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『白痴』

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(3、増補版)――小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

三、小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

林房雄の「浪曼主義のために」を論じた昭和11年の短文で、「彼のカンだけは、非常に実際的であり、いつも間違ひなく的の真中に当たっている」と評価した評論家の小林秀雄は、上海事変が勃発した昭和7(1932)に書いた評論「現代文学の不安」では、「多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書き、芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していました。

一方、『若き日の詩人たちの肖像』でも「不意に、芥川龍之介の遺書である『或旧友へ送る手記』のことを思い出して勃然たる怒りを感じた」と書かれています。しかし、モデルの一人で作家の中村真一郎は、堀田が「日本文学の壊滅状態のなかで」、「特に芥川と宇野浩二を熱心に読んでいた」ことを記しています(『芥川龍之介』)。この長編小説では芥川の遺児で・俳優、演出家でもあった比呂志との交友も描かれていることを考慮するならば、一見、自殺した芥川が厳しく批判されているかのようにも見える先の文章には、尊敬していた作家が自殺したことへの無念の思いが込められていると思えます。

さらに、島崎藤村が長編小説『春』では明治の『文学界』の同人たちとの交友をとおして、自殺に至るまでの透谷の歩みを詳しく描いていたことを考慮すると、若き詩人たちとの交友が描かれているこの長編小説で芥川にも言及していることには、長編小説『春』の記述を踏まえつつ、芥川の自殺を残念に思った堀田善衞がこの問題を真剣に考察していたことが強く感じられるのです。

『若き日の詩人たちの肖像』には北村透谷や島崎藤村についての言及はありませんが、司馬遼太郎や宮崎駿との鼎談で堀田は、「『この国』という言葉遣いは私は島崎藤村から学んだのですけど、藤村に一度だけ会ったことがある。あの人は、戦争をしている日本のことを『この国は、この国は』と言うんだ」と語っていました(『時代の風音』)。この発言からは法律や差別などの問題にも留意しながら『罪と罰』を深く研究した上で『破戒』を著わしていた藤村への敬意が感じられます。

さらに藤村は「祭政一致」を求めて、「神祇官」を設けて廃仏毀釈運動を行った「復古神道」を信じた自分の父親の悲劇的な死を『夜明け前』で描いていましたが、受験のために上京した主人公が翌日に2・26事件と遭遇するところから始まりまる『若き日の詩人たちの肖像』の終わり近くで堀田は、登場人物に「国粋攘夷思想」を唱えた復古神道をこう批判させています。

「復古神道はキリスト教にある、愛の思想ね、キリストの愛による救済、神の子であるキリストの犠牲による救済という思想が、この肝心なものがすっぽり抜けているんだ。汝、殺すなかれ、が、ね」。

 一方、真珠湾攻撃の翌年の昭和17年に『英雄と祭典 ドストエフスキイ論』を発行した堀場正夫は、「序にかへて」の冒頭で、日中戦争の発端となった盧溝橋事件を賛美して、「今では隔世の感があるのだが、昭和十二年七月のあの歴史的な日を迎へる直前の低調な散文的平和時代は、青年にとつて実に忌むべき悪夢時代であつた」と書き、その後で『罪と罰』から受けた印象と2・26事件をこう結び付けてこう記していました。

すなわち、その前夜にポルフィーリイとの激しい議論でラスコーリニコフが、ナポレオンのような「非凡人」は「「たしかに肉体でなくて青銅で出来てゐるに違ひない」と絶叫するに至るあの異様に緊張した場面」を読んでいたと記した堀場は、事件の朝について「白雪におほはれた東京の街は、ただならぬ緊張の中におかれたのである」と書き、「近代の長い夜はこの日から少しづつ白みそめたといつたら間違ひであらうか」と続けていました。

このような記述からは『英雄と祭典』が小林秀雄のドストエフスキー論から強い影響を受けていると思われます。なぜならば小林秀雄は、小林多喜二が拷問で獄死した翌年、「天皇機関説」事件で「立憲主義」が崩壊する前年の昭和9年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、ラスコーリニコフについて「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と記していました。

そして、太平洋戦争が始まる前年の9月にヒトラーの『我が闘争』の書評を「朝日新聞」に書いた小林秀雄は、『文學界』の10月号に掲載された鼎談「英雄を語る」では、ナポレオンを「英雄」としたばかりでなくヒトラーも「小英雄」と呼び、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語り、「暴力の無い所に英雄は無いよ」と続けていたのです(『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』、183頁)

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社

さらに、「殺すなかれ」という理念を説いていたムィシキンについても「スイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」と解釈した小林は、罪の意識のなかったラスコーリニコフと結び付けつつ、ムィシキンをも「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」と見なして、「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と『白痴』の結末について記していたのです。

テキストの記述からも大きく逸脱した小林のこのような解釈は、真珠湾攻撃のⅠ年後に彼が日本文学報国会評論随筆部会常任理事に就任していることに留意するならば、昭和6年の満州事件以降、戦争の拡大の危険性が増していた当時の状況を踏まえて政府や軍部に忖度したものだったと言えるでしょう。

 一方、真珠湾攻撃の話題の後で、「学校へも行かず、外出もせず、課された鈍痛は我慢をすることにし」、部屋にとじこもってドストエフスキーの『白痴』を読み続けた若者が、ムィシキンを外国からロシアに「入った」」、「天使のような」人物と読み解いていることは、小林秀雄の『白痴』解釈に対する厳しい批判が秘められていると思われるのです。(「堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって」参照)。

(2019年4月26日、改訂)

 

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

→『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(2)――「海ゆかば」の精神と主人公

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

はじめに、『若き日の詩人たちの肖像』の時代の「祝典的な時空」

自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』では大学受験のために上京した翌日に「昭和維新」を目指した将校たちによる昭和11(1936)年の二・二六事件に遭遇した主人公が「赤紙」で召集されるまでの重く暗い日々が若い詩人たちとの交友をとおして克明に描かれています。

しかし、この時期には「祝典的な時空」という華やかな側面もありました。すなわち、「天皇機関説」事件が起きた昭和10年には神武天皇の即位を記念する「祝典準備委員会」が発足し、前著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』でふれたように、それから5年後の昭和15年には、「内務省神社局」が「神祇院」に昇格して、「皇紀(神武天皇即位紀元)2600年」の祝典が盛大に催されたのです。

(出典は「「ウィキペディア」)

皇紀の末尾数字を取ってゼロ戦と名付けられた戦闘機などによる真珠湾攻撃の大戦果などを踏まえて、「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と見なした堀場正夫は、昭和17年に出版したドストエフスキー論に『英雄と祭典』という題名つけましたが、それはこの著がそのような祝典的な雰囲気の中で著わされていたことをも物語っているでしょう。

評論家の橋川文三は『日本浪曼派批判序説』で保田與重郎と小林秀雄とが、「戦争のイデオローグとしてもっともユニークな存在で」(太字は原文では傍点)あり、「インテリ層の戦争への傾斜を促進する上で、もっとも影響多かった」ことに注意を促し、「私が『耽美的パトリオティズム』と名づけたものの精神構造と、政治との関係が改めてとわれねばならない」と記しています。

それゆえ、ここではまず『若き日の詩人たちの肖像』の複雑な構造に迫る前に主人公の視線をとおしてこの時代の雰囲気を概観することで、この長編小説における「耽美的パトリオティズム」の批判の一端に迫りたいと思います(本稿では、敬称と注を略した)。

日本浪曼派批判序説 (講談社文芸文庫)(書影は「アマゾン」より)

一、真珠湾の二つの光景

長編小説『若き日の詩人たちの肖像』では、昭和16年12月に行われた真珠湾攻撃の成果を知った主人公が「ひそかにこういう大計画を練り、それを緻密に遂行し、かくてどんな戦争の歴史にもない大戦果をあげた人たちは、まことに、信じかねるほどの、神のようにも偉いものに見えた」と感じたと書かれています。

しかし、それに続いて「それは掛値なしにその通りであったが、そこに、特殊潜航艇による特別攻撃というものが、ともなっていた」ことについては、「腹にこたえる鈍痛を感じていた」と記した作者は、軍神に祭られても「親御さんたちゃ、切ないぞいね」という一緒に住むお婆さんの言葉も記しているのです。

