高橋誠一郎 公式ホームページ

『坂の上の雲』

「トルストイで司馬作品を読み解く」のレジュメを「主な研究(活動)」に掲載しました

 

2013年9月28日に昭和女子大学で、「トルストイで司馬作品を読み解く――『坂の上の雲』と『翔ぶが如く』を中心に」という題名の講演を行いました。

故藤沼貴前会長や川端香男里現会長はじめ著名な研究者を擁し、多くのすぐれた研究を積み重ねてこられたこの会で講演する機会を与えられたことを光栄に思っています。

最初は「『戦争と平和』で司馬作品を読み解く」という題名で発表しようと考えていました。しかし、大逆事件の前年に森鴎外は小説『青年』で、夏目漱石をモデルとした登場人物に、日本ではトルストイさえも「小さく」されていると語らせていましたが、それはドストエフスキーについてもあてはまると思えます。

『戦争と平和』のエピローグで「祖国戦争」の勝利のあとでたどるロシアの厳しい歴史を示唆したトルストイは、「日露戦争」の最中には敢然と戦争の惨禍を指摘していました。

一方、現在の日本ではきちんとした議論もないままに、「特定秘密保護法案」さえもが採択されそうな状況となり、福島第一原子力発電所の事故の状況さえも「国家的な秘密」とされたり、兵士が不足しているアメリカ政府の要請によって日本の若者が戦場へと送られる危険性が強くなってきています。

それゆえ講演ではまず、トルストイのドストエフスキー観をとおして日本の近代化のモデルとなったロシアの近代化の問題点を指摘し、その後で『戦争と平和』を強く意識しながら『坂の上の雲』を書いた司馬遼太郎の『翔ぶが如く』における「教育」と「軍隊」の制度や「内務省」と「法律」の問題の考察を明らかにすることで、トルストイの現代的な意義に迫ろうとしました。

ただ、長編小説『翔ぶが如く』はあまり有名な作品ではないので、司馬文学の愛読者以外の方にとっては少し難しい講演になってしまったと反省しており、論文化する際には、やはり『戦争と平和』と『坂の上の雲』の比較になるべく焦点を絞って書くようにしたいと考えています。

司会の労を執られた木村敦夫氏や事務局長の三浦雅正己氏はじめ、関係者の方々にこの場をお借りして感謝の意を表します。

《風立ちぬ》と映画《少年H》――「《少年H》と司馬遼太郎の憲法観」を「映画・演劇評」に掲載しました

先日、妹尾河童氏の原作『少年H』を元にした映画《少年H》を見てきました。

夏休みも終わった平日の午前中ということもあり、観客の人数が少なかったのが残念でしたが、この映画からも宮崎駿監督の《風立ちぬ》と同じような感動を得ました。

映画《風立ちぬ》については、戦時中の問題点を示唆するシーンにとどまっており、反戦への深い考察が伝わってこないという批判があり、おそらくそれが、戦時中の苦しい時代をきちんと描いている映画《少年H》とのヒットの差に表れていると思います。

黒澤映画《生きものの記録》と司馬遼太郎氏の長編小説『坂の上の雲』などを比較しながら感じることは、問題点の本質を描き出す作品は一部の深い理解者を産み出す一方で、多くの観客や読者を得ることが難しいことです。

私としては問題点を描き出す《少年H》のような映画と同時に、大ヒットすることで多くの観客に問題点を示唆することができる《風立ちぬ》のような二つのタイプの映画が必要だろうと考えます。

ただ、司馬作品の場合に痛感したことですが、日本の評論家には作者が伝えようとする本当の狙いを広く伝えようとすることよりも、その作品を矮小化することになっても、分かりやすく説明することで作品の売り上げに貢献しようとする傾向が強いように感じています。

《風立ちぬ》のような作品も観客の印象だけにゆだねてしまうと、安易な解説に流されてしまう危険性もあるので、《風立ちぬ》に秘められている深いメッセージを取り出して多くの観客に伝えるとともに、《少年H》のような映画のよさを多くの読者に分かりやすく説明してその意義を伝えたいと考えています。

