高橋誠一郎 公式ホームページ

憲法

衆議院憲法審査会の見解と安倍政権の「無法性」

今月4日に衆議院憲法審査会で行われた参考人質疑では、民主党推薦や維新の党推薦の2人の憲法学者だけでなく、自民党、公明党、次世代の党が推薦した学者も含めて3人の参考人全員によって、安倍政権による「新たな安全保障関連法案」は「憲法違反」との見解が示されました。

これによって国民からの批判も強かった「新たな安全保障関連法案」は、廃案になるものと考えていましたが、新聞各紙の報道によれば、安倍内閣の閣僚が相次いで、学者の参考意見は考慮するに値しないとの発言を行っているようです。

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「国民の声」を無視して強引に沖縄・辺野古基地の拡大を進め、古代の人々が「天の声」として怖れた自然からの警告である地震や火山活動の活発化にも関心を払わずに、原発の再稼働を進める安倍政権の危険性をこれまで私はこのブログで指摘してきました。

私は法律に関しては素人ですが、「法体系上で他の規範(法)と比較して優越性が明確な表記を持つ」とされる「憲法」をないがしろにする閣僚の相次ぐ発言は、この政権の「無法性」を物語っているように思えます。

現在の「憲法」はアメリカのGHQによって制定された「押しつけ憲法」なので、「自主憲法」を制定しないといけないと安倍政権は主張しているようです。

もしそうならば、安倍政権がまず行わなければ成らないのは、「自国民の声」には耳を貸さずに強権的に振る舞う一方で、「アメリカの議会」にまず約束をしてから「国会」での議論を始めるような、卑屈で追従的な外交を行う政権自体の解散ではないでしょうか。

リンク→安倍首相の国家観――岩倉具視と明治憲法

安倍首相の国家観――岩倉具視と明治憲法

昨日の朝のニュースで安倍首相が施政方針で岩倉具視に言及した演説を聞いた時には思わず耳を疑い、次いでその内容に戦慄を覚えました。

ただ、どの新聞もあまりそのことには触れていなかったので、空耳かとも思ったのですが、よく読むとやはり語られていました。たとえば、「施政方針演説 安保、憲法語らぬ不実」と題した社説で「東京新聞」は、首相が「幕末の思想家吉田松陰、明治日本の礎を築いた岩倉具視、明治の美術指導者岡倉天心、戦後再建に尽くした吉田茂元首相」の四人の言葉を引用したことを伝えています。

そして、憲法についても「『改正に向けた国民的な議論を深めていこう』と呼び掛けてはいるが、具体的にどんな改正を何のために目指すのか、演説からは見えてこない。…中略…首相演説では全く触れず、成立を強行した特定秘密保護法の前例もある。語るべきを語らぬは不誠実である」と結んでいます。

少し長くなりますが、「時事ドットコム」により私が戦慄を覚えた箇所を全文引用した後で、司馬作品の研究者の視点から憲法との関連で首相演説の問題点を指摘するようにします。

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【1・戦後以来の大改革】

「日本を取り戻す」/ そのためには、「この道しかない」/ こう訴え続け、私たちは、2年間、全力で走り続けてまいりました。/ 先般の総選挙の結果、衆参両院の指名を得て、引き続き、首相の重責を担うこととなりました。/  「安定した政治の下で、この道を、さらに力強く、前進せよ」 / これが総選挙で示された国民の意思であります。/ 全身全霊を傾け、その負託に応えていくことを、この議場にいる自由民主党および公明党の連立与党の諸君と共に、国民の皆さまにお約束いたします。  経済再生、復興、社会保障改革、教育再生、地方創生、女性活躍、そして外交・安全保障の立て直し。/ いずれも困難な道のり。「戦後以来の大改革」であります。しかし、私たちは、日本の将来をしっかりと見定めながら、ひるむことなく、改革を進めなければならない。逃れることはできません。 /

明治国家の礎を築いた岩倉具視は、近代化が進んだ欧米列強の姿を目の当たりにした後、このように述べています。 /  「日本は小さい国かもしれないが、国民みんなが心を一つにして、国力を盛んにするならば、世界で活躍する国になることも決して困難ではない」 /  明治の日本人にできて、今の日本人にできない訳はありません。今こそ、国民と共に、この道を、前に向かって、再び歩み出す時です。皆さん、「戦後以来の大改革」に、力強く踏み出そうではありませんか。

