高橋誠一郎 公式ホームページ

『坂の上の雲』

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)のブックレビューを転載

“未来への警鐘として”

子規の写生と方法、漱石の冷徹な現実批評の

精神を受け継いで伝える!

isbn978-4-903174-33-4_xl  装画:田主 誠/版画作品:『雲』

 人文書館のHP・ブックレビューのページに、大木昭男・桜美林大学名誉教授の書評の抜粋が掲載されましたので転載します。

(人文書館のHPより) → 新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」

*   *   *

                                           大木昭男

今年は作家司馬遼太郎(1923~96)の没後20周年にあたる。本書の著者、高橋誠一郎氏は、これまでに司馬遼太郎に関する多くの著書、論文を発表しており、今回は『坂の上の雲』を中心に、そこに登場する四国伊予松山出身の三人――陸軍騎兵の創始者となった秋山好古(1859~1930)、その弟で、海軍士官として活躍した秋山真之(1868~1918)、俳諧に革新をもたらした正岡子規(本名は常規、つねのり、1867~1902)――に焦点をあてて「開化期」の日本について、広範な資料を駆使して論述している。(中略)

本書では、松山出身の上記三人のうち、特に正岡子規の生涯が中心に据えられているので、その関連だけでも多数の人物との交友関係が紹介されている。そのうち特に興味ふかかったのは、子規と夏目漱石との関係である。(中略)

正岡子規と夏目漱石との交友は、1884(明治17)年に二人がともに東京大学予備門(のちの第一高等中学校)に入学した時点から始まる。……子規は此の頃記したエッセイにおいて、夏目金之助(漱石)を数ある朋友たちのうち、「畏友」として挙げている(『筆まかせ』の「交際」の章)。(中略)

漱石が子規から学んでいたこととして、著者、高橋氏が「『大和魂』を絶対化することの危険性」を指摘していることは、本書の眼目として重要な箇所である。それは、……自分の価値観を絶対化することの危険性の指摘である。このような子規の問題意識を最も強く受け継いでいる例として、著者は『吾輩は猫である』において描かれている第六話における苦沙弥先生の「大和魂」を揶揄的に連発する風刺的新体詩が挙げられている。その先、第十一話で漱石は、「子規さんとは御つき合でしたか」との東風君の問いに「なにつき合はなくつても始終無線電信で肝胆相照らして居たもんだ」と苦沙弥に応えさせる場面が紹介される。

「大和魂」を絶対化して「スローガン」のように用いることの危険性を、苦沙弥先生に語らせていた漱石の批判的指摘は、『坂の上の雲』の作者司馬遼太郎が言わんとしていることにつながっていく。すなわち、日本陸軍首脳部の「戦略的基盤や経済的基礎のうらづけのない、『必勝の信念』の鼓吹や『神州不滅』思想の宣伝、それに自殺戦術の賛美とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学が、軍服を着た戦争指導者たちの基礎思想のようになってしまっていた」という考え方に。さらに、学徒兵として戦車隊に組み込まれた体験の持ち主である司馬氏が、『戦車・この憂鬱な乗り物』(1972)と題したエッセーで「戦車であればいいじゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂でおぎなう」とした「参謀本部の思想」を厳しく批判していたことが指摘されている。

……高橋氏が本書を執筆するに到った動機のひとつは、『坂の上の雲』を賞賛する人だけでなく、批判する人の多くがこの小説では戦争が肯定的に描かれていると解釈していたことへの反発であったと思う。文学作品を評価する場合、作者の意図を正確に理解して読者大衆に伝えてゆく責務がある。『坂の上の雲』に描かれた日清・日露の戦争を、司馬は日本とロシアいずれの側にも偏することなく、出来うる限り歴史的事実に則して客観的に描いており、未来への警鐘とも受け止められる。その手法と歴史観は、子規の比較と写生の方法、漱石の冷徹な現実批評の精神を受け継いでいると見てよかろう。高橋氏の著書は、『坂の上の雲』で作者司馬遼太郎が日本国民に伝えようとした意図を豊富な資料を駆使して伝えている。

大木昭男(オオキ・テルオ、桜美林大学名誉教授、著書『漱石と「露西亜の小説」』など)

大木昭男著『ロシア最後の農村派作家――ワレンチン・ラスプーチンの文学』(群像社、 2015年)

『世界文学』(2016年、第123号、世界文学研究会編「Ⅳ 書評」より)学会誌 世界文学会ページ 

「高橋誠一郎著『新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015)を推挙する」を転載

たいへん遅くなりましたが、「ドストエーフスキイ全作品を読む会」の『読書会通信』No.154に、作家でドストエフスキー研究者・長瀬隆氏の拙著の紹介が載りましたので転載します。

*   *   *

高橋誠一郎著『新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015)を推挙する

                長瀬隆

十数年前のドストエーフスキイの会の例会だった。報告者6人全員が前方に一列に並んで座り、順に報告したことがあった。左端の人と右端の高橋氏とが論争となり、高橋氏が「(私は)ドストエフスキーだけをやっているのではありません」と応ずる一幕があった。氏は全国でも珍しい東海大の文明学科の出身で、ロシア文学研究もその立場からのもので、ドストエフスキーは重要だが、しかし一構成要素であることを言ったのだった。その基底にあるのは日本とロシアの比較文明論であり、それに豊饒な材料を提供しているのが黒澤明(映画「白痴」その他)と司馬遼太郎(日露戦争を主題とした長編小説『坂の上の雲』その他)なのである。ともにかなり以前から取り組んできた主題であり、何冊もの先行関連著書があるのだが、2011・3・11に福島で大規模な原発事故があってその論点が煮詰められることとなった。前作の『黒澤明と小林秀雄――『罪と罰』をめぐる静かなる決闘』と同様、最新のこの書もフクシマ以前のものよりはるかに深くかつ明快なものとなっている。

ドストエフスキーは一度死刑を宣告されて減刑・流刑となり、以後生涯検閲を意識しつつしばしば筆を抑えまた逆説的に執筆した。そのことを「二枚舌」といったひと聞きの悪い言葉でいう人もいるが、高橋氏は上品にイソップの言葉と言ってきた。どこがイソップの言葉でどこが衷心の言葉であるかを見極めるのが、ドストエフスキー読解の要諦である。

60年代に設置が始まり54基に達したウラン原発を、フクシマ後、満州事変から敗戦に至る昭和日本の歴史と酷似するとなす言説が現れた。過去の誤りから学ばずに繰り返された誤りであると指摘するもので、もっともだった。またそれを遡って、明治維新に端を発するとする見解もまた提出された。その一つに梅原猛のものがあり、明治元年の「廃仏毀釈」が端緒だったとされた。絶対主義的天皇制の富国強兵国家をつくるためには、仏教の平和主義は「外来思想」として排除されねばならなかったのであって、欧米帝国主義の後を追う国づくりがなされ、明治国家が成立した。日露戦争後鞏固になったこの国家は、司馬史観によれば、80年後の1945年に終息崩壊した。しかし反省不足の者たちが、秘かに日本国家の近い将来の核武装を想定しつつ、その原料であるプルトニウムを産する核エネルギーサイクルを導入し、安全を高唱しつつフクシマをもたらしたのである。

司馬遼太郎(1923~96)は徴兵された戦中世代に属し、いわゆる15年戦争の日本の否定面を知る人である。しかし戦国時代に題材をとった娯楽もの的な時代小説の作家として出発しており、私などは、第一次戦後派の作家とは共通点のない異質の直木賞作家と見てきた。明治維新に筆が及ぶように至って、関心をもつことになったのであり、高橋氏が学び評価しているのもこの時代以降を扱った作品群である。昭和時代の誤謬に至る道が奇兵隊出身の山県有朋によって用意されたことが特記されている。中野重治が戦時下に『鴎外その側面』で論じていた問題であるが、司馬作品で分かりやすく書かれることになった。司馬フアンであってもかなりの部分が見過ごしている箇所を高橋氏は丹念に取り上げ注意を喚起しており傾聴にあたいする。

必要があって1922年のアインシュタインの来日を調べたが、大正の開かれた明るい国際主義的歓迎は、そのすぐ後の昭和の日本人の暗さとは別人の観がある。明治憲法、教育勅語、「国体の本義」等々にがんじがらめに縛られて死への暴走を始め、1945・8・15に至った。この時代はあまりにも悪すぎて書けなかったと司馬氏は述べており、それに較べれば「戦後は良い時代だった」と告白される。苦難の体験を強いられて日本人の多くは目覚め、1955年の米水爆実験を期に原水爆禁止の国民運動が起こった。ある場所に書いたのであるが、これは日本人が史上初めて人類の名で己を語った運動であった。しかしほとんど同じ時期に原発建設をふくむ核エネルギーサイクルの導入が始まっている。推進者は朝鮮戦争によって戦犯を解除された内務官僚(後に新聞社社主)、旧憲法に郷愁を抱く保守政治家たちだった。彼らは反対者たち(湯川秀樹ら物理学者)を排除し、このサイクルを国策として決定、ムラと呼ばれたが実態は強力な集団を形成した。銀行が加わったこの政産官複合体が、それなりの「危機感」から安倍政権をつくり出したのである。

現行サイクルを温存し原発の再稼働を目論む現政権は、安全関連法を強行採決し、戦争犠牲者たちが残してくれた貴重な非戦の憲法を改悪しようとしている。かくて高橋氏は、司馬作品を踏まえてのことであるが、帝政ロシアにおける憲法問題にまで言及する。その体制にも「教育勅語」は在って、それは「正教・専制・国民性」の「三位一体」を強調するものだった。ドストエフスキー文学の背景を明らかにする指摘であり、これを閑却すると理解は「孤独感」(小林秀雄)やたんなる「父殺し」の強調といった具合に矮小化する。

「(今日)日本や世界が『文明の岐路』」に差し掛かっている」と著者は述べ、私もまた同感である。『坂の上の雲』が戦争を肯定しているかのような把握を斥け、著者の真意にそった正しい読解のために本書は執筆された。副題にあるように、三人の主要登場人物のうち正岡子規が新聞『日本』との係わりにおいて今回とくに重視された。『岐路』を過たずに生き抜こうとする人々にとって本書はおおきな励ましである。

明治という激動と革新の時代のなかで 山茶花に新聞遅き場末哉(子規、明治32年、日本新聞記者として)司馬遼太郎の代表的な歴史小説、史的文明論でもある『坂の上の雲』等を通して、近代化=欧化とは、文明化とは何であったのかを…問い直す。

→ 長瀬隆氏の「アインシュタインとドストエフスキー」を聴いて

司馬遼太郎の『沖縄・先島への道』と『永遠の0(ゼロ)』の沖縄観

長編小説『坂の上の雲』の完結した一九七二年に沖縄がようやくアメリカから返還されたが、その二年後の一九七四年に司馬遼太郎は沖縄を再び訪れた。この時の紀行が『沖縄・先島への道』である。

