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ドストエフスキー

ドストエーフスキイの会、第47回総会と233回例会(報告者:杉里直人氏)のご案内

 「第47回総会と第233回例会のご案内」と「報告要旨」を「ニュースレター」(No.134)より転載します。

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下記の要領で総会と例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                                           

 日 時2016年5月21日(土)午後1時30分~5時         

場 所千駄ヶ谷区民会館第一会議室(JR原宿駅下車7分)℡:03-3402-7854

総会:午後1時30分から40分程度、終わり次第に例会

議題:活動・会計報告、運営体制、活動計画、予算などについて

例会報告者:杉里直人 氏

 題 目:  『カラマーゾフの兄弟』における「実践的な愛」と「空想の愛」――子供を媒介にして

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:杉里直人(すぎさと なおと)

1956年生まれ。早稲田大学、明治大学ほか非常勤講師。2007年以降、マヤコフスキー学院にて『カラマーゾフの兄弟』を講読しており、まもなく読了の予定。最近『カラマーゾフの兄弟』の翻訳を終えた。主要訳書:バフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネサンスの民衆文化』(水声社)。

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第233回例会報告要旨

 『カラマーゾフの兄弟』における「実践的な愛」と「空想の愛」――子供を媒介にして

アリョーシャが編んだ「ゾシマ長老言行録」(第六編第二章)には、子供についてゾシマ長老が述べた印象深い一節がある――「とくに子供を愛されよ、なぜなら、子供も天使のごとく罪なき者であり、私たちを感動させ、私たちの心を浄化するために生き、私たちにとってある種の啓示のようなものだからである。幼子を辱しめる者は嘆かわしい」

「辱められた子供」は『カラマーゾフの兄弟』のもっとも重要な主題の一つである。そもそもカラマーゾフの三兄弟はみな親に遺棄(ネグレクト)され、成年に達するまでその愛情を知らずに生きてきたし、幼時より下(ホ)種(ド)な(レー)男(ツ)だ、嫌(スメ)な(ルジ)臭い(ャーシ)の(チャ)女(ヤ)から生まれた父なし子だと差別され続けてきた、異母兄弟スメルジャコフにいたっては、「この世に生まれないですむなら、腹の中で自殺するのも辞さない」と慨嘆するほどの黒々とした絶望と怨嗟に苛まれている。

幼児凌辱と言えば、読者の胸にもっとも強烈な印象を刻むのは、「反逆」(第五編第四章)のイワンであろう。子供が大好きだというイワンは、古今東西の幼児虐待事件の記録のコレクターで、トルコ、フランス、ロシアでのその種の残虐な事件を弟に縷々語る。彼が結論として引きだすのは、罪のない子供の苦しみ、彼らが流さなければならない不条理な涙は何によっても贖われることがない以上、神の創った世界と、その終末に到来する一切の罪の赦しと永遠の調和を拒否し、神への讃歌《ホサナ》に自分は唱和しないという決意である。

一方、父親殺しの容疑者として徹夜の取調を受けて疲労困憊したドミートリーは眠りこみ、奇妙な短い夢を見る。火事で焼けだされた村落で一滴の乳も出なくなった痩せた女に抱かれて泣く赤ん坊の夢。それに魂を震撼されたドミートリーは夢の中で誓う――「もう二度と童(ジチョー)が泣かずにすむように…一刻の猶予もなく、万難を排して、あらんかぎりのカラマーゾフ的蛮勇を発揮してどんなことでもやりたい」(第九編第八章)。この夢は彼の回心・新生への転回点となる。裁判の前日、彼は監獄を訪ねたアリョーシャに向かって、自分は親父を殺してはいないが、あの童のために懲役に行く、なぜなら「人はみな、万人の犯した罪に対して責任があるからだ」、そして徒刑地の鉱山の地底で神を讃えて悲しみに満ちた《讃歌(ギムン)》を歌うと宣言する(第十一編第四章)。その彼にどこまでも寄り添おうとするのが、みずからも「虐げられた子供」の一人でありながら、「一個のタマネギを恵む」女グルーシェンカである。

虐げられた子供の涙を前にして、二人の兄弟を分かち、異なる道に向かわしめるのは、ドミートリーにあって、イワンにはない啓示――「人はみな…」という贖罪意識である。この認識はドミー―トリーとイワンとを遠ざけるだけはない。彼をゾシマ長老、彼の夭折した兄マルケルへと近づけることにもなる。

兄と弟はそれぞれ独自の子供への愛を語るが、イワンはもちろん、ドミートリーにしても、ゾシマ長老の語る「空想の愛」にとどまることもいなめない。「人はみな…」だけでは、「実践的な愛」には到達しえない。私見によれば、「人はみな…」は、マルケル、ジノーヴィー(ゾシマの俗名)、そしてジノーヴィーの軍隊時代の従僕アファナーシーを貫く「自分にそんなことをしてもらう値打ちがあるだろうか」という謙譲(スミレ)=(ー)忍従(ニエ)をともなわないかぎり、「実践的な愛」には到達しえないのだ。

では、「実践的な愛」の人アリョーシャは、子供にどのように対しているか。あるいは三世代を扱うこの小説にあって、「少年たち」は具体的にどう描かれているか。今回の報告では「子供」を鍵にして、「実践的な愛」と「空想の愛」の諸相について考えてみたい。

書評 大木昭男著『ロシア最後の農村派作家――ワレンチン・ラスプーチンの文学』(群像社、 2015年)

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中編『生きよ、そして記憶せよ』(一九七四)と『火事』(一九八五)でソ連邦国家賞を二度受賞し、二〇〇〇年にはソルジェニーツィン賞を受賞した農村派の作家ラスプーチンが昨年の三月に亡くなった。 その報を受けて、 作家とは個人的にも旧知の間柄であり、『病院にて ソ連崩壊後の短編集』(群像社、二〇一三)の訳書もある大木昭男氏がこれまでの論稿をまとめたのが本書である。

作家の小説だけでなく、ルポルタージュや「我がマニフェスト」をも視野に入れた本書は、作家の全体像を把握できるような構成になっている(本稿では著者の表記「ドストエーフスキイ」で統一した)。

第一章 ロシア独自の道とインテリゲンチヤ

第二章 モスクワ騒乱事件直後のラスプーチン

第三章 ドストエーフスキイとラスプーチン――「救い」の問題試論

第四章 ラスプーチン文学に現れた母子像

第五章 ロシア・リアリズムの伝統とラスプーチン文学

第六章 失われた故郷への回帰志向―小説のフィナーレ

第七章 ラスプーチン文学に見る自然 エピローグ――「我がマニフェスト」翻訳とコメント

ドストエーフスキイとの関連で注目したいのは、「わたしはここ十年間ドストエーフスキイを何回も読み返しています」と一九八六年に語ったラスプーチンが、「ドストエーフスキイはわたしにとってどういう作家であるかといえば、気持ちの上で一番近い存在であり、精神的にもっとも影響を受けた作家であるという答えが一番正しい答えになると思います」と続けていたことである(第三章)。

この言葉を紹介して、ラスプーチンの「精神の中核にはやはり正教の人間観が厳然と在る」と指摘した大木氏は、「ドストエーフスキイの提唱した『土壌主義』は、『母なる大地』と融合したプーシキン文学の伝統を継承したもの」であり、「その伝統を現代において受け継いだ作家こそワレンチン・ラスプーチンなのである」と主張している(第四章)。

