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司馬遼太郎

『菜の花の沖』と日本の伝統に基づく「積極的な平和政策」

〈「道」~ともに道をひらく~〉というテーマで行われた産学共働フォーラムでは、地球システム・倫理学会や京都フォーラムの関係者の皆様にたいへんお世話になりました。

「商人・高田屋嘉兵衛の自然観と倫理観――『菜の花の沖』と現代」という題の一般発表では、『坂の上の雲』における「比較」という方法にも注目しながら、江戸時代の日本とロシアや近代西欧との比較を行いました

その際には多くのご質問を頂きましたが、時間的な都合で十分にはお答えできなかった点についてはいずれ論文などの形で詳しく記すようにしたいと思っていますが、さしあたってここでは発表の際の配布資料を「主な研究」のページに掲載します。

リンク商人・高田屋嘉兵衛の自然観と倫理観――『菜の花の沖』と現代

*   *   *

残念ながら、今年の9月には「安全保障関連法」が「強行採決」されて、原爆の悲惨さを踏まえたそれまでの日本の「平和政策」から「武器輸出」や原発の推進へと舵が切られました。

しかし、『坂の上の雲』で機関銃や原爆などの近代的な大量殺戮兵器や軍事同盟の危険性を鋭く描いていた司馬氏は、高田屋嘉兵衛を主人公とした長編小説『菜の花の沖』で、江戸時代における「軍縮と教育」こそが日本の誇るべき伝統であると描いていました。

リアリズムと「比較」という方法によって描かれたこの長編小説を深く理解し、広めることは、悲惨な「核戦争」の勃発を防ぐことにもつながると思われます。

リンク→正岡子規の「比較」という方法と『坂の上の雲』

  (2015年11月7日。改訂)

商人・高田屋嘉兵衛の自然観と倫理観――『菜の花の沖』と現代(レジュメ)

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(高田屋嘉兵衛 (1812/13年)の肖像画。画像は「ウィキペディア」より)

〈「道」~ともに道をひらく~〉というテーマで、地球システム・倫理学会の第11回学術大会と 一般財団法人京都フォーラムとの共催で産学共働フォーラムが、11月2日と3の2日間、大阪国際会議場(グランキューブ大阪)で開かれ、そこでは私も標記の題で一般発表を行います。

『菜の花の沖』については、すでに拙著『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版、2002年)でも論じていました。しかし「採決不存在」という重大な疑義がありながらも、参院本会議で自民・公明両党などの賛成多数により、「安保関連法案」が可決された今、戦争状態にあった当時のヨーロッパと比較しつつ、商人・高田屋嘉兵衛の言動をとおして、江戸時代における日本の平和の意義を明らかにしたこの長編小説は改めて深く考察されるべきだと思われます。

以下にそのレジュメを掲載します。

  商人・高田屋嘉兵衛の自然観と倫理観――『菜の花の沖』と現代

「国民作家」と呼ばれる司馬遼太郎(1923~96)の時代小説の魅力は、『竜馬がゆく』(1962~66)で主人公の坂本竜馬を剣に強いだけでなく経済にも詳しい若者として描くなど、主人公が活躍する時代の経済的な背景をきちんと描いていることにある。たとえば、『国盗り物語』(1963~66)で伊勢の油問屋から美濃の領主となった乱世の梟雄・斎藤道三を主人公の一人として描いていた司馬は、長編小説『菜の花の沖』(1979~82)では菜の花から作る菜種油を販売して財を成した江戸時代の商人・高田屋嘉兵衛を主人公として描いた。

比較という方法を重視した司馬の文明観の特徴は、日露戦争をクライマックスとした長編小説『坂の上の雲』(1968~72)に顕著だが、勃発寸前までに至った日露の衝突の危機を背景とした『菜の花の沖』にも強く見られる。すなわち、高田屋嘉兵衛とナポレオンが同じ年に生まれていただけでなく「両人とも島の出身だった」ことに注意を促した司馬は、嘉兵衛がロシア側に捕らえられたのと同じ1812年にナポレオンがロシアに侵攻してモスクワを占領したことにもふれつつ、嘉兵衛に「欧州ではナポレオンの出現以来、戦争の絶間がないそうではないか」と語らせ、「扨々(さてさて)、恐敷事候(おそろしきことにそうろう)」と戦争を絶えず生み続けたヨーロッパの近代化を鋭く批判させていた。

