高橋誠一郎 公式ホームページ

黒澤明

「映画《白痴》から映画《生きる》へ」を「映画・演劇評」のページに掲載しました

先ほどブログ記事に書いた劇団・藝術座の結成百周年記念イベントの紹介記事で、黒澤映画《生きる》でも用いられている「ゴンドラの唄」に言及しました。

この唄が最初に歌われたのはツルゲーネフの長編小説を劇化した《その前夜》でしたが、祖国独立への理想に燃えるブルガリアからの留学生と若いロシア人たちとの友情、そして女主人公との愛を描いたこの長編小説は、私が遠いブルガリアへの留学を決意するきっかけになった小説でもありました。それゆえ、劇団・藝術座のことを知ることができるこのイベントに今から少し興奮しています。

その「ゴンドラの唄」を映画《生きる》の中で用いている黒澤監督の選曲の妙には感心させられましたが、私自身はこの映画の内容は長編小説『白痴』と深い関連を持っており、できれば映画《白痴》と連続して見るべきだと考えています。

拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』からの引用になりますが、その理由を記した箇所を「映画・演劇評」に掲載しました。

「島村抱月と松井須磨子の藝術座百年」を記念したイベントのお知らせを「新着情報」のページに掲載しました

黒澤映画《生きる》では、俳優の志村喬がブランコに乗りながら歌ったことで、今も愛唱されている「ゴンドラの唄」や、劇『復活』の劇中歌として用いられて爆発的なヒット曲となった「カチューシャの唄」などで知られる劇団・藝術座が今年で結成百周年に当たります。

日本の演劇に大きな影響をおよぼした島村抱月主宰の劇団・藝術座の結成百周年を記念したイベントの記事を「新着情報」のページに掲載しました。

 

映画《夢》と映画《生きものの記録》――「黒澤明死して15年直筆ノートにあった…」

8月20日のブログでは映画《生きものの記録》に関連して、特集「映画は世界に警鐘を鳴らし続ける」と題する企画についての仙台出身の岩井俊二監督とスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーとの対談記事の紹介をしました。

昨日は黒澤明研究会からの知らせで、「報道ステーション」で放映された「黒澤明死して15年直筆ノートにあった…」というタイトルの映像がYou Tubeにアップされていることを知りました。

15分足らずの短い映像ですが、熊田雅彦制作主任と野上照代氏、さらに黒澤久雄氏や橋本忍氏などの証言と映画のシーンをとおして黒澤監督の切実な思いが見事に編集されていました。

  原発の危険性を予告していた映画《夢》の「赤富士」の映像だけでなく、被爆の問題を扱った映画《生きものの記録》の映像も用いることで、「直筆ノート」に記された黒澤明監督の先見性や映画に込められた深い思想も伝わってきます。You Tubeにアップされているこの番組を、ぜひ多くの人に見て頂きたいと思っています。

ドストエフスキーとトルストイⅡ――『死の家の記録』と『罪と罰』をめぐって

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(『欧化と国粋』刀水書房の表紙。図版はオムスクの監獄)

はじめに

前回は、雑誌『時代』や長編小説『虐げられた人々』におけるドストエフスキーのトルストイ作品への言及を考察しましたが、トルストイも1881年2月に評論家のストラーホフに出した手紙で、『虐げられた人々』を読み直して「感動した」と書いていました。

今回はグロスマンが編集したドストエフスキーの伝記や徳冨蘆花の「順禮紀行」によりながら、ストラーホフという批評家を挟んでドストエフスキーとトルストイの関係を分析することで、『死の家の記録』と『罪と罰』についてのトルストイの高い評価の意味を考察することにします(なお本稿では、題名も含めて人名の表記は、ドストエフスキーに統一します)。

 

1,「大改革」の時代と『死の家の記録』

ドストエフスキーが「大改革」の時代に自分が体験したシベリア流刑と監獄での生活を元に描いた長編小説『死の家の記録』では、この小説の書き手を自分と同じ政治犯ではなく、妻殺しの罪で捕らえられたゴリャンチコフと設定し、さらにプーシキンの短編集『ベールキン物語』のように、主人公の描いた記録を別の編者がまとめるという形をとっています。このことによって、ドストエフスキーは小説の「虚構性」を確保して検閲に対処するとともに、内容においては大胆に監獄の実態を明らかにすることができたのです。

