高橋誠一郎 公式ホームページ

『罪と罰』

「スタンバーグ監督の映画《罪と罰》と黒澤映画《夢》」を「映画・演劇評」に掲載しました

 

文芸評論家の小林秀雄は、功利主義を主張するルージンとの対決などを省いた形で考察した1934年の「『罪と罰』についてⅠ」で、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注――ラスコーリニコフ)には現れぬ」とし、エピローグは「半分は読者の為に書かれた」と解釈していました〔六・四五、五三〕。

そして、1936年に発表した「『罪と罰』を見る」と題した映画評で小林は、スタンバーグ監督の映画《罪と罰》などを厳しく批判していたのです。

私は、スタンバーグ監督の映画を高く評価していた黒澤明が同じ年に、P・C・L映画撮影所(東宝の前身)に助監督として入社したことに注意を払うことで、黒澤映画《夢》が長編小説『罪と罰』と同じような「夢」の構造をしているのは偶然ではなく、スタンバーグ監督の映画《罪と罰》の理解などをふまえて、エピローグや「良心」などについての小林秀雄の解釈を映像という手段で批判的に考察していた可能性が強いことを示唆しました(リンク先→「小林秀雄の映画《罪と罰》評と黒澤明」)。

 

昨日は憲法の意味を国民に説くべき「憲法記念日」でしたが、幕末の志士・坂本龍馬などの活躍で勝ち取った「憲法」の意味が急速に薄れてきているように思われます。

「憲法」を否定して戦争をできる国にしようとしたナチス・ドイツがどのような事態を招いたかをきちんと認識するためにも1935年に公開されたスタンバーグ監督の映画《罪と罰》は重要でしょう。

この映画についてはあまり知られていないようなので、小林秀雄の映画評を簡単に紹介した後で、この映画の内容と現代的な意義を「映画・演劇評」で考察しました(リンク先→「スタンバーグ監督の映画《罪と罰》と黒澤映画《夢》」

 

 

「映画・演劇評」のページに「《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て」の1と2を掲載しました

 4月29日に「映画・演劇評」のページに「『罪と罰』と『罪と贖罪』――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(1)」を掲載しました。

それに関連して記したブログ記事「ドストエフスキー作品の重み――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て」で黒澤映画にも少し触れていました。 

 それゆえ、今日の「映画・演劇評」に書いた「イェンドレイコ監督と黒澤映画――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(2)」では、《ドストエフスキーと愛に生きる》のシーンと黒澤映画《八月の狂詩曲(ラプソディー)》や《デルス・ウザーラ》から受けた印象についての感想を書きました。

拙著『黒澤明と小林秀雄』、予約注文の受付開始のお知らせ

 

予約注文の受付開始のお知らせ

ようやく、拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)を脱稿しました。

 四六判上製、304頁、2500円(本体価格)で、7月に出版される予定です。
 
 この度は成文社のご厚意で、 6月末日までに予約注文をされた方には、2割引きで販売して頂くことになりました。

ご購入をご希望の方は、所属の学会・研究会名を、 所属されていない場合は本HPでご覧になったことをご記入の上、 直接、成文社のメールアドレス(info@seibunsha.net)へお申し込みください。
 
 なお、最新の目次は「著書・共著」のリンク先「近刊『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社) 」に掲載しました。

 

ドストエフスキー作品の重み――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て

 

先日、ウクライナ出身の翻訳者の日常と過去を描いたドキュメンタリー映画《ドストエフスキーと愛に生きる》を観てきました。

冒頭の夜汽車のシーンは印象的でしたが、それはスターリンの粛正によって父を失い、ナチスによるキエフ占領の際には友人のユダヤ人を虐殺された主人公の生きた暗い時代とその中で必死で生きた彼女の生き方を象徴するようなシーンだったからでしょう。

ドキュメンタリー映画なので手法は全く異なっていましたが、映像をとおして知識人の「責任」を鋭く問いかけていた黒澤監督の映画《夢》を見たあとのような重たい感銘が残りました。

ことに、長編小説『罪と罰』を『罪と贖罪』と訳したという説明からは、彼女が『罪と罰』における「良心」の用法を深く理解していると感じました。

この映画が今も上映中とのことを知った時には、現在のウクライナ情勢が影響しているのかとも考えましたが、見終わったあとでは、この映画の映像と言葉の力によるものだということが分かりました。

初めての試みとして、これから「映画・演劇評」のページに感想を記していきたいと思います。

5月2日以降も各地の映画館で上映されるようなので、映画や映画館の簡単な情報の後に、公式サイトも記しておきます。

追記:リンク先『罪と罰』と『罪と贖罪』――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(1)」

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『ドストエフスキーと愛に生きる』(2009年/スイス=ドイツ/93分/ドイツ語・ロシア語/カラー・モノクロ)

