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夏目漱石

なぜ今、『罪と罰』か(9)――ユゴーの『レ・ミゼラブル』から『罪と罰』へ

前回はまず、『罪と罰』で「法律」の問題を深く考察することになるドストエフスキーが、言論の自由がほとんどなかったニコライ一世の時代に、第一作『貧しき人々』で「教育制度」の問題を深く考察していたばかりでなく、裁判のテーマも取り上げていたことに注意を促しました。

その後で文芸評論家の小林秀雄が『貧しき人々』など前期の作品をほとんど論じていないことや、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注――ラスコーリニコフ)には現れぬ」と解釈したことの問題点を指摘しました。

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コゼット

(少女・コゼットの絵、ユーグ版より。図版は「ウィキペディア」より)

一時期、熱心に読んでいた小林秀雄のドストエフスキー論に疑問を抱くきっかけになった一因は、フランス文学者にもかかわらず、小林氏がシェストフには言及する一方で、『罪と罰』や『白痴』を書く際にドストエフスキーが強く意識していたユゴーの『レ・ミゼラブル』については、ほとんど沈黙していたことにもあると思われます。

『白痴』のムィシキンについて、「使嗾する神ムイシキン! けっして皮肉な読みではありません。ムイシキンは完全に無力どころか、世界の破滅をみちびく役どころを演じなくてはならない」と記した亀山郁夫氏も、戦後、実証的な研究がなされて、ドストエフスキーの『レ・ミゼラブル』観についても、多くの文献が出ていたにもかかわらず、このことにはまったく言及していません。

ドストエフスキーの『レ・ミゼラブル』観を著名な二人がまったく無視していたのは、その発言に言及することは自分の解釈を根底から崩すことになる危険性があることを察知していたためだろうと私は考えています。

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実は、初めてのヨーロッパへの旅行で1862年に出版されたばかりのこの作品をフィレンツェで手に入れたドストエフスキーは、街の見学も忘れて読みふけっていました。

そして、兄ミハイルとともに発行した雑誌『時代』の9月号に掲載された『ノートルダム・ド・パリ』の翻訳の序文でドストエフスキーは、「(ユゴーの)思想は十九世紀のあらゆる芸術の根本的な思想」であると高く評価し、それは「状況や数世紀にもわたる停滞、社会的偏見の圧迫によって不当に押しつぶされた者、滅亡した者の復興」であると説明し、「ユゴーはこうした〈復活〉のイデアの我らの世紀の文学において最も重要な伝道者である」と記していたのです。

さらに、結婚後に出発したヨーロッパ旅行の際に『レ・ミゼラブル』を読んだ妻のアンナは、夫が「この作品をとても高く評価していて、楽しみながら何度も読み返して」いたばかりでなく、「この作品に描かれた人物たちの性格のいろんな面を私に指摘し、説明してくれた」と日記に記していました。

このようなアンナ夫人の記述に従うならば、このときドストエフスキーは主人公のジャン・ヴァルジャンだけでなく、裕福な学生の恋人から身重の身で捨てられ、娘を育てるために自分の豊かな髪や歯などを徐々に売って、ついには売春婦にまで身を落とすことになったファンティーヌの悲劇やその娘コゼットについても妻に語っていたと思われるのです。

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注目したいのは、明治時代の評論家・北村透谷が評論「『罪と罰』の殺人罪」(1893年)において、「最暗黒の社会にいかにおそろしき魔力の潜むありて、学問はあり分別ある脳髄の中(なか)に、学問なく分別なきものすら企(くわだ)つることを躊躇(ためら)うべきほどの悪事をたくらましめたるかを現はすは、蓋(けだ)しこの書の主眼なり」と書いていたことです。

この記述を初めて読んだ時には、「憲法」がなく言論の自由も厳しく制限されていた帝政ロシアで書かれた長編小説『罪と罰』に対する理解力の深さに驚かされたのですが、透谷とその時代を調べるうちに、このような透谷の言葉は単に彼の鋭い理解力を示すものではなく、権力者の横暴を制止するために「憲法」や「国会」の開設を求める厳しい流れの中での苦しい体験と考察の結果でもあったことが分かりました。

実は、自由民権運動に対する厳しい圧迫が続く中で、民権運動が下火になった状況下で過激化した大井憲太郎らのグループが、朝鮮での独立運動を支援するために、強盗をして資金を得ようとした際に、透谷も友人の大矢正夫から参加を求められていたのです。

しかし透谷は、「目的」を達するためとはいえ、強盗のような「手段」を取ることには賛成できずに、苦悩の末、頭を剃り盟友と決別し、その後、ユゴーのごとき文学者となろうとしていました。