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しかし、安倍首相は『世に棲む日日』や『竜馬がゆく』などの司馬作品の愛読者だと語っていましたが、その安倍氏が「改革」の方向性を示す人物として挙げた岩倉具視について司馬氏は、『翔ぶが如く』の第2巻でこう描いています。

「岩倉は明治四年に特命全権大使として大久保や木戸たちとともに欧州を見てまわったのだが、この人物だけは欧州文明に接してもなんの衝撃もうけなかった。(中略

かれの欧州ゆきの目的のひとつはヨーロッパの強国を実地にみてそれを日本国の建設の参考にしようというところにあったはずだが、ところがどの国をみても岩倉というこの権謀家は感想らしい感想をもたなかった。北欧の小国をみて日本の今後のゆき方についての思考材料にしてもよさそうであったが、しかしべつに何事もおもわなかった。岩倉には物を考えるための基礎がなかった。かれは日本についての明快な国家観ももっておらず、世界史の知識ももたなかった。」

その後で司馬氏はこう続けているのです

「岩倉がかろうじて持っている思想は、/ 『日本の皇室をゆるぎなきものにする』/ いうだけのもので、極端にいえば岩倉には国家というものも国民もその実感としてはとらえられがたいものになっていた。おおかたの公卿がそうであろう。」

そのような岩倉の理念を受け継いだ人物として司馬氏が注意を促したのが、長州出身の山県有朋なのです。

少し長くなりますが、安倍首相の憲法観を考える上でも重要だと思えますので、その核心部分を引用しておきます。

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「『国家を護らねばならない』

と山県は言いつづけたが、実際には薩長閥をまもるためであり、そのために天皇への絶対的忠誠心を国民に要求した。(中略)

大久保の死から数年あとに山県が内務卿(のち内務大臣)になり、大久保の絶対主義を仕上げるとともに大久保も考えなかった貴族制度をつくるのである。明治十七年のことである。華族という呼称をつくった。(中略)

『民党(自由民権党)が腕力をふるって来れば殺してもやむをえない』

とまでかれは言うようになり、明治二十年、当時内務大臣だったかれは、すべての反政府的言論や集会に対して自在にこれを禁止しうる権限をもった。(中略)

天皇の権威的装飾が一変するのは、明治二十九年(一八九六年)五月、侯爵山県有朋がロシア皇帝ニコライ二世の戴冠式(たいかんしき)に日本代表として参列してからである。(中略)

山県は帰国後、天皇をロシア皇帝のごとく荘厳すべく画期的な改造を加えている。歴史からみれば愚かな男であったとしかおもえない。ニコライ二世はロシア革命で殺される帝であり、この帝の戴冠式のときにはロシア帝室はロシア的現実から浮きあがってしまっていた時期なのである。」

その後で、温厚な司馬氏には珍しく火を吐くように激しい文章を叩きつけるように記しています

「日本に貴族をつくって維新を逆行せしめ、天皇を皇帝(ツァーリ)のごとく荘厳し、軍隊を天皇の私兵であるがごとき存在にし、明治憲法を事実上破壊するにいたるのは、山県であった。」

重厚で深みのある司馬氏の文章とは思えないような記述ですが、それは学徒出陣でほとんど生還することが難しいとされた満州の戦車隊に配属されたことで「昭和別国」の現実を直視することになったためでしょう。

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「日本を取り戻す」  そのためには、「この道しかない」  こう訴え続け、私たちは、2年間、全力で走り続けてまいりました。

と施政方針演説で語った安倍氏は、次のように続けていました。

「安定した政治の下で、この道を、さらに力強く、前進せよ」  これが総選挙で示された国民の意思であります。

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安倍政権がこの2年間、国民の声を無視して原発の推進や沖縄の基地建設を強行してきたことを考慮するならば、戦前のスローガンを思わせるような響きを持つ「日本を取り戻す」という安倍氏の言葉は、民主主義を打倒して「貴族政治を取り戻す」ことを意味しているのではないかという危惧の念さえ浮かんできます。

 

「ダメよ~ダメダメ」、「集団的自衛権」

今年話題になった言葉に贈られる「ユーキャン新語・流行語大賞」が発表されました。年間大賞にお笑いコンビ日本エレキテル連合の「ダメよ~ダメダメ」と、安倍内閣が7月に行使容認を閣議決定した「集団的自衛権」が選ばれたとのことです。

