高橋誠一郎 公式ホームページ

『罪と罰』

「『罪と罰』とフロムの『自由からの逃走』」を「書評・図書紹介」に掲載しました

 

文芸評論家・小林秀雄の「『白痴』についてⅠ」についての考察を発表した際には、「テキストからの逃走」といういくぶん刺激的な題名を付けました。

その一番大きな理由は「ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」と原作のテキストとは全く違う解釈をして、「自分の物語」を創作していたことによります。

もう一つの理由は、自らがナチズムの迫害にあった社会心理学者のエーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』において、ヒトラーの考えと社会ダーウィニズムとの係わりに注目して、ヒトラーが「自然の法則」の名のもとに「権力欲を合理化しよう」とつとめていたことを指摘していたためです。

「神経症や権威主義やサディズム・マゾヒズムは人間性が開花されないときに起こる」としたフロムは、「これを倫理的な破綻だとした」(ウィキペディア)のですが、彼の説明は第一次世界大戦の後で経済的・精神的危機を迎えたドイツにおいて、なぜ独裁的な政治形態が現れたかを解明していると言えるでしょう。

このことに私が注目したのは、ドストエフスキーが『罪と罰』において行っていた主人公の「非凡人の理論」の批判が、「非凡民族の理論」の危険性をも示唆していたためです。

フロムが指摘した「自由からの逃走」という問題は、「内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立」しようとしたプロシア的な国家観からいまだに脱却していないと思える現在の日本の政治状況にも重なっていると思えます。

(「司馬作品から学んだことⅢ――明治6年の内務省と戦後の官僚機構」参照)。

 

「映画《野良犬》と『罪と罰』」を「映画・演劇評」に掲載誌ました

 

先日、『黒澤明研究会誌』第30号が届きました。

「白熱教室」と題して行われた映画《野良犬》についての討議の記録を中心に、本号にも様々な視点からの充実した内容の論考が満載されていますが、「巻頭言」から「編集後記」にいたるまでどの記述からも黒澤明監督に対する深い敬愛の念が感じられました。

私自身は、現在執筆中の『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」で映画《夢》を読み解く』の核となる論文の一つ「科学者(知識人)の傲慢と民衆の英知――映画《生きものの記録》と長編小説『死の家の記録』」と、エッセーを投稿しています。

ここでは「復員兵と狂犬」と題した「映画《野良犬》と『罪と罰』」論を「映画・演劇評」に掲載しました。

〈日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって〉を「主な研究(活動)」に掲載しました

 

昨日、日本トルストイ協会での講演のレジュメを掲載しましたが、懇親会の席ではドストエフスキーの日本における受容についてのご質問がありましたので、「欧化と国粋のサイクル」という比較文明学会的な視点から、この問題を考察した標記の論考を「主な研究(活動)」に掲載しました。

この論文ではトルストイには言及していませんが、第3節で日露戦争の後で書かれた夏目漱石の長編小説『三四郎』における夏目漱石の考察に触れつつ、「日露戦争」と「祖国戦争」との類似性を指摘したことが、トルストイの『戦争と平和』と比較しながら『坂の上の雲』を分析した拙著 『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』(東海教育研究所、2005年)につながることになりました。

また、この論考では『罪と罰』の受容に絞ったために、それ以前のドストエフスキーの作品には言及していませんが、クリミア戦争敗北後の価値が混乱して西欧的な価値を主張する西欧派とロシア固有の価値を主張するスラヴ派の間で激しい議論が交わされていた時期に、ドストエフスキーは「大地主義」を唱えて、改革のゆるやかな前進の可能性を探っていました。

この試みは「欧化と国粋のサイクルの克服」という視点からはきわめて重要な試みでしたが、左右の思想の激しい対立の間で両派から批判され、検閲により発行停止にあったこともあり挫折してしまいました。そればかりでなく、その後もニーチェの哲学からの強い影響を受けて、ドストエフスキーは『地下室の手記』でそれまでの理想を捨てたとして、それ以前に書かれた作品を軽視したシェストフの解釈がロシアで広く受け入れられることになったのです。