このような透谷の思いは、「罪と罰(内田不知庵譯)」(1892年)における「嘗(か)つてユーゴ(ママ)のミゼレハル(ママ)、銀器(ぎんき)を盜(ぬす)む一條(いちじょう)を讀(よ)みし時(とき)に其(その)精緻(せいち)に驚(おどろ)きし事(こと)ありし」という記述にも現れています。

その透谷の追悼記事を新聞『小日本』に書いた可能性の高い俳人の正岡子規も全集で4頁ほどですが、ジャン・ヴァルジャンがミリエル僧正を殺そうとした際に、月の光に照らされた僧正の微笑を見て、殺害を止めるという「良心」の重要性が示唆されている重要な箇所の短い部分訳をしていました。

しかも、1897年に子規と会った作家の佐藤紅緑(こうろく)は、ミリエル僧正の逸話に強い関心を示していた子規が、物騒であるとは感じつつもミリエル僧正にならって人が入ってくることができるように「裏木戸の通行を禁止」せずに、そのままにしてもいると語っていたことを証言しています。

このことは俳人の正岡子規も『レ・ミゼラブル』において核心ともいえる重要な役割を果たしていた「良心」の問題を深く認識していたことを示していると思えます。

なぜならば、透谷よりも1年前に松山で生まれた子規も、自由民権運動が盛んな頃に政治への関心を強めて1882年の12月には北予青年演説会で演説し、翌年の1月には「国会」と「黒塊」とを重ねて国会の意義を訴える「天将ニ黒塊ヲ現ハサントス」という演説を行っていたからです。

そして、それを校長から咎められたことで松山中学を退学し、上京して東京帝国大学に入学した子規は、北村透谷が雑誌『平和』を創刊した年の12月1日に東京帝国大学を中退して新聞『日本』に入社していました。

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作家の司馬遼太郎氏は夏目漱石の長編小説『三四郎』について、「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と記し、「明治後、東京そのものが、欧米の文明を受容する装置になった。…中略…下部(地方や下級学校)にそれを配るという配電盤の役割を果たした」と指摘しています(『本郷界隈』)。

そして、1872年にできた「司法職務定制」により、「弁護士の前身といえる」「代言人という職と機能が」成立したことを指摘した司馬氏は、1881年に明治大学の前身である明治法律学校が出来たのをはじめ、英吉利法律学校(後の中央大学)や日本法律学校(後の日本大学)が次々と設立されていることに注意を促し、「明治は駆けながら法をつくり、法を教える時代」だったと記しているのです。

この説明は『三四郎』の社会的背景だけでなく、名門サンクト・ペテルブルク大学の法学部を中退したラスコーリニコフを主人公とした『罪と罰』の社会的背景をも説明し得ていると思えます。

母親のプリヘーリヤは手紙の中で、妹のドゥーニャが首都に法律事務所を開こうとしている弁護士ルージンと結婚すれば、ラスコーリニコフもやがて法律事務所の「共同経営者にもなれるのじゃないか、おまけにちょうどお前が法学部に籍を置いていることでもあるしと、将来の設計まで作っています」と書いていました。

ロシアの官等制度のもとでは八等官になると世襲貴族になれたので、この意味においては貧しい境遇から七等文官にまで独力で出世したルージンは、ラスコーリニコフの輝かしい未来像の一つだったはずでもあったのです。

しかし、ドストエフスキーは首都に法律事務所を開こうとしていたルージンが、「いろいろな新しい傾向とか、改革とか、新思想とか」を見るためには、「やっぱりペテルブルクにいなければなりません」と述べたことを、ラズミーヒンに「科学、文化、思索、発明」などの知識がロシアの知識人にはまだまだ未熟でありながら、それなのに「他人の知識でお茶をにごすのが楽でいいものだから、すっかりそれになれっこになってしまった」と鋭く批判させています。

このような彼の批判は、明治末期の1911年に「内発的」ではない日本の開化を厳しく批判した漱石の「現代日本の開化」という講演ときわめて似ているように私には思えるのです。

リンク→日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって

  (続く)

 

追記: 〈『罪と罰』における「良心」をめぐる劇〉と題した次回の考察で、このシリーズをひとまず終える予定です。

ただ、このシリーズも思いがけず長いものとなりましたので、次のブログ記事には〈「なぜ今、『罪と罰』か」関連記事一覧〉を掲載します。

また、小林秀雄のドストエフスキー観の問題点については、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』で詳しく考察しましたが、私は司馬遼太郎氏も実は小林秀雄の厳しい批判者の一人だったのではないかと考えています。

それゆえ、次回の考察を行う前に〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉と題した評論を「主な研究」に掲載することにしたいと思います。

なお、このシリーズでは詳しい引用文献などは示しません。拙著『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、2002年)や『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011年)などの注に記した文献を参照して頂ければ幸いです。

 