監督・脚本:ヴァディム・イェンドレイコ/出演: スヴェトラーナ・ガイヤー、アンナ・ゲッテ、ハンナ・ハーゲン、ユルゲン・クロット/製作:ミラ・フィルム

2011年山形国際ドキュメンタリー映画祭 優秀賞、市民賞の2冠を受賞

一切の妥協を許さないスヴェトラーナ・ガイヤーの織り成す深く静かな翻訳の世界と、丁寧な手仕事が繰り返される彼女の静かな日常を追う。一人の女性が歩んだ数奇な半生に寄りそう静謐な映像が、文学の力によって高められる人の営みを描き出す。

 


 

上映中:作品分数:93分

開始時間、29日、13:15、30日、13:15、19:00、1日、13:15、19:00、2日、13:15

料金:一般¥1,600 / 学生¥1,300(平日学割¥1,100)

会場:渋谷のミニシアター「渋谷アップリンク」

追記:リンク「公式サイト」 

〈スラヴのコスモロジー 「生命の水の泉」と「大地」のイデア〉を「主な研究」に掲載しました

 

2011年11月の比較文明学会のシンポジウムで「生命の水の泉」と「大地」のイデアと題した考察を発表しました。

このことについては「福島原発事故とチェルノブイリ原発事故」と題した3月12日のブログ記事でもふれて、標記の記事を「主な研究」に掲載していましたが、ブログの題名に記さないと見つけにくいことが分かりましたので、改めてこのブログでも題名を掲載することにします。

 

『黒澤明と小林秀雄』の「はじめに」を「主な研究」に掲載しました

 

 近刊『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』を、現在、鋭意執筆中です。

 すでにこのHPで何度も書いてきたように、文芸評論家・小林秀雄と黒澤明監督の『白痴』観は正反対といってもよいほどに異なっていますが、興味深いのは、「第五福竜丸」事件を契機に撮られた映画《生きものの記録》が公開された翌年の一九五六年一二月に、その二人が対談を行っていたことです。

 残念ながら、このときの対談はなぜか掲載されませんでしたが、本書では消えた「対談記事」の謎に注目しながら、二人のドストエフスキー観の比較を行っています。

 この作業をとおして、黒澤明監督の集大成ともいえる映画《夢》の構造が長編小説『罪と罰』における「夢」の構造ときわめて似ているのは、ドストエフスキー作品の解釈をめぐるほぼ半生にわたる小林秀雄との「静かなる決闘」が反映されていることを明らかにしたいと考えています。 

近刊『黒澤明と小林秀雄』の副題と目次の改訂版を、「著書・共著」に掲載しました

 

昨年末から本書の執筆に取り組んでいましたが、序章にあたる箇所を書き直す中で、第2部の独立性が強すぎることに気づきました。

また、拙著では映画《夢》だけではなく「第五福竜丸」事件の後で撮られた《生きものの記録》や《赤ひげ》、さらには《デルス・ウザーラ》なども、小林秀雄のドストエフスキー観と比較しながら考察しています。

それゆえ、全体の流れを重視して第2部を半分ほどの分量に縮小して第4章としました。

「著書・共著」のページの近刊『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)の目次案を更新するとともに、〈「罪と罰」で映画《夢》を読み解く〉という当初の副題も〈「罪と罰」をめぐる静かなる決闘〉に変更しました。

 構成などの大幅な改訂に伴い発行時期が遅れることになりますが、3月1日には成文社のHPに拙著のページ数や価格などのお知らせを掲載できるものと考えています。

 

《かぐや姫の物語》考Ⅱ――「殿上人」たちの「罪と罰」

 

ブログ記事「《かぐや姫の物語》考Ⅰ」に書いたように、高畑勲監督のアニメ映画《かぐや姫の物語》は、竹から生まれた「かぐや姫」が美しい乙女となり五人の公達や「帝」から求婚されながら、それを断って月に帰って行くという原作のSF的な筋を忠実に活かしながら、日本最古の物語を現代に甦えらせていました。

ただ、「かぐや姫の罪と罰」というこの映画のキャッチフレーズにひかれて見たこともあり、『罪と罰』のとの関連では今ひとつ物足りない面もありました。なぜならば、レフ・クリジャーノフ監督の映画《罪と罰》でもラスコーリニコフが殺した老婆たちの血で「大地を汚した」ことの「罪」を批判するソーニャの次のような言葉もきちんと描かれていたからです。

「いますぐ行って、まず、あなたが汚した大地に接吻なさい。それから全世界に、東西南北に向かって頭を下げ、皆に聞こえるようにこう言うの。『私が殺しました!』 そうすれば、神さまはあなたに再び生命を授けてくださる」(第5部第4節)。

