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正岡子規

子規の青春と民主主義の新たな胎動(改訂版)

子規の青春と民主主義の新たな胎動(改訂版)

今回の拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)では正岡子規を主人公として新聞『日本』を創刊した恩人・陸羯南との関わりや夏目漱石との友情をとおして『坂の上の雲』を読み解きました。

そのことにより「新聞紙条例」による日本の言論弾圧と帝政ロシアの検閲との比較や、「正教・専制・国民性」を強調することによって帝政ロシアの独自性を訴えた1833年の「ウヴァーロフの通達」が出された後に作家活動に入ったドストエフスキーと「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と説いた「教育勅語」が「憲法」が施行される前月に発布された後の子規や漱石との類似性をより具体的に分析することができたのではないかと考えています。

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なぜならば、日本は明治時代に自由民権運動の高まりをとおして強力な薩長藩閥政府を追い詰めて、国会を開設するという約束を明治一四年に獲得したという歴史を持っているからです。

そのような時期に青春を過ごした子規は松山中学校の生徒の時に、「国会」と音の同じ「黒塊」をかけて立憲制の急務を説いた「天将(まさ)ニ黒塊ヲ現ハサントス」という演説を松山中学校で行い、その後に叔父の加藤拓川をたよって上京しました。そして、「栄達をすてて」新聞記者となった子規は、文芸の道に邁進して日本の伝統的な俳句を再発見しただけでなく、分かりやすい日本語で一人一人が自分の思いを語れるように俳句の改革を行っていました。

そして、この長編小説を書く中で近代戦争の発生の仕組みを分析し、機関銃や原爆など近代兵器の問題を考察していた司馬氏も、「日本というこの自然地理的もしくは政治地理的環境をもった国は、たとえば戦争というものをやろうとしてもできっこないのだという平凡な認識を冷静に国民常識としてひろめてゆく」ことが、「大事なように思える」とも明確に記していたのです(以下、太字は引用者。「『「大正生れの『故老』」『歴史と視点』)。

*  *  *

これまで『坂の上の雲』については何冊かの拙著で論じてきましたので、簡単に今回の著書に至る流れをふりかえることで、問題点を確認しておきたいと思います。

学生の頃に『竜馬がゆく』を読んで魅力的な人物描写だけでなく、国際的な広い視野に支えられた壮大な構想を持つ司馬作品に魅せられていた私が強い衝撃を受けたのは、司馬遼太郎氏が一九九六年に亡くなられた後で起きたいわゆる「司馬史観」論争でした。この小説を賞賛する人だけでなく、批判する人の多くが『坂の上の雲』では戦争を肯定的に描かれていると解釈していることでした。

しかし、夏目漱石は日英同盟の締結に沸く日本をロンドンから冷静に観察していましたが、司馬氏も『坂の上の雲』において「自国の東アジア市場を侵されることをおそれ」たイギリスが同盟国の日本に求めたのは、「ロシアという驀進(ばくしん)している機関車にむかって、大石をかかえてその前にとびこんでくれる」ことだと書いていました(六・「退却」)。

それゆえ、「戦争する気概」を持っていた明治期の人々が『坂の上の雲』では描かれているとする解釈に強い危機感を感じた私は、自分で司馬論を書くしかないと思い、『竜馬がゆく』から『坂の上の雲』を経て、『菜の花の沖』に至る司馬作品の流れを分析した『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画)を二〇〇二年に上梓しました。

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さらに、『坂の上の雲』の映像化について「この作品はなるべく映画とかテレビとか、/そういう視覚的なものに翻訳されたくない作品であります」と司馬氏が記述していたにもかかわらず(『「昭和」という国家』日本放送出版協会、一九九八年)、NHKがこの作品の大河ドラマを放映しようとしていることを知り、急遽、『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』(東海教育研究所)を二〇〇五年に発行しました。

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この著書ではトルストイの『戦争と平和』が『坂の上の雲』にも強い影響を与えていることを明らかにするために、司馬遼太郎が精読していた徳冨蘆花のトルストイ観や蘆花が鋭く批判した兄・徳富蘇峰の戦争観などとの詳しい比較を行いました。また、日露の戦略の比較や将軍たちの心理描写の分析をとおして『坂の上の雲』における法律や教育や軍事、さらに情報の問題についても考察しました。

*   *   *

『坂の上の雲』において司馬氏は一九世紀末を「地球は列強の陰謀と戦争の舞台でしかない」と規定していましたが、二一世紀の初めに「同時多発テロ」が起ると、核兵器の先制使用も示唆したブッシュ政権はアフガンに続いてイラクでも「大義なき戦争」に突入し、一時はアメリカが一方的に勝利したかに見えましたが、そのイラクからはテロをも厭わないIS(イスラム国)が誕生し、今世紀の国際情勢はこれまで以上に複雑な様相を見せ始めています。

そして、地球上で唯一の被爆国であるという重たい事実の上に定着していた「憲法」を持つにもかかわらず日本でも、「報復の権利」を主張するアメリカの戦争に引きずられるようにして、今年の九月に自衛隊の派兵を可能とする「安保関連法」が成立しました。