この作品の冒頭近くにおいて司馬は、「住民のほとんどが家をうしない、約一五万人の県民が死んだ」太平洋戦争時の沖縄戦にふれつつ、「沖縄について物を考えるとき、つねにこのことに至ると、自分が生きていることが罪であるような物憂さが襲って」くると書いている。

さらに、その頃論じ始められていた沖縄の独立論に触れつつ、「明治後、『日本』になってろくなことがなかったという論旨を進めてゆくと、じつは大阪人も東京人も、佐渡人も、長崎人も広島人もおなじになってしまう。ここ数年間そのことを考えてみたが、圧倒的に同じになり、日本における近代国家とは何かという単一の問題になってしまうように思える」という重たい感想を記している(『沖縄・先島への道』「那覇・糸満」)。

この時、司馬遼太郎はトインビーが発した「国民国家」史観の批判の重大さとその意味を実感し、「富国強兵」という名目で「国民」に犠牲を強いた近代的な「国民国家」を超える新しい文明観を模索し始めるのである。(→高橋『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』、のべる出版企画、2002年、〈第三章 「国民国家」史観の批判〉)。

*   *   *

敗戦七〇年を経た現在、沖縄では住民の意向を無視してジュゴンが住む辺野古の海にアメリカ軍のより恒常的な基地がつくられようとしているだけでなく、ヤンバルクイナをはじめ多くの固有種が見られ、住民たちが「神々のすむ森」として畏敬してきた「やんばるの森」に多くの機動隊員が派遣されてヘリパッドが建設されようとしている。

%e9%ab%98%e6%b1%9f%e3%83%98%e3%83%aa%e3%83%91%e3%83%83%e3%83%88%e5%8f%8d%e5%af%be

キャンペーン 沖縄・高江における米軍ヘリパッド建設中止を!

 〈沖縄戦の時、島袋文子さんは火炎放射器で焼かれて上半身に大火傷をした。そして、 大火傷を負った両手を上げて壕の中から投降した。今、その両手を上げ、基地建設のトラックの前に立ちはだかる。「この命はね、一度は死んだ命だったんだよ。私がトラックに轢かれて基地が止まるなら、それでいい」(引用は、斉藤かすみ氏のツイッターより、2016年10月10日:twitter.com/Remember311919… )

  *   *   *

日本の大地や河川、そして海までも放射能で汚染した「フクシマ」の悲劇の後でも、沖縄で戦前や戦中と同じような政策をごり押している安倍政権を強く支持している「日本会議」や「神社本庁」は、すでに真の宗教心を失って政治団体化しているのではないかとすら思われてくる。

一方、作家の百田尚樹は『永遠の0(ゼロ)』で、避けようとすれば避けられた太平洋戦争末期の「沖縄戦」について元やくざの景浦介山に、「沖縄では多くの兵士や市民が絶望的な戦いをしていた。圧倒的な米軍相手に玉砕(ぎょくさい)覚悟で戦っていたのだ。行っても無駄だからと、彼らの死を座視できるか。死ぬとわかっていても、助けに行くのが武士ではないか」と語らせて正当化させていた。

しかし、この頃には三国同盟を結んでいた国のうち、イタリアは一九四三年に、ナチスドイツも一九四五年の五月には降伏して、それ以降は日本だけが連合国との戦争を続けていたのである。言葉を換えれば、日本の降伏が遅くなったことが、沖縄戦の悲劇だけでなく、広島と長崎の悲劇を生んだのである。この事実を直視することが必要だろう。

(2016年10月29日、リンク先を追加)。

安倍政権による新たな「琉球処分」と司馬遼太郎の沖縄観

「新しい戦争」と「グローバリゼーション」(『この国のあしたーー司馬遼太郎の戦争観』の「はじめに」)を掲載

二〇〇一年は国際連合により「文明間の対話」年とされ、二一世紀は新しい希望へと向かうかに見えた。しかし、その年にニューヨークで「同時多発テロ」が起きた。むろん、市民をも巻き込むテロは厳しく裁かれなければならないし、それを行った組織は徹底的に追及されなければならないことは言うまでもない。ただ、問題はこれに対してアメリカのブッシュ政権が「報復の権利」の行使をうたって「文明」による「野蛮」の征伐を正当化して激しい空爆を行い、「野蛮」なタリバン政権をあっけないほど簡単に崩壊させた後には、イラクや北朝鮮だけでなく、タリバンへの空爆の際には協力を求めたイランをも「悪の枢軸国」と名付けて攻撃をも示唆したことである。このようなアメリカの論理にのっとってイスラエルのシャロン首相は、「自爆テロ」への「報復の権利」を正当化し、パレスチナ自治区への激しい武力侵攻を行い、お互いの「報復の応酬」によって中東情勢は混沌の色を濃くしたのである。

この意味で注目したいのは、なせ第一次世界大戦の敗戦後にヒトラーが政権を握りえたかを分析した社会学者の作田啓一が、「個人の自尊心」と「国家の自尊心」とは深いところで密接に結びついているとし、「個人主義」だけでなく「個人主義の双生児であるナショナリズムも、自尊心によって動かされて」きたと指摘したことである*1。このことは強い「グローバリゼーション」の流れの中でナショナリズムが燃え上がるようになったかをよく物語っている。すなわち、このような民族主義・国家主義の傾向は、イスラエルに限ったことではなく、インドとパキスタンが互いに核実験を行って世界から顰蹙(ひんしゅく)を買ったのはまだ記憶に新しいが、ヨーロッパでもオーストリアでハイダー党首率いる民族主義政党が躍進して政権を担うに至り、最近ではフランスでヒトラー的な反ユダヤ主義を標榜するルペン党首が率いる極右政党「国民戦線」への支持が急激に増えるなど、世界大戦前のような民族主義の台頭が世界的に見られるのである。このような理由について作田は社会学の視点から「大衆デモクラシーのもとでは、有権者の票の獲得にあたって、理性に訴える説得よりも、感情に訴える操縦のほうが有効であると言われるようになり、また事実、その傾向が強く」なったと説明している*2。

日本でも強い「グローバリゼーション」に対応するために低学年からの学習など英語教育の徹底する一方で、青少年における凶悪犯罪やモラルの低下が「自由と平等」を原則としたアメリカ的な原理に基づく戦後教育が原因だとして、愛国心や伝統の重要性が強調されるようになり、かつての強い「明治国家」を目指す「復古」的な主張や戦争を賛美するような言動も目だつようになってきている。しかも、このような過程でそれまでも高い評価を得ていた司馬遼太郎(一九二三~一九九六)の歴史小説が、司馬の死後には「国民的一大ブームといってよいほど」にもてはやされ、「神話化」され、「権威化」された「司馬史観」を背景にして、「公」としての「国家」を重んじることが、アジアで最初の「国民国家」である「明治国家」を讃えた司馬の遺志に適うかのような雰囲気が急速にかもしだされたのである*3。

しかし、はたして司馬遼太郎は「明治国家」や日露戦争の全面的な賛美者だったのだろうか。この意味で興味深いのは比較文明学的な視野から見るとき、「同時多発テロ」の発生以降、「同盟国」である超大国アメリカの「新しい戦争」を助けることが「常識」とされて、「グローバリゼーション」の圧力のもとに国会での議論もあまり行われないままに一連の「テロ関連法案」が通過し、さらに「有事法案」や「メディア規制法案」などにより「国権」の強化がはかられている「平成国家」日本の現状が、やはり「文明開化」という名の「欧化」の圧力のもとに、強い「国民国家」をめざして讒謗律、新聞紙条例、保安条例などの一連の法律を制定して国内の安定を保つとともに大国イギリスと同盟することで「日露戦争」へと突き進んだ「明治国家」の姿とも重なるように見えることである。

司馬遼太郎は日露戦争を主題として描いた『坂の上の雲』の前半では、すでに憲法を持っていた「国民国家」としての「明治国家」と専制政治下の「ロシア帝国」との戦いを「文明」と「野蛮」の戦いととらえていた。しかし、厖大な死傷者を出した近代戦争としての日露戦争の現実を「冷厳な事実」を直視して詳しく調べていくなかで司馬は、西欧列強に対抗するために日露両国が行った近代化の類似性に気付いて「国民国家」が行う戦争に対する疑問を強く持ち始め、一九三一年に起きた「満州事変」を「閉塞状態を、戦争によって、あるいは侵略によって解決しようとした」と鋭く批判するようになるのである(「何が魔法にかけたのか」『「昭和」という国家』ーー以下、『国家』と略す)。

つまり、『坂の上の雲』を書き上げた時、司馬は第一次世界大戦が生みだした戦争の惨禍を反省して大著『歴史の研究』を書き、西欧文明を唯一の文明として絶対的な価値を与えてきたそれまでの西欧の歴史観を「自己中心の迷妄」と断じて、近代の「国民国家」史観の克服をめざし、比較文明学の基礎を打ち立てたたイギリスの研究者トインビーに近い地点にいたのである。実際、ナポレオン戦争以降、「強国」は互いに自国を「文明」として強調しながら、「復讐の権利」を主張し合い、武器の増産と技術的な革新を競い合う中で戦争は拡大し、第二次世界大戦では原子爆弾が使用されて五千万以上ともいわれる死者を出すにいたったのである。

しかもトインビーは、古代ユダヤにおいてもローマ文明を「普遍的な世界文明として」認める考えと「ローマ化」を「文明の自己喪失として有害」とする「国粋」的な考えの鋭い対立があったことを記していたが*4、このような「周辺文明論」をさらに深めた山本新や吉澤五郎が指摘しているように、日本に先んじて「文明開化」を行っていたロシアでも「欧化と国粋」という現象は、顕著に見られたのである*5。

たとえば、ソ連崩壊後に「グローバリゼーション」の波に襲われたロシアではヒトラーの『わが闘争』のロシア語訳がいくつもの本屋で販売され、さらに過激な民族主義者ジリノフスキーの率いるロシアの自由民主党が選挙で躍進するなどの傾向が見られたが、このような現象は、クリミア戦争敗戦後の混乱の時期にも強く見られた。この意味で注目したいのは、激しい「欧化と国粋」の対立の中で、「血の復讐」を批判して「和解」の必要性を説く「大地主義」を唱えていたドストエフスキーが、「非凡人の理論」を生みだして「自己を絶対化」し、「悪人」と規定した「他者」の殺害を行った若者の悲劇を長編小説『罪と罰』(一八六六)において描き出していたことである。こうしてドストエフスキーは近代西欧社会に強く見られる「弱肉強食」の思想や「報復の権利」の行使が、際限のない「報復」の連鎖となり、ついには「階級闘争」や「国家間の戦争」となり「人類滅亡」にも至る危険性があることを明らかにしたのである*6。

