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夏目漱石

近著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)について

標記の拙著に関しては発行が大幅に遅れて、ご迷惑や心配をおかけしていますが、ようやく新しい構想がほぼ固まりました。

本書では「黒塊(コツクワイ)」演説を行ったことが咎められて松山中学を中退して上京し、「栄達をすてて」文学の道を選んだ正岡子規に焦点を絞ることで、新聞記者でもあった作家・司馬遼太郎氏が子規の成長をどのように描いているかを詳しく考察しています。

長編小説『坂の上の雲』では、子規の死後に起きた日露戦争における戦闘場面の詳しい描写や戦術、さらには将軍たちの心理の分析などに多くの頁が割かれていますので、それらを省略することに疑問を持たれる方もおられると思います。

しかし、病いを押してでも日清戦争を自分の眼で見ようとしていた子規の視野は広く、「写生」や「比較」という子規の「方法」は、盟友・夏目漱石やその弟子の芥川龍之介だけでなく、司馬氏の日露戦争の描写や考察にも強い影響を及ぼしていると言っても過言ではないように思えます。

司馬氏は漱石の長編小説『三四郎』について「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と記しています。子規と漱石との交友や、子規の死後の漱石の創作活動をも視野に入れることで、長編小説『坂の上の雲』の「文明論的な」骨太の骨格を明らかにすることができるでしょう。

『坂の上の雲』の直後に書き始めた長編小説『翔ぶが如く』で司馬氏は、「征韓論」から西南戦争に至る時期を考察することで、「近代化のモデル」の真剣な模索がなされていた明治初期の日本の意義をきわめて高く評価していました。明治六年に設立された「内務省」や明治八年に制定されて厳しく言論を規制した「新聞紙条例」や「讒謗律(ざんぼうりつ)」は、新聞『日本』の記者となった子規だけでなく、「特定秘密保護法」が閣議決定された現代日本の言論や報道の問題にも深く関わると思われます。

それゆえ本書では、子規の若き叔父・加藤拓川と中江兆民との関係も視野に入れながらこの長編小説をも分析の対象とすることで、長編小説『坂の上の雲』が秘めている視野の広さと洞察力の深さを具体的に明らかにしたいと考えています。

ドストエフスキーを深く敬愛して映画《白痴》を撮った黒澤明監督は、『蝦蟇の油――自伝のようなもの』の「明治の香り」と題した章において、「明治の人々は、司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』に書かれているように、坂の上の向うに見える雲を目指して、坂道を登っていくような気分で生活していたように思う」と書いています。

焦点を子規とその周囲の人々に絞ることによって、この作品の面白さだけでなく、「明治の人々」の「残り香」も引き立たせることができるのではないかと願っています。

リンク→『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館

( 2015年8月10日、改訂と改題)

 

『欧化と国粋』の「事項索引」を「著書・共著」に掲載

 

リンク先→ 『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』(事項索引)

 

昨日のブログでも記したように、日露の「文明開化」の類似性と問題点に迫る講義用の著作として作成した『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』(刀水書房、2002年)には、付録として「人名索引」の他に「事項索引」も付けていました。

なぜならば、比較文明学の創始者といわれるトインビーは、世界戦争を引き起こすにいたった近代西欧の「自国」中心の歴史観を大著『歴史の研究』において「自己中心の迷妄」と厳しく批判していましたが、自国を「文明」としたイギリスの歴史家バックルも『イギリス文明史』で、歴史を「文明(中央)ー半開(周辺)ー野蛮(辺境)」と序列化していました。そしてそのような理解に沿って言語にも「文明語ー国語ー方言」という序列が生まれたのです。

しかし、「周辺」や「半開」などの用語だけでなく、拙著の題名とした「欧化」や「国粋」という用語もまだ広くは使われていないので、学生や読者の理解を助けるためにこの「事項索引」を編んでいました。

「事項索引」の項目のうち作品名は「人名索引」に移動しましたが、作者が明確でないものなどは残し、語順の一部を訂正して掲載しました。

*     *   *

「事項索引」では「良心」という用語も取り上げましたが、残念ながら、日本のドストエフスキー研究では『罪と罰』においての中心的な位置を占めている「良心」の問題がいまだに軽視されています。

