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ドストエフスキー

書評 『「罪と罰」をどう読むか〈ドストエフスキー読書会〉』(川崎浹・小野民樹・中村邦生著 水声社 二〇一六年)

『罪と罰』をどう読むか(書影は紀伊國屋書店より)

『「罪と罰」をどう読むか〈ドストエフスキー読書会〉』(川崎浹・小野民樹・中村邦生著 水声社 二〇一六年)

本書はウォルィンスキイの『ドストエフスキイ』やレイゾフ編『ドストエフスキイと西欧文学』など多くの訳書があるロシア文学者の川崎浹氏と、『新藤兼人伝──未完の日本映画史』などの著作がある研究者の小野民樹氏と、ドストエフスキーの作中人物をも取り込んだ小説『転落譚』がある中村邦生氏の鼎談を纏めたものである。

『罪と罰』の発表から一五〇年にあたる二〇一六年には、それを記念した国際ドストエフスキー学会が六月にスペインのグラナダで開かれたが、冒頭で『罪と罰』を翻訳し「恰も広野に落雷に会って目眩き耳聾ひたるがごとき、今までに会って覚えない甚深な感動を与えられた」という内田魯庵の言葉が紹介されている本書もそのことを反映しているだろう。

さらに本書の「あとがき」では学術書ではないので、「お世話になった方々の氏名をあげるにとどめる」として本会の木下豊房代表をはじめ、芦川氏や井桁氏など主なドストエフスキー研究者の名前が挙げられており、それらの研究書や最新の研究動向も踏まえた上で議論が進められていることが感じられる。

以下、本稿では『罪と罰』という長編小説を解釈する上できわめて重要だと思われる「エピローグ」の問題を中心に六つの章からなる本書の特徴に迫りたい。

「『罪と罰』への道」と題された第一章では、若きドストエフスキーが巻き込まれたペトラシェフスキー事件など四〇年代末期の思想動向やシベリアへの流刑の後で書かれた『死の家の記録』などの流れが簡潔に紹介されている。

ことに、農奴解放などの「大改革」が中途半端に終わったことで、過激化していく学生運動などロシアの時代風潮がチェルヌイシェフスキーとの相克や『何をなすべきか』との関わりだけでなく、一八六五年には「モスクワでグルジア人の青年が高利貸しの老婆二人を殺害、裁判が八月に行われ、その速記録が九月上旬の『声』紙に連載」されていたことや、「大学紛争で除籍されたモスクワ大学の学生が郵便局を襲って局員を殺そうとした話」など当時の社会状況が具体的に記されており、そのことは主人公・ラスコーリニコフの心理を理解する上で大いに役立っていると思われる。

当初は一人称で書かれていたこの小説が三人称で書かれることによって、長編小説へと発展したことなど小説の形式についても丁寧に説明されている。

本書の特徴の一つには重要な箇所のテキストの引用が適切になされていることが挙げられると思うが、第二章「老婆殺害」でも『罪と罰』の冒頭の文章が長めに引用され、この文章について小野氏が「なんだか映画のはじまりみたいですね。ドストエフスキーの描写はひじょうに映像的で、描写どおりにイメージしていくと、理想的な舞台装置ができあがる」と語っている。

この言葉にも表れているように、三人の異なった個性と関心がちょうどよいバランスをなしており、モノローグ的にならない<読書会>の雰囲気が醸し出されている。

また、『罪と罰』を内田魯庵の訳で読んだ北村透谷が、お手伝いのナスターシャから「あんた何をしているの?」と尋ねられて、「考えることをしている」と主人公が答える場面に注目していることに注意を促して、「北村透谷のラスコーリニコフ解釈は、あの早い時期としては格段のもの」であり、この頃に「日本で透谷がドストエフスキーをすでに理解していたというのは誇らしい」とも評価されている。

さらに、「ドストエフスキーの小説はたいてい演劇的な構成だと思います。舞台に入ってくる人間というのは問題をかかえてくる」など、「ドストエフスキーの小説は、ほとんどが何幕何場という構成に近い」ことが指摘されているばかりでなく、具体的に「ラスコーリニコフとマルメラードフの酒場での運命的な出遭いというのは、この小説のなかでも心に残る場面ですね」とも語られている。

たしかに、明治の『文学界』の精神的なリーダーであった北村透谷から強い影響を受けた島崎藤村の長編小説『破戒』でも、主人公と酔っ払いとの出遭いが重要な働きをなしており、ここからも近代日本文学に対する『罪と罰』の影響力の強さが感じられる。

また、『罪と罰』とヨーロッパ文学との関連にも多く言及されている本書では、ナポレオン軍の騎兵将校として勤務していた『赤と黒』の作家スタンダールが、「モスクワで零下三〇度の冬将軍」に襲われていたことなど興味深いエピソードが紹介されており、若い読者の関心もそそるだろう。

テキストの解釈の面では、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』など書簡体小説の影響を受けていると思われる母親からの長い手紙の意味がさまざまな視点から詳しく考察されているところや、なぜ高利貸しの義理の妹リザベータをも殺すことになったかをめぐって交わされる「六時過ぎか七時か」の議論、さらに「ふいに」という副詞の使用法についての会話もロシア語を知らない読者にとっては興味深いだろう。

犯罪の核心に迫る第三章「殺人の思想」では、「先ほどネヴァ川の光景が出てきましたけど、夕陽のシーンが小説全体のように現れることが、実に面白いですね」、「重要な場面で必ず夕陽が出てくるし、『夕焼け小説』とでもいいたいほどです」と語られているが、映画や演劇の知識の豊富さに支えられたこの鼎談をとおして、視覚的な映像が浮かんでくるのも本書の魅力だろう。

さらに、井桁貞義氏はドストエフスキーにおける「ナポレオンのイデア」の重要性を指摘していたが、本書でも「ナポレオンとニーチェ」のテーマも視野に入れた形で「良心の問題」がこの小説の中心的なテーマとして、「非凡人の理論」や「新しいエルサレム」にも言及しながらきちんと議論されている。

本書の冒頭では『罪と罰』から強い感動を与えられたと記した内田魯庵の言葉をひいて、「読んだ人には皆覚えがある筈だ」と指摘し、「残念な事には誰も真面目に読み返そうとしないのである」と続けていた文芸評論家の小林秀雄の文章も引用されていた。本章における「良心の問題」の分析は、一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、ラスコーリニコフには「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と解釈していた小林秀雄の良心観を再考察する機会にもなると思える。

第四章「スヴィドリガイロフ、ソーニャ、ドゥーニャ」や、「センナヤ広場へ」と題された第五章でも多くの研究書や研究動向も踏まえた上で、主な登場人物とその人間関係が考察されており興味深い。

ことに私がつよい関心を持ったのは、ソーニャが「ラザロの復活」を読むシーンに関連して一八七三年の『作家の日記』(昔の人々)でも、ドストエフスキーがルナンの『イエスの生涯』について、「この本はなんといってもキリストが人間的な美しさの理想であって、未来においてすらくり返されることのない、到達しがたい一つの典型であるとルナンは宣言していた」ことに注意が促されていたことである。

そして、このようなドストエフスキーのキリスト理解をも踏まえて第六章「『エピローグ』」の問題」では、『死の家の記録』に記されていたドストエフスキー自身がシベリアのイルティシ川から受けた深い感銘もきちんと引用されており、そのことが『罪と罰』の読みに深みを与えている。

たとえば、ドストエフスキーは「首都から千キロも離れたオムスクの監獄と流刑地のセミパラチンスクで過ごしたことにより、ロシアの懐の深さを知って帰ってきた」と語った川崎氏は、「その背景があって作家は『エピローグ』を書いた」と説明している。

そして、「『ラズミーヒンはシベリア移住を固く決意した』と『エピローグ』に書かれていますが、彼のシベリア行きはちょっと不自然に思いました」との感想に対しては、「ラズミーヒンがドゥーニャといっしょにシベリアに行って根付こうというときに、あそこは『土壌が豊かだから』と彼自身はっきりと言って」いると語っているのである。

さらに私は囚人たちが大切に思っている「ただ一条の太陽の光、鬱蒼(うっそう)たる森、どこともしれぬ奥まった場所に、湧きでる冷たい泉」が、ラスコーリニコフが病院で見た「人類滅亡の悪夢」に深く関わっていると考えてきたが、この鼎談でもこの文章に言及した後で悪夢が詳しく分析されている。

すなわち、この悪夢には「ヨハネの黙示録」が下敷きになっていることを確認するとともに、ドストエフスキーがすでに一八四七年に書いた『ペテルブルグ年代記』で「インフルエンザと熱病はペテルブルグの焦点である」と書いていることや、その頃に熱中したマクス・シュティルネルの『唯一者とその所有』では、個人主義の行き過ぎが指摘されていることも確認されている。

そして、「この熱に浮かされた悪夢の印象がながい間消え去らないのに悩まされた」とドストエフスキーが書いていることにふれて、それは「悪夢の役割の大きさを作家が強調したかったのでしょう」と記されている。

ただ、『罪と罰』が連載中の一八六六年五月に起こった普墺戦争では、先のデンマークとの戦争では連合して戦ったプロイセン王国とオーストリア帝国とが戦ってプロイセンが圧勝したことで、今度はフランス帝国との戦争が懸念されるようになっていた。そのことをも留意するならば、この悪夢は将来の世界大戦ばかりでなく、最新兵器を擁する大国に対するテロリズムが広がる現代へのドストエフスキーの洞察力をも物語っているように思える。

鼎談では「ドストエフスキーの文学」と現代との関わりも強く意識されていたが、川崎氏にはシクロフスキイの『トルストイ伝』やロープシンの『蒼ざめた馬』などの翻訳があるので、そこまで踏み込んで解釈してもよかったのではないかと私には思われた。

なぜならば、『地下室の手記』でドストエフスキーは、バックルによれば人間は「文明によって穏和になり、したがって残虐さを減じて戦争もしなくなる」などと説かれているが、実際にはナポレオン(一世、および三世)たちの戦争や南北戦争では「血は川をなして流れている」ではないかと主人公に鋭く問い質させていたからである。