「講座  『坂の上の雲』の時代と『罪と罰』の受容」を「新着情報」のページに掲載

リンク→講座 『坂の上の雲』の時代と『罪と罰』の受容

  3月4日に標記の題名で<世田谷文学館友の会>の講座を行うことになりましたので、講座のリード文と日時などを「おしらせ」123号より、「新着情報」のページに転載しました。

<世田谷文学館友の会>の講座では、これまでにも、2013年2月19日に「『草枕』で司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を読み解く」という題名で、2014年6月27日には、「新聞記者・正岡子規と夏目漱石――『坂の上の雲』をとおして」という題名でお話しする機会を頂きました。

今年は「憲法」のない帝政ロシアで1866年に書かれたドストエフスキーの『罪と罰』が発表されてから150年に当たり、スペインのグラナダで『罪と罰』をメインテーマとした国際学会(IDS)が開催されます。

それゆえ、今回の講座では新聞『日本』の記者でもあった正岡子規と夏目漱石や島崎藤村との関係などに注目しながら、評論「『罪と罰』の殺人罪」(1893年)を書いた北村透谷を主人公の一人とした藤村の『春』や日露戦争直後に上梓された『破戒』などとその時代を分析することにより、『罪と罰』が日本の近代文学に与えた深い影響と現代的な意義についてお話したいと考えています。

(参考図書:高橋『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年)。

正岡子規の「比較」という方法と『坂の上の雲』

司馬氏の長編小説『菜の花の沖』(1979~82)では、淡路島の寒村に生まれ、兵庫に出て樽廻船の炊(かしき)から身を起こして北前船の船長となり、折から緊張の高まりつつあった北の海へと乗り出して、江戸時代に起きた日露の衝突の危機を救った商人・高田屋嘉兵衛を主人公としています。

注目したいのは、この長編小説で高田屋嘉兵衛とナポレオンが同じ年に生まれていただけでなく「両人とも島の出身だった」と描いた司馬氏が、ナポレオンがロシアに侵攻してモスクワを占領したのと同じ1812年に嘉兵衛がロシア側との和平交渉を行っていたことを比較することで、「江戸文明」が世界的に見ても進んでいたことを明らかにしていたことです。

ブルガリアなどに留学していたこともあり、『菜の花の沖』の後で『坂の上の雲』(1968~72)を読んだ私は、日露戦争をクライマックスとしたこの長編小説では、フランスとアメリカに留学した秋山好古、真之の兄弟だけでなく、ロシアで学んだ広瀬武夫やイギリスに留学した夏目漱石などをとおして、これらの国々と日本が文明論的な方法で比較されていると感じました。

さらに、新聞『日本』で「文苑」欄を担当することになる、もう一人の主人公である俳人の正岡子規のことを調べるうちに、彼が松山から上京して間もない頃に「比較」という題で次のように書いていたことを知りました。

「世の中に比較といふ程明瞭なることもなく愉快なることもなし 例へば世の治方を論ずる場合にも乱国を引てきて対照する方能く分り 又織田 豊臣 徳川の三傑を時鳥(ほととぎす)の句にて比較したるが如き 面白くてしかも其性質を現はすこと一人一人についていふよりも余程明瞭也」。

正岡子規は日露戦争の前に亡くなってしまうのですが、子規の「比較」や「写生」という方法に注目するならば、秋山好古・真之の兄弟だけでなく、広瀬武夫や夏目漱石の視線は、子規の視線とも重なっていると思えます。

危機的な時代には「自国中心的な」価値観が強調されてきましたが、そのような認識と宣伝が戦争を拡大させてもきたのです。

そのことに留意するならば、今、必要とされているのは、「比較」や「写生」という方法による冷静な歴史の認識でしょう。

リンク『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015年

「安倍談話」と「立憲政治」の危機(1)――明治時代の「新聞紙条例」と「安全保障関連法案」

今回は8月14日に発表された「安倍談話」の問題を取り上げます。

なぜならば、「戦後70年」の節目として語られたはずにもかかわらず、その談話ではそれよりもさらに40年も前の「日露戦争」の勝利が讃えられる一方で、「憲法」や「国会」の意義にはほとんどふれられていいなかったからです。その文章を以下に引用したあとで、それらの問題点を具体的に考察することにします。

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「終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。」

こう語り始めた安倍氏が「歴史の教訓」の例として取り上げたのが、「立憲政治」の樹立と日露戦争の勝利でした。

「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。」(太字は引用者)

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日露戦争の勝利を讃美することの危険性については、次に考察したいと思いますが、今回はまず「明治憲法」と「国会」開設の問題を取り上げます。

自分の祖父である岸信介氏を理想視する安倍首相は、「立憲政治」の意義についてはさらりと言及しただけでしたが、日露戦争をクライマックスとした長編小説『坂の上の雲』で司馬氏が比較という手法をとおして力を込めて描いていたのは、皇帝による専制政治のもとで言論の自由がなかった帝政ロシアと、「憲法」を持ち、「国民」が自立していた日本との違いでした。

