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地球環境

『原発ホワイトアウト』(講談社)を推す

 

知人からの強い勧めで「現役キャリア官僚」が書いたとされる『原発ホワイトアウト』(講談社)を購入した。

サスペンス・タッチで原発産業と政官との癒着の構造に迫る内容で、強い説得力とエンターテイメント性もあり、一気に最後まで読み終えた。

11月15日の「東京新聞」に載った広告では、「大反響 10万部突破」の文字が大きく躍っていたが、読み終えた後では現在の日本が抱えている危険性を再確認させられて、しばらく席を立てなかった。

国民的な議論もなく進められている原発の輸出や再稼働の問題をもう一度考えるよい機会に本書はなるだろう。

詳しい内容を記すのは控えたいが、サスペンス感を高めるために本書ではテロリズムの視点から原発の危険性が指摘されている。

日本という国土が地殻変動の結果として形成され、その後も強い地震活動が続いている自然環境を考慮するならば、一刻も早く「脱原発」に踏み切ることが、長い目で見た場合、「国民の生命」だけではなく「経済的な利益」にも叶っていると思われる。

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「現役キャリア官僚」による「リアル告発ノベル」とのうたい文句も売り上げには貢献していると思われる。

しかし、問題はきちんとした国民的な議論もなく「特定秘密現保護法案」の審議が進んでいる現在、この法律がとおると著者の「現役キャリア官僚」も、「国家機密の暴露」の罪に問われて10年間の刑罰を受ける危険性さえあると思われることである。

 『竜馬がゆく』で「維新政府はなお革命直後の独裁政体のまま」であったと書いた司馬氏は、ことに「言論の自由」を封殺した「新聞紙条例」を厳しく批判していたが、政権についた権力者は自分たちが「国策」として進める政策の欠点を正確に批判する官僚や報道関係者をも、このような法律によって厳しく罰してきたのである。

本書は「原発」の問題だけでなく、「情報」の問題についても考えさせられるような知的刺激に富む本である。

グラースノスチ(情報公開)とチェルノブイリ原発事故(1988年)

Chernobylreactor_1(←画像をクリックで拡大できます)

(4号炉の石棺、2006年。Carl Montgomery – Flickr)

ドストエフスキーの生誕175周年を記念して1996年にモスクワとペテルブルクで行われた国際会議の報告記事を探していたところ、1988年に研究例会で行った帰国報告の原稿を見つけました。

そこにはペレストロイカの状況だけではなく、ソ連の崩壊に至る一因としてのチェルノブイリ原発事故や2001年9月11日の米国同時多発テロ事件とも深く関わるアフガン戦争の問題についてもふれられていました。

福島第一原子力発電所事故による汚染水の流出が明らかになっている一方で、原子炉がどのような状態になっているのかも分からない中で、首相が「全体として制御されている」と断言している日本では、果たしてきちんと「情報公開」がなされているのかが不安になりますので、「グラースノスチとチェルノブイリ原発事故」という題名で報告の一部を再掲しておきます。

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今年は学生の引率として一ケ月半程ソ連に滞在し、現在進められているペレストロイカとグラースノスチ(情報公開)をかいま見たので、私のテーマとも関連し、東欧の諸国とも係わりがあると思われる民族問題を中心に現象的な側面から簡単な報告をしておきたい。

現象面で殊に目についたのは、モスクワの雰囲気が変ってきたということだ。たとえば赤の広場近くのゴーリキイ通りにインツーリストというホテルがあるが、その前には何軒ものペプシコーラの店が軒をつらね、客たちはパラソルの下のベンチでいこいながら談笑しているという西欧の国で見られるような光景がそこでも見られ、又それは単にこのホテルの前だけではなく、モスクワのあちこちの広場でこうした場面を見ることができた。そしてそれは最近協同組合形式の喫茶店やレストランがモスクワのあちこちに出来始めていることと相まって殊に外国人の旅行者には以前よりもはるかに住みやすくなったという印象を生みだしていた。

このような傾向はブレジネフの時代の停滞を打ち破り、経済を活性化させようとする試みであり、さらにはこれまでほとんどなかったサービスという概念(ソヴィエトに行くと驚かされるのは、買い物客ではなく店の売子が王様であることだ)を打ちたてるための働きをしていると言えるだろう。