一方、『坂の上の雲』執筆中の一九七〇年に「タダの人間のためのこの社会が、変な酩酊者によってゆるぎそうな危険な季節にそろそろきている」ことに注意を促していた司馬氏は(「歴史を動かすもの」『歴史の中の日本』中央公論社、一九七四年、一一四~一一五頁)、「政治家も高級軍人もマスコミも国民も、神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」と書いていました(太字は引用者。「『坂の上の雲』を書き終えて」)。

さらに司馬氏は言葉を継いで、幕末期だけでなく昭和初期をも視野に入れつつ、「尊皇攘夷」などのイデオロギーに酔って自分の眼で事実を見ない人々を次のように厳しく批判していたのです。

「自国や国際環境についての現実認識をうしなっていた。日露戦争の勝利はある意味で日本人を子供にもどした。その勝利の勘定書が太平洋戦争の大敗北としてまわってきたのは、歴史のもつきわめて単純な意味での因果律といっていい」。

現在の日本は「立憲主義」の根幹が揺らぎ、「明治憲法」さえなかった時代に逆戻りする危険性のある「文明の岐路」に立たされているように見えます。

ただ、このような事態に際して学生団体シールズが「民主主義ってなんだ」と若々しい行動力で問いかけ、それに呼応するかのように「学者の会」などさまざまの会や野党が立ち上がった今回の動きを見ている中で、私は民主主義の新たな胎動が始まっていると感じました。

来年は私が司馬作品の考察を本格的に始めてから二〇年目になりますが、その前夜に文明論的な視野の面で多くの示唆を受けていた司馬氏の学恩に答えることができる書をなんとか発行することができ、嬉しく感じています。

ISBN978-4-903174-33-4_xl(←画像をクリックで拡大できます)

「白い雲」を目指して苦しい坂を登った子規など、明治の「楽天家」たちの青春に焦点を当てて『坂の上の雲』を読み解いた『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)が、私と同世代の愛読者だけでなく、新しい時代を模索する現代の若者にも子規たちの若々しいエネルギーを伝えることができればと願っています。

(2017年10月6日、書影を追加し加筆。11月5日、改訂)

安倍政権の政治手法と日露の「教育勅語」の類似性

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安倍政権の強引な政治手法からは、「憲法」のなかったニコライ1世治下の「暗黒の30年」との類似性を痛感します。

2007年に発行した『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』(成文社)では、ニコライ1世の時代に出されたロシア版「教育勅語」の問題と厳しい検閲下で『貧しき人々』などの小説をとおして言論の自由の必要性を主張した若きドストエフスキーの創作活動との関係を考察していました。

前著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)では、ロシア版「教育勅語」と日本の「教育勅語」の類似性についても詳しく考察しました。

ロシア思想史の研究者の高野雅之氏は、「正教・専制・国民性」の「三位一体」を強調した「ウヴァーロフの通達」を「ロシア版『教育勅語』」と呼んでいますが、注目したいのは一九三七年には文部省から発行された『國體の本義』の「解説叢書」の一冊として教学局から出版された『我が風土・國民性と文學』と題する小冊子では、「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっていることは」、「日本の国体の精華であって、万国に類例が無いのである」と強調されていたことです。

この「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっている」という文言は、「正教・専制・国民性」の「三位一体」による「愛国主義的な」教育を求めたウヴァーロフの通告を強く連想させます。「教育勅語」が渙発された後の日本は、教育システムの面ではロシア帝国の政策に近づいていたといえるでしょう。(註――「教育勅語」と帝政ロシアの「ウヴァーロフの通達」だけでなく、清国の「聖諭廣訓」との類似性については高橋『新聞への思い』人文書館、2015年、106~108頁参照)。

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現在は新たな著書の執筆にかかっていますが、「憲法停止状態」とも言える状態から脱出するためにも、もう一度北村透谷や島崎藤村などの著作をとおして、「教育勅語」の影響を具体的に分析したいと考えています。

若きドストエフスキーを「憲法」のない帝政ロシアの自由民権論者として捉え直すとき、北村透谷や島崎藤村など明治の『文学界』同人たちによる『罪と罰』の深い受容の意味が明らかになると思えます。

「教育勅語」の問題を再考察する際にたいへん参考になったのが、リツイートで紹介した中島岳志氏と島薗進氏の『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』と樋口陽一氏と小林節氏の『「憲法改正」の真実』(ともに集英社新書)でした。

それらの著書を読む中で「教育勅語」の問題が「明治憲法」の変質や現在の「改憲」の問題とも深く絡んでいたことを改めて確認することができました。それらについてはいずれ参考になった箇所を中心に詳しく紹介することで、島崎藤村が『夜明け前』で描いた幕末から明治初期の時代についても考えてみたいと思います。

(2017年2月22日、図版と註を追加し、題名を改題)

小林秀雄の『夜明け前』評と芥川龍之介観

一,小林秀雄の『夜明け前』評

前回の小文で記したように、長編小説『夜明け前』を正面から論じた相馬正一氏の『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』(人文書館)からは、いろいろと教えられることが多くありました。

たとえば、「長年藤村の告白文学に馴染んできた批評家の多くは『夜明け前』をもその延長線上で捉え、父・島崎正樹をモデルにした〈私小説〉だ」と評価してきたことを紹介した相馬氏は、批評家の篠田一士が「もし世界文学というべきものが近い将来構成されるとすれば、『夜明け前』は当然、たとえば、『戦争と平和』の隣りに並ぶことになるだろう」と述べ、作家の野間宏もこの作品を「近代を超えて現代に通じるものを内に大きくかかえこんでいる」、「近代日本文学のもっとも重要な作品の一つ」と絶賛していたことにもふれています。