奇しくも、宮崎駿監督と妹尾河童氏は司馬遼太郎氏を深く敬愛していました。それぞれの映画のよさを再確認する上でも、《風立ちぬ》を見た人にはぜひ《少年H》をも見て、二つの映画を比較して頂きたいと思います。

リンク映画《少年H》と司馬遼太郎の憲法観

 

ドストエフスキーとトルストイⅢ ――『白痴』と『アンナ・カレーニナ』をめぐって

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(イワン・クラムスコイ作「見知らぬ女」(1883年)。アンナ・カレーニナをイメージしたものとも言われている。図版は「ウィキペディア」より)

はじめに

前回はトルストイが長編小説『白痴』の主人公ムィシキンを「その値打ちを知っている者にとっては何千というダイヤモンドに匹敵する」ときわめて高く評価していたことを確認しました。

この評価は、『永遠の良人』論や「『未成年』の独創性について」(1933)などの初期の論考において、トルストイやバルザックの小説との比較をとおして、ドストエフスキー作品における凝縮されたともいえる独特の時間の認識や「告白体」の深い考察を行い、近代的な知識人の苦悩や自意識の問題を考察していた文芸評論家の小林秀雄の「『白痴』についてⅠ」(1934)を考察する上でも重要でしょう。

なぜならば、日本は1933年に国際連盟を脱退して孤立を深める一方で、滝川事件などが起きて知識人に対する弾圧が強められていましたが、この翌年に書かれた『白痴』論で小林秀雄は主人公の孤独や憂愁を浮き上がらせる一方で、家族や社会の問題を解体していたとも思えるからです。

ただ、小林秀雄という評論家は、広いフランス文学の知識をも踏まえてドストエフスキーを論じていたばかりではなく、戦後は本居宣長などの深い考察をも行っています。筆者にはまだそれらをも視野に入れて論じることができないので、ここではドストエフスキーの作品と素手で格闘した小林的な手法で、小林秀雄の『白痴』論を分析することにします。

 

1,「車中での出会い」

「『罪と罰』についてⅠ」(1934)の冒頭で小林秀雄は、「重要な事は、告白体といふ困難な道からこの広大な作品を書かうと努めたほど、ラスコオリニコフといふ人物が作者に親しい人物であつたといふ事である」と記しています。

そして、シベリアにおけるラスコーリニコフの「更生」を否定するとともに、「ドストエフスキイは遂にラスコオリニコフ的憂愁を逃れ得ただらうか」と読者に問いかけた小林は、「来るべき『白痴』はこの憂愁の一段と兇暴な純化であつた。ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」という解釈を示して『罪と罰』論を結んでいました(傍線引用者、『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、62~63頁。以下、全集第6巻からの引用に際しては旧漢字を新漢字になおすとともに、本文中の〔〕内に頁数をアラビア数字で示した)。

ただ、「『白痴』についてⅠ」でムィシキンがスイスから帰国する列車で考えていたことに言及して、「詮索するにも及ぶまい。当人が『これから人間の中に出て行く』と言つてゐるのだから、この男には過去なぞないのだらう」と断定した小林は「ムイシュキンは、汽車の中で、独り言を繰返す」とも記しています〔傍線引用者、299〕。

しかし、『これから人間の中に出て行く』という言葉は独り言ではなく、エパンチン家の令嬢たちにマリーと子供たちの逸話を説明した後で語られた言葉であり、ムィシキンは「ぼくは自分の仕事を誠実に、しっかりとやり遂げようと決めました」と続けていたのです(第1部第6章)。

つまり、スイスでの治療をほぼ終えたムィシキン公爵が混沌としている祖国に帰国する決意をしたのは、母方の親戚の莫大な遺産を相続したとの知らせに接したためであり、ドストエフスキーはムィシキンが遺産についてエパンチン将軍に告げようとしながら何度も遮られた場面を描いていました。こうして、ドストエフスキーは小説の冒頭で思いがけず莫大な遺産を相続した二人の主人公の共通性を描くとともに、その財産をロシアの困窮した人々の救済のために用いようとした若者と、その大金で愛する女性を所有しようとした若者の友情と対立をとおして、彼らの悲劇にいたるロシア社会の問題を浮き彫りにしていたのです。

