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『坂の上の雲』

「物質への情熱」と「好奇心に満ちた多様性」――寺田透の小林秀雄観(3)

Ⅰ、「物質への情熱」――小林秀雄の正岡子規論

小林秀雄に正岡子規の「歌よみに与ふる書」を論じたエッセイ「物質への情熱」があります(『小林秀雄全集』第一巻)。

この冒頭で「正岡子規に『歌よみに与ふる書』といふ文章がある事は誰でも知つてゐる。そのかたくなに、生ま生ましい、強靱な調子を、私は大変愛するのだが」と記した小林秀雄は、「読んでゐて、病床に切歯する彼の姿と、へろへろ歌よみ共の顔とが、並んで髣髴と浮んで来るには少々参るのだ」と続けていました。

さらに、「惟ふに正岡子規は、日本詩人稀れにみる論理的な実証的な精神を持つた天才であつた」と記した小林秀雄は、「どんな大きな情熱も情熱のない人を動かす事は出来ないのかも知れない。子規の言葉は理論ではない、発音された言語である」との理解を示していました。

ただ、このエッセイに戸惑いを覚えたのは、冒頭近くで正岡子規の主張に対しては「到底歌よみ共には合点が行かぬと私は思ふ。少くとも子規が難詰したい歌よみ共には通じまいと思ふ」と書き、「『歌よみに与ふる書』は真実の語り難いのを嘆じた書状である。果して他人(ひと)を説得する事が出来るものであらうか」とも記した小林が次のように続けていたことです。

「詩人は美しいものを歌ふ楽な人種ではない。在るものはたゞ現実だけで、現実に肉薄する為に美しさを頼りとしなければならぬのが詩人である。女に肉薄するのに惚れるといふ事を頼りにするのが絶対に必要な様なものである」。

Ⅱ、「歌よみに与ふる書」と『坂の上の雲』

正岡子規が新聞『日本』に掲載した「歌よみに与ふる書」については、司馬氏も長編小説『坂の上の雲』でふれています。私はこの箇所こそが『坂の上の雲』の中核となっていると考えています。

リンク→子規の「歌よみに与ふる書」と真之――「かきがら」を捨てるということ

なぜならば、『坂の上の雲』単行本の第4巻のあとがきでは、「当時の日本人というものの能力を考えてみたいというのがこの作品の主題だが、こういう主題ではやはり小説になりにくい」と記し、その理由としてこのような小説は「事実に拘束される」が、「官修の『日露戦史』においてすべて都合のわるいことは隠蔽」されていると記されています。このような「事実」の隠蔽に対する怒りが、膨大な時間をかけつつ自分で戦史を調べてこの長編小説を書かせていたのだと思えるのです。

一方、よく知られているように、小林秀雄は敗戦後の1946年に戦前の発言について問い質されると「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と啖呵を切っていました。

しかし、1948年に行われた物理学者の湯川秀樹博士との対談では、「原子力エネルギー」を産み出した「高度に発達した技術」の問題を「道義心」の視点から厳しく指摘した小林は、原発の推進が「国策」となるとその危険性を「黙過」したのです。

それゆえ、俳人・正岡子規を中心に司馬氏の『坂の上の雲』を読み解こうとしていた私は、福島第一原子力発電所の大事故がまだ収束していないにもかかわらず、「アンダーコントロール」と宣言し、自然環境を軽視した政治が行われるようになった日本をみながら、「事実をきちんと見る」ためには「評論の神様とも言われる」文芸評論家・小林秀雄の方法をきちんと問い直さなければならないと痛感したのです。

Ⅲ、「好奇心に満ちた多様性」――寺田透の正岡子規観

注目したいのは、小林秀雄が正岡子規論に「物質への情熱」という題名を付けたことに強い違和感を記していた寺田透が、『子規全集』第二巻に「従軍発病とその前後」という題の「解説」を書き、そこで子規の「多様性」に注意を促していることです。

「明治二十七年の句を通読して驚嘆させられるのは、無論これは全部についても言へることだが、子規の多産であり、その病軀にもかかはらぬ健康であり、さらにこれが江戸時代の俳句と子規のそれを区別するもつとも明瞭なことだが、子規の好奇心に満ちた多様性といふことである。」

