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小林秀雄

映画《静かなる決闘》から映画《赤ひげ》へ――拙著の副題の説明に代えて

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(《静かなる決闘》のポスター、図版は「ウィキペディア」より)

『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』を公刊したのは昨年のことになりますが、副題の一部とした黒澤映画《静かなる決闘》があまり知られていないことに気づきました。

ドストエフスキーの長編小説『白痴』を原作とした黒澤映画《白痴》の意義を知るうえでも重要だと思えますので、ここでは映画《赤ひげ》に至るまでの医師を主人公とした黒澤映画の内容を簡単に紹介しておきます。

*   *   *

1965年に公開された映画《赤ひげ》((脚本・井手雅人、小國英雄、菊島隆三、黒澤明)では、長崎に留学して最先端の医学を学んできた若い医師の保本登(加山雄三)と「赤ひげ」というあだ名を持つ師匠の新出去定(三船敏郎)との緊迫した関係が「患者」たちの治療をとおして描かれていることはよく知られています。

しかし、黒澤映画において「医者」と「患者」のテーマが描かれたのはこの作品が最初ではなく、戦後に公開された黒澤映画の初期の段階からこのテーマは重要な役割を演じていました。

たとえば、映画《白痴》(1951年)では沖縄で戦犯とされ死刑になる寸前に無実が判明した復員兵が主人公として描かれていましたが、1949年に公開された映画《静かなる決闘》(原作・菊田一夫『堕胎医』、脚本・黒澤明・谷口千吉)でも、軍医として南方の戦場で治療に当たっていた際に悪性の病気に罹っていた兵士の病気を移されてしまった医師・藤崎(三船敏郎)を主人公としていたのです。

しかも、最初の脚本では『罪なき罰』と題されていたこの映画では、自殺しようとしていたところを藤崎に助けられ見習い看護婦となっていた峰岸(千石則子)の眼をとおして、最愛の女性との結婚を強く願いながらも、病気を移すことを怖れて婚約を解消した医師が苦悩しつつも、貧しい人々の治療に献身的にあたっている姿が描かれていました。

さらに、その前年の1948年に公開された映画《酔いどれ天使》(脚本・植草圭之助・黒澤明)でも、どぶ沼のある貧しい街を背景に、闇市に君臨しつつも敗戦によって大きな心の傷を負って虚無的な生き方をしていたヤクザの松永(三船敏郎)と、「栄達に背を向けて庶民の中に」根をおろした開業医の真田(志村喬)との緊張した関係が描かれていました。

医師の真田は暴力的な脅しにも屈せずに、肺病に冒されていた松永の心身を治療して何とか更生させようとしていたのですが、真田の願いにもかかわらず、組織のしがらみから松永は殺されてしまいます。

しかし、《酔いどれ天使》の結末近くでは、肺病に冒されてこの病院に通っていた若い女子学生(久我美子)が、「ねえ、先生、理性さえしっかりしてれば結核なんてちっとも怖くないわね」と語り、医師の真田が「ああ、結核だけじゃないよ、人間に一番必要な薬は理性なんだよ!」と応じる場面があり、未来への希望も描かれていたのです。

長編小説『白痴』の主人公は、小林秀雄の解釈などではその否定的な側面が強調されていますが、ドストエフスキーはムィシキンに「治療者」としての性質も与えていました。それゆえ、医師を主人公としたこれらの映画は、長編小説『白痴』をより深く理解する助けにもなると思われます。

(2015年12月9日、図版を追加)

リンク→『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)

原子雲を見た英国軍人の「良心の苦悩」と岸信介首相の核兵器観――「長崎原爆の日」に(1) 

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(長崎市に投下されたプルトニウム型原爆「ファットマン」によるキノコ雲。画像は「ウィキペディア」)。

 

7月27日付けの「朝日新聞」は、長崎への原爆投下の際に写真撮影機にオブザーバーとして搭乗し、原子雲を目撃した英国空軍大佐のチェシャーの苦悩に迫る記事を「原子雲目撃者の転身」と題して掲載していました。

すなわち、「核兵器が実際に使用される場面を軍人の目で見守らせ、今後に生かそうという首相チャーチルの意向で」派遣された空軍大佐のチェシャーは、帰国後には「原爆には戦争の意味をなくすだけの威力があり、各国が保有すればむしろ平和につながる」と軍人としては報告していました。

