高橋誠一郎 公式ホームページ

司馬遼太郎

安倍政権の政治手法と日露の「教育勅語」の類似性

59lisbn978-4-903174-33-4_xl 

安倍政権の強引な政治手法からは、「憲法」のなかったニコライ1世治下の「暗黒の30年」との類似性を痛感します。

2007年に発行した『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』(成文社)では、ニコライ1世の時代に出されたロシア版「教育勅語」の問題と厳しい検閲下で『貧しき人々』などの小説をとおして言論の自由の必要性を主張した若きドストエフスキーの創作活動との関係を考察していました。

前著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)では、ロシア版「教育勅語」と日本の「教育勅語」の類似性についても詳しく考察しました。

ロシア思想史の研究者の高野雅之氏は、「正教・専制・国民性」の「三位一体」を強調した「ウヴァーロフの通達」を「ロシア版『教育勅語』」と呼んでいますが、注目したいのは一九三七年には文部省から発行された『國體の本義』の「解説叢書」の一冊として教学局から出版された『我が風土・國民性と文學』と題する小冊子では、「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっていることは」、「日本の国体の精華であって、万国に類例が無いのである」と強調されていたことです。

この「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっている」という文言は、「正教・専制・国民性」の「三位一体」による「愛国主義的な」教育を求めたウヴァーロフの通告を強く連想させます。「教育勅語」が渙発された後の日本は、教育システムの面ではロシア帝国の政策に近づいていたといえるでしょう。(註――「教育勅語」と帝政ロシアの「ウヴァーロフの通達」だけでなく、清国の「聖諭廣訓」との類似性については高橋『新聞への思い』人文書館、2015年、106~108頁参照)。

*   *   *

現在は新たな著書の執筆にかかっていますが、「憲法停止状態」とも言える状態から脱出するためにも、もう一度北村透谷や島崎藤村などの著作をとおして、「教育勅語」の影響を具体的に分析したいと考えています。

若きドストエフスキーを「憲法」のない帝政ロシアの自由民権論者として捉え直すとき、北村透谷や島崎藤村など明治の『文学界』同人たちによる『罪と罰』の深い受容の意味が明らかになると思えます。

「教育勅語」の問題を再考察する際にたいへん参考になったのが、リツイートで紹介した中島岳志氏と島薗進氏の『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』と樋口陽一氏と小林節氏の『「憲法改正」の真実』(ともに集英社新書)でした。

それらの著書を読む中で「教育勅語」の問題が「明治憲法」の変質や現在の「改憲」の問題とも深く絡んでいたことを改めて確認することができました。それらについてはいずれ参考になった箇所を中心に詳しく紹介することで、島崎藤村が『夜明け前』で描いた幕末から明治初期の時代についても考えてみたいと思います。

(2017年2月22日、図版と註を追加し、題名を改題)

司馬遼太郎の「昭和国家」観

前回の記事で記したように、「王政復古」が宣言された一八六八年から敗戦の一九四五年までが、約八〇年であることを考えるならば、司馬氏は「明治国家」を昭和初期にまで続く国家として捉えていたといえるでしょう。

そのことを物語っていると思われる記述を引用しておきます。バルチック艦隊の派遣を検討したロシアの「宮廷会議は、当時の日本の政治家からみれば、奇妙なものであったろう。ほとんどの要人が、――艦隊の派遣は、ロシアの敗滅になる。とおもいながら、たれもそのようには発言しなかった。文官・武官とも、かれらは国家の存亡よりも、自分の官僚としての立場や地位のほうを顧慮した」と記した司馬氏はこう続けているのです(「旅順総攻撃」)。

「一九四一年、常識では考えられない対米戦争を開始した当時の日本は皇帝独裁国ではなかったが、しかし官僚秩序が老化しきっている点では、この帝政末期のロシアとかわりはなかった。対米戦をはじめたいという陸軍の強烈な要求、というより恫喝に対して、たれもが保身上、沈黙した」。

この記述を考慮するならば、旅順の激戦などの描写をとおして、司馬氏が主に考察していたのは、戦うことを決断した明治の人々の「気概」ではなく、この戦いにおけるロシアの官僚と後の日本の官僚の類似性の指摘だったといえるように思えます。