ただ、本書に収録されている作家の略年譜によれば、ラスプーチンが洗礼を受けたのは中編『マチョーラとの別れ』(一九七六)の後の一九八〇年のことだったことがわかる。では、なぜラスプーチンはこの作品の後で正教徒となったのだろうか。ここでは中編『火事』(一九八五)とドストエーフスキイの作品との関係を詳しく分析した第三章を中心に、この作品に至るまでとその後の作品を分析した著者の考察を追うことで、ラスプーチンのドストエーフスキイ観に迫ることにしたい。

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一九三七年三月に今はダムの底に沈んだシベリアの小さな村に生まれたラスプーチンは、ナチス・ドイツとの「大祖国戦争」の苦しい時期に少年時代を過ごし、大学卒業後は新聞記者として勤めながら小説も書き始めた。 「ソ連崩壊後、国民の実に六〇%が貧困層に転落し、とりわけ年金生活者の多くが医療にもかかれないまま路頭に迷った。

ラスプーチンはそのような悲惨な現実をよく見据えている」と指摘した大木氏は、彼の作品を貫く方法について、ドストエーフスキイの第一作『貧しき人々』にも言及しながら、「ここにわたしは、一九世紀以来のロシア・リアリズムの伝統を感ずる」と書いている(第五章)。

「小説のフィナーレ」に注目しながらラスプーチンの主な作品を分析した第六章は、現実をしっかりと見つめて描くリアリズムが初期の段階からあったことを示すとともに、ドストエーフスキイの「土壌(大地)主義」への理解の深まりをも示していると思える。

すなわち、中編『マリヤのための金(かね)』(一九六七)では、コルホーズ議長の要請で小売店の売り子として勤めたが、決算時になって千ルーブルもの不足金があることが判明するという事件が発生し、不正などするはずのない純朴な農婦マリヤとその夫が苦境に陥るという出来事をとおして、「昔ながらの共同体的な相互扶助の精神」が廃れつつある状態が描かれている。

中編『アンナ婆さんの末期』(一九七〇)でも、村で百姓として一生を過ごしたアンナ婆さんの臨終の場面をとおして、村に残った子供と村を出て行った子供たちとの関係が描かれており、「夜中、婆さんは死んだ」という最後の文章に注意を促した大木氏は「寿命のつきた一個人の死ではあるが、もっと大きなものの死を暗示しているように思われる」と記している。

そのテーマは「大祖国戦争」で勇敢に戦って負傷したグシコフが、快復したあとで再び戦場に送られることを知って脱走したために、「故郷への回路」を断ち切られてしまうという悲劇を描いた中編『生きよ、そして記憶せよ』(一九七四)や、壮大なダム建設のために水没させられることになったためにアンガラ河の中州の島退去を迫られた農民たちの悲劇を描いた中編『マチョーラとの別れ』(一九七六)でも受け継がれている。

注目したいのは、島の名前の「マチョーラ」が「母」を意味する「マーチ」という単語から作られた固有名詞であると指摘した大木氏が、『マチョーラとの別れ』という題名は、「母なる大地」との別れも示唆していることに注意を促していることである。

ラスプーチンが洗礼を受けた後で書かれた中編『火事』(一九八五)では、ダムの建設によって水没した故郷の村を去り林業に従事することになった主人公イワンが、林業場倉庫の火事の現場で目撃した出来事が描かれている。 この 作品が「『マチョーラとの別れ』の続編とも言うべきもの」であると指摘した大木氏は、火事場で見た「無秩序な光景」について考え始めたイワンの思索が、「自分の内部の無秩序についての内省へと移っていく」ところに、ドストエーフスキイの手法との類似性を見ている。

注目したいのは、この小説のラストシーンで描かれている、「彼は今小さな林の陰に回り、永遠に姿を消してしまうのだ」という「謎めいた表現」は、「主人公の別世界への新たな旅立ちを意味するシーンである」と著者が解釈していることである。 訳出されている「あたかも夜の災厄のために苦しんでいたかのように、静かでもの悲しい秘められた大地がやわらかな雪の下に横たわっていた」という文章から、最後の「大地は沈黙している。/おまえは何であるのか、無言の我が大地よ、おまえはいつまで沈黙しているのか?/本当におまえは沈黙しているのか?」という詩的な文章に至る箇所は、ラスプーチンにおける「土壌(大地)主義」の重みを象徴的に物語っているように思える。

『罪と罰』のエピローグでも「一つの世界から他の世界への漸次的移行」が示唆されていることに注目した著者は、『カラマーゾフの兄弟』でも「ガリラヤのカナ」の章では、「天地を眺めて神の神秘にめざめ、大地を抱擁し、泣きながら接吻する」というアリョーシャの体験が描かれていることを指摘して、中編『火事』の結末においても、「キリスト教的な『過ぎ越し』」が描かれていると主張しているの である(第三章)。

残念ながら日本ではドストエーフスキイ作品を自分の主観でセンセーショナルに解釈する著作の人気が高いが、ドストエーフスキイが一八六四年に書いたメモで人類の発展を、一、族長制の時代、二、過渡期的状態の文明の時代、三、最終段階のキリスト教の時代の三段階に分類していたことを指摘した大木氏は、『白痴』における「サストラダーニエ(共苦)」や「美は世界を救う」という表現の重要性を強調している。

実際、著者が指摘しているように、『白痴』の創作ノートでもムイシキンが「キリスト教的愛の感情に従って行動することを、ナスターシャ・フィリポヴナの救済と彼女の世話と見なして」おり、「長編における三つの愛」が「情熱的直接的愛――ロゴージン」、「虚栄心からの愛――ガーニャ」、そして「キリスト教的愛――公爵」であると明確に定義されているのである。

それゆえ、ラスプーチンが「魂の動きにおいては、ロシア的スタイルは、沢山の苦しみをなめた人へのサストラダーニエであり、思いやりであり」、「共同性である」と書いていることに注意を促した大木氏は、「この認識はドストエーフスキイの民衆観を継承している」と記している。

本書の構成は論文の執筆順になっているので最初に置かれているが、「ロシア独自の道とインテリゲンチヤ」と題された章では、一九九二年のインタビューで「今は検閲がなく、自由がありますが、文学がありません」と語ったラスプーチンの言葉を紹介しつつ、「欧米流マス文化」の氾濫による「精神的空虚と不安定の兆候」を指摘した大木氏は、異文化に対しても排他的な態度を取らない「文化的民族主義」を唱える作家の立場を「新スラヴ派」と位置づけている(第一章)。

短編『同じ土の中に』(一九九五)で「ソ連崩壊後のロシアは、またしても革命前の現実とほとんど同様の貧困と格差の社会になってしまった」ことを描き出したラスプーチンが、一九九七年に「我がマニフェスト」で『カラマーゾフの兄弟』にも言及しながら、「ロシアの作家にとって、再び民衆のこだまとなるべき時節が到来した。痛みも愛も、洞察力も、苦悩の中で刷新された人間も、未曾有の力をもって表現すべき時節が」と宣言したのは、このような時代的な背景によるものだったのである(エピローグ)。

最後の中編『イワンの娘、イワンの母』(二〇〇三)を考察した論文の冒頭で「ロシアの『母子像』といえば、先ず思い浮かべるのは、幼児イエスとその母マリヤの二人が描かれている聖母子イコンであろう。それは慈愛のシンボルであり、キリスト教的『救い』のイメージと結びついている」と記した大木氏は、「イワン」という名前が「ヨハネ」に由来しており、「イワンの日」と呼ばれる民衆的な祭りがあるほどこの名前はロシア人の間ではきわめてポピュラーで、ロシア正教会ではこの日が「洗礼者ヨハネの誕生日」とされていることも説明している(第四章)。

