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『坂の上の雲』

子規の青春と民主主義の新たな胎動(改訂版)

子規の青春と民主主義の新たな胎動(改訂版)

今回の拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)では正岡子規を主人公として新聞『日本』を創刊した恩人・陸羯南との関わりや夏目漱石との友情をとおして『坂の上の雲』を読み解きました。

そのことにより「新聞紙条例」による日本の言論弾圧と帝政ロシアの検閲との比較や、「正教・専制・国民性」を強調することによって帝政ロシアの独自性を訴えた1833年の「ウヴァーロフの通達」が出された後に作家活動に入ったドストエフスキーと「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と説いた「教育勅語」が「憲法」が施行される前月に発布された後の子規や漱石との類似性をより具体的に分析することができたのではないかと考えています。

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なぜならば、日本は明治時代に自由民権運動の高まりをとおして強力な薩長藩閥政府を追い詰めて、国会を開設するという約束を明治一四年に獲得したという歴史を持っているからです。

そのような時期に青春を過ごした子規は松山中学校の生徒の時に、「国会」と音の同じ「黒塊」をかけて立憲制の急務を説いた「天将(まさ)ニ黒塊ヲ現ハサントス」という演説を松山中学校で行い、その後に叔父の加藤拓川をたよって上京しました。そして、「栄達をすてて」新聞記者となった子規は、文芸の道に邁進して日本の伝統的な俳句を再発見しただけでなく、分かりやすい日本語で一人一人が自分の思いを語れるように俳句の改革を行っていました。

そして、この長編小説を書く中で近代戦争の発生の仕組みを分析し、機関銃や原爆など近代兵器の問題を考察していた司馬氏も、「日本というこの自然地理的もしくは政治地理的環境をもった国は、たとえば戦争というものをやろうとしてもできっこないのだという平凡な認識を冷静に国民常識としてひろめてゆく」ことが、「大事なように思える」とも明確に記していたのです(以下、太字は引用者。「『「大正生れの『故老』」『歴史と視点』)。

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これまで『坂の上の雲』については何冊かの拙著で論じてきましたので、簡単に今回の著書に至る流れをふりかえることで、問題点を確認しておきたいと思います。

学生の頃に『竜馬がゆく』を読んで魅力的な人物描写だけでなく、国際的な広い視野に支えられた壮大な構想を持つ司馬作品に魅せられていた私が強い衝撃を受けたのは、司馬遼太郎氏が一九九六年に亡くなられた後で起きたいわゆる「司馬史観」論争でした。この小説を賞賛する人だけでなく、批判する人の多くが『坂の上の雲』では戦争を肯定的に描かれていると解釈していることでした。

しかし、夏目漱石は日英同盟の締結に沸く日本をロンドンから冷静に観察していましたが、司馬氏も『坂の上の雲』において「自国の東アジア市場を侵されることをおそれ」たイギリスが同盟国の日本に求めたのは、「ロシアという驀進(ばくしん)している機関車にむかって、大石をかかえてその前にとびこんでくれる」ことだと書いていました(六・「退却」)。

それゆえ、「戦争する気概」を持っていた明治期の人々が『坂の上の雲』では描かれているとする解釈に強い危機感を感じた私は、自分で司馬論を書くしかないと思い、『竜馬がゆく』から『坂の上の雲』を経て、『菜の花の沖』に至る司馬作品の流れを分析した『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画)を二〇〇二年に上梓しました。

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さらに、『坂の上の雲』の映像化について「この作品はなるべく映画とかテレビとか、/そういう視覚的なものに翻訳されたくない作品であります」と司馬氏が記述していたにもかかわらず(『「昭和」という国家』日本放送出版協会、一九九八年)、NHKがこの作品の大河ドラマを放映しようとしていることを知り、急遽、『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』(東海教育研究所)を二〇〇五年に発行しました。

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この著書ではトルストイの『戦争と平和』が『坂の上の雲』にも強い影響を与えていることを明らかにするために、司馬遼太郎が精読していた徳冨蘆花のトルストイ観や蘆花が鋭く批判した兄・徳富蘇峰の戦争観などとの詳しい比較を行いました。また、日露の戦略の比較や将軍たちの心理描写の分析をとおして『坂の上の雲』における法律や教育や軍事、さらに情報の問題についても考察しました。

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『坂の上の雲』において司馬氏は一九世紀末を「地球は列強の陰謀と戦争の舞台でしかない」と規定していましたが、二一世紀の初めに「同時多発テロ」が起ると、核兵器の先制使用も示唆したブッシュ政権はアフガンに続いてイラクでも「大義なき戦争」に突入し、一時はアメリカが一方的に勝利したかに見えましたが、そのイラクからはテロをも厭わないIS(イスラム国)が誕生し、今世紀の国際情勢はこれまで以上に複雑な様相を見せ始めています。

そして、地球上で唯一の被爆国であるという重たい事実の上に定着していた「憲法」を持つにもかかわらず日本でも、「報復の権利」を主張するアメリカの戦争に引きずられるようにして、今年の九月に自衛隊の派兵を可能とする「安保関連法」が成立しました。

一方、『坂の上の雲』執筆中の一九七〇年に「タダの人間のためのこの社会が、変な酩酊者によってゆるぎそうな危険な季節にそろそろきている」ことに注意を促していた司馬氏は(「歴史を動かすもの」『歴史の中の日本』中央公論社、一九七四年、一一四~一一五頁)、「政治家も高級軍人もマスコミも国民も、神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」と書いていました(太字は引用者。「『坂の上の雲』を書き終えて」)。

さらに司馬氏は言葉を継いで、幕末期だけでなく昭和初期をも視野に入れつつ、「尊皇攘夷」などのイデオロギーに酔って自分の眼で事実を見ない人々を次のように厳しく批判していたのです。

「自国や国際環境についての現実認識をうしなっていた。日露戦争の勝利はある意味で日本人を子供にもどした。その勝利の勘定書が太平洋戦争の大敗北としてまわってきたのは、歴史のもつきわめて単純な意味での因果律といっていい」。