そして、日本が国際連盟から脱退して国際社会からは孤立するようになっていた日本でも、「シェストフ的な不安」が広く受け入れられ、シェストフの解釈から強い影響を受けた文芸評論家の小林秀雄も、「大地主義」の時代に書かれた『虐げられた人々』や『死の家の記録』などの長編小説を軽視していました。

拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー刀水書房、2002年)では、これらの長編小説や旅行記『冬に記す夏の印象』などの意義を詳しく考察しましたが、この著書を書いていた当時にも、日本が再び「国粋」のサイクルに入っているという強い危機感を抱いていましたが、その後の流れはますます加速しているようです。

ロシアや日本のように伝統が重んじられる国の大きな問題点は、司馬遼太郎氏が指摘していたように、特殊性が強調される一方で普遍性が軽視されて、冷静な議論がなされないためにブレーキがきかなくなって、情念に流され、革命や戦争のような破局にまで突き進んでしまう危険性が強いのです。

そのような危険性を回避するためにも、クリミア戦争敗戦後の混乱の時期にドストエフスキーが描いたこれらの作品はもう一度、真剣に読み直される必要があるでしょう。

「黒澤映画《夢》の構造と小林秀雄の『罪と罰』観」を「主な研究(活動)」に掲載しました

 

  日本比較文学会・東京支部第50回大会が日本大学文理学部で行われたのは、今から1年以上も前の2012年10月20日のことでしたが、そこで私は「黒澤明監督のドストエフスキー理解 ――黒澤映画《夢》における長編小説『罪と罰』のテーマ」と題する口頭発表を行いました。

 発表を申し込んだ当初は、副題のように映画《夢》と『罪と罰』の構造の比較のみを行うつもりでした。しかし準備を進めるなかで、現在もドストエフスキー論の「大家」とみなされている文芸評論家の小林秀雄氏の『罪と罰』論との対比をした方が、黒澤明監督の映画《夢》の特徴が明らかになるだろうと考えるようになりました。

 発表に際しては、司会者の沼野恭子氏からは適切なコメントを頂きました。また、大会の準備に当たられた関係者の方々にもたいへん遅くなりましたが、この場を借りて感謝の意を表します。

発表の際の目次は以下のとおりです。

 

  *   *   *

 

はじめに――黒澤明と小林秀雄のドストエフスキー観

  a、黒澤明監督の『白痴』観と映画《白痴》の結末

  b、長編小説『白痴』の結末と小林秀雄の解釈

    c、黒澤明のドストエフスキー観と映画《夢》

Ⅰ、『罪と罰』における夢の構造と映画《夢》

  a、映画《夢》の構造と『罪と罰』

  b、小林秀雄の『罪と罰』解釈と夢の重視

  c、「やせ馬が殺される夢」とその後の二つの夢の関連性

  d、映画《夢》の構造と土壌の描写

  e、ペテルブルグの「壮麗な眺望」とシベリアの「鬱蒼たる森」の謎

Ⅱ、『罪と罰』の「死んだ老婆が笑う夢」と第四話「トンネル」

  a、復員兵の悲鳴と「戦死した部下」たちの亡霊

  b、「死んだ老婆が笑う夢」と幽霊の話

  c、戦争の考察と「殺すこと」の問題

  d、「トンネル」における「国策」としての戦争の批判

  e、小林秀雄の戦争体験と『罪と罰』のエピローグ解釈

Ⅲ、『罪と罰』の「人類滅亡の悪夢」と第七話「鬼哭」

    a、シベリアの流刑地における「人類滅亡の悪夢」とキューバ危機

  b、小林秀雄と湯川秀樹の対談と原爆の批判

  c、第六話「赤富士」の予言性と「人類滅亡の悪夢」

   d、『罪と罰』の現代性と第七話「鬼哭」

おわりに ラスコーリニコフの「復活」と第八話「水車のある風景」

 