ここで言及されている明治27年には、日清戦争が勃発し、この翌年に子規は病身をおして従軍記者となるのですが、この時期についてはこのHPの「正岡子規・夏目漱石関連簡易年表」を引用することによって、この時期と子規との関連を簡単に説明しておきます。

*   *   *

1894(明治27) 子規、2月、上根岸82番地(羯南宅東隣)へ転居。2月11日『「小日本』創刊、編集責任者となり、月給30円。小説「月の都」を創刊号より3月1日まで連載。3月 挿絵画家として浅井忠より中村不折を紹介される。5月、北村透谷の自殺についての記事を書く。7月、『小日本』廃刊により『日本』に戻る。7月29日、清国軍を攻撃。8月1日、清国に宣戦布告。9月黄海海戦で勝利、11月、旅順を占領。

1895(明治28) 子規、3月、日清戦争への従軍許可がおりる。4月10日、宇品出港、近衛連隊つき記者として金州・旅順をまわる。金州で従弟・藤野潔(古白)のピストル自殺を知る。「陣中日記」を『日本』に連載。5月4日、金州で森鴎外を訪問。17日、帰国途上船中で喀血。23日、県立神戸病院に入院、一時重態に陥る。7月23日、須磨保養院へ移る。8月20日、退院。8月27日、松山中学教員夏目金之助の下宿「愚陀仏庵」に移る。」

*   *   *

日本にとってばかりでなく、子規にとってもたいへんな年であったことが分かりますが、「たとへば次の新年の句二句すら、題材が富士であり筑波であるにもかかはらず、陳腐さより、時代の新しさを感じさせる」とし、〈ほのほの(原文ではくりかえし記号)と茜の中や今朝の不二〉と〈白し青し相生の筑波けさの春〉の二句を紹介した寺田は、こう記しています。

「これらの句からは、藩境などといふもののなくなつた国土を、自由に走つて行ける眼と心の喜びと言つたものが直覚されるといふことは言はずにゐられない。」

そして、子規が独身であるにも関わらず、〈古妻のいきたなしとや初鴉〉という「虚構」を記した句も書いていることを注目した寺田は、「この春には春雨の題で、〈春雨のわれまぼろしに近き身ぞ〉/深々として不気味な句を作者は作つた」ことを紹介して、「これも、誰もまだ作ることのできなかつた句だと言へよう」と子規の句の「多様性」に注意を促していました。

さらに、〈あちら向き古足袋さして居る妻よ〉という句を評して、「この明るさは、現実に縛られず、その上に別種の世界をくりひろげる空想のそれだといふことである」とも寺田は書いていました。

子規に関していろいろな著書を調べていた際に、最も刺激を受けた子規論の一つが「虚構」をも許容する子規の「多様性」を指摘した寺田透のこの「解説」だったのです。

「歌は事実をよまなければならない。その事実は写生でなければならない」との持論を展開した子規には、「虚構」をも許容する「多様性」があったという寺田の指摘は非常に重要だと思えます。

なぜならば、1908年に長編小説『春』で、北村透谷との友情やその死について描くことになる島崎藤村(1872~1943)は、北村透谷(1868~1894)の追悼記事を書いた可能性の高い子規と1897年に会って新聞『日本』への入社についての相談をしたばかりでなく、子規の小説『花枕』についての感想も述べていたのです。

子規が小説「曼珠沙華」で部落民に対する差別の問題をも描いていることを考えるならば、後に長編小説『破戒』を書くことになる藤村が子規と会っていたことの意味は大きいでしょう。

リンク→正岡子規と島崎藤村の出会い――「事実」を描く方法としての「虚構」

(2016年2月3日。〈「事実をよむ」ことと「虚構」という方法〉より改題し、大幅に改訂)

 

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司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって

司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって

〈司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって〉を「主な研究」に掲載

先日、論文〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉を「主な研究」に掲載しました。

しかし、論文のテーマを明確にするために、その後、節の題名を変更するとともに、〈司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって〉と〈司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって〉の二つに分割しました。