ここでは昭和11年に『文学界』5月号に掲載された合評会で、この作品の脚色をした村山知義の「人間が充分に描けていない」という批判に対して、小林秀雄が「人間が描けていないという様な議論もあったが、これは作者が意識して人物の性格とかを強調しなかったところからくる印象ではあるまいか」と弁護していたことも記されています。この前年の1月から『文学界』に『ドストエフスキイの生活』(~37年3月号)を連載し始めていた小林秀雄のこのような評価は客観的で『夜明け前』の意義をすでに見抜いていたことはさすがだと感じました。

ただ、相馬氏の少し踏み込みが足りないと感じたのは、この後で出席者の多くが『夜明け前』を特定のイデオロギーで意味づけようとしていたのに対して小林秀雄が、「『夜明け前』のイデオロギイという言葉自体が妙にひびくほど、この小説は詩的である。この小説に思想を見るというよりも、僕は寧ろ気質を見ると言いたい」と語って、「気質」を強調していたことが批判抜きで紹介されていたことです。

なぜならば、相馬氏は〈結、「夜明け前」と現代〉の章で、この長編小説と時代との関わりについてこう記していたからです。

「藤村が『夜明け前』第二部を発表した昭和七年から十年までは、日本が中国東北部に傀儡(かいらい)政権の〈満州国〉を造り上げて戦争へと突き進んだ時期であり、皇国史観と治安維持法を武器にして自由主義者や進歩的な学者への弾圧を強化した時期である」。

そして相馬氏は、「藤村にとっては、まさに戦前の恐怖政治を見据えての執筆だったのである」と続けていました。

長編小説『夜明け前』の合評会はこのような時期の直後の昭和11年に行われていたのですが、上海事変が勃発した1932(昭和7)年6月に雑誌『改造』に書いた評論「現代文学の不安」で、文芸評論家の小林秀雄は「この絶望した詩人たちの最も傷ましい典型は芥川龍之介であつた。多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書き、芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していました〔『小林秀雄全集』第1巻〕。

こうして芥川文学の意義を低める一方で、小林はドストエフスキーについては「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記し、「『憑かれた人々』は私達を取り巻いてゐる。少くとも群小性格破産者の行列は、作家の頭から出て往来を歩いてゐる。こゝに小説典型を発見するのが今日新作家の一つの義務である」と高らかに宣言していました。

執筆中の拙著『絶望との対峙――「坂の上の雲」の時代と「罪と罰」の受容』(仮題)で詳しく考察することにしますが――なお、ここで用いている「『坂の上の雲』の時代」とは、夏目漱石と正岡子規が生まれた1867年から日露戦争の終結までの時期を指しています――、私は絶望して自殺した北村透谷と同じように芥川龍之介もドストエフスキー文学の深い理解者だったと考えています。

それゆえ、芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定することは、比較文明的な広い視野と文明論的な深い考察を併せ持つドストエフスキー文学をも矮小化する事にもつながっていると思えるのです。

二、小林秀雄の芥川龍之介論と徳富蘇峰の北村透谷観

一九四一年に書いた「歴史と文学」という題名の評論の第二章で小林秀雄は、「先日、スタンレイ・ウォッシュバアンといふ人が乃木将軍に就いて書いた本を読みました。大正十三年に翻訳された極く古ぼけた本です。僕は偶然の事から、知人に薦められて読んだのですが、非常に面白かつた」と、徳富蘇峰による訳書推薦の序文とともに目黒真澄の訳で出版された『乃木大将と日本人』という邦題の伝記を高く評価していました。

問題はその直後に小林が日露戦争時の乃木大将をモデルにした芥川の『将軍』にも言及して、「これも、やはり大正十年頃発表され、当時なかなか評判を呼んだ作で、僕は、学生時代に読んで、大変面白かつた記憶があります。今度、序でにそれを読み返してみたのだが、何んの興味も起こらなかつた。どうして、こんなものが出来上つて了つたのか、又どうして二十年前の自分には、かういふものが面白く思はれたのか、僕は、そんな事を、あれこれと考へました」と続け、「作者の意に反して乃木将軍のポンチ絵の様なものが出来上る」と解釈していたことです(下線引用者))。

このことについてはすでに(〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉(『全作家』第90号、2013年)で書きましたが、実はそのときに思い浮かべていたのが、明治期の『文学界』(1893年1月~1898年1月)の第2号に発表した「人生に相渉るとは何の謂ぞ」で、頼山陽を高く評価した山路愛山の史論を厳しく批判したことから徳富蘇峰の民友社からの激しい反論にあい、生活苦や論戦にも疲れて次第に追い詰められ日清戦争の直前に自殺した北村透谷と徳富蘇峰の関係のことでした。

徳富蘇峰はなぜが自殺に追い詰められたかを分析するのではなく、北村透谷や戦争中の1895年にピストル自殺した正岡子規より四歳年下の従兄弟・藤野古伯のことを念頭に、「文学界に不健全の空気充満せんとする……吾人は断然此種不健全の空気を文学界より排擠(せい)せんと欲す」と『国民新聞』で断じていたのです。