しかも、俳句の革新を行っただけでなく、新聞記者としても活躍していた正岡子規を主人公の一人としたこの長編小説では、権力におごっていた薩長藩閥政府との長く厳しい戦いをとおして、「明治憲法」が発布され、「国会」の開設に至ったことも描かれていました。

そのことは西南戦争に至る明治初期の日本を描いた長編小説『翔ぶが如く』とあわせて読むことで、いっそう明白となるでしょう。『坂の上の雲』が終わる頃から書き始められたこの長編小説では、「讒謗律(ざんぼうりつ)」や「新聞紙条例」を発布することで、江戸幕府以上に厳しく言論の自由を制限していた薩長藩閥政府の問題がくっきりと描かれているのです。

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一方、多くの憲法学者や元最高裁長官が指摘しているように「憲法」に違反している可能性の高い「安全保障関連法案」を安倍内閣は推し進め、自民・公明両党も衆議院でこの法案を強行採決しました。

特徴的なのは、この法案を審議する特別委員会で、「ヤジ」を飛ばしたりして厳しく諫められた首相が、今度は国会での審議中にもかかわらず、民間のテレビ局で自説を述べるなど、「国会」の軽視がはなはだしいことです。

さらに、参議院での議論をとおして問題がより明確になってきたにもかかわらず、自民党の高村副総裁も国民の理解が「十分得られてなくても、やらなければいけない」と述べて、「国民」の意向を無視してでも、参院でも「戦争法案」を強行採決する姿勢を明確に示しています。

その一方で高村氏は、「選挙で国民の理解が得られなければ政権を失う」と話し、次の衆議院選挙で国民の審判を仰ぐ意向を示したとのことですが、それは順序が逆で、選挙を行う前に「公約」として掲げていなかったこの法案を廃案とし、改めて次の国会で議論すべきでしょう。

なぜならば、このHPでも何度も取り上げてきたように、昨年末の総選挙の前に菅官房長官は「秘密法・集団的自衛権」は、「争点にならず」と発言していました。そして自民党も「景気回復、この道しかない」というスローガンを掲げ、「アベノミクス」を前面に出して総選挙を戦っていたからです。

安倍首相も「さきの衆院選では昨年七月の閣議決定に基づき、法制を速やかに整備することを明確に公約として掲げ、国民から支持を頂いた」と、安保法案は選挙で公約済みと強調しましたが、「東京新聞」の記事が具体的に指摘したように、昨年の選挙での自民党公約では、安保法制への言及は二百七十一番目だっただけでなく、「集団的自衛権の行使容認」は見出しにも、具体的な文言にもなかったのです。

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このように「憲法」と「国会」をとおして現在の日本の政治を見るとき、安倍首相などの言動は「70年談話」で語られた「アジアで最初に立憲政治を打ち立て独立を守り抜きました」という日本の歴史を否定し、日本の民主主義を「存亡」の危機に立たせているように感じます。

このような「憲政」の危機に際して、「心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵」を学ぶためにも、これまで誤解されてきた長編小説『坂の上の雲』をもう一度丁寧に読み直す必要があると思えます。

正岡子規を主人公として、新聞『日本』を創刊した恩人・陸羯南との関わりや夏目漱石との友情をとおして『坂の上の雲』を読むとき、これまでの解釈とはまったく違った光景が拓けてくることでしょう。

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残念ながら、「国民の生命や安全」に深く関わるいわゆる「戦争法案」が、9月17日に民主主義の根幹を揺るがすような方法で「強行採決」されたことにより、現在の日本は「憲法」が仮死状態になったような状態だと思われます。

それゆえ、次回からは「憲法」がなく言論の自由が厳しく制限されていた帝政ロシアで書かれた長編小説『罪と罰』が、なぜ法学部で学んだ元大学生を主人公とし、弁護士との激しい論戦が描かれているのかを考察することにします。

そのことにより日本では矮小化されて解釈されることの多い長編小説『罪と罰』が現代の日本に投げかけている問題が明らかになるでしょう。

リンク→「安倍談話」と「立憲政治」の危機(2)――日露戦争の賛美とヒトラーの普仏戦争礼賛

(2016年1月28日。改題と改訂。リンク先を変更)。

 

新聞記者・正岡子規関連の記事一覧

shonihon

(図版は正岡子規編集・執筆『小日本』〈全2巻、大空社、1994年〉、大空社のHPより)

 

先ほど、〈川内原発の再稼働と新聞『小日本』の巻頭文「悪(に)くき者」〉という記事をアップしました。

以下に、新聞記者・正岡子規関連の記事のリンク先を示しておきます。

 