しかも、年が明けて1月になり主人公の仲間の詩人たちのなかからも次々と入営し、召集されるものが出てきたことを記した著者は、「非常に多くの文学者や評論家たちが、息せき切ってそれ(引用者註――戦争)を所有しようと努力していることもなんとも不思議であった」という主人公の思いを記していますが、この批判は文芸評論家の小林秀雄にも向けられていると思えます。

なぜならば、「文藝春秋社で、宣戦の御詔勅捧読の放送を拝聴した」時に、「僕等は皆頭を垂れ、直立してゐた。眼頭は熱し、心は静かであつた。畏多い事ながら、僕は拝聴してゐて、比類のない美しさを感じた。やはり僕等には、日本国民であるといふ自信が一番大きく強いのだ 」と「三つの放送」で書いた小林は、元旦の新聞に掲載された真珠湾攻撃の航空写真を見た印象を「戦争と平和」というエッセーでこう記していたからです。

「空は美しく晴れ、眼の下には広々と海が輝いていた。漁船が行く、藍色の海の面に白い水脈を曵いて。さうだ、漁船の代りに魚雷が走れば、あれは雷跡だ、といふ事になるのだ。海水は同じ様に運動し、同じ様に美しく見えるであらう。さういふふとした思ひ付きが、まるで藍色の僕の頭に眞つ白な水脈を曵く様に鮮やかに浮かんだ。真珠湾に輝いていたのもあの同じ太陽なのだし、あの同じ冷たい青い塩辛い水が、魚雷の命中により、嘗て物理学者が子細に観察したそのままの波紋を作つて拡がつたのだ。そしてさういふ光景は、爆撃機上の勇士達の眼にも美しいと映らなかつた筈はあるまい。いや、雑念邪念を拭い去つた彼等の心には、あるが儘の光や海の姿は、沁み付く様に美しく映つたに違ひない。」

そして、「冩眞は、次第に本当の意味を僕に打ち明ける様に見えた。何もかもはつきりしているのではないか」と書いた小林は、トルストイの『戦争と平和』にも言及しながら、「戰は好戰派といふ様な人間が居るから起こるのではない。人生がもともと戰だから起こるのである」と結んでいたのです。

 ここには写真には写っていない特殊潜航艇に乗り込んで特攻した乗組員の心理も考察している『若き日の詩人たちの肖像』の主人公の視点と、海の底に沈んだ特殊潜航艇のことには触れずに航空写真を見ながら「爆撃機上の勇士達」の気分で戦争を描いた小林との違いが明確に出ていると思えます。(続く)

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(2、加筆版)――「海ゆかば」の精神と主人公

(3、増補版)小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

(4)「昭和維新」の考察と「明治百年記念式典」

(5)『方丈記』の再発見と「死の美学」の克服

(6)「臨時召集令状」と「万世一系の国体」の実体

          (2019年4月21日、改訂。6月14日、リンク先を追加)

堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって

二〇一八年が生誕百周年に当たっていた堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』(一九六八年)は、大学受験のために上京した翌日に二・二六事件に遭遇した主人公が、「赤紙」によって召集されるまでの暗く重い日々を若き詩人たちとの交友をとおして克明に描き出している。

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

注目したいのはその第一部のエピグラフには「驚くべき夜であつた。親愛なる読者よ、それはわれわれが若いときにのみ在り得るやうな夜であつた」(米川正夫訳)という言葉で始まるドストエフスキーの『白夜』の文章が置かれていることである。

第一部の終わり近くではラジオから流れてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から「異様な衝撃」と「明らかにある種の脅迫」を感じた主人公は、続いて流れてきた「フランスのただの流行歌(シャンソン)」に「異様な感銘」を受け、「異様なことに、いますぐ何かをしなければならぬ」と思って背広を着て外に出る(引用は集英社文庫より、巻数は上下で、頁数は漢数字で示す)。

そして、「空には秋の星々がガンガンガラガラに輝いていた」のを見て、「若者は、星を見上げて、つい近頃に読んだある小説の書き出しのところを思い出しながら、坂を下りて行った」と書き、『白夜』の冒頭の文章を引用した堀田は、「小説は、二十七歳のときのドストエフスキーが書いたものの、その書き出しのところであった」と説明している(上・一一五~一一七)。

こうして、「いますぐ何かをしなければならぬ」と考えた主人公は、かなり習熟していたドイツ語を捨てて、開戦直前に法学部政治学科から当時は敵性言語とされたフランス語を学んで仏文科に転科している。このことについてフランス文学者の鹿島茂は、当時は「それだけが唯一の抵抗」ということだっただろうと書いている(『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』集英社新書)。『白夜』のエピソードは主人公の生涯の転機となる決断とも深くかかわっていたのである。

ドストエフスキーは『白夜』を書いた後で、オーストリア帝国の要請によるハンガリー出兵の前に起きたペトラシェフスキー事件で逮捕されていた。そのことに注目するならば、ここで堀田が主人公の呼び方を「少年」から「若者」に変えているのは、危険な文書の所持で逮捕され、召集令状で戦場へと駆り出されることになる主人公の運命をも示唆していると思える。

実際、『若き日の詩人たちの肖像』では「物品のように」「どさりと淀橋署の留置場へ放り込まれ」、そこで一三日間拘留されたあとで若者に「皇国史観」を説教した人物について、「『罪と罰』に出て来る素晴らしく頭がよくて、読んでいる当方までが頭がよくなるように思われるあの検事のことがちらと頭をかすめた」と記されているのである(上・一七〇)。

この長編小説に登場する「詩人たち」のモデルの一人である作家の福永武彦を父に持つ池澤夏樹は、「プロレタリア文学の人たちもつぶされて」しまった後の時代は、他の作家の小説ではほとんど描かれていないのに対して、「慶応仏文科」や「荒地」、「マチネ・ポエティク」などさまざまなグループの詩人たちの「たくさんの仲間が捕まり、拷問され、殺される」ことが頻繁に起きていたこの時代のことを『若き日の詩人たちの肖像』が描いていることの意義を指摘している。

注目したいのは、この長編小説の中頃で「詩人兼小説家の人」である堀辰雄をモデルとした「成宗の先生」が住んでいる「その家の書斎にも灯がついている」のを見た後で、再び『白夜』の冒頭の句を「口のなかでとなえて」みた若者が、『白夜』の主人公とムィシキンとの精神的な連続性に注意を促していることである。

すなわち、「こういう文章こそ若くなければ書けなかったものだったろう、と気付いた。二十七歳のドストエフスキーは、カラマーゾフでもラスコルニコフでもまだまだなかったのだ」と最初は感じた若者は、その後で「けれども、この文章ならば、あるときのムイシュキン公爵の口から出て、それを若者が自分の耳で直接公爵から聞くとしても、そう不思議でも不自然でもないだろう……」と続けているのである(上・三一一~三一二)。

さらに、「成宗の先生」と出会って立ち話をしていた際に、特高刑事の目つきから「殺意に燃えたラゴージンの眼」を思い出して、「ほとんどうわの空」で「謎」のような言葉を語っていた(下・八三)。

「ランボオとドストエフスキーは同じですね。ランボオは出て行き、ドストエフスキーは入って来る。同じですね」。

この記述だけではその意味は分からないが、堀田が戦争の時代に急いで書き上げた卒論で、「ランボオとドストエフスキー作『白痴』の主人公ムイシュキン公爵とを並べてこの世に於ける聖なるもの」を考察していたことに注目するならば、この言葉が主人公の全存在にも関わるような重みをもっていることは確かだろう。

その後で堀田は主人公の若者にとってのムィシキンの意味を、部屋に閉じこもって『白痴』を読みつづけた若者の感想をとおして明らかにしている。長編小説『白痴』に対する作者の強い愛着も示されているので、少し長くなるが引用しておきたい(下・九三~一〇一)。