いつもはあまり関心を払っていなかったのですが、総選挙を控えた今年の流行語大賞は、「アベノミクス」の陰で安倍政権が決めた「集団的自衛権」の危険性を、期せずしてわさびの聞いた言葉で見事に表現する結果になっていると思います。

総選挙でもこの庶民感覚を活かして、「集団的自衛権」だけでなく「特定秘密保護法」をも閣議で決定した安倍政権に、NO を突きつけましょう。

リンク→総選挙と「争点」の隠蔽

追記:

「集団的自衛権」が持つ重大な危険性については、外国での「カミカゼ」の認識と評価との関連で言及する予定ですが、過去のブログでも言及していた記事がありましのでリンク先を示しておきます。

リンク→「集団的自衛権の閣議決定」と「憲法」の失効 (2014年7月2日)

「長崎原爆の日」と「集団的自衛権」(8月10日)

 

 

 

安倍政権と「報道」の問題

以前のブログにも記しましたが、執筆中の拙著『司馬遼太郎の視線(まなざし)――子規と「坂の上の雲」と』(仮題、人文書館)では新聞記者でもあった作家・司馬遼太郎氏が俳人・正岡子規の成長をどのように描き、子規の視線(まなざし)をとおして日露戦争をどのように分析しているかを考察しています。

子規との関連で新聞『日本』の性格についても調べているのですが、その中で強く感じるのは明治六年に設立された「内務省」や明治八年に制定されて厳しく言論を規制した「新聞紙条例」や「讒謗律(ざんぼうりつ)」によって言論が規制され、何度も発行停止などの厳しい処分を受けながら、言論人としての節を曲げずに、経済的に追い詰められながらも新聞を発行し続けた社主・陸羯南などの明治人の気概です。

いつ倒産するかも分からない新聞社に入社した正岡子規も給与が安いことを卑下することなく、むしろそのような新聞の記者であることを「誇り」として働いていたのです。

司馬氏は『坂の上の雲』の「あとがき」で、ニコライ二世の戴冠式に招かれて「ロシア宮廷の荘厳さ」に感激した山県有朋が日本の権力を握ったことが、昭和初期の「別国」につながったことも示唆していました。それは明治の人々が当時の「独裁政権」に抗してようやく勝ち取った「憲法」がないがしろにされることで、「国民」の状態が「憲法」のないロシア帝国の「臣民」に近づいたということだと思えます。

新聞記者だった司馬氏が長編小説『坂の上の雲』を書いた大きな理由は、冷厳な事実をきちんと調べて伝える「新聞報道」の重要性を示すためだったと私は考えています。

昨年の参議院選挙の頃にもそのようなことを強く思ってHPを立ち上げていたので、汚染水の流出と司馬氏の「報道」観について記したブログ記事を再掲し、その後で『日刊ゲンダイ』のデジタル版に掲載された〈朝日「吉田調書」誤報騒動のウラで東電が隠してきた“事実” 〉という記事を紹介することにします。

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 汚染水の流出と司馬氏の「報道」観(2013年7月28日 )

日本には「人の噂も75日」ということわざがあるが、最近になって発覚した事態からは、同じことが再び繰り返されているという感じを受ける。

参議院選挙後の22日になって放射能汚染水の流出が発表されたが、報道によれば「東電社長は3日前に把握」していたことが明らかになり、さらに27日には福島第一原発2号機のタービン建屋地下から延びるトレンチに、事故発生当時とほぼ同じ1リットル当たり計23億5000万ベクレルという高濃度の放射性セシウムが見つかったとの発表がなされた。

汚染水の流出の後では、この事実の隠蔽に関わった社長を含む責任者の処分が発表されたが、問題の根ははるかに深いだろう。

たとえば、参議院選挙を私は、「日本の国土を放射能から防ぐという気概があるか否か」が問われる重大な選挙だと考えていた。しかしほとんどのマスコミはこの問題に触れることを避けて、「衆議院と参議院のねじれ解消」が最大の争点との与党寄りの見方を繰り返して報道していた。

「臭い物には蓋(ふた)」ということわざもある日本では、「見たくない事実は、眼をつぶれば見えなくなる」かのごとき感覚が強く残っているが、事実は厳然としてそこにあり、眼をふたたび開ければ、その重たい事実と直面することになる。