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)の目次を「著書・共著」に掲載

新聞『日本』の報道姿勢と安倍政権の言論感覚

「特定秘密保護法」と子規の『小日本』

「東京新聞」の「平和の俳句」と子規の『小日本』

ピケティ氏の『21世紀の資本』と正岡子規の貧富論

近著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)について

講座 「新聞記者・正岡子規と夏目漱石――『坂の上の雲』をとおして」

「特定秘密保護法」と自由民権運動――『坂の上の雲』と新聞記者・正岡子規

年表6、正岡子規・夏目漱石関連簡易年表(1857~1910)

司馬作品から学んだことⅣ――内務官僚と正岡子規の退寮問題

 

(2015年12月14日。リンク先を追加)

 自著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』の紹介文を転載

正岡子規の「比較」という方法と『坂の上の雲』

映画《風立ちぬ》論Ⅵ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(2)

前回は夏目漱石の『草枕』が「大好きですね」と宮崎監督が語っていることの紹介から始めましたが、次の言葉からは熱烈な愛読者であることが伝わってきます。

「いずれにしましてもぼく、『草枕』が大好きで、飛行機に乗らなきゃいけないときは必ずあれを持っていくんです。どこからでも読めるところも好きなんです。終わりまで行ったら、また適当なところを開いて読んでりゃいい。ぼくはほんとうに、『草枕』ばかり読んでいる人間かもしれません(笑)」(『腰抜け愛国談義』文春ジブリ文庫、2013年)。

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『漱石先生ぞな もし』(文春文庫)の作者でもある半藤一利氏が「それはともかく、『草枕』は一種のファンタジーです。漱石がつくりだした桃源郷と言ってもいい」語ると宮崎監督も「惨憺たる精神状態のときに書いたものだと言われるけれど、だからこそいいものになったような気もします」と答えています。

 

私にとって興味深かったのは、「おっしゃるとおり『草枕』は、ノイローゼがいちばんひどかったときの作品なんですね」と指摘した半藤氏が、「これは私呑んだときによくしゃべることなんですけれどね。『草枕』という小説は、若い頃につくった俳句を引っぱりだしてきて、漱石はそれを眺めながら、うん、こいつを使おうと考えた。それら俳句に詠んだ描写を書いているんです」と語り、「ですからあの小説は、漱石自ら『俳句小説』だといっていますね」と続けていることです。

この説明を聞いて、宮崎監督は「そういえばはじめて読んだとき、主人公の青年は絵描きなのに、なぜ俳句ばかり詠んでいるんだろうと不思議に思ったのを思い出しました(笑)。でも、いや、ぼくは『草枕』は好きです。何度読んでも好きです」と応じています。

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宮崎監督と半藤氏とのこれらの会話を読んで思い出したのは、夏目漱石と正岡子規との関係でした。

たとえば、冒頭の文章に続いて、風景を詠もうとする画工(えかき)の試みが次のように描かれています。

「やがて、長閑(のどか)な馬子唄(まごうた)が、春に更(ふ)けた空山(くうざん)一路の夢を破る。憐(あわ)れの底に気楽な響きがこもって、どう考えても画にかいた声だ。/ 馬子唄の鈴鹿(すずか)越ゆるや春の雨/ と、今度は斜(はす)に書き付けたが、書いて見て、これは自分の句でないと気が付いた。」

全集の注はこの句も子規が明治25年に書いた「馬子唄の鈴鹿(すずか)上るや春の雨」を踏まえていることを示唆しています。

半藤氏は漱石が「若い頃につくった俳句を引っぱりだしてきて」、それをこの小説で用いていると指摘していましたが、現在、執筆中の『司馬遼太郎の視線(まなざし)――子規と「坂の上の雲」と』では、新聞記者となる子規と漱石との深い交友にも焦点をあてて書いています。その中で改めて感じるのは、漱石という作家が子規との深い交友とお互いの切磋琢磨をとおして生まれていることです。

このことを踏まえるならば、この時、漱石は漫然と若い頃を思い出していたのではなく、病身をおして木曽路を旅した子規が翌年の明治二五年五月から六月にかけて「かけはしの記」と題して新聞『日本』に連載した紀行文のことを思い浮かべていたのではないかと思えるのです。

ことに『草枕』の冒頭の「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。/智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい」という文章は、大胆すぎる仮説かもしれませんが、「かけはしの記」の冒頭に記されている次のような文章への「返歌」のような性質を持っているのではないかと思えます。

「浮世の病ひ頭に上りては哲学の研究も惑病同源の理を示さず。行脚雲水の望みに心空になりては俗界の草根木皮、画にかいた白雲青山ほどにきかぬもあさまし」。

漱石の処女作となった『吾輩は猫である』が、子規の創刊した『ホトトギス』に掲載されたことはよく知られていますが、結核を患って若くして亡くなった子規が漱石に及ぼした影響については、さらに研究が深められるべきでしょう。