一方、先に見た昭和11年の『文学界』5月号に掲載された合評会で小林秀雄は言葉を継いで長編小説『破戒』なども視野に入れつつ、『夜明け前』をこう絶賛していました。

「作者が長い文学的生涯の果に自分のうちに発見した日本人という絶対的な気質がこの小説を生かしているのである。個性とか性格とかいう近代小説家が戦って来た、又藤村自身も戦って来たもののもっと奥に、作者が発見し、確信した日本人の血というものが、この小説を支配している。この小説の静かな味わいはそこから生れているのである」。

ここで小林秀雄が『夜明け前』を高く評価していることは確かです。しかし、藤村が敬愛した北村透谷と徳富蘇峰との関係をも視野に入れるならば、「日本人の血」が強調されているのを読んだ藤村は、喜多村瑞見(モデルは栗本鋤雲)の「東西文明を見据えた公平な史観」などによりながら激動の時代を描いた自作が矮小化されているとの強い不満を感じたのではないでしょうか。

おわりに――島崎藤村から坂口安吾へ

こうして、多くの知的刺激を受けた相馬氏の『国家と個人――島崎藤村「夜明け前」と現代』における小林秀雄の評価には、物足りなさと強い違和感を覚えていたのですが、その二ヶ月後に刊行された『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』(人文書館、2006年11月)を読んだ時に、その印象は一変しました。

太宰治の研究で知られる相馬氏は、太宰治の志賀直哉批判を踏まえた上で、太宰の盟友でもあった坂口安吾の厳しい小林秀雄批判にも言及していたのです。

この本については、稿を変えて紹介することにします。

リンク→相馬正一著『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』(人文書館、2006年11月)

島崎藤村と司馬遼太郎――長編小説『夜明け前』をめぐって

『罪と罰』からの強い影響が指摘されている長編小説『破戒』ばかりでなく、北村透谷を中心に『文学界』の同人との交友を描いた長編小説『春』や『桜の実の熟する時』を書いた島崎藤村(1872~1943)と司馬作品との関係については、以前から気になっていました。

たとえば、島崎藤村は司馬氏が『ひとびとの跫音』でもふれている芥川龍之介の自殺から2年後の昭和4年から連載した長編小説『夜明け前』の冒頭を次のような印象的な文章で始めています。

「木曾路(きそじ)はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖(がけ)の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道(かいどう)はこの深い森林地帯を貫いていた」。

このように街道の地形を描いた藤村はこう続けて、「街道」の重要性に注意を促していました。

「この道は東は板橋(いたばし)を経て江戸に続き、西は大津(おおつ)を経て京都にまで続いて行っている。東海道方面を回らないほどの旅人は、否(いや)でも応(おう)でもこの道を踏まねばならぬ。」

一方、司馬氏は織田信長の伊賀攻略により一族を皆殺しにされ、復讐のために権力の後継者である豊臣秀吉を暗殺しようとした忍者を主人公とした『梟の城』(一九五八)の冒頭でこう描いています。

「伊賀の天は、西涯(せいがい)を山城国境い笠置の峰が支え、北涯を近江国境いの御斎(おとぎ)峠がささえる。笠置に陽が入れば、きまって御斎峠の上に雲が湧いた」。

そして司馬氏は、「(この)小盆地を、山城、伊勢、近江の四ヵ国の山がとりまき、七つの山越え道が、わずかに外界へ通じて」おり、それらの「京から発し琵琶湖東岸を通り、岐阜、駿河、小田原、鎌倉、江戸へ通じた交通路はそのまま日本史における権力争奪の往還路でもあった」と書いていたのです。

司馬氏が後に後にライフワークともいえる『街道をゆく』シリーズを書くことになることにも留意するならば、直木賞を受賞した『梟の城』の冒頭に記されたこの文章からは、『夜明け前』の文章だけでなく藤村の文明観との類似性が強く感じられるでしょう。

*   *   *

しかも、前著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)を書く中で、明治27(1894)年には正岡子規が編集主任をしていた家庭向けの新聞『小日本』第74号に北村透谷の追悼記事が掲載されていたことや透谷を尊敬していた島崎藤村が1897年に子規と会って、新聞『日本』への入社についての相談をしたばかりでなく、子規の小説についての感想も語っていたことが分かりました。

子規のことを敬愛していた司馬氏が、「私は、このひとについて、『坂の上の雲』と『ひとびとの跫音』を書いた」と書いていたことに注目するならば、子規と藤村が会っていたことの意味は大きいと思われます。

ただ、司馬氏が藤村に言及している箇所は意外に少ないのですが、このことは関心の少なさを物語るものではないでしょう。昭和初期の暗い時期に少年時代を過ごした司馬氏は、この時期を「別国」と名付けていました。このことからも想像できるように、日本から言論の自由がなくなり、戦争へと走り出していた暗い時代に、文明開化と国粋思想の間に揺れた激動の幕末から明治初期の時代を真正面から見据えて描いた長編小説『夜明け前』は、簡単に文字化することが難しいほどに司馬氏の内面にも深く関わっていると思われるのです。

この問題については、執筆中の『絶望との対峙――「坂の上の雲」の時代と「罪と罰」の受容』(仮題)で考察したいと考えていますが、次回は相馬正一氏の『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』(人文書館、2006年)を書評のページで簡単に紹介しながら、長編小説『夜明け前』の意味と司馬作品との関わりを簡単に確認することにします。