司馬は黒潮に乗って北前船で遠く北海道まで乗り出した高田屋嘉兵衛に、「海でくらしていると、人間が大自然のなかでいかに無力で小さな存在かを知る」と語らせているが、そのような自然観は虐げられていたアイヌの人々と対等な立場で取引をしたばかりでなく、嘉兵衛が鎖国下の日本でロシア人とも言葉は通じなくとも人間として語り合い、説得力を持ちえたことにも通じているだろう。

本発表では広い見識と人間性を兼ね備えていた商人・高田屋嘉兵衛の自然観と倫理観に迫ることで、文明の岐路に立っているとも思える現代の日本人の生き方についても考察してみたい。

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(『日本幽囚記』の著者ゴロヴニーン。図版は「ウィキペディア」より)。

「安倍談話」と「立憲政治」の危機(2)――日露戦争の賛美とヒトラーの普仏戦争礼賛

「終戦70年」の節目に当たる今年の8月に発表された「安倍談話」で、「二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます」と語り始めた安倍晋三氏は、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と終戦よりもさらに40年も前の「日露戦争」の勝利を讃えていました。

この文章を目にした時には、思わず苦笑してしまいましたが、それはここで語られた言葉が、1996年に司馬遼太郎氏が亡くなった後で勃発した、いわゆる「司馬史観」論争に際して、「戦う気概」を持っていた明治の人々が描かれている『坂の上の雲』のような歴史観が日本のこれからの歴史教育には必要だとするキャンペーンときわめて似ていたからです。

たとえば、本ブログでもたびたび言及した思想家の徳富蘇峰は、『大正の青年と帝国の前途』において「愛国心」を強調することによって「臣民」に犠牲を強いつつ軍国主義に邁進させていましたが、「大正の青年」の分析に注目した「新しい歴史教科書を作る会」理事の坂本多加雄氏は、「公的関心の喪失」という明治末期の状況が、「『英雄』観念の退潮と並行している」ことを蘇峰が指摘し得ていたとして高く評価していたのです(*1)。

そして、蘇峰を「巧みな『物語』制作者」であるとした坂本氏は、「そうした『物語』によって提示される『事実』が、今日なお、われわれに様々なことを語りかけてくる」として、蘇峰の歴史観の意義を強調したのです。

このような蘇峰の歴史観を再評価しようとする流れの中で、日露戦争をクライマックスとした『坂の上の雲』でも、「エリートも民衆も健康なナショナリズムに鼓舞されて、その知力と精力の限界まで捧げて戦い抜いた」ことが描かれているとする解釈も出てきていていました(*2)。

このような歴史の見直しの機運に乗じて、司馬遼太郎氏が亡なられた翌年の1997年には、安倍晋三氏を事務局長として「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が立ち上げられていたのです。

*   *   *

しかし、気を付けなければならないのは、かつて勝利した戦争をどのように評価するかが、その国の将来に強い影響を与えてきたことです。たとえば、ロシアの作家トルストイが、『戦争と平和』で描いた、「大国」フランスに勝利した1812年の「祖国戦争」の勝利は、その後の歴史家などによってロシア人の勇敢さを示した戦争として讃美されることも多かったのです。

第一次世界大戦での敗戦後にヒトラーも、『わが闘争』において当時の小国プロシアがフランスを破ってドイツ帝国を誕生させた普仏戦争(1870~1871)の勝利を、「全国民を感激させる事件の奇蹟によって、金色に縁どられて輝いていた」と情緒的な用語を用いて強調し、ドイツ民族の「自尊心」に訴えつつ、「新たな戦争」への覚悟を国民に求めていました。