このことを「文明論」的な視点から指摘していたのが、歴史小説家の司馬遼太郎氏であった。再び引用しておきたい(「樹木と人」『十六の話』)。

チェルノブイリでおきた原子炉事故の後で司馬氏は、「この事件は大気というものは地球を漂流していて、人類は一つである、一つの大気を共有している。さらにいえばその生命は他の生物と同様、もろいものだという思想を全世界に広く与えたと思います」と語っていた(傍線引用者)。

さらに司馬氏は、「平凡なことですが、人間というのはショックが与えられなければ、自分の思想が変わらないようにできているものです」と冷静に続けていた。

きれいな水に恵まれている日本には、過去のことは「水に流す」という価値観も昔からあり、この考えは日本の風土には適応しているようにも見える。

だが、広島と長崎に原爆が投下された後では、この日本的な価値観は変えねばならなかったと思える。なぜならば、放射能は「水に流す」ことはできないからだ。

チェルノブイリの原子力発電所は「石棺」に閉じ込めることによってなんとか収束したが、福島第一原子力発電所の事故は未だに収束とはほど遠い段階にあり、「海流というものは地球を漂流して」いる。

日本人が眼をつぶっていても、いずれ事実は明らかになる。(後略)

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 朝日「吉田調書」誤報騒動のウラで東電が隠してきた“事実” (日刊ゲンダイ)

「東電はまだまだ重要な事実を隠している」──あの未曽有の事故から3年8カ月。原発事故情報公開弁護団が1枚のファクスから新たな疑惑を発掘した。福島第1原発の2号機が危機的状況に陥っていた3月15日の朝、東電本店が姑息な隠蔽工作を行っていた疑いが浮き彫りとなった。

問題のファクスは、当日午前7時25分に福島第1原発の吉田昌郎所長が原子力安全・保安院に送信したものだ。現在も原子力規制委のホームページに公開されている。ファクスにはこう記されている。

〈6時~6時10分頃に大きな衝撃音がしました。準備ができ次第、念のため『対策本部』を福島第2へ移すこととし、避難いたします〉

今まで重要視されることのなかったファクスだが、きのうの会見で弁護団が突きつけた「新事実」は傾聴に値する。メンバーの海渡雄一氏はこう言った。

「『対策本部』自体を福島第2へ移すことは、第1に人員が残っていたとしても、彼らは対策の主力ではなくなる。まぎれもなく『撤退』だと考えられます」

■まぎれもなく「撤退」

となると、朝日新聞が「誤報」と認めた「吉田調書報道」に新たな解釈が生じる。朝日の第三者機関「報道と人権委員会(PRC)」は、当該記事が「撤退」と断定的に報じたことを問題視。今月12日に「『撤退』という言葉が意味する行動はなかった。第1原発には吉田所長ら69人が残っており、対策本部の機能は健在だった」とする見解をまとめ、「重大な誤りがあり、記事取り消しは妥当」と断じたが、いささか早計すぎたのではないか。

まず結論ありきで、「PRCは『撤退はなかった』と言い切るだけの根拠を調べ抜いたのか。重大な疑念が生じる」(海渡氏)と非難されても仕方ない。 問題にすべきは東電の隠蔽体質の方だ。当日午前8時30分に行われた本店の記者会見では、作業員650人の移動先を「第1原発の安全な場所」と発表。第2原発に移動した事実には一切触れなかった。

「吉田所長のファクスは『異常事態連絡様式』という公式な報告書で、本店が内容を把握していないわけがありません。『撤退』した事実の隠蔽を疑わざるを得ません」(海渡氏)

同じくメンバーで弁護士の小川隆太郎氏はこう話した。

「政府はまだ当日、現場にいた作業員ら771人分の調書を開示していない。今後、明らかにしていくべきです」

福島原発事故の真相はまだ闇に包まれたままだ。

         (2014年11月19日/『日刊ゲンダイ』/デジタル版)

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リンク先→

真実を語ったのは誰か――「日本ペンクラブ脱原発の集い」に参加して

原発事故の隠蔽と東京都知事選

復活した「時事公論」と「特定秘密保護法」

グラースノスチ(情報公開)とチェルノブイリ原発事故

 

総選挙と「争点」の隠蔽

年末が近づく中、衆議院が解散されて12月14日に総選挙が行われることになりましたが、昨日の「東京新聞」朝刊の第2面には、「秘密法・集団的自衛権」は、「争点にならず」とした菅官房長官の会見の短い記事が掲載されていました。