「死の家」と名づけられている『死の家の記録』の第一章では、二五〇人ほどの囚人の半数以上が、ロシアではめずらしく読み書きできる能力をもっていたと書き、「その後わたしは、誰かがこうした資料をもとにして、教育が民衆を亡ぼすという結論を出した、という話を聞いた。それはまちがいである」と主人公のゴリャンチコフが断言しています。

つまり、農民を奴隷状態に長いことおいていたロシアでは、農民に様々な知識を与えることは、特権を与えられている「貴族」への批判を生むことになると考えられてきました。しかし、ドストエフスキーはこのような考えに対して、「教育が民衆の自己過信を育てることは、認めざるをえない。しかし、それはけっして欠点ではないはずである」と人間が自己の尊厳を持ち、貴族の間違いを正すためにも教育が必要であることを強調して、この監獄の考察においても「大改革」の当時持ち上がっていた教育の問題を中心的なテーマの一つとして持ち込んでいたのです。

『死の家の記録』の構成で注目したいのは、第一部の終わりに位置する第一一章「芝居」でドストエフスキーが、一八五一年一二月から翌年の一月までの降誕祭の期間に「軍事犯獄舎」に即席に作られた舞台で、貧弱な舞台装置だけで行われた芝居の上演を描いていることです。この上演にはドストエフスキー自身も演出家としてかかわっていましたが、それまでの監獄の構造や殺害者の心理に迫るような暗い描写の後で、この章は際だった明るさを持っています。たとえば、ドストエフスキーは主人公の筆をとおして『恋敵フィラートカとミローシカ』という劇の主人公を演じた元下士官のバクルーシンの演技について「フィラートカをわたしはモスクワとペテルブルクの劇場で何度か見たが、…中略…首都の俳優たちは、いずれもバクルーシンにおとっていた」と讃え、これ以外の劇でも「どの作品にも彼らの独自の解釈が盛られていた」と高く評価しています。これらの記述からは、ドストエフスキーが「民衆」に対する教育の必要性ばかりでなく、「大地」に根ざした「民衆」の知恵を学ぶことの重要性も指摘していたことが感じられるでしょう。

実際、主人公のゴリャンチコフは「民俗研究家の有志が、民衆芝居について新しいいままでよりもいっそう綿密な研究に専念することが、大いに望ましい」と記していますが、演劇研究者のアリトシューレルが指摘しているように『死の家の記録』における監獄での上演の描写は民衆芝居の記録としてもユニークな位置を占めていたのです。(拙著、『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2002年、第3章〈権力と強制の批判――『死の家の記録』と「非凡人の思想」〉参照)。

それゆえ、この長編小説はゲルツェンをはじめ多くの思想家から高く評価されましたが、トルストイもまた1880年に批評家のストラーホフへの手紙で、「数日来病気で、暇にまかせて『死の家』を読みました。我を忘れてあるところは読み返したりしましたが、近代文学の中でプーシキンを含めてこれ以上の傑作を知りません。作の調子ではなく、観点に驚いたのです。誠意にあふれており、自然であり、キリスト教的で、申し分のない教訓の書です」と書いています(グロスマン、松浦健三訳編「年譜(伝記、日記と資料)『ドストエフスキー全集』(別巻)、新潮社、1980年、483頁)。

そして、「私は昨日一日中初めて味わうような楽しい気持ちで過ごしました」と続けたトルストイは、「おついでの折りがありましたら何とぞよろしく御鳳声のほどお願い申し上げます」と書いていました。

この言葉を受けて、この手紙を数日後にドストエフスキーに渡していたストラーホフは、サンクト・ペテルブルク・スラヴ慈善協会の副会長だったドストエフスキーが翌年の1881年に亡くなると、その総会で追善会が行われた際には、『死の家の記録』を絶賛したトルストイの手紙を引用しつつ講演を行っていたのです。

2,ストラーホフの「回想」とトルストイ

トルストイはドストエフスキーの死を知るとストラーホフに、「私はこの人に会ったこともなし、格別交渉もなかったけれども、死なれてみると、不意に、私には、この人が、なんと言っても私に一番近い、大切な、必要な人であったことが判りました」と書いて深い哀悼の念を伝えていました(グロスマン、前掲訳書)。