官僚が自らの「保身上、沈黙した」ために、日本は自国だけでなく他国の民衆にも莫大な被害を与えた日中戦争から太平洋戦争へと突入したのですが、安倍政権の恫喝とも思える圧力によって再び日本は同じような事態へと突き進んでいるように見えます。

司馬遼太郎の「明治国家」観

『坂の上の雲』を書き上げた翌年に書いたエッセーで司馬氏は、明治維新の担い手であった竜馬については教科書に掲載されないばかりか、海軍の創設者として再評価される一九〇七年ごろまでは、語ることも「まるでタブーのようだった」ことに注意を促しています(「竜馬像の変遷」)。

そして、竜馬がその民主主義的な思想から「乱臣賊子の一人」と見なされていた記した司馬氏は、「明治国家の続いている八〇年間、その体制側に立ってものを考えることをしない人間は、乱臣賊子」とされたと書き、「人間は法のもとに平等であるとか、その平等は天賦のものであるとか、それが明治の精神であるべき」だが、「こういう思想を抱いていた人間」は、「のちの国権的政府によって、はるか彼方に押しやられてしまった」と指摘していたのです。

ただ、司馬氏は「結局、明治国家が八〇年で滅んでくれたために、戦後社会のわれわれは明治国家の呪縛から解放された」と続けていましたが、明治が四五年で終わることを考慮するならば「明治国家」が「八〇年間」続いたという記述は間違っているように思う人は少なくないと思われます。

しかし、「王政復古」が宣言された一八六八年から敗戦の一九四五年までが、約八〇年であることを考えるならば、司馬氏は「明治国家」を昭和初期にまで続く国家として捉えていたといえるでしょう。

(『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』より抜粋)

島崎藤村と司馬遼太郎――長編小説『夜明け前』をめぐって

『罪と罰』からの強い影響が指摘されている長編小説『破戒』ばかりでなく、北村透谷を中心に『文学界』の同人との交友を描いた長編小説『春』や『桜の実の熟する時』を書いた島崎藤村(1872~1943)と司馬作品との関係については、以前から気になっていました。

たとえば、島崎藤村は司馬氏が『ひとびとの跫音』でもふれている芥川龍之介の自殺から2年後の昭和4年から連載した長編小説『夜明け前』の冒頭を次のような印象的な文章で始めています。

「木曾路(きそじ)はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖(がけ)の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道(かいどう)はこの深い森林地帯を貫いていた」。

このように街道の地形を描いた藤村はこう続けて、「街道」の重要性に注意を促していました。

「この道は東は板橋(いたばし)を経て江戸に続き、西は大津(おおつ)を経て京都にまで続いて行っている。東海道方面を回らないほどの旅人は、否(いや)でも応(おう)でもこの道を踏まねばならぬ。」

一方、司馬氏は織田信長の伊賀攻略により一族を皆殺しにされ、復讐のために権力の後継者である豊臣秀吉を暗殺しようとした忍者を主人公とした『梟の城』(一九五八)の冒頭でこう描いています。

「伊賀の天は、西涯(せいがい)を山城国境い笠置の峰が支え、北涯を近江国境いの御斎(おとぎ)峠がささえる。笠置に陽が入れば、きまって御斎峠の上に雲が湧いた」。

そして司馬氏は、「(この)小盆地を、山城、伊勢、近江の四ヵ国の山がとりまき、七つの山越え道が、わずかに外界へ通じて」おり、それらの「京から発し琵琶湖東岸を通り、岐阜、駿河、小田原、鎌倉、江戸へ通じた交通路はそのまま日本史における権力争奪の往還路でもあった」と書いていたのです。

司馬氏が後に後にライフワークともいえる『街道をゆく』シリーズを書くことになることにも留意するならば、直木賞を受賞した『梟の城』の冒頭に記されたこの文章からは、『夜明け前』の文章だけでなく藤村の文明観との類似性が強く感じられるでしょう。

*   *   *

しかも、前著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)を書く中で、明治27(1894)年には正岡子規が編集主任をしていた家庭向けの新聞『小日本』第74号に北村透谷の追悼記事が掲載されていたことや透谷を尊敬していた島崎藤村が1897年に子規と会って、新聞『日本』への入社についての相談をしたばかりでなく、子規の小説についての感想も語っていたことが分かりました。

子規のことを敬愛していた司馬氏が、「私は、このひとについて、『坂の上の雲』と『ひとびとの跫音』を書いた」と書いていたことに注目するならば、子規と藤村が会っていたことの意味は大きいと思われます。