「菅義偉官房長官は19日の記者会見で、集団的自衛権の行使容認に踏み切った7月の閣議決定や、12月10日に施行される特定秘密保護法の是非は次期衆院選の争点にはならないとの認識を示した。/ 集団的自衛権行使に関し「自民党は既に憲法改正を国政選挙の公約にしており(信を問う)必要はない。限定容認は現行憲法の解釈の範囲だ」と強調した。秘密保護法についても「いちいち信を問うべきではない」と指摘した。/ 同時に「何で信を問うのかは政権が決める。安倍晋三首相はアベノミクスが国民にとって最も大事な問題だと判断した」と述べた。

この発言からは「汚染水」の問題が深刻な問題となっていたにもかかわらず、その事実が隠されたままで行われた昨年7月の参議院議員選挙のことが思い起こさせられます

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安倍首相は国際社会にむけて「汚染水」の問題は「アンダーコントロール」であると宣言することで国民にも安全性を訴えていましたが、今朝の「東京新聞」には以前から指摘されていた「汚染水の凍結止水」という方法が無理だということが判明し、東京電力が新たな方法を模索し始めたという記事が載っています。

この汚染水の問題だけでなく、十分な国民的議論もなく安倍政権が強引な手法で進めている「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」と「憲法」と教育の問題、さらには公約を破って交渉が進められているTPPの問題などは、いずれも「国民の生命や財産」や国際情勢、さらには地球環境にかかわる重要な問題です。

私は原発事故の重大さを「隠蔽」したままで原発の推進などを行っている安倍政権と、「国民」には重要な情報を知らせずに戦争の拡大に踏み切った第二次世界大戦時の参謀本部との類似性を感じており、このままでは経済の破綻や大事故が起きた後で、国民がようやく事実を知ることになる危険性が大きいと思っています。

原稿などに追われているこの時期にブログ記事を書くのはつらいのですが、なにも発言しないことは文学者として責任を欠くことになりますので、これまでのブログ記事も引用しながら、何回かに分けて以下の問題について私見を記すことにします。

安倍政権と「報道」の問題/アベノミクス(経済至上主義)と汚染水の問題/「特定秘密保護法」と原発事故の「隠蔽」/「集団的自衛権」と「カミカゼ」の問題/「憲法」と教育の重要性(仮題)

   11月22日、〈安倍政権の政策と「争点」の隠蔽〉より改題

「広島原爆の日」と映画《モスラ》の「反核」の理念

69回目の「広島原爆の日」の今日、広島市中区の平和記念公園では平和記念式典が営まれました。

以下に「東京新聞」によって、その式典の式辞の内容を振り返っておきます。

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「松井市長は原爆を「子どもたちから温かい家族の愛情や未来の夢を奪った『絶対悪』」と強調。武力ではなく、未来志向の対話が重要だとし「被爆者の人生を自身のこととして考え、行動を」と呼び掛け、政府に対しても「名実ともに平和国家の道」を歩み続けるように求め、被爆地として核兵器廃絶への積極的な取り組みをあらためて世界に訴えた」。

 その一方で、「大きな議論を巻き起こした集団的自衛権行使容認には直接言及せず」、「東日本大震災と東京電力福島第一原発事故が発生した二〇一一年から、毎年述べてきた被災地への思いや原発、エネルギー政策にも触れなかった」。

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それは「広島原爆の日」の前日にあたる昨日、これまでは「集団的自衛権行使について『憲法九条で許容される範囲を超えるものであり、許されない』と明記」されてきた「項目を削除」し、「集団的自衛権」を高らかに主張した安倍内閣の「防衛白書」に配慮したためだと思える。

すなわち、「小野寺五典防衛相は五日の閣議で、二〇一四年版防衛白書を報告した」が、そこでは「集団的自衛権行使を容認した七月一日の閣議決定について『わが国の平和と安全を一層確かなものにしていくうえで、歴史的な重要性を持つ』と強調され」、さらに、「日本と密接な関係にある他国へ武力攻撃が発生し、国民の生命、権利が根底から覆される明白な危険がある場合に、必要最小限度の武力行使が許されるとした新たな三要件」が明記されていた。