そして、「ロシア社会の重要な、最も救済力に富んだ革新は、勿論、ロシア人女性の役割に属する」とドストエーフスキイが『作家の日記』に書いていたことを紹介した著者は、「ロシア人女性の大胆さ」が描かれているこの小説は「『我がマニフェスト』の意欲的実践の作として評価されるべき」と書いている。 ラスプーチンの小説を高く評価した文化学者のリハチョーフが「文化環境の保護も自然環境の保護に限らず本質的な課題です」と書いていたことに関連して、ドストエーフスキイの「美は世界を救う」という表現にも言及した大木氏は、「その『美』とは、人間の精神的な美を意味する言葉であるが、自然環境の美が保たれてこそ、人間精神の美も育まれてゆくものであろう。ラスプーチンはそのような認識にもとづいて『バイカル運動』をはじめとする自然保護運動を積極的に展開してきたのであった」と続けている(第七章)。

中編『マチョーラとの別れ』論で大木氏は、経済的な観点からの「ダムの建設は環境破壊をもたらし、そこで暮らしている住民たちの土地と結びついた過去の記憶を奪うことになる」と指摘していたが、それは三・一一の大事故による放射能で故郷から追われた福島の人々にもあてはまるだろう。

国民には秘密裏に行われて成立したTPPの交渉では農業分野で大幅な譲歩をしていたことが明らかになり、近い将来日本でも農村の疲弊と大地の劣化が進む危険性が高い。 ラスプーチンの「民族主義」的な主張には違和感を覚えるところもあるが、シベリアの小さな村の出来事などとおしてロシアの厳しい現実を丹念に描き出したラスプーチンの小説が、「土壌(大地)主義」を唱えたドストエーフスキイの精神を受け継いでいることを明らかにした本書の意義は大きい。

(『ドストエーフスキイ広場』第25号、2016年、108~112頁)。

映画《生きものの記録》――原水爆の脅威と知識人のタイプ

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(東宝製作・配給、1955年、「ウィキペディア」)。

映画《生きものの記録》では、都内で鋳物工場を経営して成功し、妻と三人の妾とのあいだに多くの子供をもうけているワンマンな経営者の中島喜一(三船敏郎)が、「核実験」や「核戦争」の被害から家族を守るために、海外に移住しようとするが、自分たちの財産が無くなってしまうことを恐れた長女や息子たちから裁判に訴えられた出来事を、裁判所の調停委員として関わることになった歯科医・原田の眼をとおして描いている。

すなわち、「(沈鬱に)死ぬのはやむを得ん……だが殺されるのはいやだ!!」と語った喜一は、受け身的な形で「核の不安」に対処しようとすることを拒否して移住計画を進めるが、そのことを知った息子たちの要請で予定より早く二回目の審判が開かれた。

興味深いのはどのような結論を出すべきかの調停員の会議で、移住という手段をとってでも愛する家族たちの生命を守ろうとする喜一の行動力に感心もしていた調停員の原田が、「原水爆に対する不安は我々だって持っている」、「日本人全部に、強弱の差こそあれ、必ず有る気持ちです」と弁護していることである。

審判室に呼び出された喜一も「儂(わし)は、原水爆だって避ければ避けられる……あんなものにムザムザ殺されてたまるか、と思うとるからこそ、この様に慌てとるのです」と語り、さらに「(昂然と)ところが、臆病者は、慄え上がって、ただただ眼をつぶっとる」と続けていた。

しかし、「準禁治産者」の判定を下された後で工場に放火した喜一は、ついには精神病院に収容されることになる。注目したいのは、自分が加わった調停で心ならずも喜一に厳しい判決を下した歯医者の原田が、放火事件の後で喜一が収監された精神病院を訪れる場面で、原田と長女よしの夫・山崎の反応をとおして二つのタイプの「知識人」が見事に描き出されていたことである。

すなわち、病院に見舞いに訪れていた中島家の家族が病室から出てきた場面で、「しかし、何だな……結局……お父さんにとってはあれが一番倖せなんじゃないかな」と語った長女よしの夫・山崎に、喜一の家族全員が「無言の反撥を示す」ことが描かれたあとで偶然に出会った原田も、「私……どうも……気がとがめまして……」と見舞いの理由を説明し、「……いやそもそもあの裁判が間違っていたんじゃないか……と……」と続ける。

すると山崎は、苛立ちながら「大体、父の事を裁判所へ持ち込んだのが間違いなんです……最初から、ここへ連れてくればよかったンですよ」と断言し、「国策」に従わずに移住しようとする反抗的な喜一を「法律の手」で束縛したほうがよいと説明していた裁判所の参与と同じ見解を語ったのである。

個人的な印象になるが、私には最初、妻の父親の裁判にも積極的に参加しようとしていた長女の夫・山崎という人物像がよくわからなかった。しかし、映画《生きものの記録》の公開後に文学者の武田泰淳や後に「四騎の会」を共に起ち上げることになる木下恵介監督との鼎談で、「あの作品のなかでね、武田さん、僕は山崎という男ですよ」と語った黒澤が、「フランス文学者の……?」と武田から質問されると「ウン、あのくらいですよ」と答えているのを読んだ時に少し理解できたかと感じた。

すなわち、このやり取りからは山崎が、「国策」として遂行された「戦争」には保身のために反対しなかった黒澤自身の戯画であるとともに、戦後も「原子力エネルギー」の危険性も認識しながらも、原発が「国策」となると沈黙してしまうようなタイプの「知識人」全体の戯画でもあると思えたのである、

そのような「国権」に従順なタイプの「知識人」への批判は、喜一の治療にあたっていた精神科の医師の次のような言葉をとおして強調されている。「この患者を診ていると……なんだか……その……正気でいるつもりの自分が妙に不安になるんです……狂っているのは、あの患者なのか……こんな時世に正気でいられる我々がおかしいのか」。

ここにはチェーホフの短編『六号室』を思い起こさせるような深い考察があるが、この精神科医の言葉の後に置かれている映画《生きものの記録》の最後のシーンでは、『罪と罰』の主人公がシベリアの流刑地で見る「世界滅亡の悪夢」のような圧巻とも呼べるような光景が描かれている、

澄み切った明るい顔で鉄格子の病室に座り、地球を脱出して安全な星に居ると思いこんでいた喜一は、窓の外の燃えるような落日を見て、「燃えとる!! 燃えとる!! とうとう地球が燃えてしまった!!」と叫ぶのである。

主役の老人の役を三船敏郎が見事に演じただけでなく、前作の映画《七人の侍》と同じように黒澤明、橋本忍、小國英雄の共同脚本による映画《生きものの記録》は話題作となりヒットすることは確実だとも思われた。

しかし、脚本の共同執筆者であった橋本忍が書いているように、「『七人の侍』では日本映画開闢以来の大当たり、それに続く黒澤作品であり、ポスターも黒澤さん自身が斬新でユニークな絵を描き、宣伝も行き届いていた」にもかかわらず、「頭から客の姿は劇場にはなく、まったくの閑古鳥なのだ、まるで底なし沼に滅入り込むような空恐ろしい不入り」だったのである。

その理由は黒澤明と小林秀雄との「対談記事」が消えたことにも深くかかわっていると思えるので、稿を改めて考察することにしたい。

『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、2014年より、第2章の当該箇所を再構成して引用)。