『罪と罰』の最後をドストエフスキーが、「『これまで知ることのなかった新しい現実を知る人間の物語』が新しい作品の主題になると予告している」と書いていることに注意を促して、「そこにはどうしても『白痴』という実験小説が結びつかざるを得ません」と続けた川崎氏の言葉を受けて、「そこに私たちの新たな関心の方位があるということですね」と語った中村氏の言葉で本書は締めくくられている。

冒頭に掲げられている一八六五年の「ペテルブルグ市 街図」や、ロシア人独特の正式名称や愛称を併記した「登場人物一覧」、さらに「邦訳一覧」が収録されており、この著書は格好の『罪と罰』入門書となっているだろう。

川崎氏は「あとがき」で〈ドストエフスキー読書会〉という副題のある本書が、一三年間かけてドストエフスキーの全作品を二度にわたって読み込んだ上で、『罪と罰』についての鼎談を纏めたと発行に至る経緯を記している。

本書でもふれられていたルナンの『イエスの生涯』についてのドストエフスキーの関心は長編小説『白痴』とも深く関わっているので、次作『白痴』論の発行も待たれる。

(『ドストエーフスキイ広場』第26号、2017年、132~136頁より転載)

 

 

書評 『十八世紀ロシア文学の諸相―ロシアと西欧 伝統と革新』(金沢美知子編 水声社 二〇一六年)

18世紀ロシア文学、紀伊國屋(書影は紀伊國屋書店より)

 

十八世紀ロシア文学の諸相―ロシアと西欧 伝統と革新』金沢美知子編 水声社 二〇一六年)

編者の序文によれば本書は、「ここ十数年の十八世紀ロシア文学をめぐる仕事に現れた新たな動向を日本のロシア研究の中に位置づけることを目的とし,さらにその先へと研究が発展することを願って」出版された。

第一部「近代ロシア文学の形成過程」、第二部「文学をとりまく環境」、第三部「十八世紀ロシアへの視点」から成る本書には、文学だけでなく歴史や文化にかかわる多くの論文が収められている。ただ、『ドストエーフスキイ広場』に掲載する書評という性格上、ここでは作家との関連の深い論文に絞って論じることにしたい。そのことによってドストエフスキー作品の理解も深まると思えるからである(本稿では敬称は略し、名前の表記は統一した)。

たとえば、ロモノーソフという名前は、日本の一般的な読者にはあまりなじみがないと思われるが、ドストエフスキーはペトラシェフスキー事件の裁判で「ピョートル大帝時代のロシア語はどんなものだったでしょうか? ロシア語半分にドイツ語半分だったのです。…中略…だから、ピョートル大帝の直後、ロモノーソフの出現したことは、偶然ではないのです」と語っていた。

鳥山裕介は「ロモノーソフと修辞学的崇高――十八世紀ロシアにおける『精神の高揚』の様式化」で、「十七世紀フランスの崇高論」と比較しながら、ロモノーソフにおける「崇高な文体」の創出の試みをその詩も引用しながら描き出している。ここでは聖書の記されていた文字であるギリシャ語と古代スラブ語とのかかわりや、ピョートル大帝による文字の改革の試みなどにも言及してロシア語の特徴をも浮かび上がらせており、ドストエフスキーがロモノーソフの意義を高く評価した理由を明らかにしている。

三浦清美「ロモノーソフの神、デルジャーヴィンの神」と三好俊介「ヴラジスラフ・ホダセヴィチと十八世紀ロシア─評伝『デルジャーヴィン』をめぐって」は、彼らの生きた時代と詩作品との関わりをとおして、彼らの雄大な自然観や「神」の観念などを詳しく伝えているだけでなく、詩人たちの力強い生き方をも示している。このことはなぜドストエフスキーが、シベリア流刑後に書いた長編小説『虐げられた人々』においても、ロモノーソフのもとにエカチェリーナ二世自らが訪問したことなどを主人公に語らせることで文学の意義を説明していたかをも示唆しているだろう。

「ロシア感傷小説の最初の種まき」を行ったフョードル・エミンの活動に焦点を絞った金沢美知子の二本の論文「フョードル・エミンとロシア最初の書簡体小説── 現実の様式化へ向けて」、「フョードル・エミンと十八世紀ロシア」では、職を求めてロシアを訪れ、最初は翻訳局で働いた外国人のエミンの活動を紹介しながら、「東方を舞台とした愛と冒険の物語を書いていた」エミンが、手紙を「人間の内面吐露の手段として大いに利用して」いたことを指摘するとともに、女帝エリザヴェータやエカチェリーナ二世の時代の外国との積極的な交流が十九世紀ロシア文学の豊かな土壌を形成したことを説得的に描きだしている。

安達大輔は「カラムジンの初期評論における翻訳とその外部」で、「感受性」という語には「一、外部の刺激に対する身体的な反応・感応という物質面と、二、共感・同情・哀れな者への共苦という精神面との区別」があるが、「『倫理的』転回が起きるのはセンチメンタリズムにおいてである」と本書の寄稿者でもあるコチェトコーヴァが『ロシア・センチメンタリズム文学』において記していることに注意を促している。このことはドストエフスキーの初期の作品を理解する上でも重要だろう。シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』の翻訳の序文で、「わが作者の考えを私が変えたところはない、と言うのもそのようなことは翻訳者には許されないと考えたからだ」と記したカラムジンの言葉からは、ドストエフスキーの作品の邦訳の問題についても考えさせられた。カラムジンが戯曲『シャクンタラー』については「この戯曲は古代インドの美しい絵といえるかもしれない」と記すのみで翻訳の困難さには言及していないことに注意を向けて、「二種類の翻訳の存在」を指摘していたことも興味深い。

カラムジンの『哀れなリーザ』や書簡体で書かれたゲーテの『若きウェルテルの悩み』が、ドストエフスキーの第一作『貧しき人々』にも強い影響を与えたことはよく知られているが、「ロシア・センチメンタリズムに見る『死への憧憬』と『離郷願望』」で、「感傷小説」には「悲劇型」ばかりでなく、「めでたし型」も存在していたことを紹介した金沢美知子は、スシコフの『ロシアのウェルテル』などにおける主人公たちの自殺についての言動に注意を向けて、「作家と読者の中に、個人主義あるいは個人と社会の対立についての問題意識が育ち始めていたことを証している」とし、この主人公が「『余計者』の原型」であると指摘している。

大塚えりな「カラムジン『ロシア人旅行者の手紙』における虚実」は、カラムジンが『モスクワ新聞』に掲載した広告文で「私の友人に物好きなのがいて、ヨーロッパ各地を旅行して、…中略…考えたこと、創造したことを書きとめてきた」と書いて、「作家はあくまで編者の立場」をとっていることに注意を促すとともに、最新の研究資料を紹介してここには「個人的な『旅行記』としての側面」もあることを具体的に示している。この論文からは『冬に記す夏の印象』の書き出しの文がカラムジンの『ロシア旅行者の手紙』の「パロディという要素」が非常に強く、「自分の旅行を機縁にして、以前から考えていた西欧観を吐き出そうとしたもの」であるという川端香男里の指摘が思い出される。

金沢友緒は「ロシアで翻訳された最初のゲーテ文学――О・П・コゾダヴレフと悲劇『クラヴィーゴ』」で、『若きウェルテルの悩み』では「ドイツの旧いモラルと自由を求める個人の葛藤の中でドラマが展開する」のに対して、悲劇『クラヴィーゴ』では「複数の国家社会と文化の対立の構図をとおして」主人公の恋愛が描かれていることに注目している。そして、ドイツのライプツィッヒ大学に留学した翻訳者コゾダヴレフが、この劇に「異文化衝突のドラマ」を見たと指摘し、後に彼が「国家の様々な文化事業に関与し」、「教育システムの構築と雑誌の発行」に携わることになることとの関連を指摘している。それは小説の創作ばかりでなく、ヨーロッパの情勢をも伝える総合雑誌『時代』や『世紀』の発行にも関わっていたドストエフスキーの視野の広さにも深く関わっているだろう。

私がもっとも関心を持って読んだのは「古来さまざまな議論が行われている」プーシキンのラジシチェフ論をゲルツェン研究の視点からの解釈を示した長縄光男の論文「『ペテルブルグからモスクワへの旅』をめぐって──ラジシチェフ・プーシキン・ゲルツェン」であった。

よく知られているように、ラジシチェフは「ザイツォヴォ」という章で、「農民に対する地主の非人間的横暴」によって引き起こされた「農民による地主の集団的殺害事件」を担当した裁判所長官の良心の苦しみを描いていた。このエピソードは自分の父が農民たちによって殺害されたことを知った若きドストエフスキーの苦悩や良心観を理解する上でも重要と思えたために、拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』(成文社、二〇〇七年)で詳しく紹介するとともに、歴史家・國本哲夫の説に従ってプーシキンのラジシチェフ論が「イソップの言葉」によって記されていると解釈していた。

しかし、ラジシチェフがきわめて率直に農奴制を批判したのは、「ルソーやディドロやヴォルテールらと親密に付き合っていた」エカチェリーナ二世が、「若者たちにも彼らの思想を学ぶように奨励した」ためだったと説明した長縄は、プガチョフの乱が起きるなど時代は変化し、フランス革命の翌年に刊行されたこの本をエカチェリーナが「プガチョフより悪質だ」と評したことを紹介している。

そして、「プーシキンはラジシチェフと真逆の道筋――すなわち、モスクワからペテルブルグへという経路を辿った。この事実そのものに、まず、プーシキンのラジシチェフ批判の意図を読み取ることができるだろう」と指摘し、「『知恵の悲しみ』も今ではすでに古びた悲しいアナクロニズムでしかない」と書いたのは、「本音」だっただろうと書いている。

