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司馬遼太郎

「森友学園」問題と「教育勅語」の危険性――『夜明け前』論にむけて(3) 

『夜明け前』1『夜明け前』2『夜明け前』3『夜明け前』4

(岩波文庫版『夜明け前』、図版は紀伊國屋書店より)

島崎藤村は青山半蔵を主人公とした『夜明け前』第1部の第9章から第11章で1864年の「天狗党の乱」を詳しく描いていた。

それゆえ、昭和11年5月の『文学界』座談会で「作者が長い文学的生涯の果に自分のうちに発見した日本人という絶対的な気質がこの小説を生かしているのである」と「気質」を協調した文芸評論家の小林秀雄は、「座談会後記」でも「最も印象に残ったところは、武田耕雲斎一党が和田峠で戦って越前で処刑されるまで、あそこの筆力にはたゞ感服の他はなかった」と高く評価した。(引用は『国家と個人 島崎藤村『夜明け前』と現代』より)。

たしかに、この乱に巻き込まれた馬篭宿の庄屋であり、なおかつ「平田篤胤(あつたね)没後の門人」でもあった青山半蔵の視点から描かれている「天狗党の乱」の顛末を描いた「文章の力」はきわめて強い。

しかし、司馬遼太郎は江戸後期の国学者平田篤胤(1776~1843)とその思想について「神道という無言のものに思想的な体系」を与えることにより、「国学を一挙に宗教に傾斜させた」と記している(『この国のかたち』第5巻)。

小林は『夜明け前』について「個性とか性格とかいう近代小説家が戦って来た、又藤村自身も戦って来たもののもっと奥に、作者が発見し、確信した日本人の血というものが、この小説を支配している」と語っているが、それは主人公に引き寄せたすぎた解釈であると思える。

なぜならば、島崎藤村はこの長編小説で義兄・半蔵の純粋さには共感しながらも危惧の念も感じていた寿平次に、「平田派の学問は偏(かた)より過ぎるような気がしてしかたがない」と語らせ(第3章第3節)、「半蔵さん、攘夷なんていうことは、君の話によく出る『漢(から)ごころ』ですよ」と批判させてイデオロギー的な側面を指摘していた(太字は引用者、第5章第4節)。

実際、「尊王の意思の表示」のために、「等持院に安置してある足利尊氏以下、二将軍の木像の首を抜き取って」、「三条河原に晒(さら)しものにした」平田派の先輩をかくまった際には半蔵も、「実行を思う心は、そこまで突き詰めて行ったか」と考えさせられることになる(第6章第5節)。

しかも「同時代に満足しないということにかけては、寿平次とても半蔵に劣らなかった」が、「しかし人間の信仰と風俗習慣とに密接な関係のある葬祭のことを寺院から取り戻(もど)して、それを白紙に改めよとなると、寿平次は腕を組んでしまう」と描いた藤村は、「神葬祭」について、「これは水戸の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)に一歩を進めたもので、言わば一種の宗教改革である。古代復帰を夢みる国学者仲間がこれほどの熱情を抱(いだ)いて来たことすら、彼には実に不思議でならなかった」と記し、「復古というようなことが、はたして今の時世に行なわれるものかどうかも疑問だ。どうも平田派のお仲間のする事には、何か矛盾がある」という寿平次の独り言も記していたのである」(太字は引用者、第6章第2節)。

「古代復帰を夢みる国学者仲間」と「廃仏毀釈」運動の関係について記したこの記述は、その後の歴史の流れや青山半蔵のモデルである島崎藤村の父親の悲劇をも示唆しているように思える。すなわち、『翔ぶが如く』で司馬が書いているように、「維新というのは一面において強烈な復古的性格をもっていたが、ひとつには幕末に平田国学系の志士が小さいながらも倒幕の勢力をなし、それが維新政府に入って神祇官を構成したということもあったであろう。かれらは仏教をも外来宗教であるとし、鳥羽伏見ノ戦いが終わって二カ月後に、政府命令として廃仏毀釈を推進した」(文春文庫、第6巻・「鹿児島へ」)。

しかし、倒幕に成功したことで半蔵たちの夢が叶ったかに見えた「明治維新」の後で、村びとたちの暮らしは徳川時代よりもいっそう悪化した。それゆえ、半蔵たちは疲弊した宿村を救うために、伐採を禁じられてきた「停止木(ちょうじぼく)の解禁」を訴えて、『旧来ノ弊習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基ヅクベシ』という「五箇条の御誓文」の一節を引用した請願書を差し出したが、それは取り上げられず「戸長」(かつての庄屋のような役職)をも免職になったのである。

(2017年3月12日、一箇所訂正)