想像力の可能性――もう一つのドストエフスキー劇

「見ることと演じること(五)」には、エドワルド・ラジンスキーの《ドストエーフスキイの妻を演じる老女優》についての短い劇評も掲載されていました。

今、読み返すと記述には深みが欠けている一方で冗漫な箇所もありますが、一部を省略し文体的な改訂を行った上で1988年に観た当時の感想として掲載することにします。

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ドストエフスキーは文士劇で『検察官』の郵便局長の役を演じたばかりでなく、中年の絵かきに託してアーニャにプロポーズしたり、実生活でも『伯父様の夢』の主人公の老人の口調で妻アーニャに語りかけたりしていた。

私がこの劇に関心を持った理由の一つは、この長い題名にはドストエフスキーと「演じる」こととの間に深い結び付きを見ようとする作者の視点が現れているように思えたからだ。作者エドワルド・ラジンスキーの作品は世界中できそって上演され、モスクワ芸術座でも今この劇の稽古が行われていると言われる。

ほとんどすべての作品が劇化されているドストエフスキー劇にこの戯曲がどのような新しい地平を開くのかに強く好奇心をそそられた。

劇が始まると、一人の老女(北林谷栄)が現れ、興味深そうに四方を見まわしてから、疲れたように椅子に腰かけた。片方の靴を脱いで素足になり、ゆっくりと足首をもみ、それからもう片方の靴を脱いで足首をもんだ。この時の印象は鮮烈だった。この何気ない所作によって孤独な老女の疲労感が浮彫りにされ、陽気な笑い声と共に女主人公の形象が鮮やかに描き出された。

そこへ天才画家を名のり、ドストエフスキーを自称する男の謎めいた声がソファーの下から響き、哲学の思索を妨げるなと威嚇しながら毒舌をあびせて、休息室に迷いこんだ彼女を追い出しにかかった。ソファーの下の哲学者という想定は、どこか「地下室の逆説家」を連想させ興味深かったが、元女優と思われるこの老女は、「リーザ」とは異なって陽気な笑い声を響かせながら、時には手厳しく反撃したりもした。しかし、自分の孤独を指摘されると思わず我を忘れて、手に持っていた本を声に向かって投げつけた。すると、本の題名が『賭博師』であることに気付いた男は、二人でドストエフスキーと恋人の劇を演じようと申し出るのだった。

この間、男(米倉斉加年)はソファーの下で声だけで演じていたが、毒舌だけでなく皮肉、恫喝、驚愕、懇願といった様々の声の色彩を微妙に使い分けて声の演技だけで充分に観客を引き込み、さらに想像力の刺激という点では身体的な演技以上の効果を生みだしていた。

こうして物語は、老女にポリーナの役をやらせようとする男と妻アーニャの役を望む老女とのやりとりや彼女自身の回想をもはさみながらアーニャの「回想」等を基に構成された劇の稽古へと進んでいった。

ただ、男が姿を現わして以降は、「声」の神秘性が失われる一方、男の過去は相変わらず秘められたままなので男の存在は「神秘性」と「現実性」の両方を欠き中途半端なものとなったようにも思われた。

だが老女を引き立てる黒子と見れば男の存在は、それでも充分だったと言えるかも知れない。既にドストエフスキーを自称した彼には心理的な揺れはない。

一方、老女は演じることで次第にアーニャのリアリティを獲得していく。まず彼女には魅惑的なポリーナの存在に激しい嫉妬心を抱く若い乙女の気持を表現することが課されるが、彼女はそれを見事に演じてみせる。そして、ドストエフスキーとの出会い、彼のプロポーズの回想などの場面を演じていく中で、徐々に自分の中の貞淑で控え目なアーニャ像に近づき、ついにはアーニャになりきってドストエフスキーに対する熱烈な愛を語るのである。

劇の幕切れ近くで作者は、実は「いかさま師」だったと男にラスコーリニコフと同様の告白をさせ、さらに老女に対しても女優を装っているが実は女優の付け人ではないかと問い質させている。

この転換は幾分唐突で劇の効果を弱めているようにも見える。しかし「さあ、急いで仮面を一枚はがすんだ、べつの仮面が見えるようにな」と語り、「想像は――現実よりもはるかに現実的である」と述べる男の言葉を思い起こすなら、よどんだ現実から可能性への飛翔を目指していると思われる作者には、主人公たちを謎のままに止めておくことが必要だったのかも知れない。

〈ドストエーフスキイの会「会報」106号、および、『場 ドストエーフスキイの会の記録Ⅳ』、237頁に掲載。再掲に際しては、地の文のドストエーフスキイの表記をドストエフスキーに改めた〉。

井上ひさしのドストエフスキー観――『罪と罰』と『吉里吉里人』、『貧しき人々』と『頭痛肩こり樋口一葉』をめぐって

雑誌「チャイカ」(第三号)のインタビューで、井上氏は自分とロシア文学との関わりについて語りながら、「まあ、全部読んでいるわけじゃないんですけど、やっぱり私の基本となっているのは、ドストエーフスキイとチェーホフですね」と語っている。この雑誌については知らない方も多いと思われるし、また両者の係わりを知ることは劇作家井上ひさしを考える上でも重要だと思えるのでその内容を簡単に紹介し、あわせて筆者の考えも二・三記しておきたい。

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「井上  それから小説……『吉里吉里人』なんていうのは、もうあれです、『罪と罰』を側におきながらですね、

本誌 お書きになったんですか?

井上 ええ、まあ、ロシア語は全然わかりませんけど何となくこうアノ、文章の息の長さとかですね、まあ、日本の文章は非常に盆栽風になりまして、こう、短く、一つの意味を一つの文で、それを貨車みたいに繋いでという方法が一番正しいとされていますね。…中略…でもドストエーフスキイ読みますと、アノ、長いですよね。…中略…今連載中の『一分ノ一』というのは『白痴』を読みながら、別にそれを採るっていうんじゃなくて、ある、こう何ていうんですかね、心構えといいますか、いつもドストエーフスキイはあるんです」。

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インタビューなので語り手の舌足らずな面もあり、氏はここでドストエフスキーの文体と姿勢について語っているにすぎないが、二作品が『罪と罰』や『白痴』を「側におきながら」書かれたという証言は重く、そこからは多くの興味ある類似点が派生する筈だ。

たとえば氏は別の箇所で「ドストエーフスキイの場合は、国家の作った法律よりも、こう、フォークロアっていいますかね、民間伝承とか諺でやってますね」と述べている。こうした民衆からの視点こそは長編小説『吉里吉里人』を支えていたものでもあった。そしてドストエフスキーには現代文明に対する鋭い危機意識とともに天下国家をも論じようとする広い視野があるが、それはまた、それ程前面には出ないにせよ井上氏の作品を特徴付けるものでもある。

それとともに、井上氏は「ドストエーフスキイの魅力」は「『謎解き・罪と罰』に全部出ていると思います」と述べながら、ドストエフスキーの「メチャクチャな」「名前のつけ方」や彼の笑いについて触れ、『罪と罰』が「叙情的でもありますし、反面、すごい叙事詩でもあるんですけど、それから哲学小説としても読めますけど」「滑稽小説」でもあるのだと主張し、「世の中つらいことばっかりあるわけじゃなくて、つらいことが九つあれば一つくらいバカバカしいオカシイことありますよね。それがやっぱり小説にも反映しなきゃいけないと思うんです」と語っているが、それは井上氏の小説作法の根幹に係わるものでもあるだろう。