ドストエフスキー死後の1883年にはストラーホフが書いた「ドストエフスキーの回想」も所収されたドストエフスキー全集の第一巻が発行されましたが、ドストエフスキーとトルストイとの関係を考える上で重要なのは、トルストイに宛てた手紙で自分の「回想」にふれたストラーホフが「執筆中小生は、絶えず胸に込み上げてくる憎悪の念と闘いながら、なんとか克服しようと努めました。彼は意地が悪くて、嫉妬深くて、ふしだらで、(中略)彼に一番よく似ている人物は『地下室』の主人公や『罪と罰』のスヴィドリガイロフ、それから『悪霊』のスタヴローギンです」と書き、「彼の小説は、根本的には自己釈明のかたまり」であると断定していたことです。

著作とともにこの手紙を受け取ったトルストイも「(前略)御作拝読しました。御書面にはいささか気が沈み、失望も致しました。しかしあなたの言われることはよく判ります。(中略)御作ではじめて彼の才能の底のところを知りました」と記して、ストラーホフへの共感を示し、これらの手紙は1914年に『L・N・トルストイ=N・N・ストラーホフ往復書簡集』第2巻に発表されました。

ただ、木下豊房氏は「ストラーホフの中傷」という文章で、「この十年ほどの間に公表された資料によって」、ストラーホフによる誹謗の背景がいくらか明らかになってきたことを指摘しています(『ドストエフスキー ――その対話的世界』(成文社、2002年、279~281頁)。

すなわち、「回想」を編むためにさまざまな資料を読む機会を得たストラーホフは、ドストエフスキーが1875年にアンナ夫人に宛てた手紙で、「あれはいやらしい神学生で、それ以上の者ではない。あれはすでに一度私を見すてた」と書き、さらに、「創作ノート」でも「聖人君子のふりをしていながら、内心は色好みで、脂ぎった粗野な淫蕩行為のためとあれば、誰であれ何であれ売り渡しかねない」と痛烈な批判をしていた文章を読んだ可能性があり、トルストイ宛の自分の書簡が将来公表されることも計算したストラーホフの「意趣返し」だっただろうと説明されているのです。

実際、『L・N・トルストイ=N・N・ストラーホフ往復書簡集』は、ドストエフスキーやトルストイの死後に発行されたので、批判されたドストエフスキーには釈明する機会は与えられず、彼についての暗い噂は一気にロシアの文壇で広がることになりました。

日本でもストラーホフの「回想」などに基づいて、作家ドストエフスキーと『悪霊』のスタヴローギンとの類似性を強調しながら、ドストエフスキーの文学を「父殺しの文学」とする新しい解釈を示した研究書がたいへんに売れて注目されましたが、黒澤明監督が映画《醜聞(スキャンダル)》で描いたように、いつの時代でも週刊誌などのレベルではゴシップ的な記述は好まれるのです。

しかし、望月哲男氏がその「読書ガイド」で記しているように、トルストイ自身はストラーホフの中傷の呪縛から生前中に解き放されていました。すなわち、『芸術とは何か』(英語版、1898年)でトルストイが、「『神と隣人への愛に発した宗教的芸術』の数少ない手本として」、『死の家の記録』を挙げていることを指摘した望月氏は、「たとえば笞打ち刑の残酷さや、それが囚人の精神に与える大きなトラウマを描いた部分が」、「トルストイに、大きな印象を与えたことも十分想像されます」と説明しているのです(望月哲男訳『死の家の記録』、2013年、光文社)。

トルストイの方が現代日本の「最先端」と自認するドストエフスキー研究者よりもドストエフスキー作品の理解が深かったといえるようです。

 

3,トルストイの『罪と罰』観

日本におけるトルストイの受容という視点から注目したいのは、日露戦争後にヤースナヤ・ポリャーナを訪れた德富蘆花にたいして『罪と罰』の高い評価を語っていたことです。このことについては、すでに『司馬遼太郎とロシア』(東洋書店、2010年)でも記しましたが、ストラーホフをも視野にいれることで、トルストイのドストエフスキー観がより明瞭になると思います。