今回は、まず「司馬遼太郎と小林秀雄(1)」を「主な研究」に掲載します。

構成/ はじめに

1,情念の重視と神話としての歴史――小林秀雄の歴史認識と司馬遼太郎の批判

2、小林秀雄の「隠された意匠」と「イデオロギーフリー」としての司馬遼太郎

 

リンク→司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって

リンク→司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって

リンク→「様々な意匠」と隠された「意匠」

リンク→作品の解釈と「積極的な誤訳」――寺田透の小林秀雄観

リンク→「不注意な読者」をめぐって(2)――岡潔と小林秀雄の『白痴』観

リンク→(書評)山城むつみ著『小林秀雄とその戦争の時――「ドストエフスキイの文学」の空白』(新潮社、2014年)

 

「講座  『坂の上の雲』の時代と『罪と罰』の受容」を「新着情報」のページに掲載

リンク→講座 『坂の上の雲』の時代と『罪と罰』の受容

  3月4日に標記の題名で<世田谷文学館友の会>の講座を行うことになりましたので、講座のリード文と日時などを「おしらせ」123号より、「新着情報」のページに転載しました。

<世田谷文学館友の会>の講座では、これまでにも、2013年2月19日に「『草枕』で司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を読み解く」という題名で、2014年6月27日には、「新聞記者・正岡子規と夏目漱石――『坂の上の雲』をとおして」という題名でお話しする機会を頂きました。

今年は「憲法」のない帝政ロシアで1866年に書かれたドストエフスキーの『罪と罰』が発表されてから150年に当たり、スペインのグラナダで『罪と罰』をメインテーマとした国際学会(IDS)が開催されます。

それゆえ、今回の講座では新聞『日本』の記者でもあった正岡子規と夏目漱石や島崎藤村との関係などに注目しながら、評論「『罪と罰』の殺人罪」(1893年)を書いた北村透谷を主人公の一人とした藤村の『春』や日露戦争直後に上梓された『破戒』などとその時代を分析することにより、『罪と罰』が日本の近代文学に与えた深い影響と現代的な意義についてお話したいと考えています。

(参考図書:高橋『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年)。

安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(2)――長編小説『竜馬がゆく』における「神国思想」の批判

ISBN978-4-903174-23-5_xl(←画像をクリックで拡大できます)

『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』(人文書館、2009年)

 

安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(2)――長編小説『竜馬がゆく』における「神国思想」の批判

いよいよ今年は、日本の未来をも左右する可能性の強い参議院選(あるいは衆参同時選挙)が行われる重要な年となりましたが、安倍政権の「憲法」観の危険性を認識している人がまだ少ないようです。

それゆえ、昨日は〈安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」〉と題して、安倍首相の「改憲」の本音に対する公明党・山口代表の不思議な批判について考察した記事を掲載しました。

戦後70年を迎えて語った「安倍談話」で、安倍氏が「歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます」と未来志向を語っていたので、このような批判は当たらないと思う人が少なくないかもしれません。

しかし、このように語り始めた安倍氏が「歴史の教訓」の例として取り上げたのは、明治時代における「立憲政治」の樹立と日露戦争の勝利でした。

昨年の「戦争法案」の強行採決に際しては安倍政権が「立憲政治」を尊重していないことが明らかになりましたが、長編小説『坂の上の雲』のクライマックスで描かれている日露戦争についても、安倍氏は「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と語っていたのです。

司馬氏の『坂の上の雲』は秋山兄弟など軍人に焦点が当てられることで、保守的な政治家や武器の輸出を目指していた大企業の幹部から高く評価されていましたが、『坂の上の雲』の映像化について司馬氏は「この作品はなるべく映画とかテレビとか、/そういう視覚的なものに翻訳されたくない作品であります」と明確に記していました(『「昭和」という国家』日本放送出版協会、1998年)。

しかも、イデオロギーを「正義の大系」と呼んで、その危険性に注意を促していた司馬氏は、『坂の上の雲』執筆中の1970年に「タダの人間のためのこの社会が、変な酩酊者によってゆるぎそうな危険な季節にそろそろきている」ことに注意を促していました(「歴史を動かすもの」『歴史の中の日本』中央公論社、1974年、114~115頁)。

