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憲法

なぜ今、『罪と罰』か(4)――弁護士ルージンと19世紀の新自由主義

一、小林秀雄の『罪と罰』論と弁護士ルージン考察の欠如

熱気に包まれた小林秀雄の『罪と罰』論を何度か読み直すうちに、小林秀雄の評論からは『罪と罰』の重要なエピソードや人物が抜け落ちていることに気づきました。たとえば、小林秀雄の『罪と罰』論では、原作ではきちんと描かれていたラスコーリニコフやソーニャの家族関係はほとんど言及されていません。

さらに、ポルフィーリイとの対決をとおしてその危険性が鋭く示唆されている「非凡人の理論」は軽視されており、功利主義的な考えを主張してラスコーリニコフと激しく対立する弁護士ルージンにはほとんど触れられていないのです。

しかし、『罪と罰』という題名を持つこの長編小説の主人公であるラスコーリニコフが、元法学部の学生であるばかりでなく、犯罪者の心理について考察した彼の論文が法律の専門誌にも掲載されていると記されていることに留意するならば、妹ドゥーニャの婚約者であり、ラスコーリニコフと激論を交わすなど長編小説の筋においても重要な役割を果たしている弁護士のルージンについてふれないことは、小説の理解をも歪めることになるでしょう。

二、弁護士ルージンの「新自由主義的な」経済理論

ここでは『罪と罰』の記述に注意を払いながら、ラズミーヒンの反論をとおしてルージンの経済理論の問題点に迫ることにします。

注目したいのは、ルージンが衣服の例を出しながら、「今日まで私は、『汝の隣人を愛せよ』と言われて、そのとおり愛してきました。だが、その結果はどうだったでしょう? …中略…その結果は、自分の上着を半分に引きさいて隣人と分けあい、ふたりがふたりとも半分裸になってしまった」と主張していることです。

 そして、ルージンは「経済学の真理」という観点から「安定した個人的事業が、つまり、いわば完全な上着ですな、それが社会に多くなれば多くなるほど、その社会は強固な基礎をもつことになり、社会の全体の事業もうまくいくとね。つまり、もっぱらおのれひとりのために利益を得ながら、私はほかでもないそのことによって、万人のためにも利益を得、隣人にだって破れた上着より多少はましなものをやれるようになるわけですよ」と説明していたのです。

さらに、彼は「科学はこう言う。まず何ものよりも先におのれひとりを愛せよ、なんとなればこの世のすべては個人の利害にもとづくものなればなり」と主張し、「実に単純な思想なんだが、…中略…あまりにも長いことわれわれを訪れなかったのです」と結んでいました(2・5)。

三、ラズミーヒンの批判と「アベノミクス」のごまかし

一方、この場に居合わせてルージンの経済理論を聞いたラズミーヒンは「あなたが早いとこ自分の知識をひけらかしたかった気持ちは大いにわかる」が、「近ごろではその全体の事業とやらに、やたらいろんな事業家が手を出しはじめて、手あたりしだい、なんでもかでも自分の利益になるようにねじ曲げてしまうし、あげくはその事業全体を形なしにしてしまう状態ですからね」とルージンの理論を厳しく批判していました(太字は引用者)。

このようなラズミーヒンの説明は、「アベノミクス」やレーガン大統領の頃の経済理論であるレーガノミクスの理論的な支柱となった「トリクルダウン理論」の批判につながると思われます。

すなわち、「トリクルダウン理論」でも、結婚式などで用いられるシャンパングラス・ツリーの一番上のグラスにシャンパンを注ぐと、あふれ出たシャンパンは、次々と下の段のグラスに「滴り落ち」るように、最初に大企業などが利益をあげることができれば、次第にその利益や恵みは次々と下の階層の者にも「滴り落ちる」と説明されているのです。

しかし、頂点に置かれてシャンパンを注がれるグラス(大企業)は、大量のシャンパン(金)を注がれてますます巨大化するものの、それらを内部留保金として溜め込んでしまうのです。それゆえ、下に置かれたシャンパングラス(中小企業)や個人には、ほとんどシャンパン(金)が「滴り落ち」ずに、ますます貧困化していく危険性が強いのです。