 「黒澤映画《夢》における長編小説『罪と罰』のテーマ」より改題(11月6日)

都築政昭著『黒澤明の遺言「夢」』(近代文芸社、2005年)を「書評・図書紹介」に掲載しました

先日、『黒澤明と小林秀雄――長編小説『罪と罰』で映画《夢》を解読する』という題名の著作を、来年の3月に発行する予定である旨を(お知らせ)の欄に記しました。

世界中を震撼させた福島第一原子力発電所の事故についての報道が、日本では次第に少なくなってきている状況は、「第五福竜丸」事件が起きた後の事態ときわめて似ているように私は感じています。

なぜ日本ではこの事件を契機に撮られた映画《生きものの記録》や原発事故を予言していた映画《夢》の評価が低いのかを明らかにするためにも、時間的にはかなりきついのですが、この著作をなんとか「第五福竜丸」事件が起きた3月には発行したいと願っています。

それゆえ、これからは学会での口頭発表や黒澤明研究会の『会誌』に発表した論文の概要を、「主な研究」や「映画・演劇評」のページに掲載していきたいと思いますが、最初にその構想が生まれるきっかけとなった都築政昭氏の『黒澤明の遺言「夢」』を簡単に紹介しておきたいと思います。

司馬遼太郎の洞察力――『罪と罰』と 『竜馬がゆく』の現代性

先のブログ記事で坂本龍馬を主人公とした『竜馬がゆく』を読んだ時には、司馬遼太郎という作家が若い頃にはおそらく、坂本龍馬と同じ時代を生きていたドストエフスキーの文学を耽読していたのだろうという推測を記しました。

その理由は『罪と罰』と 『竜馬がゆく』における「正義の殺人」の分析が、その後の歴史状況をも見事に捉えていることです。

クリミア戦争後の思想的な混乱の時代に「非凡人の理論」を編み出して、自分には「悪人」を殺すことで世直しをすることが許されていると考えた『罪と罰』の主人公の行動と苦悩を描き出したドストエフスキーは、予審判事のポルフィーリイに「もしあなたがもっとほかの理論を考え出したら、それこそ百億倍も見苦しいことをしでかしたかもしれませんよ」と批判させていました。

八五〇万人以上の死者を出した第一次世界大戦後に、ヘルマン・ヘッセはドストエフスキーの創作を「ここ数年来ヨーロッパを内からも外からも呑み込んでいる解体と混沌を、これに先んじて映し出した予言的なものであると感じる」と記していました(拙著 『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー、刀水書房、六頁)。

実際、敗戦後の屈辱感に覆われていた中で、「大国」フランスを破った普仏戦争の栄光を強調することでドイツ人の民族意識を煽ったナチス政権下のドイツでは「非凡人の理論」は「非凡民族の理論」となって、ユダヤ人の虐殺を正当化することになったのです。

*   *   *

古代中国の歴史家・司馬遷が著した『史記』を愛読していた司馬氏を特徴付けるのは、情念に流されることなく冷静に歴史を見つめる広く深い「視線(まなざし)」でしょう。

太平洋戦争後の敗戦から間もない時期に司馬氏が 『竜馬がゆく』で取り上げたのは、「黒船」による武力を背景にした「開国」要求が、日本中の「志士」たちに激しい怒りを呼び起こし、「攘夷」という形で「自分の正義」を武力で訴えようとした幕末という時代でした。そのような混乱の時代には日本でも、中国の危機の時代に生まれた「尊皇攘夷」というイデオロギーに影響された武市半平太は、深い教養を持ち、人格的にも高潔であったにもかかわらず、自分の理想を実現するために「天誅」という名前の暗殺を行う「暗殺団」さえ持つようになったのです。