総選挙に向けて――戦前の「神国思想」を受け継ぐ安倍政権を退場させる年に

【「(幕末の神国思想は――引用者註)明治になってからもなお脈々と生きつづけて熊本で神風連(じんぷうれん)の騒ぎをおこし、国定国史教科書の史観となり、昭和右翼や陸軍正規将校の精神的支柱となり、おびたたしい盲信者」を生んだ(司馬遼太郎、『竜馬がゆく』】

ISBN978-4-903174-23-5_xl(←画像をクリックで拡大できます)

「総選挙を終えて」と題した2014年の記事では、〈一昨年の参議院選挙と同じように、国会での十分な審議もなく「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」を閣議決定する一方で、原発の危険な状況は隠して〉行われたことに注意を促して、「若者よ、『竜馬がゆく』を読もう」と呼びかける記事を書きました。

なぜならば、その時の選挙で指摘された点の一つは若者の選挙離れでしたが、司馬氏は『竜馬がゆく』で最初は他の郷士と同じように「尊皇攘夷」というイデオロギーを唱えて外国人へのテロをも考えた土佐の郷士・坂本龍馬が、勝海舟との出会いで国際的な広い視野と、アメリカの南北戦争では近代兵器の発達によって莫大な人的被害を出していたなどの知識を得て、武力で幕府を打倒する可能性だけでなく、選挙による政権の交代の可能性も模索するような思想家へと成長していくことを壮大な構想で描いていたのです。

しかも長編小説『竜馬がゆく』おいて、幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となったことを指摘した作家の司馬遼太郎は「日本会議」が正当化している「大東亜戦争」についても、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と厳しく批判していたのです(『竜馬がゆく』文春文庫より)。

竜馬に「おれは薩長の番頭ではない。同時に土佐藩の走狗(そうく)でもない。おれは、この六十余州のなかでただ一人の日本人と思っている」と語らせた時、司馬は坂本竜馬という若者に託して神道によって「政教一致」の国家を建設するのではなく、民主的な理念によって統一国家としての日本を建設するという理念を記していたといえるでしょう。

実際、竜馬が打ち出した「船中八策」には、「明治維新の綱領が、ほとんどそっくりこの坂本の綱領中に含まれている」とした司馬遼太郎は、その用語が明治元年の『御誓文』にそのままこだましているだけでなく、ことに「上下議政局を設け、議員を置きて、万機を参賛(さんさん)せしめ、万機よろしく公議に決すべき事」という第二策は、「新日本を民主政体(デモクラシー)にすることを断乎として規定したものといっていい」と高く位置づけていたのです(Ⅶ・「船中八策」)。

『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』人文書館、2009年)

【吉田松陰から高杉晋作を経て、「権力政治家」山県有朋に至るまでを描いた『世に棲む日日』を視野に入れつつ、「天誅」やテロが横行していた幕末に、「オランダ憲法」を知って武力革命ではなく平和的な手段で政権を変えようとした若者の生涯を描いた『竜馬がゆく』を読み解く】

*   *   *

一方、日本国憲法の施行70周年にあたる今年を「節目の年」と指摘した安倍首相は、「新しい時代にふさわしい憲法」に向けた議論を深めようと「新しい」という形容詞を用いて呼びかけつつ、神道による「祭政一致」を目指す「国民会議」の意向に従って「改憲」を行う姿勢を一層明確に示しました。

しかし、作家・百田尚樹との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』もある安倍首相を支え、「日本国憲法」を批判している「日本会議」の思想は、旧日本軍の「徹底した人命軽視の思想」と密接に結びついています。

たとえば、映画化もされた小説『永遠の0(ゼロ)』は、一見、特攻を批判しているように見えますが、その主要登場人物の武田が賛美している思想家の徳富蘇峰は、『大正の青年と帝国の前途』で「日本魂とは何ぞや、一言にして云へば、忠君愛国の精神也。君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神也」と書いた徳富蘇峰は、「大正の青年」たちに自立ではなく、「白蟻」のように死ぬ勇気を求めていました。

〈若者よ 白蟻とならぬ 意思示せ〉

〈子や孫を 白蟻とさせるな わが世代〉

つまり、蘇峰の思想は軍部の「徹底した人命軽視の思想」の先駆けをなしており、そのような思想が多くの餓死者を出して「餓島」と呼ばれるようになったガダルカナル島での戦いなど、6割にものぼる日本兵が「餓死」や「戦病死」することになった「大東亜戦争」を生んだと言っても過言ではないと思います。