そして、経済学の分野でも、「実証性の観点からは、富裕層をさらに富ませれば貧困層の経済状況が改善することを裏付ける有力な研究は存在しないとされている」だけでなく、レーガノミクスでは「経済規模時は拡大したが、貿易赤字と財政赤字の増大という『双子の赤字』を抱えることになった」ことも指摘されています。

このように見てくるとき、ドストエフスキーは後にソーニャを泥棒に仕立てようとする悪徳弁護士のルージンに、現代の「新自由主義」な先取りするような考えを語らせることにより、「富める者」の富を増やすことで貧乏人にもその富の一部が「したたる」ようになるとする「アベノミクス」のごまかしを暴露しているようにさえ思えます。

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(序)――「安倍談話」と「立憲政治」の危機

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(1)――「立憲主義」の危機と矮小化された『罪と罰』

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(2)――「ゴジラ」の咆哮と『罪と罰』の「呼び鈴」の音

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(3)――事実(テキスト)の軽視の危険性

「文化の日」の叙勲とブレア元首相のイラク戦争謝罪――安倍政権の好戦的な価値観

ここ数日は長崎で開催されていた「パグウォッシュ会議」に関連して、安倍政権の核政策を検証する記事を書いてきましたが、「文化の日」に異常な事態が起きていました。

「国民の祝日に関する法律」の(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、「日本国憲法」の精神に則って「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨として定められた「文化の日」に「大義なきイラク戦争を主導したラムズフェルド元国防長官とアーミテージ元国務副長官」に、日本政府は勲一等、「旭日大綬章」を贈っていたのです(「日刊ゲンダイ」11月5日デジタル版)。

*   *   *

一方、「大義なきイラク戦争」への英国の参戦を決定したブレア元首相は、10月25日に放映された米CNNのインタビューで『我々が受け取った情報が間違っていたという事実を謝罪する』」と述べていました。

このことを伝えた「朝日新聞」(デジタル版)は、次のように続けています。

〈英メディアによると、ブレア氏がイラク戦争に関して公に謝罪するのは初めて。

イラク戦争は「イラクが大量破壊兵器を開発している」との「証拠」を根拠として米国主導で始まった。しかしその後、これは虚偽だったと判明。ブレア首相の支持率は急落し、07年の退陣につながった。

今回のインタビューでブレア氏は「フセイン大統領(当時)は化学兵器を自国民らに大規模に使ったが、その計画は我々が思っていたようには存在しなかった」と述べたほか、政権崩壊後の混乱について、「政権排除後に何が起こるかについて、一部の計画や我々の理解に誤りがあった」とも認めた。さらに、イラク戦争が過激派組織「イスラム国」(IS)が台頭した主な原因かと問われると、「真実がいくぶんある」と答えた。〉

*   *   *

「安保関連法案」が「戦争法案」と呼ばれることを極端に嫌っていた安倍晋三氏は、国会での審議の際にもたびたび「レッテル貼り」と野党を批判していました。

日本政府に軍国化を迫るだけではなく、「第3次アーミテージ・リポート」では、「日本の原発再稼働やTPP参加、特定秘密保護法の制定、武器輸出三原則の撤廃」をも要求していました。

「大義なきイラク戦争を主導したラムズフェルド元国防長官とアーミテージ元国務副長官」の二人にたいして「文化の日」に勲一等、「旭日大綬章」を贈ったことは、安倍政権の好戦的な性格を雄弁に物語っていると思われます。

 

リンク→リメンバー、9.17(3)――「安保関連法」の成立と「防衛装備庁」の発足

リンク→戦争と文学 ――自己と他者の認識に向けて

安倍政権の「民意無視」の暴挙と「民主主義の新たな胎動」

今回の国会審議で多数を占めた与党からは「法的安定性は関係ない」と発言した礒崎陽輔首相補佐官や、シールズを批判して利己的個人主義がここまでまん延したのは戦後教育のせいだろうが、非常に残念だ」と記した自民党の武藤貴也衆院議員の常識外れの発言が目立った程度で、最期まで灰色の二つの大きな物言わぬ集団という印象しか受けませんでした。

一方、質問などに立った野党議員は一人一人が個人として屹立し凜々しく見えました。日本の将来を真剣に憂慮して考え抜いた野党議員たちの渾身の発言は、今後も憲政史上長く語り継がれるものと思われます。それは単に私個人の印象にとどまるものではなく、多くの人が共有する思いでしょう。