現在の日本は「立憲主義」の根幹が揺らぎ、「明治憲法」さえなかった時代に逆戻りする危険性のある「文明の岐路」に立たされているように見えます。

ただ、このような事態に際して学生団体シールズが「民主主義ってなんだ」と若々しい行動力で問いかけ、それに呼応するかのように「学者の会」などさまざまの会や野党が立ち上がった今回の動きを見ている中で、私は民主主義の新たな胎動が始まっていると感じました。

来年は私が司馬作品の考察を本格的に始めてから二〇年目になりますが、その前夜に文明論的な視野の面で多くの示唆を受けていた司馬氏の学恩に答えることができる書をなんとか発行することができ、嬉しく感じています。

ISBN978-4-903174-33-4_xl(←画像をクリックで拡大できます)

「白い雲」を目指して苦しい坂を登った子規など、明治の「楽天家」たちの青春に焦点を当てて『坂の上の雲』を読み解いた『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)が、私と同世代の愛読者だけでなく、新しい時代を模索する現代の若者にも子規たちの若々しいエネルギーを伝えることができればと願っています。

(2017年10月6日、書影を追加し加筆。11月5日、改訂)

日露戦争の勝利から太平洋戦争へ(2)――「勝利の悲哀」と「玉砕の美化」

前回は「迷信を教育の場で喧伝して回った。これが、国が滅んでしまったもと」であると分析して、教育の問題にも注意を促した司馬遼太郎氏の記述を紹介したあとで、次のように結んでいました。

〈「歴史的な事実」ではなく、「情念を重視」した教育が続けば、アメリカに対する不満も潜在化しているので、今度は20年を経ずして日本が「一億玉砕」を謳いながら「報復の権利」をたてにアメリカとの戦争に踏み切る危険性さえあるように思われるのです。〉

この結論を唐突なように感じる読者もいると思われますが、1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、作家の林房雄は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」と「一億玉砕」を美化するような発言をしていたのです。

しかも、この鼎談でナポレオンを英雄としたばかりでなく、ヒトラーも「小英雄」と呼んで「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語った評論家の小林秀雄は、「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」という林の問いかけに「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と無責任な発言をしていました(太字は引用者、「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁((不二出版、復刻版、2008~2011年)。

『白痴』など多くの長編小説でドストエフスキーが「自殺」の問題を取り上げて厳しく批判していたことに留意するならば、当時からドストエフスキー論の権威と認められていた評論家の小林秀雄は、「玉砕」を美化するような林房雄の発言をきびしく批判すべきだったと思われます。しかし、鼎談では林のこのような発言に対する批判はなく、敗戦間際になると大本営発表などで「玉砕」と表現された部隊の全滅が相次いだのです。

(2016年4月30日。一部、削除)

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前回の論考の副題を「勝利の悲哀」としたのは、日露戦争が始まった時にはトルストイの反戦論「爾曹(なんじら)悔改めよ」に共感しなかった徳富蘆花が、戦後には近代戦争としての日露戦争の悲惨さやナショナリズムの問題に気づいて、終戦の翌年の明治三九年にロシアを訪れて、ヤースナヤ・ポリャーナのトルストイのもとで五日間を過ごし散策や水泳を共にしながら、宗教・教育・哲学など様々な問題を論じた徳富蘆花が1906(明治39)年12月に第一高等学校で「勝利の悲哀」と題して講演していたからです。

リンク→『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』(東海教育研究所、2005年)。

トルストイは蘆花に対して欧米を「腐朽せむとする皮相文明」と呼びながら、力によって「野蛮」を征服しようとする英国などを厳しく批判する一方で、墨子の「非戦論」を高く評価し、日本やロシアなどには「人生の真義を知り人間の実生活をなす」という「特有の使命」があると指摘していました。

蘆花も「勝利の悲哀」において、ナポレオンとの「祖国戦争」に勝利した後で内政をおろそかにして「諸国民の解放戦争」に参加した帝政ロシアをエピローグで批判していた長編小説『戦争と平和』を強く意識しながら、ロシアに侵攻して眼下にモスクワを見下ろして勝利の喜びを感じたはずのナポレオンがほどなくして没落したことや、さらに児玉源太郎将軍が二二万もの同胞を戦場で死傷させてしまったことに悩み急死したことにふれて、戦争の勝利にわく日本が慢心することを厳しく諫めていたのです。

そして、蘆花は日本の独立が「十何師団の陸軍と幾十万噸(トン)の海軍と云々の同盟とによつて維持せらるる」ならば、それは「実に愍(あは)れなる独立」であると批判し、言葉をついで「一歩を誤らば、爾が戦勝は即ち亡国の始とならん、而して世界未曾有の人種的大戦乱の原とならん」と強い危機感を表明して、「日本国民、悔改めよ」と結んでいました。

ここでは詳しく考察する余裕はありませんが、司馬氏は『坂の上の雲』を執筆中の昭和47年5月に書いた「あとがき五」で、幸徳秋水が死刑に処された時に行った徳冨蘆花の「謀反論」にふれて、蘆花は「国家が国民に対する検察機関になっていくことを嫌悪」したと書き、蘆花にとっては父や「父の代理的存在である兄蘇峰」が「明治国家というものの重量感とかさなっているような実感があったようにおもわれる」と書いていました。

しかも、『坂の上の雲』では旅順の激戦における「白襷隊(しろだすきたい」の「突撃」が描かれる前に南山の激戦での日本軍の攻撃が次のように描かれていました。

「歩兵は途中砲煙をくぐり、砲火に粉砕されながら、ようやく生き残りがそこまで接近すると緻密な火網(かもう)を構成している敵の機関銃が、前後左右から猛射してきて、虫のように殺されてしまう。それでも、日本軍は勇敢なのか忠実なのか、前進しかしらぬ生きもののようにこのロシア陣地の火網のなかに入ってくる」。

この記述に注目するならば、司馬氏がくりかえし突撃の場面を描いているのは、「国家」と「公」のために自らの死をも怖れなかった明治の庶民の勇敢さや気概を描くためではなく、かれらの悲劇をとおして、「神州不滅の思想」や「自殺戦術とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学」を広めた日露戦争後の日本社会の問題を根源的に反省するためだったと思えます。