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宮崎監督はロンドンのテムズ川の南、チェイスというところにある漱石記念館やテート・ギャラリーを訪れたことに関連して、『三四郎』における絵画について語っています。

すなわち、「記念館に足を踏み入れたとき、ぼくはもうそれだけで胸がいっぱい。なにかもう、『漱石さん、あのときはご苦労さまでした』って感じで」と語った宮崎監督は、「ロンドンではテート・ギャラリーの、漱石が足しげく通ったというターナーとラファエル前派の部屋にも行きました」と語り、次のように続けているのです。

「絵を前にして立っていると、ああ、ここに漱石が立っていたに違いない、と。そのなかに羊の群れが丘の上でたわむれている絵がありまして、ああ、これがきっと、『三四郎』の「ストレイシープ」だなんて思って、また胸が(笑)。」

このブログでは司馬遼太郎氏が「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と記していた漱石の『三四郎』についてたびたび言及してきました。

実は、『草枕』でも女主人公・那美の従兄弟の久一が招集されて戦地に赴くことだけでなく、彼女の別れた夫が一旗あげようとして満州に渡ろうとしているなど日露戦争の影も色濃く描かれているのです。

映画《風立ちぬ》における時代の鋭い描写には、宮崎監督の漱石の深い理解が反映されていると思えます。

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興味深いのは、半藤氏が「『草枕』という小説は、言葉が古くて難しいからいまの若い人たちには読めないんですよ。だから私、若い人たちに『草枕』は英語で読め、と言っています」と語ったことに対して、宮崎監督が「どこかでそうお書きになっていましたね。ぼくはわかんないとこは平気でとばして読んでいます(笑)」とやんわりと反論していたことです。

私も宮崎監督に同感で、初めのうちは分かりにくくても、やはり日本語で読むことで『草枕』という小説が持つ日本語のリズムも伝わってくるし、何度も読み返すことで、その面白さや深さやも伝わってくると考えています。

宮崎監督がこの後で、「なにしろ『草枕』は、ほんとに情景がきれいなんです。しかもその鮮度がいまでもまったく失われていないんです」と語ると、その言葉を受けて半藤氏も、「漱石の小説で、絵巻になっているのは『草枕』だけですね」と応じています。

ロンドンのテート・ギャラリーには、『三四郎』の「ストレイシープ」に関わる画だけでなく、悲劇『ハムレット』のヒロイン・オフェリヤを描いたジョン・エヴァレット・ミレイの絵や朦朧体で描かれたターナーの絵も多く飾られていました。

これらの絵画からの印象も映画《風立ちぬ》における深い叙情に反映されているのではないかと思えます。

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半藤氏はカナダのピアニストのグレン・グールドが『草枕』とトーマス・マンの『魔の山』を、「二十世紀の最高傑作に挙げた」ことも指摘しています。

映画《風立ちぬ》における『魔の山』のテーマについてはすでに記していましたが、この二つの作品を読むことにより映画で描かれている時代の理解も深まるでしょう。

 

リンク→《風立ちぬ》論Ⅲ――『魔の山』とヒトラーの影

 

映画《風立ちぬ》論Ⅴ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(1)

 

宮崎監督は夏目漱石の『草枕』が「大好きですね」と語っています。

元編集者で『漱石先生ぞな もし』(文春文庫)の作者でもある半藤一利氏がそれを受けて「それにあれは、絵画的世界でもありますね」と指摘すると、監督は「那美さんが川舟のなかで、スッと春の山をゆび指すでしょう。『あの山の向うを、あなたは越して入(い)らしった』と。とてもきれいなんです。絵にしたいんです。でも自分の画力では絵にできません」と続けているのです。

この二人の対談『腰抜け愛国談義』(文春ジブリ文庫、2013年)に注目しながら映画《風立ちぬ》を見るとき、この映画が堀辰雄の作品や優れた設計者の堀越二郎の伝記だけでなく、漱石の『草枕』の世界をも踏まえて創られているのだろう思えてきます。

ただ、『草枕』は少し古い作品なので、今回はこの内容も紹介しながら映画《風立ちぬ》との関係を考えてみたいと思います。

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日露戦争終結の翌年に発表された『草枕』は次のような有名な冒頭の言葉で始まります。

「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。

智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角(とかく)に人の世は住みにくい。

住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画(え)が出来る。」

 

こうして『草枕』では、画工である主人公が逗留した山中の温泉宿での景色や、そこで出会った「今まで見た女のうちで尤(もつと)もうつくしい所作をする」薄幸の女性・那美さんとの関わりをとおして独自の芸術論が語られているのです。