比較文明学者の神川正彦は西欧の「一九世紀〈近代〉パラダイム」を根本的に問い直すには、「欧化」の問題を「〈中心ー周辺〉の基本枠組においてはっきりと位置づけ」ることや、「〈土着〉という軸を本当に民衆レベルにまで掘り下げる」ことの重要性を指摘した*7。方法論的にはそれほど体系化はされていないにせよ司馬遼太郎も、明治維新や日露戦争などの分析と考察を通して同じ様な問題意識にたどり着き、「辺境」に位置する沖縄の歴史の考察を行った『沖縄・先島への道』(一九七四)を経て、ナポレオンと同じ年に淡路島で生まれた高田屋嘉兵衛の生涯を描いた『菜の花の沖』(一九七九~八二)では、近代ロシアの知識人たちの人間理解の深さや比較文明学的な視野の広さに注意を払いつつ、日露の「文明の衝突」の危険性を防いだ主人公を生みだした「江戸文明」の独自性とその意味を明らかにしたのである。

こうして司馬遼太郎は戦後に出来た新しい憲法のほうが「昔なりの日本の慣習」に「なじんでいる感じ」であると語り、さらに、「ぼくらは戦後に『ああ、いい国になったわい』と思ったところから出発しているんですから」、「せっかくの理想の旗をもう少しくっきりさせましょう」と語り、「日本が特殊の国なら、他の国にもそれも及ぼせばいいのではないかと思います」と主張するようになるのである(「日本人の器量を問う」『国家・宗教・日本人』)。

この時の対談者であった作家の井上ひさしは、「憲法」という用語が「日常語」ではなかったために「なかなか私たちのふだんの生活の中に入って」こなかったが、司馬が『この国のかたち』において「統帥権」などの「法制度」や「倫理」の問題を通して「憲法」の重要性を分かりやすい言葉で考察していることを指摘している*8。

こうして「新しい戦争」が視野に入ってきている現在、敗戦による「傷ついた自尊心」から日本人としてのアイデンティティを求めて小説家となり、幕末の激動の時期を描いた『竜馬がゆく』以降の作品では急速な「欧化」への対抗としておこったナショナリズムの問題をも直視することにより「戦争」だけでなく、近代化における「法制度」や「教育」の意味についても鋭い考察を行った司馬遼太郎の歩みをきちんと考察することは焦眉の課題といえよう。なぜならば、トルストイが『戦争と平和』において明らかにしたように、戦争という異常な事態は突然に生じるのではなく、日常的な営みや教育の中で次第にその危険性が育まれるからである。

司馬遼太郎は大坂外国語学校での学生時代に「史記列伝」だけでなく「ロシア文学」にも傾倒していた*9。以下、本書では日本の「文明開化」において大きな役割を演じた福沢諭吉の教育観や歴史観と比較しながら、ロシア文学研究者の視点から司馬遼太郎の作風の変化に注意を払いつつ、『竜馬がゆく』、『坂の上の雲』、『菜の花の沖』の三つの長編小説における彼の戦争観の深化を考察したい。

この作業をとおして私たちは「欧化と国粋」の対立の危険性を痛切に実感しつつ、日本のよき伝統や文化を踏まえたうえで、「日本人」の価値だけでなく新しい世紀にふさわしい「普遍的」な価値を求め、文明間の共存を可能にしうるような新しい文明観を示した司馬遼太郎の意義を明らかにすることができるだろう。

(2016年8月13日『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』より一部訂正の上、再掲。註は省略した)

 

映画《ゴジラ》六〇周年と終戦記念日(三)、「オバマ大統領の広島訪問と安倍首相の原爆観・歴史観」を掲載 

三、オバマ大統領の広島訪問と安倍首相の原爆観・歴史観

オバマ大統領の広島訪問は、被爆者の方々との真摯な対話もあり、核廃絶に向けた一歩前進ではあったと思える。その一方で「菅直人が原子炉への海水注入をやめさせたというデマ」を安倍首相が「自身のメルマガに書き」込んでいた安倍首相とその周辺は、「トリチウム汚染水を除染しないまま薄めて海に流してしまうという」経産省の提案を同じ五月二七日に発表し、さらには大統領と同行の写真を選挙活動の広告として使っている。

この一連の流れを見ながら思い出したのは、二〇一三年の終戦記念日に安倍首相の式辞を聞いたあとで強い危機感を抱き、ブログ記事を書いた時のことであった。記念式典で安倍首相は「私たちは、歴史に対して謙虚に向き合い、学ぶべき教訓を深く胸に刻みつつ、希望に満ちた、国の未来を切りひらいてまいります。世界の恒久平和に、あたうる限り貢献し、万人が心豊かに暮らせる世を実現するよう、全力を尽くしてまいります」と語った。しかし、そこではこれまで「歴代首相が表明してきたアジア諸国への加害責任の反省について」はふれられておらず、「不戦の誓い」や脱原発の文言もなかった*22。

一方、二〇一三年八月六日の「原爆の日」に広島市長は原爆を「絶対悪」と規定し、九日の平和宣言で長崎市長は、四月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議の準備委員会で、核兵器の非人道性を訴える八〇カ国の共同声明に日本政府が賛同しなかったことを「世界の期待」を裏切り、「核兵器の使用を状況によっては認める姿勢で、原点に反する」と厳しく批判していた。

つまり、安倍首相はこれらの痛切な願いを無視していたのである。それゆえ、初代のゴジラと同じ一九五四年生まれであるにもかかわらず安倍首相は、広島と長崎、「第五福竜丸」の三度の被爆や、「世界が破滅する」危機と直面していたキューバ危機、さらにはいまだに収束せずに汚染水など多くの問題を抱えている二〇一一年の福島第一原子力発電所の大事故のことをきちんと考えたことがあるのだろうかという強い危惧の念を抱いた。

事実、政府が「武器輸出三原則」の見直しを検討しているとの報道がなされたのは、二〇一四年二月一一日のことであったが、「特定秘密保護法」を強行採決して報道機関などに圧力をかけて、言論の自由を制限し、翌年には「戦争法」の疑いのある「安全保障関連法案」も強行採決した安倍政権は、「アベノミクス」という経済政策とともに「積極的平和主義」を掲げて、原発の輸出だけでなく武器の輸出にも積極的に乗り出したのである。

しかも、岸信介元首相は「『自衛』のためなら核兵器を否定し得ない」との国会答弁をしていたが、このような方針も受け継いだ安倍首相も二〇〇二年二月に早稲田大学で行った講演会における質疑応答では、「小型であれば原子爆弾の保有や使用も問題ない」と発言して物議を醸していた*23。そして、ついに内閣法制局長官に抜擢された横畠裕介氏は二〇一六年三月一八日の参議院予算委員会で核兵器の使用についても「憲法上、禁止されているとは考えていない」という見解したのである。

最初にふれたように映画《ゴジラ》が封切られたのは「第五福竜丸」事件が起き無線長が亡くなった一九五四年のことであり、この映画が大ヒットした背景には、度重なる原水爆の悲劇を踏まえて核兵器の時代に武力によって問題を解決しようとすることへの強い批判や、軍拡につながりかねない強力な兵器を創造することを拒んだ科学者の芹沢への共感があったと思える。

安倍政権による一連の決定は、水爆実験により安住の地を奪われた「ゴジラ」に仮託して、「核のない世界」を願った日本国民の悲願をないがしろにし、再び世界を「軍拡の時代」へと引き戻すものであると言わねばならないだろう。

ただ、ゴジラが誕生したこの年の七月一日には警察の補完組織だった保安隊と警備隊を改組した自衛隊も誕生していた。予告編では「水爆が生んだ現代の恐怖」などの文字だけでなく、「挑む陸・海・空の精鋭」、という文字も「画面いっぱいに」広がって広告効果を上げていた*24。これら後半の文字は初代の映画《ゴジラ》やその後のゴジラの変貌を考えるうえできわめて重要だと思える。

なぜならば、映画《ゴジラ》が公開されたのは日本国憲法が公布されたのと同じ一一月三日のことであったが、創刊三一年を記念した二〇〇四年の『正論』一一月号に掲載された鼎談で、衆議院議員の安倍晋三氏は「新しい歴史教科書をつくる会」(以下、「つくる会」と略す)第三代会長の高崎経済大学助教授・八木秀次氏(肩書きは当時)やジャーナリストの櫻井よしこ氏とともに「改憲」への意気込みを語ってもいたからである*25。

この号では石原慎太郎・八木秀次両氏による「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」という対談も行われており、ここで日露戦争の勝利を「白人支配のパラダイムを最初に痛撃した」と評価した石原氏は、「大東亜戦争」の正しさを教えられるような歴史教育の必要性を強調していた*26。

このような「憲法」の軽視と日露戦争の賛美の流れは、『坂の上の雲』では「健康なナショナリズムに鼓舞されて、その知力と精力の限界まで捧げて戦い抜いた」と描かれているとする一方で、科学的な歴史観を「自虐史観」と決めつけ、「司馬の小説と史論を組み合わせると」新しい歴史観をうち立てることができるとした藤岡信勝氏の論調を受け継いでいると思える*27。この論考が発表された翌年の一九九七年一月には「つくる会」が発足し、七月にはそれに連動して安倍晋三氏を事務局長とした「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が立ち上げられているのである。

しかし、作家の司馬遼太郎は『坂の上の雲』執筆中の一九七〇年に「タダの人間のためのこの社会が、変な酩酊者によってゆるぎそうな危険な季節にそろそろきている」ことに注意を促し*28、書き終えた後では「政治家も高級軍人もマスコミも国民も、神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」と書いていた*29。

安倍政権の成り立ちと「日本会議」との関わりに注意を促した菅野完氏の著作に続いて『日本会議とは何か』(合同出版)、『日本会議の全貌』(花伝社)などが相次いで発行されたことで、反立憲主義的な「日本会議」と育鵬社との関わりが明らかになってきている。そのことに留意するならば「変な酩酊者」という用語で「歴史修正主義者」を批判した作家・司馬遼太郎の歴史観は、「事実」を軽視して自分のイデオロギーを正当化しようとする「つくる会」や「日本会議」の歴史認識とはむしろ正反対のものといわねばならない。

安倍首相が尊敬する岸元首相とも面識のあった憲法学者の小林節氏によれば、「彼らの共通の思いは、明治維新以降、日本がもっとも素晴らしかった時期は」、「普通の感覚で言えば、この時代こそがファシズム期」である、「国家が一丸となった、終戦までの一〇年ほどのあいだだった」のである*30。