このことに注目するならば、登場人物に徳富蘇峰が「反戦を主張した」と主張させることによって、彼の「神国思想」を美化している『永遠の0(ゼロ)』は、日本の未来を担う青少年にとってきわめて危険な書物だといえるでしょう。

*   *   *

それゆえ、前回は若者に『竜馬がゆく』を読もうと呼びかけたのですが、今回はかつての愛読者だった私たちの世代も含めて、偏狭なナショナリズムに支配されずに普遍的な価値観を目指す「投票権」のあるすべての人々に呼びかけることにしました。

なぜならば、司馬遼太郎は「私は戦後日本が好きである。ひょっとすると、これを守らねばならぬというなら死んでも(というとイデオロギーめくが)いいと思っているほどに好きである」(『歴史の中の日本』中公文庫)と書いていたからです。

このことを想起するならば、司馬作品の愛読者は戦前の「五族協和」というスローガンに似た「積極的平和主義」などという用語によって、古い「祭政一致」の軍事国家に移行しようとしている危険な安倍政権を退場させる年にしましょう。

安倍首相の「改憲」方針と〈忍び寄る「国家神道」の足音〉

【「私は戦後日本が好きである。ひょっとすると、これを守らねばならぬというなら死んでも(というとイデオロギーめくが)いいと思っているほどに好きである」(司馬遼太郎「歴史を動かすもの」1970年、『歴史の中の日本』中公文庫)。】

Enforcement_of_new_Constitution_stamp(←画像をクリックで拡大できます)

(日本国憲法施行記念切手、図版は「ウィキペディア」より

*   *   *

日本国憲法施行70周年をむかえて(2017年1月)

昨年末に安倍首相とともに訪れた真珠湾で平和のメッセージを発していた稲田防衛相は帰国して靖国神社を参拝した後では「神武天皇の偉業に立ち戻り」、「未来志向に立って」参拝したと語っていました。

そして、安倍首相も伊勢神宮への参拝の後で、「国民の皆さまとともに、新しい国づくりを本格的に始動してまいります」と発言しましたが、沖縄や福島第一原子力発電所などの惨状を軽視している彼らが重視しているのは「国民の意見」ではなく、戦前の価値観への回帰を目指している「日本会議」や「神社本庁」の意向であるのは明白であると思えます。

*   *   *

昨年年1月に〈忍び寄る「国家神道」の足音〉を特集した「東京新聞」朝刊は「こちら特報部」でこう記していました。

「安倍首相は二十二日の施政方針演説で、改憲への意欲をあらためて示した。夏の参院選も当然、意識していたはずだ。そうした首相の改憲モードに呼応するように今年、初詣でにぎわう神社の多くに改憲の署名用紙が置かれていた。包括する神社本庁は、いわば「安倍応援団」の中核だ。戦前、神社が担った国家神道は敗戦により解体された。しかし、ここに来て復活を期す空気が強まっている。…中略…神道が再び国家と結びつけば、戦前のように政治の道具として、国民を戦争に動員するスローガンとして使われるだろう。」

宗教学者の島薗進氏もツィッターで、【疑わしい20条改正案 政教分離の意義再認識を】という題の「中外日報」(宗教・文化の新聞)の12/18社説を紹介して、「祭政一致」を掲げた明治維新が、「立憲政治と良心の自由を掘り崩した」ことを指摘していました。

リンク→http://www.chugainippoh.co.jp/editorial/2015/1218.html …

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しかし、昨年に続いて今年も憲法改正署名簿が、多くの人々が初詣に訪れる各地の神社に置かれているようですので、〈安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(4)〉と題した昨年の記事に「改憲署名簿」の写真を追加してアップしました。 また、副題も内容により近いものにしましたので、以下に、関連する記事のリンク先を再掲します。

Lelelenokeee (破壊された石仏。川崎市麻生区黒川。写真は「ウィキペディア」より)

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(2019年5月3日改訂と改題、2023/02/07、ツイートを追加)

 

夏目漱石と正岡子規の生誕150周年をむかえて

謹賀新年

夏目漱石の歿後100周年は、政治的には厳しい出来事が続いた1年でしたが、夏目漱石と正岡子規の生誕150周年にあたる今年は、なんとか若者が未来に希望の持てる年になることを念願しています。

isbn978-4-903174-33-4_xl(←画像をクリックで拡大できます)

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015年)

 

 前著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』では、木曽路を旅して「白雲や青葉若葉の三十里」という句を詠み、東京帝国大学を中退して新聞『日本』の記者となった正岡子規の眼差しをとおして『坂の上の雲』を読み解き、帝政ロシアと「明治国家」との教育制度や言論政策の類似性に注目することで、「比較」や「写生」という方法の重要性を明らかにしました。