しかし、ドストエフスキーが「大地主義」を高らかに唱えていた時期に書かれた『虐げられた人々』や『死の家の記録』、『冬に記す夏の印象』、さらには『地下室の手記』など、クリミア戦争の敗戦後に書かれた作品でも「良心」の問題が重要な位置を占めていたことがわかるでしょう。

「権力」や「いじめ」などの用語や「制度」の問題にも注意しながら、これらの作品における「良心」の問題を注意深く読み解くことは、『罪と罰』の正確な理解にもつながると思えます。

*     *   *

 

お詫びと訂正

2004年は日本がイギリスとの「軍事同盟」を結んで行った日露戦争が開始されてから100周年を迎え、またそれに関連して司馬遼太郎の『坂の上の雲』がテレビドラマ化されて、「軍備」の必要性が強調される可能性が生じていました。

「あとがき」では「核兵器」の危険性にも触れましたが、「被爆国」でもあるだけでなく「日露戦争」に際しては国内ではなく韓国や中国の領土で激しい戦闘を行っていた日本が「日露戦争」の勝利を強調して軍備の増強を進めると近隣諸国との軋轢が深まることが予想されました

そのこともあり本書を急いで書き上げたのですが、いくつもの重大な誤記がありました。お詫びの上、訂正いたします。

 

69頁 9行目 誤「一八五四年から年間」 →正「一八五四年から五年間」

74頁 2行目 誤「劇評家」 →正「詩人」

77頁 後ろから3行目 誤(45) →正(44)

102頁 後ろから3行目 誤「近づこう」 →正「近づこうと」

103頁 後ろから3行目  誤「四年間」→ 正「五年間」

146頁 3行目 誤「そこに見るのものは」 → 正「そこに見るものは」

152頁 後ろから8行目 誤「自分の足で立つ時がきている → 正「自分の足で立つ時がきている」

162頁 9行目 誤「歴史・文化類型」→ 正「文化・歴史類型」

174頁 後ろから5行目 誤『坊ちゃん』→ 正『坊っちゃん』

174頁 後ろから5行目 誤『坊ちゃん』→ 正『坊っちゃん』

188頁 8行目 誤「反乱のを」→ 正「反乱を」

191頁 7行目 誤「滅ぼすと滅ぼさるると云うて可なり」→ 正「滅ぼすと滅ぼさるるのみと云うて可なり」(下線部を追加)

193頁 2行目 誤「奴隷の如くに圧制」したいものだと →正「奴隷の如くに圧制」したいという

196頁 後ろから3行目 誤「広田の向かいに座った」 →正「三四郎の向かいに座った」

199頁 後ろから6行目 誤「平行現象」→ 正「並行現象」

講座「新聞記者・正岡子規と夏目漱石――『坂の上の雲』をとおして」のお知らせを「主な研究」に掲載

世田谷文学館「友の会」主催の講座「新聞記者・正岡子規と夏目漱石――『坂の上の雲』をとおして」を下記のような形で行います。

講義の内容や文献については、「主な研究」を参照してください。

日時: 6月27日(金) 午後2時~4時

場所: 世田谷文学館 2階 講義室

参 加 費:700円

申込締切日:6月16日(月)

 

「小林秀雄の芥川龍之介観と黒澤明」を「主な研究(活動)」に掲載しました

 

先ほどアップしたブログでも少しふれましたが、当初は小林秀雄の芥川龍之論と黒澤明の映画《羅生門》との比較は大きなテーマなので、今回は省くつもりでした。

しかし、このテーマを省いてしまうと司馬遼太郎が「歌は事実をよまなければならない」(『坂の上の雲』・「子規庵」)として「写生」の重要性を訴えた子規から漱石を経て、芥川につながる日本文学の流れを踏まえている黒澤と、このような流れを軽視していると思える小林秀雄との違いが見えにくくなってしまうことに気づき、急遽、必要最小限はふれるようにしました。

そのために発行の予定が大幅に延びてしまいましたので、その一部を「主な研究」に抜粋して掲載するとともに、ドストエフスキーの初期の作品と芥川作品との関連についても少し言及しておきます。

 

「黒澤明・小林秀雄関連年表」を更新して、「年表」のページに掲載しました

 当初は省くつもりだった小林秀雄の芥川龍之論と
黒澤明の映画《羅生門》との比較を行ったために、
最終段階で予想以上に手間取ってしまいましたが、ようやく本論を脱稿しました。

