高橋誠一郎 公式ホームページ

『罪と罰』

「長編小説『罪と罰』と映画《罪と罰》」を「映画・演劇評」に掲載しました

先に「映画・演劇評」にモスクワで見た演劇の感想を掲載しましたが、モスクワで留学中に見たイワン・プィリエフ監督の映画《白痴》(1958)と映画《カラマーゾフの兄弟》(1968)、そしてレフ・クリジャーノフ監督の映画《罪と罰》(1970)なども、原作を忠実に映画化しようとしていて好感が持てました。

《白痴》のムィシキンを演じたユーリー・ヤコヴレフが亀田役の森雅之の演技から強い影響を受けているとの評判や、この映画が第一部のみで終わってしまったのは、あまりに迫真の演技をしたので主役も精神を病んだからだという噂を聞いたのもモスクワの友人からでした。

映画《罪と罰》を撮ったレフ・クリジャーノフ監督が、1971年に日本で公開された際のパンフレットで、「ドストエフスキーの作品を映画化した過去の映画の中で最良の作品」として黒澤映画《白痴》を挙げていたことも後に知りました。

『罪と罰』も推理小説的な筋立てを持っていますが、日本でもヒットしたテレビ・ドラマ《刑事コロンボ》と同じように、初めから犯人やトリックを明かしつつ、犯人の心理や動機に迫るという構造なので、今回は長編小説『罪と罰』の粗筋の紹介もかねて映画《罪と罰》の映画評を掲載します。

『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、2000年)を「著書・共著」に掲載しました

『罪と罰』はドストエフスキーがそれまでの自分の体験や当時の状況を踏まえて書いた渾身の長編小説です。

「主な研究(活動)」の前史でも書きましたが、都立広尾高等学校に在学中はベトナム戦争の時期だったこともあり、文学作品だけでなく宗教書や哲学書を夢中になって読みふけっていましたが、このころに「他者」を殺すことで、「自分」を殺してしまったという哲学的な言葉が記されているドストエフスキーの『罪と罰』と出会った時には、主人公の「非凡人の理論」の検証をとおして、功利主義的な考えや「弱肉強食の思想」、さらには自己の「正義」のためには大量殺戮も辞さない近代文明のあり方の根本的な考察がなされていると感じました。

ことにエピローグで主人公が見る「人類滅亡の悪夢」からは、すでにクリミア戦争の頃から急速に進歩を遂げるようになった機雷など最新の科学兵器の登場とその使用を分析することで、第二次世界大戦で使用され、世界を破滅させることのできる量が産み出された原子爆弾の使用とその危険性をも予告するとともに、近代的な自然観の見直しの必要性をも示唆していたことに強い感動を覚えました。

1992年に混乱のロシアを訪れたことで、『罪と罰』の世界を実感することがてきましたが、1994年から1年間、ブリストル大学のロシア学科で「ロシアと日本の近代化の比較」をテーマとして研究留学することができましたが、その際にリチャード・ピース(Richard Peace)教授の著作、Dostoevsky’s Notes from Undergroundを読む中で、日本では情念的な形で理解されることの多い主人公の言説には、イギリスで生まれた功利主義の哲学やイギリスの歴史家バックルが主唱した西欧中心的な文明観への強い反発が秘められていたことを確認することができました。

そのことは哲学的な視点と比較文学の手法を組み合わせた形で一般教養科目のための教科書『「罪と罰」を読む――「正義」の犯罪と文明の危機』(刀水書房、1996年)を書くことにつながりました。

職業的な作家であったドストエフスキーは、自分の作品がより多くの読者に読まれるように、悪漢小説や家庭小説の手法などさまざまな趣向を取り入れつつ、さらにエドガー・アラン・ポーのような推理小説的な手法で、主人公のラスコーリニコフが犯した「高利貸しの老婆」殺しの犯罪の「謎」に迫っていますが、そればかりでなく、近代的な知識人である主人公の「非凡人の思想」の批判的な検証をもきちんと行っていたのです。

この教科書を使った授業が好評でしたので、文明論的な視点をより強く出した新版『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、2000年)を発行しました。ただ、一般教養科目のための教科書として書かれたこともあり、授業での説明がないと分かりにくい点もあるので、もし改版の機会があれば、一般の読者にも読みやすく文学論としても興味深く読めるようなものにしたいとも考えています。