「忠君愛国」の思想を唱えるようになった徳富蘇峰は、第一次世界大戦の時期に書いた『大正の青年と帝国の前途』においては、白蟻の穴の前に危険な硫化銅塊を置いても、白蟻が「先頭から順次に其中に飛び込み」、その死骸でそれを埋め尽し、こうして「後隊の蟻は、先隊の死骸を乗り越え、静々と其の目的を遂げたり」として、集団のためには自分の生命をもかえりみない白蟻の勇敢さを讃えるようになっていたのです。

前回もふれたように「『坂の上の雲』を書き終えて」というエッセイで司馬氏は、「政治家も高級軍人もマスコミも国民も神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」と厳しく批判していました(「防衛と日本史」『司馬遼太郎が語る日本』第5巻)。

司馬氏が「“雑貨屋”の帝国主義」で、「日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦」までの40年を「異胎」の時代と名付けたとき、「日本国民、悔改めよ」と結んでいた蘆花の講演「勝利の悲哀」ばかりでなく、「玉砕」を美化した蘇峰の思想をも強く意識していたことはたしかでであるように思われます。

(2016年4月30日。一部、削除)

日露戦争の勝利から太平洋戦争へ(1)――「勝利の悲哀」と「玉砕の美化」

IS(イスラム国)によると思われるテロがフランスやベルギーで相次いで起きたことで、21世紀は泥沼の「戦争とテロ」の時代へと向かいそうな気配が濃厚になってきています。こうした中、安倍政権が「特定秘密保護法案」や「安全保障関連法案」を相次いで強行採決したことにより、度重なる原水爆の悲劇を踏まえて核兵器の時代に武力によって問題を解決しようとすることの危険性を伝えるべき日本が、原発や武器の輸出に踏み出しました。

しかも、「戦後70年」の節目として語られた昨年の「談話」で安倍首相は、それよりもさらに40年も前の「日露戦争」の勝利を讃える一方で、「憲法」や「国会」の意義にはほとんどふれていませんでした。

一方、『坂の上の雲』で日露戦争を描いた作家の司馬遼太郎氏は、「『坂の上の雲』を書き終えて」というエッセイでは「政治家も高級軍人もマスコミも国民も神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」と厳しく批判し、さらに「“雑貨屋”の帝国主義」では、「日露戦争の勝利から太平洋戦争の敗戦」までの40年を「異胎」の時代と名付けていました(『この国のかたち』第1巻、文春文庫)。

日露戦争を始める前の1902年に大英帝国を「文明国」と讃えて「日英同盟」を結んでいた日本は、1941年には今度はアメリカとイギリスを「鬼畜米英」と呼んで、太平洋戦争に突入していたのです。なぜ、日英同盟からわずか40年で太平洋戦争が起きたのでしょうか。

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ここで注目したいのは、日露戦争の勝利を讃えた「安倍談話」と、普仏戦争に勝ったドイツ民族の「非凡性」を強調し、ユダヤ人への憎しみをかき立てることで第一次世界大戦に敗れて厳しい不況に苦しむドイツ人の好戦的な気分を高めることに成功していたヒトラーの『わが闘争』の類似性です。

「われわれはヒトラーやムッソリーニを欧米人なみにののしっているが、そのヒトラーやムッソリーニすら持たずにおなじことをやった昭和前期の日本というもののおろかしさを考えたことがあるだろうか」と問いかけた作家の司馬遼太郎氏は、「政治家も高級軍人もマスコミも国民も神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」と厳しく批判していました(「『坂の上の雲』を書き終えて」『歴史の中の日本』中公文庫)。

リンク→「安倍談話」と「立憲政治」の危機(2)――日露戦争の賛美とヒトラーの普仏戦争礼賛

「特定秘密保護法」や「安全保障関連法」が強行採決で可決されたことにより、アメリカは日本の軍事力を用いることができることに当面は満足するでしょう。しかし、注意しなければならないのは、アメリカの要請によって日本の「平和憲法」を戦争のできる「憲法」へと改憲しようとしている安倍首相が、神道政治連盟と日本会議の2つの国会議員懇談会で会長と特別顧問を務めており、憲法学者の樋口陽一氏が指摘しているように自民党の憲法草案は、〈明治の時代よりも、もっと「いにしえ」の日本に向かっている〉ことです。

リンク→樋口陽一・小林節著『「憲法改正」の真実』(集英社新書)を読む

今日(4月23日)の新聞によれば、高市総務大臣に続いて、国家の法律を担当する「法務大臣」の岩城氏も靖国神社に参拝したとのことですが、「全体主義は昭和に突然生まれたわけではなく、明治初期に構想された祭政教一致の国家を実現していく結果としてあらわれたもの」とした宗教学者の島薗進氏は、靖国神社は「国家神道が民衆に浸透するテコの役割も果たしました」と指摘しています。「みんなで渡れば怖くない」とばかりに多くの国会議員が「靖国神社」に参拝することの危険性は大きいでしょう。

 リンク→中島岳志・島薗進著『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書) を読む

一方、参謀本部の問題を鋭く指摘していた司馬氏は、「日露戦争が終わると、日本人は戦争が強いんだという神秘的な思想が独り歩きした。小学校でも盛んに教育が行われた」とし、自分もそのような教育を受けた「その一人」だと認めて、「迷信を教育の場で喧伝して回った。これが、国が滅んでしまったもと」であると分析して、教育の問題にも注意を促していました(「防衛と日本史」『司馬遼太郎が語る日本』第5巻)。

すなわち、一つの世代はほぼ20年で代わるので、英米との戦争を準備するころにはイギリスを「文明国」視した世代はほぼ去っていたことになるのですが、安倍政権は教育行政でも「新しい歴史教科書を作る会」などと連携して、「歴史」や「道徳」などの科目をとおして戦前への回帰を強めています。

「歴史的な事実」ではなく、「情念を重視」した教育が続けば、アメリカに対する不満も潜在化しているので、今度は20年を経ずして日本が「一億玉砕」を謳いながら「報復の権利」をたてにアメリカとの戦争に踏み切る危険性さえあるように思われるのです。