さらに、第一章「あんだ旅券は持って居たが」、第二章「俺達の国語は可愛がれ」といった『吉里吉里人』の章の命名方が『カラマーゾフの兄弟』の章の題名を思い起こさせることも付記しておきたい。

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この対談で私の最も印象深かったのは、氏が一番好きな作品として『貧しき人々』を挙げ「あれは最高ですね、何ともいえないですね、あれはもう僕にとってですけど、世界の文学のトップですね、あんないい小説ないですね」と語り、「いつ読まれたんですか」という問いに「あれは随分前です」と答えながら、「あれが僕の妙な部分を作っていると思いますね」とまで述べている箇所である。

初めは少し意外な感じもしたが、しかしユーモアとペーソスを持って中年の官吏とみなし子の乙女の心理を描きながら、同時に彼らの視線を通してペテルブルグやロシアの生活の全体像にまで肉迫しえている『貧しき人々』と井上文学は、確かに奥深いところで結び付いているようだ。

たとえば氏には『頭痛肩こり樋口一葉』という女性ばかり六人が登場する戯曲がある。同じインタビューで氏は「アノ、家庭といいますか、ある小さな共同体の移り変わりが、宇宙の移り変わりと、こう照合していて、何も大ゲサなことをやらなくても、深く五・六人のことを書けば、そのうしろに宇宙があるっていうのは、まあ、チェーホフから影響を受けていますね」と語っているので、この戯曲もチェーホフとの関連で論じるべきかもしれない。

だが『貧しき人々』について語った氏の言葉を読んで、私が真っ先に思い浮かべたのはこの作品だったのだ。むろん、直接的な影響を指摘することはできない。しかし『貧しき人々』がプーシキンやゴーゴリの作品をとりあげながら、その文学的業績を積極的に吸収しようとしていた作品であり、さらにその女主人公ワルワーラも一葉と同じように文学を愛した貧しく病弱な女性であったこと、そして何よりもそこではワルワーラの生きかたを通して「女性の不幸は、男性の不幸でもある」という思想が語られていたことを思い起こすなら、これら二つの作品の結び付きはかなり強いと言えるのではないだろうか。

*   *   *

最後に、ここに挙げられた作品以外で両者の関係を物語っていると思われる二編を紹介してこの小論の結びとしたい。

昭和四九年の井上氏の作品に『合牢者』という短編がある。この作品の主な登場人物の原田と矢飼は共に明治初期の貧乏巡査であるが、一方の原田は内田魯庵訳の『罪と罰』を読みラスコーリニコフの考えに共鳴して、悪辣な質屋の未亡人を殺す。もう一人の巡査矢飼は上司の命令で、罪を認めない原田のアリバイを崩すために同じ牢に入り事実を聞き出そうとする。

しかし、原田の不幸な境遇に同情を覚え、「真実などどうでもよくなった」時に彼は事実を語られ、しかも上司からはそのまま牢に留まっているか昇格を選ぶかと迫られて事実を告げてしまう。小説は「堂々と罪を犯し、くだる罰を発止と受けとめて」死刑になった原田を思いながら「小説が人間よりも小さいのか、あるいは大きいのか、おれにはいまだによくわからないが、あいつのことを考えるたびに、小説は人間より大である、というような気がしてならぬ」という原田の感慨で終わる。この短編では『罪と罰』は単に原田の犯行を動機付けしているばかりでなく、小説の主題とも重なり、また小説全体の筋にも関わっている。

『私家版 日本語文法』(昭和五三年から五五年)で井上氏は、雨乞唄を紹介しながらその「言葉の冗舌性と技巧」にふれて、先人たちには「必要があれば八百でもウソをついてひとつの願いを成就させようという意気込みが」あったと述べ、「筆者は不真面目だから、ひとつの誠を言うために八百のウソをつく方へ行くしかない」と述べている。

全体にドストエフスキーと同様井上氏にも言葉、殊に嘘に対する考察や言及が多いのだが、この箇所は「僕が人間なのは嘘をつくからなんだ」と述べさらに「嘘をついていれば――真理まで達せるのだ」と主張する『罪と罰』のラズミーヒンの言葉と殆ど重なっているように見える。ここにも井上ひさし氏の文学とドストエフスキーとの深いかかわりをみるのは、筆者の思い入れがすぎるだろうか。

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〈同人誌『人間の場から』(第13号、1988年)に掲載された初出時の題名は、「見ることと演じること(四)――記憶について」。後にその一部が「ドストエーフスキイと井上ひさし」という題で「ドストエーフスキイの会会報」(第107号、1989年)および、『場 ドストエーフスキイの会の記録Ⅳ』、244~245頁に転載される。本稿では地の文の表記をドストエフスキーで統一するとともに、誤記や文体レベルの簡単な改訂を行った〉。

 

樋口陽一氏の井上ひさし論と井上ひさし氏の『貧しき人々』論

現在、井上ひさし・樋口陽一著『日本国憲法を読み直す』(岩波現代文庫、2014年)についての小文を書いていますが、対談後の2000年に亡くなられた劇作家・井上氏への深い追悼の念と同じ年に生まれた友人への熱い思いが綴られた樋口氏の「ある劇作家・小説作家と共に“憲法”を考える―井上ひさし『吉里吉里人』から『ムサシ』まで」を読み直すなかで、かつて書いたいくつかの短い演劇評を掲載することにしました。

3部作全部について論じるつもりで書き始めたものの他の仕事に追われて途中で打ち切っていたのですが、井上作品の意義を少しでも多くの人に伝えるためには、未完成なものでも劇から受けた感銘などを記した小文をアップすることも必要だと思えたのです。

順不同になりますが、井上氏の『貧しき人々』観と劇『頭痛肩こり樋口一葉』について記した箇所を最初にアップします。

日本の近代文学者たちについての深い考察が「面白く」描かれた多くの井上劇から深い感銘を受けていた私が、後に『貧しき人々』や『分身』、『白夜』などドストエフスキーの初期作品を詳しく分析した『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、2007年)を書くきっかけとなったのがこのときの考察だったのです。

拙著では引用しませんでしたが、作家の北杜夫氏もドストエフスキーの作品についての感想を記した後で、『貧しき人々』から受けた感銘を次のように記していたのです。

「古い記憶の中で殊に印象に残っているのは『罪と罰』(私は後半はこれを探偵小説のように読んだ)、『死の家の記録』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』などであった。それらの体臭があまり強烈すぎたので、処女作『貧しき人々』はそれほどの作品とは思っていなかったが、十年ほど前、偶然のことからこれを読み返した。すると、もはや若からぬ私の目からひっきりなしに涙が流れ、かつとめどなく笑わざるを得なかった。これまた、しかも二十四歳の作品として驚くべき名品といえよう」。

井上氏の『貧しき人々』観などを掲載した後でソ連の演劇にも言及しながら、劇『きらめく星座』と『闇に咲く花』から受けた強い印象を記した2つの劇評などを順次掲載します。

安倍政権の政治手法と日露の「教育勅語」の類似性

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安倍政権の強引な政治手法からは、「憲法」のなかったニコライ1世治下の「暗黒の30年」との類似性を痛感します。

2007年に発行した『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』(成文社)では、ニコライ1世の時代に出されたロシア版「教育勅語」の問題と厳しい検閲下で『貧しき人々』などの小説をとおして言論の自由の必要性を主張した若きドストエフスキーの創作活動との関係を考察していました。

前著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)では、ロシア版「教育勅語」と日本の「教育勅語」の類似性についても詳しく考察しました。