しかし、冒頭の場面の重要な意味を見逃していた小林は、「『白痴』についてⅠ」第3章の冒頭で「ムイシュキンの正体といふものは読むに従つていよいよ無気味に思はれて来る」と書き、簡単な筋の紹介を行っていますが、そこにはいくつも問題と思われる解釈の個所があるので、下線をひいた形で引用しておきます。

「ムイシュキン公爵は子供の時癲癇にかゝつて以来、廿六の歳まで精神病院の患者であつたが、半ば健康を取戻してペテルブルグに帰つて来ると、捨てられた商人の妾ナスタアシャと将軍の娘アグラアヤと同時に恋愛関係に落ち、彼は二人の女に同じ様に愛を誓う」〔傍線引用者、87〕。

ここでムィシキンを病人として強調した小林は、ナスターシヤを「捨てられた商人の妾」としていますが、名門貴族の家柄の出であったナスターシヤは、両親が火災で亡くなって孤児となったあとで隣村の貴族のトーツキーに養育されたのですが、少女趣味のあった彼によって無理矢理に妾にさせられていたのです。

テキストという「事実」から目をそらして自分の主観で『白痴』を解釈することで、小林秀雄は少女にたいして性的な暴行を加えた特権階級としての貴族であるトーツキーの権力を笠に着た身勝手で理不尽な行動については何も言及しなかったばかりでなく、被害者のナスターシヤの異常性やムィシキンの病気を強調していたのです。

小林が『白痴』に描かれているこれらの人間関係を歪めた形で紹介しているのは、華族制度が存在していた当時の日本では、貴族のトーツキーの身勝手さを批判することが日本の体制批判と見なされることを恐れたためでもあるでしょう。

この意味で興味深いのは、農村に暮らす貴族の主人公のリョーヴィンと青年将校のヴロンスキーの生き方を比較することで、当時の貴族社会の負の側面を浮き彫りにしたトルストイの『アンナ・カレーニナ』でも、兄の浮気によって崩壊の危機に瀕していた兄夫婦を和解させるためにモスクワを訪れていた主人公のアンナが、母親を出迎えるためにペテルブルグから到着した列車の車内に乗りこんだ青年将校のヴロンスキーに、惚れられてしまうという物語の発端が描かれていることです。

トルストイが長編小説『白痴』を高く評価していたことを考慮するならば、主要な人物が汽車の車中で出会うというこのシーンは、『白痴』の冒頭のシーンと深い関わりがあることは十分に考えられるでしょう。実際、ナスターシヤがロゴージンの激しい情念のゆえに殺害されたのと同じように、アンナもヴロンスキーの激しい情熱に負けて家族を捨てて恋に走り、ついには近代文明の象徴ともいえる列車に飛び込んで自殺をしてしまうことになるのです。

ソ連の研究者フリードレンデルはナスターシヤとアンナだけでなく、ムィシキンとリョーヴィンの類似性にも注意を促していたビャールイの論文を紹介しながら、二つの長編小説を詳しく考察しています。Фридлендер, Г.М.,  Достоевский и Лев Толстой //Достоевский и миравая литература, Москва, Художественная литература, 1979.С.185-188.)。

2,「シベリヤから環った」主人公

すこし『白痴』から話が逸れましたが、しかし、『これから人間の中に出て行く』という言葉は独り言ではなくエパンチン家の令嬢たちにスイスでのマリーと子供たちの逸話を説明した後で語られた言葉を独り言と説明し、どこから戻ったかを重要視しなかった小林の記述は、多くの問題を孕んでいます。

なぜならば、スイスではなくシベリアから帰還したことになると、ムィシキンが治療を受けていたスイスの村で体験したマリーのエピソードがなくなり、判断力がつく前に妾にされていたナスターシヤの心理や行動を理解することが難しくなります。さらに、ムィシキンが西欧で見たギロチンによる死刑の場面もなくなり、『白痴』における主要なテーマの一つである「殺すなかれ」というイエスの言葉と、近代西欧文明の批判が読者の視界から抜け落ちてしまうことになるからです。