一方、日本でもイラクへの自衛隊派遣が国会で承認されたことや二〇〇五年が日露戦争開戦百周年にあたることから、日露戦争を讃美することで戦争への参加を許容するような雰囲気を盛り上げようとして製作しようとしたのが、NHKのスペシャルドラマ《坂の上の雲》でした*3。

残念ながら、このスペシャルドラマが3年間にわたって、しかもその間に財界人岩崎弥太郎の視点から坂本龍馬を描いた《龍馬伝》を放映することで、戦争への批判を和らげたばかりでなく、武器を売って儲けることに対する国民の抵抗感や危機感を薄めることにも成功したようです。

リンク→大河ドラマ《龍馬伝》と「武器輸出三原則」の見直し

リンク→大河ドラマ《龍馬伝》の再放送とナショナリズムの危険性

こうしてNHKを自民党の「広報」的な機関とすることに成功した安倍政権が、戦後70年かけて定着した「日本国憲法」の「平和主義」だけではなく、「立憲主義」や「民主主義」をも制限できるように「改憲」しようとして失敗し、取りあえず「解釈改憲」で実施しようとして強硬に「戦争法案」を可決したのが「9.17事変」*4だったのです。

 

*1 坂本多加雄『近代日本精神史論』講談社学術文庫、1996年、129~136頁。

*2 藤岡信勝『汚辱の近現代史』徳間書店、1996年、51~69頁。

*3 石原慎太郎・八木秀次「『坂の上の雲』をめざして再び歩き出そう」『正論』、2004四年11月号、産経新聞社。

*4 この用語については、〈リメンバー、9.17 ――「忘れる文化」と記憶の力〉参照)。

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』を脱稿。

si 1 田主版 新聞

装画:田主 誠。版画作品:『雲』

ようやく『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』の「第五章」と「終章」の校正を終えて、先ほど校正原稿をポストに投函してきました。

『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』(人文書館)を刊行したのが2009年のことでしたので、6年に近くかかってしまったことになります。

この間に福島第一原子力発電所の大事故が起きたにもかかわらず、自然の摂理に反したと思える原発の再稼働に向けた動きが強まったことから、急遽、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』を書き上げたことが、執筆が大幅に遅れた一因です。

ただ、多くの憲法学者や元最高裁長官が指摘しているように「憲法」に違反している可能性の高いにもかかわらず、政府与党は前回の選挙公約にはなかった「安全保障関連法案」を強行な手段で成立させようとしています。このような状況を見ていると、原発の問題は後回しにしてでも日英同盟を結んで行った日露戦争の問題点に迫った本書を先に書き上げるべきだったかもしれないとの後悔の念にも襲われます。

しかし、前著での問題意識が本書にも深く関わっているので、私のなかではやはり自然な流れでやむをえなかったのでしょう。

*   *   *

一方、昨日の講演で自民党の高村副総裁は、国民の理解が「十分得られてなくても、やらなければいけない」と述べて、「国民」の反対が強いにもかかわらず、自公両党の議員により参院でも「戦争法案」を強行採決する姿勢を明確に示しています。

それゆえ、「なぜ今、『坂の上の雲』」なのかについて記した短い記事を数回に分けて書くことにより、この長編小説における新聞記者・正岡子規の視点をとおしてこの法案の危険性を明らかにしたいと思います。

 

 

リンク→『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)

2023/10/29, X(旧ツイッター)を投稿

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)の目次を「著書・共著」に掲載

標記の拙著に関して昨年の10月に目次案を掲載しましたが、その後「秘密法・集団的自衛権」は「争点にならず」とした衆議院選挙が昨年末に行われ、その「公約」を裏切るような形で「安全保障関連法案」が提出されました。

