「日本ペンクラブ電子文藝館」に寄稿した論考のリンク先が見つけにくいとのご指摘がありましたので、下記に示します。
なお、「主な研究活動」タイトル一覧のⅠとⅡにも常時、掲載するようにしました。
リンク先→「主な研究(活動)」タイトル一覧
司馬遼太郎の教育観 ――『ひとびとの跫音』における大正時代の考察(2006/12/12)
戦争と文学――自己と他者の認識に向けて(2005/11/04)
司馬遼太郎の夏目漱石観 ――比較の重要性の認識をめぐって(2004/03/10)
「日本ペンクラブ電子文藝館」に寄稿した論考のリンク先が見つけにくいとのご指摘がありましたので、下記に示します。
なお、「主な研究活動」タイトル一覧のⅠとⅡにも常時、掲載するようにしました。
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司馬遼太郎の教育観 ――『ひとびとの跫音』における大正時代の考察(2006/12/12)
戦争と文学――自己と他者の認識に向けて(2005/11/04)
司馬遼太郎の夏目漱石観 ――比較の重要性の認識をめぐって(2004/03/10)
以前のブログにも記しましたが、執筆中の拙著『司馬遼太郎の視線(まなざし)――子規と「坂の上の雲」と』(仮題、人文書館)では新聞記者でもあった作家・司馬遼太郎氏が俳人・正岡子規の成長をどのように描き、子規の視線(まなざし)をとおして日露戦争をどのように分析しているかを考察しています。
子規との関連で新聞『日本』の性格についても調べているのですが、その中で強く感じるのは明治六年に設立された「内務省」や明治八年に制定されて厳しく言論を規制した「新聞紙条例」や「讒謗律(ざんぼうりつ)」によって言論が規制され、何度も発行停止などの厳しい処分を受けながら、言論人としての節を曲げずに、経済的に追い詰められながらも新聞を発行し続けた社主・陸羯南などの明治人の気概です。
いつ倒産するかも分からない新聞社に入社した正岡子規も給与が安いことを卑下することなく、むしろそのような新聞の記者であることを「誇り」として働いていたのです。
司馬氏は『坂の上の雲』の「あとがき」で、ニコライ二世の戴冠式に招かれて「ロシア宮廷の荘厳さ」に感激した山県有朋が日本の権力を握ったことが、昭和初期の「別国」につながったことも示唆していました。それは明治の人々が当時の「独裁政権」に抗してようやく勝ち取った「憲法」がないがしろにされることで、「国民」の状態が「憲法」のないロシア帝国の「臣民」に近づいたということだと思えます。
新聞記者だった司馬氏が長編小説『坂の上の雲』を書いた大きな理由は、冷厳な事実をきちんと調べて伝える「新聞報道」の重要性を示すためだったと私は考えています。
昨年の参議院選挙の頃にもそのようなことを強く思ってHPを立ち上げていたので、汚染水の流出と司馬氏の「報道」観について記したブログ記事を再掲し、その後で『日刊ゲンダイ』のデジタル版に掲載された〈朝日「吉田調書」誤報騒動のウラで東電が隠してきた“事実” 〉という記事を紹介することにします。
* * *
日本には「人の噂も75日」ということわざがあるが、最近になって発覚した事態からは、同じことが再び繰り返されているという感じを受ける。
参議院選挙後の22日になって放射能汚染水の流出が発表されたが、報道によれば「東電社長は3日前に把握」していたことが明らかになり、さらに27日には福島第一原発2号機のタービン建屋地下から延びるトレンチに、事故発生当時とほぼ同じ1リットル当たり計23億5000万ベクレルという高濃度の放射性セシウムが見つかったとの発表がなされた。
汚染水の流出の後では、この事実の隠蔽に関わった社長を含む責任者の処分が発表されたが、問題の根ははるかに深いだろう。
たとえば、参議院選挙を私は、「日本の国土を放射能から防ぐという気概があるか否か」が問われる重大な選挙だと考えていた。しかしほとんどのマスコミはこの問題に触れることを避けて、「衆議院と参議院のねじれ解消」が最大の争点との与党寄りの見方を繰り返して報道していた。
「臭い物には蓋(ふた)」ということわざもある日本では、「見たくない事実は、眼をつぶれば見えなくなる」かのごとき感覚が強く残っているが、事実は厳然としてそこにあり、眼をふたたび開ければ、その重たい事実と直面することになる。
このことを「文明論」的な視点から指摘していたのが、歴史小説家の司馬遼太郎氏であった。再び引用しておきたい(「樹木と人」『十六の話』)。
チェルノブイリでおきた原子炉事故の後で司馬氏は、「この事件は大気というものは地球を漂流していて、人類は一つである、一つの大気を共有している。さらにいえばその生命は他の生物と同様、もろいものだという思想を全世界に広く与えたと思います」と語っていた(傍線引用者)。