そして、この長編小説を書き終えた後では、「政治家も高級軍人もマスコミも国民も、神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」と書いて、政治家やマスコミの歴史認識を厳しく批判していたのです(「『坂の上の雲』を書き終えて」『司馬遼太郎全集』第六八巻、評論随筆集、文藝春秋、2000年、49頁)。

*   *   *

司馬氏が「日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦の時間」を「異胎」と呼び、そのことがマスコミなどで広がり、司馬が昭和初期を「別国」と呼んだこともよく知られており、そのために司馬氏が「明治国家」の讃美者であるかのように思っている読者は今も少なくないようです。

しかし、『竜馬がゆく』において幕末の「攘夷運動」を詳しく描いた司馬氏は、その頃の「神国思想」が、「国定国史教科書の史観」となったと歴史の連続性を指摘し、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判していたのです(二・「勝海舟」)。

この記述に留意するならば、幕末の動乱を描きつつ司馬氏の視線が昭和初期の日本に向けられていたことは確かでしょう。〈拙著『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』(人文書館)、「序」参照〉。

しかも『翔ぶが如く』で、明治元年に「神事(祭祀(さいし)、大嘗(だいじょう)、鎮魂、卜占(ぼくせん)」をつかさどる奈良朝のころの「神祇官(じんぎかん)」が再興されていたことを説明した司馬氏は、「仏教をも外来宗教である」とした神祇官のもとで行われた「廃仏毀釈」では、「寺がこわされ、仏像は川へ流され」、さらに興福寺の堂塔も破壊されたことを紹介していたのです。

 

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(2017年1月3日、副題を追加)

 

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自著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』の紹介文を転載

「桜美林大学図書館」の2015年度・寄贈図書に自著の紹介文が表紙の図版とともに掲載されましたので転載します。

Masaoka_Shiki_Takahashi

 

木曽路の山道を旅して「白雲や青葉若葉の三十里」という句を詠み、東京帝国大学を中退して新聞『日本』の記者となった正岡子規は、病を押して日清戦争に従軍していました。

本書では子規の叔父・加藤拓川と幼友達の秋山好古や、新聞『日本』を創刊する陸羯南との関係にも注意を払うことにより、正岡子規の成長をとおして新聞報道や言論の自由の問題が『坂の上の雲』でどのように描かれているかを考察しました。「写生」や「比較」という子規の「方法」は、親友・夏目漱石に強い影響を及ぼしているだけでなく、秋山真之や広瀬武夫の戦争観を考える上でも重要だと思えるからです。

『坂の上の雲』において一九世紀末を「地球は列強の陰謀と戦争の舞台でしかない」と規定し、「憲法」のない帝政ロシアとの比較を行った司馬氏は、西南戦争に至る明治初期の時代を描いた『翔ぶが如く』では、子規を苦しめることになる「内務省」や新聞紙条例などの問題を詳しく分析していました。

今世紀の国際情勢はこれまで以上に複雑な様相を示していますが、「文明の岐路」に立っている日本の今後を考えるためにも、文明論的な視点からこれらの司馬作品を考察した本書を一読して頂ければ幸いです。

(リベラルアーツ学群  高橋 誠一郎)

リンク→ 『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、目次詳細

 

大阪からの危険な香り――弁護士ルージンと橋下徹氏の哲学

〈「道」~ともに道をひらく~〉というテーマで大阪で行われた先日の産学共働フォーラムの一般発表発表で私は、『坂の上の雲』で機関銃や原爆などの近代的な大量殺戮兵器や軍事同盟の危険性を鋭く描いていた司馬氏が、高田屋嘉兵衛を主人公とした長編小説『菜の花の沖』で、江戸時代における「軍縮と教育」こそが日本の誇るべき伝統であると描いていたことを比較文明学的な視点から確認しました。

リンク商人・高田屋嘉兵衛の自然観と倫理観――『菜の花の沖』と現代

しかし、2015年11月22日に行なわれる大阪府市長ダブル選挙についての各社世論調査では、政界引退を表明している橋下徹・大阪市長が率いる「大阪維新の会」系の松井府知事と吉村候補が有利との選挙予測が出たとのことです。