 「さらに、半世紀近く武器や関連技術の海外提供を原則禁止してきた武器輸出三原則を廃止し、輸出を解禁した防衛装備移転三原則も紹介。国内の軍需産業の振興に向けて、米国などとの武器の共同開発を積極的に進め、軍事的な連携を強化する方針も盛り込んだ」この白書は、「日本を取り巻く安全保障環境が厳しさを増していると説明」し、具体的に中国などを名指しして批判していた(「東京新聞」8月5日夕刊)。

このような「軍事同盟」や「憲法」軽視の危険性については、日露戦争を詳しく分析した司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』を読み解くことで明らかにしたいと考えています(近刊『司馬遼太郎の視線(まなざし)――「坂の上の雲」と子規と』仮題、人文書館)。

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映画《ゴジラ》をめぐる対話で「核戦争の危機」について触れつつ、本多監督は「これを何とか話し合いができるようなところへね、ゴジラが出てこなきゃいけない。僕はそういうものがね、作品として描けるようになるならね、思いきって作りたいですけれども(後略)」と語っていました。

そのような思いで製作された映画《モスラ》(1961年)の理念を受け継いでいると思える《ゴジラ vs モスラ》が、昨日、テレビ東京で放映されました。その感想などを、映画《ゴジラ》考――「ゴジラ」の怒りと「核戦争」の恐怖 の第三回目として、近いうちにアップしたいと思います。

 リンク先→映画《モスラ》と「反核」の理念

    (8月8日、リンク先を追加)

 

「特定秘密保護法案に反対する学者の会」に賛同の署名を送りました

 

先ほど、「特定秘密保護法案に反対する学者の会」に賛同の署名を送りました。

「テロ」の対策を目的とうたったこの法案は、諸外国の法律と比較すると国内の権力者や官僚が決定した情報の問題を「隠蔽」する性質が強く、「官僚の、官僚による、官僚と権力者のための法案」とでも名付けるべきものであることが明らかになってきています。

それゆえ私は、この法案は21世紀の日本を「明治憲法が発布される以前の状態に引き戻す」ものだと考えています。

  

本来ならば、私が理事を務めている学会などに緊急の動議として提出し、反対の決議をして頂きたいのですが(この記事の公表はその提案も含んでいます)、時間がないので、まずは個々の会員の方に賛同を呼びかけます。

以下に、その声明文のコピーなどを掲載します。(現時点では、「東京新聞」「朝日新聞」「毎日新聞」などがこの記事を取り上げている事が報告されています)。

   *   *   *

 国会で審議中の特定秘密保護法案は、憲法の定める基本的人権と平和主義を脅かす立法であり、ただちに廃案とすべきです。
 特定秘密保護法は、指定される「特定秘密」の範囲が政府の裁量で際限なく広がる危険性を残しており、指定された秘密情報を提供した者にも取得した者にも過度の重罰を科すことを規定しています。この法律が成立すれば、市民の知る権利は大幅に制限され、国会の国政調査権が制約され、取材・報道の自由、表現・出版の自由、学問の自由など、基本的人権が著しく侵害される危険があります。さらに秘密情報を取り扱う者に対する適性評価制度の導入は、プライバシーの侵害をひきおこしかねません。
 民主政治は市民の厳粛な信託によるものであり、情報の開示は、民主的な意思決定の前提です。特定秘密保護法案は、この民主主義原則に反するものであり、市民の目と耳をふさぎ秘密に覆われた国、「秘密国家」への道を開くものと言わざるをえません。さまざまな政党や政治勢力、内外の報道機関、そして広く市民の間に批判が広がっているにもかかわらず、何が何でも特定秘密保護法を成立させようとする与党の政治姿勢は、思想の自由と報道の自由を奪って戦争へと突き進んだ戦前の政府をほうふつとさせます。
 さらに、特定秘密保護法は国の統一的な文書管理原則に打撃を与えるおそれがあります。公文書管理の基本ルールを定めた公文書管理法が2009年に施行され、現在では行政機関における文書作成義務が明確にされ、行政文書ファイル管理簿への記載も義務づけられて、国が行った政策決定の是非を現在および将来の市民が検証できるようになりました。特定秘密保護法はこのような動きに逆行するものです。
 いったい今なぜ特定秘密保護法を性急に立法する必要があるのか、安倍首相は説得力ある説明を行っていません。外交・安全保障等にかんして、短期的・限定的に一定の秘密が存在することを私たちも必ずしも否定しません。しかし、それは恣意的な運用を妨げる十分な担保や、しかるべき期間を経れば情報がすべて開示される制度を前提とした上のことです。行政府の行動に対して、議会や行政府から独立した第三者機関の監視体制が確立することも必要です。困難な時代であればこそ、報道の自由と思想表現の自由、学問研究の自由を守ることが必須であることを訴えたいと思います。そして私たちは学問と良識の名において、「秘密国家」・「軍事国家」への道を開く特定秘密保護法案に反対し、衆議院での強行採決に抗議するとともに、ただちに廃案にすることを求めます。
 
