一、小林秀雄の『罪と罰』論と弁護士ルージン考察の欠如
熱気に包まれた小林秀雄の『罪と罰』論を何度か読み直すうちに、小林秀雄の評論からは『罪と罰』の重要なエピソードや人物が抜け落ちていることに気づきました。たとえば、小林秀雄の『罪と罰』論では、原作ではきちんと描かれていたラスコーリニコフやソーニャの家族関係はほとんど言及されていません。
さらに、ポルフィーリイとの対決をとおしてその危険性が鋭く示唆されている「非凡人の理論」は軽視されており、功利主義的な考えを主張してラスコーリニコフと激しく対立する弁護士ルージンにはほとんど触れられていないのです。
しかし、『罪と罰』という題名を持つこの長編小説の主人公であるラスコーリニコフが、元法学部の学生であるばかりでなく、犯罪者の心理について考察した彼の論文が法律の専門誌にも掲載されていると記されていることに留意するならば、妹ドゥーニャの婚約者であり、ラスコーリニコフと激論を交わすなど長編小説の筋においても重要な役割を果たしている弁護士のルージンについてふれないことは、小説の理解をも歪めることになるでしょう。
二、弁護士ルージンの「新自由主義的な」経済理論
ここでは『罪と罰』の記述に注意を払いながら、ラズミーヒンの反論をとおしてルージンの経済理論の問題点に迫ることにします。
注目したいのは、ルージンが衣服の例を出しながら、「今日まで私は、『汝の隣人を愛せよ』と言われて、そのとおり愛してきました。だが、その結果はどうだったでしょう? …中略…その結果は、自分の上着を半分に引きさいて隣人と分けあい、ふたりがふたりとも半分裸になってしまった」と主張していることです。
そして、ルージンは「経済学の真理」という観点から「安定した個人的事業が、つまり、いわば完全な上着ですな、それが社会に多くなれば多くなるほど、その社会は強固な基礎をもつことになり、社会の全体の事業もうまくいくとね。つまり、もっぱらおのれひとりのために利益を得ながら、私はほかでもないそのことによって、万人のためにも利益を得、隣人にだって破れた上着より多少はましなものをやれるようになるわけですよ」と説明していたのです。
さらに、彼は「科学はこう言う。まず何ものよりも先におのれひとりを愛せよ、なんとなればこの世のすべては個人の利害にもとづくものなればなり」と主張し、「実に単純な思想なんだが、…中略…あまりにも長いことわれわれを訪れなかったのです」と結んでいました(2・5)。
三、ラズミーヒンの批判と「アベノミクス」のごまかし
一方、この場に居合わせてルージンの経済理論を聞いたラズミーヒンは「あなたが早いとこ自分の知識をひけらかしたかった気持ちは大いにわかる」が、「近ごろではその全体の事業とやらに、やたらいろんな事業家が手を出しはじめて、手あたりしだい、なんでもかでも自分の利益になるようにねじ曲げてしまうし、あげくはその事業全体を形なしにしてしまう状態ですからね」とルージンの理論を厳しく批判していました(太字は引用者)。
このようなラズミーヒンの説明は、「アベノミクス」やレーガン大統領の頃の経済理論であるレーガノミクスの理論的な支柱となった「トリクルダウン理論」の批判につながると思われます。
すなわち、「トリクルダウン理論」でも、結婚式などで用いられるシャンパングラス・ツリーの一番上のグラスにシャンパンを注ぐと、あふれ出たシャンパンは、次々と下の段のグラスに「滴り落ち」るように、最初に大企業などが利益をあげることができれば、次第にその利益や恵みは次々と下の階層の者にも「滴り落ちる」と説明されているのです。
しかし、頂点に置かれてシャンパンを注がれるグラス(大企業)は、大量のシャンパン(金)を注がれてますます巨大化するものの、それらを内部留保金として溜め込んでしまうのです。それゆえ、下に置かれたシャンパングラス(中小企業)や個人には、ほとんどシャンパン(金)が「滴り落ち」ずに、ますます貧困化していく危険性が強いのです。
そして、経済学の分野でも、「実証性の観点からは、富裕層をさらに富ませれば貧困層の経済状況が改善することを裏付ける有力な研究は存在しないとされている」だけでなく、レーガノミクスでは「経済規模時は拡大したが、貿易赤字と財政赤字の増大という『双子の赤字』を抱えることになった」ことも指摘されています。
このように見てくるとき、ドストエフスキーは後にソーニャを泥棒に仕立てようとする悪徳弁護士のルージンに、現代の「新自由主義」な先取りするような考えを語らせることにより、「富める者」の富を増やすことで貧乏人にもその富の一部が「したたる」ようになるとする「アベノミクス」のごまかしを暴露しているようにさえ思えます。
リンク→なぜ今、『罪と罰』か(序)――「安倍談話」と「立憲政治」の危機
リンク→なぜ今、『罪と罰』か(1)――「立憲主義」の危機と矮小化された『罪と罰』