他府県のことなので、あまり関与すべきではないとも考えて発言を控えていましたが、国政選挙にも関わることなので、このブログでも取り上げることにしました。

*   *   *

実は、〈なぜ今、『罪と罰』か(4)――弁護士ルージンと19世紀の新自由主義〉と題したこのブログの記事でルージンという弁護士について論じた際に思い浮かべたのは、権力を得るためには何をしてもよいと考えているかのように思える弁護士の橋下氏のことでした。

「経済学の真理」という視点から「科学はこう言う。まず何ものよりも先におのれひとりを愛せよ、なんとなればこの世のすべては個人の利害にもとづくものなればなり」と主張したルージンは、ドゥーニャとの結婚の邪魔になるラスコーリニコフを排除するために、策略をもってソーニャを泥棒に陥れようとしていました。

一方、地方行政のトップであり、かつ法律を守るべき立場の弁護士でもある橋下氏が、公約を覆して府民や市民の多額の税金を費やして自分の有利になるような選挙を行うことが正当化されるならば、民主政治だけでなく学校教育の根本が揺らぐようになる危険性があると思われます。

*   *   *

かつての日本では、約束を守ることや誠実さが人間に求められていましたが、そのような価値観が大きく変わり始めていると感じたのは、大学で『罪と罰』の授業を行い始めてから10年目のころでした。

その授業で私はラスコーリニコフの「非凡人の理論」が、後にヒトラーによって唱えられる「非凡民族の理論」を先取りしている面があり、その危険性をポルフィーリイに指摘させていたことに注意を促していました。

しかし、20世紀の終わりが近づいていた頃から、ヒトラー的な方法で権力を奪取することも許されると、ヒトラーを弁護する感想文が出てきたのです。人数としては100人ほどのクラスに数名ですから少ないとは言えますが、そのように公然と主張するのではなくとも内心ではそのように考える学生は少なくなかったのではないかと思えるのです。

「今の日本の政治に一番必要なのは、独裁ですよ」と語ったとも伝えられる橋下徹市長の手法は、まさにこのような学生たちの主張とも重なっているようにも感じられます。

「島国」でもある日本では「勝ち馬に乗る」のがよいという価値観も強いのですが、ヒトラーが政権を取った後のドイツや岸信介氏が商工大臣として入閣した東條英機内閣に率いられた日本がその後、どのような経過をたどって破滅したかに留意するならは、ギャンブル的な手法での権力の維持を許すことの危険はきわめて大きいと思われます。

正岡子規の「比較」という方法と『坂の上の雲』

司馬氏の長編小説『菜の花の沖』(1979~82)では、淡路島の寒村に生まれ、兵庫に出て樽廻船の炊(かしき)から身を起こして北前船の船長となり、折から緊張の高まりつつあった北の海へと乗り出して、江戸時代に起きた日露の衝突の危機を救った商人・高田屋嘉兵衛を主人公としています。

注目したいのは、この長編小説で高田屋嘉兵衛とナポレオンが同じ年に生まれていただけでなく「両人とも島の出身だった」と描いた司馬氏が、ナポレオンがロシアに侵攻してモスクワを占領したのと同じ1812年に嘉兵衛がロシア側との和平交渉を行っていたことを比較することで、「江戸文明」が世界的に見ても進んでいたことを明らかにしていたことです。

ブルガリアなどに留学していたこともあり、『菜の花の沖』の後で『坂の上の雲』(1968~72)を読んだ私は、日露戦争をクライマックスとしたこの長編小説では、フランスとアメリカに留学した秋山好古、真之の兄弟だけでなく、ロシアで学んだ広瀬武夫やイギリスに留学した夏目漱石などをとおして、これらの国々と日本が文明論的な方法で比較されていると感じました。

さらに、新聞『日本』で「文苑」欄を担当することになる、もう一人の主人公である俳人の正岡子規のことを調べるうちに、彼が松山から上京して間もない頃に「比較」という題で次のように書いていたことを知りました。

「世の中に比較といふ程明瞭なることもなく愉快なることもなし 例へば世の治方を論ずる場合にも乱国を引てきて対照する方能く分り 又織田 豊臣 徳川の三傑を時鳥(ほととぎす)の句にて比較したるが如き 面白くてしかも其性質を現はすこと一人一人についていふよりも余程明瞭也」。