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その舞台となったのが熊本の小天(おあま)温泉でしたが、そこに「どうしても行きたくなって」しまった宮崎監督は、「社員旅行のときに『熊本に行こう!』と言い張って(笑)。二百何十人で出かけて行ったことがありました」と語っています。

宮崎「念願かなって行ったのですが、物語にでてくる峠道を歩くことはできませんでした。時間があまりなくてバスで行ってしまったものですから。」

半藤「それは残念でしたね。」

宮崎「物語の最後のところで、吉田の停留場(ステーション)まで川舟で川を下りますでしょう。あの川にはなんとしても行ってみたいと思ったのですが、ところが地図をいくら調べてもない。」

半藤「あれはつくり話なんです。漱石が自分でも描いた山水画の世界です。」

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『草枕』で注目したいのは、戦争が始まってからはほとんど湯治の客も来なくなった温泉の主人の娘・那美(なみ)が、最初からシェークスピアの悲劇『ハムレット』のヒロイン・オフェリヤと結びつけられて描かれていることです。

すなわち、茶店の老婆が「わたしゃ、お嫁入りのときの姿が、まだ眼前(めさき)に散らついている。裾(すそ)模様の振袖(ふりそで)に、高島田で、馬に乗って……」と源(げん)さんに話しかけているのを聞いた主人公は、写生帖をあけて「この景色は画になる」と考えるのです。ただ、「花嫁の顔だけは、どうしても思いつけなかった。しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影(おもかげ)が忽然(こつぜん)と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった」と描かれています。

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「ウィキペディア」より

さらに主人公に「昔しこの村に長良の乙女と云う、美くしい長者の娘」が、二人の男から懸想されて「淵川(ふちかわ)へ身を投げて果てました」と語った老婆は、那美も親の強い意向で「ここの城下で随一の物持ち」に嫁いだものの、「今度の戦争で、旦那様の勤めて御出の銀行がつぶれ」て戻ってきたと語ったのです。

こうして、人づてに那美についての話を聞いて、よい画の主題を得たと思い始めた主人公は、第7章では思いがけず風呂場に入ってきて朦朧とした湯けむりのなかに見える彼女の姿を、「あまりにも露骨(あからさま)な肉の美」を描く西欧の裸体画と比較しつつ、「神代の姿を雲のなかに呼びお起こしたるが如く自然である」と描いています。

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「映画『風立ちぬ』と日本の明日」と題された第二部では、半藤氏が「映画のなかで堀越二郎が菜穂子と暮らした黒川邸のような家は、昭和初期にはたくさんあったように思いますねえ」と語っています。

興味深いのは、その言葉を受けた宮崎監督が、女主人公の菜穂子が治療中のサナトリウムを抜け出して黒川夫妻の元で祝言を挙げ、命を燃やすように濃密な時間を二人で生きた黒川邸の離れについてこう語っていることです。

「『草枕』の舞台となった熊本の小天温泉に出かけて行った話を前回しましたが、漱石が泊まった前田家別邸の離れを見たときに『あ、これはいつか使える。覚えておこう』と思ったんです。黒川邸の離れはあそこがモデルなんです。」

自由民権運動に深くかかわった熊本の名士・前田案山子のこの別邸には中江兆民が訪れていたこともあり、漱石関連の書籍で写真を見ていたことが、私が映画《風立ちぬ》から強い印象を受けた一因かもしれません

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(本稿は昨日書いた同名のブログ記事の全面的な改訂版です。アップした文章を読み直したところ、漱石の『草枕』をまだ読んでいない人には難しいことが分かりましたので、2回に分けて掲載することにしました)。

 

 

「ぼく」とは誰か〈改訂版〉――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(2)

このシリーズの(1)では、「戦争体験者の証言を集めた本」を出版することになった新聞社の記者高山と、そのプロジェクトのスタッフに選ばれた「ぼく」の姉・慶子が、戦争についての深い知識を有していなければならないにもかかわらず、批判に対してきちんと反論ができなかったように描かれていることにまず注目しました。

次に、「物語の流れ」を分析して最初は誠実そうに見える新聞記者の高山という人物が、実は「オレオレ詐欺」のヒール(悪役)を演じる人物であり、慶子がその助手をしているのではないかという仮説を示しました。

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では、この小説で語り手をつとめている「「ぼく」とは誰でしょうか。

「スターウォーズのテーマで目が覚めた。携帯電話呼び出し音だ」という印象的な文章で始まる第1章では、30歳を過ぎてから弁護士となった「努力の人」である祖父の大石賢一郎にあこがれて弁護士を志していた「ぼく」が、司法試験に4年連続して不合格だったために、「自信もやる気も失せてしまい」仕事にも就かずぶらぶらと時間をつぶしていたことが記されています。