*   *   *

9月15日のブログで私は「権力」を乱用する安倍晋三氏と江戸時代の藩主を比較して次のように書きました。

「江戸時代には民衆のことを考えない政治をする暴君に対しては、厳しい処罰を覚悟してでもそれを諫める家老がいましたが、現在の自民党には『独裁的な傾向』を強めている安倍首相を諫める勇気ある議員がほとんどいないということです。与党の公明党にも、安倍首相の『国会』を冒涜した発言に苦言を呈する議員がほとんどいないということも明らかになりました」。

しかし、国民からは巨額の税金を取る一方で、国民には秘密裏にTPP交渉を進め、アメリカが始めた「大義なき戦争」に、かつての「傭兵」のように自衛隊を「憲法」に違反してまでも差し出そうとしている安倍晋三氏を藩主に喩えるのは褒めすぎでしょう。

安倍晋三氏にはこのような評価は不本意でしょうが彼が行おうとしていることは、ドイツの作家シラーなどが戯曲『ウィリアム・テル』(ヴィルヘルム・テル)で描いたオーストリアから派遣された14世紀の悪代官ヘルマン・ゲスラーがスイス人に対して行った暴政に似ているのです。

東京新聞:これからどうなる安保法 (1)米要望通り法制化:政治(TOKYO Web)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2015092202000210.html …

*   *   *

15日のブログでは「『暴君』を代えるまでにはもう少し時間がかかるかもしれませんが、昨日のデモからは今回の運動が確実に政治を変えていくだろうという思いを強くしました」と続けていました。

なぜならば、その思いは単なる願望ではなく日本では明治時代に自由民権運動の高まりをとおして薩長藩閥政府を追い詰めて、明治14年(1881)には1889年には国会を開設するという約束を獲得したという歴史を持っているからです。

注目したいのは、その2年後の明治16年(1883)に、『坂の上の雲』の主人公の一人で新聞記者となる若き正岡子規が中学校の生徒の時に、「国会」と音の同じ「黒塊」をかけて、立憲制の急務を説いた「天将(まさ)ニ黒塊ヲ現ハサントス」という演説を行っていたことです。

俳人となった正岡子規は分かりやすい日本語で一人一人が自分の思いを語れるように俳句の改革を行いました。

「民主主義ってなんだ」と問いかけるSEALDs(Students Emergency Action for Liberty and Democracy–s、自由と民主主義のための学生緊急行動)がツイッターの冒頭に掲げている「作られた言葉ではなく、刷り込まれた意味でもなく、他人の声ではない私の意思を、私の言葉で、私の声で主張することにこそ、意味があると思っています」という文章からも、「憲法」と「国会」の獲得に燃えていた明治の若者たちと同じような若々しい思いと高い志が感じられるのです。

最期に、参院特別委員会での強行採決が「無効」であると強く訴えた福山哲郎議員の参議院本会議での反対討論のまとめの部分を引用しておきます。

*   *   *

残念ながらこの闘い、今は負けるかもしれない。しかし、私は試合に負けても勝負には勝ったと思います。私の政治経験の中で、国会の中と外でこんなに繋がったことはない。ずっと声を上げ続けてきたシールズや、若いお母さん、その他のみなさん。3.11でいきなり人生の不条理と向き合ってきた世代がシールズだ。彼らの感性に可能性を感じています。

どうか国民の皆さん、あきらめないで欲しい。闘いはここから再度スタートします。立憲主義と平和主義と民主主義を取り戻す戦いはここからスタートします。選挙の多数はなど一過性のものです。

お怒りの気持ちを持ち続けて頂いて、どうか戦いをもう一度始めてください。私たちもみなさんお気持ちを受け止め戦います! 国民のみなさん、諦めないでください。

私たちも安倍政権をなんとしても打倒していくために頑張ることをお誓い申し上げて、私の反対討論とさせて頂きます。

(2015年9月23日。「東京新聞」の記事へのリンク先を追加)

参院特別委員会採決のビデオ判定を(1)―NHKの委員会中継を見て

久しぶりにHNKが国会の中継を行っているのに気づいて、途中からでしたが、鴻池委員長にたいする不信任の理由を述べた野党議員による問題点の指摘に聞き入っていました。

これまでの歴史を踏まえた社民党の福島瑞穂議員の説得力のある発言に続いて、自衛隊の海外派兵の問題点に鋭く迫り、やはり十分な審議の必要性を明らかにした山本太郎議員が発言の短縮を求められて素直に中断したあとで、採決が求められ鴻池委員長の不信任案が否決されました。