よく知られているように、トルストイは日露戦争が勃発すると「悔い改めよ」と題する論文をイギリスの『タイムズ』に発表して、殺生を禁じている仏教国と「四海兄弟と愛を公言している」キリスト教国との戦争を厳しく批判しました。この論文は日本でも幸徳秋水と堺利彦によって翻訳され、『平民新聞』に掲載されましたが、その時には賛同しなかった徳冨蘆花は戦争の悲惨さを知って1906年にトルストイを訪れて5日間を過ごし、欧米を「腐朽せむとする皮相文明」と呼んで、力によって「野蛮」を征服しようとする英国などを厳しく批判したトルストイの発言から強い感銘を受けたのです。

私の視点から興味深いのは、自作のうちでどの作品を最も評価するかという蘆花の問いに対して、『戦争と平和』を挙げたトルストイが、そこには「愛国に過ぎたる所あり」と続けていたことです(徳冨蘆花「順禮紀行」、『明治文學学全集』第42巻、筑摩書房、昭和41年、183~186頁参照)。

トルストイが『戦争と平和』において、戦争が「人間の理性と人間のすべての本性に反する事件」と明確に規定していたことを思い起こすならば、これは意外な感じのする答えです。

しかし、大著『ロシアとヨーロッパ――スラヴ世界のゲルマン・ローマ世界にたいする文化的および政治的諸関係の概要』(1869年)を出版したロシアの思想家ダニレフスキーは、そこでトルストイの『戦争と平和』を高く評価しながら、大国フランスに勝つことによって、抑圧されていたスラヴの諸民族にも独立の気概を与えたと「祖国戦争」の意義を讃えていたのです(Данилевский,Н.Я., Россия и Европа. СПБ.,изд.Глагол и изд.С-Петербургского университета, 1995. Сс.425-426.)

さらに、ダニレフスキーは「弱肉強食」の論理を正当化する西欧列強から滅ぼされないためには、「祖国戦争」に勝利したロシア帝国を盟主とする「全スラヴ同盟」を結成して西欧列強と対抗すべきだと主張していましたが、『戦争と平和』がこのような文脈で讃美されることは、トルストイにとっては腹立たしいことだった思われます。

一方、ストラーホフは1880年に行われたプーシキン祭でのドストエフスキーの講演について、スラヴ主義者のダニレフスキーへの手紙で、「ドストエフスキーに感謝している。彼はロシア文学の名誉を救ってくれました」と記しただけでなく、「ツルゲーネフには、またまた腹がたちました」と続けていました。

ドストエフスキーは「創作ノート」に「誰であれ何であれ売り渡しかねない」とストラーホフへのいらだちを記していましたが、同じ時期にトルストイとだけではなく好戦的なスラヴ主義者のダニレフスキーとも親密な交際をしていたストラーホフには、いったいあなたの本心はどこにあるのですかと問い質したくもなります。

この意味で注目したいのは、ロシアの作家のうち誰を評価するかとの蘆花の問いに対して、トルストイが「ドストエフスキー」であると答え、さらに蘆花が『罪と罰』についての評価を問うと「甚佳甚佳(はなはだよし、はなはだよし)」とも語って、ダニレフスキーの歴史観に影響される以前のドストエフスキーの長編小説を高く評価していたことです。(ドストエフスキーとダニレフスキーとの関係については、『講座比較文明』第1巻、朝倉書店、1999年に収録された拙論「ヨーロッパ『近代』への危機意識の深化(1)――ドストエフスキーの西欧文明観」参照)。

実際、ドストエフスキーは『罪と罰』において、「弱肉強食の思想」に影響されて「高利貸しの老婆」を殺したラスコーリニコフの悲劇と苦悩を描き出すとともに、そのエピローグではシベリアの流刑地でラスコーリニコフに大地や森、泉の尊さや民衆の「英知」に気づかせて、彼の「復活」を描き出していたのです。

晩年の1906年に蘆花に語られたトルストイの『罪と罰』観が、長編小説『白痴』の主人公ムィシキンを「その値打ちを知っている者にとっては何千というダイヤモンドに匹敵する」と述べた高い評価につながっていることは確実でしょう(Достоевский,Ф.М..Полное собрание сочинений в тридцати томах,, Ленинград,Наука,Т.9.С.4 19.)。