国際ドストエフスキー・シンポジウム(1992年)の報告を「主な研究(活動)」に掲載しました

第八回国際ドストエフスキー・シンポジウムは、ソ連邦の崩壊が起きボスニア・ヘルツェゴビナでは激しい内戦が行われていた1992年にオスロで開催されました。

このような国際情勢を反映してシンポジウムでも、ロシアにおける「ナシズム(我々主義)」とも名付けられるような全体主義の傾向を批判して激しい議論を呼んだポーランドの研究者ラザリ氏の発表などが行われましたが、ドストエフスキー作品における常用暦と教会暦の問題を詳しく分析したザハーロフ氏の説得力のある発表からは、ロシアにおけるドストエフスキー研究の新しい潮流を強く感じました。

私がモスクワ大学への長期留学の際に「初期作品の研究」をテーマに選んだ理由の一つは、ソ連ではドストエフスキー作品の宗教的な側面を研究することは難しいと考えたからだったのですが、ザハーロフ氏の指摘はシベリア流刑以前の作品の傾向を具体的に明らかにするものでした。

一方、この当時のロシアでは「エリツィン(大統領)はすごい奴だ。共産党が50年もかかって証明できなかったことを、あっという間に証明した」というアネクドート(小話)が流行っていましたが、ソ連の崩壊後にロシアが直面したのは宗教や言論の自由の獲得だけでなく、経済の予想もしなかったような混乱だったのです。つまり、先の小話の「答え」は、エリツィンはアメリカのような資本主義の脅威を体験させてくれたというものですが、実際に、あるときにスーパーから品物がまったく消え失せ、次に現れた時にはそのほとんどが外国製品だったことには驚かされました。

このときの混乱がペレストロイカを主導していたゴルバチョフの頃にはあった普遍性への志向から、民族的な思考への回帰にも深く関わっているのではないかと私は感じています。

このようなロシアの状況をドストエフスキーの『鰐』の分析をとおして詳しく考察したのが、1971年に出版された主著『ドストエフスキイ:主要作品の検討』(Dostoyevsky: An Examination of the Major Novels)で、世界中のドストエフスキー研究者に強い影響を与えたピース氏の発表でした。このシンポジウムからもさまざまな研究者の方との出会いや発表をとおして多くの知的刺激を受けることができましたが、ピース教授との出会いはブリストル大学への研究留学へとつながることになりました。

「ロシア文学関連年表」のページを開設し、ドストエフスキー関連の年表を掲載しました

標記のページをようやく作成しました。

ドストエフスキー自身は1821年うまれなのですが、父親との関係が重要なので父ミハイルが生まれた1789年から初めて、日露関係を知る上でも重要なロシアからの使節団の来日とその時に帰還した漂流民を主人公とした井上靖氏の長編小説とその映画化にもふれています(日本での出来事は青い字で表記しました)。

「大国」フランスと戦争も予想される中で軍医の養成が急務となっていたロシア帝国の要望に応えて、司祭となる道を捨てて医者として「祖国戦争」に参戦した父ミハイルの生き方を考察することは、その後のロシアの歩みを知る上だけでなく、『罪と罰』という長編小説を理解する上でも重要なので「祖国戦争」についてもその後の世界史の流れにもふれながら記しました。

幕末から明治初期の日本の歴史も、長編小説『白痴』が書かれた時代と深く関わっているので詳しく書きました。1870年以降の年表についてはいずれ加筆したいと考えています。

ただ、打ち込んだのとは異なった形でパソコンの画面上には表示されていますが、パソコンの機種によっても表示が異なっているようですので、もうしばらく様子を見てから、段落の変更などを行うようにします。

国際ドストエフスキー・シンポジウム(1989年)の報告を「主な研究(活動)」に掲載しました

標記の国際ドストエフスキー・シンポジウムで、私は「『罪と罰』における〈良心〉の用法」についての考察を発表しました。

出発前には哲学的な内容の発表がどのように受け止められるかを危惧していたのですが、ヘルマン・ヘッセの深いドストエフスキー理解にも現れているように、ロシアやヨーロッパではドストエフスキー作品の哲学的な考察も進んでおり、私の発表も思いがけず高い評価を受けて下記の論文集に掲載されました。

Такахаси С. Проблема совести в романе “Преступление и наказание”//Достоевский: Материалы и исследования.Л., Наука,1990. Т.10.С.56-62.