注目したいのは、幕末の尊皇攘夷運動に強い影響を与えた頼山陽を高く評価した山路愛山の史論「頼襄(のぼる)を論ず」(明治二十六年一月)の問題点を「人生に相渉るとは何の謂ぞ」(『文学界』第2号)で指摘した北村透谷の厳しい批判が、司馬遼太郎の徳富蘇峰批判にも通じていることです。

この問題は現在の安倍政権の歴史認識にもつながるので、北村透谷と山路愛山や徳富蘇峰との間で繰り広げられた「史観論争」をも視野に入れて、正岡子規や夏目漱石、そして島崎藤村の文学観をとおして安倍政権の宗教政策や教育政策の問題点を明らかにする『絶望との対峙――明治のグローバリズムと『罪と罰』の受容』(仮題、人文書館)を5月の連休が終わる頃までには書き上げたいと考えています。

本年もよろしくお願いします。

追記:拙著の執筆が遅れていますが焦らずに、文学作品の分析をとおして「古代復帰」を目指した明治維新以降の日本の近代化の問題点を明らかにする著作にしたいと考えています。

お詫びと訂正:拙著の構想を当初は司馬遼太郎との係わりを中心に組み立てていました。しかし、政治状況などの激変に対応するために、日本におけるドストエフスキーの受容を中心に考察することに変更しました。

新著については新しい構想が固まり次第、お知らせ致します。

                 (2017年12月31日)

shonihon

(図版は正岡子規編集・執筆『小日本』〈全2巻、大空社、1994年〉、大空社のHPより)

 

拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』の書評・紹介

(ご執筆頂いた方々に、この場をお借りして深く御礼申し上げます。)

‘17.03.31   書評『比較文学』第59巻(松井貴子氏)

‘17.03.13   書評『ユーラシア研究』第55号(木村敦夫氏)

新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」(人文書館)のブックレビュー

‘16.11.15   書評 『比較文明』No.32(小倉紀蔵氏)

 新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)のブックレビュー

‘16.07.10 書評 『世界文学』No.123(大木昭男氏)

 →『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)のブックレビュー

‘16.02.16 紹介 『読書会通信』154号(長瀬隆氏)

「高橋誠一郎著『新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、2015)を推挙する」

 

リンク→新聞記者・正岡子規関連の記事一覧

リンク→北村透谷と内村鑑三の「不敬事件」――「教育勅語」とキリスト教の問題

リンク→安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(3)――長編小説『夜明け前』と「復古神道」の仏教観

(2017年1月4日、2月14日、5月18日、リンク先と青い字の箇所を追加)

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)のブックレビュー(12月8日)を転載

「高橋司馬論」のひとつの頂点を成した書

“ものをありのままに見る”

 明治日本において行われた一種の 「認識革命」ともいうべき一大変化をつぶさに描く

isbn978-4-903174-33-4_xl  装画:田主 誠/版画作品:『雲』

人文書館のHP・ブックレビューのページに小倉紀蔵・京都大学教授の書評の抜粋が掲載されましたので、このHPでも紹介させて頂きます。

(人文書館のHPより) 新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」 

*   *   *

小倉紀蔵

正岡子規の方法論である写生に関しては、すでに膨大な研究が存在するが、本書では、単に写生という方法論自体を論じるのではなく、正岡子規の生き様の劇(はげ)しさとリンクさせながら、明治という時代におけるきわめて重要な思想潮流を描ききっている。

なによりもまず、正岡子規の人間としての魅力が思う存分伝わってくる。陸羯南、加藤拓川、秋山好古、秋山真之、夏目漱石などとの関係が、司馬遼太郎のいくつもの作品の叙述を縦横無尽に編み合わせることによって、重層的に描き出される。その基調には、「我々は『ものをありのままに見る』という勇気の少ない民族であります。ありのままに見れば具合の悪いこともおこるし、恐くもある。だから観念の方が先にいく」(八~九頁)という司馬の言葉がある。(中略)そしてその反対方向へのヴェクトルとして、正岡子規がおり、陸羯南がおり、夏目漱石がおり、写生があったのだ。だから司馬が近代日本の合理性を肯定したといっても、その肯定は絶対的なものではなかった。近代日本は強固な合理性の岩盤のうえに築かれたものではなかった。それはつねに危うく、こわれやすく、「勇気」によってつねに意志的に構築されつづけなければならないものだった。

司馬の日本近代論がすぐれている理由は、この「危うさ」への強烈な自覚のためであろう。日本人は実は、「ものをありのままに見る」勇気に乏しく、観念に依存するという安楽な道を選びやすい民族なのだ、という危機意識が、司馬史観の根底にある。それは、ナショナリスティックな司馬追随者たちが見ている日本近代とは、おそらくまったく異なる危うい世界であるにちがいない。