また、ドストエフスキーには夢の中で他の惑星に行くというSF的な短編小説『おかしな男の夢』もあります。

それゆえ、「かぐや姫の罪と罰」というキャッチフレーズを持つこのアニメ映画でも福島第一原子力発電所の事故で明らかになったような環境汚染の問題が、「月」からの視線で描かれているのかもしれないとの期待を密かに抱いていたのです。

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結果的にいうとそれは過大すぎる期待でしたが、「かぐや姫の罪と罰」こそ描かれてはいないものの、庶民たちから集めた税で優雅に暮らしながらもその問題には気づかない「殿上人」たちの「罪と罰」は、きちんと描かれているという感想を持ちました。

先日のブログ記事では 『竜馬がゆく』における「かぐや姫」のテーマに言及しましたが、司馬氏は『竹取物語』が書かれたと思われる平安時代の頃の制度を鎌倉幕府の成立との関係をとおして,明治維新後の日本における「公」という理念の問題点を鋭く指摘していたのです。ここでは拙著『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』 (人文書館、2009年、120頁)からその箇所を引用しておきます。

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司馬は武士が「その家系を誇示する」時代にあって、竜馬に自分は「長岡藩才谷村の開墾百姓の子孫じゃ。土地をふやし金をふやし、郷士の株を買った。働き者の子孫よ」とも語らせているのである(四・「片袖」)。

ここで竜馬が自分を「開墾百姓の子孫」と認識していることの意味はきわめて重いと思われる。なぜならば、「公地公民」という用語の「公とは明治以後の西洋輸入の概念の社会ということではなく、『公家(くげ)』という概念に即した公」であったことを明らかにした司馬が、鎌倉幕府成立の歴史的な意義を高く評価しているからである(『信州佐久平みち、潟のみちほか』『街道をゆく』第9巻、朝日文庫)。

すなわち、司馬によれば「公地公民」とは、「具体的には京の公家(天皇とその血族官僚)が、『公田』に『公民』を縛りつけ、収穫を国衙経由で京へ送らせることによって成立していた制度」だったのである。そして、このような境遇をきらい「関東などに流れて原野をひらき、農場主になった」者たちが、「自分たちの土地所有の権利を安定」させるために頼朝を押し立てて成立させたのが鎌倉幕府だったのである。

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それゆえ、『坂の上の雲』において農民が自立していた日本と「農奴」とされてしまっていたロシアの農民の状態を比較しながら、戦争の帰趨についても論じて司馬遼太郎氏は、「海浜も海洋も、大地と同様、当然ながら正しい意味での公のものであらねばならない」が、「明治後publicという解釈は、国民教育の上で、国権という意味にすりかえられてきた」と指摘したのです。

そして「大地」の重要性をよく知っていた司馬氏は、「土地バブル」の頃には、「大地」が「投機の対象」とされたために、「日本人そのものが身のおきどころがないほどに大地そのものを病ませてしまっている」ことも指摘していました。

さらに、明治以降の日本において「義勇奉公とか滅私奉公などということは国家のために死ねということ」であったことに注意を促した司馬氏は、「われわれの社会はよほど大きな思想を出現させて、『公』という意識を大地そのものに置きすえねばほろびるのではないか」という痛切な言葉を記していたのです(『甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか』、『街道をゆく』第7巻、朝日文庫)。

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実際、司馬氏が若い頃には「俺も行くから 君も行け/ 狭い日本にゃ 住み飽いた」という「馬賊の唄」が流行り、「王道楽土の建設」との美しいスローガンによって多くの若者たちが満州に渡ったが、1931年の満州事変から始まった一連の戦争では日本人だけでも300万人を超える死者を出すことになったのです。

同じように「原子力の平和利用」という美しいスローガンのもとに、推進派の学者や政治家、高級官僚がお墨付きを出して「絶対に安全である」と原子力産業の育成につとめてきた戦後の日本でも「大自然の力」を軽視していたために2011年にはチェルノブイリ原発事故にも匹敵する福島第一原子力発電所の大事故を産み出したのです。

それにもかかわらず、「積極的平和政策」という不思議なスローガンを掲げて、軍備の増強を進める安倍総理大臣をはじめとする与党の政治家や高級官僚は、「国民の生命」や「日本の大地」を守るのではなく、今も解決されていない福島第一原子力発電所の危険性から国民の眼をそらし、大企業の利益を守るために原発の再稼働や原発の輸出などに躍起になっているように見えます。

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日本の庶民が持っていた自然観をとおして、「タケノコ」と呼ばれていた頃からの「かぐや姫」の成長を丁寧に描き出すとともに、「天」をも恐れぬ「殿上人」の傲慢さをも描き出して日本最古の物語を現代に甦えらせたアニメ映画《かぐや姫の物語》は、現代の「大臣(おおおみ)」たちの「罪」をも見事に浮き彫りにしているといえるでしょう。

名作《となりのトトロ》と同じように、時の経過とともにこの作品の評価も高まっていくものと思われます。

 