司馬遼太郎氏は坂本龍馬を主人公とした『竜馬がゆく』において、武市半平太と同じような危機感を持っていた龍馬が、勝海舟との出会いで国際的な広い視野を得て、比較文明論ともいえる新しい視点から行動するようになることを雄大な構想で描き出しました。咸臨丸でアメリカを訪れていた勝海舟から、アメリカの南北戦争でも、近代兵器の発達によって莫大な人的被害を出していたことを知った龍馬は、「正義の戦争」の問題点も深く認識して、自衛の必要性だけでなく戦争を防ぐための外交的な努力の必要性も唱える思想家へと成長していくのです。

しかも、『竜馬がゆく』において幕末の「攘夷運動」を詳しく描いた司馬は、その頃の「神国思想」が、「国定国史教科書の史観」となったと歴史の連続性を指摘し、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判しているのです( 『竜馬がゆく』第2巻、「勝海舟」)。

注目したいのは、司馬氏が『坂の上の雲』を書くのと同時に幕末の長州藩に焦点を当てて『世に棲む日日』を描き、そこで戦前に徳富蘇峰によって描かれた吉田松陰とはまったく異なる、佐久間象山の元で学び国際的な視野を獲得していく若々しい松陰を描き出していることです。しかも、師の吉田松陰と高杉晋作や弟子筋の桂小五郎との精神的な深いつながりにも注意を喚起していた司馬氏は、「革命の第三世代」にあたる山県狂介(有朋)を、「革命集団に偶然まぎれこんだ権威と秩序の賛美者」と位置づけていることです(『世に棲む日日』、第3巻、「ともし火」)。

このことはなぜ司馬氏が『坂の上の雲』を書き終えたあとで『翔ぶが如く』を書き続けることで、明治八年の『新聞紙条例』(讒謗律)が発布されて、「およそ政府を批判する言論は、この条例の中の教唆扇動によってからめとられるか、あるいは国家顛覆論、成法誹毀(ひき)ということでひっかかるか、どちらかの目に遭った」時代から西南戦争に至る時代の問題点を浮き彫りにしようとしたかが分かるでしょう(第5巻「明治八年・東京」)。

現在の日本でもきちんと議論もされないままに、閣議で「特定秘密保護法案」が決定されましたが、この法案の問題点は徹底的に議論されるべきだと思います。

*   *   *

『坂の上の雲』において、日本が最終的に近代化のモデルとして選ぶことになるプロシアの「参謀本部」の問題を描くことになる司馬氏の視野の広さは、『竜馬がゆく』で新興国プロシアに言及し、『世に棲む日日』においてはアヘン戦争(1840~42)を、日本の近代化のきっかけになった戦争ときちんと位置づけていることでしょう。

拙著『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと(人文書館、2009年)では、 『竜馬がゆく』と『世に棲む日日』だけでなく、この時期を扱った『花神』などの多くの作品にも言及したために、385頁という事典なみの厚い本となりました。

司馬氏の歴史観の全体像に近づくために事項索引を作成しました。(下線部をクリックすると「著書・共著」の当該のページに飛びます)。

「坂本龍馬関連年表」を「ロシア文学関連年表」に掲載しました

 

年表Ⅰの「ドストエフスキー関連年表(1789~1881)」に続いて、「Ⅱ、坂本龍馬関連年表(1809~1869)」を「ロシア文学関連年表」に掲載しました。

*   *   *

ドストエフスキーの研究者である私が司馬遼太郎氏の研究もしている理由については、市民講座などでもたびたび質問されますが、坂本龍馬(1835~67)は、ドストエフスキー(1821~81)よりも、10年以上も遅くに生まれながらも『罪と罰』が発行された翌年に暗殺されれて亡くなっています。

その龍馬を主人公とした『竜馬がゆく』を読んだ時には、司馬遼太郎という作家が若い頃にはおそらく、坂本龍馬と同じ時代を生きていたドストエフスキーの文学を耽読していたのだろうと感じました。その理由については、稿を改めて記すことにします。

(「ロシア文学関連年表」というページは、近いうちに「年表一覧」という題名に変更する予定です)。

 