しかし、その直後に空軍を退役したチェシャーは、戦後に「福祉財団を立ち上げ、障害者のための施設運営に奔走」するようになるのです。

チェシャーは亡くなる前年の1991年に開かれた国際会議でも、「原爆投下が戦争を早く終結させ、多くの人の命を救った」と語ってアメリカの行為を正当化していましたが、原爆雲を観た際には「安堵と、やっと終わったという希望の後から、そのような兵器を使ったことに対する嫌悪感がこみ上げてきた」と後年、自著では振り返ってもいたのです。

このことを紹介した記事は次のように結んでいます。「やむない手段だったとの信念を抱くと同時に、原爆による人道的被害に対しては良心の苦悩も抱え続けた。原子雲の目撃者から福祉の道へ転じた歩みには、その葛藤が映っている」。

*   *   *

一方、東条内閣の閣僚として満州政策に深く関わっていた岸信介氏は、首相として復権すると自国民に地獄のような苦しみを負わせた原爆投下の罪をアメリカ政府に問うことなく、むしろその意向に迎合するかのように、国会で「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」と答弁していたのです。

それゆえ、広島への原爆投下に関わったことで深い「良心の呵責」を感じて、精神病院に収容された元パイロットと書簡を交わしていた精神科医のG・アンデルスも1960年7月31日付けの手紙で岸信介首相を次のように厳しく批判していました(『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(筑摩書房、1962年。文庫版、1987年)。

「つまるところ、岸という人は、真珠湾攻撃にはじまったあの侵略的な、領土拡張のための戦争において、日本政府の有力なメンバーの一人だったということ、そして、当時日本が占領していた地域の掠奪を組織し指導したのも彼であったということがすっかり忘れられてしまっているようだ…中略…誠実な感覚をそなえたアメリカ人ならば、この男、あるいはこの男に協力した人間と交渉を持つことを、いさぎよしとしないだろうと思う。」

私自身も「国家」を強調して「国民」には犠牲を強い、他の国民には被害を負わせた岸氏が、原爆の被害の大きさを知りつつも「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」と無責任な発言をしていたことを知ったときには、たいへん驚かされ、どのような精神構造をしているのだろうかといぶかしく思い、人間心理の複雑さを感じました。

*   *   *

そのような権力者の心理をある程度、理解できるようになったのはドイツの社会心理学者であるエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』を読み、そのような視点から小林秀雄のドストエフスキー論を読み直してからのことでした

リンク→『罪と罰』とフロムの『自由からの逃走』(日高六郎訳、東京創元社、1985)

「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と長編小説『罪と罰』を解釈した文芸評論家の小林秀雄が、戦後の1946年に行われた座談会の「コメディ・リテレール」では「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」と語って、言論人としての責任を認めようとしていなかったのです。

このような小林秀雄の「罪と罰の意識」をとおして考えるとき、岸氏の心理もよく見えるようになると思われます。

つまり、独自の「非凡人の理論」によって「悪人」」と規定した「高利貸しの老婆」を殺害したラスコーリニコフは、最初は「罪の意識」を持たなかったのですが、「米英」を「鬼畜」とする戦争を主導した岸氏も自分を選ばれた特別な人間と見なしていたならば、A級戦犯の容疑に問われて拘留された巣鴨の拘置所でも「罪の意識も罰の意識も」持つことなく、復権の機会をうかがっていたことになります。

しかし、『白痴』との関連にも注目しながら、『罪と罰』のテキストを忠実に読み解くならば、ラスコーリニコフはシベリアの流刑地で「人類滅亡の悪夢」を見た後で、自分の罪の深さに気づいて精神的な「復活」を遂げたことが記されているのです。

リンク→「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」関連の記事一覧

リンク→映画《この子を残して》と映画《夢》

武藤貴也議員の核武装論と安倍首相の核認識――「広島原爆の日」の前夜に

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(広島に投下されたウラン型原子爆弾「リトルボーイ」によるキノコ雲。画像は「ウィキペディア」)

 

このブログでは1962年に発行された『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(筑摩書房)を分析することにより、「地獄火に焼かれる広島の人々の幻影に苦しみつづけ、〈狂人〉と目された〈ヒロシマのパイロット〉」と文芸評論家・小林秀雄の良心観を比較することで、「原爆」の問題と「道義心」の問題を5回にわたって考察してきました。