そしてこのような経済の面での変革は文学や演劇の面とも深く連動している。というよりも文学の方がこのような変化を先取りし、個性と創造性の尊重を用意したと言った方がよいかもしれない。たとえばノーベル賞を受賞しながら長い間国内では発行されなかったパステルナークの長編小説、激しい革命の時期に愛と革命の間を揺れ動いた誠実な一知識人の生涯を描いた『ドクトル・ジバゴ』が雑誌に掲載されたのに続き、ザミャーチンの『われら』が掲載された。これは個性を全く奪われ、どんな個人的な会話も記録されるという未来の全体主義国家を舞台にした小説で、作者自身は「この小説は人類をおびやかしている二重の危険――機械の異常に発達した力と国家の異常に発達した力――に対する警告である」と語っているが訳者の川端香男里氏が説明しているように「アンチ・ユートピアというジャンルは、ソヴィエトにおいては社会主義に反する禁断のジャンルとされ」、この小説は「反ソ宣伝のもっとも悪質な代表的作品として、ソ連においては今日までいまだ陽の目を見ていな」かった。

今年の5月25日の「文学新聞」にはこの小説についての評がのり、そこで評者はこの小説がすべてのヨーロッパの言語で訳され出版されて多くの研究書を生む一方、ソ連では図書館の特別倉庫の金庫の中に完璧に閉じ込められていたことに注意をうながしながら「ついに長い間待たれていた芸術的に完成した作品で、ザミャーチンの最もすぐれた長編小説である『われら』の番が来た」としてこの小説が雑誌「ズナーミャー」誌上で二回にわたり五十万部出版されたことを紹介している。そしてこの小説『われら』が1922年に、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』に先立って書かれオーウェルにも多くの影響を与えていることを確認しつつ、同時にこの小説と『カラマーゾフの兄弟』における人間の自由について論じた「大審問官」とのテーマの類似性を示して、ザミャーチンがドストエフスキーから影響を受けていることを指摘している。

ところでこのような個人的な面での個性や自由の見直しは、当然の事ながら民族意識の昂揚をもたらし民族自立を求める運動とも結びつくことになり、それは極端な場合にはアルメニア共和国とアゼルバイジャン共和国のように各民族間、共和国間の激しい対立や暴動をすら引き起すに至る。

このような共和国間の対立は、たとえばこれも多民族国家であるユーゴスラヴィアの場合には新聞にもたびたび報道されていたように顕著だが、それは一面言論の自由とも結びついていて、これまでソ連ではこのような問題が表面に出て来なかったのは様々な民族間の対立や矛盾が強引に押えつけられてきた結果にすぎなく、グラースノスチ(情報公開)の元ではこれまでたまってきた矛盾や問題点が次々と表面にでてこざるを得ないといえる。

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そのような例の一つが、ソ連軍がようやく撤退を始めたアフガンの問題である。これは主権国へ他の国が軍隊を派遣するということですでに法律的にも道義的にも問題なのだが、かりにそれを除外したとしても、ソ連にとってアフガン問題は単に対外問題としては片づけることの出来ない重要な内政上の民族問題として浮かび上ってくる。

というのも、始めソ連はアフガンに近隣の共和国から、アフガンに近い民族の兵士を送り、社会主義の正義によってアフガンの人々を説得させようとしたが、兵士達の内にはかえってイスラムの正義によって説得されてしまう者がでてきたからだ。

それにはいろいろな理由が考えられるが、その一つとしてソ連に住むイスラム教の人々には心の奥底に自分達は抑圧されているという意識があるように思える。というのもモスクワ市の紋章を元にしたバッチに関してロシア人の友人が興味深い事を語ってくれたからだ。

私達がモスクワに言って驚かされる事の一つにロシア人のバッチ好きがあり、土産物を売る店にはどこにも様々の大量のバッチがおいてあり、たとえばモスクワ大学のキオスクには二、三種類のモスクワ大のバッチを含めて、十数種類かのバッチが置かれ、その中に昔のモスクワ市の紋章を描いたバッチもある。それは、聖人ゲオルギーが竜あるいは蛇を殺しているという有名なイコン(宗教画)を元にしてデザインされたものなのだが、このバッチが販売され出た時に大変な論議が起きたというのである。それはイスラム教徒からの批判で、聖ゲオルギーに擬せられているのは正教徒のロシア人であり、蛇に擬せられているのはイスラム教徒であるというのだ。これは一見馬鹿らしいこじつけのようにも感じられるが、十字軍や露土戦争など政治的背景に目を向けるならばこういった不満もある程度理解できる。