たしかに、若い頃と『エヴゲーニイ・オネーギン』を書き上げた頃のプーシキンの考えが大きく変わっていることに留意するならば一八三三年から三六年にかけて書かれたラジシチェフ論は、「イソップの言葉」ではなく「本音」で書かれていたと考えられる。

ドストエフスキーもシベリア流刑以降は、むしろグリボエードフの『知恵の悲しみ』を批判するようになった頃のプーシキンを理想として掲げていたのである。ただ、ここでは詳しく論じる余裕はないが、それは『罪と罰』のエピローグに記された「人類滅亡の悪夢」が示しているように、日本の近海にも及んだクリミア戦争など近代兵器の進化に伴って戦争がさらに世界的な規模へと広がることへの危険感とも深く結びついていたと思える。

乗松亨平は「ベリンスキーとロシアの十八世紀──『ロシア史』はいかに語られるか」で、デビュー評論で文学は「ナロードの内的な生を、最奥の深淵と鼓動にいたるまで表現する」がロシアにはまだ「文学はない」と宣言したベリンスキーの歴史観の変遷を考察している。すなわち、一八四〇年の初頭以降は「ロシアとヨーロッパ、教養階級と民衆の断絶が、漸減されていく過程としてロシア文学史を捉える」というベリンスキーの視点が基本的に変わっていないことを指摘するとともに、「ロシアの未熟さ、若さ」を未来の可能性として「ポジティヴに読みかえる」という論法をベリンスキーが、「生のあらゆる領域、あらゆる世紀と国へ自由に移動できるプーシキンの芸術的能力」にも用いていることを指摘した。

そして乗松は、その手法が「プーシキンのロシア特有の天才は、きわめて多様な感情や人々を描けることにある」として「プーシキンの詩的創造の全世界性を称賛」したプーシキン像除幕式講演におけるドストエフスキーにも通じることを強調している。ベリンスキーと晩年のドストエフスキーのプーシキン観の意外な類似性をも指摘したこの記述からは、ドストエフスキーとベリンスキーの関係を再考察する必要性を感じさせられる。

文学について考察した論文ではないが、豊川浩一の「十八世紀ロシアにおける国家と民間習俗の相克──シンビルスクの『魔法使い(呪術師)』ヤーロフの裁判を中心に」は、ドストエフスキー初期の作品『主婦』に描かれた世界を理解するのに役立つだろう。矢沢英一の論文「イワン・ドルゴルーコフの回想記から見えてくるもの」は、ロシアの貴族たちの間でどのようにアマチュア演劇が広まり、大規模な農奴劇場が生まれたかを詳しく記しており、子供の頃に『知恵の悲しみ』を感激して見たドストエフスキーがシベリアの監獄で演じられた民衆芝居について『死の家の記録』で記していたこととの関連で非常に興味深く読んだ。

モスクワ大公国時代の儀礼との比較をとおしてピョートル改革後の特徴の解明を試みて、「信念の祝賀」や、「聖水式」などを考察した田中良英の「十八世紀初頭におけるロシア君主の日常的儀礼とその変化」は、視覚的な資料も多く掲載されている大野斉子の「女帝の身体」とともに、当時の宮廷の衣裳や風俗の特徴を浮かび上がらせている。

中神美砂「E・R・ダーシコヴァに関するロシアにおける研究と動向」も頁数は少ないが読み応えがあり、ナターリヤ・ドミトリエヴナ・コチェトコーヴァによるロシア科学アカデミー・ロシア文学研究所の詳しい紹介論文「プーシキンスキー・ドームの十八世紀ロシア文学研究部門──その歴史と現在」も、ロシアにおける研究史を知る上で役立つ。

これらの論文からはドストエフスキーの作品と十八世紀ロシアの密接な関係が浮かび上がってくる。また、かつて文明論的な視点からロモノーソフのことを少し調べたことのある私は、その後の研究分野の広がりと深まりには刮目させられるとともに多くの知見を得ることができた。本書がロシア文学の研究者だけでなく、比較文学や歴史の研究者、そしてロシアに関心を持つ多くの方に読まれることを期待したい。

(『ドストエーフスキイ広場』第26号、2017年、141~145頁より転載)

 

ドストエーフスキイの会、第237回例会(報告者:大木貞幸氏)のご案内

ドストエーフスキイの会、第237回例会のご案内を「ニュースレター」(No.138)より転載します。

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第237回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

 日 時2017年1月28日(土)午後2時~5時

 場 所場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分)

℡:03-3402-7854

報告者:大木貞幸氏

 題 目: キリストの小説――ドストエフスキー・マルコによるキリスト教批判

 *会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:大木貞幸(おおき さだゆき)

65歳。団体役員。埼玉大学理工学部卒業。40歳位から文芸誌新人賞に文学批評の投稿を続ける。年1作。対象は、大江健三郎、本居宣長、源氏物語、ロラン・バルト、柄谷行人、ドストエフスキーなど。主に表現と方法、日本的なものと西欧的なものの比較論を扱う。定年を機に「カラマーゾフ論」をまとめて、昨年3月に自費出版。同年当会に入会。

 

第237回例会報告要旨

キリストの小説――ドストエフスキー・マルコによるキリスト教批判

『カラマーゾフの兄弟』について書こうと思ったのは、マルコ福音書の、転じて「歴史」を創生するかのような高度な虚構性について考えていた際、作家がこのことの「証人」の一人であると確信したからです。ドストエフスキーが、その遺作の構想に当たって「キリストの小説」という言葉に想到したとき、作家はおそらく福音書に小説でしか達成できない世界を認め、そのモデルに相即し、かつ流動させることによってキリストその人の小説を書きうると考えた。この試みは、正教ロシアに連なることになるのですが、作家の表現はどこまでマルコに切迫し、西欧キリスト教世界に対したかを確かめようとしたものです。報告では、拙論の趣旨と概要をお話しするとともに、前後して上梓された芦川進一氏の『カラマーゾフの兄弟論』にもふれさせていただきます。

拙論は、2007年に執筆した未発表の評論と追加した「論註」から成ります。以下、章立てに沿って、本論と論註を併せた簡単な梗概を示します。

1 もうひとつの「福音書」――「方法」のモデル

「イエス・キリストについての本を書くこと」という覚書の二重の意味、『カラマーゾフ』における主題と方法に関する課題設定です。作家が、モデルとしての福音書に対し、記者たちと同じ位置から「もうひとつの福音書」を書こうとしたという趣旨です。

2 小児虐待の「思想」――常識の「原理」

小説の第5篇第3章と第4章「叛逆」を扱っています。「神」と「世界」と「小児の苦痛」をめぐる、イワンの思考の型の「未熟さ」を批判しています。作者がこれに気づいたこと、このことが主題の大きな転換と「方法」への踏込みになったという趣旨です。

3 「大審問官」のキリスト――「方法」の経験

第5章「大審問官」におけるイワンの劇詩の明白な「失敗」と、これを引き取った、アレクセイの接吻とイワンの歓喜の叫び、これと同時に生起した作者の方法的転換の経験という脈絡です。作者はある「形式」に想到し、初めて福音書の世界に踏込みます。

4 ゲッセマネの「憂愁」――流動するアナロギア

第6章の表題、「いまはまだそれほどはっきりしたものではない(が)」のとおり、父の家の門の前でのイワン=スメルヂャコフの交感と、マルコにおけるイエス=ユダの「分身関係」が、流動しつつ重なり、二つの「作品」が「一つ」になっていきます。

5 ペテロの「躓き」――超越論的アナロギア

第5編最終章の一挿話、「父の家の階段の下り口」でのイワンの奇怪な行動を、倫理の「内面」の点描ととらえます。そこにマルコの「大祭司の官邸の中庭」でのペテロの「躓き」、そしてありうべきペテロの倫理的行為を重ねる作家の「好奇心」を仮説します。

6 ゾシマの「罪」と「革命」――純粋倫理批判

第6篇の、若いゾシマとミハイルの「絶対的関係」が主題です。「ほんものの人殺しは殺さない」、この命題が二度目にゾシマ=イエスを訪れるミハイル=ペテロの倫理的可能性の「実現」として、「躓き」を認容せぬ作家のマルコ批判を成します。作家は純粋倫理を定着し、「一粒の麦」の死から、イエスたりうる「人間たち」の未来を望みます。

7 小説の過去と未来――「論理」の行方

「キリストの小説」の過去と未来、その敗れた論理の行方として小説全体を概観します。第11篇におけるスメルヂャコフの論理的「復活」は、この未完の大作の一つの帰結です。作家は「すべてのことに対して小説に復讐する」かのような作品を成しました。

ドストエーフスキイの会、第235回例会(報告者:金沢友緒氏)のご案内

ドストエーフスキイの会、第235回例会のご案内を「ニュースレター」(No.136)より転載します。

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第235回例会のご案内

下記の要領で総会と例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。

                                       

 日 時201617日(土)午後2時~5        

場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分) 第一会議室

報告者:金沢友緒氏

題 目: ドストエフスキーと「気球」

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:金沢友緒 (かなざわ ともお)

東京大学大学院博士課程修了、現在日本学術振興会特別研究員(PD)。専門は18 ・19世紀のロシア文学、文化。特にロシアにおけるドイツ受容、トゥルゲーネフ、А.К.トルストイを研究している。 「А.К.トルストイと 1840 年代ロシア-『アルテミイ・セミョーノヴィチ・ベルヴェンコフスキ イ』をめぐって-」(SLAVISTIKA 28号、2012)、 «О.П.Козодавлев и И.В.Гете. Межкультурное сопоставление (コゾダヴレフとゲーテ:異文化衝突をめぐって) » ( Русская литература № 2 , 2015) 他。

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第235回例会報告要旨

ドストエフスキーと「気球」

  文学作品は多様なジャンルの影響を受けて生まれたものであり、その中の一つが科学である。イギリス、フランス等、近代西欧先進諸国における科学技術開発の歴史の中で試みられた実験や生まれた発明に対して作家達は強い関心を示しており、ロシアの作家達もその例に漏れなかった。18世紀および19世紀を通じて近代ロシア文学は飛躍的な発展を遂げたが、そのプロセスには科学の発展もまた密接に関わりをもっていたのである。