正岡子規は日露戦争の前に亡くなってしまうのですが、子規の「比較」や「写生」という方法に注目するならば、秋山好古・真之の兄弟だけでなく、広瀬武夫や夏目漱石の視線は、子規の視線とも重なっていると思えます。

危機的な時代には「自国中心的な」価値観が強調されてきましたが、そのような認識と宣伝が戦争を拡大させてもきたのです。

そのことに留意するならば、今、必要とされているのは、「比較」や「写生」という方法による冷静な歴史の認識でしょう。

リンク『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015年

「安倍談話」と「立憲政治」の危機(2)――日露戦争の賛美とヒトラーの普仏戦争礼賛

「終戦70年」の節目に当たる今年の8月に発表された「安倍談話」で、「二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます」と語り始めた安倍晋三氏は、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と終戦よりもさらに40年も前の「日露戦争」の勝利を讃えていました。

この文章を目にした時には、思わず苦笑してしまいましたが、それはここで語られた言葉が、1996年に司馬遼太郎氏が亡くなった後で勃発した、いわゆる「司馬史観」論争に際して、「戦う気概」を持っていた明治の人々が描かれている『坂の上の雲』のような歴史観が日本のこれからの歴史教育には必要だとするキャンペーンときわめて似ていたからです。

たとえば、本ブログでもたびたび言及した思想家の徳富蘇峰は、『大正の青年と帝国の前途』において「愛国心」を強調することによって「臣民」に犠牲を強いつつ軍国主義に邁進させていましたが、「大正の青年」の分析に注目した「新しい歴史教科書を作る会」理事の坂本多加雄氏は、「公的関心の喪失」という明治末期の状況が、「『英雄』観念の退潮と並行している」ことを蘇峰が指摘し得ていたとして高く評価していたのです(*1)。

そして、蘇峰を「巧みな『物語』制作者」であるとした坂本氏は、「そうした『物語』によって提示される『事実』が、今日なお、われわれに様々なことを語りかけてくる」として、蘇峰の歴史観の意義を強調したのです。

このような蘇峰の歴史観を再評価しようとする流れの中で、日露戦争をクライマックスとした『坂の上の雲』でも、「エリートも民衆も健康なナショナリズムに鼓舞されて、その知力と精力の限界まで捧げて戦い抜いた」ことが描かれているとする解釈も出てきていていました(*2)。

このような歴史の見直しの機運に乗じて、司馬遼太郎氏が亡なられた翌年の1997年には、安倍晋三氏を事務局長として「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が立ち上げられていたのです。

*   *   *

しかし、気を付けなければならないのは、かつて勝利した戦争をどのように評価するかが、その国の将来に強い影響を与えてきたことです。たとえば、ロシアの作家トルストイが、『戦争と平和』で描いた、「大国」フランスに勝利した1812年の「祖国戦争」の勝利は、その後の歴史家などによってロシア人の勇敢さを示した戦争として讃美されることも多かったのです。

第一次世界大戦での敗戦後にヒトラーも、『わが闘争』において当時の小国プロシアがフランスを破ってドイツ帝国を誕生させた普仏戦争(1870~1871)の勝利を、「全国民を感激させる事件の奇蹟によって、金色に縁どられて輝いていた」と情緒的な用語を用いて強調し、ドイツ民族の「自尊心」に訴えつつ、「新たな戦争」への覚悟を国民に求めていました。

一方、日本でもイラクへの自衛隊派遣が国会で承認されたことや二〇〇五年が日露戦争開戦百周年にあたることから、日露戦争を讃美することで戦争への参加を許容するような雰囲気を盛り上げようとして製作しようとしたのが、NHKのスペシャルドラマ《坂の上の雲》でした*3。

残念ながら、このスペシャルドラマが3年間にわたって、しかもその間に財界人岩崎弥太郎の視点から坂本龍馬を描いた《龍馬伝》を放映することで、戦争への批判を和らげたばかりでなく、武器を売って儲けることに対する国民の抵抗感や危機感を薄めることにも成功したようです。