ゴロソフケル著、木下豊房訳『ドストエフスキーとカント――「カラマーゾフの兄弟」を読む』(みすず書房、1988年)を「書評・図書紹介」に掲載しました

標記の著書の書評を「書評・図書紹介」に掲載しました。

 だいぶ前に書いたもので、書評というよりも詳しい図書紹介といった性質が強いのですが、
拙著『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』における良心の問題の分析でも影響を受けており、
私にとっては重要な考察の一つです。
最近の日本においてはドストエフスキー作品の考察が、
売ることを重視した興味本位の「謎解き」に流される傾向が強くなっているようなので、
哲学的な考察を含む少し難しい内容ですが、
『カラマーゾフの兄弟』の深さと本当の面白さを知るためには、
若い読者にもぜひ読んでもらいたいと思っています。

ドストエフスキーとトルストイⅡ――『死の家の記録』と『罪と罰』をめぐって

287-8

(『欧化と国粋』刀水書房の表紙。図版はオムスクの監獄)

はじめに

前回は、雑誌『時代』や長編小説『虐げられた人々』におけるドストエフスキーのトルストイ作品への言及を考察しましたが、トルストイも1881年2月に評論家のストラーホフに出した手紙で、『虐げられた人々』を読み直して「感動した」と書いていました。

今回はグロスマンが編集したドストエフスキーの伝記や徳冨蘆花の「順禮紀行」によりながら、ストラーホフという批評家を挟んでドストエフスキーとトルストイの関係を分析することで、『死の家の記録』と『罪と罰』についてのトルストイの高い評価の意味を考察することにします(なお本稿では、題名も含めて人名の表記は、ドストエフスキーに統一します)。

 

1,「大改革」の時代と『死の家の記録』

ドストエフスキーが「大改革」の時代に自分が体験したシベリア流刑と監獄での生活を元に描いた長編小説『死の家の記録』では、この小説の書き手を自分と同じ政治犯ではなく、妻殺しの罪で捕らえられたゴリャンチコフと設定し、さらにプーシキンの短編集『ベールキン物語』のように、主人公の描いた記録を別の編者がまとめるという形をとっています。このことによって、ドストエフスキーは小説の「虚構性」を確保して検閲に対処するとともに、内容においては大胆に監獄の実態を明らかにすることができたのです。

「死の家」と名づけられている『死の家の記録』の第一章では、二五〇人ほどの囚人の半数以上が、ロシアではめずらしく読み書きできる能力をもっていたと書き、「その後わたしは、誰かがこうした資料をもとにして、教育が民衆を亡ぼすという結論を出した、という話を聞いた。それはまちがいである」と主人公のゴリャンチコフが断言しています。

つまり、農民を奴隷状態に長いことおいていたロシアでは、農民に様々な知識を与えることは、特権を与えられている「貴族」への批判を生むことになると考えられてきました。しかし、ドストエフスキーはこのような考えに対して、「教育が民衆の自己過信を育てることは、認めざるをえない。しかし、それはけっして欠点ではないはずである」と人間が自己の尊厳を持ち、貴族の間違いを正すためにも教育が必要であることを強調して、この監獄の考察においても「大改革」の当時持ち上がっていた教育の問題を中心的なテーマの一つとして持ち込んでいたのです。

『死の家の記録』の構成で注目したいのは、第一部の終わりに位置する第一一章「芝居」でドストエフスキーが、一八五一年一二月から翌年の一月までの降誕祭の期間に「軍事犯獄舎」に即席に作られた舞台で、貧弱な舞台装置だけで行われた芝居の上演を描いていることです。この上演にはドストエフスキー自身も演出家としてかかわっていましたが、それまでの監獄の構造や殺害者の心理に迫るような暗い描写の後で、この章は際だった明るさを持っています。たとえば、ドストエフスキーは主人公の筆をとおして『恋敵フィラートカとミローシカ』という劇の主人公を演じた元下士官のバクルーシンの演技について「フィラートカをわたしはモスクワとペテルブルクの劇場で何度か見たが、…中略…首都の俳優たちは、いずれもバクルーシンにおとっていた」と讃え、これ以外の劇でも「どの作品にも彼らの独自の解釈が盛られていた」と高く評価しています。これらの記述からは、ドストエフスキーが「民衆」に対する教育の必要性ばかりでなく、「大地」に根ざした「民衆」の知恵を学ぶことの重要性も指摘していたことが感じられるでしょう。