「亡霊」と題されたこの章では、「本当のおじいさんがどんな人だったのか、とても興味があるわ。だってこれは自分のルーツなのよ」と姉の慶子からアシスタントを頼まれたことで、実の祖父には「特別な感情」はなく、「突然、亡霊が現れたようなもの」と感じつつもこの企画に参加することになり、「最後」と題された第11章では「母に読ませるための祖父の物語」をまとめていると描かれているのです。

最初にブログに記した際にはこの小説における「書き手」の「ぼく」である宮部久蔵の孫・健太郎を作者の分身として解釈していましたたが、拙著『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』の第二部では、最初の内は「臆病者」と非難された実の祖父の汚名を晴らそうとした健太郎が、取材を続ける中で次第に取り込まれて後半では積極的に作者の思想を広めるようになる若者として解釈しました。

 普段は「売国奴」などの激しい「憎悪表現」を好んで用いる百田氏は、ここでは気の弱い若者を誘惑するような形で小説の構造を構築することにより、自分が宣伝したい「人物」の「正しさ」を強調するために、それとは反対の見方をする新聞記者・高山を徹底的にけなし追い詰めるというという手法により、読者をも第2次世界大戦へと引きずり込んだ「危険な歴史認識」へと誘っているのです。

そのように読み直したことにより、この小説の思想的な背景を、「新しい歴史教科書をつくる会」の「自由主義史観」や「日本会議」の神話的な歴史認識がなしていることをも明らかにしえたのではないかと考えています。

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『永遠の0(ゼロ)』は、ノンフィクションを謳った『殉愛』とは異なり、初めから小説として発表されているから問題はないと思う読者もいるかもしれません。

しかし、宮崎駿氏は『永遠の0(ゼロ)』を「神話の捏造」と批判しましたが、第二次世界大戦に際しては「鬼畜米英」といった「憎悪表現」だけでなく、「神州不滅」や「五族(日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人)協和」「八紘一宇(道義的に天下を一つの家のようにする)」などの「美しい神話」が語られて多くの若者がそれを信じたのです。

『永遠の0(ゼロ)』で蘇峰との関連で言及されている日露戦争の際にも、ポーランドやフィンランドを併合していた帝国ロシアと植民地を持たない日本との戦争は、「野蛮と文明の戦い」という「美しい物語」が作られていました。

しかし、夏目漱石は日露戦争後に書いた長編小説『三四郎』で、三四郎の向かいに坐った老人に「一体戦争は何のためにするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんな馬鹿気たものはない」と嘆かせていました。

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第2次世界大戦で敗色が濃厚になると日本では「一億玉砕」というスローガンさえ現れましたが、広島と長崎に原爆が投下されたあとも世界では核兵器の開発がすすみました。

地球が何度も破滅してしまうほど大量の核兵器を人類が所有した後で、戦争がどのような事態を招くかについては、政治家や軍人だけでなく一般の民衆も真剣に考えねばならない時期に来ていると思われます。

(2016年11月22日。青い字の箇所を改訂し、題名に〈改訂版〉を追加)

 

「電子文藝館に寄稿した論考」のリンク先を掲載

 

「日本ペンクラブ電子文藝館」に寄稿した論考のリンク先が見つけにくいとのご指摘がありましたので、下記に示します。

なお、「主な研究活動」タイトル一覧のⅠとⅡにも常時、掲載するようにしました。

 

リンク先→「主な研究(活動)」タイトル一覧

「主な研究(活動)」タイトル一覧Ⅱ   

 

 司馬遼太郎の教育観  ――『ひとびとの跫音』における大正時代の考察2006/12/12

 戦争と文学――自己と他者の認識に向けて(2005/11/04)

司馬遼太郎の夏目漱石観  ――比較の重要性の認識をめぐって(2004/03/10)

「正岡子規・夏目漱石関連簡易年表」を加筆・改訂

リンク→ Ⅲ、正岡子規・夏目漱石関連簡易年表(1857~1910)

 

年表Ⅲとしてアップしていた「正岡子規・夏目漱石関連簡易年表」は、未完成の状態でしたので気になっていました。

今回は世田谷文学館「友の会」主催の講座「新聞記者・正岡子規と夏目漱石――『坂の上の雲』をとおして」でもご紹介した坪内捻典氏の『正岡子規 言葉と生きる』(岩波新書)に掲載されている「正岡子規略年譜」の記述や水川隆夫氏の『夏目漱石と戦争』(平凡新書)などを参考加筆と訂正を行いました。

子規と漱石に関する記述がふえましたので、子規と漱石が生まれた1867年以降の記載に際しては両人以外の人や国内の事柄は行を替えて、外国での出来事などについては【】内に記すようにしました。なお、この年表では戦争や暗殺は朱で、戦争につながると思われる内務省や新聞紙条例などはオレンジの色で表記しました