政治学者の中島岳志氏との対談で「全体主義は昭和に突然生まれたわけではなく、明治初期に構想された祭政教一致の国家を実現していく結果としてあらわれたもの」で、「明治維新の国家デザインの延長上に生まれた」ことに注意を促した宗教学者の島薗進氏も、「戦前に起きた『立憲主義の死』」と「安倍政権が引き起こした『立憲主義の危機』」の関連を考察する必要性を提起し、「宗教ナショナリズム」の危険性を指摘している*31。

実際、安倍首相は今年の「施政方針演説で、改憲への意欲をあらためて示した」が、それは「神道政治連盟」の主張と重なっており、神社本庁が包括する初詣でにぎわう神社の多くには、改憲の署名用紙が置かれていた*32。

この意味で注目したいのは、映画《風立ちぬ》を製作した宮崎駿監督が、孫が記す祖父の世代の戦争の記録の形で著した百田尚樹氏の映画《永遠の0(ゼロ)》を「神話の捏造をまだ続けようとしている」と厳しく批判していたことである*33。宮崎監督が前節で見た映画《モスラ》の脚本家の一人でもあった作家の堀田善衛と司馬遼太郎との鼎談を行っていたことを考えるならばこの批判は重要だろう*34。

『日本会議の研究』を著した菅野完氏は、作者の百田尚樹氏について「剽窃と欺瞞の多いこの人物について言及することは筆が汚れるので、あまり言及したくはない」と記している*35。そのことには同感だが、多くの読者が安倍首相との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』もある百田氏の小説『永遠の0(ゼロ)』に感動してしまったのは、「事実」を直視することを忌避して、東条英機内閣の頃のように美しいが空疎なスローガンを掲げている安倍政権や「日本会議」の歴史認識にも遠因があると思われる。

最近は「テキスト」を「主観的に読む」ことが勧められ、「テキスト」という「事実」をきちんと読み解くことが下手になっていると思われるので、宮崎監督のアニメ映画や批判を視野に入れながら文学論的な手法でこの小説や映画をきちんと分析することが必要だろう。

 

*22 高橋誠一郎 ブログ記事「終戦記念日と『ゴジラ』の哀しみ」、二〇一三年八月一五日

*23 『サンデー毎日』(二〇〇二年六月二日号、参照。

*24 小野俊太郎『ゴジラの精神史』彩流社、二〇一四年、一一九頁。

*25 安倍晋三・八木秀次・櫻井よしこ「今こそ”呪縛”憲法と歴史”漂流”からの決別を」『正論』二〇〇四年一一月号、産経新聞社、八二~九五頁。

*26 石原慎太郎・八木秀次「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」『正論』、前掲号、五八頁。

*27 藤岡信勝『汚辱の近現代史』徳間書店、一九九六年、五一~六九頁。

*28 司馬遼太郎「歴史を動かすもの」『歴史の中の日本』中央公論社、一九七四年、一一四~一一五頁。

*29 司馬遼太郎「『坂の上の雲』を書き終えて」『司馬遼太郎全集』第六八巻、評論随筆集、文藝春秋、二〇〇〇年、四九頁。

*30 樋口陽一・小林節著『「憲法改正」の真実』集英社新書、二〇一六年、三二頁。

*31 島薗進・中島岳志著『愛国と信仰の構造』集英社新書、二〇一六年、一三二頁、二三七頁。

*32 「東京新聞」朝刊、特集〈忍び寄る「国家神道」の足音〉、二〇一六年一月二三日。

*33宮崎駿、雑誌『CUT』(ロッキング・オン/9月号)。引用はエンジョウトオル〈宮崎駿が百田尚樹『永遠の0』を「嘘八百」「神話捏造」と酷評〉『リテラ』二〇一四年六月二〇日より。

*34 堀田善衛・司馬遼太郎・宮崎駿『時代の風音』朝日文庫、二〇一三年参照。

*35 菅野完『日本会議の研究』扶桑社新書、二〇一六年、一一七頁。

(2016年7月1日、加筆。2016年11月2日、タイトルを改題)

近著『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』(のべる出版企画)の発行に向けて

ゴジラ

(図版は露語版「ウィキペディア」より)

今回の選挙でも「改憲」の問題はまたも隠される形で行われるようになりそうですが、日本の未来を左右する大きな争点ですので、今年中にはなんとか「世田谷文学館・友の会」の講座で発表した「『坂の上の雲』の時代と『罪と罰』の受容」を中核とした本を書き上げたいと思っていました。

しかし、今朝のニュースでも原子力規制委員会が「40年廃炉」の原則をなし崩しにして、老朽原発に初の延長認可を出したとのニュースが報道されていたように、核戦略をも視野に入れた安倍政権や目先の利益にとらわれた経済界の意向に従って、地震大国であり火山の噴火が頻発しているにもかかわらず、川内原発などの再稼働に舵を切った自公政権の原発政策は、これまでこのブログで指摘してきたように国民の生命や財産を軽視したきわめて危険なものです。

「原子力規制委員会」関連記事一覧

また、68回目の終戦記念日の安倍首相の式辞では、これまで「歴代首相が表明してきたアジア諸国への加害責任の反省について」はふれられておらず、「不戦の誓い」の文言もなかったことが指摘されています。

終戦記念日と「ゴジラ」の哀しみ

一方、一九九六年に起きたいわゆる「司馬史観」論争では、「新しい歴史教科書をつくる会」を立ち上げた藤岡氏が『坂の上の雲』を「戦争をする気概を持った明治の人々を描いたと讃美する一方で、きちんと歴史を認識しようとすることを「自虐史観」という激しい用語で批判していました。

しかし、このような考えはむしろ司馬氏の考えを矮小化し歪めるものと感じて『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、2002年)を発行しました。なぜならば、作家・井上ひさし氏との対談で、戦後に出来た新しい憲法のほうが「昔なりの日本の慣習」に「なじんでいる感じ」であると語った司馬氏は、さらに、「ぼくらは戦後に『ああ、いい国になったわい』と思ったところから出発しているんですから」、「せっかくの理想の旗をもう少しくっきりさせましょう」と語り、「日本が特殊の国なら、他の国にもそれも及ぼせばいいのではないかと思います」と主張していたからです(「日本人の器量を問う」『国家・宗教・日本人』)。

最近になって相次いで「日本会議」に関する著作が出版されたことにより、現在の安倍政権と「新しい歴史教科書をつくる会」との関係や、『永遠の0(ゼロ)』の百田直樹氏と「日本会議」が深く繋がっていることが明らかになってきました。

菅野完著『日本会議の研究』(扶桑社新書)を読む

国民の生命や安全に関わる原発の再稼働や武器輸出などが「国会」で議論することなく、「日本会議に密着した政治家たちが」「内閣の中枢にいる」(『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』)閣議で決まってしまうことの危険性はきわめて大きく、戦前の日本への回帰すら危惧されます。

『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書) を読む

憲法学者の樋口陽一氏が指摘しているように、「法治国家の原則が失われており、専制政治の状態に近づいている。そういう状態に、我々は立っている」(『「憲法改正」の真実』)のです。

樋口陽一・小林節著『「憲法改正」の真実』(集英社新書)を読む

それゆえ、原爆や原発の問題や歴史認識などの問題を可視化して掘り下げるために、『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』と題した映画論を、急遽、出版することにしました。

参議院選挙には間に合いそうにありませんが、事前に出版の予告を出すことで、日本の自然環境を無視して原発の稼働を進め、「戦争法」を強行採決しただけでなく、「改憲」すら目指している安倍政権の危険性に注意を促すことはできるだろうと考えています。自分の能力を超えた執筆活動という気もしますが、このような時期なので、なんとか6月末頃までに書き上げて出版したいと考えています。

(2016年11月2日、リンク先を追加)

『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』の「あとがき」を掲載

安倍政権の危険性――日本の若者を「白蟻」視した歴史観の正当化

選挙が近づいてきました。

日本の今後を左右する重大な選挙になるので、少しでも発進力を高めるためにブログにツイッター・ボタンを追加しました。

自らを独裁者のように振る舞う安倍首相に「臣下」のように服従している現在の自公政権をなんとか代えるために非力ながら全力を尽くしたいと願っています。

読売新聞や産経新聞、さらにNHKなどのマスコミによって流される情報量に対抗するためにも、これからは同じことも繰り返すことで、安倍政権の危険性を訴えていかねばならないでしょう。

一昨年の総選挙に際して考えた標語とその説明のリンク先を再掲します。

〈若者よ 白蟻とならぬ 意思示せ〉

〈子や孫を 白蟻とさせるな わが世代〉

ここでことさらに「白蟻」という単語を用いたのは、「新しい歴史教科書をつくる会」や「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が立ち上げられ、戦後の歴史教育を見直す動きが始まった際に高く評価されたのが、「忠君愛国」的な視点から青年には「白蟻」のように勇敢に死ぬことを求めた徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』だったからです。

しかも蘇峰は、太平洋戦争の末期には「神祇を尊崇し、国体を維持」するとの誓約の下立ちあがった「神風連(じんぷうれん)の一挙」を、「大東亜聖戦」との関連で見れば「尊皇攘夷」を実行した彼らは「頑冥・固陋でなく、むしろ先見の明ありしといわねばならぬ」と記していました。

一方、『竜馬がゆく』において幕末の「神国思想は、明治になってからもなお脈々と生きつづけて熊本で神風連の騒ぎをおこし、国定国史教科書の史観」となったと記した司馬氏は、さらに「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判していました(第三巻・「勝海舟」)。

そして、『坂の上の雲』執筆中の一九七〇年に「タダの人間のためのこの社会が、変な酩酊者によってゆるぎそうな危険な季節にそろそろきている」ことに注意を促していた司馬氏は、『坂の上の雲』を書き終えたあとでは「政治家も高級軍人もマスコミも国民も、神話化された日露戦争の神話性を信じきっていた」と書いて、日露戦争の美化を厳しく批判していたのです。

徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』を高く評価して、日露戦争を「美化」する「変な酩酊者」たちによって支えられた現在の安倍政権にたいして司馬氏が存命ならば、きわめて厳しい批判を行ったことは確かだと思われます。

日本がさまざまな困難に直面している現在、「特定秘密保護法」や「戦争法」を強行採決して、国民の生命を危険にさらしている安倍政権には、早急な退陣をもとめねばならないでしょう。

(2016年5月20日。改題と加筆)

司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』――歴史認識と教育の問題をめぐって(4)