「蟷螂の斧」とは知りつつもこの事態を「黙過」することはできずに、この法案の危険性を明らかにする記事を書き続けていました。そのため、6月27日に書いたブログ記事「新聞『日本』の報道姿勢と安倍政権の言論感覚脱稿に向けて全力を集中する」と宣言したにもかかわらず、拙著の進展が大幅に遅れてしまい、読者の方々や人文書館の方々にはご心配をおかけしました。

ただ、「国会」や「憲法」を軽視して「報道」にも圧力をかけるような安倍政権の「独裁政治」を目の当たりにしたことで、今回の事態が「新聞紙条例」や「讒謗律」を発行し自分たちの意向に沿わない新聞には厳しい「発行停止処分」を下していた薩長藩閥政権ときわめて似ていることを痛感したことで、東京帝国大学を中退して新聞「日本」の記者となった正岡子規の生きた時代を実感することができました。

それゆえ、新著では明治維新以降の歴史を振り返ることにより、「戦争」や「憲法」と「報道」の問題との関わりをより掘り下げて、「安倍政治」の危険性を明らかにするだけでなく、「新聞記者」としての子規の生き方や漱石との友情にも注意を払うことで、若い人たちにも生きることの意義を感じてもらえるような著作にしたいと願っています。

目次に関しては微調整がまだ必要かも知れませんが、題名だけでなく構成もだいぶ改訂しましたので、新しい題名と目次案を「著書・共著」に掲載します。

リンク『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015年

「大義」を放棄した安倍内閣

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衆院本会議でも与党が単独で「強行採決」し、賛成多数で可決されたとの報が届きました。

「国民の声」を封殺してでも祖父の代からの「野望」を遂げようとする安倍首相の独裁的な手法に対して、良識ある与党の議員も「No」の声を上げることを期待していましたが、与党の衆議院議員からはそのような声は発せられませんでした

リンク「安全保障関連法案」の危険性(2)――岸・安倍政権の「核政策」

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ノモンハン事件をめぐって対談した研究者のクックス氏から、戦前の日本では国家があれだけの無茶をやっているのに国民は「羊飼いの後に黙々と従う」羊だったと指摘された司馬遼太郎氏は、「日本は、いま世界でいちばん住みにくい国になっています。…中略…『ノモンハン』が続いているのでしょう」と応じていました(「ノモンハンの尻尾」『東と西』朝日文庫)。

敗戦から70年経った現在、自民党と公明党の議員は再び「沈黙を強いられた羊」と化してしまったかのように感じます。

兵器や原発を外国に売り込むことで目先の利益を挙げようとする日本の一部の大企業と、アフガニスタンや中東地域に派遣する兵士の足りなくなったアメリカ軍の要請に応じて行われた今回の「強行採決」は、憲政史上の一大汚点として記憶されるでしょう。

「憲法」を無視した形で可決された違法な「安保法案」は廃案に追い込みましょう。

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冒頭のチラシは知人のH氏のメールに添付されていた作家の澤地久枝さんからの「~~日本中に拡散をお願いします!~~」というご依頼とともに届いたものです

7月18日(土)午後1時きっかり

同じポスターを全国一斉にかかげよう

 との文面も添えられていましたが、委員会に続いて衆院の本会議でも「安全保障関連法案」が「強行採決」されましたので、本日掲げることにしました。

 追記:自民党では以前から「法案は違憲だ」として反対を表明していた村上誠一郎議員と元東京地検特捜部副部長で弁護士の若狭勝議員が本会議を欠席していたことが判明しました。他の与党の議員も勇気ある行動に踏み切ることを願っています。

 

新聞『日本』の報道姿勢と安倍政権の言論感覚

昨日、「日本新聞博物館」で行われている「孤高の新聞『日本』――羯南、子規らの格闘」展に行ってきました。

チラシには企画展の主旨が格調高い文章で次のように記されています。

*   *

1889(明治22)年に陸羯南(くが・かつなん)は新聞「日本」を創刊し、政府や政党など特定の勢力の宣伝機関紙ではない「独立新聞」の理念を掲げ、頻繁な発行停止処分にも屈することなく、政府を厳しく批判し、日本の針路を示し続けました。また、初めて新聞記者の「職分」を明確に提示し、新聞発行禁止・停止処分の廃止を求める記者連盟の先頭にも立ちました。