しかも、「『白痴』についてⅠ」で、「周知の事だが、作者はこの主人公を通じて、自分の二つの異常な生活経験を、熱烈に表現してゐる」として、癲癇の発作とともに死刑体験とを挙げていた小林秀雄は〔90~91〕、戦後に書いた「『白痴』についてⅡ」(1952~53)でも「この死刑の話は、執拗に、三通りの違つた形で繰返し語られ、恰も、作品の主音想(ライト・モチフ)が鳴るのを聞くやうだ」とし、「ギロチンが落ちて来る一分間前の罪人の顔を描いてはどうか」という「三番目の話は、ムイシュキンがアグラアヤの為に思ひ附いた画題の話である」と続けています〔傍点引用者、281~2〕。

しかし、よく知られているようにムィシキンが画題を提案したのはエパンチン家の三女アグラーヤにではなく、絵の才能のある次女のアデライーダに対してでした(第1部第5章)。アグラーヤたちが父親に対して批判的だったのは、それまでナスターシヤを妾としていた裕福なトーツキーから自分の娘との結婚を望まれると、エパンチン将軍が自分の出世のために長女のアレクサンドラに年齢の離れた中年男との愛のない結婚を強いたばかりでなく、莫大な持参金を付けてエパンチン将軍の秘書のガーニャにナスターシヤを払い下げようとする策謀をトーツキーとともに進めていたからだったのです。

小林秀雄が姉妹の名前を取り違えたことは、彼が三人姉妹の関係にはほとんど関心をはらっていなかったことを示しているでしょう。つまり、小林の『白痴』論では「創作ノート」や手紙などが自分の解釈に沿った形で引用されており、きちんと原作のテキストを読む努力がなされていない感が強いのです。

そして『白痴』についてⅠ」において『白痴』の結末の異常性を強調した小林秀雄は、「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と記していたのです〔傍線引用者、100~103〕。(「長編小説『白痴』における病いとその描写――小林秀雄の『白痴』論をめぐって」『世界文学』第117号、2013年参照)。

一方、ムィシキンがアデライーダに画題を提案したギロチンのテーマからは、トルストイが描いたパリの広場での公開死刑執行の記述が連想させられます。

実は、黒澤映画《白痴》における亀田(ムィシキン)が語った死刑囚の眼についての描写には、ドストエフスキー自身の死刑体験だけでなく、フランス軍に占領されたモスクワで襲われたロシア人の女性を守ろうとして捕らえられ、簡単な裁判で有罪とされて死刑場に連行されたピエール・ベズーホフの見た死刑囚たちの眼の描写が反映されているのです。

すなわち、刑場に引きだされたピエールは、最初の二人が引き立てられた際には「これから起こることを見ないために顔をそむけた」と描かれています。そして、「次の二人が引き立てられた。やはり同じような目で、この二人もみんなを見つめ、空しく、目だけで、黙ったまま、助けを求めていた」。次の若い工場労働者は兵士に「手を触れられたとたんに、怯えて跳びすさり、ピエールにしがみついた」が、「ピエールは身震いして、彼をふりほどいた」が、柱のそばに立たされた若い労働者は「ほかの者たちと同じく目隠しをされるのを待ちながら、撃たれて傷ついたけもののように、光る目で自分のまわりを見まわして」おり、一方の「ピエールはもう顔をそむけ、目を閉じる気がしなかった」と描かれているのです。

このことを思い起こすならば、黒澤映画《白痴》はトルストイの『戦争と平和』の世界観も反映しているといえるでしょう。

 

3,ドストエフスキーの『アンナ・カレーニナ』観

ドストエフスキーは『作家の日記』においてトルストイの『アンナ・カレーニナ』をきわめて高く評価する一方で、リョーヴィンの戦争観を厳しく批判していました。

この長編小説については、稿を改めてきちんと考察しなければならないと思いますが、ここでは露土戦争とドストエフスキーのトルストイ観という視点から少し言及しておきたいと思います。

なぜならば、トーツキーに騙されて失恋した彼の友人がコーカサスの戦線へと志願してクリミアで戦死したという『白痴』に描かれている小さなエピソードと、アンナが自殺した後にヴロンスキーが私費を投じて義勇軍を創設して戦争にむかうという記述に、二つの作品の類似性とともに作者の戦争観の違いを感じているからです。(『白痴』における『椿姫』の役割については、いずれこのホームページにも掲載したいと思いますが、差し当たっては拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』、84~88頁参照)。