目次

1、グローバリゼーションとナショナリズム

2、父親の世代と蘇峰・蘆花兄弟の考察――『ひとびとの跫音』の構成をめぐって

3,大正時代と世代間の対立――徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』を中心に

4、ナショナリズムの批判――陸羯南と加藤拓川の戦争観と『大正の青年と帝国の前途』

5、治安維持法から日中戦争へ――『大正の青年と帝国の前途』と昭和初期「別国」の考察

6、記憶と継続――窓からの風景

7、司馬遼太郎の憂鬱――昭和初期と平成初期の類似性

 

4,ナショナリズムの批判――陸羯南と加藤拓川の戦争観と『大正の青年と帝国の前途』

「伊丹の家」の章は、秋山好古の娘である土井健子の仲人によってあや子と所帯をもつにいたった忠三郎を中心に話が進められていく。それとともに、ほとんど同年の生まれであった子規と秋山真之と同じように、忠三郎の実父拓川が好古と同じく「井伊直弼が大老職にあった安政六年(一八五九)のうまれで」、幕藩の世に呼吸しており、藩校明教館に入った彼らが「めずらしいことに、九歳で相並んで助手」を命ぜられたことや二人ともほぼ同じ時期にフランス留学を経験したことも紹介している。

そして、拓川について「天性、文明と人間を批評する資質にめぐまれていたし、ルソーの刺激をうけて独自の自由主義思想をもっていたが、かといって思想家としてなにごとかを遺したひとでもなかった」と述べた司馬は、「忠三郎さんは世俗のなかでは、世間と不調和になることを案じつつも秘かに独自の倫理的スタイルをもっていた点、拓川に酷似している」とも記している。

さらに「子規旧居」、「子規の家計」では、患っていた子規の面倒を見続けた大原・加藤家や拓川の親友であった陸羯南とその家族のことが中心に記されている。すなわち、司馬は子規の父が亡くなった後、「正岡家は大原家の家督をついだ伯父恒徳(つねのり)(拓川の長兄)の後見をうけ」、「大原恒徳の手をへて出されてくるこの金を小出しにして食べていた」ことに注意を向け、「子規の拓川あての書簡が幾通も伊丹の忠三郎家にのこっている」が、「内容は一、二の例外をのぞき、月々の家計の不足を告げ、援助を乞うというものであることにおどろかされる」とし、拓川は「貯えはつねに乏しかった。それでも子規から手紙がくると、そのつど応じ、一度も渋い色を見せたこと」がなかったと書いた。

そして、「子規の東京での学資は、旧松山藩の奨学制度である、常磐会から出ていた」が、「大学国文科二年の学年試験に落第し、中退したことで、この支給は絶え」、中退を決意したとき、子規が働くことにしたのが拓川の親友だった陸羯南の「主宰する日本新聞社」であり、月俸は十五円と少なかったが、子規が「人間は最も少ない報酬で最も多く働くほどエライひとぞな。…中略…人は友を択ばんといかん。『日本』には正しくて学問の出来た人が多い」(「子規の家計」)として、他の新聞社ではなく『日本』を選んだことを誇りにしていたと記したのである。

こう記したとき『坂の上の雲』においてはあまり『日本』に言及していなかった司馬もまた『日本』に強い関心を評価をするようになっていたといえるだろう。なぜならば、司馬は、『子規全集』の刊行に尽くした自分と同年生まれの松井勲が亡くなった後に、友人たちの手で出版された非売品の遺稿集には、『新聞「日本」の人々』という題がついていることに注意を促して、「かれは編集という埒から、そういうことを調べるところにまで入りこんでいた」と後に書いているからである(下・「洗礼」)。そして、司馬自身も後に後輩の青木彰に手紙で、「たれか、講師をよんできて、”陸羯南と新聞『日本』の研究”というのをやりませんか」と呼びかけただけでなく、さらに「もしおやりになるなら、小生、学問的なことは申せませんが、子規を中心とした『日本』の人格群について、大風に灰をまいたような話をしてもいいです。露はらいの役です」とも記したのである(*26)。

この手紙は『ひとびとの跫音』を執筆していた当時の司馬の陸羯南に対する関心のあり方をも語っているように見える。なぜならば、蘇峰は一八九九年に「帝国主義の真意」と題する記事で、「帝国主義」は、「平和的膨張主義」であると主張していたが、陸羯南はその翌日に「帝国主義」は「侵略主義」であるとしてこれを批判した論文を新聞『日本』に掲載して、「膨張主義」の危険性を指摘していたのである(*27)。

この意味で注目したいのは、鹿野政直氏がついに太平洋戦争にまで突き進むことになった日本のナショナリズムについて考察して、「なにか別の可能性はなかったのだろうか」と問い、このような視点から見るとき、最初に現れるのは「明治二十年代のナショナリズム」であり、「その代表的な思想家としての陸羯南(一八五七~一九〇七)と三宅雪嶺(一八六〇~一九四五)」であるとし、彼らはいずれも、「それまで<欧化>へのみちを追求してきた日本の思想界にあたらしい視点を提供した」と高く評価していることである(*28)。

そして、鹿野氏は『日本』が、「一八八九年の大日本帝国憲法発布とともに第一号を出した」ことを紹介しつつ、「国粋主義もしくは日本主義と称されるこの思潮は、この当時の表面において、政府のとる”貴族的欧化主義”および徳富蘇峰の主宰する『国民之友』『国民新聞』の”平民的欧化主義”と鼎立した。とりわけ蘇峰の平民主義と、羯南や雪嶺らの国粋主義は、ともにあたらしい世代の明治青年たちの自己主張として、大きく論壇をリードしてゆくことになった」と説明している。

ただ、鹿野氏は一年前に発行されていた三宅雪嶺の『日本人』における定義や、それまでの慣例に従って『日本』の思潮を「国粋主義」と規定している。しかし陸羯南自身は、自分たちの思潮を「国民論派」と呼び、これが「欧化風潮に反対して」起こったことを認めつつも、「国粋保存と言える異称」が自国の伝統以外を認めない「守旧論派の代名詞」として、「国民論派の発達を妨げる一大妨障なりき」とこの呼び方を批判している(*29)。

実際、「創刊の辞」において陸羯南は、「『日本』は国民精神の回復発揚を自任すといえども、泰西文明の善美はこれを知らざるにあらず。その権利、自由道義の理はこれを敬し、その風俗慣習もある点ではこれを愛し、とくに理学、経済、実業のことはもっともこれを欣慕す」としている(*30)。このことを考えるならば、本稿では『日本』の思潮を陸羯南の用語にならって「国民主義」と呼ぶ方がよいと思われる。

なぜならば、鹿野氏が指摘しているように、「大日本帝国憲法で、日本が『臣民』と規定されたのをよそにみながら、かれがあえて『国民』の名に固執したのは、やはり、国家の設定した臣民的コースからの抵抗であった」と考えられるからである。

このことは、『国民新聞』などで相変わらず「国民」という用語を用いながらも、一九一六年に著した『大正の青年と帝国の前途』においては、「されば帝国臣民 の教育は、愛国教育を以て、先務とせざる可らず」(*31)として、「国民」を「臣民」と考えるようになっていた蘇峰の場合と比較すればより明白であろう。すなわち、蘇峰はここで「明治の元勲」が「愛国心」を持ちつつも、「怖外心と崇外心とを長養」する一方で、「力の福音を閑却」し、「無差別的な欧化主義を宣伝」し、「自屈的外交」を行ったと鋭く批判した(*32)。そして、蘇峰はスペンサーが「日本人種」を「劣等人種」と見なしたとして(*33)、「白閥を打破し、黄種を興起」することが、「我が日本帝国の使命にして、大和民族の天職」であるとして、そのためには青年が「日本帝国を愛し、日本帝国に全身を献げ」るように、「国家を宗教とせんことを望む」としたのである(*34)。

一方、陸羯南は「創刊の辞」において、「ゆえに『日本』は狭隘(きょうあい)なる攘夷論の再興にあらず、博愛の間に国民精神を回復発揚するものなり」とも述べている。私たちの視点からきわめて興味深いのは、このような蘇峰の「国民主義」の主張が、大改革の時期にドストエフスキー兄弟が「欧化」を批判し、自己中心的な「国粋」をも諫めて、自分の大地であるロシアに立脚しつつ、そこから世界にも通じる普遍的な理念を生み出すべきだと主張したドストエフスキー兄弟の『時代』誌の「大地主義」に似ていることである(*35)。

このように見てくるとき、司馬遼太郎が下巻の冒頭に「拓川居士」の章をおいて中江兆民と陸羯南や拓川との関わりを再考察していることはきわめて重要である。すなわち、司馬は明治初年には「私塾は相変らず貧困であった」が、「このようなありさまのなかで、明治七年、フランスから帰ってきた土州人兆民中江篤介の存在」は大きく、「明治十年、私塾仏蘭西学会(のち仏学塾)を麹町中六番四十五の借家でひらいた」。一方、正岡子規に頼られることになる若い伯父の拓川は、「廃刀令が出た明治九年」に、「十八歳で給費の官吏養成所である司法省法学校に入り、フランス語とフランス法」を学んだが、「司法省法学校を退学した明治十二年に、この兆民の塾に入っている」とした。

そして司馬は、「兆民の第一の門弟ともいうべき同郷の幸徳秋水」が、『兆民先生』で「先生は仏蘭西学者として知られて居たけれど一面立派な漢学者であった」と記していたことに注意を促して、「この言葉は、拓川についてもあてはまるようである」とした。

さらに司馬は「拓川にとって法学校以来の友人である陸羯南」が、「明治二十四年、一種の同時代史として『近時政論考』(日本新聞社刊)一巻をあらわし、維新以来の政論の変遷を分類」して、「兆民らの思想と運動」を「それ以前の悒鬱(ゆううつ)民権や翻訳民権よりも「一層深遠」で、「西洋十八世紀末の法理論を祖述し多く哲学理想を含蓄した」と高く評価したことに注意を促している(「拓川居士」)。

興味深いのは「フランスのベトナム侵略を機に始まった清仏戦争」を論じた福沢諭吉が、個人における「修身」とは異なり、国家間の外交では「国家はたとえ過誤を犯しても容易に謝罪すべきではない」と主張し、フランスが「国益」のために「力を尽くして罪を支那に帰するの策」を講じるのは当然であるとしたが、拓川の反応が福沢諭吉とはまったく反対であったことである(*36)。

すなわち、司馬は「兆民の徒である拓川にとって不幸なことに、かれがながい船旅のあげくにパリについたとき、仏蘭西の新聞は、フランス政府が極東侵略(ヴェトナム支配や対清戦争)に熱中しているのを、連日、記事や銅版画で報じつづけていたことであった」と指摘した。そして司馬は拓川がフランス留学をすることになった時期に、故国日本では官憲が「沸騰する民権運動やその刊行物をおさえこむことで、気ぐるいしたようになって」、「新聞、出版に関する取締条例を強化し、さらには政論に関する集会を綿密に監視し、ささいなことでも解散を命じたり」するようになっていたことにもふれてと、拓川は「維新を経た少年のころの攘夷家として憤りを感じた」にちがいなく、「国家や愛国ということの本質を、そこざらえにして考えざるをえなかったのではないか」とした。