その後の流れが映像を何度見ても分かりません。ニュースの解説によれば、その後には「締め括り審議」が予定されており、それに備えるために安倍首相や中谷防衛大臣、岸田外務大臣などが着席していたのです。野党議員の渾身の質問にたいして、首相や大臣がどのように答弁するのか固唾を呑んで私は見守っていました。

しかし、不信任案が否決された直後に与党の議員が委員長席に駆け寄り、それに続いて野党議員が駆け寄り、もみ合う映像が何度も流されましたが、「締め括り審議」はどこに消えたのでしょうか。

すでに大相撲では映像によるビデオ判定が採用されています。鴻池委員長の発言は聞こえず、議事録には「精査不能」と記されているとのことですが、そのような場合には大相撲では「取り直し」となります。まして、「国民の生命」に関わる重要な法案ならば、「精査不能」の「締め括り審議」は、きちんと「やり直し」とされるべきと思われます。

まだ、参議院本会議での議論が残っており、法案の帰趨は分かりませんが、このような方法で採決した参議院の自民・公明両党は、「良識の府」の歴史に大きな汚点を残したといわねばならず、日本は「明治憲法」が発布される以前の薩長藩閥政府が権力を専横していた時代へと逆戻りする危険性さえあると思えます。

*   *   *

しかし、そのような危険性にもかかわらず、多くのひとびとが「民主主義」と「憲法」について再び、深く真剣に考え始めている現在、私はこれまでに味わったことのないような可能性も感じています。

そのことの理由についてはいずれ詳しく記したいと思いますが、ここでは参院・中央公聴会でのシールズ(自由と民主主義のための学生緊急行動)の奥田愛基さんの発言の一部を紹介することでその説明に代えることにします。

「どうか、政治家の先生たちも個人でいてください。政治家である前にたった一人の個人であって下さい。自分の信じる正しさに向かい、勇気を出して孤独に思考し、判断し、行動して下さい」、「困難な時代にこそ希望があることを信じて、私は自由で民主的な社会を望み、この安全保障関連法案に反対します」。

リンク→李下に冠を正さず――ワイドショーとコメンテーター

リンク→「国会」と「憲法」、そして「国民」の冒涜――「民主主義のルール」と安倍首相

(2015年9月18日。題名の一部を変更、リンク先を追加)

 「国会」と「憲法」、そして「国民」の冒涜――「民主主義のルール」と安倍首相

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空からのニュース映像〔NHK〕

 

「東京新聞」の今朝の朝刊の記事によれば、14日の安全保障関連法案に関する参院特別委員会で、安倍晋三首相は法案に国民の支持が広がっていないことを認める一方で、「熟議の後に決めるべき時には決めなくてはならない。それが民主主義のルールだ」と早期の採決を促し、法案が成立した後には国民の理解が広がるとの見方も示したとことです(太字は引用者)。

これは本末転倒で「民主主義のルール」に従うならば、時間をかけた議論の後でも国民の支持が広がっていない場合には、その法案は廃案とすべきでしょう。

しかも熟議の中で、この法案の問題点や首相の資質などが問われる発言が多発しているのです。「民主主義のルール」を強調するならば、混乱を招いた自らの政治姿勢を恥じて安倍首相は潔く辞任すべきでしょう。

*   *   *

一方、昨日のデモではプラカードも「廃案」の文字などを記したものだけでなく、ペットボトルで作られた提灯のようなものを掲げた人などさまざまな意見や創意工夫がなされており、ペンライトもかざされて印象的でした。

デモは整然と行われており、狭い歩道に人があふれて将棋倒しになり、怪我人がでる危険性が強くなったときに、車道を解放せよとの声があがったのも自然だったでしょう。

先の総裁選ではっきりしたことは、江戸時代には民衆のことを考えない政治をする暴君に対しては、厳しい処罰を覚悟してでもそれを諫める家老がいましたが、現在の自民党には「独裁的な傾向」を強めている安倍首相を諫める勇気ある議員がほとんどいないということです。与党の公明党にも、安倍首相の「国会」を冒涜した発言に苦言を呈する議員がほとんどいないということも明らかになりました。