さらに司馬氏は、「平凡なことですが、人間というのはショックが与えられなければ、自分の思想が変わらないようにできているものです」と冷静に続けていた。
きれいな水に恵まれている日本には、過去のことは「水に流す」という価値観も昔からあり、この考えは日本の風土には適応しているようにも見える。
だが、広島と長崎に原爆が投下された後では、この日本的な価値観は変えねばならなかったと思える。なぜならば、放射能は「水に流す」ことはできないからだ。
チェルノブイリの原子力発電所は「石棺」に閉じ込めることによってなんとか収束したが、福島第一原子力発電所の事故は未だに収束とはほど遠い段階にあり、「海流というものは地球を漂流して」いる。
日本人が眼をつぶっていても、いずれ事実は明らかになる。(後略)
* * *
「東電はまだまだ重要な事実を隠している」──あの未曽有の事故から3年8カ月。原発事故情報公開弁護団が1枚のファクスから新たな疑惑を発掘した。福島第1原発の2号機が危機的状況に陥っていた3月15日の朝、東電本店が姑息な隠蔽工作を行っていた疑いが浮き彫りとなった。
問題のファクスは、当日午前7時25分に福島第1原発の吉田昌郎所長が原子力安全・保安院に送信したものだ。現在も原子力規制委のホームページに公開されている。ファクスにはこう記されている。
〈6時~6時10分頃に大きな衝撃音がしました。準備ができ次第、念のため『対策本部』を福島第2へ移すこととし、避難いたします〉
今まで重要視されることのなかったファクスだが、きのうの会見で弁護団が突きつけた「新事実」は傾聴に値する。メンバーの海渡雄一氏はこう言った。
「『対策本部』自体を福島第2へ移すことは、第1に人員が残っていたとしても、彼らは対策の主力ではなくなる。まぎれもなく『撤退』だと考えられます」
■まぎれもなく「撤退」
となると、朝日新聞が「誤報」と認めた「吉田調書報道」に新たな解釈が生じる。朝日の第三者機関「報道と人権委員会(PRC)」は、当該記事が「撤退」と断定的に報じたことを問題視。今月12日に「『撤退』という言葉が意味する行動はなかった。第1原発には吉田所長ら69人が残っており、対策本部の機能は健在だった」とする見解をまとめ、「重大な誤りがあり、記事取り消しは妥当」と断じたが、いささか早計すぎたのではないか。
まず結論ありきで、「PRCは『撤退はなかった』と言い切るだけの根拠を調べ抜いたのか。重大な疑念が生じる」(海渡氏)と非難されても仕方ない。 問題にすべきは東電の隠蔽体質の方だ。当日午前8時30分に行われた本店の記者会見では、作業員650人の移動先を「第1原発の安全な場所」と発表。第2原発に移動した事実には一切触れなかった。
「吉田所長のファクスは『異常事態連絡様式』という公式な報告書で、本店が内容を把握していないわけがありません。『撤退』した事実の隠蔽を疑わざるを得ません」(海渡氏)
同じくメンバーで弁護士の小川隆太郎氏はこう話した。
「政府はまだ当日、現場にいた作業員ら771人分の調書を開示していない。今後、明らかにしていくべきです」
福島原発事故の真相はまだ闇に包まれたままだ。
* * *
リンク先→
真実を語ったのは誰か――「日本ペンクラブ脱原発の集い」に参加して
リンク→ Ⅲ、正岡子規・夏目漱石関連簡易年表(1857~1910)
年表Ⅲとしてアップしていた「正岡子規・夏目漱石関連簡易年表」は、未完成の状態でしたので気になっていました。
今回は世田谷文学館「友の会」主催の講座「新聞記者・正岡子規と夏目漱石――『坂の上の雲』をとおして」でもご紹介した坪内捻典氏の『正岡子規 言葉と生きる』(岩波新書)に掲載されている「正岡子規略年譜」の記述や水川隆夫氏の『夏目漱石と戦争』(平凡新書)などを参考加筆と訂正を行いました。
子規と漱石に関する記述がふえましたので、子規と漱石が生まれた1867年以降の記載に際しては両人以外の人や国内の事柄は行を替えて、外国での出来事などについては【】内に記すようにしました。なお、この年表では戦争や暗殺は朱で、戦争につながると思われる内務省や新聞紙条例などはオレンジの色で表記しました
標記の拙著に関しては発行が大幅に遅れて、ご迷惑や心配をおかけしていますが、ようやく新しい構想がほぼ固まりました。
本書では「黒塊(コツクワイ)」演説を行ったことが咎められて松山中学を中退して上京し、「栄達をすてて」文学の道を選んだ正岡子規に焦点を絞ることで、新聞記者でもあった作家・司馬遼太郎氏が子規の成長をどのように描いているかを詳しく考察しています。
長編小説『坂の上の雲』では、子規の死後に起きた日露戦争における戦闘場面の詳しい描写や戦術、さらには将軍たちの心理の分析などに多くの頁が割かれていますので、それらを省略することに疑問を持たれる方もおられると思います。