ロシア思想史の研究者の高野雅之氏は、「正教・専制・国民性」の「三位一体」を強調した「ウヴァーロフの通達」を「ロシア版『教育勅語』」と呼んでいますが、注目したいのは一九三七年には文部省から発行された『國體の本義』の「解説叢書」の一冊として教学局から出版された『我が風土・國民性と文學』と題する小冊子では、「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっていることは」、「日本の国体の精華であって、万国に類例が無いのである」と強調されていたことです。

この「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっている」という文言は、「正教・専制・国民性」の「三位一体」による「愛国主義的な」教育を求めたウヴァーロフの通告を強く連想させます。「教育勅語」が渙発された後の日本は、教育システムの面ではロシア帝国の政策に近づいていたといえるでしょう。(註――「教育勅語」と帝政ロシアの「ウヴァーロフの通達」だけでなく、清国の「聖諭廣訓」との類似性については高橋『新聞への思い』人文書館、2015年、106~108頁参照)。

*   *   *

現在は新たな著書の執筆にかかっていますが、「憲法停止状態」とも言える状態から脱出するためにも、もう一度北村透谷や島崎藤村などの著作をとおして、「教育勅語」の影響を具体的に分析したいと考えています。

若きドストエフスキーを「憲法」のない帝政ロシアの自由民権論者として捉え直すとき、北村透谷や島崎藤村など明治の『文学界』同人たちによる『罪と罰』の深い受容の意味が明らかになると思えます。

「教育勅語」の問題を再考察する際にたいへん参考になったのが、リツイートで紹介した中島岳志氏と島薗進氏の『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』と樋口陽一氏と小林節氏の『「憲法改正」の真実』(ともに集英社新書)でした。

それらの著書を読む中で「教育勅語」の問題が「明治憲法」の変質や現在の「改憲」の問題とも深く絡んでいたことを改めて確認することができました。それらについてはいずれ参考になった箇所を中心に詳しく紹介することで、島崎藤村が『夜明け前』で描いた幕末から明治初期の時代についても考えてみたいと思います。

(2017年2月22日、図版と註を追加し、題名を改題)

小林秀雄の『カラマーゾフの兄弟』観――坂口安吾と寺田透をとおして

前回の記事で紹介したように、安吾は『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャを、「あそこで初めてドストエフスキイのそれまでの諸作が意味と位置を与えられた。そういうドストエフスキイのレーゾン・デートルに関する唯一の人間をはじめて書いたんですよ」と讃えていました。

それに対して小林秀雄は一応は同意しつつも、「我慢に我慢をした結果、ボッと現れた幻なんですよ」と語り、さらに「アリョーシャをフラ・アンジェリコのエンゼルの如きものである」と書いたウォリンスキイの記述を読んで「僕はハッと思った。あれはそういうものなんだ。彼の悪の観察の果てに現れた善の幻なんだ」と主張しているのです。

一方、「アリョーシャは人間の最高だよ。涙を流したよ。ほんとうの涙というものはあそこにしかないよ。しかしドストエフスキイという奴は、やっぱり裸の人だな。やっぱりアリョーシャを作った人だよ、あの人は……」と絶賛した安吾は、「裸だ。だが自然人ではないのだよ。キリスト信者だ」という小林の反論には、「そうでもないんじゃないかな」と答えていました。

ここにはドストエフスキーがバルザック的なリアリズムの手法で人間と社会を生身で考察し続けてアリョーシャという形象に至ったと考えていた安吾と、イデオロギー的な視点からドストエフスキーを「キリスト信者」と見なしていた小林秀雄との大きな落差があるように感じられるのです。

*  *   *

小林秀雄のアリョーシャ観と『カラマーゾフの兄弟』観の変貌が明らかになるのは、「ドストエフスキーの特徴が『白痴』に一番よくでているのではないかと思います」との感想を直感で語っていた数学者の岡潔氏と1965年に行われた対談です(『人間の建設』新潮文庫)。

これに対して小林秀雄氏はなぜそう思ったかを尋ねることをせずに、「ドストエフスキーという人には、これも飛び切りの意味で、狡猾なところがあるのです」と決めつけ、「それにしてもドストエフスキーが悪漢だったとはしらなかった」との返事に対しては、「悪人でないとああいうものは書けないですよ」と言葉を連ねて説明していました。

注目したいのは、その後で『白痴』論から話題を転じた小林がドストエフスキーは「もっと積極的な善人をと考えて、最後にアリョーシャというイメージを創(つく)るのですが、あれは未完なのです。あのあとどうなるかわからない。また堕落させるつもりだったらしい」と続けていたことです。

なぜならば、太平洋戦争直前の1941年10月から書き始めた「カラマアゾフの兄弟」(~42年9月、未完)では、「今日、僕等が読む事が出来る『カラマアゾフの兄弟』が、凡そ続編といふ様なものが全く考へられぬ程完璧な作と見えるのは確かと思はれる」と断言していたからです。

リンク→「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観

この意味で興味深いのは、フランス文学者の寺田透が1978年に刊行した『ドストエフスキーを讀む』(筑摩書房)の「結び兼補足」で、『カラマーゾフの兄弟』の結末についてこう書いていることです。少し長くなりますが、バルザックの専門家でもあった寺田透が若い頃に小林秀雄から受容したことの大きさをも物語っていると思えるので、全体を引用しておきます。

「『カラマーゾフの兄弟』の巻末で、少年たちに向つてアリョーシャが小演説をする場面、それに答へる少年たちの「ウラー」と、一生手をとりあつて行かうと叫ぶかれらの言交しを書いたとき、少くともそのとき(といふのは次作があるといふ予告を、それ自体、現『カラマーゾフ』の趣向の一つにすぎないと見る見方も許されるからだが)、これらの少年たちの活躍と、アリョーシャとかれらの再会が描かれる筈の次作の企画は、もう抛棄されてゐたと見るべきではなからうか」。

このように記した寺田は誤解を怖れるかのように、さらに次のように補っているのです。

「それはシェストフが嘲つてゐるやうに書けなかつたから今日存在しないのではない。また今の第一部が完璧だから書く必要がないので存在しないのでもない。

ドストエフスキーは自分で判断して、それを書くことを断念したのだと思ふ。(あるいはもともと書くつもりはなしに、あの次作がありげな序文を書いたのである。)」。

このように記したとき、バルザック研究者の寺田透は時勢を先取りするような形で、「キリスト」や「マルクス」という単語をちりばめて読者受けのする発言を行いながら、時流が変わると自説をも変えた小林秀雄に対する激しい怒りを覚えていたのではないでしょうか。

『文学界』に寄稿した「小林秀雄氏の死去の折に」という記事で寺田透は、「男らしい、言訳けをしないひととする世評とは大分食ひちがふ観察だと自分でも承知してゐるが」と断った上で、次のように記していたのです。

「戦後一つ二つと全集が出、その中に昔読んで震撼を受けた文章が一部削除されて入つてゐるのを見たり、たしかに読んだ筈の警句がどこからも見出されない経験をしたりしてゐるうち、僕はかれを、後世のために自分の姿を作つて行くひとと思ふやうになつた。/作られた自分の姿のうしろから自分は消える、さうしなければならない。自分を抜け殻――かつてはさう呼んだもの――のかげに消してしまふこと」。

坂口安吾の小林秀雄観(3)――『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャをめぐって

少し寄り道をしましたが、いよいよ1948年に行われた『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャをめぐる小林秀雄と坂口安吾の議論を考察することにしますが、この対話を読んで驚いたのは、そこでは安吾が戦前からドストエフスキー論の権威とみられていた小林に対して押し気味に議論を進めているように見えたことです。