国会の会期末は近づいていますが、民主主義の危機に際して声を上げ始めた昨日のデモからは、幕末から明治初期にかけて示された「国民」の「行動力」が彷彿とさせられます。

「暴君」を代えるまでにはもう少し時間がかかるかもしれませんが、昨日のデモからは今回の運動が確実に政治を変えていくだろうという思いを強くしました。

9月14日18時半 国会正門前に! ――自分の思いを表現すること

9.14

昨年末の総選挙では「秘密法・集団的自衛権」は、「争点にならず」と公言していたにもかかわらず、安倍政権は参議院で「違憲」の疑いが濃く、「戦争法案」を衆議院で強行採決しました。

この暴挙に対する批判が高まり、過半数の「国民」が慎重な審議を求めているにもかかわらず、自民・公明両党は参議院でも「国民」の理解とはかかわりなく採決を強行する方針を確認しました。

この法案の一連の審議を通じて明らかになったのは、「国民」の「生命」や「財産」を軽視する一方で、一部の大企業や「お友達」の利益を重視する安倍政権の独裁的な手法です。

この法案が通ると「日本」は再び「統帥権」が大手を振っていた戦前や、さらには「憲法」がなく「薩長藩閥政治」が国政を牛耳っていた明治初期の状況にまで後退してしまう危険性が強いと思われます。

明治の俳人・正岡子規は俳句の改革をとおして、「国民」の一人一人が自分の思いを自分の声で表現できる文芸の形式を確立しました。今の私たちに求められているのは、自分のできる範囲で自分の思いを為政者に伝えることでしょう。

リンク→「戦争法案」に反対する学生のアピールを転載――自分の声で語ること

リンク→「大義」を放棄した安倍内閣

リンク→「大義」を放棄した安倍内閣(2)――「公約」の軽視

(2015年9月15日。副題とリンク先を追加)

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』を脱稿。

si 1 田主版 新聞

装画:田主 誠。版画作品:『雲』

ようやく『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』の「第五章」と「終章」の校正を終えて、先ほど校正原稿をポストに投函してきました。

『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』(人文書館)を刊行したのが2009年のことでしたので、6年に近くかかってしまったことになります。

この間に福島第一原子力発電所の大事故が起きたにもかかわらず、自然の摂理に反したと思える原発の再稼働に向けた動きが強まったことから、急遽、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』を書き上げたことが、執筆が大幅に遅れた一因です。

ただ、多くの憲法学者や元最高裁長官が指摘しているように「憲法」に違反している可能性の高いにもかかわらず、政府与党は前回の選挙公約にはなかった「安全保障関連法案」を強行な手段で成立させようとしています。このような状況を見ていると、原発の問題は後回しにしてでも日英同盟を結んで行った日露戦争の問題点に迫った本書を先に書き上げるべきだったかもしれないとの後悔の念にも襲われます。

しかし、前著での問題意識が本書にも深く関わっているので、私のなかではやはり自然な流れでやむをえなかったのでしょう。

*   *   *

一方、昨日の講演で自民党の高村副総裁は、国民の理解が「十分得られてなくても、やらなければいけない」と述べて、「国民」の反対が強いにもかかわらず、自公両党の議員により参院でも「戦争法案」を強行採決する姿勢を明確に示しています。

それゆえ、「なぜ今、『坂の上の雲』」なのかについて記した短い記事を数回に分けて書くことにより、この長編小説における新聞記者・正岡子規の視点をとおしてこの法案の危険性を明らかにしたいと思います。

 

 

リンク→『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)

2023/10/29, X(旧ツイッター)を投稿

安倍首相の「嘘」と「事実」の報道――無責任体質の復活(8)

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このブログでは衆議院選挙を前にした昨年の12月に書いた一連の記事で、「景気回復、この道しかない」としてアベノミクスを前面に出した安倍政権と戦前・戦時中の軍事政権の手法の類似性を示すことで、「言葉」や「約束」を大切にしない「安倍政権」の危険性を指摘してきました。

内閣の支持率などを見ると今もこの手法やスローガンに騙されている「国民」は少なくないようですが、今日の「東京新聞」朝刊は「首相『支持受けた』というが… 安保法案は公約271番目」という見出しの記事で、安倍首相の「嘘」を明確に指摘しています。