(2016年4月30日。改題と改訂)

「映画《少年H》と司馬遼太郎の憲法観」を再掲

神道政治連盟国会議員懇談会の会長・安倍晋三氏が参院選に向けて「改憲」を明言しました。

それゆえ、今回は少し古い話題になりますが、司馬遼太郎氏の「憲法」観に言及した2013年9月16日の映画論を再掲します。

 

「映画《少年H》と司馬遼太郎の憲法観」

 文庫本で2巻からなる妹尾河童氏の自伝的小説『少年H』は、発行された時に読んで少年の視点から戦争に向かう時期から敗戦に至る時期がきちんと描かれていると感心して読んだ。

妹尾河童氏の『河童が覗いた…』シリーズを愛読していたばかりでなく、ことに日露両国の「文明の衝突」の危機に際して、冷静に対処して戦争の危機を救った一介の商人高田屋嘉兵衛を主人公とした司馬遼太郎氏の長編小説『菜の花の沖』を高く評価していたので、ジェームズ三木氏の演出で舞台化され、妹尾氏が舞台美術にかかわった「わらび座」の劇《菜の花の沖》からも深い感銘を受けていたからだ。

すなわち、妹尾河童氏は劇《菜の花の沖》を映像化したVHSの《菜の花の沖》(制作、秋田テレビ)で、「舞台の上に、嘉兵衛が挑んだ海の広さが表現できればいいなと思っています」と語っているが、実際に劇では大海原を行く船の揺れをも表現するとともに、牢屋のシーンでは光によって嘉兵衛の内面の苦悩を描くことに成功し、ことに最後の場面における菜の花のシーンは圧巻であった。

それゆえ、この作品がテレビドラマ《相棒》にも深く関わったプロデューサー松本基弘氏の企画と古沢良太氏の脚本により、降旗康男監督のもとで『少年H』がどのような映画化されるかに強い関心を持っていたのである。

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映画の冒頭では長男のために編んだセーターに当時は敵性言語とされていた英語で肇のイニシャルのHを母親が縫い込んだことで、からかわれる場面が描かれており、当時の排外的な雰囲気とともに《少年H》という映画の主題が明確に表現されていた。

そのような時代に肇少年は、クリスチャンであった両親につれられて教会に通っていたが、時代の流れのなかで、日本を離れたアメリカ人の女性からエンパイアーステートビルの絵はがきをもらったことで、次第に「非国民」視されるようになる過程が、洋楽好きの青年が思想犯としてとらえらたり、「オトコ姉ちゃん」と呼ばれていた役者が軍隊から脱走して自殺したするなどのエピソードをはさみながら描かれていく。

注目したいのは、洋服店を営んでいた父親が修繕を行った服の中には杉原千畝のビザを受け取って来日したユダヤ人たちが、日本がナチスドイツなどと三国同盟を結んだために、ようやく到着した日本からも脱出しなければならなくなるという光景も描かれることにより、国際的な関わりも示唆し得ていたことである。

少年Hよりも少し前に学徒動員で満州の戦車部隊に配属された司馬遼太郎氏は、『坂の上の雲』で帝政ロシアと比較しながら日露戦争を描いた後で、「日露戦争が終わると、日本人は戦争が強いんだという神秘的な思想が独り歩きした。小学校でも盛んに教育が行われた」とし、自分もそのような教育を受けた「その一人です」とし、「迷信を教育の場で喧伝して回った。これが、国が滅んでしまったもと」であると分析している(「防衛と日本史」『司馬遼太郎が語る日本』第5巻)。

この映画が描いた時代には、奉安殿に納められていた教育勅語と現人神である天皇のご真影への最敬礼が義務づけられていたが、遅刻しかけて慌てて忘れたために殴られる場面を初めとして、外国人を顧客としていた洋服屋の父親などの情報から、その戦争に違和感を抱くようになっていた肇が学校に派遣されていた教練の教官から目の敵とされて、ことあるごとに殴られるシーンも描かれていた。

実は、「戦車第十九連隊に初年兵として入隊したとき、スパナという工具も知らなかった」ために若き司馬氏も、古年兵から「スパナをもってこい」と命じられた時に、「足もとにそれがあったのにその名称がわからず、おろおろしていると、古年兵はその現物をとりあげ、私の頭を殴りつけた。頭蓋骨が陥没するのではないかと思うほど痛かった」という体験もしていたのである(「戦車・この憂鬱な乗物」『歴史の中の日本』)。

映画の圧巻は、神戸の大空襲のシーンであろう。この場面は《風立ちぬ》で描かれた関東大震災のシーンに劣らないような迫力で描かれており、当時はバケツ・リレーによる防火訓練が行われていたが、実際には焼夷弾は水では消火することはできず、そのために生命を落とした人も少なくなく、映画でも主人公の少年と母親が最後まで消火しようと苦闘した後で道に出てみると、ほとんどの町民はすでに逃げ出していたという場面も描かれていた。

このシーンは、戦争中のスローガンと行動が伴ってはいなかったことをよく示していたが、終戦後にはそれまで「国策」にしたがって肇に体罰を与えていた教官が、ころっと見解を変えたことで、かえって肇が傷つくという場面も描かれていた。

こうして初めは、やんちゃな少年だった主人公が苦しい時代にさまざまな試練にあいながらもくじけずに戦争を乗り越えて自立するまでを見事に描き出しており、《少年H》は現代の青少年にも勇気を与えることのできる映画になっていた。

脇役を固めた役者も母親役の伊藤蘭を初めとして、岸部一徳や國村隼などの渋い役者や小栗旬や早乙女太一、原田泰造や佐々木蔵之介などの旬な役者が脇を固めていたほか、妹役の花田優里音の愛らしさも印象に残った。

なかでも律儀な洋服屋の役を演じた水谷豊の演技には刮目させられた。水谷豊という俳優には、かたくななまでに正義と真実を貫こうとする天才肌の警部役という難しい役柄を見事に演じたころからことに注目していたが、髙橋克彦原作の『だましゑ歌麿』をテレビドラマ化した《だましゑ歌麿》で、狂気をも宿したような天才画家になりきって演じた際には、一回り大きくなったと感じた。時代の流れの中でおとなしくしかし信念を曲げずに家族を守って生きた今回の父親役からは、演技の重みさえも感じることができた。