明日はまた「広島原爆の日」が訪れますが、日本における「原子力エネルギー」の危険性の認識は深まりを見せていないどころか、岸政権以降、徐々に風化が進んで安倍政権下での「安全保障関連法案」にまで至ってしまったように思えます。

このことを痛感したのは、〈武藤貴也議員の発言と『永遠の0(ゼロ)』の歴史認識・「道徳」観〉と題したブログ記事を書くために、武藤貴也議員(36才)のことを調べている中で、彼が「わが国は核武装するしかない」という論文を月刊『日本』の2014年4月22日号に投稿していたことが分かったからです。

今回は武藤氏の論文の内容を批判的な視点からごく簡単に紹介した後で、「安全保障関連法案」を衆議院で強行採決した安倍首相の核認識との関わりを分析することにします。

*   *

武藤 日本は自力で国を守れるように自主核武装を急ぐべきなのです。日本の核武装反対論は、論理ではなく感情的なものです。かつて広島、長崎に原爆を落とされた国として核兵器を許さないという心情的レベルで反核運動が展開されてきたのです。しかし、中国の台頭、アメリカの衰退という国際情勢の変化に対応して、いまこそ日本の核武装について、政治家が冷静な議論を開始する必要があると思っています。

核武装のコストについては様々な試算がありますが、私は安上がりな兵器だと考えています。何より、核の抑止力によって戦争を抑止することができます。核武装国家同士は戦争できないからです。」

ここでは二つの問題点を指摘しておきます。まず、第一点は「日本の核武装反対論は、論理ではなく感情的なものです」と記されていますが、1948年の時点で小林秀雄が明確に「原子力エネルギー」の危険性をきわめて論理的に、しかも「道義心」の面からも明らかにしていたことです。

次に、日本の核武装の理由として「核武装国家同士は戦争できないからです」と断言していますが、おそらく武藤氏は「キューバ危機」の際には核戦争の寸前までなっていたが、アメリカとソ連首脳の決断であやうく回避できたという歴史的な事実を軽視しているように思われます。もし、「きわめて情念的な」安倍首相があのときアメリカの大統領だったならば、核戦争は避けられなかった可能性が高いと思われるのです。

では、なぜ若い武藤議員が「日本の核武装」を唱えるようになったのでしょうか。 「小渕内閣時代の1999年10月に防衛政務次官に就任した西村眞悟氏は『核武装の是非について、国会で議論しよう』と述べて、辞任に追い込まれました。中川昭一氏も非核三原則見直し論議や核武装論議を提起しましたが、誰も彼に同調しようとしませんでした」という武藤氏の文章はその理由を明快に説明しているでしょう。

つまり、戦争の時代をよく知っている議員が力を持っていた小渕内閣の頃には、「日本の核武装」論は自民党内でもタブーだったのです。

このような党内の雰囲気が変わり始めたのは、安倍晋三氏が官房副長官になったころからのようです。ブログに掲載されている情報では、2002年2月に早稲田大学で行った講演会における田原総一朗との質疑応答では、「小型であれば原子爆弾の保有や使用も問題ない」と発言したと『サンデー毎日』 (2002年6月2日号)が報じて物議を醸していたのです(太字は引用者)。

この際に安倍氏は国会で「使用という言葉は使っていない」と記事内容を否定し、政府の“政策”としては非核三原則により核保有はあり得ないとしながらも、岸内閣の国会答弁によりながら憲法第九条第二項は、国が自衛のため戦力として核兵器を保持すること自体は禁じていないとの憲法解釈を示していたのです。

安倍氏が首相のときに選挙で当選した武藤氏は、安倍氏に気に入られようとしたこともあり、「日本の核武装」論を安倍氏の主張にそった形でより強く主張していたのだと思われるのです。

*   *   *

今日(5日)の参院平和安全法制特別委員会では、中谷元・防衛相は安全保障関連法案に基づく他国軍への後方支援をめぐり、核兵器の運搬も「法文上は排除していない」と答弁したとの仰天するようなニュースも飛び込んで来ました。このニュースについては詳しい続報が出たあとで考察するにします。