「事実」を書くという新聞の基本的な役割を果たした重要な記事だと思いますので、以下にその全文を引用しておきます(太字は引用者)。

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安全保障関連法案をめぐり、安倍晋三首相が「法整備を選挙で明確に公約として掲げ、国民から支持を頂いた」と繰り返している。法案内容に国民の反対が根強いことへの反論の一環だ。しかし、昨年衆院選の自民党公約では、安保法案の説明はごくわずかしかない。解散時は経済政策を前面に押し出し、安保法案は公約の全二百九十六項目の中で、二百七十一番目の一項目にすぎない。 (皆川剛)

参院の審議が始まってからも、野党は各種の世論調査を挙げ「ほとんどの国民が法案内容の説明が十分でないと答えている。国民の過半数が法案に憲法違反の疑いがあると認識している」(維新の小野次郎氏)などと批判を続けている。

これに対し、首相は「さきの衆院選では昨年七月の閣議決定に基づき、法制を速やかに整備することを明確に公約として掲げ、国民から支持を頂いた」と、安保法案は選挙で公約済みと強調する。

しかし昨年の自民党公約では、安保法制への言及は二百七十一番目だっただけでなく、「集団的自衛権の行使容認」は見出しにも、具体的な文言にもない。歴代政権が違憲としてきた集団的自衛権の行使を認めるという、国のあり方を根本から変える政策なのに目立たない位置付けだった。

二〇一二年衆院選の公約に入っていた「集団的自衛権の行使を可能とする」という文言は一三年の参院選から消え、「法整備を進める」という表現になった。

昨年十一月の衆院解散直後の会見では、安倍首相は「アベノミクスを前に進めるのか、それとも止めてしまうのか。それを問う選挙であります」と明言し、自主的な発言は経済政策と地方創生に終始。記者から「集団的自衛権行使容認の閣議決定は争点に位置づけるか」と問われて初めて、「そうしたすべてにおいて国民に訴えていきたい」とだけ答えた。

共同通信社の八月中旬の調査では、安保法案が「憲法に違反していると思う」は55・1%に上り、「違反していると思わない」の30・4%を大きく上回る。法案の今国会成立にも62・4%が反対している。

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今日の「東京新聞」朝刊には「SEALDs呼び掛け 全国60カ所でデモ」という見出しで、日本の各地で行われた「全国若者一斉行動」の模様がカラー写真と共に詳しく掲載されていました。

「日本新聞博物館」の常設展には、治安維持法の成立から戦時統制下を経て敗戦に至る時期の新聞の状況が示されたコーナーもありますが、現代の日本でも権力者にすりよるために「御用新聞」と化して「事実」を伝えようとしない新聞もあるなかで、「平和の俳句」を掲げる「東京新聞」は、「孤高の新聞」と呼ばれた新聞『日本』の陸羯南や正岡子規などの思いを受け継いでいると感じます。

リンク→新聞『日本』の報道姿勢と安倍政権の言論感覚

これまでもがんばりを見せてきた地方紙に続いて、「毎日新聞」や「朝日新聞」などの大新聞にも「事実」を見つめた気骨のある記事が連日掲載されることを期待しています。

 

安倍政権の無責任体質・関連の記事一覧

アベノミクスと武藤貴也議員の詐欺疑惑――無責任体質の復活(7)

原子力規制委・田中委員長の発言と安倍政権――無責任体質の復活(6)

「新国立」の責任者は誰か(2)――「無責任体質」の復活(5)

デマと中傷を広めたのは誰か――「無責任体質」の復活(4)

原発事故の「責任者」は誰か――「無責任体質」の復活(3)

TPP交渉と安倍内閣――「無責任体質」の復活(2)

「戦前の無責任体系」の復活と小林秀雄氏の『罪と罰』の解釈

大義」を放棄した安倍内閣(2)――「公約」の軽視

「大義」を放棄した安倍内閣

 

「学生と学者の共同行動」集会の報道を転載

7月17日のブログでは『安全保障関連法案に反対する学者の会』のアピールへの賛同者(学者・研究者)の人数は、8月3日9時00分現在で一万人を超えて10,857人に、市民の賛同者が21.377人に達したことを報告するとともに、その理由について下記のように記しました。