精神が少し弛緩してしまうとすぐに観念的になってしまう。日本人のこの強い傾向があるからこそ、明治に実現した合理精神、そして写生の精神の意味が重要になってくるのである。(中略)高橋氏はこのことを、「(司馬遼太郎は)竜馬や子規を描くことで、いつの時代でも「現実」を直視せずに「情念」に流されやすい日本人に、本当の勇気とは何かを示そうとしたのではないかと私には思えるのです」(九頁)と語っている。したがって、司馬作品を読んで「日本近代賛美」の情念ないし観念に溺れる人たちこそ、司馬がもっとも強く批判したタイプの日本人であるといえる。

新聞という、情念を捏造しやすいメディアにおいて、陸羯南や正岡子規がどのような苦闘を演じたのか、そしてその写生の精神がいかに子規の周囲に広がっていたのか。本書はやさしい語り口調でそのことをつぶさに論じている。「高橋司馬論」のひとつの頂点を成した書といえるにちがいない。

小倉紀蔵(オグラ・キゾウ、京都大学教授。著書『朱子学化する日本近代』など)

『比較文明』(2016年、第32号、比較文明学会編「書評」より部分的に抜粋)

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』第5章より、第4節〈虫のように、埋め草になって――「国民」から「臣民」へ〉

『坂の上の雲』を戦争賛美の小説とした「新しい歴史教科書をつくる会」や「日本会議」など論客による解釈が広まったために、正岡子規や司馬遼太郎への誤解も広がっているようです。

しかし、私は『坂の上の雲』を太平洋戦争における「特攻」につながる「自殺戦術」の問題点と「大和魂」の絶対化の危険性を鋭く指摘した作品であり、そのような視点を司馬は子規と漱石から受け継いでいると考えています。

その理由を説明した箇所を拙著より引用しておきます。

第4節〈虫のように、埋め草になって――「国民」から「臣民」へ〉より

司馬氏は「貧乏で世界常識に欠けた国の陸軍が、銃剣突撃の思想で攻めよう」としたために、「おもわぬ屍山血河(しざんけつが)の惨状を招くことになった」南山の激戦での攻撃を次のように描いていました(下線引用者、三・「陸軍」)。

「歩兵は途中砲煙をくぐり、砲火に粉砕されながら、ようやく生き残りがそこまで接近すると緻密(ちみつ)な火網(かもう)を構成している敵の機関銃が、前後左右から猛射してきて、虫のように殺されてしまう。それでも日本軍は、勇敢なのか忠実なのか、前進しかしらぬ生きもののようにこのロシア陣地の火網のなかに入ってくる。入ると、まるで人肉をミキサーにでかけたようにこなごなにされてしまう」。

*   *

ここで司馬氏は、「虫のように殺されてしまう」兵士への深い哀悼の念を記していましたが、実は夏目漱石も日露戦争直後の一九〇六年一月に発表した短編小説『趣味の遺伝』では、旅順での苛酷な戦闘で亡くなった友人の無念さに思いを馳せてこう描いていました*29。

「狙いを定めて打ち出す機関砲は、杖を引いて竹垣の側面を走らす時の音がして瞬(またた)く間に彼等を射殺した。殺された者が這い上がれる筈がない。石を置いた沢庵(たくあん)の如く積み重なって、人の眼に触れぬ坑内に横はる者に、向へ上がれと望むのは、望むものヽ無理である」。

しかも、この作品の冒頭近くで軍の凱旋を祝す行列に新橋駅で出会った主人公が、「大和魂を鋳固めた製作品」のような兵士たちの中に、「亡友浩さんとよく似た二十八九の軍曹」を見かける場面を描いていた漱石は、「沢庵の如く積み重なって」死んでいる友人への思いを、「日露の講和が成就して乃木大将が目出度(めでた)く凱旋しても上がる事は出来ん」と記していたのです(下線引用者)。

このように見てくるとき、突撃の場面が何度も詳細に描かれているのは、「国家」のために自らの死をも怖れなかった明治の庶民の勇敢さや「心意気」を描くためではなく、ひとびとの平等や自由のために「国民国家」の樹立を目指した坂本竜馬たち幕末の志士たちの熱い思いと、長い歴史を経てようやく「自立」した「国民」は、いつ命令に従うだけの従順な「臣民」に堕してしまったのだろうかという重たい問いを司馬氏が漱石から受けついでいたためではないかと思われます。