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司馬遼太郎氏は「昭和十八年に兵隊に取られるまで」、「外務省にノンキャリアで勤めて、どこか遠い僻地の領事館の書記にでもなって、十年ほどして、小説を書きたい」と、「自分の一生の計画を考えて」いた。そして司馬氏は、「自国に憲法があることを気に入っていて、誇りにも思っていた」が、「太平洋戦争の最中、文化系の学生で満二十歳を過ぎている者はぜんぶ兵隊にとるということ」になって、自国の憲法には「徴兵の義務がある」ことが記されていることを確認して「観念」したと書き、敗戦の時には「なぜこんなバカなことをする国にうまれたのだろう」と思ったと激しく傷ついた自尊心の痛みを記している(「あとがき」『この国のかたち』第5巻)。

それゆえ、『坂の上の雲』を書く中で近代戦争の発生の仕組みを観察し続けていた司馬氏は、自国の防衛のための自衛隊は認めつつも、その海外への派遣には強く反対して、「私は戦後日本が好きである。ひょっとすると、これを守らねばならぬというなら死んでも(というとイデオロギーめくが)いいと思っているほどに好きである」と書いていたのである(『歴史の中の日本』)。

かつて司馬作品の愛読者であることを多くの政治家は公言していたが、その人たちは司馬氏のこの言葉をどのように聞くのだろうか。

戦前の教育や憲法がどのような被害を日本やアジアの国々にもたらしたかを知るためにも、「改憲」を主張する人々にもぜひ見て頂きたい映画である。

 

中島岳志・島薗進著『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書) を読む

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『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書) を読む――「国家神道」と全体主義の問題

ここでは宗教学者の島薗進氏と政治学者の中島岳志氏が、現在の日本の危機的な状況を踏まえて、熱く深く語り合った対談『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書) をとおして、安倍政権が引き起こした「立憲主義の危機」の問題と「国家神道」の伝統について考えることにします。本書では『坂の上の雲』における司馬遼太郎氏の「文明観」にも言及されているので、その作業をとおして「明治国家」の讃美者とされることの多い司馬氏が「文明史家」とも呼べるような視野をもっていたことも明らかにできるでしょう。

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第1章では分かりやすく問題点と議論の方向性が示されていますので、まずその小見出しを紹介してから、重要な指摘について考察します。

第1章「戦前ナショナリズムはなぜ全体主義に向かったのか」

現代日本の「右傾化」の背後にあるもの/グローバル化による個人の砂粒化と宗教ナショナリズムの台頭/今も国家神道は生きている/明治維新からの一五〇年――繰り返されるサイクル/幕府を倒した「一君万民ナショナリズム」/明治維新はフランス革命とどこが違うのか/「上からのナショナリズム」が再創造する「伝統」/国学のもたらしたもの――天皇と人民の一体化というユートピア主義/日本の儒教が育てたもの――「国体」論と天皇への忠誠/「下からのナショナリズム」が希求した「一君万民」的なユートピア/天皇主義者たちによる自由民権運動/全体主義を用意した右翼思想のふたつの潮流

最初に「グローバル化による個人の砂粒化と宗教ナショナリズムの台頭」の問題をお互いに確認した後で、宗教学者の島薗氏は「今も国家神道は生きている」と語り、「明治維新の時に、どういった類のナショナリズムと宗教の装置が、どのようにインストールされたのかを文明史的な視野から分析しなければなりません」と問題を提起しています。この視点は、比較文明を研究する私の視点とも重なる重要なものだと思います。

一方、政治学者の中島氏は、幕府を倒したのが「一君万民ナショナリズム」ともいうべき思想で、「万民は平等であって、天皇だけが超越的な権力を持つ」という「一君万民」の考え方は、「『特権階級的な人々がこの国を牛耳るのはおかしいではないか』という議論を生み出すことになり」、「幕末期になると、古代日本のあり方に立ち戻れば日本はうまくいくはずだというユートピア主義が広まって」いたことを指摘しています。この指摘は島崎藤村の父親をモデルとした『夜明け前』における主人公・青山半蔵の活動とその悲劇を理解する上でも有効でしょう。

注目したいのは中島氏が、明治維新の「一君万民ナショナリズム」とフランス革命との類似性にも言及して、「日本ではいまだにナショナリズムと言うと、右派の思想だというレッテルをはられてしまう。しかし、実際はナショナリズムそのものは左派的な出自を持った思想だ」指摘し、フランス革命は「『フランスはフランス人民のもの』というナショナリズムによって絶対王政を倒し、民主的な国民国家を作り上げた」と説明していることです。この認識は征韓論から西南戦争に至る時代を描いた長編小説『翔ぶが如く』における司馬氏の歴史観にも通じているでしょう。

一方、「上からのナショナリズム」にも注意を促した島薗氏は、「一八六七年の『王政復古の大号令』では、ペリー来航に始まる『未曾有ノ国難』を神武天皇以来の神話的過去に立ち返って克服するのだと宣言し」、明治維新の年には「天皇による神道的な祭祀と政治とを一元化させ、国民的団結を強化し、国家統一を進める」ことを宣言した「祭政一致布告」がでるなど「神道に基づいた」祭祀が強調されたことを指摘しています。

さらに、「『皇道』や『大教』といった言葉は、儒学者が尊皇意識を高め、神道的な祭祀や天皇への崇敬の教えを説くようになる過程で普及」したと語り、「国家神道」には儒教的な要素も強いことを指摘しているのです。

注目したいのは、政治学者の中島氏がこれまで比較的多く語られてきた「日蓮宗と全体主義の影響関係」だけでなく、「他力本願」を主張した親鸞主義者の三井甲之(こうし)も、「阿弥陀仏の本願力」を「天皇の大御心(おおみこころ)」と読み替えて、「日本人は現実をあるがままに任せ、ただ『日本は滅びず』と信じ、『祖国日本』と唱えれば、永遠の幸福を得ることができる」と主張していたことに注意を促していることです(第2章 「親鸞主義者の愛国と言論弾圧)。