リンク→大河ドラマ《龍馬伝》と「武器輸出三原則」の見直し

リンク→大河ドラマ《龍馬伝》の再放送とナショナリズムの危険性

こうしてNHKを自民党の「広報」的な機関とすることに成功した安倍政権が、戦後70年かけて定着した「日本国憲法」の「平和主義」だけではなく、「立憲主義」や「民主主義」をも制限できるように「改憲」しようとして失敗し、取りあえず「解釈改憲」で実施しようとして強硬に「戦争法案」を可決したのが「9.17事変」*4だったのです。

 

*1 坂本多加雄『近代日本精神史論』講談社学術文庫、1996年、129~136頁。

*2 藤岡信勝『汚辱の近現代史』徳間書店、1996年、51~69頁。

*3 石原慎太郎・八木秀次「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」『正論』、2004四年11月号、産経新聞社。

*4 この用語については、〈リメンバー、9.17 ――「忘れる文化」と記憶の力〉参照)。

安倍政権の「民意無視」の暴挙と「民主主義の新たな胎動」

今回の国会審議で多数を占めた与党からは「法的安定性は関係ない」と発言した礒崎陽輔首相補佐官や、シールズを批判して利己的個人主義がここまでまん延したのは戦後教育のせいだろうが、非常に残念だ」と記した自民党の武藤貴也衆院議員の常識外れの発言が目立った程度で、最期まで灰色の二つの大きな物言わぬ集団という印象しか受けませんでした。

一方、質問などに立った野党議員は一人一人が個人として屹立し凜々しく見えました。日本の将来を真剣に憂慮して考え抜いた野党議員たちの渾身の発言は、今後も憲政史上長く語り継がれるものと思われます。それは単に私個人の印象にとどまるものではなく、多くの人が共有する思いでしょう。

*   *   *

9月15日のブログで私は「権力」を乱用する安倍晋三氏と江戸時代の藩主を比較して次のように書きました。

「江戸時代には民衆のことを考えない政治をする暴君に対しては、厳しい処罰を覚悟してでもそれを諫める家老がいましたが、現在の自民党には『独裁的な傾向』を強めている安倍首相を諫める勇気ある議員がほとんどいないということです。与党の公明党にも、安倍首相の『国会』を冒涜した発言に苦言を呈する議員がほとんどいないということも明らかになりました」。

しかし、国民からは巨額の税金を取る一方で、国民には秘密裏にTPP交渉を進め、アメリカが始めた「大義なき戦争」に、かつての「傭兵」のように自衛隊を「憲法」に違反してまでも差し出そうとしている安倍晋三氏を藩主に喩えるのは褒めすぎでしょう。

安倍晋三氏にはこのような評価は不本意でしょうが彼が行おうとしていることは、ドイツの作家シラーなどが戯曲『ウィリアム・テル』(ヴィルヘルム・テル)で描いたオーストリアから派遣された14世紀の悪代官ヘルマン・ゲスラーがスイス人に対して行った暴政に似ているのです。

東京新聞:これからどうなる安保法 (1)米要望通り法制化:政治(TOKYO Web)

http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2015092202000210.html …

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15日のブログでは「『暴君』を代えるまでにはもう少し時間がかかるかもしれませんが、昨日のデモからは今回の運動が確実に政治を変えていくだろうという思いを強くしました」と続けていました。

なぜならば、その思いは単なる願望ではなく日本では明治時代に自由民権運動の高まりをとおして薩長藩閥政府を追い詰めて、明治14年(1881)には1889年には国会を開設するという約束を獲得したという歴史を持っているからです。

注目したいのは、その2年後の明治16年(1883)に、『坂の上の雲』の主人公の一人で新聞記者となる若き正岡子規が中学校の生徒の時に、「国会」と音の同じ「黒塊」をかけて、立憲制の急務を説いた「天将(まさ)ニ黒塊ヲ現ハサントス」という演説を行っていたことです。

