黒澤明監督の映画《白痴》は、観客の入りを重視した経営陣から「暗いし、長い。大幅カットせよ」と命じられてほぼ半分の分量に短縮されたために、字幕で筋の説明をしなければならないなど異例の形での上映となり、日本では多くの評論家から「失敗作」と見なされました。
しかし、黒澤監督は自分にとってのこの映画の意味を次のように語っていました。
「これは実は《羅生門》の前からやろうときめてた。ドストエフスキーは若い頃から熱心に読んで、どうしても一度はやりたかった。もちろん僕などドストエフスキーとはケタがちがうけど作家として一番好きなのはドストエフスキーですね。生きていく上につっかえ棒になることを書いてくれてる人です。更に僕はこの写真を撮ったことによってドストエフスキーがずいぶんよく判ったと思うのだけど、あの作家は一見客観的でないような場面も、肝心のところになると見事に客観的になってるのね。…中略…あれは僕の失敗作という定説だけど、結果としちゃ僕にとっては失敗じゃなかった。」
実際、ドストエフスキー研究者の新谷敬三郎氏は、「初めてみたときの驚き、ドストエフスキイの小説の世界が見事に映像化されている」と書いていましたが、この映画は『白痴』の原作を熟知している本場ロシアや海外、そして日本の研究者たちからはきわめて高く評価されました。
事実、黒澤映画《白痴》はナスターシヤをめぐるムィシキンとロゴージンとの「欲望の三角形」だけに焦点を絞ることなく、かつての父親の同僚だったエパンチン将軍の秘書として仕えることになったばかりでなく、莫大な持参金の見返りにすでに関心を失い始めていた美女ナスターシヤとの結婚を強要されたイーヴォルギン家の長男ガヴリーラの屈辱と、将軍の三女アグラーヤへの秘めた野望を、二つの家族の構成やそれぞれの性格をきちんと説得力豊かに描いていたのです。
それゆえ、最近も比較文学者の清水孝純氏が長編小説『白痴』を映画化した「黒澤のこの小説に対する深い愛着」を指摘するとともに、その際に黒澤監督が「『白痴』という小説から得た感動を回転軸として、文学言語を映画言語に転換する」という「戦略」をとっていることを指摘しています(「黒澤明の映画『白痴』の戦略」、『『白痴』を読む――ドストエフスキーとニヒリズム』(九州大学出版会、2013年)。
ただ、舞台を日本に移したこともあり黒澤映画《白痴》では、ギリシア正教を受け入れたロシアの歴史や思想の背景や、カトリックを受け入れたポーランドや西欧との激しい思想的対立を扱うことはできませんでした。また、時間的な制限のために黒澤映画では、トーツキーとの縁談話がおきていた長女アレクサンドラと、絵画の才能に恵まれて鋭い観察眼も有している次女のアデライーダの二人を一人にして描いていました。
一方、黒澤映画からの影響も強くみられるボルトコ監督のテレビ映画《白痴》では、全10回のシリーズとして放映されたために、原作のとおりにエパンチン家の三姉妹をボッティチェリの絵画《春》に描かれた「三美神」のように美しい姉妹として、それぞれの個性をきちんと描き出していました。
だいぶ前に書いたものですが、このテレビ映画について書いたエッセーを「映画・演劇評」に掲載しました。