ただ、司馬氏が藤村に言及している箇所は意外に少ないのですが、このことは関心の少なさを物語るものではないでしょう。昭和初期の暗い時期に少年時代を過ごした司馬氏は、この時期を「別国」と名付けていました。このことからも想像できるように、日本から言論の自由がなくなり、戦争へと走り出していた暗い時代に、文明開化と国粋思想の間に揺れた激動の幕末から明治初期の時代を真正面から見据えて描いた長編小説『夜明け前』は、簡単に文字化することが難しいほどに司馬氏の内面にも深く関わっていると思われるのです。

この問題については、執筆中の『絶望との対峙――「坂の上の雲」の時代と「罪と罰」の受容』(仮題)で考察したいと考えていますが、次回は相馬正一氏の『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』(人文書館、2006年)を書評のページで簡単に紹介しながら、長編小説『夜明け前』の意味と司馬作品との関わりを簡単に確認することにします。

リンク→相馬正一著『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』(人文書館、2006年)

映画《風立ちぬ》論Ⅳ~Ⅵを「映画・演劇評」Ⅱに追加

 

映画《風立ちぬ》を論じた下記の記事が抜けていましたので、「映画・演劇評」Ⅱに追加します。

《風立ちぬ》論Ⅳ――ノモンハンの「風」と司馬遼太郎の志

映画《風立ちぬ》論Ⅴ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(1)

映画《風立ちぬ》論Ⅵ――漱石の『草枕』と映画《風立ちぬ》(2)

 

なお、映画《風立ちぬ》と『永遠の0(ゼロ)』を比較した下記の3本の記事は、いずれ 「文明論(地球環境・戦争・憲法)」の3-2,「昭和初期の別国」に、掲載する予定です。

宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠のO(ゼロ)』(1)

宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠の0(ゼロ)』(2)

宮崎監督の映画《風立ちぬ》と百田尚樹氏の『永遠の0(ゼロ)』(3)

「主な研究」のタイトル一覧をテーマ別に変更

項目が増えてきて見つけにくくなりましたので、「主な研究(活動)」のタイトル一覧を年代順からテーマ別に変更し、ブログに連載した記事のタイトルも掲載することにしました。

タイトル一覧のⅠ.にはドストエフスキー、ロシア文学、小林秀雄関係の研究を、Ⅱ.には司馬遼太郎、近代日本文学関係の研究を掲載します。

今回は小林秀雄の良心観を『ヒロシマわが罪と罰』との関係を中心に考察した関連記事をタイトル一覧Ⅰ.に追加しました。

リンク→「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」関連の記事一覧

「核の時代」と「日本国憲法」の重要性

リンク→文明論(地球環境・戦争・憲法)

ブログ記事を〈「核の時代」と「日本国憲法」の重要性〉と改題し、「文明論(地球環境・戦争・憲法)」のページとリンクします。

関連記事一覧

「核の時代」と「改憲」の危険性

フィクションから事実へ――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(1)

「ワイマール憲法」から「日本の平和憲法」へ――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(2)

「終末時計」の時刻と「自衛隊」の役割――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(3)

「改憲」の危険性と司馬遼太郎氏の「憲法」観

「憲法記念日」と「子供の日」に寄せて――「積極的平和主義」と「五族協和」というスローガン

憲法96条の改正と「臣民」への転落ーー『坂の上の雲』と『戦争と平和』

安倍首相の国家観――岩倉具視と明治憲法

「集団的自衛権の閣議決定」と「憲法」の失効

(2016年3月9日。改題し、リンク先を追加)

安倍政権閣僚の「口利き」疑惑と「長州閥」の疑獄事件――司馬氏の長編小説『歳月』と『翔ぶが如く』

TPP秘密交渉を担当した甘利元経済再生相の「口利き」疑惑が一大疑獄事件へと発展しそうな気配になってきましたが、そんなか、今度は遠藤利明五輪相にも「口利き」の疑惑が発生しました。

リンク→アベノミクス」の詐欺性(4)――TPP秘密交渉担当・甘利明経済再生相の辞任

リンク→まとめ役は遠藤さん」…文科省職員証言毎日新聞)