ドストエーフスキイの会、「第219回例会のご案内」と「報告要旨」を転載します

 

お知らせが遅くなりましたが、「第219回例会のご案内」と「報告要旨」を「ニュースレター」(No.120)より転載します。

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下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

                

日 時:2014年1月25日(土)午後6時~9時

場 所:千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車徒歩7分) ℡:03―3402―7854 

報告者:金 洋鮮 氏(職業:フリー、大阪外国大学地域文化東欧博士前期過程終了、新潮新人賞評論部門、最終候補「三位一体のラスコーリニコフ」)

題 目:謎のトライアングル(スヴィドリガイロフの場合)

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第219回例会報告要旨

 

 芸術作品の粋を評価するうえで欠かせない「韜晦」と「虚実皮膜」、この最も重要なふたつの要素を極めた作家が、ドストエフスキーだと思う。言い換えれば、彼の作品ほど謎とリアリティに満ちた作品は古今東西ないのではないだろうか?

 バフチンの「ドストエフスキーの詩学」によって、登場人物の対話がポリフォニックであることは、今やドストエフスキー読者にとって人口に膾炙したものとなっているが、言葉だけでなく人物そのものが多重であることを付け加えたい。

 作家はピカソに先駆けて、人物を360度の視座から捉えるキュビズム手法を、逸早くその作品に取り入れた。

それゆえ一読ぐらいでは、画期的な描写により衝撃を受けたとしても、その内容の把握はおぼつかない。

『罪と罰』は、彼の全作品においてキュビズムが最も際立った作品で、登場人物の殆どが、キュビズムを把握しやすいアンビヴァレントで描かれているということを、最も謎とされているスヴィドリガイロフと彼の恋を通して確認したい。

スヴィドリガイロフは過去においては少女姦、下男殺し、そして現行では妻を毒殺した、その背後にどれほどの闇があるのか測りようのない真っ黒な人物として現れる。

が、キルポーチンが指摘したように(スヴィドリガイロフはどこにおいても一本調子で書かれていない、彼は、一見そうみるような黒一色の人物ではない[・・・]スヴィドリガイロフは悪党、淫蕩で、シニカルであるくせに小説全体にわたって数々の善行を行うが、それは他の作中人物たちをみんな合わせたよりも多いほどである。)

また「スヴィドリガイロフこそ真の主人公」とミドルトン・マリが指摘する通り、「スヴィドリガイロフの方がラスコーリニコフよりも存在感がある」と感じる読者は結構いる。

清水孝純氏も彼のドーニャとの恋に「謎」を感じ、また(所詮彼の側からは、発動できない受身の求愛の形だったのです)と、従来とは違う新しい見解を述べている。

スヴィドリガイロフ側からすれば、〈私の気持は純粋そのものだったかもしれないし、それどころか、本気でふたりの幸福を築こうと思っていたかもしれませんものね!・・・私の受けた傷のほうがよほど大きかったようですよ!・・・〉と話が逆転する。

今回は反論を覚悟で、大胆な仮説を述べる。

ドストエフスキー作品には、森有正やモチュリスキーが述べたように、有に一大長編となるものが、一挿話として片付けられている。

一挿話を一大長編にするのも、ドストエフスキー作品を読む上での楽しみのひとつであろうし、それが整合性あるものであれば、聞くに耐えられるのでは・・・、このような思いで報告します。

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 例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

 

『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」で映画《夢》を解読する』の概要と目次案を「著書・共著」に掲載しました

 

ここのところしばらく「特定秘密保護法案」の問題と取り組んでいたために、拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」で映画《夢》を解読する』の執筆から遠ざかっていました。

まだ、完成稿の段階ではありませんが、執筆に向けて集中力を高めるためにも、その概要と目次案を先に公開することにしました。

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この著書では映画《夢》を小林秀雄の『罪と罰』観との比較を通して考察しているだけでなく、映画《生きものの記録》とドストエフスキーの『死の家の記録』との比較も行っています。

来年はビキニ沖で行われたアメリカの水爆実験により「第五福竜丸」が被爆した事件から60周年にあたりますが、この事件をきっかけに撮られた黒澤明監督の映画《生きものの記録》(1955年)は、興行的にはたいへんな失敗となりました。

前作の《七人の侍》が大ヒットしたにもかかわらず、この映画がなぜヒットしなかったのを考えることは、チェルノブイリ原発事故と同じような規模の原発事故が福島第一原子力発電所で起こり、今も収束していない日本において、国内における原発の推進や海外への販売が進められるようになった理由を「考えるヒント」にもなるでしょう。

さらに、黒澤映画を通して小林秀雄のドストエフスキー観を考察することにより、日本の一部の研究者が矮小化して伝えようとしているドストエフスキーの全体像を明らかにすることができると思います。