ドストエフスキーは1877年の『作家の日記』で、「『アンナ・カレーニナ』は芸術作品としては、まさに時宜を得てさっと現われた完成された作品であって、現代のヨーロッパ文学中、何ひとつこれと比べることができないような作品である。第二に、これはその思想的内容から言って、何ともロシア的なものである。われわれ自身と血でつながっているものである」とこの長編小説を高く評価しています(川端香男里訳、『作家の日記』、新潮社、1980年、118-9頁)。

しかし、1876年の『作家の日記』6月号でドストエフスキーは、東ローマ帝国の皇都(ツァーリグラード)であったギリシア正教の聖地コンスタンチノープル(現在のイスタンブール)が、「正教の指導者、正教の保護者かつ保存者として」のロシアのものになるだろうと記していました。

それゆえ、主人公のリョーヴィンが次のように語る箇所を引用したドストエフスキーはトルコによる大量虐殺を指摘しながら、次のような考えをそれは「復讐」ではないと厳しく批判しているのです。

「……自分の兄をもふくむ数十人の人びとが、首都からやって来た何百人かの口達者な義勇兵たちの話を根拠にして、民衆の意志と思想とを表現しているのは、新聞と、それから自分たちであると揚言する権利をもっているという考えには、彼はとうてい同意することはできなかった。しかもその思想たるや、復讐と殺人とによって表現されるものではないか。」

さらにドストエフスキーはトルストイがリョーヴィンの思いを、「向こうの、別の半球で何が起こっていようと、ぼくには何の関係があるのだ。スラヴ民族の迫害に対しては直接的な感情はないし、あるはずもない。なぜなら私は何も感じないからだ」と描いていることを強調して、「社会の教師」であるトルストイは、「何を私たちに教えようというのだろうか」と厳しく詰問しています。

たしかに、ドストエフスキーが引用した箇所からは、リョーヴィンの無力感さえ漂よってくるようで、この二つ記述を比較するとトルコの圧制下に苦しむスラヴの民衆への連帯を呼びかけたドストエフスキーの言葉の方が説得力を持っていると感じる読者もいると思います。

しかし、私はそこに激しい近代戦が行われたクリミア戦争に参戦していたトルストイと、戦争の悲惨さを体験していなかったドストエフスキーとの違いを感じ、苦渋に満ちたリョーヴィンの思いからは、後に日露戦争を批判するようになるトルストイ自身の苦悩をすら感じるのです。

強いていうならば、リョーヴィンの苦悩は司馬遼太郎の長編小説『坂の上の雲』の終章「雨の坂」で描かれているような、悲惨な近代戦が行われた日露戦争を辛うじて勝利に導いた後で、僧侶になろうとした海軍参謀・秋山真之の苦悩に通じているといえるかもしれません。

そしてそれは日露戦争のあとで、ヤースナヤ・ポリャーナにトルストイを訪ねた徳冨蘆花の思いとも重なっているでしょう。

『作家の日記』を訳した川端香男里氏は、ここで論じられている露土戦争の結果について、「イギリスの干渉にもかかわらず、一八七八年三月のサン・ステファノ条約で、セルビア、モンテネグロ、ルーマニア、ブルガリアの独立が承認された。しかもその後、ちょうど日清戦争後、日本が三国干渉で苦杯をなめたのと似た状況がロシアにも起き、一八七八年六月のベルリン会議でロシアは大幅な譲歩を強いられることになる」と説明しています。

28日に行われる日本トルストイ協会での講演では、長編小説『戦争と平和』をとおして、『坂の上の雲』や『翔ぶが如く』などの司馬作品における日本の近代化と戦争の考察に迫りたいと考えています。

関連記事

ドストエフスキーとトルストイⅠ――『虐げられた人々』とその時代

ドストエフスキーとトルストイⅡ――『死の家の記録』と『罪と罰』をめぐって

(2015年12月13日、図版とリンク先を追加)

「著書・共著」に『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』(東海教育研究所、2005年)を掲載しました