今回の報告で注目するのはその一つである「熱気球」である。18世紀後半のフランスでモンゴルフィア兄弟がおさめた実験の成功は本国のみならず諸外国でも注目を集め、「気球 (воздушный шар)」は別名、すなわち実験者兄弟からとった「モンゴルフィア(Монгольфьер)」の名で各地に広まったのである。ロシアでも反響が大きく、フランスで実験が行われた1783年に既にペテルブルグで、また翌年にはモスクワでも同様に実験が行われた。以後、気球は飛行実験や新たな交通手段の開発の模索が繰り返される中、文学においても、伝統的な飛行のモチーフとの関わりの中で重要な役割を獲得していったのである。 本報告は18世紀から19世紀にかけての気球をめぐる科学の歴史を踏まえた上で、ドストエフスキーの作品の中では「気球」がどのような形で登場し、用いられていたかを取り上げたい。

19世紀に入って気球をめぐる技術は向上を続け、ロマン派の作家達の作品の中にしばしば登場していた。しかし写実主義への移行期には、新たな日常的交通手段としての鉄道が文学の中に登場し、大きな役割を果たすようになっていった。レフ・トルストイに繰り返し登場する『アンナ・カレーニナ』の鉄道の旅や駅の描写、ドストエフスキーの『白痴』冒頭のムィシキンとロゴージンの列車内での出会いの場面はその代表的な例であろう。無論19世紀後半にフランスで出版されたジュール・ヴェルヌの『気球に乗って』のように、「気球」を用いたファンタジー文学として西欧で大きな反響を得た作品もあったが、現実の風景としての気球飛行はさほど実用的ではないため、ロシア・リアリズム文学の中ではむしろ比喩的な表現として用いられることの方が目立っていたと思われる。

ドストエフスキーの文学の中でも数多くはないものの「気球」のモチーフは登場する。やはり「気球」を比喩的に利用したものが見られ、その中でも特に意図的な利用が明確であるのが、同時代の文壇の西欧派とスラヴ派の思想的論争の背景を踏まえて書かれた、チェルヌィシェフスキー等急進陣営に対する批判である。彼の批判に対し、他の作家もまた「気球」を踏まえて応酬したのであった。

本報告ではこの議論の他に、『罪と罰』や『賭博者』に登場する「気球」についても取り上げる。また、ロシア文学の中で「気球」のモチーフが果たしてきた役割を考慮し、例えば19世紀初めから同時代の19世紀半ばにいたる作家達、В.Ф. オドエフスキー、ブルガーリン、ゲルツェン等の作品についても比較の対象として取り上げながら、ドストエフスキーの「気球」をめぐる視点について紹介したい。

気球についての言及は、ドストエフスキーを含め、近代ロシアの作家達が科学技術の発展全般についてどのような関心をもち、また創作上、どのように利用しようとしていたかを明らかにする手がかりを提供してくれるであろう。

「権力欲」と「服従欲」の考察――フロムの『自由からの逃走』を読む

1,「権威主義的な価値観」への盲従の危険性と「非凡人の理論」

自らがナチズムの迫害にあった社会心理学者のエーリッヒ・フロム(1900~1980)は、『自由からの逃走』(日高六郎訳、東京創元社、1985)において、ヒトラーの考えと社会ダーウィニズムとの係わりに注目して、ヒトラーが「自然の法則」の名のもとに「権力欲を合理化しよう」とつとめていたことを指摘していました。さらにフロムは、「種族保存の本能」に「人間社会形成の第一原因」を見るヒトラーの考えは、「弱肉強食の戦い」と経済的な「適者生存」の考え方を導いたと述べています*14。

注目したいのはフロムが、人間の歴史が個人の自由の拡大の歴史であることを確認しながら、それとともに、あまりに個人の自由が大きくなった時、獲得した自由が重みにもなり、人が自らそれを放棄することもあることを指摘しえていることです。

たしかに、近代以降、それまで土地や職業に縛られていた人間は、職業の選択の自由、移動の自由、さらには恋愛の自由など様々な個人の自由を拡大してきました。しかし、自由が大きくなればなるほど、どの道を選ぶかの選択の際の苦悩や不安は深まります。こうして、フロムは自らの道を選ぶことが難しい危機的な状況になればなるほど、人間は自らの自由の重みに耐えられずに、それをより強大な他の人物に譲り、彼に道を選んでもらうことで不安から逃れようとする傾向があることを明らかにしたのです。

この際にフロムはサディズムとマゾヒズムという心理学の概念を用いながら、人間の「服従と支配」のメカニズムに迫り得ています。すなわち、彼によれば、「権力欲」は単独のものではなく、他方で権威者に盲目的に従いたいとする「服従欲」に支えられており、自分では行うことが難しい時、人間は権力を持つ支配者に服従することによって、自分の望みや欲望をかなえようともするのです*15。

フロムは「神経症や権威主義やサディズム・マゾヒズムは人間性が開花されないときに起こるとし、これを倫理的な破綻だとした」(ウィキペディア)としていますが、彼の説明は第一次世界大戦の後で経済的・精神的危機を迎えたドイツにおいて、なぜ独裁的な政治形態が現れたかを解明していると言えるでしょう。

フロムは自分の分析をより分かり説明するために、ドストエフスキーの最後の大作『カラマーゾフの兄弟』から引用していますが*16、私たちにとって興味深いのは、このような問題がすでに『罪と罰』においても扱われていることです。

すなわち、ラスコーリニコフは「凡人」について「本性から言って保守的で、行儀正しい人たちで、服従を旨として生き、また服従するのが好きな人たちです。ぼくに言わせれば、彼らは服従するのが義務で」ある(三・五)と規定するのです。別な箇所でラスコーリニコフは「どうするって? 打ちこわすべきものを、一思いに打ちこわす、それだけの話さ。…中略…自由と権力、いやなによりも権力だ!」と語った後で、「ふるえおののくいっさいのやからと、この蟻塚(ありづか)の全体を支配することだ!」(四・四)と続けています。

この「おののく」という特徴的な言葉は、彼がナポレオンのことを想起しながら、路上に大砲を並べて「罪なき者も罪ある者も片端から射ち殺し」「言訳ひとつ言おう」しなかった者の処置こそ正しいと感じた時にも、「服従せよ、おののくやからよ、望むなかれ、それらはおまえらのわざではない」(三・六)と用いられていました。

創作ノートにはラスコーリニコフには「人間どもに対する深い侮蔑感があった」(一四〇)と書かれています。ドストエフスキーは自分の「権力志向」だけではなく、大衆の「服従志向」にも言及させることでラスコーリニコフのいらだちを見事に表現しえているのです。

こうして、ラスコーリニコフの「非凡人」の理念は、劣悪な状況におかれながらも、社会を改革しようとはせず、ただ耐えているだけの民衆に対するいらだちや不信とも密接に結びついていたのです。(中略)

しかも、ドストエフスキーは予審判事のポルフィーリイに「もしあなたがもっとほかの理論を考え出したら、それこそ百億倍も見苦しいことをしでかしたかもしれませんよ」とラスコーリニコフを批判させていました。

実際、世界を「生存闘争」の場ととらえるならば、かつての「イデオロギー」的な連帯から、「同種の文明国家」の連帯へと変わったと言っても、自らが「鬼」として滅ぼされないために、「圧倒的な力」を持つ文明に対抗して、他の文明も国力を挙げて軍備の拡大や「抑止力」としての核兵器の開発へと進まざるを得なくなるでしょう。

現在も「国益」や「抑止力」の名目で未臨界実験をも含む核実験や核兵器の保持が続けられていますが、多くの学者が指摘しているように、核兵器の使用は「核の冬」など地球環境の悪化による諸文明だけでなく、地球文明そのものの破滅をも意味するでしょう。

そのことをドストエフスキーは、ラスコーリニコフがシベリアの流刑地で見る「人類滅亡の悪夢」をとおして明らかにしていました。夢の中で彼は「知力と意志を授けられた」「旋毛虫」におかされ自分だけが真理を知っていると思いこんだ人々が互いに自分の真理を主張して「憎悪にかられて」、互いに殺し合いを始め、ついには地球上に数名の者しか残らなかったという光景を見るのです。

2,スピノザの「感情論」と『罪と罰』における感情の考察

興味深いのは、ドストエフスキーがこの「人類滅亡の悪夢」を描いた後でソーニャと再会したラスコーリニコフの「復活」を描いていたことです。

つまり、「だれが生きるべきで、だれが生きるべきじゃないか」などと裁くことが人間にできるのかとラスコーリニコフを鋭く問い質していたソーニャの考えには、論理化はされていないにせよ、存在や生命の尊厳に対する直感的な理解があると言えるでしょう。(中略)

貧しさのために大学を退学しなければならなくなり、「自尊心」を傷つけられた中で自分の専門的な知識で組み上げたラスコーリニコフの「論理」の矛盾を、ラズミーヒンが指摘しつつも彼に直接的な影響力を持てなかったのに対し、ソーニャの言葉は彼の感情に訴えかける力をもっていたのです。

この意味で注目したいのは、エーリッヒ・フロムが無意識的力に注目した思想家として、マルクスとフロイトの名を挙げながら、「西欧の思考的伝統の中で」、彼らに先立って「無意識についての明白な概念を持っていた最初の思想家は、スピノザであった」と書いていることです*7。

実際、スピノザは感情の分析をとおして「人間は、常に必然的に受動感情に屈従」するとし、「感情の力は、感情以外の人間の活動、あるいは、能力を凌駕することができる。それほどに感情は頑強に人間に粘着している」という事実を指摘しえています*8。