実際、主人公のゴリャンチコフは「民俗研究家の有志が、民衆芝居について新しいいままでよりもいっそう綿密な研究に専念することが、大いに望ましい」と記していますが、演劇研究者のアリトシューレルが指摘しているように『死の家の記録』における監獄での上演の描写は民衆芝居の記録としてもユニークな位置を占めていたのです。(拙著、『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2002年、第3章〈権力と強制の批判――『死の家の記録』と「非凡人の思想」〉参照)。

それゆえ、この長編小説はゲルツェンをはじめ多くの思想家から高く評価されましたが、トルストイもまた1880年に批評家のストラーホフへの手紙で、「数日来病気で、暇にまかせて『死の家』を読みました。我を忘れてあるところは読み返したりしましたが、近代文学の中でプーシキンを含めてこれ以上の傑作を知りません。作の調子ではなく、観点に驚いたのです。誠意にあふれており、自然であり、キリスト教的で、申し分のない教訓の書です」と書いています(グロスマン、松浦健三訳編「年譜(伝記、日記と資料)『ドストエフスキー全集』(別巻)、新潮社、1980年、483頁)。

そして、「私は昨日一日中初めて味わうような楽しい気持ちで過ごしました」と続けたトルストイは、「おついでの折りがありましたら何とぞよろしく御鳳声のほどお願い申し上げます」と書いていました。

この言葉を受けて、この手紙を数日後にドストエフスキーに渡していたストラーホフは、サンクト・ペテルブルク・スラヴ慈善協会の副会長だったドストエフスキーが翌年の1881年に亡くなると、その総会で追善会が行われた際には、『死の家の記録』を絶賛したトルストイの手紙を引用しつつ講演を行っていたのです。

2,ストラーホフの「回想」とトルストイ

トルストイはドストエフスキーの死を知るとストラーホフに、「私はこの人に会ったこともなし、格別交渉もなかったけれども、死なれてみると、不意に、私には、この人が、なんと言っても私に一番近い、大切な、必要な人であったことが判りました」と書いて深い哀悼の念を伝えていました(グロスマン、前掲訳書)。

ドストエフスキー死後の1883年にはストラーホフが書いた「ドストエフスキーの回想」も所収されたドストエフスキー全集の第一巻が発行されましたが、ドストエフスキーとトルストイとの関係を考える上で重要なのは、トルストイに宛てた手紙で自分の「回想」にふれたストラーホフが「執筆中小生は、絶えず胸に込み上げてくる憎悪の念と闘いながら、なんとか克服しようと努めました。彼は意地が悪くて、嫉妬深くて、ふしだらで、(中略)彼に一番よく似ている人物は『地下室』の主人公や『罪と罰』のスヴィドリガイロフ、それから『悪霊』のスタヴローギンです」と書き、「彼の小説は、根本的には自己釈明のかたまり」であると断定していたことです。

著作とともにこの手紙を受け取ったトルストイも「(前略)御作拝読しました。御書面にはいささか気が沈み、失望も致しました。しかしあなたの言われることはよく判ります。(中略)御作ではじめて彼の才能の底のところを知りました」と記して、ストラーホフへの共感を示し、これらの手紙は1914年に『L・N・トルストイ=N・N・ストラーホフ往復書簡集』第2巻に発表されました。

ただ、木下豊房氏は「ストラーホフの中傷」という文章で、「この十年ほどの間に公表された資料によって」、ストラーホフによる誹謗の背景がいくらか明らかになってきたことを指摘しています(『ドストエフスキー ――その対話的世界』(成文社、2002年、279~281頁)。