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私達が今回訪れたリトアニアの首都ヴィリニュスでもそれ程激しい形ではないにせよ、民族意識の高まりは認められた。たとえば土曜日の見学でバスに乗っていた所、路上を旗をたなびかせた自家用車や後に旗をつんだバスなどが海の方向へと何台も何台も通り過ぎるのに気が付いたし、又ある場所では多くの生徒たちが道端に立って旗を振りながら、何かを叫んでいた。

同行のガイドに彼らは何をしているかと尋ねると、彼女はまず、この旗がリトアニア共和国の形式的な国旗ではなく、最近掲げることが許可されたソ連邦に加わる以前のリトアニアの旗であることに注意をうながし、さらにこれらの車はその旗を持ってバルト海へと向い、そこでバルト海の汚染に対する抗議運動をするのだと説明し、この日はリトアニア共和国の国民ばかりでなく、バルト三国の他の二国エストニア、ラトヴィアやポーランド、デンマーク等の国民さらにはレニングラードの市民等が一斉に手をつなぐのだとつけ加えた。

彼女の話で注目したいのは環境問題の件だが、この面では既にバイカル湖の汚染問題をめぐってシベリアの作家達が盛んに発言していたが、リトアニアで興味深かったのは、原子力発電所の問題だった。これまでソ連は公式的にはチェルノブィリの事故の後でも原発を廃止するという方向はとっていなかったように思う。ところが、ヴィリニュスで聞いた所によるとリトアニアには二基の原発が稼働中であり、さらに二基が建設される予定だったのが、一基は既に作らない事が決定し、残る一基についても、今議論が進められている最中だとのことであり、その理由として、リトアニアのエネルギー源としては二基だけで、充分であり、他の共和国に送るために危険を犯して原発をこれ以上作る必要はないというものだった。

ここにも民族の問題がからんできているが、その底を流れているのはエコロジー的な態度であり、自然と人間との関係の見直しであり、さらには自分の住む地域のことにかんしては上からの指示に単に従うだけではなく、自分達自身で考え、行動していかねばならないという草の根民主主義的な考えの芽ばえとその拡がりであると言えるだろう。

(東海大学「バルカン・小アジア研究会」で報告。公開、2014年11月22日。2016年10月30日、図版およびリンク先を追加)。

劇《石棺》から映画《夢》へ

正岡子規の時代と現代(3)――「特定秘密保護法」とソ連の「報道の自由度」

映画《夢》と映画《生きものの記録》――「黒澤明死して15年直筆ノートにあった…」

8月20日のブログでは映画《生きものの記録》に関連して、特集「映画は世界に警鐘を鳴らし続ける」と題する企画についての仙台出身の岩井俊二監督とスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーとの対談記事の紹介をしました。

昨日は黒澤明研究会からの知らせで、「報道ステーション」で放映された「黒澤明死して15年直筆ノートにあった…」というタイトルの映像がYou Tubeにアップされていることを知りました。

15分足らずの短い映像ですが、熊田雅彦制作主任と野上照代氏、さらに黒澤久雄氏や橋本忍氏などの証言と映画のシーンをとおして黒澤監督の切実な思いが見事に編集されていました。

  原発の危険性を予告していた映画《夢》の「赤富士」の映像だけでなく、被爆の問題を扱った映画《生きものの記録》の映像も用いることで、「直筆ノート」に記された黒澤明監督の先見性や映画に込められた深い思想も伝わってきます。You Tubeにアップされているこの番組を、ぜひ多くの人に見て頂きたいと思っています。

『はだしのゲン』の問題と「国際的な視野」の必要性

最近、松江市の教育委員会が漫画の『はだしのゲン』の閲覧制限を「小中学校に要請していた問題」が話題になっていましたが、ようやく「手続き不備」との理由で「要請撤回を決めた」との記事が、今日の『東京新聞』に載っていました。原爆による被爆を体験した日本から反核の必要性を伝えるためには、悲惨な事実をも見つめねばならないので、当然の措置だと思えますが、「閲覧の問題をめぐる今後の取り扱いは各学校に一任する」とのことなので、実質的には問題の先送りといえるでしょう。実はこのブログでも「原爆の危険性と原発の輸出」というタイトルで書いた8月6日のブログで、政府の対応の問題を指摘した後で、NHKで放送された番組の内容に言及していたので、再度、引用しておきます。

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「8月1日(木)には『はだしのゲン』など原爆の悲惨さを伝える作品が各国語で翻訳されていることを伝えるNHKの番組くらし☆解説 「原爆の悲惨さを世界に伝える」が(広瀬公巳解説委員)が放送されましたので付記しておきます。