〈「様々な意匠」と隠された「意匠」〉を「主な研究」に掲載

先日のブログ記事では文芸評論家・小林秀雄の思想が、安倍氏のような政治家にも大きな影響を与えている可能性を指摘しました。

リンク→「戦前の無責任体系」の復活と小林秀雄氏の『罪と罰』の解釈

〈「様々な意匠」と隠された「意匠」〉と題したエッセイが『全作家』第98号に載りましたので、「主な研究(活動)」のページに掲載します。

リンク→「様々な意匠」と隠された「意匠」

安倍首相の吉田松陰観と井伊直弼の手法

「週刊誌を読む」という「東京新聞」の本日付の連載コラムには、「女性誌も巻頭で政権批判」という見出しで、「安保法案」への批判が日ごとに強まっている状況が詳しく分析されています。

現在、公共放送のNHKでは吉田松陰の妹を主人公とした大河ドラマ《花燃ゆ》が放映されていることもあり、私が強い関心を持って読んだのは、安倍首相が「吉田松陰が好んだ孟子の一節「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば千万人といえども吾(われ)往かん」を頻繁に口にしていることを指摘したフライデー』(8月7日号)の記事でした。

このことを指摘した月刊『創』編集長でもある筆者の篠田博之氏は次のようにこのコラムを締めくくっています。「主権者たる国民の意思を無視することを政治家の信念と勘違いしているとすれば、こればもう倒錯というべきだろう。」

*   *

弁護士の澤藤統一郎氏も「孟子にあっては、天子の天子たる所以は、民意に基づくところにある。天命とは、実は人民の意志にほかならない。政権は民意に背いてはならない」と説いていたとして、安倍氏の解釈の間違いを指摘しています(サイト「澤藤統一郎の憲法日記」7月22日)。

実際、独裁的な権力を行使した幕末の政治家・井伊直弼により安政の大獄で処刑されることになる思想家・吉田松陰の言葉を権力者である首相が信念としているならば、安倍首相は吉田松陰とではなく、国民の意思に逆らってアメリカと日米修好通商条約に調印した大老・井伊直弼と同じような感覚の独裁者に近いと言わねばならないでしょう。

リンク→TPPと幕末・明治初期の不平等条約

リンク→菅原文太氏の遺志を未来へ

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以下に、これまでに書いた大河ドラマ《花燃ゆ》関連の記事のリンク先も記します。

リンク→大河ドラマ《龍馬伝》と「武器輸出三原則」の見直し

リンク→大河ドラマ《龍馬伝》の再放送とナショナリズムの危険性 

リンク→総選挙を終えて――若者よ、『竜馬がゆく』を読もう

 

「戦前の無責任体質」の復活と小林秀雄氏の『罪と罰』の解釈

本日付けの『日刊ゲンダイ』は、「新国立競技場」建設計画の「白紙撤回」について、森元首相が22日の記者会見で「(責任の所在が)どこにあるのかというのは難しく、犯人を出してもプラスはない」と語ったと伝えるとともに、元法大教授五十嵐仁氏(政治学)の次のような批判を紹介しています。

「政治思想史の丸山真男氏は、日本が無謀な戦争に突き進んだ理由として『無責任の体系』を挙げました。…中略…戦後70年の今も、同じく、無責任の体系が脈々と息づいているとしか思えません」。

実際、新しい国立競技場を当初よりおよそ900億円多い2520億円をかけて建設しようとする計画は、多くの国民の反対の声により「白紙撤回」になりましたが、安倍首相や森元首相は人ごとのようにこの問題の責任を取ろうとしていません。

関連装備も含めると総計で約3600億円にものぼるとされ、また国内での事故の危険性も指摘されているオスプレイの購入を決めたことの責任も問われねばならないでしょう。

その思想が危険視されることの多い安倍首相が、アメリカの議会から温かく受け入れられた一因は、日本の国民の大切な資金を差し出していたからだとも思えます。

リンク→安倍政権の経済感覚――三代目の「ボンボン」に金庫を任せて大丈夫か

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 今日は少し早めに帰宅して原稿に取り組もうと思っていたのですが、新聞一面の「無責任国家」という大きな文字を車内で見ているうちに、このような「国家」を復活させた一因は、どこにあったのかということがきちんと問わねばこの問題は、ずっと続いていくだろうという不安にとらわれました。