そして、司馬は「世間に瀰漫している愛国主義を嫌悪」した拓川がフランスで書いた論文「愛国論」の本文は七章から成り、「第一章は愛国の本義、次いで愛国心の過去未来、土地所有権と愛国心の関係、電信鉄道と愛国心の関係、愛国心より起る古今経済学者(註・この場合の経済は政治という意味)の謬説」とつづき、「第六章にいたって『天下を乱るものは愛国者なり』という見出しがつき、第七章では『愛国の臣たらんよりは寧ろ盗臣たれ』とまことにはげしくなる」と記した。

すなわち、拓川によれば「愛国心と利己心とは其心の出処も結果の利害も同様」なので、「愛国主義の発動はとかくに盗賊主義に化して外国の怨を招き、外国の怨は人類相対の怨となる」のである。そして司馬は、こうして人間世界に愛国心があると「天下太平は望みがたし」と考えた拓川が、「孔子が説きつづけた仁の実践方法というべきもの」である、「おのれのまごごろをつくし、他人への無限の思いやりをもつという忠恕」こそが、「地球を『同類相喰』の場から救う」と考えたのだと説明した。そして、拓川が「たとへ我国人に利あるも世界の人に害ある事は是罪悪なりと仏国の学者(モンテスキュー)は言へり」とも説いていたこと紹介していたのである。

司馬は、もし拓川が「このまま思想と文章による在野活動をしていれば」、「幸徳秋水よりもさきに似たような思想を先唱する人になっていたかもしれない」と結んでいた。実際この先の文章は拓川の思想が、日露戦争後に政府やジャーナリズムなどによって煽り立てられるナショナリズムの危険性を鋭く認識して「爾が戦勝は即ち亡国の始とならん、而して世界未曾有の人種的大戦乱の原とならん」と強い危機感を表明した徳冨蘆花や将来の世界大戦の「帝国主義」の危険性を指摘した幸徳秋水の思想に先んじていたことを明らかにしていたといえよう(*37)。

註(4)

*26 青木彰『司馬遼太郎の跫音』、三六八頁。

*27 宇野田尚哉「成立期帝国日本の政治思想」『比較文明』第一九号、行人社、二〇〇三年、二六頁。

*28 鹿野政直「ナショナリストたちの肖像」、『陸羯南・三宅雪嶺』、(『日本の名著』第三七巻)、中央公論社、一九八四年、一一頁。

*29 陸羯南「国民論派の発達」、前掲書(『陸羯南・三宅雪嶺』)、一二四頁。

*30 同右「創刊の辞」、二三一~二頁。

*31 徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、二八一頁。

*32 同上、一五八頁。

*33 同上、一六三頁。

*34 同上、三一六頁。

*35 ドストエフスキー兄弟が掲げた「大地主義(土壌主義)」については、高橋『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、二〇〇二年参照。

*36 松永昌三『福沢諭吉と中江兆民』中公新書、二〇〇一年、一四七~八頁。

*追記 加藤拓川および陸羯南と正岡子規との関係については、拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、二〇一五年)の第四章〈「その人の足あと」――新聞『日本』と子規〉を参照。

司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』――歴史認識と教育の問題をめぐって(2)

目次

1、グローバリゼーションとナショナリズム

2、父親の世代と蘇峰・蘆花兄弟の考察――『ひとびとの跫音』の構成をめぐって

3、大正時代と世代間の対立の考察

4、ナショナリズムの批判――陸羯南と加藤拓川の戦争観

5、治安維持法から日中戦争へ――昭和初期「別国」の考察

6、記憶と継続――窓からの風景

7、司馬遼太郎の憂鬱――昭和初期と平成初期の類似性

 

2,父親の世代と蘇峰・蘆花兄弟の考察――『ひとびとの跫音』の構成をめぐって

『ひとびとの跫音』(中公文庫)は次のような章から成り立っている。

(上巻)電車、律のこと、丹毒、タカジという名、からだについて、手紙のことなど、伊丹の家、子規旧居、子規の家計/(下巻)拓川居士、阿佐ヶ谷、服装、住居、あるいは金銭について、ぼたん鍋、尼僧、洗礼、誄詩

「電車」と名付けられたこの小説の最初の章で司馬遼太郎は、かつて阪急電鉄株式会社に車掌としてつとめていた「忠三郎さんのことを書こうとしている」とし、「昭和五一年九月十日の朝、忠三郎さんは脳出血による七年のわずらいのあと、伊丹の自宅の近所の病院でなくなった。七十五歳であった」(太字引用者)と記した。

市井に生きる無名の人々の人情や自然の風景を、とぎすまされた感性で描いた藤沢周平は、司馬遼太郎の主な長編歴史小説を読んでいないことを認めつつも、自分が『この国のかたち』や『街道をゆく』シリーズの「人後に落ちない愛読者であった」と認め、さらに「『ひとびとの跫音』一冊を読んだことで後悔しないで済むだろうと思うところがある」と書き、『ひとびとの跫音』においては「ふつうの人人が司馬さんの丹念な考証といくばくかの想像、さらに加えて言えば人間好きの性向によって一人一人が光って立ち上がって見えてくる」として絶讃した(*8)。

実際、随筆風に書き進められているかに見えるこの小説でも、やはり読んで行くに従って、司馬遼太郎に独特の堅固で緻密な構成と明確な主題を持っていることに気づかされる。

たとえば、後にこの忠三郎が加藤拓川の実子であるとともに、正岡子規の死後に家を継いだ妹律の養子となった人物であることが明らかにされるのだが、この小説を読んでいくと最初の章に記されたさりげない多くの文章が次第に重要な意味を持ち、次の章の主題と直結していることがわかる。

たとえば、忠三郎の「七年のわずらい」を看病した妻のあや子についての描写は、「二十代から三十代にかけての七年間、兄の看病のために終始し、そのことにすべてを捧げた」子規の三歳下の妹律を描いた「律のこと」や「丹毒」の章へとつながるのである。しかも、そこで司馬は兄の死を看取った後で律が東京の共立女子職業学校で学んだことや、さらにそこを卒業した後は母校で教鞭をとっていたこと、さらにその律の養子となった忠三郎と律や実母ひさ、さらにはあや子と二人の義母との関わりなど、それまでほとんど知られていなかった事実を淡々と描いている。

さらに名字を省いて主人公を単に「忠三郎さん」と紹介するという方法は、自らを「タカジ」と呼ばせた西沢隆二について描いた「タカジという名」や「からだについて」の章にも直結しており、それに続く「手紙のことなど」の章では二高時代のタカジと忠三郎との友情が描かれることになる。

そして、「伊丹の家」、「子規旧居」、「子規の家計」などの章でも日中戦争の年に結婚した忠三郎とあや子との結婚の話を核としながら、彼らの生活を通して母となった律や実父加藤拓川、実母との関わりが描かれているだけでなく、実父加藤拓川と秋山好古や陸羯南との関わりなど子規を形作った人々について記されているのである。そして、これらの章の後に本書のクライマックスの一つといえる「拓川居士」において、拓川の愛国論批判が紹介されることになる。

忠三郎の葬儀がカトリックの教会で行われたことも第一章でさりげなく記されているが、このことは彼の「六つ下の末の妹」の「たへ」が洗礼を受けて「ユスティチア」となったいきさつや、彼女たち修道女が日本軍の占領政策のためにフィリピンへと行くことが描かれる後半の章「尼僧」や、忠三郎が妹の意をくんで洗礼をうけることになる「洗礼」の章とも深く関わっていたのである。

そして、忠三郎の葬式に際して葬儀委員長を引き受ける羽目になった司馬がなれぬ葬儀場の手配や「死亡記事」の扱いなどで振り回されたいきさつが記されているのだが、続いて彼はさりげなくこう書いていたのである。「そのあと八日たち、伊丹の正岡家の通夜の日、薄暗い台所で音をたてていたひとの亭主が、信州の佐久でなくなった」。そして、「ほどなく私事だが」、「私自身の父親が死んだ」。こうして、ここには「誄詩(るいし)」と題された終章につながる主要なことが提示されていたのである。

司馬はこの作品の執筆理由の一つとして「忠三郎さんとタカジというひとたちの跫音を、なにがしか書くことによってもう一度聴きたいという欲求があった」と書いているが、彼らは大正時代に青春を過ごした司馬自身の父親と同じ世代の人々であり、さらに司馬は忠三郎の父親の世代である正岡子規や律などを調べることによって、明治以降の三代の世代をも再考察しているのである。

この意味で注目したいのは、この作品では大正時代に生きた人々が主人公として選ばれていることに注目した評論家の小林竜雄氏が、この小説には「さりげなく隠されたものもある」とし、「司馬遼太郎自身の父親」のテーマも根底にあることを指摘していたことである(*9)。まず、小林氏は「誄詩」の章で短く触れられた次の文章に注意を向けている。「私の身辺にも、タカジよりすこし年上の父が、食道や気管にできた癌で入院していた。このとしは、その種のことで多忙だった。父は、忠三郎さんやタカジが亡くなってから、ほどなく死んだ」。

そして、小林氏は司馬の父「是定は頑固な父・惣八のせいで、江戸期のように寺子屋で学ばされ中学校にも行けなかった。そこで独立して試験を受け薬剤師となったのである。そこには”明治の父”に振り回された”大正の父”の姿があった」とし、「司馬はその父の『跫音』もこの物語から聞いていたのだろう」と書いた。

司馬の内面にも踏み込んだ鋭い指摘であり、大正末期に生まれた司馬が昭和初期に青春を迎えていることを考慮するならば、ここには明治から昭和にいたるまでの市井の人々の生き方が淡々と描かれているといっても過言ではないのである。クリミア戦争に負けて価値が混乱したロシアでは、価値観を巡る世代間の対立が激化して、ツルゲーネフの『父と子』やドストエフスキーの『虐げられし人々』などの作品が書かれたが、『ひとびとの跫音』においても大正時代に青春を過ごした忠三郎と父親の世代の子規や加藤拓川との関わりや、さらに忠三郎の子供の世代ともいえる大岡昇平や司馬遼太郎の世代にいたる三代の青春が描かれていることに気づく。

実際、司馬は忠三郎が中学校二年の一九一四年に、日本が日独戦争と呼んだ第一次世界大戦が始まったこと、司馬が生まれた一九二三年(大正一二)には関東大震災があったこと、忠三郎が就職した一九二七年(昭和二)には、「金融恐慌が進行して」いたこと、さらに忠三郎があや子と結婚した一九三七年が日中戦争の勃発の年であったことなど、個人の体験を日本史の流れの中に位置づけつつ描いているのである。