また、羯南の高い理想、人徳にひかれて日本新聞社には正岡子規ら大勢の俊英が集い、羯南亡き後、内外の主要新聞に散り、こんにちの新聞の基礎づくりに貢献しました。本企画展では、新聞「日本」の人々の、理想の新聞を追求した軌跡を200点を超す資料やパネルで紹介します。

*   *

実際、1,新世代の記者たち、2,「日本」登場、3,新聞というベンチャー、4,子規と羯南、5,羯南を支えた人々、6,理念と経営のはざまで、7、再評価 の7つのコーナーから成る企画展はとても充実しており、「理想の新聞を追求した」新聞「日本」の軌跡を具体的に知ることができました。

ことに司馬作品の研究者である私にとっては、新聞『日本』の記者となる子規を主人公の一人とした長編小説『坂の上の雲』や『ひとびとの跫音』を書いただけでなく、産経新聞社の後輩で筑波大学の教授になった青木彰氏への手紙などで、「陸羯南と新聞『日本』の研究」の重要性を記していた司馬遼太郎氏の熱い思いを知ることが出来、たいへん有意義でした(なお、企画展は8月9日まで開催)。

また、常設展も幕末からの新聞の歴史が忠実に展示されており、「特定秘密保護法」の閣議決定以降、強い関心をもっていましたので、ことに治安維持法の成立から戦時統制下を経て敗戦に至る時期の新聞の状況が示されたコーナーからは現代の新聞の置かれている状況の厳しさも感じられました。

リンク→

「特定秘密保護法」と子規の『小日本』

「東京新聞」の「平和の俳句」と子規の『小日本』

ピケティ氏の『21世紀の資本』と正岡子規の貧富論

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それだけに帰宅してから見た下記のような内容のニュースには非常に驚かされました(引用は「東京新聞」デジタル版による)。

「安倍晋三首相に近い自民党若手議員の勉強会で、安全保障関連法案をめぐり報道機関に圧力をかけ、言論を封じようとする動きが出た」ばかりでなく、勉強会の講師を務めた作家の百田尚樹氏は「『沖縄の二つの新聞はつぶさないといけない』などと述べた」。

この後でこのことを聞かれた百田氏は、ツイッターに「沖縄の二つの新聞社はつぶれたらいいのに、という発言は講演で言ったものではない。講演の後の質疑応答の雑談の中で、冗談として言ったものだ」などと弁解したようです。

このような無責任な記述は言論人としての氏の資質を正直に現しており、百田尚樹氏と共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』を発行していた安倍首相の責任も問われなければならないでしょう。

今回の事態は「国会」や「憲法」を軽視する安倍政権が、「新聞紙条例」を発行して自分たちの意向に沿わない新聞には厳しい「発行停止処分」を下していた薩長藩閥政権ときわめて似ていることを物語っていると思えます。

この問題についてはより詳しく分析しなければならないとも感じていますが、今は新聞と憲法や戦争の問題を検閲の問題などの問題をとおしてきちんと検証するためにも、執筆中の拙著『新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」』の脱稿に向けて全力を集中することにします。

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リンク→『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』における「憎悪表現」

リンク→百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「愛国」の手法

 

「憲法記念日」と「子供の日」に寄せて――「積極的平和主義」と「五族協和」というスローガン

まだ福島第一原子力発電所事故も修復していないなか、汚染水は「アンダーコントロール」であると宣言した安倍政権は、日本の沖縄の民意を無視して辺野古基地の建設も強行しています。

その安倍政権は「積極的平和主義」を掲げて、憲法の改定も声高に語り始めていますが、「満州国」に深く関わった祖父の岸信介首相を尊敬する安倍氏が語る「積極的平和主義」は、「日中戦争」や「太平洋戦争」の際に唱えられた「五族協和」「王道楽土」などの「美しいスローガン」が連想されます。