「学校へも行かず、外出もせず、課された鈍痛は我慢をすることにし、若者はとじこもって本を読みつづけた。ドストエフスキーの『白痴』は、何度読んでも、大きな渦巻きのなかへ頭から巻き込むようにして若者を巻き込み、ときには、その大渦巻きの、回転する水の壁が見えるように思い、エドガー・ポオの大渦巻き(メイルストローム)さえが垣間見えるかと思うことさえあった。とりわけて、その冒頭が若者の思考や感情の全体を占めていた。/――なるほど! 絶対の不可能を可能にするには、こうすればいいのか!/と」。

そして、「その冒頭の三頁ほどを、毎日毎日読みかえした。古本屋で買った英訳と、白柳君に借りた仏訳の双方があったので、米川正夫訳と三冊の本を対照しながら読み返してみていた」と書いた堀田は『白痴』冒頭の記述を引用している(表記は現代の表記に改めた)。

「十一月下旬のこと、珍しく暖かいとある朝の九時頃、ペテルブルグ・ワルシャワ鉄道の一列車は、全速力を出してペテルブルグに近づきつつあった。空気は湿って霧深く、夜は辛うじて明け放れたように思われた。汽車の窓からは右も左も十歩の外は一物も見分けることが出来なかった。旅客の中には多少外国帰りの人もあったが、それよりも寧ろ余り遠からぬ所から乗って来た小商人(こあきんど)連の多い三等車が一番こんでいた。こんな場合の常として、誰も彼も疲れ切って、一晩の中に重くなった目をどんよりさせ、体のしんまで凍(こご)えきっていた。どの顔もどの顔も霧の色にまぎれて蒼黒く見える」。

この文章について、「あのロシアの平べったい平原の、ところどころに森や林や広大な水たまりなどのあるところを、汽車がひた走りに走って行く、その走り方のリズムのようなものが、この文章に乗って来ていることが、じかに肌に感じられる」と記した堀田は、ドストエフスキーが主人公のムィシキンをこう描写していることに注意を促している。

「とある三等の窓近く、夜明け頃から二人の旅客が、膝と膝を突き合わせて、腰掛けていた。どちらも若い人で、どちらも身軽げなおごらぬ扮装(いでたち)。どちらもかなり特徴のある顔形をしていて、どちらも互に話でも始めたい様子であった(……)向いの席の相客は、思いもかけなかったらしい湿っぽい露西亜の十一月の夜のきびしさを、顫(ふる)える背に押しこたえねばならなかったのである」。

この後で、「天使のような人物を、ロシアという現実のなかへ、人間の劇のなかへつれ込むのに、汽車という、当時としての新奇なものに乗せた、あるいは乗せなければなかった、そこに、ある痛切な、人間の悲惨と滑稽がすでに読みとられるのである」と書いた堀田は、「この不自由で限りのある人間の世界というものについての、刺すような悲しみが若者に取りついていた」と続けている。

ことに、「たとえ小説の中でも羽根をつけて飛んで来るわけには行かないから、天使は、(……)外国、すなわち外界から汽車にでも乗せて入って来ざるをえないのだ」(傍点は著者)という文章は、堀田がこの長編小説を正確に読み解いていることを物語っているだろう。なぜならば、スイスでの治療をほぼ終えたムィシキン公爵が混沌としている祖国に帰国する決意をしたのは、母方の親戚の莫大な遺産を相続したとの知らせに接したためだったからである。

ドストエフスキーは小説の冒頭で思いがけず莫大な遺産を相続したムィシキンとロゴージンの共通点を描くとともに、その財産をロシアの困窮した人々の救済のために用いようとした主人公と、その大金で愛する女性を所有しようとしたロゴージンとの友情と対立をとおして、彼らの悲劇にいたる帝政ロシアの社会問題を浮き彫りにしていた。

そして、「小説を読み通して行って、その終末にいたって、天使はやはり人間の世界には住みつけないで、ふたたび外国の、外界であるスイスの癲狂院へもどらざるをえないのである」と記した堀田は、「白痴、というと何やら聞えはいいかもしれないが、天使は、人間としてはやはりバカであり阿呆でなければ、不可能、なのであった」と続けた後で、若者が「成宗の先生」に語った「謎」のような言葉の意味をこう説明していた。

「左様――ムイシュキン公爵は汽車に乗って入って来たが、ランボオは、詩から、その自由のある筈の詩の世界を捨てて出て行ってしまい、おまけに生まれのヨーロッパからさえも出て行ってしまった、というのが、若者が成宗の先生に言ったことの、その真意であった」。

実は、二〇〇七年に上梓した拙著 『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』でも、「昭和初期」の時代を描いた『若き日の詩人たちの肖像』と『白夜』との比較を行っていた。だが、ムィシキンが「外界」から「入って」来たことに傍点をつけて注意を促しているこの文章が、「天皇機関説」事件で「立憲主義」が崩壊する前年の一九三四年の『白痴』論で、「ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」という解釈をした小林秀雄を強く念頭に置いて書かれていた可能性に気付いたのは、『黒澤明で「白痴」を読み解く』を書いていた時のことであった(同書、一八九頁)。

『黒澤明で「白痴」を読み解く』大

「しかしなんにしてもド氏の小説は面白い、面白くてやり切れなかった。とりわけて、ド氏が小説というものの枠やルールを無視して勝手至極なことをやらかしてくれるところが面白かった」と書いた堀田は、「『白痴』はその終末で若者に泪を流させた」と続けて、結末の異常性を強調した小林秀雄とは正反対の解釈を記していたのである。

ド ストエフスキー作品との関連で興味深いのは、堀田がその直後に「これも二度目か三度目のくりかえしにかかった『悪霊』の方は、ところどころ爆笑させられるようなシーンがあって面白かった」と書き、出産の手助けを求められたキリーロフが「僕はお産をすることが下手でね」と語る場面を紹介していることである(下・一〇一)。

『白痴』論から『悪霊』論への移行は唐突のようにも感じられるが、若者がスタヴローギンについて「天使ムィシキン公爵の逆の極みである、絶世の怪物、悪魔である」と規定していることに留意するならば、この文章も一九三七年の『悪霊』論で「スタヴロオギンは、ムイシュキンに非常によく似てゐる、と言つたら不注意な読者は訝るかも知れないが、二人は同じ作者の精神の沙漠を歩く双生児だ」と書いていた小林を強く意識していることが感じられる。

堀田が記した『悪霊』論はこれが最初ではなく、日米安全保障条約の改定に反対する世論が盛り上がり、大規模なデモが行われていた時期を背景にした長編小説『審判』(一九六三年)でも、出産を迎えた被爆者の女子学生との関連でより詳しく記されていた。

しかもこの長編小説では原爆パイロットをモデルとした人物が重要な役割を演じているが、一九六二年には原爆の非人道性を知って自分を犯罪者と見なすようになり、精神病院に収容されたイーザリー少佐の往復書簡の翻訳が『ヒロシマわが罪と罰――原爆パイロットの苦悩の手紙』(篠原正瑛訳、筑摩書房)と題されて発行されていた。

ヒロシマわが罪と罰―原爆パイロットの苦悩の手紙 (ちくま文庫)(書影は「アマゾン」より)

そのことを考慮するならば、『悪霊』にも言及していた長編小説『審判』には、湯川秀樹博士との対談では原爆を産み出した「技術」の問題を「道義心」の視点から厳しく批判しながら、その後は核問題について沈黙し、「ヒットラーと悪魔」では『悪霊』にも言及しながら戦時中に書いた『我が闘争』の書評を引用していた小林秀雄の科学観や歴史観への強い批判が込められていたと思われる。

一方、『若き日の詩人たちの肖像』の第四部では兵隊検査の終わった主人公の呼び方が「男」となり、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の話に凝っていたアリョーシャというあだ名の若者が「惟道(かんながら)の道」を説くようになり、アッツ島玉砕の報道が入った時には軍神たちを侮辱したとして妻を激しく殴りつけたことが描かれている。

召集令状が来たことを知らせる実家からの電報が届いて「警察で殺されるよりも、軍隊の方がまだまし」と感じた主人公の男は、『白夜』の文章についてこう記している(下・三八九)。