*   *   *

このような事態は国内を揺るがした明治初期の汚職事件や疑獄事件を思い起こさせます。

まず発覚したのは、横浜で生糸相場を張るようになっていた元奇兵隊の隊長・野村三千三〔みちぞう〕から頼まれた山県有朋が「兵部省の陸軍予算の半分ぐらいに」相当するような巨額の金を貸したにもかかわらず、野村が生糸相場に失敗して公金を返せないという事態に陥った「山城屋事件」でした(『歳月』上・「長閥退治」)。

しかもこの事件の直後に、南部藩の御用商人・村井茂兵衛が得ていた尾去沢銅山の採掘権を、大蔵省の長官として「今清盛」とも呼ばれるような権力を握っていた井上馨によって没収されるという事件が起きたのです。前代未聞の汚職とその隠蔽の問題と直面した司法卿の江藤が、「信じられぬほどの悪政がいま、成立したばかりの明治政府において進行している」と憤激したことが、西南戦争につながったと司馬氏は指摘していました。

さらに、「フランス革命」の時期に利権で私腹を肥やし、「王政の復活のために暗躍」したタレーランと比較しながら「山県も似ている」と長編小説『翔ぶが如く』で記した司馬氏は、「『国家を護らねばならない』/と山県は言いつづけたが、実際には薩長閥をまもるためであり、そのために天皇への絶対的忠誠心を国民に要求した」と厳しく批判していたのです(二・「好転」)。

このような明治初期の考察を踏まえて、司馬氏が『坂の上の雲』で描いたのが、俳人・正岡子規が入社した新聞『日本』の記者たちの気概だったのです。

リンク→高橋『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年)

ことに第二次安倍政権に強く見られるようになった「おごり」や「腐敗」を厳しく追及する記事を書く気概を、現代の放送局や新聞社にも持って欲しいと願っています。

子規の「歌よみに与ふる書」と文芸評論家・小林秀雄

3101360

(正岡子規『歌よみに与ふる書』岩波文庫)

新聞『日本』に掲載した「歌よみに与ふる書」で正岡子規が、「貫之(つらゆき)は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之候」と記していたことについて、司馬氏は「歌聖のようにいわれる紀貫之をへたとこきおろし」たところころに「子規のすご味がある」と書いていました。

一方、小林秀雄はよく知られているように、敗戦後の1946年に戦前の発言について問い質されると「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と啖呵を切っていました。

しかし、1948年に行われた物理学者の湯川秀樹博士との対談では、「原子力エネルギー」を産み出した「高度に発達した技術」の問題を「道義心」の視点から厳しく指摘した小林は、原発の推進が「国策」となるとその危険性を「黙過」し、「原子力エネルギー」の問題でも「反省なぞしない」ことが明らかになったのです。

それゆえ、福島第一原子力発電所の大事故がまだ収束していないにもかかわらず、「アンダーコントロール」と宣言し、自然環境を軽視して経済優先の政治が行われるようになった日本をみながら強く感じたのは、「事実をきちんと見る」ためには、「評論の神様とも言われる」小林秀雄のドストエフスキー観をきちんと問い直さなければならないと痛感したのです。

2014年に『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)を上梓したのは、私がその頃、俳人・正岡子規を中心に司馬氏の『坂の上の雲』を読み解こうとしていたためだと思われます。

それゆえ、以下に拙著(『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年、第五章〈「君を送りて思ふことあり」――子規の眼差し〉より第一節の一部を抜粋して掲載します。

*   *   *

〈「竹ノ里人」の和歌論と真之――「かきがら」を捨てるということ〉より

秋山真之のアメリカ留学の前に子規が「君を送りて思ふことあり蚊帳〔かや〕に泣く」という句を新聞『日本』に載せたことを紹介した司馬氏は、「子規ほど地理的関心の旺盛な男はめずらしく、世界というものをこれほど見たがる人物もすくないと真之はかねがねおもっている。しかし皮肉なことに、運命はその後の子規を病床六尺に閉じこめてしまった」と続けていました(二・「渡米」)。

(中略)

閉ざされた空間の「子規庵」でガラス戸越しに見える庭の草木や風景を詠いながらその詩境を深めていたことに注意を促した俳人の柴田宵曲は、「ガラス障子にしたのは寒気防ぐためが第一で、第二にはいながら外の景色を見るためであった。果たしてあたたかい。果たして見える」と子規が記していることに注意を促していますが*3、子規は「ガラス戸」という洋語を用いて「ガラス戸の外は月あかし森の上に白雲長くたなびける見ゆ」という歌などを詠んでいたのです。