すでにこのブログでも何回か触れたように「満州国」などの実態は、それらの「美しいスローガン」とは正反対のものだったのです。ただ、現在はまだ拙著の執筆に追われており、この問題についてじっくりと考える時間的な余裕がないので、ここでは、「子供の日」に寄せて――司馬遼太郎と「二十一世紀に生きる君たちへ」という題名で昨年の5月5日に書いたブログの記事の一部を改訂した上で抜粋しておきます。

*     *   *

幕末の志士・坂本龍馬などの活躍で勝ち取った「憲法」の意味が急速に薄れてきているように思われます。他民族への憎しみを煽りたて、「憲法」を否定して戦争をできる国にしようとしたナチス・ドイツの政策がどのような事態を招いたかはよく知られています。悲劇を繰り返さないためにも、今日は「子供の日」ですので、司馬氏の歴史観と 「二十一世紀に生きる君たちへ」の意味を確認したいと思います。

司馬遼太郎氏との対談で作家の海音寺潮五郎氏は、孔子が「戦場の勇気」を「小勇」と呼び、それに対して「平常の勇」を「大勇」という言葉で表現していることを紹介しています。そして海音寺氏は日本には命令に従って戦う戦場では己の命をも省みずに勇敢に戦う「小勇」の人は多いが、日常生活では自分の意志に基づいて行動できる「大勇の人」はまことに少ないと語っていました(太字は引用者、『対談集 日本歴史を点検する』、講談社文庫、1974年)。

司馬氏が長編小説『竜馬がゆく』で描いた坂本竜馬は、そのような「大勇」を持って行動した「日本人」として描かれているのです。

たとえば、「時流はいま、薩長の側に奔(はし)りはじめている。それに乗って大事をなすのも快かもしれないが、その流れをすて、風雲のなかに孤立して正義を唱えることのほうが、よほどの勇気が要る」と説明した司馬氏は、竜馬に「おれは薩長人の番頭ではない。同時に土佐藩の走狗でもない。おれは、この六十余州のなかでただ一人の日本人だと思っている。おれの立場はそれだけだ」と語らせていました。(太字は引用者、五・「船中八策」)。

司馬氏が竜馬に語らせたこの言葉には、生まれながらに「日本人である」のではなく、「藩」のような狭い「私」を越えた広い「公」の意識を持った者が、「日本人になる」のだという重く深い信念が表れていると思えます。

子供たちのために書いた「二十一世紀に生きる君たちへ」という文章を再び引用すれば、「自己を確立」するとともに、「他人の痛みを感じる」ような「やさしさ」を、「訓練して」「身につけ」た者を司馬氏は「日本人」と呼んでいるのです。

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子供や孫の世代を再び他国への戦場へと送り出す間違いと悲劇を繰り返さないためにも、時代小説などで戦争を描き続けていた司馬氏の「二十一世紀に生きる君たちへ」という文章は重要でしょう。

「『復活』の二つの訳とドストエフスキーの受容」を「主な研究」に掲載

 長編小説『坂の上の雲』において、戦時中の新聞報道の問題を指摘していた司馬氏は、「この不幸は戦後にもつづく」と続け、「もし日本の新聞が、日露戦争の戦後、その総決算をする意味で、『ロシア帝国の敗因』といったぐあいの続きものを連載するとすれば」、ロシア帝国は「みずからの悪体制にみずからが負けた」という結論になったであろうと書いていました(六・「大諜報」)。

注目したいのは、その司馬氏が後に自分の後輩でもあるジャーナリストで筑波大学の教授となった青木彰氏に、新聞『日本』において「中道主義の言論活動を展開した」陸羯南についての「講座」を設けてはどうかという提案をしていたことです。