「郵便局からの帰りに空を仰いでみると、冬近い空にはお星様ががらがらに輝いていたが、そういう星空を見るといつも思い出す、二十七歳のときのドストエフスキーの文章のことも、別段に感動を誘うということもなかった」。

この長編小説は出兵前に故郷に帰って北の海を見た男の厳しい感慨で結ばれている。「鉛色の北の海には、男がこれまでに耳にしたありとあらゆる音楽の交響を高鳴らせてどうどうと寄せて来ていた。それだけで、充分であった」。

  *   *   *

私的なことになるが、大学に入ってからドストエフスキーの初期作品の重要性だけでなく、日露の近代化の比較というテーマを研究することの必要性を強く感じたのは、堀田善衞のこの作品と出会ったことが大きな一因となっていた。

この作品を論じたフランス文学者の鹿島も「自分と全く違うものを学ぶということは、比較が可能になるということです」と書き、「比較を進めることによって、逆に、自分とは何かが分かってくる。あるいは、自分たちと比較することによって、他者が分かってくる」と指摘している。

この作品では「戦争に至る大変暗い時代」が如実に書かれていると指摘した池澤も、同じ『堀田善衞を読む――世界を知り抜くための羅針盤』(集英社新書)に収められた論考で「この作品は、自分のものの考え方、思想を支えてくれる大きな柱となっています」と続けている。

近著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(成文社)では、『若き日の詩人たちの肖像』については、「復古神道」との関連で少しだけ触れた。昨今の日本はますます昭和初期の暗い時代に似てきているので、その厳しい時代を生き抜いた若者を主人公とした堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』を本格的に考察する著作を書きたいと思っている。(本稿では敬称は略した)。

(『ドストエーフスキイ広場』第28号、2019年、121~127頁、12月6日、一部削除)

ドストエーフスキイの会、第50回総会と251回例会(報告者:高橋誠一郎)のご案内

第50回総会と251回例会のご案内を「ドストエーフスキイの会」のホームページより転載します。

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第50回総会と251回例会のご案内

   下記の要領で総会と例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

 日 時2019518日(土)午後1時30分~5時

場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車徒歩7分)   ℡:03-3402-7854 

総会:午後130分から40分程度、終わり次第に例会

議題:活動・会計報告、運営体制、活動計画、予算案など

例会報告者:高橋誠一郎氏

題 目: 堀田善衛のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に

      *会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:高橋誠一郎(たかはし せいいちろう

東海大学教授を経て、現在は桜美林大学非常勤講師。世界文学会、日本比較文学会、日本ロシア文学会などの会員。研究テーマ:日露の近代化と文学作品の比較。著書に『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』、『黒澤明と小林秀雄』など。近著に『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(会員と例会出席者には送料無料、税抜きで頒布、申し込みは→info@seibunsha.net)。

「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機 高橋 誠一郎(著/文) - 成文社 

 

第251回例会報告要旨

堀田善衞のドストエフスキー観――『若き日の詩人たちの肖像』を中心に

堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』は、大学受験のために上京した翌日に「昭和維新」を目指した将校たちによる二・二六事件に遭遇した主人公が、「赤紙」によって召集されるまでの暗く重い日々を若き詩人たちとの交友をとおして克明に描き出しています。

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

その第一部の題辞ではペトラシェフスキー事件で逮捕されてシベリア流刑になるドストエフスキーが書いた『白夜』冒頭の文章が引用されています。しかも、この長編小説で堀田は『白夜』ばかりでなく、『罪と罰』や『白痴』、『悪霊』などについての考察をも行っているのです(『ドストエーフスキイ広場』第28号、「堀田善衞の『白痴』観」参照)。

前回の例会で福井勝也氏はアニメ映画の世界的巨匠である宮崎駿氏の言葉を引用しながら、「堀田は日本では珍しい世界文学者のタイプであって、これから評価が高まる作家」と位置付け、「白夜について」(1970)も堀田が自覚的に自分は『白夜』の主人公さながらにフラニョール(遊歩者)であることを表明し、ドストエフスキーのフェリエトニスト的側面に関心を持っていたらしいと指摘しました。

これらの指摘に私も全面的に賛成です。なぜらば、『若き日の詩人たちの肖像』で戦争末期の「学徒動員」を厳しく批判しつつ、「鴨長明がルポルタージュをしていたような事態が刻々に近づきつつあるように予感される。『方丈記』は実にリアリズムの極を行く、壮烈なルポルタージュであった」と記した堀田は、『方丈記私記』で鴨長明について「心よりもからだの方が先に身を起こし、足の方から歩き出してしまう行動人」と規定しているように、『白夜』への関心は『方丈記』につながっているからです。

さらに、私は堀辰雄の小説『風立ちぬ』や『菜穂子』などを組み込んだ宮崎駿監督のアニメ映画《風立ちぬ》には、同時代を描いた堀田善衞の『若き日の詩人たちの肖像』からの強い影響がみられると考えています。このアニメではナチス・ドイツの秘密警察についても描かれていることも、ゲッベルス宣伝相の暴力的な演説の後に『白夜』冒頭の文章が対置されているこの長編小説の構造と深く関わっているでしょう。

この映画で描かれている関東大震災の直後に発生した火事の広がりの圧倒的な描写も、『方丈記私記』で描かれている東京大空襲後の烈風による「合流火災」の記述から影響を受けていると思えます。

それとともに注目したいのは、『罪と罰』の人物体系を深く研究して『破戒』を書いた島崎藤村が、長編小説『春』で自殺に至る北村透谷の苦悩や考察を詳しく描いていたのと同じように、『若き日の詩人たちの肖像』では芥川龍之介の自殺についての考察が、慶応仏文グループの芥川比呂志との交友などをとおして何度も行われていることです。

さらに、この長編小説では「マチネ・ポエティクス」のグループの詩人たちとの交友も描かれていますが、堀田はその一員であった福永武彦や中村真一郎の三人で、核実験場とされた島から飛来する怪獣を描いた映画《モスラ》(1961)の原作を書いています。

このことに留意するならば、アメリカ人の原爆パイロットをモデルとした『零から数えて』(1960)と『審判』(1963)の二つの長編小説が『若き日の詩人たちの肖像』(1968)と密接なつながりを持っていることは明らかでしょう。

すなわち、『若き日の詩人たちの肖像』は過去を振り返るだけでなく、現在を凝視し未来を見つめるような視点も有しているのです。

ただ、序章と四つの部からなるこの長編小説では詩人だけでなく演劇のグループや、多くの作家も実名で描かれるなど複雑な構造をしています。それゆえ、今回の発表では筋や人物体系だけでなく、「題辞」という手法にも注目しながらテキストを忠実に読み込むことにより、主人公が成宗の先生(堀辰雄)に語る「ランボオは出て行き、ドストエフスキーは入って来る。同じですね」という謎のような言葉の意味に迫りたいと思います。

*   *   *

例会の「傍聴記」や「事務局便り」などは、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

(2019年4月13日、4月27日、書影とリンク先を追加)

堀田善衞の『白痴』観――『若き日の詩人たちの肖像』をめぐって(『ドストエーフスキイ広場』第28号より転載)

『若き日の詩人たちの肖像』における「耽美的パトリオティズム」の批判(1)――真珠湾の二つの光景

(2)「海ゆかば」の精神と主人公

(3)小林秀雄の芥川龍之介観と『白痴』論の批判

 

黒澤監督没後二〇周年と映画《白痴》の円卓会議

 黒澤監督没後二〇周年を記念した黒澤明研究会の『会誌』No.40が届きました。この号に入会のいきさつや映画《白痴》の円卓会議についての経過報告を投稿ましたので、以下に転載します。

   *   *   *

『白痴』の発表から一五〇周年に当たる今年の一〇月にブルガリアの首都ソフィア大学で開催されるドストエフスキーのシンポジウムでは、『白痴』が主なテーマの一つとなり、シンポジウムの最後を飾ることになる円卓会議では映画《白痴》が取り上げられることになりました。

ブルガリア、ソフィア大学(ソフィア大学、ブルガリア語版「ウィキペディア」)