「憲法」や「学問的な知」を侮辱し、「情念」的な言葉で「国民の恐怖」を煽り、戦争の必要性を強調するような安倍政権の手法が、真面目な研究者たちの怒りを駆り立てていると言えるでしょう。

*   *

残念ながら、「学生と学者の共同行動」集会には参加することができませんでしたが、「安全保障関連法案に反対する学生グループ「SEALDs(自由と民主主義のための学生緊急行動、シールズ)」と学者の会は三十一日、共同の抗議デモや集会を国会前などで催し、約二万五千人(主催者発表)が集まった。大規模な政治デモを学生と大学教員らが共催するのは異例だ」と伝えた「東京新聞」は、次のような水島朝穂早大教授の言葉も報じています。

「東ドイツでも秘密警察は『就職に響くぞ』『退学だ』と脅したが、デモからベルリンの壁は崩れた。日本で新しい民主主義がここ国会前で始まっている」。

*   *

砂防会館にて開催された「安全保障関連法案に反対する学生と学者の共同行動」では、「1部、2部で、学生5名、学者4名の素晴らしいスピーチが行われ、会場には拍手、笑い、涙が溢れた」と記した漫才師のおしどりマコ&ケンさんによる集会スピーチの全文文字起こしからは、スピーチの内容と集会の自由で民主主義的な雰囲気がいきいきと伝わってきます。

リンク→ http://oshidori-makoken.com/?p=1423

詳しくは上記のHPを参照して頂くこととし、ここでは冒頭で語られた廣渡清吾・専修大学教授法学部教授(東京大学元副学長 日本学術会議前会長)の臓腑をえぐるような怒りのスピーチの一部を「文字起こし」より引用しておきます。

「参議院の審議で、安倍首相は専守防衛にいささかの変更は無い、戦争に巻き込まれることは絶対にない、と断言に次ぐ断言を重ねていますけれども、

もし彼が言っていることが彼の本心であるとすれば、法案を理解していないバカだ、ということになります。

また、もし、法案の内容をそのように断言によって国民の目をごまかそうとしているのであれば、それは嘘つきということであります。」

*   *

消費背税の増税や、沖縄の基地建設、原発の再稼働、さらに自衛隊の軍隊化などを「強権的な手法」で推し進める安倍内閣に対する批判の声は確実に広がっています。

『安全保障関連法案に反対する学者の会』のアピールへの賛同者(学者・研究者)の人数は、8月3日9時00分現在で12,853人に達し、各大学にも「有志の会」が次々と発足しているとのことです。

リンク→http://anti-security-related-bill.jp

また、8月2日には主催者発表で高校生など約5000人が参加し、「廃案」を訴えたデモが渋谷で行われ、「高校生による大規模な政治デモは異例で、世代を超えて広がる法案への反発を象徴する光景となった」と記した「東京新聞」は、都立高三年の受験生が「友達から何してんだと言われる。でもこれが今、おれのやるべきこと」と切り出したことも伝えています。

安倍首相は「尊皇攘夷」を唱えた長州の一部の志士に自分の思いを重ねているようですが、政権運営の方法や手段は、むしろ米国と秘密裏に条約を結ぶ一方で厳しい言論弾圧を行った井伊直弼の方法に似ているのです。

「知恵の梟は夜飛ぶ」という諺がありますが、「憲法」を否定する安倍政権の「反知性主義」を指摘した学者たちに続いて、「利権」とは無関係の多くの若者たちが日本を救おうとした幕末の志士たちのように立ち上がっていることに、危機に際して日本の民主主義が目覚めたと実感しています。

原発事故の「責任者」は誰か――「無責任体質」の復活(3)

Earthquake and Tsunami damage-Dai Ichi Power Plant, Japan

(2011年3月16日撮影:左から4号機、3号機、2号機、1号機、写真は「ウィキペディア」より)

 

原発事故の「責任者」は誰か――「無責任体質」の復活(3)

「新国立」や「TPP」の問題で、国民の多くが反対し、「憲法」にも違反している可能性が高い「戦争法案」(自称「安全保障関連法案」)を強行採決した安倍政権の無責任さを浮き彫りにする判決が7月31日に出ました。