今回、思いがけず国際ドストエフスキー学会(IDS)の情報連絡として日本側の代表コージネーターに選出されたとのご連絡を頂いた際にはしばらく躊躇しましたが、学会の様々な方々から学恩を受けてきましたのでお引き受けすることにしました。

国際学会では激論が交わされることもありますが日本のドストエフスキー研究の水準は高いので、グラナダでのシンポジウムには若手の研究者の方々にもぜひ参加して頂きたいと願っています(IDSの新しい情報については、「ドストエーフスキイの会」の「ニュースレター」やホームページの「事務局便り」をご参照ください)。

今回のモスクワでのシンポジウムではザハーロフ氏が新会長に選出されたとのことでした。近いうちにザハーロフ氏の発表にもふれている、激動の1992年に開催されたシンポジウムの報告を掲載する予定です。

 

「大地主義」と地球環境

このブログのタイトルで使っている「大地」という単語は、『虐げられた人々』や『死の家の記録』などで重要な役割を担っていたドストエフスキーの「大地(土壌)主義」から用いたものです。

この理念は『罪と罰』や『白痴』だけでなく、『カラマーゾフの兄弟』の頃までもドストエフスキーの中で脈々と続いていますので、「大地主義」と長編小説との関係についてはじっくりと考えていきたいと思っています。

ただ、ここでは「文明史家」ともいえる司馬遼太郎氏においても、「大地主義」とも呼べるような理念が近代の功利主義的な考え方に対する批判の核になっていることを指摘しておきたいと思います。

たとえば、 日本の「文明開化」を導いた福沢諭吉は、『文明論之概略』において「水火を制御して蒸気を作れば、太平洋の波濤を渡る可し」とし、「智勇の向ふ所は天地に敵なく」、「山沢、河海、風雨、日月の類は、文明の奴隷と云う可きのみ」と断じていました。

しかし、夏目漱石は自ら「俳諧的小説」と名づけた長編小説『草枕』において、「汽車程二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟(ごう)と通る」と記し、「おさき真闇(まっくら)に盲動する汽車はあぶない標本の一つである」と結んでいます。

ここには、「蒸気」を用いて「山沢、河海」などの「自然」を「文明の奴隷」とすることができるとした福沢の文明観に深い危惧の念も読み取ることができるでしょう。

そして、福沢諭吉の比較文明論的な方法を高く評価していた歴史学者の神山四郎も、福沢のこの記述については、「これは産業革命時のイギリス人トーマス・バックルから学んだ西洋思想そのものであって、それが今日の経済大国をつくったのだが、また同時に水俣病もつくったのである」と厳しく批判していました(『比較文明と歴史哲学』)。

このことは大量に流出した放射能により日本の大地や河川、さらに海が汚された今回の原発事故の場合に、より強く当てはまるでしょう。

 

歴史小説家の司馬遼太郎氏は『坂の上の雲』においては、農民が自立していた日本と「農奴」とされてしまっていたロシアの農民の状態を比較しながら、戦争の帰趨についても論じていました。

それゆえ、「大地」の重要性をよく知っていた司馬氏は、「土地バブル」の頃には、「大地」が「投機の対象」とされたために、「日本人そのものが身のおきどころがないほどに大地そのものを病ませてしまっている」ことを「明石海峡と淡路みち」(『街道をゆく』第7巻)で指摘していました。

しかもそこで、「海浜も海洋も、大地と同様、当然ながら正しい意味での公のものであらねばならない」が、「明治後publicという解釈は、国民教育の上で、国権という意味にすりかえられてきた。義勇奉公とか滅私奉公などということは国家のために死ねということ」であったと指摘した司馬氏は、「われわれの社会はよほど大きな思想を出現させて、『公』という意識を大地そのものに置きすえねばほろびるのではないか」という痛切な言葉を記していたのです。

「主な研究活動」に「『地下室の手記』の現代性――後書きに代えて」を掲載しました。

ブリストル大学名誉教授のピース氏は、イギリスで生まれた功利主義の哲学やイギリスの歴史家バックルが『イギリス文明史』に記した文明観をドストエフスキーが主人公に正面から批判させていることをイギリスの思想的潮流をもきちんとふまえて、『ドストエフスキイの「地下室の手記」を読む』で明らかにしています。

一方、ドストエフスキー論の「大家」と見なされている小林秀雄は、この作品の直後に書かれた長編小説『罪と罰』についても論じていますが、主人公ラスコーリニコフの妹の婚約者である中年の弁護士ルージンについては不思議なことにほとんど言及していません。しかし、舌先三寸で白を黒と言いくるめるような自己中心的で、功利主義的な思想の持ち主であるこの弁護士がラスコーリニコフの主要な論敵の一人であることを思い起こすならば、小林秀雄は現代の問題とも深く関わる思想的な課題から目をそらした形で『罪と罰』の解釈を行っていたといわねばならないでしょう。

このような小林秀雄のドストエフスキー論の問題は、原発事故を直視しないであたかもなかったかのように通り過ぎようとしている政府の現実認識とも通じていると感じています。問題の根は深いようですので、じっくりと考えていきたいと思います。