この円卓会議では会員の槙田氏が基調講演を行い、その後で日本からは九州大学の清水孝純名誉教授と私の発表と、ブルガリア・ドストエフスキー協会のディミトロフ会長の発表が予定されています。

私は拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、二〇一一年)の発行後に堀会員の強い勧めで入会しました。『会誌』の「黒澤明研究会四〇周年記念特別号」(第二七号、二〇一二年)を読み返していたところ、映画《白痴》についての思いと今後の抱負を記している記述がありましたので、要約して再掲します。

【高校時代にドストエフスキーの『罪と罰』や『白痴』を読んでロシア文学の研究を目指すようになったが、留学先のブルガリアでポーランドなどの東欧の学生から、ことに後期のドストエフスキー作品に対する厳しい批判があることを知ったことなどから、『白痴』に対する思いが揺らいだこともあった。しかし、映画『白痴』を見た際には、日本に舞台が移し替えられているものの、主人公の亀田(ムィシキン)をはじめとする登場人物が見事に描かれ、原作の理念が正しく伝えられていることに深い感動を受けた。

黒澤監督はドストエフスキーを「つっかえ棒」になってくれた作家と呼んでいたが、映画『白痴』も私にとってはドストエフスキー研究を続ける「支え」の役割を果たしてくれた。黒澤明監督が一九世紀のロシア文学をきわめ深く理解していたことを明らかにすることで、黒澤映画の魅力やその現代的な意義を伝え、黒澤映画を広めていきたい。】

 今回、映画《白痴》の円卓会議の企画にも関わることで、入会時の念願を果たすことができることになりました。

通常の三年ごとの大会の他に急遽、設定されたシンポジウムだったので、参加者がどのくらい集まるかに、最初は多少・不安がありました。しかし、ロシアからの出席者にはサンクトペテルブルクとモスクワの「ドストエフスキーの家博物館」の両館長もいます。

盛り上がった学会となり長編小説『白痴』とともに映画《白痴》の理解が深まることが期待されます。詳細については帰国後に報告することにし、ここでは六五名の参加者の国名と人数のみを記しておきます。

ロシア 二〇/ ブルガリア 一三 / イタリア 一〇/ 日本 五/ アメリカ合衆国 四/ ウクライナ 三 / イギリス 一/ ギリシア 一/ セルビア 一/ ドイツ 一/ ハンガリー 一/ ブラジル 一/ フランス 一/ ベラルーシ 一/ ポーランド 一/マケドニア 一/

(黒澤明研究会編『研究会誌』)、No.40号、2018年、16~17頁、転載に際して一部記述を変更した)

ドストエーフスキイの会、第247回例会(報告者紹介:坂庭淳史氏)のご案内

第247回例会のご案内を「ニュースレター」(No.148)より転載します。

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第247回例会のご案内

   下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

 今回は会場が変わります。要ご注意!                                       

2018915日(土)午後2時~5

場 所早稲田大学文学部戸山キャンパス32号館224教室

             地下鉄東西線・「早稲田」下車

報告者:坂庭 淳史 氏

題 目: タルコフスキー映画におけるドストエフスキーとの信仰と生に関する対話

    会場費無料

報告者紹介:坂庭淳史(さかにわ あつし)

早稲田大学文学学術院教授。専門は19世紀ロシア文学・思想。最近の著書に『プーシキンを読む』(ナウカ出版、2014年)、論文に「黒澤明『生きる』とロシア文学」(『比較文学年誌』早稲田大学比較文学研究室、2015年)、訳書にアルセーニー・タルコフスキー『雪が降るまえに』(鳥影社、2007年)など。

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247回例会報告要旨

タルコフスキー映画におけるドストエフスキーとの信仰と生に関する対話

 ソヴィエトを代表する映画監督アンドレイ・タルコフスキー(1932₋1986)は生涯でわずか8本の作品しか撮ることができなかったが、彼の映画は独特の映像美はもとより、そこに表現された哲学的思索によって現在でも多くの人々を魅了している。タルコフスキーは国内外の映画はもちろん、思想や文学についても造詣が深く、彼の日記『殉教録』や映像論などをまとめた著書『刻印された時間(映像のポエジア)』の中には、ベルジャーエフやシェストフ、トルストイ、あるいはトーマス・マンやヘルマン・ヘッセ、カルロス・カスタネダといったさまざまな人々の名が見られる。なかでもタルコフスキーが長年に渡って強い関心を持ち続けていたのが、フョードル・ドストエフスキーであった。今回の発表では、タルコフスキーの創作世界において、彼がドストエフスキーに対してどのようなまなざしを向けていたのか、あるいはドストエフスキーがどのような役割を果たしていたのかを考えてみたい。

 タルコフスキーはドストエフスキーの精神的末裔とも称され、その思想の類縁性はこれまでにも多くの研究者たちによって語られてきた。彼があたためていた数多くの作品構想の中には『分身』や『罪と罰』といった題名も見られるが、彼の実際の作品の中でドストエフスキーの小説や思想と直接に結びついているシーンは残念ながら数えるほどしかなく、しかもわずかに触れられている程度でしかない。

 ここで注目したいのは、以下の三つの事実である。

 第一には、その実現可能性はともかく、ドストエフスキーその人についての映画の計画である。彼が最も信頼していた俳優アナトーリー・ソロニーツィン(1934-1982)を作家役と決めて構想したものの、この俳優の癌による早世とともに計画自体も立ち消えになってしまったようだ。しかし、タルコフスキーのドストエフスキーへの心酔ぶりはこの事実からも理解できるし、ソロニーツィンがその他のタルコフスキー作品で演じた役柄なども、タルコフスキーによるドストエフスキー像を考えるうえでは参考になるだろう。

 第二に、小説『白痴』の映画化の模索である。彼が1970年代から1986年末に亡くなるまで記していた日記には、恒常的と言ってもいいほどに『白痴』に対する何らかの記述がある。他の構想と比べてみても作品の実現の可能性は十分にあったようだが、ゴスキノ(国家映画委員会)との長いせめぎ合いの末、撮影許可はとうとう下りなかった。それでも、『白痴』についてタルコフスキーが書き残した印象的なシーンや小説や登場人物の分析、映画化を想定した配役のメモ、あるいはドストエフスキー作品に基づくソ連映画へのコメントや、わずかながらに残されている黒澤明の映画『白痴』に関する言及などから、彼がどのような『白痴』を撮ろうとしていたのかを推測することができる。

 第三には、1986年に公開されたタルコフスキー最後の作品『サクリファイス』でわずかに示されるドストエフスキー世界へのリンクである。冒頭のシーンで、この映画の主人公アレクサンデルが、かつては俳優であり、『白痴』のムイシュキン公爵を演じて成功した過去を持っていることが語られる。『白痴』やムイシュキン公爵に関してそれ以上に語られることはなく、この設定はさほど大きな意味を持っていないようにも思える。そのせいか、この設定はこれまで十分には注目されてこなかった。しかし、この映画を『白痴』(あるいはドストエフスキーの世界)に重ねるならば、そこにはタルコフスキーによる信仰と生にまつわるドストエフスキーとの対話が見えてくる。

 今回の発表では、近年のタルコフスキー研究も紹介しながら、以上のことを中心に検討していく。

*   *   * 

前回の「合評会報告」は、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

Authors & Books(Bulgarian Dostoevsky Society):《Читаем роман Идиот в фильмах Куросавы Акиры》

Читаем роман Идиот в фильмах Куросавы Акиры»  (Сэйбунся,2011)

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Предисловие. Смутный мир и поиски «положительно прекрасного человека»

Введение. «Загадочный» герой – литература и кинематография как метод

Глава I. Молодой человек „с наполеоновской бородкой” – Мышкин и Гаврила

Глава II. Русская “Дама с камелиями” – Настасья и Тоцкий

Глава III. Русский “Яго” – Лебедев и Рогожин

Глава IV. Загадка “Бедного рыцаря” -Аглая и Радомский

Глава V. «Приговорённый к смертной казни» – Ипполит и Спешнев

Глава VI. Русский «князь Христос» – Идиот  как трагедия

Глава VII. Наследование идеи Мышкина – тема Идиота в фильмах Акиры Куросавы

Примечания

Послесловие

Приложение 1. Хронологическая таблица в связи с романом Идиот.