まず、東電の勝俣恒久元会長(75)、武藤栄(さかえ)元副社長(65)と、武黒(たけくろ)一郎元副社長(69)の三人について業務上過失致死傷罪で起訴すべきとした東京第五検察審査会の議決の概要を8月1日付けの「東京新聞」朝刊によって確認したあとで、原発事故の真の「責任者」に迫りたいと思います(太字は引用者)。

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検審は議決で、「原発事業者は『万が一にも』発生する津波、災害にも備えなければならない高度な注意義務を負う」と指摘。勝俣元会長らを「福島第一原発に高さ一五・七メートルの津波が襲う可能性があるとの試算結果の報告を、遅くとも〇九年六月までに受けたが、必要な措置を怠り、津波による浸水で重大な事故を発生させた」とした。

東電は〇七年七月に柏崎刈羽原発事故などを経験し、原発が浸水すれば電源を失って重大事故が起きる危険性を把握していたとも指摘。勝俣元会長らは福島第一原発でも地震と津波による事故発生を予測でき、運転停止や防潮堤の建設などの対策を取れば、事故を避けられたと結論づけた。

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「原発事故」を引き起こしたこれらの経営者の責任がきちんと問われたことはよかったのですが、問題の根ははるかに深いようです。昨年の3月15日に行われた日本ペンクラブの「脱原発を考えるペンクラブの集い part4」 では事故当時の最高責任者・菅直人氏を講演者に招いて、「福島原発事故」の実態に迫ろうとしました。

その時に明らかになったことについては、ブログ記事に記しましたが、そこではこの原発事故と安倍首相との関わりには触れていませんでした。リンク→〈真実を語ったのは誰か――「日本ペンクラブ脱原発の集い」に参加して

2006年12月13日に行われた参議院における吉井英勝議員と安倍首相の原発事故防止関連の質疑応答については、すでにいくつもの記事が書かれていますが、今回は「首相がデマを流していいのか?」と題されたサイト「文芸ジャンキー・パラダイス」の2013年7月12日の記述によって紹介しておきます(http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/column15.html)。

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2006年参院/質疑応答の要約

吉井英勝議員「海外(スウェーデン)では二重のバックアップ電源を喪失した事故もあるが日本は大丈夫なのか」/安倍首相「海外とは原発の構造が違う。日本の原発で同様の事態が発生するとは考えられない」

吉井議員「冷却系が完全に沈黙した場合の復旧シナリオは考えてあるのか」/ 安倍首相「そうならないよう万全の態勢を整えている」

吉井議員「冷却に失敗し各燃料棒が焼損した(溶け落ちた)場合の想定をしているのか」/ 安倍首相「そうならないよう万全の態勢を整えている」

吉井議員「原子炉が破壊し放射性物質が拡散した場合の被害予測を教えて欲しい」 /安倍首相「そうならないよう万全の態勢を整えている」

吉井議員「総ての発電設備について、データ偽造が行われた期間と虚偽報告の経過を教えて欲しい」/ 安倍首相「調査、整理等の作業が膨大なものになることから答えることは困難」

吉井議員「これだけデータ偽造が繰り返されているのに、なぜ国はそうしたことを長期にわたって見逃してきたのか」/ 安倍首相「質問の意図が分からないので答えることが困難。とにかくそうならないよう万全の態勢を整えている」

関連記事→http://goo.gl/1Vw5wI 

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最近の国会で安倍首相が、「国民の生命」にも関わる「安全保障関連法案」についての質疑で、「壊れたレコードのように」まったく同じ台詞で答弁していることには呆れて、このような人物が日本国の「総理大臣」であることを恥ずかしく感じることが多いのですが、実は、2006年の参議院での質疑応答でも同じ台詞を繰り返していたのです。

しかし、「そうならないよう万全の態勢を整えている」ならば、チェルノブイリ原発事故と同じ規模でいまだに収束していない福島第一原子力発電所事故は、なぜ起きたのでしょうか。

いずれ詳しく考察したいと思いますが、最近、大きく報じられた「東芝」の粉飾決算にも新しい経営陣が大きく踏み込んだ「原発事業」が大きく関わっていたことが明らかになってきました。

これらのことも「国策」ということで「国民」の眼からは隠されてきたのだと思えます。現在の「安全保障関連法案」だけでなく、「原発事故」にも深く関わっている安倍首相の責任はきわめて大きいと言わねばならないでしょう。