このような「戦前の無責任体系」の復活は、日本の代表的な知識人であった文芸評論家・小林秀雄の『罪と罰』観とも無縁ではないと思われます。

「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と解釈した小林秀雄は、「コメディ・リテレール」では「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」と語って、言論人としての責任を認めようとしなかったのです。

「アベ政治を許さない」という国民の切実な思いが記されたチラシを目にする機会が増えましたが、このような「無責任」な「アベ政治」を生み出した思想もきちんと解明する必要があるでしょう。

リンク→「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」関連の記事一覧

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」関連の記事一覧

先ほど、岸元首相の「核政策」だけでなく文芸評論家・小林秀雄の「沈黙」についても言及した〈「安全保障関連法案」の危険性(2)――岸・安倍政権の「核政策」〉という記事をアップしました。

それゆえ、ここでは1962年に発行された『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(筑摩書房)をとおして小林秀雄氏の「良心」観の問題を考察した記事の一覧を副題も示す形で掲載します。(下線部をクリックすると記事にリンクします)。

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(広島に投下された原爆による巨大なキノコ雲(米軍機撮影)。キノコ雲の下に見えるのは広島市街、その左奥は広島湾。画像は「ウィキペディア」による)

 関連記事一覧

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(1)――「沈黙」という方法と「道義心」

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(2)――『カラマーゾフの兄弟』と「使嗾」の問題

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(3)――岸信介首相と「道義心」の問題

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)――良心の問題と「アイヒマン裁判」

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(5)――ムィシキン公爵と「狂人」とされた「軍人」

アインシュタインのドストエフスキー観と『カラマーゾフの兄弟』

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小林秀雄の『罪と罰』観と「良心」観

 

「安全保障関連法案」の危険性(2)――岸・安倍政権の「核政策」

『ゴジラの哀しみ』、桜美林大学

〈「安全保障関連法案」の危険性――「国民の生命」の軽視と歴史認識の欠如〉と題した7月3日のブログ記事を私は次のように結んでいました。

「なお、原水爆の危険性を軽視した岸信介政権と同じように、原水爆だけでなく原発の問題も軽視している安倍晋三政権の危険性については、別の機会に改めて論じたいと思います。」

これを書いた時に意識していたのは、なかなか言及する暇がなかった5月24日の「東京新聞」朝刊第1面の〈核兵器禁止 誓約文書も賛同せず 被爆国で「核の傘」 二重基準露呈〉という北島忠輔氏の署名入りの記事のことでした。以下にその主な箇所を引用しておきます。

*   *

「核なき世界」に向け国連本部で開かれた核拡散防止条約(NPT)再検討会議は二十二日、四週間の議論をまとめた最終文書を採択できず決裂、閉幕した。被爆七十年を迎える日本は、唯一の被爆国として核兵器の非人道性を訴えたが、核の被害を訴えながら、米国の「核の傘」のもと、核を否定できない非核外交の二面性も浮かんだ。

会議では、核兵器の非人道性が中心議題の一つとなった。早急な核廃絶を訴える一部の非保有国の原動力となり、オーストリアが提唱した核兵器禁止への誓約文書には、会議前には約七十カ国だった賛同国が閉幕時には百七カ国まで増えた。…中略…日本は「核保有国と非保有国に共同行動を求める」(岸田文雄外相)との姿勢で臨んだが、両者が対立する問題では橋渡し役を果たせなかった。また、早急な核廃絶に抵抗する保有国と足並みをそろえて誓約文書に反対する立場をとった。」

*   *

この記事から浮かんでくるのは、世界で唯一の被爆国でありながら「誓約文書に反対する立場」をとる安倍政権の奇妙な姿勢ですが、その方向性は安倍首相の祖父・岸信介の政権で決められていたように思えます。

なぜならば、毎日新聞が1月18日朝刊の第1面で〈日米が「核使用」図上演習〉という題名で、「米公文書」で明らかになった次のような事実を示していたからです。以下にその主な箇所を引用しておきます。

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「70年前、広島、長崎への原爆投下で核時代の扉を開いた米国は、ソ連との冷戦下で他の弾薬並みに核を使う政策をとった。54年の水爆実験で第五福竜丸が被ばくしたビキニ事件で、反核世論が高まった被爆国日本は非核国家の道を歩んだが、国民に伏せたまま制服組が核共有を構想した戦後史の裏面が明るみに出た。(中略)58年2月17日付の米統合参謀本部文書によると、57年9月24~28日、自衛隊と米軍は核使用を想定した共同図上演習『フジ』を実施した。」