ただ、よい番組だったと感じましたが、原爆の悲惨さを世界に伝えるためには、まず日本の政治家がこれらの本の内容をきちんと理解することは当然として、学校教育の教材としても取り入れることで「日本人」の子供たちに事実を知らせることが重要だろうと考えています。」

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この問題が起きたときには、やはりこの漫画で描かれている事実も隠すべきだという批判がでてきたかと感じました。なぜならば、福島原発事故の場合にも、原爆の問題と同じように「事実」を隠し続けることで、問題をあいまいにできると考える政治家が少なくないように見えるからです。

日本でようやく大きく取り上げられた「汚染水」の問題が、海外ではすでに大きく報じられていたことを最近知りました。このブログを読んでいる方の中にも知らない方がいると思われますので8月23日付けの「日刊ゲンダイ」(ネット版)の記事を紹介しておきます。

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「実は、汚染水問題は、むしろ国際的な関心の方が高いくらいだ。日本国内で大きく報道されるようになったのは、ここ数日のことだが、海外では早くから詳細に報道されていた。
例えば、英BBC放送は先月23日、ロイヤルベビー誕生ニュースの次に、汚染水が地下を抜けて海に流出している可能性を東電が初めて認めた問題を詳しく伝えた。ロイヤルベビーに浮かれていたのは日本のテレビの方だったのだ。(中略)
このところ、英インディペンデント紙やガーディアン紙、米ウォールストリート・ジャーナル紙、シカゴ・トリビューン紙なども『事故は収束できるのか?』と、相次いで懸念を表明している。(中略)3年後には耐用期限を迎えるタンクをどうするのか、方策は見つかっていない。つまり、日本の国土も海も汚染され続けるということだ。そんな場所でオリンピックなんて、国際世論が敬遠するのも当然だろう。(後略)」。

(「福島原発汚染水ダダ漏れで五輪招致絶望」『「日刊ゲンダイ』ネット版)。

ここまで引用してから新しい記事を見つけました。これは26日の『毎日新聞』の政治コラムからの引用とのことですが、重要な発言なので紹介しておきます。 「小泉元首相は、インタビューに〈原発ゼロしかない〉〈今ゼロという方針を打ち出さないと将来ゼロにするのは難しい〉〈総理が決断すりゃできる〉と『脱原発』の持論を全面展開。〈『原発を失ったら経済成長できない』と経済界は言うけど、そんなことないね。昔も『満州は日本の生命線』と言ったけど、満州を失ったって日本は発展したじゃないか〉と、原発推進派をバッサリ切り捨てているのだ」。

 (「小泉純一郎『脱原発宣言』に安倍首相真っ青」『「日刊ゲンダイ』ネット版、827日)。

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先日掲載した1989年に行われた国際ドストエフスキー・シンポジウムの報告では、チェルノブイリ原発事故にふれた発表もあったことも記しましたが、今後の世界のさまざまな学会などで研究発表する日本の研究者は、フクシマについても厳しく問われることになるでしょう。

宮崎駿氏と半藤一利氏は、「平和」や「護憲」の必要性を互いに確認したその対談を謙遜して「腰抜け愛国談義」と名付けていますが、「愛国」の気概を持つ政治家の方たちは、日本の国土と青少年の将来を守るために、一刻も早く日本が直面している危機を直視して行動すべきでしょう。

「トップページ」に「ページ構成」と「ブログのタイトル一覧」の項目を追加しました。

「ページ」の種類が増えてきたので、トップページにも「ページ構成」の簡単な説明を載せました。

また、「ブログ」には他のページのタイトルも掲載して目次の役割も与えていますが、タイトルの数が増えたので「ページ構成」の後に、「タイトル一覧」の項目を追加しました。

「風と大地と」というブログの題名の由来については、「アニメ映画『風立ちぬ』と鼎談集『時代の風音』」(7月20日)と〔「大地主義」と地球環境〕(8月1日) を参照してください。

「緊急事態宣言を」――福島第一原子力発電所の危機的な状況

7月12日付けのブログで私は、最近は「原発事故」や「憲法」さらに「TPP」に関しては、公共放送のNHKをはじめ大手のマスコミなどでは、報道規制が敷かれているのかと思われるほどに情報が少ないのが心配ですと記しました。

しかし、福島第一原子力発電所の汚染水の問題が危機的ともいえる状況を迎えている現在も、多くの報道機関は近隣諸国との軋轢については大々的に伝える一方で、日本の国土や外洋を汚し、日本国民の生命をも脅かしているこの問題については、あまり伝えていないように見えます。