このような中島氏の言葉を受けて島薗氏は、第4章で「全体主義は昭和に突然生まれたわけではなく、明治初期に構想された祭政教一致の国家を実現していく結果としてあらわれたものです。つまり、明治維新の国家デザインの延長上に生まれたものです」と語っています。

より論理的で体系的に語られてはいますがこの重たい指摘は、『竜馬がゆく』第2巻の「勝海舟」の記述にも通じるでしょう。

幕末の「尊皇攘夷思想」が「国定国史教科書の史観」となったことを指摘した司馬氏は、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判していたのです。あまり注目されてはこなかったのですが、文明史的な視野を持っていた司馬氏の全体主義的なイデオロギーに対する危惧の念はきわめて深かったのです。

この意味で興味深かったのは、誤解されることの多い司馬氏の長編小説『坂の上の雲』について中島氏がこう語っていたことです。『坂の上の雲』という長編小説を理解する上でも参考になるので、少し長くなりますが引用しておきます。

「明治時代の前半(第一期)と後半(第二期)とでは、社会の雰囲気が大きく違います。/そのことを鋭く嗅(か)ぎ分け、描いた作家に司馬遼太郎がいます。彼の小説『坂の上の雲』は、タイトルが核心を見事についている。ポイントは『坂』と『雲』です。/明治時代の前半の日本はずっと坂を登っている状態でした」。

そして、「こうした時代では、個人の人生の目標と国家全体の目標が一体化」することを指摘したあとで、「しかし、重要なのは、『坂』を登りきった明治の後半の人々が見たものは『雲』にすぎなかったということです」と指摘し、こう続けているのです。

「その象徴が一六歳で華厳の滝に身を投じた藤村操でした。雲の中に入ってしまった青年たちは、国家の物語と個人の物語を一致させることができなくなり、自己喪失するのです」。

この記述はなぜ、日露戦争の勝利からしばらくして「国家神道」に基盤を置いた「全体主義」が勃興し、いままた安倍政権のもとでナショナリズムが広がっているのかをも説明しているでしょう。

「全体主義はよみがえるのか」と題された第8章で島薗氏は、「戦前に起きた『立憲主義の死』と、安倍政権が引き起こした『立憲主義の危機』。このふたつの危機の何が同じで、何が違うのか。そして、その原因は何なのか、ということを問わなくてはなりません」と語っています。

「核兵器の時代」に新たな戦争を勃発させないためにも、この問いに真剣に向き合わなければならないでしょう。

他にも現在の日本に関わる重要なテーマが多く語られていますが、「教育勅語」と「国家神道」のつながりについては次の機会に改めて考察することとし、この本の目次を紹介してこの稿を終えることにします。

第1章 戦前ナショナリズムはなぜ全体主義に向かったのか       第2章 親鸞主義者の愛国と言論弾圧 第3章 なぜ日蓮主義者が世界統一をめざしたのか 第4章 国家神道に呑み込まれた戦前の諸宗教 第5章 ユートピア主義がもたらす近代科学と社会の暴走 第6章 現代日本の政治空間と宗教ナショナリズム 第7章 愛国と信仰の暴走を回避するために 第8章 全体主義はよみがえるのか

(2017年2月22日、図版を追加、2023年4月20日、ツイートを追加)

安倍政権の政治手法と日露の「教育勅語」の類似性

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安倍政権の強引な政治手法からは、「憲法」のなかったニコライ1世治下の「暗黒の30年」との類似性を痛感します。

2007年に発行した『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』(成文社)では、ニコライ1世の時代に出されたロシア版「教育勅語」の問題と厳しい検閲下で『貧しき人々』などの小説をとおして言論の自由の必要性を主張した若きドストエフスキーの創作活動との関係を考察していました。

前著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)では、ロシア版「教育勅語」と日本の「教育勅語」の類似性についても詳しく考察しました。

ロシア思想史の研究者の高野雅之氏は、「正教・専制・国民性」の「三位一体」を強調した「ウヴァーロフの通達」を「ロシア版『教育勅語』」と呼んでいますが、注目したいのは一九三七年には文部省から発行された『國體の本義』の「解説叢書」の一冊として教学局から出版された『我が風土・國民性と文學』と題する小冊子では、「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっていることは」、「日本の国体の精華であって、万国に類例が無いのである」と強調されていたことです。

この「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっている」という文言は、「正教・専制・国民性」の「三位一体」による「愛国主義的な」教育を求めたウヴァーロフの通告を強く連想させます。「教育勅語」が渙発された後の日本は、教育システムの面ではロシア帝国の政策に近づいていたといえるでしょう。(註――「教育勅語」と帝政ロシアの「ウヴァーロフの通達」だけでなく、清国の「聖諭廣訓」との類似性については高橋『新聞への思い』人文書館、2015年、106~108頁参照)。

*   *   *

現在は新たな著書の執筆にかかっていますが、「憲法停止状態」とも言える状態から脱出するためにも、もう一度北村透谷や島崎藤村などの著作をとおして、「教育勅語」の影響を具体的に分析したいと考えています。

若きドストエフスキーを「憲法」のない帝政ロシアの自由民権論者として捉え直すとき、北村透谷や島崎藤村など明治の『文学界』同人たちによる『罪と罰』の深い受容の意味が明らかになると思えます。

「教育勅語」の問題を再考察する際にたいへん参考になったのが、リツイートで紹介した中島岳志氏と島薗進氏の『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』と樋口陽一氏と小林節氏の『「憲法改正」の真実』(ともに集英社新書)でした。

それらの著書を読む中で「教育勅語」の問題が「明治憲法」の変質や現在の「改憲」の問題とも深く絡んでいたことを改めて確認することができました。それらについてはいずれ参考になった箇所を中心に詳しく紹介することで、島崎藤村が『夜明け前』で描いた幕末から明治初期の時代についても考えてみたいと思います。

(2017年2月22日、図版と註を追加し、題名を改題)