ただ、小林秀雄は未完に終わった全八章からなる『カラマアゾフの兄弟』論を、太平洋戦争が始まることになる一九四一年の一〇月号から翌年の九月号にかけて発表していました。対談はこの論稿を踏まえて行われていると思われますので、アリョーシャについての記述を中心にこの『カラマアゾフの兄弟』論をごく簡単に見、その後で戦後の「モーツァルト」から「ゴッホの手紙」を経て「『白痴』についてⅡ」までの流れを時系列的に整理しておくことにします。

*   *   *

『カラマアゾフの兄弟』論の冒頭で「バルザックもゾラも、フョオドルの様な堕落の堂々たるタイプを描き得なかつた」と指摘した小林は、ゾシマの僧院に集まった家族たちについて紹介しながら、「カラマアゾフ一家は、ロシヤの大地に深く根を下してゐる。その確乎たる感じは、ロシヤを知らぬ僕等の心にも自から伝はる。大芸術の持つ不思議である」と高く評価しています。

そして「長男のドミトリイは、田舎の兵営からやつて来る。次男のイヴァンはモスクヴァの大学から、三男のアリョオシャは僧院から。彼等は長い間父親から離れて成人したのだし、お互に知る処も殆どない」と家族関係を簡明に紹介し、「道具立てはもうすつかり出来上がつてはゐるのだが、何も知らぬ読者は謎めいた雰囲気の中に置かれてゐる。その中で、フョオドルの顔だけが、先ず明らかな照明をうける」とし、「コニャクを傾け、馬鹿気た事を喋り散らすだけで、フョオドルはもうそれだけの事をしてしまふ。ともあれ、其処には、作者の疑ふべくもない技巧の円熟が見られる」と記していました。

本稿の視点から興味深いのは、「この円熟は、『カラマアゾフの兄弟』の他の諸人物の描き方や、物語の構成に広く及んでゐる」と続けた小林が、『白痴』のムィシキンとの類似点にも注意を促しながらアリョーシャについてこう書いていることです。

「『白痴』のなかでは、ムイシュキンといふ、誰とでも胸襟を開いて対する一人物を通じ、謎めいた周囲の諸人物が、次第に己れの姿を現して行くといふ手法が採られてゐたが、この作でもアリョオシャが同じような役目を勤める」が、アリョーシャは世俗の世界と「静まり返つたゾシマの僧院」の「二つの世界に出入して渋滞する処がない」。

さらに、「言ふ迄もなく、イヴァンは、『地下室の手記』が現れて以来、十数年の間、作者に親しい気味の悪い道連れの一人である」とした小林は、「確かに作者は、これらの否定と懐疑との怪物どもを、自分の精神の一番暗い部分から創つた」として、イワンがアリョーシャに語る子供の苦悩についての話や「大審問官」についても、忠実に紹介しています。

こうして『カラマーゾフの兄弟』の構成と登場人物との関わりを詳しく分析した小林は、この評論の第六章ではドミートリーについて、「恐らく彼ほど生き生きと真実な人間の姿は、ドストエフスキイの作品にはこれまで現れた事はなかつたと言つてもいゝだらう。読者は彼の言行を読むといふより、彼と付合い、彼を信ずる。彼の犯行は疑ひなささうだが、やはり彼の無罪が何となく信じられる、読者はさういふ気持にさせられる」と見事な指摘をしていました。

残念ながら、この『カラマーゾフの兄弟』論も未完で終わっているのですが、注目したいのは、小説の全体的な構造や結末での少年たちとアリョーシャとの会話も踏まえて小林秀雄が次のように記していたことです。

「今日、僕等が読む事が出来る『カラマアゾフの兄弟』が、凡そ続編といふ様なものが全く考へられぬ程完璧な作と見えるのは確かと思はれる。彼が嘗て書いたあらゆる大小説と同様、この最後の作も、まさしく行くところまで行つてゐる。完全な形式が、続編を拒絶してゐる」。

この適確な指摘は、現在の通俗的な『カラマーゾフの兄弟』の理解をも凌駕していたように見えます。

*   *   *

こうして、太平洋戦争が始まる1941年の10月から翌年の9月まで「『カラマアゾフの兄弟』」を『文藝』に8回数連載して中断した小林秀雄は、戦況が厳しくなり始めた同年の12月頃から「モーツァルト」の構想を練り始め、敗戦をむかえる頃から執筆を開始して、1947年の7月に『モオツアルト』を創元社から刊行していました。

同じ1947年に「通俗と変貌と」を『書評』1月号に発表した坂口安吾は、『新潮』6月号に発表した「教祖の文学」で、研究者の相馬正一が書いたように、「面と向かって評論界のボス・小林秀雄」を初めて「槍玉に挙げた」のです。

一方、翌年の1948年8月に湯川秀樹との対談「人間の進歩について」(『新潮』)で原子力エネルギーを批判した小林秀雄は、その11月に「『罪と罰』についてⅡ」(『創元』)を、12月に「ゴッホの手紙」(『文體』)発表しています。

そして、1951年1月から発表の場を『藝術新潮』に移して「ゴッホの手紙」を翌年の2月まで連載した小林秀雄は、その年の5月からは「白痴」についてII」を『中央公論』に連載を始めます。このことを考えれば、「作品の解釈と「積極的な誤訳」――寺田透の小林秀雄観」で記したように、「ゴッホの手紙」は「白痴」についてII」の構想とも結びついていたといえるでしょう。

「伝統と反逆」と題された対談で、「僕が小林さんの骨董趣味に対して怒ったのは、それなんだ」といい、さらに「小林さんはモーツァルトは書いただろうけど音楽を知らんよ」と批判した安吾は、ゴッホをやると語ったことについても「しかし小林さんは文学者だからね、文学でやってくれなくちゃ。文学者がゴッホを料理するように、絵に近づこうとせずに」と批判していました。

小林の伝記的研究の問題点を指摘していた寺田透も、「それはそうとゴッホに対してこの小林のやり方はうまく行っただろうか。/世評にそむいて僕は不成功だったと思っている」と書き、「小林流にやったのでは」、「絵をかくものにとって大切な、画家ゴッホを理解する上にも大切な考えは、黙過されざるをえない」と批判するようになるのです。

一方、安吾の批判に対して小林はメソッドを強調しながら次のように反論したのです。

「例えば君が信長が書きたいとか、家康が書きたいとか、そういうのと同じように俺はドストエフスキイが書きたいとか、ゴッホが書きたいとかいうんだよ。だけど、メソッドというものがある。手法は批評的になるが、結局達したい目的は、そこに俺流の肖像画が描ければいい。これが最高の批評だ。作る素材なんか何だってかまわぬ」。

しかし、安吾は追求の手を緩めずに、「小林さんは、弱くなってるんじゃないかな。つくるか、信仰するか、どっちかですよ。小林さんは、中間だ。だから鑑賞だと思うんです。僕は芸術すべてがクリティックだという気魄が、小林さんにはなくなったんじゃないか、という気がするんだよ」と厳しく迫ります。この発言から対談は一気に『カラマーゾフの兄弟』論へと入っていきます。

「まあ、どっちでもよい。それより、信仰するか、創るか、どちらかだ……それが大問題だ。観念論者の問題でも唯物論者の問題でもない。大思想家の大思想問題だ。僕は久しい前からそれを予感しているんだよ、だけどまだ俺の手には合わん。ドストエフスキイの事を考えると、その問題が化け物のように現われる。するとこちらの非力を悟って引きあがる。又出直す。又引きさがる、そんな事をやっている。駄目かも知れん。だがそういう事にかけては、俺は忍耐強い男なんだよ。癇癪を起すのは実生活に於てだけだ」。