『坂の上の雲』では「庭のみえるガラス戸のそばに、小石を七つならべてある」ことにふれて、俳句仲間がその石を「満州のアムール河の河原でひろうたものぞな」と持ち帰ってくれたものであることが説明され、「七つの小石を毎日病床からながめているだけで、朔風(さくふう)の吹く曠野(こうや)を想像することができるのである」と書かれています。

子規に「古今(こきん)や新古今の作者たちならこの庭では閉口するだろうが、あしはこの小庭を写生することによって天地を見ることができるのじゃ」と語らせた司馬氏はこの後で、「竹ノ里人」の雅号で新聞『日本』に発表された「歌よみに与ふる書」という一〇回連載の歌論について「事をおこした子規は、最初から挑戦的であった」と書き、次のように詳しく考察しています。

「その文章は、まずのっけに、/『ちかごろ和歌はいっこうにふるっておりません。正直にいいますと、万葉いらい、実朝(さねとも)いらい、和歌は不振であります』/ という意味を候文で書いた。手紙の形式である。/『貫之(つらゆき)は下手な歌よみにて、古今集はくだらぬ集に有之候』/という。歌聖のようにいわれる紀貫之をへたとこきおろし、和歌の聖典のようにあつかわれてきた古今集を、くだらぬ集だとこきおろしたところに、子規のすご味がある」。

しかし、「歌は事実をよまなければならない。その事実は写生でなければならない」と主張した「子規への攻撃が殺到」します。

「子規の恩人である陸羯南などは、短歌にも一家言があり、『日本』の社長として子規の原稿に横ヤリなどは入れないが、しかし子規の論ずるところにはっきりと反対であった。また『日本』の社内には歌を詠んだり歌に関心のある記者が多い。これらが、ぜんぶといっていいくらいに子規の論に反対であった」。

そのような厳しい批判にもひるまずに子規は持論を展開したのですが、司馬氏は子規の歌論の意味を、「英国からもどって」きた真之との会話をとおして分かり易く説明しています。

すなわち、「あしはこのところ旧派の歌よみを攻撃しすぎて、だいぶ恨みを買うている。たとえば旧派の歌よみは、歌とは国歌であるけん、固有の大和言葉でなければいけんという。グンカンということばを歌よみは歌をよむときにはわざわざいくさぶねという。いかにも不自然で、歌以外にはつかいものにならぬ」と子規は語ったのです。

司馬氏は子規が外国語を用いることや「外国でおこなわれている文学思想」を取り入れることが、「日本文学を破壊するものだという考えは根本があやまっている」と主張し、「むかし奈良朝のころ、日本は唐の制度をまねて官吏の位階もさだめ、服色もさだめ、唐ぶりたる衣冠をつけていたが、しかし日本人が組織した政府である以上、日本政府である」と続けたと描いています。

一方、「日本人が、日本の固有語だけをつかっていたら、日本国はなりたたぬということを歌よみは知らぬ」という子規の歌論を聞き、彼が書いた新聞の切り抜きを読んだ真之は、「升サンは、俳句と短歌というものの既成概念をひっくりかえそうとしている。あしも、それを考えている」と語ります。

そして真之は、古い伝統を持つスペイン海軍とアメリカ海軍を比較しながら、遠洋航海に出た軍艦には、「船底にかきがらがいっぱいくっついて船あしがうんとおちる」と指摘して、「作戦のもとになる海軍軍人のあたま」も、「古今集ほど古くなくても、すぐふるくなる」ので、「固定概念(かきがら)」は捨てなければならないと主張したのです(二・「子規庵」)。

この記述に注目するとき、子規の俳句論や和歌論は古今東西の海軍の戦術を丹念に調べてそれを比較することで最良の戦術を求めようとした真之の方法についてだけでなく、イギリスに留学した夏目漱石やロシアに留学した広瀬武夫の見方にも深く関わると思われます。

リンク→「物質への情熱」と「好奇心に満ちた多様性」――寺田透の小林秀雄観(3)

(2016年2月4日。〈正岡子規の「歌よみに与ふる書」と真之――「かきがら」を捨てるということ〉を改訂、改題)。

「陶酔といふ理解の形式」と隠蔽という方法――寺田透の小林秀雄観(2)