2013年11月28日

 

「著書・共著」の『この国のあした』の紹介にも、索引(事項、作品名、人名)と訂正を付けました

 

「著書・共著」の『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』に掲載した事項索引に続いて、『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』の紹介のページにも、索引(事項、作品名、人名)と訂正を付けました。

 

移動のお知らせ(2014年10月13日)

『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』の索引(事項、作品名、人名)を「索引」のページに移動しました。

 リンク先 

『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(事項索引)

『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(書名索引)

『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(人名索引)

               

        

なお、『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』の事項索引はカテゴリーごとに分類しましたので、司馬氏の広い歴史観の一端がより明白になったと思います。

戦争のカテゴリーは項目が多いので、ここでは憲法と法律の場合を例に挙げておきます。

 

憲法

オランダ~  33

恩寵の~ 178,180

恢復の~  178

帝国~ 66,67

明治~ 13,172,180,181

フィンランド~ 74,81

平和~ 13,180,181,182

ポーランド~  74

ワイマール~ 108

 

法制度  8

裁判  90,114

犯罪  4,114,115,180

賊子(乱臣)  79,80,174,181

不敬  78,79

大逆 90

刑罰  79,90

刑死  44

拷問  43,44,45

死刑  90

切腹  52

自然法  68

法律  8,42,90,163

讒謗律  8,60,62

新聞紙条例  8,60

断髪令  61,72

治安維持法  173

徴兵令  60

メディア規制法 8

保安条例  8

有事法 8

《風立ちぬ》と映画《少年H》――「《少年H》と司馬遼太郎の憲法観」を「映画・演劇評」に掲載しました

先日、妹尾河童氏の原作『少年H』を元にした映画《少年H》を見てきました。

夏休みも終わった平日の午前中ということもあり、観客の人数が少なかったのが残念でしたが、この映画からも宮崎駿監督の《風立ちぬ》と同じような感動を得ました。

映画《風立ちぬ》については、戦時中の問題点を示唆するシーンにとどまっており、反戦への深い考察が伝わってこないという批判があり、おそらくそれが、戦時中の苦しい時代をきちんと描いている映画《少年H》とのヒットの差に表れていると思います。

黒澤映画《生きものの記録》と司馬遼太郎氏の長編小説『坂の上の雲』などを比較しながら感じることは、問題点の本質を描き出す作品は一部の深い理解者を産み出す一方で、多くの観客や読者を得ることが難しいことです。

私としては問題点を描き出す《少年H》のような映画と同時に、大ヒットすることで多くの観客に問題点を示唆することができる《風立ちぬ》のような二つのタイプの映画が必要だろうと考えます。

ただ、司馬作品の場合に痛感したことですが、日本の評論家には作者が伝えようとする本当の狙いを広く伝えようとすることよりも、その作品を矮小化することになっても、分かりやすく説明することで作品の売り上げに貢献しようとする傾向が強いように感じています。

《風立ちぬ》のような作品も観客の印象だけにゆだねてしまうと、安易な解説に流されてしまう危険性もあるので、《風立ちぬ》に秘められている深いメッセージを取り出して多くの観客に伝えるとともに、《少年H》のような映画のよさを多くの読者に分かりやすく説明してその意義を伝えたいと考えています。

奇しくも、宮崎駿監督と妹尾河童氏は司馬遼太郎氏を深く敬愛していました。それぞれの映画のよさを再確認する上でも、《風立ちぬ》を見た人にはぜひ《少年H》をも見て、二つの映画を比較して頂きたいと思います。

リンク映画《少年H》と司馬遼太郎の憲法観

 

終戦記念日と「ゴジラ」の哀しみ

ゴジラ

(製作: Toho Company Ltd. (東宝株式会社) © 1954。図版は露語版「ウィキペディア」より)