繰り返しになりますが、このような事態は文明史家の司馬遼太郎氏が、長編小説『坂の上の雲』第7巻の「退却」の章で、次のように新聞報道のあり方を厳しく批判していたことを思い起こさせます。

「日本においては新聞は必ずしも叡智(えいち)と良心を代表しない。むしろ流行を代表するものであり、新聞は満州における戦勝を野放図に報道しつづけて国民を煽(あお)っているうちに、煽られた国民から逆に煽られるはめになり、日本が無敵であるという悲惨な錯覚をいだくようになった」。

「国策」として進める政策が破綻しても、政治家や官僚、マスコミは、責任を取ることはほとんどないのですが、「国を愛する気概があるならば」、今回の事態に対してはきちんと責任をとるべきでしょう。

このような中で私が注目しているのは、デモクラTVが「本会議」と称する討論番組だけでなく、それ以外の番組でもなるべく多くの時間を割いて報道していることです。

東京新聞も今日の朝刊の一面で「瀬戸際の汚染水処理」との大見出しで、上空から取った福島第一原子力発電所の写真を大きく取り上げ、「別のタンクも漏れか」との大見出しでタンクの図も示し、24面と25面の「こちら情報部」でも、事故後の状況を詳しく説明して「緊急事態宣言を」と求めています。

私自身は原子炉の専門家ではないので、詳しくはこれらの情報で確認することをお勧めします。

「新着情報」のページを開設し、朗読劇「山頭火物語」の公演日程を掲載しました

テレビドラマ《木枯らし紋次郎》で一世を風靡した俳優の中村敦夫氏は、現在も日本ペンクラブの理事、環境委員会委員長として活躍しています。

今日も「福島第1原発の地上タンク周辺で汚染水の水たまりが見つかった問題で、東京電力は20日、タンクからの漏えいを認めた上で、漏えい量が約300トンに上るとの見解を示した。漏えいした汚染水から、ストロンチウム90(法定基準は1リットル当たり30ベクレル)などベータ線を出す放射性物質が1リットル当たり8千万ベクレルと極めて高濃度で検出された。漏れた量は過去最大」との信じがたいようなニュースが報道されています(『東京新聞』ネット版)。

政府や多くのマスコミが原発事故の重大さを直視することを恐れて眼を背けていると思われる現在、「脱原発」の必要性を掲げる日本ペンクラブ・環境委員会の活動は、「国民」の生命や地球環境を守るためにもきわめて重要でしょう。

「新着情報」の最初のページに、中村敦夫氏の朗読劇《山頭火物語》の公演日程を掲載しました。

「長崎原爆の日」と日本の孤立化

広島に続いて長崎でも68回目の「長崎原爆の日」が訪れた。この時期に起きたことは、多くの人がすでに知っていることとは思うが、自分自身の備忘録としても残しておきます。

広島の平和式典に参加したオリバー・ストーン監督は、アメリカによる原爆の投下の正当化を「それは神話、うそだと分かった」と語るとともに、米軍が各国に軍事基地を展開していることも「非常に危ない」と批判しました(『東京新聞』、6日付け、朝刊)。

広島市の松井一実市長は6日の平和宣言で、核兵器を「絶対悪」と規定するとともに、4月にスイス・ジュネーブであった核不拡散条約(NPT)再検討会議の準備委員会などででは、核兵器の非人道性を訴える共同声明に80カ国が賛同するなど、「核廃絶を訴える国が着実に増加している」のに、日本政府が賛同しなかったことを批判していました。

日本政府が進めている「インドとの原子力協定交渉についても、「良好な経済関係の構築に役立つ」としても、核兵器を廃絶する上では障害となりかねません」とも指摘していました。

9日の平和宣言で田上市長も、4月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議の準備委員会で、核兵器の非人道性を訴える80カ国の共同声明に日本政府が賛同しなかったことを「世界の期待を裏切った」と強く批判し、「核兵器の使用を状況によっては認める姿勢で、原点に反する」と糾弾しました。

NPT非加盟のインドとの原子力協定交渉についても「核兵器保有国をこれ以上増やさないためのルールを定めたNPTを形骸化する」と懸念を示した。イスラエルやパキスタン、さらには北朝鮮などが現在、NPTに加盟していないことを思い起こすならば、この交渉が北朝鮮との非核化交渉にも影を落とすことは確実でしょう。