このような認識は自分が感情や他人の意見に左右されずに、主体的かつ理性的に行動していると考えていた人々にとっては苦痛でしょう。しかし、スピノザが指摘しているように、多くの場合「人々が自由であると確信している根拠は、彼らは自分たちの行為を意識しているがその行為を決定する原因については無知である」という理由に基づいているのです*9。

『未成年』の登場人物は、ある感情のとりこになった人間を正常に戻すには「その感情そのものを変えねばならないが、それには同程度に強烈な別な感情を代りに注入する以外に手はない」(六四)と語っています*10。この言葉は「感情は、それと反対の、しかもその感情よりももっと強力な感情によらなければ抑えることも除去することもできない」というスピノザの定理を強く思い起こさせます*11。

実際、ドストエフスキーが出版していた雑誌『時代』にはストラーホフの訳による「神に関するスピノザの学説」という論文が掲載されており、ドストエフスキーがスピノザの考えをある程度知っていたことは充分に考えられるのです*12。

つまり、評論家のシェストフは、ドストエフスキーが『地下室の手記』(一八六四)で「かつて、自分が拝跪していたものを…中略…泥の中に踏みつけてしまった」と記し、この作家をスピノザなどの哲学とは対立し、ニーチェとともに「理性と良心」を否定する「悲劇の哲学」の創造者と規定していましたが、ドストエフスキーにはスピノザ的な哲学にたいする深い理解があったと思えるのです。

私たちはスピノザの感情論を高く評価したフロムの考察をとおして『罪と罰』を読み解くことで、現代日本の問題点にも迫り得るでしょう。

*     *   *

エーリッヒ・フロム著、日高六郎訳『自由からの逃走』(東京創元社、1951)

序文

第一章  自由――心理学的問題か?

第二章 個人の解放と自由の多義性

第三章 宗教改革時代の自由

1、中世的背景とルネッサンス

2、宗教改革の時代

第四章 近代人における自由の二面性

第五章 逃避のメカニズム

1、権威主義

2、破壊性

3、機械的画一性

第六章 ナチズムの心理

第七章 自由とデモクラシー

1、個性の幻影

2、自由と自発性

付録 性格と社会過程

(拙著『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、初版1996年、新版2000年)、第8章「他者の発見――新しい知の模索」および、第9章「鬼」としての他者」より。

註の記述は省いたが、*7については、フロム著、阪本健二・志貴孝男訳『疑惑と行動』、東京創元社、1985年、167頁。*8については、スピノザ『エティカ』(『世界の名著』第二五巻)工藤喜作・斎藤博訳、中央公論社、1969年、273頁を参照)。

(2016年7月28日。「『罪と罰』とフロムの『自由からの逃走』』」を大幅に改訂して再掲)

山崎雅弘著『日本会議 戦前回帰への情念』(集英社新書)を読む

日本会議戦前回帰への情念 集英社新書(書影は「紀伊國屋書店のウェブ」より)

戦前の『国体の本義』などの分析をとおして「日本会議」と安倍政権の本質に肉薄した好著である。膨大な資料をもとに「日本会議」の「思想の原点」に迫るとともに、二〇一二年に発表された自民党の「日本国憲法改正草案」の内容や文言が、むしろ戦前の『国体の本義』を連想させるものであることを明らかにしている。

さらに、NHKの大河ドラマ《花燃ゆ》では「桂小五郎(木戸孝允)が果たした重要な役割」が、吉田松陰の妹・文が再婚した相手の小田村伊之助が行ったことになっているとの視聴者からの批判を紹介した著者は、安倍首相の地元ともゆかりの深い小田村四郎・日本会議副会長に注目することで、人間的なドラマをも描き出すことに成功している。

ここでは、第一章と第三章、および第五章を考察することで本書の内容を簡単に紹介しておきたい。

第一章「安倍政権と日本会議とのつながり」では、第一次安倍政権時代から安倍首相が「日本会議」に忠実だったことや、安倍首相の返り咲きが「日本会議」の「運動の大きな成果」だと総会で報告されていたことが紹介されている。第二節「重なり合う『日本会議』と『神道政治連盟』の議員たち」では、この二つの組織が「美しい伝統の国柄を明日の日本へ」、「新しい時代にふさわしい新憲法を」、「日本の感性をはぐくむ教育の創造を」などの主要な三つの項目で両者の目標が一致しているばかりでなく、それ以外の活動方針にも対立するような点がないことが指摘されている。

「日本会議の「肉体」――人脈と組織の系譜」と題された第二章に続く、第三章「日本会議の『精神』――戦前・戦中を手本とする価値観」では、安倍首相が盛んに用いた「日本を取り戻す」というキャッチフレーズが、一九九七年に行われた「日本会議」の設立大会において小田村四郎・副会長が語った「かつての輝かしい日本に戻して参りたい」という言葉に由来することを明らかにしている。

さらに、日本会議の思想の原点を物語る書物」として『国体の本義』と『臣民の道』を挙げ、『国体の本義』の解説叢書の一冊として一九三九年に出版された『我が国体と神道』の冒頭では、「国体とは国がら」であると記され、「この皇国の本質を発揚すべく支持し奉っているものは、日本国民の信念」であり、「この国民的努力に励む心がすなわち、日本魂であり、日本精神である」と強調されていたことを指摘している。 さらに、アメリカとの全面戦争をも視野に入れた時期に出版された『臣民の道』では、「皇国の臣民は、国体の本義に徹することが第一の要件」であり、「実践すべき道は」、「抽象的な人道や観念的な規範ではなく…中略…皇国の道である」と続いていたことにも注意を促している。

これらを紹介して、戦前の「国体思想」「これは、当時の日本軍が、なぜ特攻や玉砕のような『非人道的』な戦法をくり返し行うことができたのか」についてのヒントを与えているように見えると続けていた山崎氏は、日本会議の活動方針が「戦前・戦中の思想と価値判断を継承」していると記している。

ついでながら、『風土・國民性と文學』と題された『国体の本義』解説叢書の一冊でも「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっていることは」、「日本の国体の精華であって、万国に類例が無いのである」とされ、「神道」を諸宗教の頂点においた「国体」の意義が強調されていた。 しかし、「暗黒の三〇年」と呼ばれる時代にもロシア皇帝ニコライ一世は、「自由・平等・友愛」の理念に対抗するために「ロシアにだけ属する原理を見いだすことが必要」と考えて、「正教・専制・国民性」の「三位一体」による愛国的な教育を行うことを命じるロシア版の「教育勅語」を発していた。このような時代に青春を過ごしたドストエフスキーは言論の自由を求める執筆活動を行っていたが、それすらも厳しく弾圧されるなど専制政治が続き格差が広がったために、ロシアはついに革命に至っていたのである。「教育勅語」が渙発された後の日本は、教育・宗教システムの面ではロシア帝国の政策にきわめて似ていたといえるだろう。

第四章「安倍政権が目指す方向性」では、安倍首相と日本会議の方向性を、「教育改革」、「家族観」、「歴史認識」、そして「靖国神社」の問題に絞って具体的に考察している。

そして、第五章「日本会議はなぜ『日本国憲法』を憎むのか――改憲への情念」では、それまでの考察を踏まえた上で、「特定秘密保護法案」や「安全保障法案」などの重要法案を短期間の審議で次々と強行採決した安倍政権が「国民」に突きつけた「改憲」の問題の本質にも迫っている。

注目したいのは、「はじめに」でも言及されていた小田村四郎・日本会議副会長の憲法観をとおして、「憲法改正運動の最前線に躍り出た」日本会議の憲法観が伝えられていることである。二〇〇五年六月号の『正論』に、小田村氏は「日本を蝕(むしば)む『憲法三原則』国民主権、平和主義、基本的人権の尊重という虚妄をいつまで後生大事にしているのか」というタイトルの記事を寄稿していた。

つまり、安倍首相を会長とする創生「日本」東京研修会で長勢甚遠・元法務大臣が、「国民主権、基本的人権、平和主義、これをなくさなければ本当の自主憲法ではないんですよ」と語っている動画が最近話題となったが、これは小田村副会長の言葉のほとんど繰り返しにすぎなかったのである。

さらに、「自民党改善案では、日本国憲法にはまったく存在していない『第九章 緊急事態』という項目を、新たに創設して追加して」いることを指摘した著者は、「もし自民党の改憲案が正式な憲法となれば、時の政権は、自らを批判して退陣を求める反政府デモを鎮圧するために、この条文を使う可能性」があると書いている。

つまり、憲法学者の小林節氏は安倍政権の政治の手法によって日本では、「法治国家の原則が失われており、専制政治の状態に近づいている。そういう状態に、我々は立っている」と『「憲法改正」の真実』(集英社新書)に書いているが、自民党の改憲案が採用されれば、首相がロシア皇帝と同じような独裁政治を行う権力を手にすることになると思える。

注目したいのは、「日本会議」の論客が「大東亜戦争」が「自存自衛の戦争であって侵略ではない」と主張していることに注意を促した著者が、「もし『大東亜戦争』が『侵略ではなく自衛戦争』であるなら、自民党の憲法改正案が実現した時、理論的には、日本は再び『大東亜戦争』と同じことを『自衛権の発動』という名目で行うことが可能になります」と指摘していることである。

敗戦七〇周年にあたる二〇一五年の「安倍談話」では日英の軍事同盟の締結(一九〇二)によって勝利した日露戦争の意義が強調されたが、日本はそれから四〇年足らずの一九四一年には、米英を「鬼畜」と罵りながら太平洋戦争に突入していた。 「報復の権利」を主張したアメリカのブッシュ元大統領が、イラク戦争を「正義の戦争」としていたことを考慮するならば、「日本会議」や安倍政権の方針に沿って教育された日本の若者たちは、早晩、「報復の権利」を主張してアメリカとの戦争にさえ踏み切る危険性があるといえるだろう。