ただ、小林氏は司馬の父是定を「”明治の父”に振り回された”大正の父”」としたが、単に「振り回された」と言い切れるだろうか。司馬は最後の章「誄詩」で、「この稿の主題は」、「子規から『子規全集』まで」というべきものであったかと思っているとしているが、「言語についての感想(七)」という随筆や『坂の上の雲』のあとがきで司馬は正岡子規や徳冨蘆花の小説と出会ったのは、父親が買った全集によってであったと記しているのである(*10)。

すなわち、司馬はここで「私は少年のころ、父の書架に、正岡子規と徳冨蘆花の著書またはそれについての著作物が多く、つい読みなじんだ。この二人はほぼ同時代でありながら文学的資質に共通点を見出すことがむずかしい。また明治国家という父権的重量感のありすぎる国家にともに属しつつも、それへの反応はひどくちがっていた」と記して子規だけでなく、蘆花の全集にもふれていた。そして司馬は「蘆花の父一敬は横井小楠の高弟で、肥後実学を通じての国家観が明快であった人物で、蘆花にとって一敬そのものが明治国家というものの重量感とかさなっているような実感があったようにおもわれる」とし、「また父の代理的存在である兄蘇峰へも、一敬に対する嫌悪と同質のものがあり、しだいに疎隔してゆき、晩年は交通を絶った」と続けて父や兄との世代間の葛藤や対立にもふれていたのである(Ⅷ・「あとがき五」)。

つまり、「私事」としてあまり強くは語られてはいないが、「生涯、記録に値するような事跡はみごとなほどのこさなかった」が、「そのことでかえっていぶし銀のような地張りを感じさせてしまう」市井のひと、忠三郎という人物の姿は、強烈な個性を持ち、政府の欧化政策に反抗して学校にも入れなかった祖父のもとで、あまり反抗的な自己主張はしなかったが、子規や蘆花の全集を買い求めて読み込んでいた父親への思いが重なっていたように思えるのである。

徳冨蘆花は日露戦争後に書いた「勝利の悲哀」と題するエッセーにおいて、「一歩を誤らば、爾が戦勝は即ち亡国の始とならん、而して世界未曾有の人種的大戦乱の原とならん」と強い危機感を表明していた(*11)。

司馬も「勇気あるジャーナリズム」が、「日露戦争の実態を語っていれば」、「自分についての認識、相手についての認識」ができたのだが、それがなされなかったために、日本各地で日本政府の弱腰を責めたてる「国民大会が次々に開かれ」、放火にまで至ることになったと記して、ナショナリズムを煽り立てる報道の問題を指摘した(*12)。さらに『この国のかたち』の第一巻において司馬は、戦争の実態を「当時の新聞がもし知っていて煽ったとすれば、以後の歴史に対する大きな犯罪だったといっていい」と記して、当時の新聞報道を厳しく批判した。

蘇峰が『蘇峰自伝』の「戦時中の言論統一と予」と題した節で、「予の行動は、今詳しく語るわけには行かぬ」としながらも、戦時中には桂内閣の後援をして「全国の新聞、雑誌に対し」、内閣の政策の正しさを宣伝することに努めていたと書いていることを考えるならば、司馬の鋭い批判は、蘇峰と彼の『国民新聞』に向けられていたと言っても過言ではないだろう。実際、ビン・シン氏の考察によれば、「そうなら国民に事情を知らせて諒解させれば、あんな騒ぎはなしにすんだでしょうに」と問い質した蘆花に対して、蘇峰は「お前、そこが策戦(ママ)だよ。あのくらい騒がせておいて、平気な顔で談判するのも立派な方法じゃないか」として、敵と交渉をするためには味方を欺くことも必要だと答えていたのである(*13)。

しかも、天皇機関説論争が激しさを増した一九三五年(昭和一〇)に「第一天皇機関などと云ふ、其の言葉さへも、記者は之を口にすることを、日本臣民として謹慎す可きものと信じてゐる」と徳富蘇峰が書いていることを紹介した評論家の立花隆氏は、明治四五年に美濃部の『憲法講話』が公刊された際にも、すでに蘇峰の『国民新聞』に「美濃部説は全教育家を誤らせるもの」という批判記事が載っていたことを記している(*14)。

実際、歴史家の飛鳥井雅道氏によれば、この記事の筆者は「しきりに乱臣賊子にあらざることを弁解するに力(つと)むるも、其言説文字は、則ち帝国の国体と相容れざるもの多々なり」として美濃部達吉を厳しく批判し、『国民新聞』も社説などで美濃部の説を「遂に国家を破壊せざれば、已まざるなり」とした職を去ることを強く求めるキャンペーンを行っていたのである(*15)。

『ひとびとの跫音』においてもタカジと父親との対立も描かれていることを考えるならば、私たちはこの小説に「さりげなく隠された」テーマとして日露戦争後に平和を主張した蘆花と蘇峰の対立の問題も考慮にいれる必要があるだろう。

ところで司馬はこの小説について「歴史小説などとは違い、主人公たちは、ついさっきまで市井(しせい)を歩いていたのですからまずファクト(事実)がある。だから読めば気楽に読めますけれど、一点一画もおろそかにしてはいけないという気持ちで執筆しました」(太字引用者)と書いていた。

この言葉の意味は非常に重く、司馬遼太郎の歴史認識と作風の変化自体にもかかわっていると思える。この意味で注目したいのは、司馬が歴史小説を書き始めた頃に司馬が「私の小説作法」として、自分が鳥瞰的な手法をとることを明言していたことである。「ビルから、下をながめている。平素、住みなれた町でもまるでちがった地理風景にみえ、そのなかを小さな車が、小さな人が通ってゆく。そんな視点の物理的高さを私はこのんでいる。つまり、一人の人間をみるとき、私は階段をのぼって行って屋上へ出、その上からあらためてのぞきこんでその人を見る。同じ水平面上でその人を見るより、別なおもしろさがある」(*16)。

司馬の歴史小説のおもしろさの一端がここにあったのは間違いないだろう。磯田道史氏は蘇峰や司馬の歴史観が「大衆から圧倒的支持をうけた」と指摘し、「支持された理由は簡単である。ものの見方が実に大局的であり、わかりやすい言葉で語りかけたからである」と説明していた(*17)。実際、多くの読者が書き手である司馬と同じ歴史上の場面を見ながら、司馬の断言的で明快な解説により、それまで複雑で難解だと思っていた歴史に対する興味を持つようになったのである。

ただ、司馬は「鳥瞰的な手法」で歴史を描くとしたが、そのような視野を得るためには何らかの「基準」や「史観」が必要とされていたはずであり、それなくしては上からの風景は単なる「無秩序」になったと思える。それゆえ、「皇国史観」や「唯物史観」という特定の見方からの歴史観を排しつつ、『竜馬がゆく』など「国民国家」を形成する歴史上の人物を主人公とする作品を描き始めたとき、司馬自身はあまり意識していなかったにせよ、彼が依拠していたのは「自由や個性」を重視していた福沢諭吉の歴史観だったと思える。

しかし、すでにドストエフスキーが『地下室の手記』において厳しく批判していたように、福沢諭吉が依拠したバックルの『イギリス文明史』などの近代西欧の歴史観では、「文明」による「野蛮」の征伐が「正義の戦争」として認められており、また、「国益」が重視されることにより、個人間の場合の道徳とは異なり、自国の「国益」にかなわない「事実」は無視されるか、「事実」とは反対のことさえも主張されていたのである(*18)。

このことに気づいたあとでの執筆上の苦悩を司馬は『坂の上の雲』の中頃、正岡子規の死を描いた「十七夜」の次の章の冒頭でも次のようにうち明けている。「この小説をどう書こうかということを、まだ悩んでいる。/子規は死んだ。/好古と真之はやがては日露戦争のなかに入ってゆくであろう。/できることならかれらをたえず軸にしながら日露戦争そのものをえがいてゆきたいが、しかし、対象は漠然として大きく、そういうものを十分にとらえることができるほど、小説というものは便利なものではない(太字引用者、Ⅲ・「権兵衛のこと」)。

そして司馬は第四巻のあとがきでは、「当時の日本人というものの能力を考えてみたいというのがこの作品の主題だが、こういう主題ではやはり小説になりにくい」と記し、その理由としてこのような小説は「事実に拘束される」が、「官修の『日露戦史』においてすべて都合のわるいことは隠蔽」されていることを挙げるようになるのである。

ここには大きな歴史認識の変化が現れているといえるだろう。つまり、後期「福沢史観」と決別したとき司馬は、比喩的にいえば、羽を失って飛べなくなった鳥と同じ様に鳥瞰的な視野を失ったのである。こうして司馬は「国家」の作成による「歴史」ではなく、日露の歴史書を比較しながら自ら判断して書かざるをえないという事態と直面したのである。

それゆえ、『坂の上の雲』を書き終えた司馬遼太郎にとって、大きな課題として残されたのは、「国民」を幸せにすることを約束しつつ、富国強兵に邁進して「国民」を戦争や植民地の獲得へと駆り立てた近代西欧の「国民国家史観」や、そのような歴史観に対抗するために、「自国を神国」と称する一方で、「鬼畜米英」に対する防衛戦争の必然性を唱えて無謀な「大東亜戦争」へと突入することになった「皇国史観」に代わる歴史観を模索し、それを提示するという重たい課題であったと思われる。

この意味で注目したいのは、評論家の関川夏央氏との対談で歴史家の成田龍一氏が「『ひとびとの跫音』は時として異色の作品といわれることもあるようですが、私は非常に司馬遼太郎らしい作品だと読みました。同時にここでは司馬遼太郎が一九八〇年前後に新たな試みをはじめている」ことに注意を向けるとともに、司馬自身が登場人物の一人となっていることにも注意を促していることである(*19)。

つまり、この作品で司馬は鳥瞰的な視点から人物や歴史を描いているのではなく、司馬遼太郎自身が同じ平面にたって彼らと対話を交わしながらこれらの人物を描いているのである。そしてこの作品では司馬自身も自分が敬愛した正岡子規を同じように敬愛し、「子規全集」を出版しようとする熱意に燃えるひとびととの交友をとおして、新しい歴史観と文明観を提示し始めていたのである。

 

註(2)