実は新聞『日本』は、日露戦争がまだ終結する前の明治三八(一九〇五)年四月五日から一二月二二日まで約九ヵ月にわたって、農奴の娘カチューシャを誘惑して捨てた貴族の主人公の苦悩をとおしてロシアの貴族社会の腐敗を厳しく暴いた内田魯庵訳によるトルストイの長編小説『復活』を連載していたのです。

しかも、ドストエフスキーの『罪と罰』も訳していた魯庵は、「元来神経質なる露国の検閲官」という注釈を付けながら「抹殺」、「削除」された箇所も具体的に指摘していました。

*   *

昨年の3月に「日本トルストイ協会」で行われた講演会では、内田魯庵訳の『復活』への二葉亭四迷の関わりが詳しく考察され、12月にはトルストイの劇《復活》を上演した島村抱月主宰の劇団・藝術座百年を記念したイベントも開かれました。

 さらに、夏には藤沼貴・日本トルストイ協会前会長による長編小説『復活』の新しい訳が岩波文庫から出版され、「解説」には『罪と罰』の結末との類似性の指摘がされていました。その記述からは「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」とした文芸評論家の小林秀雄の『罪と罰』解釈の問題点が改めて浮き彫りになりました。

『復活』とその訳に注目することによりドストエフスキーとトルストイの作品の内的な深い関係を考察したエッセーを書きましたので、「主な研究」のページに掲載します。

 

 

安倍首相の国家観――岩倉具視と明治憲法

昨日の朝のニュースで安倍首相が施政方針で岩倉具視に言及した演説を聞いた時には思わず耳を疑い、次いでその内容に戦慄を覚えました。

ただ、どの新聞もあまりそのことには触れていなかったので、空耳かとも思ったのですが、よく読むとやはり語られていました。たとえば、「施政方針演説 安保、憲法語らぬ不実」と題した社説で「東京新聞」は、首相が「幕末の思想家吉田松陰、明治日本の礎を築いた岩倉具視、明治の美術指導者岡倉天心、戦後再建に尽くした吉田茂元首相」の四人の言葉を引用したことを伝えています。

そして、憲法についても「『改正に向けた国民的な議論を深めていこう』と呼び掛けてはいるが、具体的にどんな改正を何のために目指すのか、演説からは見えてこない。…中略…首相演説では全く触れず、成立を強行した特定秘密保護法の前例もある。語るべきを語らぬは不誠実である」と結んでいます。

少し長くなりますが、「時事ドットコム」により私が戦慄を覚えた箇所を全文引用した後で、司馬作品の研究者の視点から憲法との関連で首相演説の問題点を指摘するようにします。

*   *

【1・戦後以来の大改革】

「日本を取り戻す」/ そのためには、「この道しかない」/ こう訴え続け、私たちは、2年間、全力で走り続けてまいりました。/ 先般の総選挙の結果、衆参両院の指名を得て、引き続き、首相の重責を担うこととなりました。/  「安定した政治の下で、この道を、さらに力強く、前進せよ」 / これが総選挙で示された国民の意思であります。/ 全身全霊を傾け、その負託に応えていくことを、この議場にいる自由民主党および公明党の連立与党の諸君と共に、国民の皆さまにお約束いたします。  経済再生、復興、社会保障改革、教育再生、地方創生、女性活躍、そして外交・安全保障の立て直し。/ いずれも困難な道のり。「戦後以来の大改革」であります。しかし、私たちは、日本の将来をしっかりと見定めながら、ひるむことなく、改革を進めなければならない。逃れることはできません。 /

明治国家の礎を築いた岩倉具視は、近代化が進んだ欧米列強の姿を目の当たりにした後、このように述べています。 /  「日本は小さい国かもしれないが、国民みんなが心を一つにして、国力を盛んにするならば、世界で活躍する国になることも決して困難ではない」 /  明治の日本人にできて、今の日本人にできない訳はありません。今こそ、国民と共に、この道を、前に向かって、再び歩み出す時です。皆さん、「戦後以来の大改革」に、力強く踏み出そうではありませんか。