リンク→相馬正一著『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』(人文書館、2006年)

「新聞記者・正岡子規」関連記事一覧を「主な研究」Ⅱに追加

リンク→タイトル一覧Ⅱ (司馬遼太郎、近代日本文学関係)

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(図版は正岡子規編集・執筆『小日本』〈全2巻、大空社、1994年〉、大空社のHPより)

「新聞記者・正岡子規」関連記事一覧

自著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』の紹介文を転載

正岡子規の「比較」という方法と『坂の上の雲』

川内原発の再稼働と新聞『小日本』の巻頭文「悪(に)くき者」

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)の目次を「著書・共著」に掲載

新聞『日本』の報道姿勢と安倍政権の言論感覚

「特定秘密保護法」と子規の『小日本』

「東京新聞」の「平和の俳句」と子規の『小日本』

ピケティ氏の『21世紀の資本』と正岡子規の貧富論

近著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)について

講座 「新聞記者・正岡子規と夏目漱石――『坂の上の雲』をとおして」

「特定秘密保護法」と自由民権運動――『坂の上の雲』と新聞記者・正岡子規

年表6、正岡子規・夏目漱石関連簡易年表(1857~1910)

司馬作品から学んだことⅣ――内務官僚と正岡子規の退寮問題

 

 

〈樋口一葉と『罪と罰』〉関連記事一覧

〈樋口一葉と『罪と罰』〉の関連記事一覧を、ブログと「主な研究」の「タイトル一覧Ⅱ」に掲載します。

正岡子規と島崎藤村の出会い――「事実」を描く方法としての「虚構」

 正岡子規の小説観――長編小説『春』と樋口一葉の「たけくらべ」

樋口一葉における『罪と罰』の受容(1)――「にごりえ」をめぐって

樋口一葉における『罪と罰』の受容(2)――「十三夜」をめぐって

樋口一葉における『罪と罰』の受容(3)――「われから」をめぐって

安倍政権閣僚の「口利き」疑惑と「長州閥」の疑獄事件――司馬氏の長編小説『歳月』と『翔ぶが如く』

TPP秘密交渉を担当した甘利元経済再生相の「口利き」疑惑が一大疑獄事件へと発展しそうな気配になってきましたが、そんなか、今度は遠藤利明五輪相にも「口利き」の疑惑が発生しました。

リンク→アベノミクス」の詐欺性(4)――TPP秘密交渉担当・甘利明経済再生相の辞任

リンク→まとめ役は遠藤さん」…文科省職員証言毎日新聞)

*   *   *

このような事態は国内を揺るがした明治初期の汚職事件や疑獄事件を思い起こさせます。

まず発覚したのは、横浜で生糸相場を張るようになっていた元奇兵隊の隊長・野村三千三〔みちぞう〕から頼まれた山県有朋が「兵部省の陸軍予算の半分ぐらいに」相当するような巨額の金を貸したにもかかわらず、野村が生糸相場に失敗して公金を返せないという事態に陥った「山城屋事件」でした(『歳月』上・「長閥退治」)。

しかもこの事件の直後に、南部藩の御用商人・村井茂兵衛が得ていた尾去沢銅山の採掘権を、大蔵省の長官として「今清盛」とも呼ばれるような権力を握っていた井上馨によって没収されるという事件が起きたのです。前代未聞の汚職とその隠蔽の問題と直面した司法卿の江藤が、「信じられぬほどの悪政がいま、成立したばかりの明治政府において進行している」と憤激したことが、西南戦争につながったと司馬氏は指摘していました。

さらに、「フランス革命」の時期に利権で私腹を肥やし、「王政の復活のために暗躍」したタレーランと比較しながら「山県も似ている」と長編小説『翔ぶが如く』で記した司馬氏は、「『国家を護らねばならない』/と山県は言いつづけたが、実際には薩長閥をまもるためであり、そのために天皇への絶対的忠誠心を国民に要求した」と厳しく批判していたのです(二・「好転」)。

このような明治初期の考察を踏まえて、司馬氏が『坂の上の雲』で描いたのが、俳人・正岡子規が入社した新聞『日本』の記者たちの気概だったのです。

リンク→高橋『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年)

ことに第二次安倍政権に強く見られるようになった「おごり」や「腐敗」を厳しく追及する記事を書く気概を、現代の放送局や新聞社にも持って欲しいと願っています。

正岡子規の小説観――長編小説『春』と樋口一葉の「たけくらべ」

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(樋口一葉の肖像。図版は「ウィキペディア」より)

 

前回は〈正岡子規と島崎藤村の出会い――「事実」を描く方法としての「虚構」〉という記事を書きました。

そこでは1894(明治27)年に新聞『小日本』に掲載された北村透谷の追悼記事が正岡子規によって書かれていた可能性が高いことを確認するとともに、後に長編小説『春』で、北村透谷との友情やその死について描くことになる島崎藤村と子規との出会いの意味についても考えてみました。

長編小説『春』で描かれているのは、明治女学校を辞めた藤村(小説では岸本捨吉)が放浪から戻った1893(明治26)年の夏より、仙台の東北学院の赴任が決まって出発する1896(明治29)年の8月末までの時期で、1893年1月に創刊された『文学界』の同人たちとの交友も記されています。