先日、「作品の解釈と『積極的な誤訳』――寺田透の小林秀雄観」という題名の論稿をアップしました。

ただ、それは「翻訳と文学」とい特集に応じて書いた論文でしたので、「様々なる意匠」を論じて小林秀雄氏の「陶酔といふ理解の形式」を指摘していた箇所は省いていました。

寺田氏の指摘は、エッセイ〈「様々な意匠」と隠された「意匠」〉でも論じた小林の「隠蔽という方法」にも深く関わります。それゆえ、ここではまず司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』との出会いを簡単に振り返ったあとで、寺田透氏の指摘を踏まえて前回の論文ではあまり深く論じることのできなかった「隠蔽という方法」についてもより深く考えたいと思います(以下、敬称を略す))。

Ⅰ、「様々なる意匠」に「隠された意匠」

幕末から明治初期の混乱の時期の日本を題材にした『竜馬がゆく』などの小説を読んだ時に私が感じたのは、クリミア戦争敗戦後の価値の混乱したロシアの問題点を鋭く描きだしていたドストエフスキーの『罪と罰』(1866)の文明論的な広い視野と哲学的な深い考察が受け継がれているということでした。

さらに、『罪と罰』のエピローグで「人類滅亡の悪夢」を描いたドストエフスキーが、次作の『白痴』ではこのような危機を救うロシアのキリスト(救世主)を描きたいと考えて、混迷のロシアで「殺すなかれ」と語った主人公・ムィシキンの理念も『竜馬がゆく』の主人公・坂本竜馬に強く反映されているとも考えていました。

一方、一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──主人公)には現れぬ」と記した文芸評論家の小林秀雄は、「『白痴』についてⅠ」でも「ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」と記し、一九六四年の『白痴』論では、「作者は破局といふ予感に向かつてまつしぐらに書いたといふ風に感じられる。『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものも、遂に現れはしなかつた。来たものは文字通りの破局であつて、これを悲劇とさへ呼ぶ事はできまい」と解釈していました。

それゆえ、「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論から一時期、強い影響を受けていたものの、原作のテキストと比較しながら小林秀雄の評論を再読した際には、「異様な迫力をもった文体」で記されてはいるが、そこでなされているのは研究ではなく新たな「創作」ではないかと感じた私は、一九二九年のデビュー作「様々な意匠」で小林秀雄が「批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない。批評とはついに己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」と率直に記していることに深く納得させられもしました。

しかも、「様々な意匠」は次のように結ばれていました。

「私は、今日日本文壇のさまざまな意匠の、少なくとも重要と見えるものの間は、散歩したと信ずる。私は、何物かを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。たゞ一つの意匠をあまり信用し過ぎない為に、寧ろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない。」

改めてこの文章を読んだ私は強い違和感を覚えました。なぜならば、司馬遼太郎は「様々な意匠」が書かれた時期を「昭和初期」の「別国」と呼んでいますが、この時期には「尊皇攘夷思想」という「意匠」が、政界や教育界だけでなく文壇の考えをも支配していたのです。

そして、前回、アップした〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉で詳しく分析したように、小林秀雄も「尊皇攘夷思想」を讃美するような記事を書いていたからです。

そのことに留意するならば『竜馬がゆく』における司馬の痛烈な批判の矛先は、イデオロギーには捉えられることなく「日本文壇のさまざまな意匠」を「散歩」したかのように主張つつ、自分の「意匠」を「隠して」いた戦前の代表的な知識人の小林秀雄にも向けられているのではないでしょうか。

『竜馬がゆく』第二巻の「勝海舟」では、その頃の「尊皇攘夷思想」が「国定国史教科書の史観」となったばかりでなく、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判されていたのです。

Ⅱ、「様々なる意匠」と「陶酔といふ理解の形式」

「様々なる意匠」を論じた寺田氏の論稿を読んで驚かされたのは、すでに氏がここで「こころの震えを感じながら」小林秀雄の「陶酔といふ理解の形式」を指摘していたことでした。少し長くなりますが、「様々なる意匠」の文章を引用しておきます。