今日のブログに書いた「麻生副総理の歴史認識と司馬遼太郎氏のヒトラー観

という題名の記事で、司馬遼太郎氏の普仏戦争観やヒトラー観にふれましたので、

この問題を論じている標記の著作の「はじめに」の抜粋と「目次」を

「著書・共著」のページに掲載しました。

消えた〈公論〉と司馬遼太郎氏の危惧

昨日、ブログに書いた「消えた「時論公論」(?)」という記事で、8月2日(金)の深夜午前0時から10分間、「原発汚染水危機 総力対応を」とのタイトルで、汚染水への緊急の対策の必要性を訴えた解説委員・水野倫之氏の放送内容が、その後のインターネット上のNHKの「最新の解説」欄などでは見つからないと記しました。

その後、報道にも携わっている友人から確かに削除されているので、「自主規制」したものと思われるとのメールが入りました。

福島第一原子力発電所における汚染水への緊急対策の必要性を訴えた水野氏の解説は政治的なものではなく、「国民の生命」や日本の大地、さらには地球環境にもかかわる重要な見解だったと思われます。

長編小説『坂の上の雲』において常に皇帝や上官の意向を気にしながら作戦を立てていたロシア軍と比較することで、自立した精神をもって「国民」と「国家」のために戦った日本の軍人を描いた司馬遼太郎氏は、その終章「雨の坂」では主人公の一人の秋山好古に、厳しい検閲が行われ言論の自由がなかったロシア帝国が滅びる可能性を予言させていました。

そして日露戦争当時のロシア帝国と比較しながら司馬氏は、「ナショナリズムは、本来、しずかに眠らせておくべきものなのである。わざわざこれに火をつけてまわるというのは、よほど高度の(あるいは高度に悪質な)政治意図から出る操作というべきで、歴史は、何度もこの手でゆさぶられると、一国一民族は潰滅してしまうという多くの例を残している(昭和初年から太平洋戦争の敗北までを考えればいい)」と指摘していたのです(『この国のかたち』第一巻、文春文庫)。

現在の日本でも近隣諸国との軋轢については詳しく報道される一方で、国内で発生している原子炉の重大な危険性についての情報は制限されていると思えます。いったい、「公共放送」のNHKは、本来ならばより大々的に報道すべき解説の内容を、誰の意向を気にして「自主的に規制」しなければならなかったのでしょうか。

今日も民間の新聞やニュースは、東電が「地下の汚染水が遮水壁をすでに乗り越えている可能性を認めた」ことを報じています。

「原発汚染水危機 総力対応を」というタイトルの解説は、「国民の生命」を守る勇気ある解説であり、再放送を強く要望したいと思います。

「著書・共著」に『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、2002年)を掲載しました

昨日のブログに書いた、〈「大地主義」と地球環境〉という題名の記事で、

司馬遼太郎氏の文明観にふれましたので、

「第五章 「公」としての地球――司馬遼太郎の文明観」で、この問題を論じている

『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』の「目次」と「あとがき」を

「著書・共著」のページに掲載しました。

 

「お知らせ」に日本トルストイ協会での講演を掲載しました

 

来る9月28日(土)に日本トルストイ協会で、「『戦争と平和』で司馬作品を読み解く――『坂の上の雲』と『翔ぶが如く』を中心に」(仮題)を講演します。

 

 時間や場所など詳しくは、日本トルストイ協会のHP:chobi.net/~tolstoy/  をご参照ください。

  

アニメ映画『風立ちぬ』と鼎談集『時代の風音』

作家・堀辰雄(1904~53)の小説『風立ちぬ』と同じ題名を持つ、宮崎駿監督の久しぶりのアニメ映画の主人公の一人が、戦闘機「零戦」の設計者・堀越二郎であることを知ったとき、複雑な思いが胸を去来しました。

封切り前から「零戦」の展示会などが始まっていることを知って、長編小説『坂の上の雲』をめぐる「歴史論争」のことが思い出され、参議院選挙の直前に封切られるこのアニメ映画が政治的に利用されて「戦うことの気概」が賛美され、「憲法」改正の必要性と結びつけられて論じられることを危惧したのです。