*   *

緻密なインタビューによって、「強力なロビー団体」であり豊富な資金力を持つ神社などに支えられている「日本会議」の実態に迫った好著『日本会議の正体』(平凡社新書)の冒頭でジャーナリストの青木理氏は、イギリスの『エコノミスト』や『ガーディアン』、アメリカの『CNNテレビ』、オーストラリアの『ABCテレビ』、フランスの『ル・モンド』など多くの外国のメディアが「日本会議」について、「国粋主義的かつ歴史修正的な目標を掲げている」などと「かなり詳細な分析記事」を載せているのにたいして、日本の報道機関がほとんど沈黙を守っていたことを指摘していた。

「立憲主義」が存亡の危機に立たされた現在、ようやく「日本会議」についての充実した本が相次いで出版されるようになった。さまざまな戦史と紛争史を研究してきた山崎雅弘氏による本書も、『我が国体と神道』など過去の文献も読み込んだ歴史的な深みと世界史的な視野を持ち、分かりやすく説得力のある著作となっている。  

(2018年8月17日、改訂。書影を追加)

国際ドストエフスキー学会で6月9日に「『罪と罰』と黒澤映画《夢》」を発表

スペイン・グラナダで開催される国際ドストエフスキー学会では6月7日に拙著のプレゼンテーションを、6月9日に〈「生存闘争」という概念の危険性の考察――『罪と罰』と黒澤映画《夢》〉という題で口頭発表を発表することが決まりました。

拙著のプレゼンテーションでは、『黒澤明で「白痴」を読み解く』と『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』に簡単にふれたあとで、副会長を務めていた故リチャード・ピース教授の著書『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』(池田和彦訳、高橋誠一郎編、のべる出版企画、2006年)と教授の思い出などについて語る予定です。

論文発表では映画《白痴》や《赤ひげ》における医師と患者の関係や映画《愛の世界・山猫とみの話》について簡単に言及したあとで、「生存闘争」という概念の危険性を深く考察していた『罪と罰』における夢に注目しながら、黒澤映画《夢》(1990年)の構造との比較を行う予定です。

死んだ兵士たちとの再会が描かれている第4話「トンネル」や福島第一原子力発電所の事故を予告していたような第六話「赤富士」と核戦争後の絶望的な状況を描いた第七話「鬼哭」、そして自然エネルギーの可能性を示していた第八話「水車のある村」などを考察することにより、映画《夢》の構造が『罪と罰』の構造ときわめて似ていることを明らかにできると考えています。

 

長編小説『罪と罰』の世界と黒澤映画――《野良犬》(1949)と《天国と地獄》(1963)

黒澤明、野良犬黒澤明、天国と地獄

(ポスターの図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

長編小説『罪と罰』の世界と黒澤映画――《野良犬》(1949)と《天国と地獄》(1963)

先ほど、「長編小説『白痴』の世界と黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》(1960)」をアップしましたので、長編小説『罪と罰』の世界と黒澤映画《野良犬》(1949)や《天国と地獄》(1963)との関係を考察した箇所も拙著から引用しておきます。

*   *   *

よく知られているように、クリミア戦争から一〇年後の混迷の首都ペテルブルグを舞台にした『罪と罰』(一八六六)は次のような有名な文章で始まっていた。「七月はじめ、めっぽう暑いさかりのある日暮れどき、ひとりの青年が、S横丁にまた借りしている狭くるしい小部屋からおもてに出て、のろくさと、どこかためらいがちに、K橋のほうへ歩きだした」。

一方、終戦後間もない混乱した時期の日本を舞台に、めっぽう暑い日の満員のバスでピストルをすられた刑事と、そのピストルをピストル屋から買い取って次々と凶悪犯罪をかさねる若者の息詰まるような対決を描いた映画《野良犬》(脚本・黒澤明、菊島隆三)も、「それは、七月のある恐ろしく暑い日の出来事であった」という文章から始まるガリバン刷りの同名の小説をもとにして撮られている*6。

そして、ショーウインドウに飾られている服を見て、あんな美しい服を一度着てみたいと語った自分のせいで復員軍人の青年がピストル強盗まで思い詰めたことを明かした若い踊り子は、「ショーウインドウにこんな物を見せびらかしとくのが悪いのよ」と語り、若い刑事から戒められると腐れて、「みんな、世の中が悪いんだわ」と言い訳した。

さらに踊り子は、「悪い奴は、大威張りでうまいものを食べて、きれいな着物を着ているわ」とも語っているが、この言葉は《悪い奴ほどよく眠る》との繋がりをよく物語っているだろう(下線引用者、『全集 黒澤明』第2巻、204頁)。

しかも、この二人の復員軍人の青年がともに戦争から帰った日本で自分の全財産ともいえるリュックサックを盗まれていたという共通の過去を描くことで、混迷の時代には窮地に追い込まれた人間が、犯罪者を取り締まる刑事になる可能性だけではなく、「狂犬」のような存在にもなりうることが示されていた。

こうして《野良犬》は、きわめて的確な時代考察のうえに主人公たちの行動や考え方を描き出したドストエフスキーの『罪と罰』を踏まえつつ、日本が戦前の個人の自由が全くなかった時代から、個人の「欲望」が限りなく刺激される社会へと激しく変貌し、そのような混沌とした日本の社会情勢の中で、価値観を失った若者たちのニヒリスティクな行動を鮮やかに映像化していたのである。

さらに黒澤明は一九六三年にも当時は無給でしかも将来の身分的な保証もなかったインターン制度のもとで、貧民窟に住んでいた貧しい研修医の竹内(山崎努)が、『罪と罰』のラスコーリニコフと同じように高台の豪邸に住む富豪(三船敏郎)を憎んで、彼の息子の誘拐を図るが誤ってその運転手の息子を誘拐するという事件を描いて話題を呼んだ《天国と地獄》(原作・エド・マクベイン、『キングの身代金』、脚本・小國英雄、久板栄二郎、菊島隆三、黒澤明)を公開している。

ただ、『罪と罰』のラスコーリニコフと同じような「インテリ犯罪者タイプ」の犯人の若者は、「ほとんどなんの理由もなく、ただ生まれながらの憎悪の発露としか思えないような調子で犯罪を遂行してゆく」と描かれている。そして、彼を追い詰める戸倉警部(仲代達矢)も、「法律が行う程度の正義ではまだ不足だと考えて、犯人を死刑に追いこむ工夫をする」のである。

それゆえ、この作品を論じて「サスペンス・ドラマとして最高だ」と評価した佐藤忠男は、その一方でこの映画における「黒澤の正義感はあまりに単純にすぎる」と苦言を呈している*7。

実際、『罪と罰』のラスコーリニコフも法律では罰することのできない高利貸しの老婆を殺害してしまうが、その後の主人公の苦悩を詳しく分析したドストエフスキーは、戸倉警部に相当する判事のポルフィーリイには自首を勧めさせていたのである。

こうして、《天国と地獄》と『罪と罰』における犯人や刑事の描き方などには大きな違いも認められるが、結末で描かれる自分が死刑になることを知った犯人の苦悩は、自分の死期を知ったイッポリートの苦悩をも連想させ、黒澤のドストエフスキー作品への関心の深さが感じられる。

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『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、2011年、123~126頁。2017年5月19日、図版を追加)

 

長編小説『白痴』の世界と黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》(1960)

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(ポスターの図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

長編小説『白痴』の世界と黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》(1960)

東京地検が甘利前経済再生担当相と元秘書2人を「現金授受問題」で不起訴としたとの報道が5月31日の「東京新聞」朝刊に載っていました。

長編小説『白痴』との関連で黒澤映画《悪い奴ほどよく眠る》(脚本・久板栄二郎、黒澤明、小國英雄、菊島隆三、橋本忍)について考察した箇所を拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011年)より一部改訂して再掲します。

父親の恨みを晴らすために上司の娘との結婚を果たした主人公をとおして汚職の問題などが描かれている1960年に公開された映画《悪い奴ほどよく眠る》の世界が、安倍政権下の日本では今も生き続けているのを強く感じるからです。

「アベノミクス」の詐欺性(4)――TPP秘密交渉担当・甘利明経済再生相の辞任

*   *   *

一九六〇年に公開されたこの映画の冒頭では、土地開発公団・副総裁の娘佳子と秘書の西との華やかな結婚披露宴の場で、司会を務めるはずだった課長補佐が逮捕されて動揺する幹部の姿や新聞記者たちの動きが描写されていた。

場面が進むにつれて新郎の西(三船敏郎)が五年前に起きた汚職事件の捜査の過程で、上司たちの保身のために飛び降り自殺をさせられていた課長補佐の私生児であり、他人と自分の戸籍を代えることまでして父親の復讐を果たそうとしていたことが次第に明らかになる。

つまり、子供の頃に負った怪我で足をひきずるようになったが、「赤ン坊」のように純粋な心を持っていた佳子(香川京子)と結婚することで、西は副総裁にまで出世していた父の上司(森雅之)に接近し秘書に取り立てられていたのである(『全集 黒澤明』第5巻・24頁、50頁)。

秘書としての地位を利用することで西は、その時の事件の隠蔽工作に関わったが今度は殺されそうになった人物を捕らえることに成功し、汚職の真相を暴露する一歩手前のところまで佳子の父親でもある副総裁を追い詰めた。しかし、なんとか罪が暴かれることを防ごうとした副総裁は、娘婿の生命を案じるフリをしてその居所を娘から聞き出して、証人たちとともに娘婿を抹殺した。

ドストエフスキーの長編小説『白痴』は、複雑な性格のガヴリーラやイッポリートの家族をとおして、当時の混迷したロシアの社会情勢とムィシキン公爵の苦悩を描き出していたが、この映画も父親の計略によって夫が殺されたことを知ったことで、純粋な精神を持っていた佳子がムィシキンと同じように発狂してしまうことを描いて終わる。

こうして、この映画は「汚職事件が多発して、真相が分からぬままに課長補佐、係長等が謎の自殺を遂げるという、痛ましい事件」が続いていた時代を背景に、企業と癒着した官僚が汚職で富を築き、発覚しそうになると容赦なく罪を部下に押しつけるような体質になっていた戦後の日本社会の腐敗をえぐり出していた*7。