注目したいのは、1893年3月に発表した「雪の日」から、「琴の音」、「花ごもり」、「やみ夜」「大つごもり」、そして「たけくらべ」など複数の作品を『文学界』に掲載していた樋口一葉(1872~96年。小説では堤姉妹の姉)の家庭についても次のように描かれていることです。

「『どうだね、これから堤さんの許(ところ)へ出掛けて見ないか。足立君も行ってるかも知れないよ』/こう菅が言出した。」

「そこには堤姉妹が年老いた母親にかしずいて、侘(わび)しい、風雅な女暮しをしていた。いずれも苦労した、談話(はなし)の面白い人達であったが、殊(こと)に姉は和歌から小説に入って、既に一家を成していた。この人を世に紹介したのは連中の雑誌で、日頃親しくするところから、よく市川や足立や菅がその家を訪ねたものである*」(百九)。

*   *   *

よく知られているように、森鷗外は7回にわたり連載された「たけくらべ」が1896年4月に『文芸倶楽部』に一括掲載されると、『めさまし草』の「三人冗語」で「吾はたとへ世の人に一葉崇拝の嘲を受けむまでも、此人に誠の詩人といふ称を惜しまざるなり」と一葉を称賛しました。

森鴎外と深い交友のあった正岡子規も、新聞『日本』に1896(明治29)年に連載していた随筆「松蘿玉液」(しょうらぎょくえき)の5月4日の回で「たけくらべ」を高く評価するのですが、注目したいのはその前段の「小説」という項目を次のように書き始めていたことです。

「文学者として小説を読めば世に小説程つまらぬ者はあらず、先ず劈頭(へきとう)より文章がたるみたり言葉が拙しとそれにのみ気を取られ、」「吾れ従来小説が好きながら小説を読むことは稀なり」としながらも、最後を「あれこれと読みもて行けばここに一物あり」と結んでいるのです。

そして、次の段で「たけくらべ といふ」と書き始めた子規は、「汚穢(おわい)山の如き中より一もとの花を摘み来りて清香を南風に散ずれば人皆其香に酔ふて泥の如しと」続けていました。

さらに「一行を読めば一行に驚き一回を読めば一回に驚きぬ。…中略…西鶴を学んで佶屈(きつくつ)に失せず平易なる言語を以て此緊密の文を為すもの未だ其の比を見ず。…中略…或は笑ひ或は怒り或は泣き或は黙する処に於て終始嬌痴(きようち)を離れざるは作者の技倆を見るに足る」と記した子規は、「一葉何者ぞ」と記していたのです。

1894年の末に「大つごもり」を発表してから「奇跡の十四か月」と言われる期間に「にごりえ」「十三夜」や「われから」など多くの佳作を残して、樋口一葉は1896年の11月に結核で亡くなるのですが、「松蘿玉液」における子規の記述は今もその意義を失っていないと思えます。

なお、島崎藤村の長編小説『春』には、内田魯庵の『罪と罰』訳のこともでてくるので、稿を改めて、次回は樋口一葉と『罪と罰』との関わりを簡単に考察することにします。

 

*注、足立のモデルは馬場孤蝶(1869-1940)、菅は戸川秋骨(1870 – 1939)、そして、市川は平田禿木(とくぼく、1873 – 1943)で、いずれも多くの翻訳書がある英文学者である。この雑誌たちの傾向を知る上でも興味深いので、以下に内田魯庵および『文学界』同人が1917年までに翻訳した作品の一部を掲載する。[]内は現代の題名。

内田魯庵:『罪と罰』内田老鶴圃、1892~93年、『損辱』[虐げられし人々]、『国民之友』、1894年5月~95年6月/『馬鹿者イワン』[イワンの馬鹿]、『学鐙』1902年/『復活』、新聞『日本』1905年4月5日-12月22日

馬場孤蝶(足立):「小児の心」[ネートチカ・ネズワーノワ]『明星』、1908年10月/「博徒」[賭博者]『明星』、1908年 11月/『戦争と平和』泰西名著文庫、1914年。

戸川秋骨(菅):ツルゲーネフ『猟人日記』(共訳・重訳)1909年/ 『エマーソン論文集』上下、玄黄社、1911-12年/ユゴー『哀史』(ああ無情)[レ・ミゼラブル]、泰西名著文庫、1915-16年。

 平田禿木(市川):サッカレー『虚栄の市』、国民文庫刊行会、1914–15年/『エマアソン全集 第1- 5巻』、国民文庫刊行会、1917年/デフォー『新譯ロビンソン漂流記』、冨山房、1917年。

注は井桁貞義・本間暁編『ドストエフスキイ文献年表・解説』(『ドストエフスキイ文献集成』第22巻、1996年7月、大空社)、榊原貴教編「ドストエフスキイ翻訳作品年表」デジタル版、および「ウィキペディア」などを参照して作成。

正岡子規と島崎藤村の出会い――「事実」を描く方法としての「虚構」

Bungakukai(Meiji)

(『文学界』創刊号の表紙。図版は「ウィキペディア」より)

フランス文学者の寺田透は「明治二十七年の句を通読して驚嘆させられるのは、…中略…子規の好奇心に満ちた多様性といふことである」と書いていましたが、寺田が指摘した明治27(1894)年には正岡子規が編集主任に抜擢されていた家庭向けの新聞『小日本』第74号に次のような追悼記事が掲載されました。