司馬遼太郎の「昭和国家」観

前回の記事で記したように、「王政復古」が宣言された一八六八年から敗戦の一九四五年までが、約八〇年であることを考えるならば、司馬氏は「明治国家」を昭和初期にまで続く国家として捉えていたといえるでしょう。

そのことを物語っていると思われる記述を引用しておきます。バルチック艦隊の派遣を検討したロシアの「宮廷会議は、当時の日本の政治家からみれば、奇妙なものであったろう。ほとんどの要人が、――艦隊の派遣は、ロシアの敗滅になる。とおもいながら、たれもそのようには発言しなかった。文官・武官とも、かれらは国家の存亡よりも、自分の官僚としての立場や地位のほうを顧慮した」と記した司馬氏はこう続けているのです(「旅順総攻撃」)。

「一九四一年、常識では考えられない対米戦争を開始した当時の日本は皇帝独裁国ではなかったが、しかし官僚秩序が老化しきっている点では、この帝政末期のロシアとかわりはなかった。対米戦をはじめたいという陸軍の強烈な要求、というより恫喝に対して、たれもが保身上、沈黙した」。

この記述を考慮するならば、旅順の激戦などの描写をとおして、司馬氏が主に考察していたのは、戦うことを決断した明治の人々の「気概」ではなく、この戦いにおけるロシアの官僚と後の日本の官僚の類似性の指摘だったといえるように思えます。

官僚が自らの「保身上、沈黙した」ために、日本は自国だけでなく他国の民衆にも莫大な被害を与えた日中戦争から太平洋戦争へと突入したのですが、安倍政権の恫喝とも思える圧力によって再び日本は同じような事態へと突き進んでいるように見えます。

司馬遼太郎の「明治国家」観

『坂の上の雲』を書き上げた翌年に書いたエッセーで司馬氏は、明治維新の担い手であった竜馬については教科書に掲載されないばかりか、海軍の創設者として再評価される一九〇七年ごろまでは、語ることも「まるでタブーのようだった」ことに注意を促しています(「竜馬像の変遷」)。

そして、竜馬がその民主主義的な思想から「乱臣賊子の一人」と見なされていた記した司馬氏は、「明治国家の続いている八〇年間、その体制側に立ってものを考えることをしない人間は、乱臣賊子」とされたと書き、「人間は法のもとに平等であるとか、その平等は天賦のものであるとか、それが明治の精神であるべき」だが、「こういう思想を抱いていた人間」は、「のちの国権的政府によって、はるか彼方に押しやられてしまった」と指摘していたのです。

ただ、司馬氏は「結局、明治国家が八〇年で滅んでくれたために、戦後社会のわれわれは明治国家の呪縛から解放された」と続けていましたが、明治が四五年で終わることを考慮するならば「明治国家」が「八〇年間」続いたという記述は間違っているように思う人は少なくないと思われます。

しかし、「王政復古」が宣言された一八六八年から敗戦の一九四五年までが、約八〇年であることを考えるならば、司馬氏は「明治国家」を昭和初期にまで続く国家として捉えていたといえるでしょう。

(『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』より抜粋)

安倍政権閣僚の「口利き」疑惑と「長州閥」の疑獄事件――司馬氏の長編小説『歳月』と『翔ぶが如く』

TPP秘密交渉を担当した甘利元経済再生相の「口利き」疑惑が一大疑獄事件へと発展しそうな気配になってきましたが、そんなか、今度は遠藤利明五輪相にも「口利き」の疑惑が発生しました。

リンク→アベノミクス」の詐欺性(4)――TPP秘密交渉担当・甘利明経済再生相の辞任

リンク→まとめ役は遠藤さん」…文科省職員証言毎日新聞)

*   *   *

このような事態は国内を揺るがした明治初期の汚職事件や疑獄事件を思い起こさせます。

まず発覚したのは、横浜で生糸相場を張るようになっていた元奇兵隊の隊長・野村三千三〔みちぞう〕から頼まれた山県有朋が「兵部省の陸軍予算の半分ぐらいに」相当するような巨額の金を貸したにもかかわらず、野村が生糸相場に失敗して公金を返せないという事態に陥った「山城屋事件」でした(『歳月』上・「長閥退治」)。

しかもこの事件の直後に、南部藩の御用商人・村井茂兵衛が得ていた尾去沢銅山の採掘権を、大蔵省の長官として「今清盛」とも呼ばれるような権力を握っていた井上馨によって没収されるという事件が起きたのです。前代未聞の汚職とその隠蔽の問題と直面した司法卿の江藤が、「信じられぬほどの悪政がいま、成立したばかりの明治政府において進行している」と憤激したことが、西南戦争につながったと司馬氏は指摘していました。

さらに、「フランス革命」の時期に利権で私腹を肥やし、「王政の復活のために暗躍」したタレーランと比較しながら「山県も似ている」と長編小説『翔ぶが如く』で記した司馬氏は、「『国家を護らねばならない』/と山県は言いつづけたが、実際には薩長閥をまもるためであり、そのために天皇への絶対的忠誠心を国民に要求した」と厳しく批判していたのです(二・「好転」)。

このような明治初期の考察を踏まえて、司馬氏が『坂の上の雲』で描いたのが、俳人・正岡子規が入社した新聞『日本』の記者たちの気概だったのです。

リンク→高橋『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年)

ことに第二次安倍政権に強く見られるようになった「おごり」や「腐敗」を厳しく追及する記事を書く気概を、現代の放送局や新聞社にも持って欲しいと願っています。

子規の「歌よみに与ふる書」と文芸評論家・小林秀雄

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(正岡子規『歌よみに与ふる書』岩波文庫)

新聞『日本』に掲載した「歌よみに与ふる書」で正岡子規が、「貫之(つらゆき)は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之候」と記していたことについて、司馬氏は「歌聖のようにいわれる紀貫之をへたとこきおろし」たところころに「子規のすご味がある」と書いていました。

一方、小林秀雄はよく知られているように、敗戦後の1946年に戦前の発言について問い質されると「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と啖呵を切っていました。