この発言からは山城むつみ氏が『小林秀雄とその戦争の時――「ドストエフスキイの文学」の空白』(新潮社、2014年)で言及していた戦時中から敗戦直後までの、ドストエフスキー作品に対する小林の真摯な取り組みが感じられます。

それに対して安吾も「僕がドストエフスキイに一番感心したのは『カラマアゾフの兄弟』だね、最高のものだと思った。アリョーシャなんていう人間を創作するところ……」と応じ、「アリョーシャっている人はね……」と言いかけた小林も、安吾に「素晴らしい」とたたみかけられると、「あれを空想的だとか何とかいうような奴は、作者を知らないのです」と答えていたのです。

ただ、その後の安吾とのやりとりからは、小林秀雄が『カラマーゾフの兄弟』に対する見方を少しずつ変えていくことになる予兆さえも感じられるので、稿を改めて考察することにします。

坂口安吾の小林秀雄観(2)――バルザック(1799~1850)の評価をめぐって

FRANCE - HONORE DE BALZAC

(Honoré de Balzac ,Louis-Auguste Bisson – Paris Musées. 図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

1932(昭和6)年10月に創刊された同人誌『文科』(~昭和7年3月)で小林秀雄や河上徹太郎とともに同人だった作家の坂口安吾が、戦後間もない1947年に著した「教祖の文学 ――小林秀雄論」で、「思うに、小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ」と書き、小林秀雄が「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったと厳しく批判したのはよく知られています。

しかし安吾は、その少し前に「日本は小林の方法を学んで小林と一緒に育つて、近頃ではあべこべに先生の欠点が鼻につくやうになつたけれども、実は小林の欠点が分るやうになつたのも小林の方法を学んだせゐだといふことを、彼の果した文学上の偉大な役割を忘れてはならない」とも断っていたのです。

実際、その翌年の1933年12月に発表した「『未成年』の独創性について」と題された論考で、「たうとう我慢がし切れないのでわたしは自分の実生活に於ける第一歩の記録を綴る事に決心した」という冒頭の言葉を引用した小林は、「『未成年』は全篇ドルゴルウキイといふ廿一歳の青年の手記である。彼の作品中で最も個性的な書出しで、この青年の手記は始る」ことに注意を促していました。

「告白」という文体の重要性を指摘した小林は、次のように記してドストエフスキー作品の特徴にも鋭く迫っていました〔一五〕。

「私は以前ドストエフスキイの作品の奇怪さは現実そのものの奇怪さだと書いた事があるが、彼の作品の所謂不自然さは、彼の徹底したリアリズムの結果である、この作家が傍若無人なリアリストであつたによる。外に秘密はない。さういふ信念から私は彼の作品を理解しようと努めてゐる」〔二〇〕。

相馬正一氏の『坂口安吾――戦後を駆け抜けた男』の巻末に付けられた略年譜によれば、安吾もこの年の9月に「文学仲間を誘ってドストエフスキー研究会を立ち上げ」ていました。同じ年に書いた「ドストエフスキーとバルザック」で、「小説は深い洞察によって初まり、大いなる感動によって終るべきものだと考えている」と書いた安吾は、「近頃は、主として、ドストエフスキーとバルザックを読んでいる」と記し、こう続けていたのです。

「バルザックやドストエフスキーの小説を読むと、人物人物が実に的確に、而して真実よりも遙かに真実ではないかと思われる深い根強さの底から行動を起しているのに驚嘆させられる」と記した安吾は、「ところが日本の文学ではレアリズムを甚だ狭義に解釈しているせいか、『小説の真実』がひどくしみったれている」。

このような安吾のバルザック観やドストエフスキー観は、この時期の小林秀雄のドストエフスキー観とも深く共鳴しているように見えます。しかし、小林秀雄は戦後の1948年11月に『創元』に掲載した「『罪と罰』についてⅡ」では、「ドストエフスキイは、バルザックを尊敬し、愛読したらしいが、仕事は、バルザックの終つたところから、全く新に始めたのである」と書き、「社会的存在としての人間といふ明瞭な徹底した考へは、バルザックによつてはじめて小説の世界に導入されたのである」が、「ドストエフスキイは、この社会環境の網の目のうちに隈なく織り込まれた人間の諸性格の絨毯を、惜し気もなく破り捨てた」と続けていました。

拙著『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』では、バルザックの『ゴリオ爺さん』(一八三四)におけるヴォートランと若き主人公のラスティニャックとの関係とスヴィドリガイロフとラスコーリニコフとの関係を比較しました。ここでは詳しく検証する余裕はありませんが、知識人の自意識と「孤独」の問題を極限まで掘り下げたドストエフスキーは、むしろ、バルザックの「社会的存在としての人間」という考えも受け継ぎ深めることで、「非凡人の理論」の危険性などを示唆し得ていたと思われます。

この点で参考になるのが、1953年に『バルザック 人間喜劇の研究』(筑摩書房)を刊行していたフランス文学者・寺田透の考察です。寺田は1978年に刊行した『ドストエフスキーを讀む』(筑摩書房)の冒頭に置いた『未成年』論をこう始めていました。

「しばらく外国の文学者について長い文章を書かずにゐた。中でもドストエフスキーについては、それを正面からとりあげて論文めいたものを書いたたことがない。バルザックとの関係で、あるいはリアリズムの問題を論ずるついでにとりあげたことはあつても」。

そして、「ドストエフスキーほどにはバルザックを読まない日本の読者たちのために」、『村の司祭』などの筋を紹介しながら、ことに『浮かれ女盛衰記』のリュシアンの「操り手だった」ジャク・コランの思想と『罪と罰』のラスコーリニコフの主張との共通性を指摘した寺田は、作者の手法の違いについてこう記しているのです。

「バルザックが政治的妥協によつて解決したかに見せたところを。ドストエフスキーは、罪を犯したひとりの人間にはどう手の施しやうもない情況を作ることによつて、かれを社会と対決させ、その向うでのかれの甦生をはかつたのである」。

寺田が1978年に刊行した『ドストエフスキーを讀む』(筑摩書房)の冒頭に『未成年』論を置いたのは、本格的なドストエフスキー論を1933年の『未成年』論で始めながら、その後バルザックの評価を大きく変えた小林秀雄への強い批判があったからではないかと私は考えています。

実は、「教祖の文学」の直前に『書評』に掲載した「通俗と変貌と」で坂口安吾はすでにこう記していたのです。少し長くなりますが、寺田透の小林観にもつながる観察ですので引用しておきます。

「いったいこの戦争で、真実、内部からの変貌をとげた作家があったであろうか。私の知る限りでは、ただ一人、小林秀雄があるだけだ。(中略)彼はイコジで、常に傲然肩を怒らして、他に対して屈することがないように見えるけれども、実際は風にもそよぐような素直な魂の人で、実は非常に鋭敏に外部からの影響を受けて、内部から変貌しつづけた人であり、この戦争の影響で反抗や或いは逆に積極的な力の論者となり得ずに諦観へ沈みこんで行った」。

このように小林秀雄を分析した安吾は、それは「勝利の変貌であるよりも、敗北の変貌であったようだ」と結んでいました。

少し寄り道をしましたが、次回は再び1948年に行われた小林秀雄と坂口安吾との対談に戻って、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャをめぐる議論を分析することにします。