*   *

しかし、安倍首相は『世に棲む日日』や『竜馬がゆく』などの司馬作品の愛読者だと語っていましたが、その安倍氏が「改革」の方向性を示す人物として挙げた岩倉具視について司馬氏は、『翔ぶが如く』の第2巻でこう描いています。

「岩倉は明治四年に特命全権大使として大久保や木戸たちとともに欧州を見てまわったのだが、この人物だけは欧州文明に接してもなんの衝撃もうけなかった。(中略

かれの欧州ゆきの目的のひとつはヨーロッパの強国を実地にみてそれを日本国の建設の参考にしようというところにあったはずだが、ところがどの国をみても岩倉というこの権謀家は感想らしい感想をもたなかった。北欧の小国をみて日本の今後のゆき方についての思考材料にしてもよさそうであったが、しかしべつに何事もおもわなかった。岩倉には物を考えるための基礎がなかった。かれは日本についての明快な国家観ももっておらず、世界史の知識ももたなかった。」

その後で司馬氏はこう続けているのです

「岩倉がかろうじて持っている思想は、/ 『日本の皇室をゆるぎなきものにする』/ いうだけのもので、極端にいえば岩倉には国家というものも国民もその実感としてはとらえられがたいものになっていた。おおかたの公卿がそうであろう。」

そのような岩倉の理念を受け継いだ人物として司馬氏が注意を促したのが、長州出身の山県有朋なのです。

少し長くなりますが、安倍首相の憲法観を考える上でも重要だと思えますので、その核心部分を引用しておきます。

*   *

「『国家を護らねばならない』

と山県は言いつづけたが、実際には薩長閥をまもるためであり、そのために天皇への絶対的忠誠心を国民に要求した。(中略)

大久保の死から数年あとに山県が内務卿(のち内務大臣)になり、大久保の絶対主義を仕上げるとともに大久保も考えなかった貴族制度をつくるのである。明治十七年のことである。華族という呼称をつくった。(中略)

『民党(自由民権党)が腕力をふるって来れば殺してもやむをえない』

とまでかれは言うようになり、明治二十年、当時内務大臣だったかれは、すべての反政府的言論や集会に対して自在にこれを禁止しうる権限をもった。(中略)

天皇の権威的装飾が一変するのは、明治二十九年(一八九六年)五月、侯爵山県有朋がロシア皇帝ニコライ二世の戴冠式(たいかんしき)に日本代表として参列してからである。(中略)

山県は帰国後、天皇をロシア皇帝のごとく荘厳すべく画期的な改造を加えている。歴史からみれば愚かな男であったとしかおもえない。ニコライ二世はロシア革命で殺される帝であり、この帝の戴冠式のときにはロシア帝室はロシア的現実から浮きあがってしまっていた時期なのである。」

その後で、温厚な司馬氏には珍しく火を吐くように激しい文章を叩きつけるように記しています

「日本に貴族をつくって維新を逆行せしめ、天皇を皇帝(ツァーリ)のごとく荘厳し、軍隊を天皇の私兵であるがごとき存在にし、明治憲法を事実上破壊するにいたるのは、山県であった。」

重厚で深みのある司馬氏の文章とは思えないような記述ですが、それは学徒出陣でほとんど生還することが難しいとされた満州の戦車隊に配属されたことで「昭和別国」の現実を直視することになったためでしょう。

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「日本を取り戻す」  そのためには、「この道しかない」  こう訴え続け、私たちは、2年間、全力で走り続けてまいりました。

と施政方針演説で語った安倍氏は、次のように続けていました。

「安定した政治の下で、この道を、さらに力強く、前進せよ」  これが総選挙で示された国民の意思であります。

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安倍政権がこの2年間、国民の声を無視して原発の推進や沖縄の基地建設を強行してきたことを考慮するならば、戦前のスローガンを思わせるような響きを持つ「日本を取り戻す」という安倍氏の言葉は、民主主義を打倒して「貴族政治を取り戻す」ことを意味しているのではないかという危惧の念さえ浮かんできます。