68回目の終戦記念日が訪れました。

記念式典での「私たちは、歴史に対して謙虚に向き合い、学ぶべき教訓を深く胸に刻みつつ、希望に満ちた、国の未来を切りひらいてまいります。世界の恒久平和に、あたうる限り貢献し、万人が心豊かに暮らせる世を実現するよう、全力を尽くしてまいります」との安倍首相の式辞も報道されています。しかし、そこにはこれまで「歴代首相が表明してきたアジア諸国への加害責任の反省について」はふれられておらず、「不戦の誓い」の文言もなかったことも指摘されています(『日本経済新聞』ネット版)。

すでにブログにも記しましたが、8月6日の「原爆の日」に広島市長は原爆を「絶対悪」と規定し、9日の平和宣言では田上市長も、4月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議の準備委員会で、核兵器の非人道性を訴える80カ国の共同声明に日本政府が賛同しなかったことを「世界の期待を裏切った」と強く批判し、「核兵器の使用を状況によっては認める姿勢で、原点に反する」と糾弾していました。

安倍首相が美しい言葉を語っている時も、「原子力の平和利用」というスローガンによって政治家たちの主導で建設された福島第一原子力発電所事故は収束してはおらず、莫大な量の汚染水が国土と海洋を汚し続けているのです。

このような状況を見ながら強く感じたのは、終戦直後の日本政府の対応との類似性です。

8月11日付の『東京新聞』は、大きな見出しで「英国の核開発を主導し、『原爆の父』と呼ばれ、米国の原爆開発にも関与したウィリアム・ペニー博士」が、「日本への原爆投下から約四カ月後、『米国は放射線被害を(政治的な目的で)過小評価している』と強く批判していたことが」、「英公文書館に保管されていた文書で分かった」ことを報じるとともに、広島では放射線の影響で「推計十四万人」が、長崎でも「推計七万人四千人が死亡し」、「被爆の五~六年後には白血病が多発」するようになったことも記してアメリカによる隠蔽の問題を指摘していました。

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同じような隠蔽は一九五四年三月にビキニ沖で行われたアメリカの水爆実験によりで日本の漁船「第五福竜丸」が被爆するという事件の後で公開された映画《ゴジラ》でも行われていました。

『ウィキペディア』の「ゴジラ(1954年の作品)」という項目によれば、「アメリカのハリウッド資本に買い取られ」、テリー・モース監督のもと追加撮影と再編集がされたこの作品は、1956年に『怪獣王ゴジラ』(和訳)という題名で全米公開されましたが、「当時の時代背景に配慮したためか、「政治的な意味合い、反米、反核のメッセージ」は丸ごとカットされて」いました。

なぜならば、本多猪四郎監督は「ゴジラ」が出現した際のシーンでは、核汚染の危険性について発表すべきだという記者団と、それにたいしてそのような発表は国民を恐怖に陥れるからだめだとして報道規制をした日本政府の対応も描き出していたのです。

本多監督は、「原爆については、これは何回も言っているけど、ぼくが中国大陸から帰ってきて広島を汽車で通過したとき、ここには七十五年、草一本も生えないと聞きながら、板塀でかこってあって、向こうが見えなかったという経験があった」とも語っています。

しかし、広島・長崎の被爆による放射能の問題を占領軍となったアメリカの意向に従って隠蔽した日本政府は、その後もアメリカなどの大国が行う核実験などには沈黙を守り、「第五福竜丸事件」の際にも被害の大きさの隠蔽が図られ、批判者へのいやがらせなどが起きたのです。

それゆえ、映画《ゴジラ》には情報を隠蔽することの恐ろしさや科学技術を過信することへの鋭い警告も含まれていたといえるでしょう。

リンク→『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)

「ウィキペディア」によれば、「アメリカで正式な完全版の『ゴジラ』が上映されたのは2005年」とのことなので、アメリカの多くの国民は2005年にようやく「核実験」によって生まれた「ゴジラ」の哀しみを知ったといえるでしょう。

「平和憲法」がアメリカによって作られたと信じ、その「改変」を目指している安倍首相には、原爆の悲惨さと「ゴジラ」の哀しみにも日本人としてきちんと向き合ってほしいと願っています。

近著『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』(のべる出版企画)の発行に向けて

(2016年4月17日、改訂し図版を追加。6月21日、近著の紹介を追加)