すなわち、「回想」を編むためにさまざまな資料を読む機会を得たストラーホフは、ドストエフスキーが1875年にアンナ夫人に宛てた手紙で、「あれはいやらしい神学生で、それ以上の者ではない。あれはすでに一度私を見すてた」と書き、さらに、「創作ノート」でも「聖人君子のふりをしていながら、内心は色好みで、脂ぎった粗野な淫蕩行為のためとあれば、誰であれ何であれ売り渡しかねない」と痛烈な批判をしていた文章を読んだ可能性があり、トルストイ宛の自分の書簡が将来公表されることも計算したストラーホフの「意趣返し」だっただろうと説明されているのです。

実際、『L・N・トルストイ=N・N・ストラーホフ往復書簡集』は、ドストエフスキーやトルストイの死後に発行されたので、批判されたドストエフスキーには釈明する機会は与えられず、彼についての暗い噂は一気にロシアの文壇で広がることになりました。

日本でもストラーホフの「回想」などに基づいて、作家ドストエフスキーと『悪霊』のスタヴローギンとの類似性を強調しながら、ドストエフスキーの文学を「父殺しの文学」とする新しい解釈を示した研究書がたいへんに売れて注目されましたが、黒澤明監督が映画《醜聞(スキャンダル)》で描いたように、いつの時代でも週刊誌などのレベルではゴシップ的な記述は好まれるのです。

しかし、望月哲男氏がその「読書ガイド」で記しているように、トルストイ自身はストラーホフの中傷の呪縛から生前中に解き放されていました。すなわち、『芸術とは何か』(英語版、1898年)でトルストイが、「『神と隣人への愛に発した宗教的芸術』の数少ない手本として」、『死の家の記録』を挙げていることを指摘した望月氏は、「たとえば笞打ち刑の残酷さや、それが囚人の精神に与える大きなトラウマを描いた部分が」、「トルストイに、大きな印象を与えたことも十分想像されます」と説明しているのです(望月哲男訳『死の家の記録』、2013年、光文社)。

トルストイの方が現代日本の「最先端」と自認するドストエフスキー研究者よりもドストエフスキー作品の理解が深かったといえるようです。

 

3,トルストイの『罪と罰』観

日本におけるトルストイの受容という視点から注目したいのは、日露戦争後にヤースナヤ・ポリャーナを訪れた德富蘆花にたいして『罪と罰』の高い評価を語っていたことです。このことについては、すでに『司馬遼太郎とロシア』(東洋書店、2010年)でも記しましたが、ストラーホフをも視野にいれることで、トルストイのドストエフスキー観がより明瞭になると思います。

よく知られているように、トルストイは日露戦争が勃発すると「悔い改めよ」と題する論文をイギリスの『タイムズ』に発表して、殺生を禁じている仏教国と「四海兄弟と愛を公言している」キリスト教国との戦争を厳しく批判しました。この論文は日本でも幸徳秋水と堺利彦によって翻訳され、『平民新聞』に掲載されましたが、その時には賛同しなかった徳冨蘆花は戦争の悲惨さを知って1906年にトルストイを訪れて5日間を過ごし、欧米を「腐朽せむとする皮相文明」と呼んで、力によって「野蛮」を征服しようとする英国などを厳しく批判したトルストイの発言から強い感銘を受けたのです。

私の視点から興味深いのは、自作のうちでどの作品を最も評価するかという蘆花の問いに対して、『戦争と平和』を挙げたトルストイが、そこには「愛国に過ぎたる所あり」と続けていたことです(徳冨蘆花「順禮紀行」、『明治文學学全集』第42巻、筑摩書房、昭和41年、183~186頁参照)。

トルストイが『戦争と平和』において、戦争が「人間の理性と人間のすべての本性に反する事件」と明確に規定していたことを思い起こすならば、これは意外な感じのする答えです。

しかし、大著『ロシアとヨーロッパ――スラヴ世界のゲルマン・ローマ世界にたいする文化的および政治的諸関係の概要』(1869年)を出版したロシアの思想家ダニレフスキーは、そこでトルストイの『戦争と平和』を高く評価しながら、大国フランスに勝つことによって、抑圧されていたスラヴの諸民族にも独立の気概を与えたと「祖国戦争」の意義を讃えていたのです(Данилевский,Н.Я., Россия и Европа. СПБ.,изд.Глагол и изд.С-Петербургского университета, 1995. Сс.425-426.)