「北村透谷子逝く 文学界記者として当今の超然的詩人として明治青年文壇の一方に異彩を放ちし透谷北村門太郎氏去る十五日払暁に乗し遂に羽化して穢土の人界を脱すと惜(をし)いかな氏年未だ三十に上(のぼ)らずあたら人世過半の春秋を草頭の露に残して空しく未来の志を棺の内に収め了(おは)んぬる事嗟々(あゝ)エマルソンは実に氏が此世のかたみなりけり、芝山の雨暗うして杜鵑(ほとゝとぎす)血に叫ぶの際氏が幽魂何処(いづこ)にか迷はん」。

『「小日本」と正岡子規』の「解説」で浅岡邦男氏はこの追悼文が子規によって書かれていた可能性が高いと記しています。たしかに、詩人の透谷が『文学界』の記者でもあったことに注意を促しながら、「遂に羽化して穢土の人界を脱す」と記し、子規の号でもある「ほととぎす」という単語を用いて「芝山の雨暗うして杜鵑(ほとゝとぎす)血に叫ぶ」とも記されているこの追悼文が、子規の文章である可能性はきわめて高いと思われます。

しかも、この年には子規が1892年に書き上げていた小説「月の都」が新聞『小日本』に連載されていましたが、透谷も同じ1892年の10月に『国民の友』に発表した評論「他界に対する観念」で、「物語時代の『竹取』、謡曲時代の『羽衣』、この二篇に勝(まさ)りて我邦文学の他界に対する美妙の観念を代表する者はあらず」と書き、「人界の汚濁を厭(いと)ふ」て、「共(とも)に帰るところは月宮なり」(200)と記していたのです。

さらに透谷の「罪と罰(内田不知庵譯)」(1892)には「嘗()つてユーゴ(ママ)のミゼレハル(ママ)、銀器(ぎんき)を盜(ぬす)む一條(いちじょう)を讀()みし時(とき)に其(その)精緻(せいち)に驚(おどろ)きし事(こと)ありし」という記述がありますが、正岡子規も全集で4頁ほどですが、ジャン・ヴァルジャンがミリエル僧正を殺そうとした際に、月の光に照らされた僧正の微笑を見て、殺害を止めるという「良心」の重要性が示唆されている重要な箇所の短い部分訳をしていたのです。

それゆえ、北村透谷の追悼文が子規によって書かれていた可能性が高いとの記述を見つけたときは、子規と透谷との文学観の類似性にたいへん昂奮しました。

それは子規が文学作品における「虚構」という方法についても理解していることを示唆していると思えたからでした。つまり、すぐれた文学作品における「虚構」は、読者を昂奮させる「でたらめ」ではなく、むしろドストエフスキー作品に現れているように、なかなか見えにくい「事実」を明らかにするための方法といえるでしょう。

しかも日露戦争直後の1906年に長編小説『破戒』を自費出版することになる島崎藤村は、正岡子規と1897年に会って新聞『日本』への入社についての相談をしたばかりでなく、子規の小説「花枕」についての感想も述べていたのです。

その藤村は1908年には長編小説『春』で、1893年1月に星野天知らと『文学界』~1898年1月)を創刊してその精神的な指導者となった北村透谷との友情やその死について描くことになります。

病身にもかかわらず木曽路の山道から美濃路へと徒歩で旅し、新聞『日本』に連載された紀行文「かけはしの記」を「信濃なる木曾の旅路を人問はゞ/ たゞ白雲のたつとこたへよ」という歌で結んでいた子規と、「木曾路(きそじ)はすべて山のなかである。…中略…一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた」という印象的な文章で始まる長編小説『夜明け前』を書くことになる島崎藤村との出会いは日本の近代文学にとってもきわめて重要だったと思われます。

それゆえ、二人の出会いの光景を想像した時には、透谷の自殺から芥川龍之介の自殺に至る厳しい日本の近代文学史が走馬燈のように浮かんでくるような感慨に打たれたのです。

子規の「歌よみに与ふる書」と文芸評論家・小林秀雄

3101360

(正岡子規『歌よみに与ふる書』岩波文庫)

新聞『日本』に掲載した「歌よみに与ふる書」で正岡子規が、「貫之(つらゆき)は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之候」と記していたことについて、司馬氏は「歌聖のようにいわれる紀貫之をへたとこきおろし」たところころに「子規のすご味がある」と書いていました。

一方、小林秀雄はよく知られているように、敗戦後の1946年に戦前の発言について問い質されると「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と啖呵を切っていました。

しかし、1948年に行われた物理学者の湯川秀樹博士との対談では、「原子力エネルギー」を産み出した「高度に発達した技術」の問題を「道義心」の視点から厳しく指摘した小林は、原発の推進が「国策」となるとその危険性を「黙過」し、「原子力エネルギー」の問題でも「反省なぞしない」ことが明らかになったのです。

それゆえ、福島第一原子力発電所の大事故がまだ収束していないにもかかわらず、「アンダーコントロール」と宣言し、自然環境を軽視して経済優先の政治が行われるようになった日本をみながら強く感じたのは、「事実をきちんと見る」ためには、「評論の神様とも言われる」小林秀雄のドストエフスキー観をきちんと問い直さなければならないと痛感したのです。

2014年に『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)を上梓したのは、私がその頃、俳人・正岡子規を中心に司馬氏の『坂の上の雲』を読み解こうとしていたためだと思われます。