そして、「当時の岸信介首相は『自衛』のためなら核兵器を否定し得ないと国会答弁」しており、「核保有の選択肢を肯定する一部の発想は、その後も岸発言をよりどころに暗々裏に生き続けている」と指摘した日米史研究家の新原昭治氏の話を紹介しているのです。

つまり、「東条英機」内閣の重要な閣僚として「鬼畜米英」を唱えて「国民」を悲惨な戦争に駆り立てた岸首相は、戦後にはアメリカの「核政策」を批判するどころかその悲惨さを隠蔽して、「核兵器」の使用さえも認めていたのです。

このような岸首相の「核政策」が、いまだにアメリカのアンケートでは「核の使用」を正当化する比率が半数を超えているという現状だけでなく、核戦争など人類が生み出した技術によって、世界が滅亡する時間を午前0時になぞらえた「終末時計」が、再び「残り3分」になったと今年の科学誌『原子力科学者会報』で発表されたような事態とも直結しているとも思えます。

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(「キャッスル作戦・ブラボー(ビキニ環礁)」の写真。図版は「ウィキペディア」より)

(製作: Toho Company Ltd. (東宝株式会社) © 1954。図版は露語版「ウィキペディア」より)

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このような日本政府の「核政策」は、日本の「代表的な知識人」である小林秀雄の言説にも反映しているようです。

すなわち、1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、戦争に対して不安を抱いた同人の林房雄が「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけられると「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていた小林秀雄は、湯川秀樹との対談では、「原子力エネルギー」と「高度に発達した技術」の問題を「道義心」を強調しながら厳しく批判していたにもかかわらず、「原子力の平和利用」が「国策」となると沈黙してしまったのです(太字は引用者、「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁。不二出版、復刻版、2008~2011年)。

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「東京新聞」は今日(7月7日)夕刊の署名記事で、原発再稼働の政府方針を受けて「火山の巨大噴火リスクや周辺住民の避難計画の不十分さなどいくつも重要な問題が山積したまま、九州電力川内原発1号機(鹿児島県)が、再稼働に向けた最終段階に入った」ことを伝えています。

さらにこの記事は、「巨大噴火の場合は、現代の科学による観測データがなく、どんな過程を経て噴火に至るかよく分かっていない」などとの火山の専門家からの厳しい指摘があるだけでなく、「避難計画は、国際原子力機関(IAEA)が定める国際基準の中で、五つ目の最後のとりでとなる」にもかかわらず、「避難住民の受け入れ態勢の協議などはほとんどされていない」ことも紹介しています。

「周辺住民の避難計画」も不十分なままで強引に原発再稼働を進めようとする安倍政権の姿勢からは、満州への移民政策を進めながら戦争末期には多くの移民を「棄民」することになった岸信介氏の政策にも通じていると感じます。

両者の政策に共通なのは、スローガンは威勢がよいが長期的な視野を欠き、利益のために「国民の生命」をも脅かす危険な政策であることです。

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(作成:Toho Company, © 1955、図版は「ウィキペディア」より)

リンク→小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計

リンク→「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」関連の記事一覧

 

アインシュタインのドストエフスキー観と『カラマーゾフの兄弟』

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(Oren J. Turnerによる写真1947年。「ウィキペディア」より)

 

アインシュタインのドストエフスキー観 

これまで5回にわたって文芸評論家・小林秀雄氏と数学者の岡潔氏との対談『人間の建設』(新潮社、1965年)にも注意を払いながら、1962年に発行された『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(筑摩書房)における「良心」の問題を考察してきました。

読者の中にはここまでこだわらなくてもよいと考える方も少なくないと思われますので、最後にこの問題とドストエフスキー研究者としての私とのかかわりを簡単に確認しておきます。

アメリカの大統領にナチス・ドイツが核兵器の開発をしていることを示唆した自分の手紙が核兵器の開発と日本へ投下につながったことを知った物理学者のアインシュタインは、その後、核兵器廃絶と戦争廃止のための努力を続け、それは水爆などが使用される危険性を指摘して戦争の廃絶を目指した「ラッセル・アインシュタイン宣言」として結実していました。