次回はいよいよトルストイの『白痴』観に迫ってみたいと思います。

 

関連記事

ドストエフスキーとトルストイⅠ――『虐げられた人々』とその時代

リンク→ドストエフスキーとトルストイⅢ ――『白痴』と『アンナ・カレーニナ』をめぐって

(2015年12月13日、図版とリンク先を追加)

 

「長編小説『罪と罰』と映画《罪と罰》」を「映画・演劇評」に掲載しました

先に「映画・演劇評」にモスクワで見た演劇の感想を掲載しましたが、モスクワで留学中に見たイワン・プィリエフ監督の映画《白痴》(1958)と映画《カラマーゾフの兄弟》(1968)、そしてレフ・クリジャーノフ監督の映画《罪と罰》(1970)なども、原作を忠実に映画化しようとしていて好感が持てました。

《白痴》のムィシキンを演じたユーリー・ヤコヴレフが亀田役の森雅之の演技から強い影響を受けているとの評判や、この映画が第一部のみで終わってしまったのは、あまりに迫真の演技をしたので主役も精神を病んだからだという噂を聞いたのもモスクワの友人からでした。

映画《罪と罰》を撮ったレフ・クリジャーノフ監督が、1971年に日本で公開された際のパンフレットで、「ドストエフスキーの作品を映画化した過去の映画の中で最良の作品」として黒澤映画《白痴》を挙げていたことも後に知りました。

『罪と罰』も推理小説的な筋立てを持っていますが、日本でもヒットしたテレビ・ドラマ《刑事コロンボ》と同じように、初めから犯人やトリックを明かしつつ、犯人の心理や動機に迫るという構造なので、今回は長編小説『罪と罰』の粗筋の紹介もかねて映画《罪と罰》の映画評を掲載します。

特集「映画は世界に警鐘を鳴らし続ける」と映画《生きものの記録》、を「映画・演劇評」に掲載しました

7月の下旬に「科学者(知識人)の傲慢と民衆の英知――映画《生きものの記録》と長編小説『死の家の記録』」という論文を書き上げました。

この論文の内容については雑誌が発行されてから具体的に記するようにしたいと思いますが、ほぼ書き終えた頃にインターネットの検索で仙台出身の岩井俊二監督とスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーとの対談記事を見つけました。

「大地の激動と『轟々と』吹く風」と題した《風立ちぬ》論Ⅱには、この対談から影響を受けていると思われる箇所がありますので、今回の「映画・演劇評」では「映画は世界に警鐘を鳴らし続ける」という日本映画専門チャンネルの特集についての対談記事より、《生きものの記録》について語られている箇所を中心に紹介します(テキスト・構成・撮影:CINRA編集部、2011/12/30)。

「 黒澤明監督の《生きものの記録》と宮崎駿監督の《風立ちぬ》」より改題(8月22日)

「映画・演劇評」に「映画《赤ひげ》と映画《白痴》――黒澤明監督のドストエフスキー観」を掲載しました

「黒澤明研究会」の9月例会では、映画《赤ひげ》の研究発表が行われることになりましたので、

映画《白痴》を理解する上でも重要な映画《赤ひげ》についても触れているエッセーを掲載します。

なお、映画《生きものの記録》や映画《夢》にも言及した2009年のこの小さなエッセーが、

拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011年)の骨格をなしていることも記しておきます。

「著書・共著」の『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011年)を更新しました

『黒澤明で「白痴」を読み解く』の「目次」を詳しいものと差し替えるとともに、

「はじめに」の抜粋を削除し、その代わりに私とドストエフスキー作品との出会いに触れている「あとがき」の一部を掲載しました。

今回、省いた映画《白痴》論は、いずれ「映画・演劇評」に掲載します。

なお、拙著の発行前に起きた原発事故に関心が集中してしまい、重要な方々の人名表記などに誤記がありましたので、訂正箇所を示しました。

映画《八月の狂詩曲(ラプソディ)》と映画《父と暮せば》

黒澤監督が映画《白痴》を撮ったことはよく知られていますが、長崎を舞台にした晩年の映画《八月の狂詩曲(ラプソディ)》からも、ドストエフスキーの理解の深さが感じられます。