ただ、ここで注意を払っておきたいのは、漱石も「大和魂」を絶対化することの危険性を、比較という方法を知っていた子規から学んでいたように思われることです。

実は、「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」という有名な文章で始まる明治三一年二月一四日の「再び歌よみに与ふる書」で、歌人の「香川景樹(かがわかげき)は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申す迄も無之候」と記していた子規は、翌年に書いた「歌話」の(十二)で香川景樹の『古今和歌集正義総論』を次のように厳しく批判していました*30。

「案の如く景樹は馬鹿なり。大和歌の心を知らんとならば大和魂の尊き事を知れ、などと愚にもつかぬ事をぬかす事、彼が歌を知らぬ証拠なり。…中略…言霊の幸(さき)はふ国といふ事は歌よみなどの口癖にいふ事なれど、こは昔日本に文字といふ者無く何も彼も口にてすませし故起りし言葉にて、今日より見れば寧ろ野蛮を証明する恥辱の言葉なり」。

いささか激しすぎる批判のようにも感じますが、前章では子規の「はて知らずの記」に関連して東北の詩人・石川啄木の「訛り」を詠んだ歌についても考察しました。子規はここで香川景樹が続けて「万の外国其声音の溷濁不清なるものは其性情の溷濁不正なるより出れば也」と断言していることを、「此の如き議論の独断的にして正鵠(せいこく)を誤りたるは当時世界を知らぬ人だちの通弊」であると指摘し、「これを日本国内に徴するも、東北の人は総(すべ)て声音混濁しをれども、性情はかへつて質朴にして偽(うそ)なきが如き以て見るべし」と、東北弁を例に挙げながら批判することで、自分の価値観を絶対化することの危険性を指摘していたのです。

このような子規の問題意識を最も強く受け継いでいるのが、明治三八年(一九〇五)の一月から翌年の九月まで『ホトトギス』に断続的に掲載された『吾輩は猫である』において描かれている主人公・苦沙弥先生の次のような新体詩ではないかと私は考えています。

その新体詩は「大和魂(やまとだましい)! と叫んで日本人が肺病みの様な咳をした」という文章で始まり、「起し得て突兀(とつこつ」ですね」という寒月君や東風君など聞き手の感想を間に描きながら読み進められていくのですが、ここでは詩の一部を抜粋して引用しておきます*31。

「大和魂! と新聞屋が云ふ。大和魂! と掏摸(すり)が云ふ。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸(ドイツ)で大和魂の芝居をする/東郷大将が大和魂を有(も)つて居る。肴屋の銀さんも大和魂を有つて居る。詐欺師(さぎし)、山師(やまし)、人殺しも大和魂を有つて居る。/(中略)/誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇(あ)つた者がない。大和魂はそれ天狗の類か」。

苦沙弥先生の新体詩はここで唐突に終わるのですが、この作品の第十一話で漱石は、「子規さんとは御つき合でしたか」との東風君の問いに、「なにつき合はなくつても始終無線電信で肝胆相照らして居たもんだ」と苦沙弥が応えたと描いているのです。

「大和魂」を絶対化して「スローガン」のように用いることの危険性を主人公に語らせていた漱石の指摘は『坂の上の雲』という長編小説を考える上でも重要だと思われます。なぜならば司馬氏は、小説の筋における時間の流れに逆行する形で、南山の激戦や旅順での白襷隊の突撃を描く前に、「太平洋戦争を指導した日本陸軍の首脳部の戦略戦術思想」を、「戦略的基盤や経済的基礎のうらづけのない、『必勝の信念』の鼓吹(こすい)や『神州不滅』思想の宣伝、それに自殺戦術の賛美とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学が、軍服をきた戦争指導者たちの基礎思想のようになってしまっていた」と痛烈に批判していたからです(三・「砲火」)。

そして、『坂の上の雲』を書き終わった一九七二年に発表した「戦車・この憂鬱な乗り物」と題したエッセーで司馬氏は、「戦車であればいいじゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂でおぎなう」とした「参謀本部の思想」を厳しく批判しているのです(下線引用者)*32。

『永遠の0(ゼロ)』の危険な構造を分析する

序章 「約束」か「詐欺」か 

一、「言葉も命も、現代(いま)よりずっと軽かった時代の物語」

『ゴジラの哀しみ』の第二部では一二の章、およびプロローグとエピローグから成る作家・百田尚樹のデビュー作・『永遠の0(ゼロ)』を分析した。二〇〇六年に太田出版から発行されたこの小説はたいへん好評で二〇〇九年には文庫化されて講談社から発行され、安倍首相との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』に収められた対談では、もうすぐ三〇〇万部を突破しそうです」と語り、同名の映画が公開されるまでには「四〇〇万部いくのではないか」と語っている*1。