日本は島国ということもあり、国際的な視点から見ると奇妙に思える安倍首相の憲法観や麻生副総理のワイマール憲法観には、国内からの厳しい批判は出ていません。戦前の日本のように、いつの間にか「国際政治から孤立化」する危険性さえ見え始めています。

この意味で思い出されるのは黒澤明監督が、長崎で被爆した祖母を主人公とした映画《八月の狂詩曲(ラプソディ)》(一九九一)で、アメリカで経済的に成功した親戚に招かれたことで有頂天となり、アメリカの原爆投下を批判しない子供の世代を、孫たちの視点をとおして描くことで、日本の問題点を浮き彫りにしていたことです。

このことについてはすでに、拙著で触れていましたので「映画・演劇評」で引用しておきます。

消えた〈公論〉と司馬遼太郎氏の危惧

昨日、ブログに書いた「消えた「時論公論」(?)」という記事で、8月2日(金)の深夜午前0時から10分間、「原発汚染水危機 総力対応を」とのタイトルで、汚染水への緊急の対策の必要性を訴えた解説委員・水野倫之氏の放送内容が、その後のインターネット上のNHKの「最新の解説」欄などでは見つからないと記しました。

その後、報道にも携わっている友人から確かに削除されているので、「自主規制」したものと思われるとのメールが入りました。

福島第一原子力発電所における汚染水への緊急対策の必要性を訴えた水野氏の解説は政治的なものではなく、「国民の生命」や日本の大地、さらには地球環境にもかかわる重要な見解だったと思われます。

長編小説『坂の上の雲』において常に皇帝や上官の意向を気にしながら作戦を立てていたロシア軍と比較することで、自立した精神をもって「国民」と「国家」のために戦った日本の軍人を描いた司馬遼太郎氏は、その終章「雨の坂」では主人公の一人の秋山好古に、厳しい検閲が行われ言論の自由がなかったロシア帝国が滅びる可能性を予言させていました。

そして日露戦争当時のロシア帝国と比較しながら司馬氏は、「ナショナリズムは、本来、しずかに眠らせておくべきものなのである。わざわざこれに火をつけてまわるというのは、よほど高度の(あるいは高度に悪質な)政治意図から出る操作というべきで、歴史は、何度もこの手でゆさぶられると、一国一民族は潰滅してしまうという多くの例を残している(昭和初年から太平洋戦争の敗北までを考えればいい)」と指摘していたのです(『この国のかたち』第一巻、文春文庫)。

現在の日本でも近隣諸国との軋轢については詳しく報道される一方で、国内で発生している原子炉の重大な危険性についての情報は制限されていると思えます。いったい、「公共放送」のNHKは、本来ならばより大々的に報道すべき解説の内容を、誰の意向を気にして「自主的に規制」しなければならなかったのでしょうか。

今日も民間の新聞やニュースは、東電が「地下の汚染水が遮水壁をすでに乗り越えている可能性を認めた」ことを報じています。

「原発汚染水危機 総力対応を」というタイトルの解説は、「国民の生命」を守る勇気ある解説であり、再放送を強く要望したいと思います。

消えた「時論公論」(?)

「映画・演劇評」に書いた「劇《石棺》から映画《夢》へ」という記事にも書いたことですが、「ロシア帝国」の厳しい検閲のもとに作品を書いていた作家ドストエフスキーの研究をしているので、「検閲」のことにどうしても敏感になります。

汚染水の危機と黒澤映画《夢》」と題した8月4日のブログ記事で、8月2日(金)の深夜午前0時から10分間、「原発汚染水危機 総力対応を」とのタイトルで、汚染水への緊急の対策の必要性を訴えた解説委員・水野倫之氏の放送の内容をお伝えしました。

ただ、その時点ではまだ詳しい文字情報が出ていなかったので、(副題などについては、後日確認します)と記していました。

ブログを書いた8月4日の時点では土日を挟んでいるので、まだ記事が掲載されないのだと考えていたのですが、その後、インターネット上の「NHK解説委員室」にある「最新の解説」欄や「最新の解説30本」という欄を見ても、記事が見つからないので気になっています。

8月1日付けの時論公論 「日韓関係に司法の壁」出石直・解説委員)の次に出てくるはずの水野氏の解説記事がなく、

8月3日付けの時論公論 「”夢の降圧剤”問われる臨床研究」(土屋敏之・解説委員)へと飛んでいるのです。

なぜなのでしょうか。私のホームページ上の問題で、私だけが検索ができないのならばよいのですが…。

「国民の生命」にも関わる問題への勇気ある解説だったので、ぜひ再放送をしていただきたいと願っています。