そして《悪い奴ほどよく眠る》が描いていた社会状況は、クリミア戦争後に西欧のさまざまな思想がどっと入ってきて「価値の混乱」が見られ、高官による公金の使い込みや自殺なども見られるようになっていたロシアの社会状況とも重なっていたのである。

(『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、59頁~60頁より一部改訂して再掲。2017年5月19日、図版を追加)

 

司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』――歴史認識と教育の問題をめぐって(2)

目次

1、グローバリゼーションとナショナリズム

2、父親の世代と蘇峰・蘆花兄弟の考察――『ひとびとの跫音』の構成をめぐって

3、大正時代と世代間の対立の考察

4、ナショナリズムの批判――陸羯南と加藤拓川の戦争観

5、治安維持法から日中戦争へ――昭和初期「別国」の考察

6、記憶と継続――窓からの風景

7、司馬遼太郎の憂鬱――昭和初期と平成初期の類似性

 

2,父親の世代と蘇峰・蘆花兄弟の考察――『ひとびとの跫音』の構成をめぐって

『ひとびとの跫音』(中公文庫)は次のような章から成り立っている。

(上巻)電車、律のこと、丹毒、タカジという名、からだについて、手紙のことなど、伊丹の家、子規旧居、子規の家計/(下巻)拓川居士、阿佐ヶ谷、服装、住居、あるいは金銭について、ぼたん鍋、尼僧、洗礼、誄詩

「電車」と名付けられたこの小説の最初の章で司馬遼太郎は、かつて阪急電鉄株式会社に車掌としてつとめていた「忠三郎さんのことを書こうとしている」とし、「昭和五一年九月十日の朝、忠三郎さんは脳出血による七年のわずらいのあと、伊丹の自宅の近所の病院でなくなった。七十五歳であった」(太字引用者)と記した。

市井に生きる無名の人々の人情や自然の風景を、とぎすまされた感性で描いた藤沢周平は、司馬遼太郎の主な長編歴史小説を読んでいないことを認めつつも、自分が『この国のかたち』や『街道をゆく』シリーズの「人後に落ちない愛読者であった」と認め、さらに「『ひとびとの跫音』一冊を読んだことで後悔しないで済むだろうと思うところがある」と書き、『ひとびとの跫音』においては「ふつうの人人が司馬さんの丹念な考証といくばくかの想像、さらに加えて言えば人間好きの性向によって一人一人が光って立ち上がって見えてくる」として絶讃した(*8)。

実際、随筆風に書き進められているかに見えるこの小説でも、やはり読んで行くに従って、司馬遼太郎に独特の堅固で緻密な構成と明確な主題を持っていることに気づかされる。

たとえば、後にこの忠三郎が加藤拓川の実子であるとともに、正岡子規の死後に家を継いだ妹律の養子となった人物であることが明らかにされるのだが、この小説を読んでいくと最初の章に記されたさりげない多くの文章が次第に重要な意味を持ち、次の章の主題と直結していることがわかる。

たとえば、忠三郎の「七年のわずらい」を看病した妻のあや子についての描写は、「二十代から三十代にかけての七年間、兄の看病のために終始し、そのことにすべてを捧げた」子規の三歳下の妹律を描いた「律のこと」や「丹毒」の章へとつながるのである。しかも、そこで司馬は兄の死を看取った後で律が東京の共立女子職業学校で学んだことや、さらにそこを卒業した後は母校で教鞭をとっていたこと、さらにその律の養子となった忠三郎と律や実母ひさ、さらにはあや子と二人の義母との関わりなど、それまでほとんど知られていなかった事実を淡々と描いている。

さらに名字を省いて主人公を単に「忠三郎さん」と紹介するという方法は、自らを「タカジ」と呼ばせた西沢隆二について描いた「タカジという名」や「からだについて」の章にも直結しており、それに続く「手紙のことなど」の章では二高時代のタカジと忠三郎との友情が描かれることになる。

そして、「伊丹の家」、「子規旧居」、「子規の家計」などの章でも日中戦争の年に結婚した忠三郎とあや子との結婚の話を核としながら、彼らの生活を通して母となった律や実父加藤拓川、実母との関わりが描かれているだけでなく、実父加藤拓川と秋山好古や陸羯南との関わりなど子規を形作った人々について記されているのである。そして、これらの章の後に本書のクライマックスの一つといえる「拓川居士」において、拓川の愛国論批判が紹介されることになる。

忠三郎の葬儀がカトリックの教会で行われたことも第一章でさりげなく記されているが、このことは彼の「六つ下の末の妹」の「たへ」が洗礼を受けて「ユスティチア」となったいきさつや、彼女たち修道女が日本軍の占領政策のためにフィリピンへと行くことが描かれる後半の章「尼僧」や、忠三郎が妹の意をくんで洗礼をうけることになる「洗礼」の章とも深く関わっていたのである。

そして、忠三郎の葬式に際して葬儀委員長を引き受ける羽目になった司馬がなれぬ葬儀場の手配や「死亡記事」の扱いなどで振り回されたいきさつが記されているのだが、続いて彼はさりげなくこう書いていたのである。「そのあと八日たち、伊丹の正岡家の通夜の日、薄暗い台所で音をたてていたひとの亭主が、信州の佐久でなくなった」。そして、「ほどなく私事だが」、「私自身の父親が死んだ」。こうして、ここには「誄詩(るいし)」と題された終章につながる主要なことが提示されていたのである。

司馬はこの作品の執筆理由の一つとして「忠三郎さんとタカジというひとたちの跫音を、なにがしか書くことによってもう一度聴きたいという欲求があった」と書いているが、彼らは大正時代に青春を過ごした司馬自身の父親と同じ世代の人々であり、さらに司馬は忠三郎の父親の世代である正岡子規や律などを調べることによって、明治以降の三代の世代をも再考察しているのである。

この意味で注目したいのは、この作品では大正時代に生きた人々が主人公として選ばれていることに注目した評論家の小林竜雄氏が、この小説には「さりげなく隠されたものもある」とし、「司馬遼太郎自身の父親」のテーマも根底にあることを指摘していたことである(*9)。まず、小林氏は「誄詩」の章で短く触れられた次の文章に注意を向けている。「私の身辺にも、タカジよりすこし年上の父が、食道や気管にできた癌で入院していた。このとしは、その種のことで多忙だった。父は、忠三郎さんやタカジが亡くなってから、ほどなく死んだ」。

そして、小林氏は司馬の父「是定は頑固な父・惣八のせいで、江戸期のように寺子屋で学ばされ中学校にも行けなかった。そこで独立して試験を受け薬剤師となったのである。そこには”明治の父”に振り回された”大正の父”の姿があった」とし、「司馬はその父の『跫音』もこの物語から聞いていたのだろう」と書いた。

司馬の内面にも踏み込んだ鋭い指摘であり、大正末期に生まれた司馬が昭和初期に青春を迎えていることを考慮するならば、ここには明治から昭和にいたるまでの市井の人々の生き方が淡々と描かれているといっても過言ではないのである。クリミア戦争に負けて価値が混乱したロシアでは、価値観を巡る世代間の対立が激化して、ツルゲーネフの『父と子』やドストエフスキーの『虐げられし人々』などの作品が書かれたが、『ひとびとの跫音』においても大正時代に青春を過ごした忠三郎と父親の世代の子規や加藤拓川との関わりや、さらに忠三郎の子供の世代ともいえる大岡昇平や司馬遼太郎の世代にいたる三代の青春が描かれていることに気づく。

実際、司馬は忠三郎が中学校二年の一九一四年に、日本が日独戦争と呼んだ第一次世界大戦が始まったこと、司馬が生まれた一九二三年(大正一二)には関東大震災があったこと、忠三郎が就職した一九二七年(昭和二)には、「金融恐慌が進行して」いたこと、さらに忠三郎があや子と結婚した一九三七年が日中戦争の勃発の年であったことなど、個人の体験を日本史の流れの中に位置づけつつ描いているのである。

ただ、小林氏は司馬の父是定を「”明治の父”に振り回された”大正の父”」としたが、単に「振り回された」と言い切れるだろうか。司馬は最後の章「誄詩」で、「この稿の主題は」、「子規から『子規全集』まで」というべきものであったかと思っているとしているが、「言語についての感想(七)」という随筆や『坂の上の雲』のあとがきで司馬は正岡子規や徳冨蘆花の小説と出会ったのは、父親が買った全集によってであったと記しているのである(*10)。

すなわち、司馬はここで「私は少年のころ、父の書架に、正岡子規と徳冨蘆花の著書またはそれについての著作物が多く、つい読みなじんだ。この二人はほぼ同時代でありながら文学的資質に共通点を見出すことがむずかしい。また明治国家という父権的重量感のありすぎる国家にともに属しつつも、それへの反応はひどくちがっていた」と記して子規だけでなく、蘆花の全集にもふれていた。そして司馬は「蘆花の父一敬は横井小楠の高弟で、肥後実学を通じての国家観が明快であった人物で、蘆花にとって一敬そのものが明治国家というものの重量感とかさなっているような実感があったようにおもわれる」とし、「また父の代理的存在である兄蘇峰へも、一敬に対する嫌悪と同質のものがあり、しだいに疎隔してゆき、晩年は交通を絶った」と続けて父や兄との世代間の葛藤や対立にもふれていたのである(Ⅷ・「あとがき五」)。

つまり、「私事」としてあまり強くは語られてはいないが、「生涯、記録に値するような事跡はみごとなほどのこさなかった」が、「そのことでかえっていぶし銀のような地張りを感じさせてしまう」市井のひと、忠三郎という人物の姿は、強烈な個性を持ち、政府の欧化政策に反抗して学校にも入れなかった祖父のもとで、あまり反抗的な自己主張はしなかったが、子規や蘆花の全集を買い求めて読み込んでいた父親への思いが重なっていたように思えるのである。