俳人となった正岡子規は分かりやすい日本語で一人一人が自分の思いを語れるように俳句の改革を行いました。

「民主主義ってなんだ」と問いかけるSEALDs(Students Emergency Action for Liberty and Democracy–s、自由と民主主義のための学生緊急行動)がツイッターの冒頭に掲げている「作られた言葉ではなく、刷り込まれた意味でもなく、他人の声ではない私の意思を、私の言葉で、私の声で主張することにこそ、意味があると思っています」という文章からも、「憲法」と「国会」の獲得に燃えていた明治の若者たちと同じような若々しい思いと高い志が感じられるのです。

最期に、参院特別委員会での強行採決が「無効」であると強く訴えた福山哲郎議員の参議院本会議での反対討論のまとめの部分を引用しておきます。

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残念ながらこの闘い、今は負けるかもしれない。しかし、私は試合に負けても勝負には勝ったと思います。私の政治経験の中で、国会の中と外でこんなに繋がったことはない。ずっと声を上げ続けてきたシールズや、若いお母さん、その他のみなさん。3.11でいきなり人生の不条理と向き合ってきた世代がシールズだ。彼らの感性に可能性を感じています。

どうか国民の皆さん、あきらめないで欲しい。闘いはここから再度スタートします。立憲主義と平和主義と民主主義を取り戻す戦いはここからスタートします。選挙の多数はなど一過性のものです。

お怒りの気持ちを持ち続けて頂いて、どうか戦いをもう一度始めてください。私たちもみなさんお気持ちを受け止め戦います! 国民のみなさん、諦めないでください。

私たちも安倍政権をなんとしても打倒していくために頑張ることをお誓い申し上げて、私の反対討論とさせて頂きます。

(2015年9月23日。「東京新聞」の記事へのリンク先を追加)

李下に冠を正さず――ワイドショーとコメンテーター

国会前のデモで強い雨に打たれながら「戦争法案」に反対の声を上げられている方々に深い敬意と連帯の挨拶をお送りします。

ここのところ体調がすぐれなかったために参加することが出来ませんでしたが、新聞記者でもあった俳人・正岡子規の「写生の精神」に光をあてて『坂の上の雲』を読み解く著書を書き終えたところでもあり、今回の国会審議や昨日の地方公聴会、さらには国会前の抗議活動がどのように報じられているかに強い関心を持って「ワイド!スクランブル」や「ひるおび」などの昼のワイドショーを次々とチャンネルをかえながら視聴していました。

それゆえ、全部の番組を見たわけではないのですが、驚かされたのは「ワイド!スクランブル」で、研究者でもあるコメンテーターの中野信子氏が野党側が抵抗する映像に、「みっともない」と激しく叱りつけて「きちんと審議すべきです」と批判していたことです。たしかに映されている画面のみから判断するとそのようにも見えるかも知れませんが、放送の公平性を重視するならば、こわれたレコードのように同じ答弁を繰り返すばかりでなく、自席から何度もヤジを飛ばして、その都度、鴻池委員長から注意されては撤回していた安倍首相の「みっともなさ」にも言及すべきだったでしょう。

その後すぐに「ひるおび」を見たのですが、そこでは与党の審議方法に強い疑問を投げ掛けた室井佑月氏に対してコメンテーターの田崎史郎氏が、安倍内閣は前回の選挙に際して今度の「安保法案」を公約として掲げていたので、その時にきちんと論じようとしなかった野党の方に問題があると懸命に安倍政権をかばっていました。

その後、ツイッターを見ていたところフリーランス編集者の鈴木耕氏が、この放送を見て「田崎氏は懸命に安倍の代弁。室井さんの話をやたら遮る。ひどいもんだ。御用記者の典型…」と記しているのに気づきました。

メディア戦略を重要視しているとされる安倍首相と報道関係者らとの会食が「歴代首相の中でも突出した頻度で」行われていることを問題にした山本太郎議員が参議院議長に提出した「質問主意書」によれば、時事通信の田崎史郎解説委員が突出した回数で会食に招かれていたことも判明しました。

ワイドショーのコメンテーターは視聴者への強い影響力をもっています。視聴者からのあらぬ疑いを招かぬためにも、コメンテーターには「李下に冠を正さず」の精神が求められるでしょう。

リンク→昨年総選挙での「争点の隠蔽」関連の記事一覧