それゆえ、以下に拙著(『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年、第五章〈「君を送りて思ふことあり」――子規の眼差し〉より第一節の一部を抜粋して掲載します。

*   *   *

〈「竹ノ里人」の和歌論と真之――「かきがら」を捨てるということ〉より

秋山真之のアメリカ留学の前に子規が「君を送りて思ふことあり蚊帳〔かや〕に泣く」という句を新聞『日本』に載せたことを紹介した司馬氏は、「子規ほど地理的関心の旺盛な男はめずらしく、世界というものをこれほど見たがる人物もすくないと真之はかねがねおもっている。しかし皮肉なことに、運命はその後の子規を病床六尺に閉じこめてしまった」と続けていました(二・「渡米」)。

(中略)

閉ざされた空間の「子規庵」でガラス戸越しに見える庭の草木や風景を詠いながらその詩境を深めていたことに注意を促した俳人の柴田宵曲は、「ガラス障子にしたのは寒気防ぐためが第一で、第二にはいながら外の景色を見るためであった。果たしてあたたかい。果たして見える」と子規が記していることに注意を促していますが*3、子規は「ガラス戸」という洋語を用いて「ガラス戸の外は月あかし森の上に白雲長くたなびける見ゆ」という歌などを詠んでいたのです。

『坂の上の雲』では「庭のみえるガラス戸のそばに、小石を七つならべてある」ことにふれて、俳句仲間がその石を「満州のアムール河の河原でひろうたものぞな」と持ち帰ってくれたものであることが説明され、「七つの小石を毎日病床からながめているだけで、朔風(さくふう)の吹く曠野(こうや)を想像することができるのである」と書かれています。

子規に「古今(こきん)や新古今の作者たちならこの庭では閉口するだろうが、あしはこの小庭を写生することによって天地を見ることができるのじゃ」と語らせた司馬氏はこの後で、「竹ノ里人」の雅号で新聞『日本』に発表された「歌よみに与ふる書」という一〇回連載の歌論について「事をおこした子規は、最初から挑戦的であった」と書き、次のように詳しく考察しています。

「その文章は、まずのっけに、/『ちかごろ和歌はいっこうにふるっておりません。正直にいいますと、万葉いらい、実朝(さねとも)いらい、和歌は不振であります』/ という意味を候文で書いた。手紙の形式である。/『貫之(つらゆき)は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之候』/という。歌聖のようにいわれる紀貫之をへたとこきおろし、和歌の聖典のようにあつかわれてきた古今集を、くだらぬ集だとこきおろしたところに、子規のすご味がある」。

しかし、「歌は事実をよまなければならない。その事実は写生でなければならない」と主張した「子規への攻撃が殺到」します。

「子規の恩人である陸羯南などは、短歌にも一家言があり、『日本』の社長として子規の原稿に横ヤリなどは入れないが、しかし子規の論ずるところにはっきりと反対であった。また『日本』の社内には歌を詠んだり歌に関心のある記者が多い。これらが、ぜんぶといっていいくらいに子規の論に反対であった」。

そのような厳しい批判にもひるまずに子規は持論を展開したのですが、司馬氏は子規の歌論の意味を、「英国からもどって」きた真之との会話をとおして分かり易く説明しています。

すなわち、「あしはこのところ旧派の歌よみを攻撃しすぎて、だいぶ恨みを買うている。たとえば旧派の歌よみは、歌とは国歌であるけん、固有の大和言葉でなければいけんという。グンカンということばを歌よみは歌をよむときにはわざわざいくさぶねという。いかにも不自然で、歌以外にはつかいものにならぬ」と子規は語ったのです。

司馬氏は子規が外国語を用いることや「外国でおこなわれている文学思想」を取り入れることが、「日本文学を破壊するものだという考えは根本があやまっている」と主張し、「むかし奈良朝のころ、日本は唐の制度をまねて官吏の位階もさだめ、服色もさだめ、唐ぶりたる衣冠をつけていたが、しかし日本人が組織した政府である以上、日本政府である」と続けたと描いています。

一方、「日本人が、日本の固有語だけをつかっていたら、日本国はなりたたぬということを歌よみは知らぬ」という子規の歌論を聞き、彼が書いた新聞の切り抜きを読んだ真之は、「升サンは、俳句と短歌というものの既成概念をひっくりかえそうとしている。あしも、それを考えている」と語ります。

そして真之は、古い伝統を持つスペイン海軍とアメリカ海軍を比較しながら、遠洋航海に出た軍艦には、「船底にかきがらがいっぱいくっついて船あしがうんとおちる」と指摘して、「作戦のもとになる海軍軍人のあたま」も、「古今集ほど古くなくても、すぐふるくなる」ので、「固定概念(かきがら)」は捨てなければならないと主張したのです(二・「子規庵」)。

この記述に注目するとき、子規の俳句論や和歌論は古今東西の海軍の戦術を丹念に調べてそれを比較することで最良の戦術を求めようとした真之の方法についてだけでなく、イギリスに留学した夏目漱石やロシアに留学した広瀬武夫の見方にも深く関わると思われます。

リンク→「物質への情熱」と「好奇心に満ちた多様性」――寺田透の小林秀雄観(3)

(2016年2月4日。〈正岡子規の「歌よみに与ふる書」と真之――「かきがら」を捨てるということ〉を改訂、改題)。