 第4章では夏目漱石の『夢十夜』や『三四郎』にも言及していますので、 年表では芥川だけでなく小林秀雄の誕生の年に亡くなった正岡子規や漱石にも触れています。
 
 
 

 このことにより「写生」の重要性を訴えた子規から漱石を経て、
芥川につながる日本文学の流れを踏まえている黒澤と、
このような流れを軽視していると思える小林秀雄との違いも明確になったと思えます。

「正岡子規・夏目漱石関連年表(作成中)」を「年表」のページに掲載しました

最近はブログ記事で内務省の設置や新聞紙条例に関連して、子規や漱石について触れることが多くなっています。

それゆえ、まだ作成中の段階ですが、急遽、「正岡子規・夏目漱石関連年表」(1857~1910)を「年表」のページに掲載しました。

年表の開始となる年は、正岡子規の師ともいうべき陸羯南が生まれた1857年とし、終わる年はトルストイが亡くなり、大逆事件が起きた1910年にしました。

 いずれ子規と漱石関連の事柄は靑い字で、戦争や暗殺は朱で、戦争につながると思われる内務省や新聞紙条例などはオレンジの色で表記する予定です。

「特定秘密保護法案」と明治八年の「新聞紙条例」(讒謗律)

「征韓論」に沸騰した時期から西南戦争までを描いた長編小説『翔ぶが如く』で司馬遼太郎氏は、「この時期、歴史はあたかも坂の上から巨岩をころがしたようにはげしく動こうとしている」と描いていました(『翔ぶが如く』、第3巻「分裂」)。

世界を震撼させた福島第一原子力発電所の大事故から「特定秘密保護法案」の提出に至る流れを見ていると、現在の日本もまさにこのような状態にあるのではないかと感じます。

福島第一原子力発電所の事故後に起きた汚染水や燃料棒取り出しの問題の危険性が高まっているので、急遽、執筆中の著作を先送りして黒澤明監督の映画《夢》や《生きものの記録》をとおして、「第五福竜丸」事件や原発の問題を考察する著作を書き進めています。

しかし、民主党政権を倒した後で現政権が打ち出した「特定秘密保護法案」が、軍事的な秘密だけでなく、沖縄問題などの外交的な秘密や原発問題の危険性をも隠蔽できるような性質を有していることが、次第に明確になってきています。

この法律については10月31日付けのブログ記事「司馬遼太郎の洞察力――『罪と罰』と 『竜馬がゆく』の現代性」でも触れましたが、衆議院通過の期限が迫ってきているので、司馬作品の研究者という視点から、倒幕後の日本の状況と比較しつつ、この法律の問題点をもう一度考えてみたいと思います。

*   *   *

国民に秘密裏に外国との交渉を進めた幕府を倒幕寸前までに追い詰めつつも、坂本龍馬が「大政奉還」の案を出した理由について、政権が変わっても今度は薩長が結んで別の独裁政権を樹立したのでは、革命を行った意味が失われると、『竜馬がゆく』において龍馬に語らせていた司馬氏は。明治初期の薩長政権を藩閥独裁政権と呼んでいました。

実際、長編小説『歳月』(初出時の題名は『英雄たちの神話』)では佐賀の乱を起こして斬首されることになる江藤新平を主人公としていましたが、井上馨や山県有朋など長州閥の大官による汚職は、江藤たちの激しい怒りを呼んで西南戦争へと至るきっかけとなったのです。

そのような中、「普仏戦争」で「大国」フランスに勝利してドイツ帝国を打ち立てたビスマルクと対談した大久保利通は、「プロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立しようと」しました(第1巻「征韓論」)。

一方、政府の強権的な政策を批判して森有礼や福沢諭吉などによって創刊された『明六雑誌』は、「明治七年以来、毎月二回か三回発行されたが、初年度は毎号平均三千二百五部売れたという。明治初年の読書人口からいえば、驚異的な売れゆきといっていい。しかしながら、宮崎八郎が上京した明治八年夏には、この雑誌は早くも危機に在った」(第5巻「明治八年・東京」)。