さらに、ダニレフスキーは「弱肉強食」の論理を正当化する西欧列強から滅ぼされないためには、「祖国戦争」に勝利したロシア帝国を盟主とする「全スラヴ同盟」を結成して西欧列強と対抗すべきだと主張していましたが、『戦争と平和』がこのような文脈で讃美されることは、トルストイにとっては腹立たしいことだった思われます。

一方、ストラーホフは1880年に行われたプーシキン祭でのドストエフスキーの講演について、スラヴ主義者のダニレフスキーへの手紙で、「ドストエフスキーに感謝している。彼はロシア文学の名誉を救ってくれました」と記しただけでなく、「ツルゲーネフには、またまた腹がたちました」と続けていました。

ドストエフスキーは「創作ノート」に「誰であれ何であれ売り渡しかねない」とストラーホフへのいらだちを記していましたが、同じ時期にトルストイとだけではなく好戦的なスラヴ主義者のダニレフスキーとも親密な交際をしていたストラーホフには、いったいあなたの本心はどこにあるのですかと問い質したくもなります。

この意味で注目したいのは、ロシアの作家のうち誰を評価するかとの蘆花の問いに対して、トルストイが「ドストエフスキー」であると答え、さらに蘆花が『罪と罰』についての評価を問うと「甚佳甚佳(はなはだよし、はなはだよし)」とも語って、ダニレフスキーの歴史観に影響される以前のドストエフスキーの長編小説を高く評価していたことです。(ドストエフスキーとダニレフスキーとの関係については、『講座比較文明』第1巻、朝倉書店、1999年に収録された拙論「ヨーロッパ『近代』への危機意識の深化(1)――ドストエフスキーの西欧文明観」参照)。

実際、ドストエフスキーは『罪と罰』において、「弱肉強食の思想」に影響されて「高利貸しの老婆」を殺したラスコーリニコフの悲劇と苦悩を描き出すとともに、そのエピローグではシベリアの流刑地でラスコーリニコフに大地や森、泉の尊さや民衆の「英知」に気づかせて、彼の「復活」を描き出していたのです。

晩年の1906年に蘆花に語られたトルストイの『罪と罰』観が、長編小説『白痴』の主人公ムィシキンを「その値打ちを知っている者にとっては何千というダイヤモンドに匹敵する」と述べた高い評価につながっていることは確実でしょう(Достоевский,Ф.М..Полное собрание сочинений в тридцати томах,, Ленинград,Наука,Т.9.С.4 19.)。

次回はいよいよトルストイの『白痴』観に迫ってみたいと思います。

 

関連記事

ドストエフスキーとトルストイⅠ――『虐げられた人々』とその時代

リンク→ドストエフスキーとトルストイⅢ ――『白痴』と『アンナ・カレーニナ』をめぐって

(2015年12月13日、図版とリンク先を追加)

 

「『罪と罰』のテーマと《風の谷のナウシカ》――ソーニャからナウシカへ」を「映画・演劇評」に掲載しました

映画《風立ちぬ》はこれまでの集大成とも言えるようなすばらしいアニメでしたが、先日の記者会見で宮崎駿監督が引退の表明をしました。

宮崎アニメをこれから見られなくなるのは残念ですが、鼎談集『時代の風音』や対談集『半藤一利と宮崎駿の腰抜け愛国談義』に示されているように、重たいテーマをも含んでいる宮崎映画は楽しいだけではなく、複雑な歴史観や深い文明観を持っています。

今後は文学や映画との関わりをとおして宮崎監督の文明観に迫ることで、宮崎映画の現代的な意義を解き明かしていきたいと考えています。

今回は「映画・演劇評」に標記の記事を掲載しました。