネジ”にすぎなかった」と主張したアイヒマンの「良心」の問題にも鋭く迫っていた『ヒロシマわが罪と罰』は、小林氏の「良心」解釈の問題点をも浮かび上がらせているように感じます。

リンク→『罪と罰』とフロムの『自由からの逃走』(東京創元社)

リンク→『罪と罰』と『罪と贖罪』――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(1)

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「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(1)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(2)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(3)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(5)

アインシュタインのドストエフスキー観と『カラマーゾフの兄弟』

(2015年6月18日、写真と副題を追加。2016年1月1日、関連記事を追加)

 

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(3)

「人間の進歩について」と題して1948年に行われた物理学者の湯川秀樹博士との対談で、文芸評論家の小林秀雄氏は「原子力エネルギー」を産み出した「高度に発達した技術」の問題を「道義心」の視点から厳しく批判していました。

それゆえ、原爆の投下に関わってしまったことを厳しく反省したパイロットの苦悩が描かれている著作『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』については、小林氏も「道義心」の視点から高く評価するのが当然だと思われるのです。

では、なぜ小林氏は原爆の問題を考える上で重要なこの著作に全く言及していないのでしょうか。その理由の一つは、原爆パイロットと書簡を交わしていたG・アンデルスが1960年7月31日付けの手紙で、東条内閣において満州政策に深く関わった経済官僚から大臣となった岸信介氏を次のように厳しく批判していたためだと思われます。

*   *

「つまるところ、岸という人は、真珠湾攻撃にはじまったあの侵略的な、領土拡張のための戦争において、日本政府の有力なメンバーの一人だったということ、そして、当時日本が占領していた地域の掠奪を組織し指導したのも彼であったということがすっかり忘れられてしまっているようだ。こういう事実がある以上、終戦後アメリカが彼を三年間監獄に入れたということも、決して根拠のないことではない。誠実な感覚をそなえたアメリカ人ならば、この男、あるいはこの男に協力した人間と交渉を持つことを、いさぎよしとしないだろうと思う。」

歿後30年を契機に小林氏と満州との関わりが明らかになってきましたが、座談会では、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した」と語りつつも、秘かに「良心の呵責」を覚えていたと思われる小林氏にとって、岸氏の話題は触れたくないテーマの一つだったと考えられるのです。

*   *

読者の中には、小林氏が言及していない著作との関係を考察してもあまり意味はないと考える人もいるでしょう。たしかに普通の場合は、人は自分が関心を払っていないテーマについては語らないからです。

しかし、文芸評論家の小林秀雄氏の場合は異なっているようです。長編小説『罪と罰』の筋において中年の利己的な弁護士ルージンとラスコーリニコフとの論争が、きわめて重要な役割を担っていることはよく知られています。また、このブログでは悪徳弁護士ルージンの経済理論と安倍政権の主張する「トリクルダウン理論」との類似性を指摘しました。→「アベノミクス」とルージンの経済理論

一方、小林氏の『罪と罰』論ではルージンへの言及がほとんどないのですが、それは重要な登場人物であるルージンの存在は、彼の論拠を覆す危険性を有していたからでしょう。つまり、小林氏はルージンについての「沈黙」を守る、あるいは「無視」することにより、自分の読みに読者を誘導していたと私には思えるのです。

リンク→小林秀雄の『罪と罰』観と「良心」観

 リンク→小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計

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「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(1)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(2)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(5)

アインシュタインのドストエフスキー観と『カラマーゾフの兄弟』

(2016年1月1日、関連記事を追加)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(2)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(2)――『カラマーゾフの兄弟』とイワンの苦悩

『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(1962年、筑摩書房)のドイツ語の原題は、『Off limits fu¨r das Gewissen――der Briefwechsel zwischen dem Hiroshima―Piloten Claude Eatherly und Gu¨nther Anders(良心の立ち入り禁止――広島パイロット、クロード・イーザリーとギュンター・アンデルスとの文通)』とのことで、「罪と罰」という単語は入っていません(ウムラウトの表記が分かれて示されています)。

それゆえ、文芸評論家の小林秀雄氏がこの著作に言及していなくても不自然ではないという解釈も可能です。

しかし、 [BOOKデータベース]によれば、この本の内容は下記のように紹介されていました。

【 “1945年8月6日、広島の上空で約45分間旋回した後、僚機エノラ・ゲイ号に向けて、私は「準備OK、投下!」の暗号命令を送りました。…”