* 8 藤沢周平「遠くて近い人」『司馬遼太郎の世界』、一九九六年

* 9 小林竜雄『司馬遼太郎考――モラル的緊張へ』中央公論社、二〇〇〇年

*10 司馬遼太郎『この国のかたち』第六巻、三二七頁

*11 徳冨蘆花「勝利の悲哀」『明治文学全集』(第四二巻)、筑摩書房、昭和四一年、三六七頁

*12 司馬遼太郎『「昭和」という国家』NHK出版、一九九八年、三六頁

*13 ビン・シン『評伝 徳富蘇峰――近代日本の光と影』、杉原志啓訳、岩波書店、一九九四年、および徳富蘇峰『蘇峰自伝』中央公論社、昭和一〇年参照

*14 立花隆『天皇と東大――大日本帝国の生と死』文藝春秋、二〇〇六年、下巻・一三五頁、上巻・四三四頁

*15 飛鳥井雅道『明治大帝』講談社学術文庫、二〇〇二年、四七~五一頁。なお、日露戦争後の教育をめぐる状況については、高橋『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』東海教育研究所、二〇〇五年参照

*16 司馬遼太郎『歴史と小説』集英社文庫、一九七九年(初出は一九六四年)、二七五~六頁

*17 磯田道史、前掲エッセー、二二頁

*18 科学的な装いをこらした西欧近代の「自国中心的」な歴史観に対するドストエフスキーの批判については、高橋「『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』第四章参照(刀水書房、二〇〇二年)

*19 関川夏央・成田龍一「(特別対談)『ひとびとの跫音』とは何か ある大正・昭和の描き方」(『文藝別冊 司馬遼太郎 幕末・近代の歴史観』河出書房新社、二〇〇一年、四〇頁、四八頁

司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』――歴史認識と教育の問題をめぐって(改訂版・1)

1、グローバリゼーションとナショナリズム――「司馬史観」論争と現代

2、父親の世代と蘇峰・蘆花兄弟の考察――『ひとびとの跫音』の構成をめぐって

3,大正時代と世代間の対立――徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』を中心に

4、ナショナリズムの批判――陸羯南と加藤拓川の戦争観と『大正の青年と帝国の前途』

5、治安維持法から日中戦争へ――『大正の青年と帝国の前途』と昭和初期の「別国」への道

6、窓からの風景――「想念のなかで、子規の視線」と合わせる

7、後書きに代えて 司馬遼太郎の不安――「帝国の前途」から「日本の前途」へ

 

1,グローバリゼーションとナショナリズム――「司馬史観」論争と現代

国際政治学者のハンチントンはソ連が崩壊して、旧ユーゴスラビアなどで紛争が頻発するようになった二〇世紀末の世界を分析した大著『文明の衝突』において、「世界的にアイデンティティにたいする危機感」が噴出した結果、世界の各地で旗などの「アイデンティティの象徴」が重要な意味を持つようになり、「人びとは昔からあった旗をことさらに振りかざして行進し」、「昔ながらの敵との戦争をふたたび招くのだ」と指摘した(*1)。実際、彼の指摘を裏付けるかのように、インド・パキスタンの相次ぐ核実験やイラク戦争など、「文明の衝突」が続いて起こり、世界の各国でナショナリズムの昂揚が野火のように広がっている。

日本でも司馬遼太郎が亡くなって「司馬史観」論争が巻き起こった1996年には「『坂の上の雲』では「エリートも民衆も健康なナショナリズムに鼓舞されて、その知力と精力の限界まで捧げて戦い抜いた」ことが描かれているとする解釈もなされた*4。その翌年の一九九七年には、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が立ち上げられ、戦後の歴史教育を見直す動きが始まっていた。

こうした中、イラクへの自衛隊派遣が国会で承認されたことや二〇〇五年が日露戦争開戦百周年にあたることから、この二つの戦争を結びつけながら、日露戦争を肯定的に描いた作品として『坂の上の雲』を再評価しつつ、「教育基本法」を改正して、平成の青少年に「愛国心」や戦争への気概を求めようとする論調が強くなってきている。

たとえば、「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」というタイトルの対談で石原慎太郎・前東京都知事は、「わが国の風土が培ってきた伝統文化への愛着、歴史を担った先人への愛惜の念」や「集団としての本能に近い情念」の重要性を強調するとともに、日露戦争の勝利を「白人支配のパラダイムを最初に痛撃した」と評価しながら、「大東亜戦争」の正しさを教えられるような歴史教育の必要性を主張していた(*2)。さらに、石原氏は「もっとこの国に危機が降り積もればいいとさえ考えている」とし、「いっそ北朝鮮からテポドンミサイルが飛来して日本列島のどこかに落ちればいい。そうすれば日本人は否応もなく覚醒するでしょう」とさえ語って、戦争を煽ってさえいたのである。

たしかに『坂の上の雲』(一九六八~七二)の前半で司馬は日清戦争を考察しながら、「侵略だけが国家の欲望であった」一九世紀末において、「ナショナリズムのない民族は、いかに文明の能力や経済の能力をもっていても他民族から軽蔑され、あほうあつかいされる」と書いて、ナショナリズムを「国民国家」に必須のものとしていた(Ⅱ・「列強」)(*3)。

しかし、『坂の上の雲』の前半と同時期に、徳富蘇峰の『吉田松陰』を意識しながら『世に棲む日々』(一九六九~七〇)書いていた司馬は、史実を詳しく調べながら日露戦争を描いていく過程で、次第にナショナリズムの危険性を明らかにしていくのである(*4)。

しかも「司馬史観」は、「『明るい明治』と『暗い昭和』という単純な二項対立史観」であり、「大正史」を欠落させていると厳しく批判されることが多い(*5)。しかし、日露戦争を考察した『坂の上の雲』の後日譚ともいえるような性格をもつ『ひとびとの跫音』(一九七九~八〇)において司馬は、子規の死後養子である正岡忠三郎など大正時代に青春を過ごした人々を主人公として描いていた。

そして司馬はこの長編小説のクライマックスの一つにあたる「拓川居士」の章で、正岡子規にも大きな影響を与えた伯父・加藤恒忠(拓川、一八五九~一九二三)の「愛国心と利己心とは其心の出処も結果の利害も同様」なので、「愛国主義の発動はとかくに盗賊主義に化して外国の怨を招き」やすいと指摘した文章に注意を向けているのである。

この意味で注目したいのは、歴史家の磯田道史氏が「たった一人で日本人の歴史観を一変」させた「在野の歴史家」として頼山陽(一七八〇~一八三二)、徳富蘇峰(一八六三~一九五七)とともに司馬遼太郎(一九二三~一九九六)の名前を挙げ、戦前から戦中の日本で大きな位置を占めた蘇峰の「尊皇攘夷」の歴史観と比較しつつ、司馬が「日本人に染み付いた徳富史観を雑巾でふきとり、司馬史観で塗りなおしていった」と指摘していることである(*6)。

実際、第一次世界大戦の最中の一九一六年(大正五)に書いた大作『大正の青年と帝国の前途』で、徳富蘇峰は明治期の青年と大正期の青年を比較しながら、「此の新時代の主人公たる青年の、日本帝国に対する責任は奈何」、さらに「日本帝国の世界に於ける使命は奈何」と問いかけて、「吾人は斯の如き問題を提起して、我が大正青年の答案を求むる」と記して、「世界的大戦争」にも対処できるような「新しい歴史観」の必要性を強調していた(*7)。

ここで蘇峰が示した方向性は、大正や昭和の青年たちの教育に強い影響力を有してその後の「帝国の前途」を左右したばかりでなく、これからみていくように平成の青年たちの未来にも深く関わっているように思える。なぜならば、「はじめに」でふれたように「新しい歴史教科書を作る会」理事の坂本多加雄氏は、蘇峰を「巧みな『物語』制作者」であるとし、「そうした『物語』によって提示される『事実』が、今日なお、われわれに様々なことを語りかけてくる」として、蘇峰の歴史観の現代的な意義を強調していたからである。

実際、「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」というタイトルの対談で石原慎太郎氏との対談を行っていた「新しい歴史教科書を作る会」第三代会長の高崎経済大学助教授・八木秀次氏は、同じ号に掲載された「今こそ”呪縛”憲法と歴史”漂流”からの決別を」という題の鼎談で、衆議院議員の安倍晋三氏やジャーナリストの櫻井よしこ氏と「改憲」への意気込みを語ってもいた*5

創刊31年を記念した『正論』のこの号には、「内閣法制局に挑んだ注目提言」も一挙掲載されていたが、「特定秘密保護法」や「安全保障関連法案」などが安倍政権によって強行採決された後では、原発だけでなく武器の輸出などが、この提言を行っていた財界の意向にそって実施されたように、平成の歴史も蘇峰が『大正の青年と帝国の前途』で示した方向性に多くの点で沿っているように見える*6

しかし、問題は蘇峰の示した歴史認識や教育観がどのような結果を招いたかを、きちんと検証することであり、さもないと日本は東条内閣の頃と同じ愚を繰り返すことになると思える。以下、本稿では蘇峰の歴史観にも注意を払いながら、大正の青年たちを主人公にした小説『ひとびとの跫音』で司馬がどのように教育の問題を考察しているかを分析したい。この作業をつうじて私たちは大正時代に生きた若者たちを主人公としたこの小説で、司馬がナショナリズムの危険性を鋭く指摘しながら、明治末期から大正を経て昭和に至る戦争への流れとその危険性を見事に描き出していることを明らかにしたい(本稿においては、歴史的な人物の敬称は略す)。

註(1)

* 1 ハンチントン『文明の衝突』、鈴木主税訳、一九九八年、集英社、一八五~六頁

* 2 石原慎太郎、『正論』二〇〇四年一一月号、産経新聞社、五八頁。

* 3 司馬遼太郎、『坂の上の雲』、文春文庫、第三巻。以下、巻数をローマ数字で、章の題名とともに本文中に記す。なお、『ひとびとの跫音』(中公文庫)も同様に記す。

* 4 高橋「司馬遼太郎の徳冨蘆花と蘇峰観――『坂の上の雲』と日露戦争をめぐって」『コンパラチオ』九州大学・比較文化研究会、第八号、二〇〇四年参照。

* 5 中村政則『近現代史をどう見るか――司馬史観を問う』岩波ブックレット、一九九七年参照。

* 6 磯田道史「日本人の良薬」『一冊の本』(二〇〇三年一〇月号)、朝日新聞社、二二~三頁。

* 7 徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』筑摩書房、一九七八年、六五頁。

 

*4 藤岡信勝『汚辱の近現代史』徳間書店、一九九六年、五一~六九頁。

*5 八木秀次・安倍晋三・櫻井よしこ、『正論』産経新聞社、二〇〇四年、八二~九五頁。

*6 日本経済調査協議会葛西委員会編、「内閣法制局に挑んだ注目提言」、『正論』産経新聞社、2004年、九六~一一五頁。

(青い字は、改訂版で追加した註の数字)。