しかし、病いを押してでも日清戦争を自分の眼で見ようとしていた子規の視野は広く、「写生」や「比較」という子規の「方法」は、盟友・夏目漱石やその弟子の芥川龍之介だけでなく、司馬氏の日露戦争の描写や考察にも強い影響を及ぼしていると言っても過言ではないように思えます。
司馬氏は漱石の長編小説『三四郎』について「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と記しています。子規と漱石との交友や、子規の死後の漱石の創作活動をも視野に入れることで、長編小説『坂の上の雲』の「文明論的な」骨太の骨格を明らかにすることができるでしょう。
『坂の上の雲』の直後に書き始めた長編小説『翔ぶが如く』で司馬氏は、「征韓論」から西南戦争に至る時期を考察することで、「近代化のモデル」の真剣な模索がなされていた明治初期の日本の意義をきわめて高く評価していました。明治六年に設立された「内務省」や明治八年に制定されて厳しく言論を規制した「新聞紙条例」や「讒謗律(ざんぼうりつ)」は、新聞『日本』の記者となった子規だけでなく、「特定秘密保護法」が閣議決定された現代日本の言論や報道の問題にも深く関わると思われます。
それゆえ本書では、子規の若き叔父・加藤拓川と中江兆民との関係も視野に入れながらこの長編小説をも分析の対象とすることで、長編小説『坂の上の雲』が秘めている視野の広さと洞察力の深さを具体的に明らかにしたいと考えています。
ドストエフスキーを深く敬愛して映画《白痴》を撮った黒澤明監督は、『蝦蟇の油――自伝のようなもの』の「明治の香り」と題した章において、「明治の人々は、司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』に書かれているように、坂の上の向うに見える雲を目指して、坂道を登っていくような気分で生活していたように思う」と書いています。
焦点を子規とその周囲の人々に絞ることによって、この作品の面白さだけでなく、「明治の人々」の「残り香」も引き立たせることができるのではないかと願っています。
リンク→『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)
( 2015年8月10日、改訂と改題)
世田谷文学館「友の会」主催の講座「新聞記者・正岡子規と夏目漱石――『坂の上の雲』をとおして」を下記のような形で行います。
講義の内容や文献については、「主な研究」を参照してください。
日時: 6月27日(金) 午後2時~4時
場所: 世田谷文学館 2階 講義室
参 加 費:700円
申込締切日:6月16日(月)
先ほどアップしたブログでも少しふれましたが、当初は小林秀雄の芥川龍之論と黒澤明の映画《羅生門》との比較は大きなテーマなので、今回は省くつもりでした。
しかし、このテーマを省いてしまうと司馬遼太郎が「歌は事実をよまなければならない」(『坂の上の雲』・「子規庵」)として「写生」の重要性を訴えた子規から漱石を経て、芥川につながる日本文学の流れを踏まえている黒澤と、このような流れを軽視していると思える小林秀雄との違いが見えにくくなってしまうことに気づき、急遽、必要最小限はふれるようにしました。
そのために発行の予定が大幅に延びてしまいましたので、その一部を「主な研究」に抜粋して掲載するとともに、ドストエフスキーの初期の作品と芥川作品との関連についても少し言及しておきます。
当初は省くつもりだった小林秀雄の芥川龍之論と
黒澤明の映画《羅生門》との比較を行ったために、
最終段階で予想以上に手間取ってしまいましたが、ようやく本論を脱稿しました。
第4章では夏目漱石の『夢十夜』や『三四郎』にも言及していますので、 年表では芥川だけでなく小林秀雄の誕生の年に亡くなった正岡子規や漱石にも触れています。
このことにより「写生」の重要性を訴えた子規から漱石を経て、
芥川につながる日本文学の流れを踏まえている黒澤と、
このような流れを軽視していると思える小林秀雄との違いも明確になったと思えます。
謹賀新年
本年もよろしくお願いします。
昨年は原発の輸出だけでなく弾薬の譲渡、さらには「特定秘密保護法」の強行採決などたくさんの危険な出来事が続きましたが、今年はなんとかよい年にしたいものです。
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気分を変えるために大晦日に、高畑勲監督の映画《かぐや姫の物語》を妻と見てきました。
日本最古の物語を題材にしたこのアニメ映画では、現代の「殿上人」ともいえる大臣や高級官僚が忘れてしまった昔からの日本の自然観がきちんと描かれており、この映画にも「風が吹いている」と感じて新たな気持ちで年を越えることができました。
このブログでも《風立ちぬ》の感想とともに、この映画についても記していきたいと思っています。