徳冨蘆花は日露戦争後に書いた「勝利の悲哀」と題するエッセーにおいて、「一歩を誤らば、爾が戦勝は即ち亡国の始とならん、而して世界未曾有の人種的大戦乱の原とならん」と強い危機感を表明していた(*11)。

司馬も「勇気あるジャーナリズム」が、「日露戦争の実態を語っていれば」、「自分についての認識、相手についての認識」ができたのだが、それがなされなかったために、日本各地で日本政府の弱腰を責めたてる「国民大会が次々に開かれ」、放火にまで至ることになったと記して、ナショナリズムを煽り立てる報道の問題を指摘した(*12)。さらに『この国のかたち』の第一巻において司馬は、戦争の実態を「当時の新聞がもし知っていて煽ったとすれば、以後の歴史に対する大きな犯罪だったといっていい」と記して、当時の新聞報道を厳しく批判した。

蘇峰が『蘇峰自伝』の「戦時中の言論統一と予」と題した節で、「予の行動は、今詳しく語るわけには行かぬ」としながらも、戦時中には桂内閣の後援をして「全国の新聞、雑誌に対し」、内閣の政策の正しさを宣伝することに努めていたと書いていることを考えるならば、司馬の鋭い批判は、蘇峰と彼の『国民新聞』に向けられていたと言っても過言ではないだろう。実際、ビン・シン氏の考察によれば、「そうなら国民に事情を知らせて諒解させれば、あんな騒ぎはなしにすんだでしょうに」と問い質した蘆花に対して、蘇峰は「お前、そこが策戦(ママ)だよ。あのくらい騒がせておいて、平気な顔で談判するのも立派な方法じゃないか」として、敵と交渉をするためには味方を欺くことも必要だと答えていたのである(*13)。

しかも、天皇機関説論争が激しさを増した一九三五年(昭和一〇)に「第一天皇機関などと云ふ、其の言葉さへも、記者は之を口にすることを、日本臣民として謹慎す可きものと信じてゐる」と徳富蘇峰が書いていることを紹介した評論家の立花隆氏は、明治四五年に美濃部の『憲法講話』が公刊された際にも、すでに蘇峰の『国民新聞』に「美濃部説は全教育家を誤らせるもの」という批判記事が載っていたことを記している(*14)。

実際、歴史家の飛鳥井雅道氏によれば、この記事の筆者は「しきりに乱臣賊子にあらざることを弁解するに力(つと)むるも、其言説文字は、則ち帝国の国体と相容れざるもの多々なり」として美濃部達吉を厳しく批判し、『国民新聞』も社説などで美濃部の説を「遂に国家を破壊せざれば、已まざるなり」とした職を去ることを強く求めるキャンペーンを行っていたのである(*15)。

『ひとびとの跫音』においてもタカジと父親との対立も描かれていることを考えるならば、私たちはこの小説に「さりげなく隠された」テーマとして日露戦争後に平和を主張した蘆花と蘇峰の対立の問題も考慮にいれる必要があるだろう。

ところで司馬はこの小説について「歴史小説などとは違い、主人公たちは、ついさっきまで市井(しせい)を歩いていたのですからまずファクト(事実)がある。だから読めば気楽に読めますけれど、一点一画もおろそかにしてはいけないという気持ちで執筆しました」(太字引用者)と書いていた。

この言葉の意味は非常に重く、司馬遼太郎の歴史認識と作風の変化自体にもかかわっていると思える。この意味で注目したいのは、司馬が歴史小説を書き始めた頃に司馬が「私の小説作法」として、自分が鳥瞰的な手法をとることを明言していたことである。「ビルから、下をながめている。平素、住みなれた町でもまるでちがった地理風景にみえ、そのなかを小さな車が、小さな人が通ってゆく。そんな視点の物理的高さを私はこのんでいる。つまり、一人の人間をみるとき、私は階段をのぼって行って屋上へ出、その上からあらためてのぞきこんでその人を見る。同じ水平面上でその人を見るより、別なおもしろさがある」(*16)。

司馬の歴史小説のおもしろさの一端がここにあったのは間違いないだろう。磯田道史氏は蘇峰や司馬の歴史観が「大衆から圧倒的支持をうけた」と指摘し、「支持された理由は簡単である。ものの見方が実に大局的であり、わかりやすい言葉で語りかけたからである」と説明していた(*17)。実際、多くの読者が書き手である司馬と同じ歴史上の場面を見ながら、司馬の断言的で明快な解説により、それまで複雑で難解だと思っていた歴史に対する興味を持つようになったのである。

ただ、司馬は「鳥瞰的な手法」で歴史を描くとしたが、そのような視野を得るためには何らかの「基準」や「史観」が必要とされていたはずであり、それなくしては上からの風景は単なる「無秩序」になったと思える。それゆえ、「皇国史観」や「唯物史観」という特定の見方からの歴史観を排しつつ、『竜馬がゆく』など「国民国家」を形成する歴史上の人物を主人公とする作品を描き始めたとき、司馬自身はあまり意識していなかったにせよ、彼が依拠していたのは「自由や個性」を重視していた福沢諭吉の歴史観だったと思える。

しかし、すでにドストエフスキーが『地下室の手記』において厳しく批判していたように、福沢諭吉が依拠したバックルの『イギリス文明史』などの近代西欧の歴史観では、「文明」による「野蛮」の征伐が「正義の戦争」として認められており、また、「国益」が重視されることにより、個人間の場合の道徳とは異なり、自国の「国益」にかなわない「事実」は無視されるか、「事実」とは反対のことさえも主張されていたのである(*18)。

このことに気づいたあとでの執筆上の苦悩を司馬は『坂の上の雲』の中頃、正岡子規の死を描いた「十七夜」の次の章の冒頭でも次のようにうち明けている。「この小説をどう書こうかということを、まだ悩んでいる。/子規は死んだ。/好古と真之はやがては日露戦争のなかに入ってゆくであろう。/できることならかれらをたえず軸にしながら日露戦争そのものをえがいてゆきたいが、しかし、対象は漠然として大きく、そういうものを十分にとらえることができるほど、小説というものは便利なものではない(太字引用者、Ⅲ・「権兵衛のこと」)。

そして司馬は第四巻のあとがきでは、「当時の日本人というものの能力を考えてみたいというのがこの作品の主題だが、こういう主題ではやはり小説になりにくい」と記し、その理由としてこのような小説は「事実に拘束される」が、「官修の『日露戦史』においてすべて都合のわるいことは隠蔽」されていることを挙げるようになるのである。

ここには大きな歴史認識の変化が現れているといえるだろう。つまり、後期「福沢史観」と決別したとき司馬は、比喩的にいえば、羽を失って飛べなくなった鳥と同じ様に鳥瞰的な視野を失ったのである。こうして司馬は「国家」の作成による「歴史」ではなく、日露の歴史書を比較しながら自ら判断して書かざるをえないという事態と直面したのである。

それゆえ、『坂の上の雲』を書き終えた司馬遼太郎にとって、大きな課題として残されたのは、「国民」を幸せにすることを約束しつつ、富国強兵に邁進して「国民」を戦争や植民地の獲得へと駆り立てた近代西欧の「国民国家史観」や、そのような歴史観に対抗するために、「自国を神国」と称する一方で、「鬼畜米英」に対する防衛戦争の必然性を唱えて無謀な「大東亜戦争」へと突入することになった「皇国史観」に代わる歴史観を模索し、それを提示するという重たい課題であったと思われる。

この意味で注目したいのは、評論家の関川夏央氏との対談で歴史家の成田龍一氏が「『ひとびとの跫音』は時として異色の作品といわれることもあるようですが、私は非常に司馬遼太郎らしい作品だと読みました。同時にここでは司馬遼太郎が一九八〇年前後に新たな試みをはじめている」ことに注意を向けるとともに、司馬自身が登場人物の一人となっていることにも注意を促していることである(*19)。

つまり、この作品で司馬は鳥瞰的な視点から人物や歴史を描いているのではなく、司馬遼太郎自身が同じ平面にたって彼らと対話を交わしながらこれらの人物を描いているのである。そしてこの作品では司馬自身も自分が敬愛した正岡子規を同じように敬愛し、「子規全集」を出版しようとする熱意に燃えるひとびととの交友をとおして、新しい歴史観と文明観を提示し始めていたのである。

 

註(2)

* 8 藤沢周平「遠くて近い人」『司馬遼太郎の世界』、一九九六年

* 9 小林竜雄『司馬遼太郎考――モラル的緊張へ』中央公論社、二〇〇〇年

*10 司馬遼太郎『この国のかたち』第六巻、三二七頁

*11 徳冨蘆花「勝利の悲哀」『明治文学全集』(第四二巻)、筑摩書房、昭和四一年、三六七頁

*12 司馬遼太郎『「昭和」という国家』NHK出版、一九九八年、三六頁

*13 ビン・シン『評伝 徳富蘇峰――近代日本の光と影』、杉原志啓訳、岩波書店、一九九四年、および徳富蘇峰『蘇峰自伝』中央公論社、昭和一〇年参照

*14 立花隆『天皇と東大――大日本帝国の生と死』文藝春秋、二〇〇六年、下巻・一三五頁、上巻・四三四頁

*15 飛鳥井雅道『明治大帝』講談社学術文庫、二〇〇二年、四七~五一頁。なお、日露戦争後の教育をめぐる状況については、高橋『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』東海教育研究所、二〇〇五年参照

*16 司馬遼太郎『歴史と小説』集英社文庫、一九七九年(初出は一九六四年)、二七五~六頁

*17 磯田道史、前掲エッセー、二二頁

*18 科学的な装いをこらした西欧近代の「自国中心的」な歴史観に対するドストエフスキーの批判については、高橋「『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』第四章参照(刀水書房、二〇〇二年)

*19 関川夏央・成田龍一「(特別対談)『ひとびとの跫音』とは何か ある大正・昭和の描き方」(『文藝別冊 司馬遼太郎 幕末・近代の歴史観』河出書房新社、二〇〇一年、四〇頁、四八頁