ただ、単行本には「この小説のテーマは『約束』です。/言葉も愛も、現代(いま)よりずっと重たかった時代の物語です。」との著者からのコメントが付けられていた*2。

たしかに、「個人」のレベルでならば、そのような場合もありえたとは思える。しかし、戦争中の「時代」に関しては、その記述は歴史的な事実に反するだろう。「無敵皇軍」などのスローガンによって多くの日本の若者が勇躍戦地に赴いたが、この小説の第五章で元海軍飛行兵曹長の井崎が語っているように、ガダルカナル島の戦闘では「三万以上の兵士を投入し、二万人の兵士がこの島で命」を失ったが、「二万のうち戦闘で亡くなった者は五千人で」、「残りは飢えで亡くなった」ために、ガダルカナルは「餓島」とも書かれるほど悲惨な戦いを強いられていた*3。

さらに、第八章では「玉砕」という言葉について問われた元海軍少尉の岡部が、「全滅という意味です。ひとつの部隊全員が死ぬことです。全滅という言葉を『玉砕』という言葉に置き換えて、悲惨さを覆い隠そうとしたのです。当時、日本軍はそういう言葉の置き換えをあらゆるものにしていました」と説明している。

つまり、これらの作中人物が語る言葉に留意するならば、小説が描いているのは「言葉も命も、現代(いま)よりずっと軽かった時代の物語」なのである。それをあえて「言葉も愛も、現代(いま)よりずっと重たかった時代」と言い換えた著者からのコメントは、戦前に語られた「王道楽土」や「八紘一宇」などの標語を美化しようとした著者の秘められた本音が露呈しているように思える。

二、義理の祖父・大石賢一郎の謎

第一章の「亡霊」の章では、祖母の二番目の夫である大石賢一郎について、「ぼくは祖父が好きだった。司法試験を目指したのも弁護士である祖父の影響だ。」と記され、「祖父は国鉄職員だったが、三〇歳を過ぎてから司法試験に合格して弁護士になった努力の人だ」と書かれているばかりでなく、「祖父は貧しい人たちのために走り回る弁護士だった。使い古された言葉で言うなら清貧の弁護士だ。ぼくはその姿を見て弁護士を目指したのだ」とも記されている。

ただ、その祖父の大石がどのような歴史観や宗教観の持ち主であるかは最後の章までほとんどふれられていない。一方、健太郎の母・清子は第二章で「私の本当の父が母を愛していたかどうか、母も父を愛していたかどうかは、永遠の謎だと思う」(太字は引用者)と語りつつも、「父が亡くなったのは二六歳の時よ。今の健太郎と同じなのよ」と自分の父と息子の比較を行い、「父がどんな青年だったのかは、お母さんに教えてもらいたかったわ」と語っていた。

しかし、小説を読み進むと実の祖父の宮部久蔵が強く妻・松乃と娘・清子を愛しており、その写真を常に持っていたばかりでなく、戦時中も絶対に生きて戻ると公言していたことが判明する。しかも、最終章では大石が祖母の松乃に求婚した際には、「宮部さんは私にあなたと清子ちゃんのことを託したのです。それゆえ、わたしは生かされたのです」とまで語っているのである。それにもかかわらず、なぜ大石は義理の娘に本当の父親の生き方を伝えていなかったのだろうか。つまり、大石家では家族関係を支える基本的な愛情についても語られぬままに時間が過ぎていたのである。

映画《永遠の0(ゼロ)》の宣伝文では「六〇年間封印されていた、大いなる謎――時代を超えて解き明かされる、究極の愛の物語」と謳われていた(太字は引用者)。だが、母・清子の言葉に注目するならば、「大いなる謎」とはなぜ義理の祖父である大石が孫たちの実の祖父である宮部のことを六〇年間も封印していたのかということになるだろう。

この意味で注目したいのは、広島と長崎への原爆の投下を知って「もしそうだとすれば、日本という国は本当に滅んでしまうかもしれないと思った」と大石に語らせた作者が、「自分たちが特攻で死ぬ事で祖国を守れるなら、潔く死のうと思った」と続けさせていることである。

この言葉は「命が大切」と語っていた実の祖父・宮部久蔵の考えとは正反対の「一億玉砕」の思想のように思える。以下、言論人・徳富蘇峰や作家・司馬遼太郎の歴史観に注目しながら、登場人物たちの発言を詳しく分析することにより大ヒットしたこの小説に隠された思想に迫ることで、二〇〇六年に発行されたこの小説が「日本会議」の思想と安倍首相の復権に深く関わっていることを明らかにしたい*4。