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正岡子規は立身出世の道が開かれている東京帝国大学卒業を断念して、日本の言語や文化に根ざした俳句を詳しく調べ直し、俳句の「日本の古い短詩型に新風を入れてその中興の祖」になりました(「春や昔」『坂の上の雲』第1巻、文春文庫)。
今年こそは司馬遼太郎氏が敬愛した正岡子規に焦点をあてて『坂の上の雲』を読み解く著書を発行したいと考えています。
高校や大学の頃には小説や詩を書いていましたので、今回は子規の心意気に感じて初心に戻り、拙いながらも一句披露します。
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新春に核廃絶の「風立ちぬ」
最近はブログ記事で内務省の設置や新聞紙条例に関連して、子規や漱石について触れることが多くなっています。
それゆえ、まだ作成中の段階ですが、急遽、「正岡子規・夏目漱石関連年表」(1857~1910)を「年表」のページに掲載しました。
年表の開始となる年は、正岡子規の師ともいうべき陸羯南が生まれた1857年とし、終わる年はトルストイが亡くなり、大逆事件が起きた1910年にしました。
いずれ子規と漱石関連の事柄は靑い字で、戦争や暗殺は朱で、戦争につながると思われる内務省や新聞紙条例などはオレンジの色で表記する予定です。
前回のブログ記事「司馬作品から学んだことⅢ――明治6年の内務省と戦後の官僚機構」で、人々の生命をはぐくむ「大地」さえもが投機の対象とされていた時期に、「土地に関する中央官庁にいる官吏の人に会った」司馬氏がその官僚から、「私ども役人は、明治政府が遺した物と考え方を守ってゆく立場です」という意味のことを告げられて、 「油断の横面を不意になぐられたような気がした」と書いていたことを紹介しました。
その後で司馬氏は、敗戦後も「内務省官吏は官にのこり、他の省はことごとく残された。/ 機構の思想も、官僚としての意識も、当然ながら残った」と続けていたのです(『翔ぶが如く』第10巻、文春文庫、「書きおえて」)。
晩年の司馬氏の写真からは、突き刺さるような鋭い視線を感じましたが、おそらく今日の日本の状況を予想して苛立ちをつのらせておられたのだと思います。
このように書くと、いわゆる「司馬史観」を批判する歴史家の方々からは甘すぎるとの反論があるでしょう。
しかしプロシアの参謀本部方式の特徴を「国家のすべての機能を国防の一点に集中するという思想である」と説明していた司馬氏は、このような方向性は当然教育にも反映されることとなり、正岡子規の退寮問題が内務官僚の佃一予(つくだかずまさ)の扇動によるものであったことを『坂の上の雲』において次のように記していたのです。拙著、 『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』(東海教育研究所、2005年、74~75頁より引用します。
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このような風潮の中で…中略…後に「大蔵省の参事官」や「総理大臣の秘書官」を歴任した佃一予のように、「常磐会寄宿舎における子規の文学活動」を敵視し、「正岡に与(くみ)する者はわが郷党をほろぼす者ぞ」とまで批判する者が出てきていたのです。
そして司馬は「官界で栄達することこそ正義であった」佃にとっては、「大学に文科があるというのも不満であったろうし、日本帝国の伸長のためにはなんの役にも立たぬものと断じたかったにちがいない」とし、「この思想は佃だけではなく、日本の帝国時代がおわるまでの軍人、官僚の潜在的偏見となり、ときに露骨に顕在するにいたる」と続けたのです。
この指摘は非常に重要だと思います。なぜならば、次章でみるように日露戦争の旅順の攻防に際しては与謝野晶子の反戦的な詩歌が問題とされ、「国家の刑罰を加うべき罪人」とまで非難されることになるのですが、ここにはそのような流れの根幹に人間の生き方を問う「文学」を軽視する「軍人、官僚の潜在的偏見」があったことが示唆されているのです。
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残念ながら、「特定秘密保護法案に反対する学者の会」の記事がまだ産経新聞には載っていないとのことですが、産経新聞には司馬作品の真の愛読者が多いと思います。日本を再び、昭和初期の「別国」とさせないためにも、この悪法の廃案に向けて一人でも多くの方が声をあげることを願っています。
(2016年11月2日、リンク先を変更)
→正岡子規の時代と現代(5)―― 内務官僚の文学観と正岡子規の退寮問題
近著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)について