  1. Фильмография Акиры Куросавы

 

   *   *   *

В данной книге я попытался подробно проанализировать роман Идиот с точки зрения режиссёра Акиры Куросавы и, пользуясь методом сравнительного литературоведения и сравнительного исследования цивилизаций, выяснить истинное значение этого романа в наше время.

Ф.М.Достоевский в письме от 1 января 1868 года к любимой племяннице С.Я. Ивановой таким образом изложил идею романа Идиот: «Главная мысль романа – изобразить положительно прекрасного человека. Труднее этого нет ничего на свете, а особенно теперь. (…) На свете есть одно только положительно прекрасное лицо – Христос».

 В романе «Идиот»  князь Мышкин критикует казнь гильотиной: “Сказано: «Не убий», так за то, что он убил, и его убивать? Нет, это нельзя. Вот я уж месяц назад это видел, а до сих пор у меня как перед глазами. Раз пять снилось”.

 Как известно, Достоевский написал этот роман, обращая большое внимание не только на такие русские произведения, как «Бедный рыцарь»,  «Скупой рыцарь» и «Евгений Онегин» А.С.Пушкина и «Горе от ума» Гритбоедова, но и на западную литературу: например, «Последний день приговорённого к смерти»,  «Отверженные» В.Гюго, «Дама с камелиями» А.Дюма-сына,  «Отелло»  У.Шекспира и др.

Спустя несколько лет после Второй мировой войны, в 1951 году,  режиссёр Акира Куросава показал на экране фильм «Идиот» по мотивам одноимённого романа Ф.М.Достоевского. В предисловии к постановке он писал: «Я, по-своему, очень любил героя и действующих лиц»; указывая далее, что, наверное, трудно передать в фильме « глубину романа», он вместе с тем подчеркнул, что «однако, с уважением к автору и с любовью к кино, я сделал все, что в моих силах».

В самом деле, Куросава, известный успешной экранизацией произведений мировой литературы, изменяя место, время и состав действующих лиц, сумел точно описать отношение двух семей и глубокие страдания молодой героини  через взгляд героя. Особенно первый кадр, где изображается страшный крик ночью и слова героя, что он во сне опять видел сцену смертной казни, и последний кадр этого фильма, где Аяко (Аглая), высоко оценивая мировоззрение героя, говорит: «Какой я была глупой девушкой, скорее, именно я была идиоткой», хорошо показывают глубокое понимание Куросавы романа Идиот.

К сожалению, этот фильм был сокращён наполовину из-за требования компании. Но у нас остался полностью сценарий этого фильма, обнаруживающий коварную роль Лебедева, который как Яго в пьесе Шекспира, приводит героев к гибели.

Хотя в сценарии и отсутствуют образы дочери Лебедева Веры и Ипполита, но в фильме «Скандал» (1950), где звучит рождественский христианский гимн «Тихая ночь», изображена дочь хитрого адвоката с невинной душой; и герой фильма «Жить» (1952), тоже «приговорённый к смерти» из-за болезни пребывает в отчаянии, как Ипполит. Итак, эти фильмы имеют очень тесную взаимосвязь; их можно даже назвать экранизированной трилогией романа Идиот, и они показывают глубокое понимание режиссёром сущности этого романа.

Сверх того, в романе «Идиот» довольно часто упоминаются имена врачей; профессор Шнейдер, известный хирург Пирогов, работавший врачом во время Крымской войны, и «старичок генерал». И Гаврила спрашивает Мышкина: «Да что вы, князь, доктор, что ли? »

В самом деле, Мышкин объясняет Рогожину положение Настасьи Филлипповны так: «Она очень расстроена и телом и душой, головой особенно, и, по-моему, в большом  уходе нуждается».

И в фильмах Куросавы «Пьяный ангел» (1948) и «Тихая дуэль» (1949) врачи также играют очень важную роль; особенно в фильме «Красная борода» (1965) изображено трогательное отношение врача к больной девочке, образ которой перекликается с образом Нелли из романа Униженные и оскорбленные  Достоевского.

Как кажется, в связи с углублением темы Мышкина в своих фильмах, Куросава считал тему врача (человека), который всеми силами спасает жизнь (и не только тело, но и душу) пациентов, одной из главных тем в произведениях Ф.М.Достоевского.

Кроме того, учитывая вопрос Ипполита Мышкину: «Правда, князь, что вы раз говорили, что мир спасет «красота»?», то же самое можно сказать и о больном мире.

Итак, в данной книге, анализируя фильмы Куросава, я размышлял также о значении почвенничества и постарался показать важность романа Идиот в современном мире.

https://bod.bg/en/authors-books.html

小林秀雄の平田篤胤観と堀田善衛

『夜明け前』1『夜明け前』2『夜明け前』3『夜明け前』4

(岩波文庫版『夜明け前』、図版は紀伊國屋書店より)

『罪と罰』からの強い影響が指摘されている『破戒』だけでなく、ドストエフスキー(1821~81)とほぼ同時期を生きた自分の父・島崎正樹(1831~86)をモデルとした『夜明け前』のことは、ずっと気になっていましたが、日本文学の専門家ではなく「復古神道」にも疎かったためにそのままになっていました。

 ただ、今年が「明治維新」の150周年なので、日露の近代化の比較という視点から『夜明け前』をドストエフスキー研究者の視点から詳しく読み解くことにしました。

なぜならば、文芸評論家の小林秀雄は「天皇機関説」事件の翌年に行われた『文学界』合評会の「後記」で、『夜明け前』について「成る程全編を通じて平田篤胤の思想が強く支配してゐるといふ事は言へる」と記していましたが、この文章に注意を促した新保祐司氏が今年2月に雑誌『正論』に載せた評論で「改憲」の必要性を説いているからです。

すなわち、今年の「正論大賞」を受賞した新保祐司氏は「日本人の意識を覚醒させる時だ」と題した論考で、小林秀雄の「モオツァルト」にも言及しながら皇紀2600年の奉祝曲として作られたカンタータ(交声曲)「海道東征」を、ここには「紛れもなく『日本』があると感じられる」と賛美し、さらに「感服したのは、作者が日本という国に抱いている深い愛情が全篇に溢(あふ)れている事」だと記した小林の『夜明け前』論を引用して「戦後民主主義」の風潮から抜け出す必要性を主張していました。

しかし、『夜明け前』で「平田派の学問は偏(かた)より過ぎるような気がしてしかたがない」という寿平次などの批判的な言葉も記した島崎藤村は、新政府の政策に絶望して「いかなる維新も幻想を伴うものであるのか、物を極端に持って行くことは維新の附き物であるのか」という半蔵の深い幻滅をも描いていたのです。

自分の信じる宗教を絶対化して他者の信じる仏像などを破壊する廃仏毀釈を強引に行い、親類からも見放されて狂人として亡くなった半蔵の孤独な姿の描写は、シベリアの流刑地でも孤立していた『罪と罰』のラスコーリニコフの姿をも連想させるような深みがあります。

 一方、テキストに記された「事実」を軽視して、きわめて情念的で主観的に作品を解釈する小林秀雄の批評方法は、「信ずることと考えること」と題して行われた昭和四九年の講演会の後の学生との対話でより明確に表れています。

 すなわち、そこで「大衆小説的歴史観」と「考古学的歴史観」を批判しつつ、「たとえば、本当は神武天皇なんていなかった、あれは嘘だとういう歴史観。それが何ですか、嘘だっていいじゃないか。嘘だというのは、今の人の歴史だ」と語った小林秀雄は「神話的な歴史観」を擁護していたのです(国民文化研究会・新潮社編『小林秀雄 学生との対話』新潮社、2014年、127頁)。

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

小林秀雄の復古神道的な見方に対して全く異なる見解を記したのが、二・二六事件の前日に上京した若者を主人公とした自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』で、ドストエフスキーの『白夜』の冒頭の文章を何度も引用するとともに、「異様な衝撃」を受けたナチスの宣伝相ゲッベルスの「野蛮な」演説にも言及していた作家の堀田善衛氏でした。