このように書くと多くの人は奇異に感じるでしょうが、夏休みに長崎を訪れた孫たちの眼をとおして、原爆で夫を失った祖母の悲しみと怒りがたんたんと描かれているこの作品は、次のような点で『白痴』を連想させます。

1,場所の移動によって生じる主人公の祖母と子供たちとのふれあい(ここでは『白痴』とは異なり、移動してくるのは子供たちですが、その後に起こる事態は似ています)。

2,悲惨な事実には眼をつぶってでも、金儲けをしようとする打算的な世代に対する主人公と子供たちの怒り。

3,原爆という「非人道的な兵器」に、「殺意」を持った「眼」を感じる祖母の感性。

4,激しい雷から、原爆を連想して正気を失い、夫を助けようと雨の中を走り出す祖母の姿。

映画《白痴》に見られたような人間関係の激しい描写はあまりありませんが、『白痴』のテーマは響いており、心にしみこむような作品になっています。

広島を舞台に原爆によって亡くなった父と、生き残った娘との心の交流を描くほのぼのとした中にも鋭い問題提起も含んだ作家井上ひさしの劇の映画化である黒木和雄監督の《父と暮せば》とともに、「広島原爆の日」と「長崎原爆の日」には、「公共放送」であるNHKには毎年放映して頂きたいと願っています。

〈 「映画・演劇評」に「長崎原爆の日」にちなんで映画《八月の狂詩曲(ラプソディ)》を掲載しました〉より改題。(5月8日)

リンク→黒澤映画《八月の狂詩曲(ラプソディー)》

 

「長崎原爆の日」と日本の孤立化

広島に続いて長崎でも68回目の「長崎原爆の日」が訪れた。この時期に起きたことは、多くの人がすでに知っていることとは思うが、自分自身の備忘録としても残しておきます。

広島の平和式典に参加したオリバー・ストーン監督は、アメリカによる原爆の投下の正当化を「それは神話、うそだと分かった」と語るとともに、米軍が各国に軍事基地を展開していることも「非常に危ない」と批判しました(『東京新聞』、6日付け、朝刊)。

広島市の松井一実市長は6日の平和宣言で、核兵器を「絶対悪」と規定するとともに、4月にスイス・ジュネーブであった核不拡散条約(NPT)再検討会議の準備委員会などででは、核兵器の非人道性を訴える共同声明に80カ国が賛同するなど、「核廃絶を訴える国が着実に増加している」のに、日本政府が賛同しなかったことを批判していました。

日本政府が進めている「インドとの原子力協定交渉についても、「良好な経済関係の構築に役立つ」としても、核兵器を廃絶する上では障害となりかねません」とも指摘していました。

9日の平和宣言で田上市長も、4月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議の準備委員会で、核兵器の非人道性を訴える80カ国の共同声明に日本政府が賛同しなかったことを「世界の期待を裏切った」と強く批判し、「核兵器の使用を状況によっては認める姿勢で、原点に反する」と糾弾しました。

NPT非加盟のインドとの原子力協定交渉についても「核兵器保有国をこれ以上増やさないためのルールを定めたNPTを形骸化する」と懸念を示した。イスラエルやパキスタン、さらには北朝鮮などが現在、NPTに加盟していないことを思い起こすならば、この交渉が北朝鮮との非核化交渉にも影を落とすことは確実でしょう。

日本は島国ということもあり、国際的な視点から見ると奇妙に思える安倍首相の憲法観や麻生副総理のワイマール憲法観には、国内からの厳しい批判は出ていません。戦前の日本のように、いつの間にか「国際政治から孤立化」する危険性さえ見え始めています。

この意味で思い出されるのは黒澤明監督が、長崎で被爆した祖母を主人公とした映画《八月の狂詩曲(ラプソディ)》(一九九一)で、アメリカで経済的に成功した親戚に招かれたことで有頂天となり、アメリカの原爆投下を批判しない子供の世代を、孫たちの視点をとおして描くことで、日本の問題点を浮き彫りにしていたことです。

このことについてはすでに、拙著で触れていましたので「映画・演劇評」で引用しておきます。