しかし、この思いは杞憂に過ぎませんでした。作家・司馬遼太郎氏(1923~96)を敬愛し、作家・堀田善衛氏(1918~98)との対談に自ら「書生」として司会の役を名乗り出ていた宮崎監督は、長編小説『坂の上の雲』をめぐる複雑な動きのことも心に銘記していたようです。

映画の公開直前に「憲法改正」を特集したジブリの小冊子「熱風」で宮崎監督は、「憲法を変えることについては、反対にきまっています」と明言し、さらに「96条を先に変える」ことは「詐欺です」と解釈の余地のない自分の声で語っています。

鼎談集『時代の風音』(朝日文庫、1997)で司馬氏は、20世紀の大きな特徴の一つとして「大量に殺戮できる兵器を、機関銃から始まって最後に核まで至るもの」を作っただけでなく、「兵器は全部、人を殺すための道具ながら、これが進歩の証(あかし)」とされてきたと厳しく批判していたのです(「二十世紀とは」)。

「近代が興ることによって」、「ヨーロッパの木は手近のところは裸になってしまった」と指摘した司馬氏は、自動車の排気ガスの規制の提案が出ているが「日本もアメリカもいい返事をしない」ことも批判し、この言葉を受けて堀田氏は「これからは日本は自国一国ではなしに、地球全体のことを考えていかないとやっていけなくなる」と発言していました(「地球人への処方箋」『時代の風音』)。

この鼎談を行った三人には、「富国強兵」を目指した一九世紀的な〈古い知〉に基づく「国民国家」型のモデルを乗り越えることができなければ、真の「国際化」はおろか、焦眉の課題となっている「地球の環境悪化」を解決することもできないという認識があったといえるでしょう。

*        *       *

このブログの題名に取り入れた「風と」という表現は、この鼎談集の題名の『時代の風音』とアニメ映画『風の谷のナウシウカ』だけではなく、司馬氏の比較文明論的な視野がよく現れている伝奇小説『風の武士』を強くイメージして付けていました。

まだアニメ映画《風立ちぬ》(小説と区別するために《》で表記します)を見てはいないのですが、「憲法を変えることについては、反対にきまっています」という宮崎監督の言葉や《風立ちぬ》の「企画書」からは、困難な時代を必死に夢を持って生きた正岡子規という若者を主人公とした司馬氏の長編小説『坂の上の雲』のきわめて深い理解も伝わってくるように感じています。

 

「改憲」の危険性と司馬遼太郎氏の「憲法」観

「憲法96条の改正と「臣民」への転落」と題した先日の記事では、司馬遼太郎氏の「国民」観に言及しながら「改憲」の危険性を指摘しました。

いわゆる「司馬史観」論争に危機感をもって急いで書き上げた拙著『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、2002年)の終章で記したことと重なりますが、ここでは司馬氏の「憲法」観を再確認しておきたいと思います。

日露の衝突をクライマックスとした長編小説『坂の上の雲』を書く中で「近代の国家」と戦争の問題を深く考察した司馬氏は、『ロシアについて――北方の原形』という著作で次のように記していました。

「国家は、国家間のなかでたがいに無害でなければならない。また、ただのひとびとに対しても、有害であってはならない。すくなくとも国々がそのただ一つの目的にむかう以外、国家に未来はない。ひとびとはいつまでも国家神話に対してばかでいるはずがないのである」(「あとがき」)。

作家の井上ひさし氏との対談では、「法慣習とまでは言いませんが」と断りつつも、平和憲法のほうが「昔なりの日本の慣習」に「なじんでいる感じ」であると語り、さらに「日本が特殊の国なら、他の国にもそれも及ぼせばいいのではないかと思います」と司馬氏は続けていました(「日本人の器量を問う」『国家・宗教・日本人』、講談社、1996年)。

『坂の上の雲』の後で江戸時代に起きた日露の衝突を防いだ商人・高田屋嘉兵衛を主人公とした『菜の花の沖』を書き上げていた司馬氏は、この憲法が遠く江戸時代に語られた高田屋嘉兵衛の言葉にも連なっていることを知っていたのです。