後年、地獄火に焼かれる広島の人々の幻影に苦しみつづけ、〈狂人〉と目された〈ヒロシマのパイロット〉と哲学者との往復書簡集。それは、病める現代社会を告発してやまない。ロベルト・ユンクの精細な解説「良心の苦悩」を付す。】

*   *

よく知られているように長編小説『カラマーゾフの兄弟』では、自殺したスメルジャコフに自分が殺人を「使嗾」していたことに気づいたイワンが「良心の呵責」に激しく苦しむことが描かれています。

残念ながら、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と断言していた小林秀雄の『罪と罰』論が広まって以降、日本ではドストエフスキーはあまり倫理的な作家とは見られていないようです。

しかし、高校の時に『罪と罰』と出会って主人公の感情の分析の鋭さや文明論的な広い視野に驚き、続いて『白痴』では「殺すなかれ」という高い理念を語る主人公像に魅せられていた私は、自分が殺人を「使嗾」していたかもしれないことに気づいたイワンの「良心の呵責」を描いた『カラマーゾフの兄弟』にきわめて高い倫理性を見ていました。

「良心の苦悩」と名付けられた解説でロベルト・ユンクは、「広島でのあのおそるべき体験の後、イーザリーは何日間も、だれとも一言も口をきかなかったという話が伝えられている」と記し、さらにこう続けています。

「広島と長崎への原爆投下に参加したパイロットたちを、英雄視して祭り上げようとする風潮が終戦直後に起こったとき、こうした風潮の誘惑に抵抗したのは、ただひとりイーザリーだけであった。」(268~269頁、引用は1987年出版のちくま文庫による)。

それゆえ、この本を読んだ時にはイーザリーの苦しみに『カラマーゾフの兄弟』のイワンの苦悩を重ねて読み、表題に「罪と罰」というドストエフスキー作品のテーマを組み込んだ編集者の見識に感心していたのです。

リンク→小林秀雄の『罪と罰』観と「良心」観

 リンク→小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計

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アインシュタインのドストエフスキー観と『カラマーゾフの兄弟』

(2016年1月1日、関連記事を追加)

山城むつみ著『小林秀雄とその戦争の時』(新潮社、2014年)を「書評・図書紹介」に掲載

拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』の公刊は、私が予期していなかったような様々な反応を呼びましたが、昨日、発行された『ドストエーフスキイ広場』には、小林秀雄のドストエフスキー論をめぐる論考などが収められています。

比較文学者の国松夏紀氏には、論点が多く書評の対象としては扱いにくい拙著を書誌学的な手法で厳密に論じて頂きましたが、同じ頃に公刊された山城むつみ氏の『小林秀雄とその戦争の時――「ドストエフスキイの文学」の空白』の書評は私が担当しました。

『ドストエフスキイの生活』で「ネチャアエフ事件」に言及した文章を引用しながら、小林秀雄の『悪霊』論と「日中戦争の展開」との関係に注意を促しつつ、「急速にテロリズムに傾斜していった」ロシアのナロードニキの運動と、「心の清らかで純粋な人々が、ほかならぬアジアを侵略し植民地化して、まさしくスタヴローギンのように『厭はしい罪悪の遂行』に誘惑されて」いった「昭和維新の運動」との類似性の指摘は重要でしょう。

ただ、私が物足りないと観じたのは、フランス文学者であるだけでなくロシア文学にも通じており比較の重要性を認識していたはずの小林秀雄が、なぜ日本語の「正しく美しきこと」は「万国に優」るとして比較を拒絶し、「異(あだし)国」の「さかしき言」で書かれた作品を拒否した本居宣長論に傾斜していくようになるかが見えてこないことです。

また、「コメディ・リテレール」での「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」という小林秀雄の発言にも言及されていますが、同じような問題は、湯川秀樹博士との対談では、「道義心」の視点から「原子力エネルギー」の問題を鋭く指摘していた小林が、数学者との岡潔との対談では、核廃絶を実践しようとしたアインシュタインをなぜか批判的に語っていることにも見られるでしょう。

「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と断言していた小林秀雄の「富と罰」の意識は、原爆や原発事故の問題に対する日本の知識人の対応を考えるうえでも重要だと思われます。

福島第一原子力発電所事故後の日本を考える上でも重要な著作ですので、一部を注で補うような形で書評を掲載します。