なぜならば、「明治初年の太政官が、旧幕以上の厳格さで在野の口封じをしはじめたのは、明治八年『新聞紙条例』(讒謗律)を発布してからである。これによって、およそ政府を批判する言論は、この条例の中の教唆扇動によってからめとられるか、あるいは国家顛覆論、成法誹毀(ひき)ということでひっかかるか、どちらかの目に遭った」のです。

私は法律の専門家ではありませんが、この明治8年の『新聞紙条例』(讒謗律)が、共産主義だけでなく宗教団体や自由主義などあらゆる政府批判を弾圧の対象とした昭和16年の治安維持法のさきがけとなったことは明らかだと思えます。

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『坂の上の雲』をとおしてナショナリズムの問題や近代兵器の悲惨さを描いた司馬氏は、「日本というこの自然地理的環境をもった国は、たとえば戦争というものをやろうとしてもできっこないのだという平凡な認識を冷静に国民常識としてひろめてゆく」ことが、「大事なように思える」と書いていました(「大正生れの『故老』」『歴史と視点』)。

同じことは原発問題についてもいえるでしょう。近年中に巨大な地震に襲われることが分かっている日本では、本来、原発というものを建ててはいけないのだという「平凡な認識を冷静に国民常識としてひろめてゆく」ことが必要でしょう。

発行は春になると思いますが、執筆中の拙著『司馬遼太郎の視線(まなざし)ーー「坂の上の雲」と子規と』(仮題、人文書館)では、文学者・新聞記者としての正岡子規に焦点を当てて、『坂の上の雲』を読み解いています。

戦争自体は体験しなかったものの病気を押して従軍記者となり、現地を自分の体と眼で体感した子規が、『歌よみに与ふる書』で「歌は事実をよまなければならない」と記したことは、『三四郎』を書くことになる親友の夏目漱石の文明観にも強い影響を与えただろうと考えています。

さらに、何度も発行禁止の厳しい処罰を受けながらも、新聞『日本』の発行を続けた陸羯南や正岡子規など明治人の気概からは勇気を受け取りましたので、なんとか平成の人々にもそれを伝えたいと考えています。

正岡子規の時代と現代(1)――「報道の自由度」の低下と民主主義の危機

(2016年11月1日、リンク先を追加)

〈日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって〉を「主な研究(活動)」に掲載しました

 

昨日、日本トルストイ協会での講演のレジュメを掲載しましたが、懇親会の席ではドストエフスキーの日本における受容についてのご質問がありましたので、「欧化と国粋のサイクル」という比較文明学会的な視点から、この問題を考察した標記の論考を「主な研究(活動)」に掲載しました。

この論文ではトルストイには言及していませんが、第3節で日露戦争の後で書かれた夏目漱石の長編小説『三四郎』における夏目漱石の考察に触れつつ、「日露戦争」と「祖国戦争」との類似性を指摘したことが、トルストイの『戦争と平和』と比較しながら『坂の上の雲』を分析した拙著 『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』(東海教育研究所、2005年)につながることになりました。

また、この論考では『罪と罰』の受容に絞ったために、それ以前のドストエフスキーの作品には言及していませんが、クリミア戦争敗北後の価値が混乱して西欧的な価値を主張する西欧派とロシア固有の価値を主張するスラヴ派の間で激しい議論が交わされていた時期に、ドストエフスキーは「大地主義」を唱えて、改革のゆるやかな前進の可能性を探っていました。

この試みは「欧化と国粋のサイクルの克服」という視点からはきわめて重要な試みでしたが、左右の思想の激しい対立の間で両派から批判され、検閲により発行停止にあったこともあり挫折してしまいました。そればかりでなく、その後もニーチェの哲学からの強い影響を受けて、ドストエフスキーは『地下室の手記』でそれまでの理想を捨てたとして、それ以前に書かれた作品を軽視したシェストフの解釈がロシアで広く受け入れられることになったのです。

そして、日本が国際連盟から脱退して国際社会からは孤立するようになっていた日本でも、「シェストフ的な不安」が広く受け入れられ、シェストフの解釈から強い影響を受けた文芸評論家の小林秀雄も、「大地主義」の時代に書かれた『虐げられた人々』や『死の家の記録』などの長編小説を軽視していました。

拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー刀水書房、2002年)では、これらの長編小説や旅行記『冬に記す夏の印象』などの意義を詳しく考察しましたが、この著書を書いていた当時にも、日本が再び「国粋」のサイクルに入っているという強い危機感を抱いていましたが、その後の流れはますます加速しているようです。

ロシアや日本のように伝統が重んじられる国の大きな問題点は、司馬遼太郎氏が指摘していたように、特殊性が強調される一方で普遍性が軽視されて、冷静な議論がなされないためにブレーキがきかなくなって、情念に流され、革命や戦争のような破局にまで突き進んでしまう危険性が強いのです。

そのような危険性を回避するためにも、クリミア戦争敗戦後の混乱の時期にドストエフスキーが描いたこれらの作品はもう一度、真剣に読み直される必要があるでしょう。

「大地主義」と地球環境

このブログのタイトルで使っている「大地」という単語は、『虐げられた人々』や『死の家の記録』などで重要な役割を担っていたドストエフスキーの「大地(土壌)主義」から用いたものです。

この理念は『罪と罰』や『白痴』だけでなく、『カラマーゾフの兄弟』の頃までもドストエフスキーの中で脈々と続いていますので、「大地主義」と長編小説との関係についてはじっくりと考えていきたいと思っています。

ただ、ここでは「文明史家」ともいえる司馬遼太郎氏においても、「大地主義」とも呼べるような理念が近代の功利主義的な考え方に対する批判の核になっていることを指摘しておきたいと思います。

たとえば、 日本の「文明開化」を導いた福沢諭吉は、『文明論之概略』において「水火を制御して蒸気を作れば、太平洋の波濤を渡る可し」とし、「智勇の向ふ所は天地に敵なく」、「山沢、河海、風雨、日月の類は、文明の奴隷と云う可きのみ」と断じていました。

しかし、夏目漱石は自ら「俳諧的小説」と名づけた長編小説『草枕』において、「汽車程二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟(ごう)と通る」と記し、「おさき真闇(まっくら)に盲動する汽車はあぶない標本の一つである」と結んでいます。

ここには、「蒸気」を用いて「山沢、河海」などの「自然」を「文明の奴隷」とすることができるとした福沢の文明観に深い危惧の念も読み取ることができるでしょう。

そして、福沢諭吉の比較文明論的な方法を高く評価していた歴史学者の神山四郎も、福沢のこの記述については、「これは産業革命時のイギリス人トーマス・バックルから学んだ西洋思想そのものであって、それが今日の経済大国をつくったのだが、また同時に水俣病もつくったのである」と厳しく批判していました(『比較文明と歴史哲学』)。

このことは大量に流出した放射能により日本の大地や河川、さらに海が汚された今回の原発事故の場合に、より強く当てはまるでしょう。

 

歴史小説家の司馬遼太郎氏は『坂の上の雲』においては、農民が自立していた日本と「農奴」とされてしまっていたロシアの農民の状態を比較しながら、戦争の帰趨についても論じていました。

それゆえ、「大地」の重要性をよく知っていた司馬氏は、「土地バブル」の頃には、「大地」が「投機の対象」とされたために、「日本人そのものが身のおきどころがないほどに大地そのものを病ませてしまっている」ことを「明石海峡と淡路みち」(『街道をゆく』第7巻)で指摘していました。

しかもそこで、「海浜も海洋も、大地と同様、当然ながら正しい意味での公のものであらねばならない」が、「明治後publicという解釈は、国民教育の上で、国権という意味にすりかえられてきた。義勇奉公とか滅私奉公などということは国家のために死ねということ」であったと指摘した司馬氏は、「われわれの社会はよほど大きな思想を出現させて、『公』という意識を大地そのものに置きすえねばほろびるのではないか」という痛切な言葉を記していたのです。

講座「『草枕』で司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を読み解く」のレジュメを「主な研究(活動)」に掲載しました

 2月19日に行われた「世田谷文学館友の会」の講座には、雪混じりの天気だったにもかかわらず、多くの会員の方に参加して頂きました。

  長編小説『翔ぶが如く』を読み解くという試みだったために、内容を詰め込みすぎた感もありましたが、講座の後では多くのご質問も頂き、私にとっては司馬氏の漱石観だけでなく、「憲法」観を再考察するよい機会となりました。

(追記:掲載される位置が正常に戻りましたので、題名を変更しました。10月18日)