 平田篤胤の全集を読んだ主人公は、「洋学応用の復古神道――新渡来の洋学を応用して復古というのもまことに妙なはなしであったが――は、儒仏を排し、幕末にいたっては国粋攘夷思想ということになり、祭政一致、廃仏毀釈ということになり、あろうことか、恩になったキリスト教排撃の最前衛となる。それは溜息の出るようなものである」という感想を抱くのです。

さらに、堀田は登場人物の一人に「平田篤胤がヤソ教から何を採って何をとらなかったかが問題なんだ、ナ」と語らせ、「復古神道はキリスト教にある、愛の思想ね、キリストの愛による救済、神の子であるキリストの犠牲による救済という思想が、この肝心なものがすっぽり抜けているんだ。汝、殺すなかれ、が、ね」と続けさせていました。

 この言葉は、昭和九年の「『白痴』についてⅠ」において「殺すなかれ」という理念を説いていたムィシキンを主人公とした長編小説『白痴』の結末を、「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と解釈していた小林秀雄の批評方法に対する厳しい批判ともなっているでしょう。

 悲惨な戦争へと突入していくことになる時期の日本を描いた『若き日の詩人たちの肖像』は、政府主催による「明治百年記念式典」が盛大に行われた一九六八年に発行されていました。

このことに留意するならば、主人公の心境を描いたこの文章は、「立憲主義」を敵視して「憲法」の放棄を目指す復古主義的な傾向が再び強くなり始めていた執筆当時の日本に対する深い危惧の念をも示しているようにも思えます。(表記は現代表記に改めました)。

→ 二、「神国思想」と司馬遼太郎の「別国」観

   (2018年7月25日、8月18日改題と改訂)

 

『黒澤明で「白痴」を読み解く』の紹介(ブルガリア・ドストエフスキー協会のサイトより)

ブルガリア・ドストエフスキー協会のサイトに日本語とロシア語で『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011年)の自著紹介が書影とともに掲載されました。ここでは日本語版を転載します。

https://bod.bg/en/authors-books.html

 『黒澤明で「白痴」を読み解く』大ブルガリア、ソフィア大学 (ソフィア大学、出典はブルガリア語版「ウィキペディア」)

 『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011)

 はじめに――混迷の世界と「本当に美しい人」の探求

目次

序章 「謎」の主人公――方法としての文学と映

第一章 「ナポレオン風顎ひげ」の若者――ムィシキンとガヴリーラ

第二章 ロシアの「椿姫」――ナスターシヤとトーツキー

第三章  ロシアの「イアーゴー」――レーベジェフとロゴージン

第四章 「貧しき騎士」の謎――アグラーヤとラドームスキー

第五章  「死刑を宣告された者」――イッポリートとスペシネフ

第六章 ロシアの「キリスト公爵」―― 悲劇としての『白痴』

終章 ムィシキンの理念の継承――黒澤映画における『白痴』のテーマ

あとがき

索引

附録1 『白痴』関連年表 附録2 黒澤明関連年表

  *   *   *

本書で私は黒澤明監督の視点と比較文学や比較文明学の方法によって、長編小説『白痴』を詳しく分析することによって、現代におけるこの長編小説の真の意義を明らかにしようと試みた。

ドストエフスキーは長編小説『白痴』の構想について姪のソフィアに宛てた一八六八年一月一日の手紙で、次のように記していた。「この長編の主要な意図は本当に美しい人間を描くことです。これ以上に困難なことはこの世にありません。…中略…。この世にただひとり無条件に美しい人物がおります。――それはキリストです。」

長編小説『白痴』でムィシキン公爵はギロチンによる死刑を批判しながら、「『殺すなかれ』と教えられているのに、人間が人を殺したからといって、その人間を殺すべきでしょうか? いいえ、殺すべきではありません。ぼくがあれを見たのはもう一月も前なのに、いまでも目の前のことのように思い起こされるのです。五回ほど夢にもでてきましたよ」と語っていた。

そして、ドストエフスキーはプーシキンの『貧しき騎士』や『けちな騎士』、『エヴゲーニイ・オネーギン』や、グリボエードフの『知恵の悲しみ』など多くのロシア文学や、ユゴーの『死刑囚の最後の日』や『レ・ミゼラブル』、デュマ・フィスの『椿姫』など西欧文学にも注意を払いながら、この長編小説『白痴』を書いていた。

一方、第二次世界大戦の終了から数年後の1951年にドストエフスキーの長編小説『白痴』を元にした同名の映画を公開した黒澤明監督は、「『白痴』演出前記」において、「僕は僕なりに、この主人公と作中人物を永い間愛して来た」と書いた黒澤は、映画《白痴》を「原作の深さ」には及ばないだろうとしながらも、「原作者に対する尊敬と映画に対する愛情を傾けて、せい一ぱい努力するつもりだ」と書いた。

実際、多くの文学作品を成功裏に映画化している黒澤は、場所と時代、登場人物を変更しながらも、二つの家族の関係と女主人公の苦悩を主人公の視線をとおして正確に描き出している。

ことに、真夜中の怖ろしい悲鳴と死刑になる場面を夢で見たという主人公の説明が描かれている冒頭のシーンと、映画の最後に綾子(アデライーダ)が主人公の世界観を讃えつつ、「私、なんて馬鹿だったんだろう……白痴だったの、わたしだわ!」と語っている場面は、この長編小説に対する監督の深い理解を物語っている。

残念ながら、この映画は会社の要求によって半分に短縮されたが、軽部(レーベジェフ)がシェークスピアの戯曲『オセロ』のイアーゴーと同じように、主人公たちを破滅へと導く狡猾な役割を果たしていることを暴露している映画の脚本は完全な形で残っている。

脚本においてもレーベジェフの娘ヴェーラやイッポリートの形象は欠如しているが、クリスマスの賛美歌「清しこの夜」が響いている映画《醜聞》(1950)では清純な心を持つ、卑劣な弁護士の娘が、映画《生きる》(1952)には病によって「死を宣告」されてイッポリートと同じように絶望した主人公が描かれている。こうしてこれらの映画は長編小説『白痴』の三部作とも呼べるような深い関わりを持っている。

さらに、長編小説『白痴』ではシュネイデル教授をはじめ、有名な外科医ピロゴフ、そしてクリミア戦争の際に医師として活躍した「爺さん将軍」などがしばしば言及されており、ガヴリーラもムィシキンに対して「いったいあなたは医者だとでもいうのですか?」と尋ねていた。

実際、ムィシキンはロゴージンにナスターシヤについて「あの人は体も心もひどく病んでいる。とりわけ頭がね。そしてぼくに言わせれば、十分な介護を必要としている」と説明していたのである。

一方、黒澤映画《酔いどれ天使》(1948)や《静かなる決闘》(1949)、《赤ひげ》(1965)では医師が非常に重要な役割を演じており、ことに映画《赤ひげ》ではドストエフスキーの長編小説『虐げられた人々』のネリーをモデルにした少女の患者と医者たちとの感動的な関係が描かれている。

ムィシキンのテーマの深まりからは、おそらく黒澤が、医師(人)が全力を尽くして患者の生命(肉体のみならず精神)を救うというテーマを、ドストエフスキーの主要なテーマと結びつけて考えていたのだと思える。

さらに、イッポリートが「公爵、あれは本当のことですか、あなたがあるとき、世界を救うのは『美』だと言ったというのは?」と質問していたことも考慮するならば、そのことは病んだ世界についてもいえるだろう。

こうして、本書では他の黒澤映画も検討しながら大地主義の意義も考察することによって、現代の世界における長編小説『白痴』の重要性を示した。    

『若き日の詩人たちの肖像』と『夜明け前』――平田篤胤の思想をめぐって 

『若き日の詩人たちの肖像』上、アマゾン『若き日の詩人たちの肖像』下、アマゾン(書影は「アマゾン」より)