注目したいのは、そのアインシュタインがドストエフスキーについて、「彼はどんな思想家よりも多くのものを、すなわちガウスよりも多くのものを私に与えてくれる」と述べていたことです。(クズネツォフ、小箕俊介訳『アインシュタインとドストエフスキー』れんが書房新社、1985年、9頁)。

ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』でイワンに非ユークリッド幾何学についても語らせていますので、アインシュタインの言葉はこの小説における複雑な人間関係や人間心理の鋭い考察から、彼が哲学的・科学的な強いインスピレーションを得たと考えることも可能です。

しかし、それとともに重視すべきと思われるのは、『カラマーゾフの兄弟』では自分の言葉がスメルジャコフに「父親殺し」を「教唆」していたことに気づいたイワンが、深い「良心の呵責」に襲われ意識混濁や幻覚を伴う譫妄症にかかっていたことです。

殺人を実行したわけではなく、言葉や思想による「使嗾」だけにもかかわらず苦しんだイワンの心理をこれほどに深く描いたドストエフスキーに私は倫理的な作家を見いだしていましたが、広島や長崎に原爆が投下されたことを知った後のアインシュタインの言動も、原爆パイロット・イーザリー少佐に重なる言動が少なくないと言えるでしょう。

一方、それまでの自分の『カラマーゾフの兄弟』観を覆して、「アリョーシャというイメージを創(つく)るのですが、あれは未完なのです。あのあとどうなるかわからない。また堕落させるつもりだったらしい」と語った小林氏の解釈は、イワンの「良心の呵責」という重たい倫理的なテーマをもあやふやにしてしまっていると思われます。

 

リンク→「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(5)

リンク→『罪と罰』と『罪と贖罪』――《ドストエフスキーと愛に生きる》を観て(1)

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(5)

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(広島に投下された原爆による巨大なキノコ雲(米軍機撮影)。キノコ雲の下に見えるのは広島市街、その左奥は広島湾。画像は「ウィキペディア」による)

 

 「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(5)――ムィシキン公爵と「狂人」とされた「軍人」

『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(筑摩書房)には、水爆などが使用される危険性を指摘して戦争の廃絶を目指した「ラッセル・アインシュタイン宣言」を1955年に発表していたバートランド・ラッセルの「まえがき」も収められていました。

ラッセルはその「まえがき」を次のように書き始めています。少し長くなりますが引用して起きます。

「イーザリーの事件は、単に一個人に対するおそるべき、しかもいつ終わるとも知れぬ不正をものがたっているばかりでなく、われわれの時代の、自殺にもひとしい狂気をも性格づけている。先入観をもたない人間ならば、イーザリーの手紙を読んだ後で、彼が精神的に健康であることに疑いをいだくことのできる者はだれもいないであろう。従って私は、彼のことを狂人であると定義した医師たちが、自分たちが下したその診断が正しかったと確信していたとは、到底信ずることができない。彼は結局、良心を失った大量殺戮の行動に比較的責任の薄い立場で参加しながら、そのことを懺悔したために罰せられるところとなった。…中略…彼とおなじ社会に生きる人々は、彼が大量殺戮に参加したことに対して彼に敬意を示そうとしていた。しかし、彼が懺悔の気持ちをあらわすと、彼らはもちろん彼に反対する態度にでた。なぜならば、彼らは、彼の懺悔という事実の中に行為そのもの〔原爆投下〕に対する断罪を認めたからである」。

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「あとがき」を書いたユンクによれば、イーザリー少佐は「広島でのあのおそるべき体験の後、何日間も、だれとも一言も口をきかなかった」ものの、戦後は「過去のいっさいをわすれて、ただただ金もうけに専心し」、「若い女優と結婚」してもいました。

しかし、私生活での表面的な成功にもかかわらず、イーザリー少佐は夜ごとに夢の中で、「広島の地獄火に焼かれた人びとの、苦痛にゆがんだ無数の顔」を見るようになり、「自分を罪を責める手紙」や「原爆孤児」のためのお金を日本に送ることで、「良心の呵責」から逃れようとしたのですが、アメリカ大統領が水爆の製造に向けた声明を出した年に自殺しようとしました。