ここで司馬氏が主張していることは、「一国平和主義」の幻想ではありません。『坂の上の雲』を書き終えた後で司馬氏は、「日本というこの自然地理的環境をもった国は、たとえば戦争というものをやろうとしてもできっこないのだという平凡な認識を冷静に国民常識としてひろめてゆく」ことが、「大事なように思える」と書いていたのです(「大正生れの『故老』」『歴史と視点』、1972年)。

このような見解は、近代の「国民国家」がお互いに「富国強兵」を競い合うなかで戦争を大規模化させ、ついには三〇万人以上の人々を殺害した原子爆弾が用いられたという過去の事実を歴史小説を書く中で冷静に観察したことによるのです。

ソ連のチェルノブイリでおきた原子炉事故の後でも司馬氏は、「平凡なことですが、人間というのはショックが与えられなければ、自分の思想が変わらないようにできているものです」と冷静に分析し、「この事件は大気というものは地球を漂流していて、人類は一つである、一つの大気を共有している。さらにいえばその生命は他の生物と同様、もろいものだという思想を全世界に広く与えたと思います」と語っていました(「樹木と人『十六の話』」。

私たちは「戦争」が紛争解決の手段だとする19世紀的な古く危険な歴史観から脱却し、「核の時代」では戦争が地球を滅ぼすという「平凡な事実」をきちんと認識すべき時期にきていると思われます。

 

「ブラック企業」と「農奴制」――ロシアの近代化と日本の現在

私は2010年に「蟹工船」とドストエフスキーの『死の家の記録』とを比較した劇評を書きましたが、現在の日本では若者たちの労働条件や雇用条件の悪化にいっそう拍車がかかっているようです。

今回の選挙では社員にたいして公然と24時間働くことを求めて、「ブラック企業」にもノミネートされるような会社の前社長が立候補したことへの厳しい批判だけでなく、「グローバリゼーション」の強大な圧力下にある現状ではそのような企業の存在も認められるとする擁護論も聞かれます。

経営について私は素人なのでこの問題の詳しい考察は避け、ここでは一見、無関係のように思われる「ロシアの近代化と農奴制」の関わりについて注意を喚起しておきたいと思います。

19世紀のロシア文学を研究していると、地主には反抗する農民に対しては鞭(むち)打ちなどの体罰を与え得たり、25年もの長い期間にわたって兵士として出すことが許されていた「農奴制」の過酷さが伝わってきます。

このように書くと農奴制はロシアの「後進性」を示す象徴的な制度のように受け取られるかもしれませんが、農奴制は福沢諭吉が「魯の文明開化」と呼んだ近代化によってもたらされたものだったのです。すなわち、西欧列強に対抗するためにロシアのピョートル大帝は、西欧的な知識を有する有能な若者たちに「立身出世」の機会を与えて「貴族」に取り立てる一方で、「富国強兵」策の財源を確保するために農民たちから「人頭税」という過酷な税を徴収したのです。

このような政策を歴代の皇帝が受け継いだばかりでなく強化したために、ロシアは「富国強兵」に成功し、皇帝と一部の貴族は莫大な富を得ました。しかし、人口の大部分を占め、それまでは自立していた農民は、権利を奪われ生活が貧しくなって「農奴」と呼ばれるような存在へと落ちぶれていったのです。

日露戦争をクライマックスとした長編小説『坂の上の雲』を書き終えた後で、司馬遼太郎氏は「私は、当時のロシア農民の場からロシア革命を大きく評価するものです」と書き、「帝政末期のロシアは、農奴にとってとても住めた国ではなかったのです」と続けていました(「ロシアの特異性について」『ロシアについてーー北方の原形』文春文庫)。

むろん、現在の日本では社員をむち打つことや兵隊にだすことはもちろんのこと、差別的な言葉を浴びせることも法律で禁じられています。しかし、鞭(むち)で打つことが許される「農奴制」と、簡単に社員を解雇できるような制度のどちらが「人道的な制度」と呼べるでしょうか。

「グローバリゼーション」の強大な圧力に対抗するためにナショナリズムが煽られ、ふたたび各国で「富国強兵」が目指されるようになっている現在、「ロシアの近代化と農奴制」の問題は、日本だけでなく世界の今後を考えるためにも、「他山の石」として、きちんと考察されねばならないでしょう。

 

(2015年6月4日、カテゴリー追加)