『若き日の詩人たちの肖像』では「『カラマーゾフの兄弟』中の、スペインの町に再臨したイエス・キリストが何故に宗教裁判、異端審問にかけられねばならなかったかという難問について」喋り続けるアリョーシャと呼ばれる若者が描かれていますが、「ガダルカナルでは陸軍は殲滅的な打撃をうけているらしい」ことが伝わってくるようになると、その彼は「突然正座して膝に手を置き、眼と額をぎらぎらと輝かして」次のように語ります〔下・305~306〕。

「だからキリストがだな、キリストが天皇陛下なんだ。つまり天皇陛下がキリストをも含んでいるんだ。キリストの全論理の、その上に、おわしましますんだ」。

そこではどうしてそのような結論になるのかは明かされていませんが、「いずれその日本のために戦って死なねばならぬとなれば、国学というものにはその日本の絶対によい所以(ゆえん)が書いてあるのであろう」と思い、「平田篤胤全集にとりかかった」主人公は、アリョーシャの言葉の論理的な背景を知ることになります〔下・320~323〕。

すなわち、そこでは「義の為にして窘難(きんなん)を被る者は、これ即ち真福にて、その已に天国を得て処死せざるとあるなり。これ神道の奥妙、豈人意を以て測度すべけむや」と書かれていたのですが、それは「幸福(さいわい)なるかな、義のために責められたる者、天国はその人のものなり」という「マタイ伝第五章にあるイエス・キリストの山上の垂訓」のほとんど引き写しだったからです。

それでも、「平田篤胤は、本当に前人未踏の地で苦闘をしているのである。天地創造の問題を神学的に処理するために彼は苦しみぬいているのである」と評価しようとした主人公は、アリョーシャの論理をこう説明しています。

「キリスト教や西洋天文学までを援用して儒仏を排するというところから発し、アダムもエヴァもわれらの古伝の訛りだということになれば、つづけて世界も宇宙も、つまりは八紘はわが国の天之御中主神の創造になるものであり、従って八紘はわが国の一宇であって、その天之御中主神が天皇陛下の御先祖様であるということになると、それはまったくアリョーシャの言ったように、天皇はキリストを含んで、という次第に、たしかになる。」

しかし、その後で主人公は「この洋学応用の復古神道――新渡来の洋学を応用して復古というのもまことに妙なはなしであったが――は、儒仏を排し、幕末にいたっては国粋攘夷思想ということになり、祭政一致、廃仏毀釈ということになり、あろうことか、恩になったキリスト教排撃の最前衛となる。それは溜息の出るようなものである。」と続けていました。

一方、文芸評論家の小林秀雄は1942年7月に行われた座談会「近代の超克」において、「近代人が近代に克つのは近代によってである」として欧米との戦争を評価していましたが(河上徹太郎、竹内好他『近代の超克』富山房百科文庫、昭和54年)、長編小説の主人公はこの座談会を想起しながら、「とにかく近代の超克もなにもあったものではなかった。近代を超克するというのなら、まず平田篤胤あたりから超克してかからなければならぬだろうと思う」と書いています。

しかも、登場人物に「平田篤胤がヤソ教から何を採って何をとらなかったかが問題なんだ、ナ」と語らせた堀田氏は、「復古神道はキリスト教にある、愛の思想ね、キリストの愛による救済、神の子であるキリストの犠牲による救済という思想が、この肝心なものがすっぽり抜けているんだ。汝、殺すなかれ、が、ね」と続けさせています。

この言葉は、「殺すなかれ」という理念を説いていたムィシキンを主人公とした長編小説『白痴』の結末について、「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と1934年に書いた「『白痴』についてⅠ」で解釈していた小林秀雄のドストエフスキー観の厳しい批判ともなっているでしょう。

そして、この長編小説で堀田善衛氏は主人公の心境を次のように描いているのです。「平田篤胤の研究は、男を本当にがっかりさせてしまった。何をするのもいやになってしまった。日本精神だとか、国学だとか、あるいはまた皇道ということばが印刷物に矢鱈に沢山出てくる。」(下、327)。

興味深いのは、このような厳しい批判が長編小説『竜馬がゆく』において、幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となり、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と記した作家・司馬遼太郎の指摘と重なることです。

その司馬は『この国のかたち』の第五巻で「篤胤は、国学を一挙に宗教に傾斜させた。神道に多量の言語をあたえたのである」と指摘し、「創造の機能には、産霊(むすび)という用語をつかい、キリスト教に似た天地創造の世界を展開した」と説明した後で、平田篤胤の言説が庄屋など「富める苗字(みょうじ)帯刀層にあたえた」影響を次のように記していました。

「平田国学によって幕藩体制のなかではじめて日本国の天地を見出させた、ということだった。奈良朝の大陸文化の受容以来、篤胤によって別国が湧出したのである」(太字は引用者)。

「昭和初期」を「別国」あるいは、「異胎」の時代と激しい言葉で呼んでいた司馬氏がここでも「別国」という独特の用語を用いていることは、昭和の「別国」と平田篤胤によってもたらされた「別国」との連続性を示唆していると思われます。

『夜明け前』1『夜明け前』2『夜明け前』3『夜明け前』4

(岩波文庫版『夜明け前』、図版は紀伊國屋書店より)

このような昭和初期の重苦しい時代に島崎藤村が描いた長編小説が、「黒船」の到来に危機感を煽られて古代を理想視した平田派の学問を学び、草莽の一人として活躍しながら明治維新の達成後には新政府に裏切られて絶望し、ついに発狂して亡くなった自分の父・島崎正樹(1831~86)を主人公のモデルとした『夜明け前』でした。

この長編小説は芥川龍之介が日本の検閲を厳しく批判した小説『河童』を書いたあとで、「ぼんやりした不安」を理由に自殺した2年後の昭和4年から連載が始まり昭和10年に完結しましたが、その年にはそれまで国家公認の憲法学説であった東大教授・美濃部達吉の天皇機関説が「国体に反する」との理由で右翼や軍部の攻撃を受けて、著者は公職を追われ、著書は発禁となるという事件が起きていました。

それゆえ、研究者の相馬正一は「田中ファシズム内閣が、〈国家〉の名において個人の言論・思想を封殺する狂気を実感しながら」島崎藤村が、「『夜明け前』の執筆と取り組んでいた」ことの意義を強調しています(『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』人文書館、2006年)。

実際、天皇機関説事件で「立憲主義」が否定された日本では、明治5年3月に廃止されて内務省神社局となっていた神祇省が皇紀2600年を祝った昭和15年に内務省の「外局神祇院に昇格」して、「国家神道は名実ともに絶頂期」を迎えました。

皇紀2600年

(1940年の紀元2600年記念式典会場、出典は「ウィキペディア」)

しかし、それは神武東征の神話を信じた日本が、「皇軍無敵」を唱えて無謀な太平洋戦争へと突入することを意味していました。

戦況が苦しくなると神風を信じて特攻隊をも編制してまでも戦争を続けた日本は、広島・長崎に原爆が落とされたあとでようやくポツダム宣言を受け入れたのです。

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注目したいのは、司馬遼太郎や宮崎駿監督と行った鼎談で、堀田善衛が「『この国』という言葉遣いは私は島崎藤村から学んだのですけど、藤村に一度だけ会ったことがある。あの人は、戦争をしている日本のことを『この国は、この国は』と言うんだ」と語っていたことです(『時代の風音』朝日文庫、1997年、150頁)。

実際、『夜明け前』には「新たな外来の勢力、五か国も束になってやって来たヨーロッパの前に、はたしてこの国を解放したものかどうかのやかましい問題は、その時になってまだ日本国じゅうの頭痛の種になっていた」などという形で「この国」という表現が度々出てきます。

このように見てくるとき、大学受験のために上京した翌日に2.26事件に遭遇した主人公が「赤紙」によって召集されるまでの「昭和初期」の重苦しい日々を、若き詩人たちとの交友をとおして克明に描き出した堀田善衛の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』(1968年)は、馬篭宿の庄屋であり、「篤胤没後の門人」でもあった青山半蔵を主人公とした島崎藤村の『夜明け前』を強く意識して書かれていたといっても過言ではないでしょう。

堀田善衛、時代の風音、アマゾン(書影は「アマゾン」より)