自殺に失敗すると、今度は「偉大なる英雄的軍人」とされた自分の「正体を暴露し、その仮面をひきむく」ために、「ごく少額の小切手の改竄」を行って逮捕されます。しかし、法廷では彼には発言はほとんど許されずに、軽い刑期で出獄すると、今度は強盗に入って何も取らずに捕まり、「精神」を病んだ傷痍軍人と定義されたのです(ロベルト・ユンク「良心の苦悩」)。

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このようなイーザリー少佐の行為は、「敵」に対して勝利するために、原爆という非人道的な「大量殺人兵器」の投下にかかわった「自分」や「国家」への鋭い「告発」があるといえるでしょう。

イーザリー少佐と手紙を交わしたG・アンデルスは、核兵器が使用された現代の重大な「道徳綱領」として「反核」の意義を次のように記しています。「いまやわれわれ全部、つまり“人類”全体が、死の脅威に直面しているのである。しかも、ここでいう“人類”とは、単に今日の人類だけではなく、現在という時間的制約を越えた、過去および未来の人類をも意味しているのである。なぜならば、今日の人類が全滅してしまえば、同時に、過去および未来の人類も消滅してしまうからである。」(55頁)。

さらに、ロベルト・ユンクも「狂人であると定義」されたイーザリー少佐の行為に深い理解を示して「われわれもすべて、彼と同じ苦痛を感じ、その事実をはっきりと告白するのが、本来ならば当然であろう。そして、良心と理性の力のことごとくをつくして、非人間的な、そして反人間的なものの擡頭と、たたかうべきであろう」と書き、「しかしながら、われわれは沈黙をまもり、落ちつきはらい、いかにも“分別を重ねつくした”かのようなふりをしているのである」と続けているのです(264-5頁)。

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これらの記述を読んでドストエフスキーの研究者の私がすぐに思い浮かべたのは、「殺すなかれ」という理念を語り、トーツキーのような利己的で欲望にまみれた19世紀末のロシアの貴族たちの罪を背負うかのように、再び精神を病んでいったムィシキンのことでした。

この長編小説を映画化した黒澤映画《白痴》を高く評価したロシアの研究者や映画監督も主人公・亀田の形象にそのような人間像を見ていたはずです。

文芸評論家の小林秀雄氏も1948年の8月に行われた物理学者・湯川秀樹博士との対談「人間の進歩について」では、「私、ちょうど原子爆弾が落っこったとき、島木健作君がわるくて、臨終の時、その話を聞いた。非常なショックを受けました」と切り出し、こう続けていたのです。

「人間も遂に神を恐れぬことをやり出した……。ほんとうにぼくはそういう感情をもった」。

それにたいして湯川が太陽熱も原子力で生まれていることを指摘して「そうひどいことでもない」と主張すると、「高度に発達する技術」の危険性を指摘しながら、次のように厳しく反論していました。

「目的を定めるのはぼくらの精神だ。精神とは要するに道義心だ。それ以外にぼくらが発明した技術に対抗する力がない」(拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、139頁)。

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湯川博士との対談を行った時、小林氏は日本に落とされた原爆が引き起こした悲惨さを深く認識して、水爆などが使用される危険性を指摘して戦争の廃絶を目指して平和のための活動をすることになるアインシュタインと同じように考えていたと思えます。

しかし、1965年に数学者の岡潔氏と対談で哲学者ベルグソン(1859~1941)と物理学者アインシュタイン(1879~1955)との議論に言及した小林氏は、「アインシュタインはすでに二十七八のときにああいう発見をして、それからあとはなにもしていないようですが、そういうことがあるのですか」ときわめて否定的な質問をしているのです(『人間の建設』、新潮文庫、68頁)。

この時、小林秀雄氏は「狂人であると定義」されたイーザリー少佐に深い理解を示したロベルト・ユンクが書いているように、かつて語っていた原水爆の危険性については「沈黙をまもり、落ちつきはらい、いかにも“分別を重ねつくした”かのようなふりをしている」ように思われます。

トーツキーのようなロシアの貴族の行為に深い「良心の呵責」を覚えたムィシキンをロゴージンの「共犯者」とするような独自な解釈も、小林氏のこのような「良心」解釈と深く結びついているようです。

 

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小林秀雄の『罪と罰』観と「良心」観

小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)

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