「一体最上芸術家の仕事で、科学者が純粋な水と呼ぶ意味での純粋なものは一つもない。彼等の仕事は常に、種々の色彩、種々の陰翳を擁して豊富である。この豊富性の為に、私は、彼等の作品から思ふ処を抽象することが出来る、と言ふ事は又何物を抽象しても何物が残るといふ事だ……。かうして私は。私の解析眩暈の末、傑作の豊富性の底を流れる、作者の主調低音をきくのである。この時私の騒然たる夢はやみ、私の心が私の心を語り始める。この時私は私の批評の可能性を悟るのである」。

少し引用が長くなりましたが、この後で寺田はこう分析しています。

「この文章のなかにもこまかに注意すれば小林氏の資性をあきらかにする次のような事実が見られる。即ち、かれに批評の可能性を獲得させるべく、対象の宿命的基調にかれを溺れさせるものは、…中略…混乱を惹起させる対象の『豊富性』でもなく、それによって惹起されるかれの『眩暈』の仕業だということ。一種の酩酊だということ。自己嫌悪ではなく、自己陶酔ということ。/ どこかでかれは『陶酔といふ理解の形式』と言っている。…中略…やはりかれは一種のナルシスだったのである。僕は、こころの震えを感じながら、今。そういうことができる。」(昭和三十年二月)

実は、私が小林秀雄の『罪と罰』論や『白痴』論を何度も読み返すなかで「苦い思い」で感じていたのも、ここで描かれているのはドストエフスキーの『罪と罰』や『白痴』の分析ではなく、それらを強引に自分の解釈に引き寄せたものであり、新たな「創作」としての『新罪と罰』や『新白痴』であるということでした。

問題なのは、小林秀雄がそのことを自覚していたと思われるにもかかわらず、数学者・岡潔との対談などに明確に現れているように、自分の解釈が正しいとあくまで主張し、それ以外の読み方をする者を「不注意な読者」と断じていたことです。

Ⅲ、「様々なる意匠」と「隠蔽という方法」

「様々なる意匠」における「陶酔といふ理解の形式」に注意を促していた寺田透は『文学界』に寄稿した「小林秀雄氏の死去の折に」という記事で、「男らしい、言訳けをしないひととする世評とは大分食ひちがふ観察だと自分でも承知してゐるが」と断った上で、小林の「隠蔽という方法」をも示唆していました。

「戦後一つ二つと全集が出、その中に昔読んで震撼を受けた文章が一部削除されて入つてゐるのを見たり、たしかに読んだ筈の警句がどこからも見出されない経験をしたりしてゐるうち、僕はかれを、後世のために自分の姿を作つて行くひとと思ふやうになつた。/作られた自分の姿のうしろから自分は消える、さうしなければならない。自分を抜け殻――かつてはさう呼んだもの――のかげに消してしまふこと」。

寺田が示唆していた小林の「隠蔽という方法」は、小林秀雄の歴史観にも深くかかわります。

たとえば、1940年に書いた『わが闘争』の書評で小林は「これは天才の方法である、僕はこの驚くべき独断の書を二十頁ほど読んで、もう天才のペンを感じた、僕には、ナチズムといふものが、はつきり解つた気がした」とヒトラーを賛美していました。

このような初出における記述は『全集』に収められる際に変えられていたのですが、このことを果敢に指摘していた菅原健史氏の考察を紹介した箇所を拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)から引用しておきます。

〈初出時と『全集』との文章の差異を克明に調べた菅原健史は、『全集』では「天才のペン」の前に、《一種邪悪なる》という言葉が加筆されていることを指摘し、そのために『全集』に依拠した多くの研究者が、戦時中から小林がヒトラーを「一種邪悪なる天才」と見破っていたとして小林の洞察力を賞讃していたことに注意を促している。〉

大きな問題は、寺田透がすでに示唆して小林秀雄の「陶酔といふ理解の形式」や「隠蔽という方法」がきちんと反省されなかったために、岸信介氏の満州政策や安倍晋三氏の雁発再稼働の「道義的な責任」も、「黙過」されることになったと思われることです。

 

関連記事一覧

作品の解釈と「積極的な誤訳」――寺田透の小林秀雄観(1)

「物質への情熱」と「好奇心に満ちた多様性」――寺田透の小林秀雄観(3)

「様々な意匠」と隠された「意匠」

司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって

司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって

「小林秀雄の良心観と『ヒロシマわが罪と罰』」(4)――良心の問題と「アイヒマン裁判」

(2016年2月1日改訂。2月6日、関連記事を追加)