しかし、1948年に行われた物理学者の湯川秀樹博士との対談では、「原子力エネルギー」を産み出した「高度に発達した技術」の問題を「道義心」の視点から厳しく指摘した小林は、原発の推進が「国策」となるとその危険性を「黙過」し、「原子力エネルギー」の問題でも「反省なぞしない」ことが明らかになったのです。

それゆえ、福島第一原子力発電所の大事故がまだ収束していないにもかかわらず、「アンダーコントロール」と宣言し、自然環境を軽視して経済優先の政治が行われるようになった日本をみながら強く感じたのは、「事実をきちんと見る」ためには、「評論の神様とも言われる」小林秀雄のドストエフスキー観をきちんと問い直さなければならないと痛感したのです。

2014年に『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)を上梓したのは、私がその頃、俳人・正岡子規を中心に司馬氏の『坂の上の雲』を読み解こうとしていたためだと思われます。

それゆえ、以下に拙著(『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年、第五章〈「君を送りて思ふことあり」――子規の眼差し〉より第一節の一部を抜粋して掲載します。

*   *   *

〈「竹ノ里人」の和歌論と真之――「かきがら」を捨てるということ〉より

秋山真之のアメリカ留学の前に子規が「君を送りて思ふことあり蚊帳〔かや〕に泣く」という句を新聞『日本』に載せたことを紹介した司馬氏は、「子規ほど地理的関心の旺盛な男はめずらしく、世界というものをこれほど見たがる人物もすくないと真之はかねがねおもっている。しかし皮肉なことに、運命はその後の子規を病床六尺に閉じこめてしまった」と続けていました(二・「渡米」)。

(中略)

閉ざされた空間の「子規庵」でガラス戸越しに見える庭の草木や風景を詠いながらその詩境を深めていたことに注意を促した俳人の柴田宵曲は、「ガラス障子にしたのは寒気防ぐためが第一で、第二にはいながら外の景色を見るためであった。果たしてあたたかい。果たして見える」と子規が記していることに注意を促していますが*3、子規は「ガラス戸」という洋語を用いて「ガラス戸の外は月あかし森の上に白雲長くたなびける見ゆ」という歌などを詠んでいたのです。

『坂の上の雲』では「庭のみえるガラス戸のそばに、小石を七つならべてある」ことにふれて、俳句仲間がその石を「満州のアムール河の河原でひろうたものぞな」と持ち帰ってくれたものであることが説明され、「七つの小石を毎日病床からながめているだけで、朔風(さくふう)の吹く曠野(こうや)を想像することができるのである」と書かれています。

子規に「古今(こきん)や新古今の作者たちならこの庭では閉口するだろうが、あしはこの小庭を写生することによって天地を見ることができるのじゃ」と語らせた司馬氏はこの後で、「竹ノ里人」の雅号で新聞『日本』に発表された「歌よみに与ふる書」という一〇回連載の歌論について「事をおこした子規は、最初から挑戦的であった」と書き、次のように詳しく考察しています。

「その文章は、まずのっけに、/『ちかごろ和歌はいっこうにふるっておりません。正直にいいますと、万葉いらい、実朝(さねとも)いらい、和歌は不振であります』/ という意味を候文で書いた。手紙の形式である。/『貫之(つらゆき)は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之候』/という。歌聖のようにいわれる紀貫之をへたとこきおろし、和歌の聖典のようにあつかわれてきた古今集を、くだらぬ集だとこきおろしたところに、子規のすご味がある」。

しかし、「歌は事実をよまなければならない。その事実は写生でなければならない」と主張した「子規への攻撃が殺到」します。

「子規の恩人である陸羯南などは、短歌にも一家言があり、『日本』の社長として子規の原稿に横ヤリなどは入れないが、しかし子規の論ずるところにはっきりと反対であった。また『日本』の社内には歌を詠んだり歌に関心のある記者が多い。これらが、ぜんぶといっていいくらいに子規の論に反対であった」。

そのような厳しい批判にもひるまずに子規は持論を展開したのですが、司馬氏は子規の歌論の意味を、「英国からもどって」きた真之との会話をとおして分かり易く説明しています。

すなわち、「あしはこのところ旧派の歌よみを攻撃しすぎて、だいぶ恨みを買うている。たとえば旧派の歌よみは、歌とは国歌であるけん、固有の大和言葉でなければいけんという。グンカンということばを歌よみは歌をよむときにはわざわざいくさぶねという。いかにも不自然で、歌以外にはつかいものにならぬ」と子規は語ったのです。

司馬氏は子規が外国語を用いることや「外国でおこなわれている文学思想」を取り入れることが、「日本文学を破壊するものだという考えは根本があやまっている」と主張し、「むかし奈良朝のころ、日本は唐の制度をまねて官吏の位階もさだめ、服色もさだめ、唐ぶりたる衣冠をつけていたが、しかし日本人が組織した政府である以上、日本政府である」と続けたと描いています。

一方、「日本人が、日本の固有語だけをつかっていたら、日本国はなりたたぬということを歌よみは知らぬ」という子規の歌論を聞き、彼が書いた新聞の切り抜きを読んだ真之は、「升サンは、俳句と短歌というものの既成概念をひっくりかえそうとしている。あしも、それを考えている」と語ります。

そして真之は、古い伝統を持つスペイン海軍とアメリカ海軍を比較しながら、遠洋航海に出た軍艦には、「船底にかきがらがいっぱいくっついて船あしがうんとおちる」と指摘して、「作戦のもとになる海軍軍人のあたま」も、「古今集ほど古くなくても、すぐふるくなる」ので、「固定概念(かきがら)」は捨てなければならないと主張したのです(二・「子規庵」)。

この記述に注目するとき、子規の俳句論や和歌論は古今東西の海軍の戦術を丹念に調べてそれを比較することで最良の戦術を求めようとした真之の方法についてだけでなく、イギリスに留学した夏目漱石やロシアに留学した広瀬武夫の見方にも深く関わると思われます。

リンク→「物質への情熱」と「好奇心に満ちた多様性」――寺田透の小林秀雄観(3)

(2016年2月4日。〈正岡子規の「歌よみに与ふる書」と真之――「かきがら」を捨てるということ〉を改訂、改題)。