*1 安倍晋三・百田尚樹『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』ワック株式会社、二〇一三年、六四頁。

*2 ネット・ショップ「アマゾン」の図書紹介による。

*3 百田尚樹『永遠の0(ゼロ)』講談社文庫、二〇一四年、二〇一頁。以下、本書では章のみを表記する。

*4菅野完は、二〇〇六年に「戦後レジームからの脱却」などを掲げて総裁に選出された安倍首相が翌年の参議院選で大敗北を喫し、次の国会で所信表明演説を行ってからわずか二日後に退陣を表明したことで、政治生命が完全に絶たれたように思われたが、保守論壇誌には「極めて早い時間から、安倍晋三の再登板を熱望するかのような記事が並ぶように」なっていたと指摘している(『日本会議の研究』扶桑社新書、二〇一六年、七~八頁)。

百田尚樹氏と日本保守党

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(2023/12/11、2024/05/10、改訂・改題、2024/05/10、改訂)

〈司馬遼太郎による「戦後日本」の評価と「神国思想」の批判〉をトップページに掲載

本日(17日)、衆院憲法審査会での実質審議が再開されました。

→東京新聞〈公明「押し付け憲法」否定、自民との違い鮮明 衆院憲法審再開〉 

少し安心したのは公明党の北側一雄氏が、現行憲法が連合国軍総司令部(GHQ)による「押し付け」だとする「日本会議」や自民党の見解について「賛同できない」との意見を明確にしたことです。

民進党の武正公一氏は安倍晋三首相が各党に改憲草案の提出を要請したことに対し「行政府の長からの越権と考える」と批判し、共産党の赤嶺政賢氏は安倍政権の政治手法を「憲法無視の政治だ」と非難し、社民党の照屋寛徳氏も護憲の立場を強調したとのことです。

それらのことは高く評価できるのですが、安倍自民党が圧倒的な数の議席を有していることや、これまでの「「特定秘密保護法」や「戦争法」に対する公明党の対応の変化を考えると不安は残ります。

それゆえ、今回はトップページに司馬遼太郎氏の「戦後日本」観と「神国思想」の批判を掲げることにより、ほとんどの閣僚が「日本会議国会議員懇談会」に属している安倍自民党の危険性に注意を促すことにします。

なぜならば、「神国思想」が支配した戦前の日本に回帰させないためにも、近代に成立した国家の統治体制の基礎を定める「憲法」を古代の神話的な歴史観で解釈する安倍政権と「日本会議」による「改憲」の危険性を国会の憲法審査会だけではなく、一人一人が検証して徹底的に明らかにすべき時期に来ていると思われるからです。

『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』(人文書館)の紹介を『出版ニュース』「ブックガイド」をより転載

『出版ニュース』(2010年1月下旬号「ブックガイド」)に拙著の紹介が掲載されていました。たいへん遅くなりましたが、ここでは人文書館のホームページより、見出しとともに転載致します。

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比較文明論的な視座から詳しく読み解く!

〈幕末において「ただ一人の日本人」であると自覚することになる「竜馬」の成長をとおして「日本人」の在り方を深く考察した『竜馬がゆく』を、比較文明論的な視座から詳しく読み解く〉。

司馬遼太郎は『竜馬がゆく』で何を描こうとしたのか、さらにはグローバリズムの意味を問い、転換期といわれる今日に竜馬があらためて注目されるのは何故なのか。1949年生まれ(団塊の世代)の著者が、比較文明学者の立場でこの作品の構造に挑む。

ここでは、幕末の時代背景を「黒船」というグローバリズムの観点で捉え、竜馬という「日本人」の誕生を浮き彫りにしてみせる。竜馬にとっての思想、革命、新しい公・日本のイメージを通して、維新に向かう人間群像が見えてくる。このことは、司馬の歴史観すなわち近代日本のあり方、評価に関わってくるし、この国の「かたち」にこだわった作家・司馬遼太郎を論じる上で不可欠の考察といえよう。

(『出版ニュース』 2010年1月下旬号「ブックガイド」より)

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なお、『出版ニュース』では拙著『「罪と罰」を読む――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、1996年)以降、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社、2014年)に至る私のドストエフスキー研究の歩みと深まりもきちんと紹介されていたので、それらも順次、転載させて頂くようにします。

安倍政権のTPP法案・強行採決と『竜馬がゆく』における竜馬の農民観―― 「神国思想」と「公地公民」制の批判

ISBN978-4-903174-23-5_xl

「神国思想は明治になってからもなお脈々と生き続けて熊本で神風連(じんぷうれん)の騒ぎをおこし国定国史教科書の史観となり、…中略…その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」(司馬遼太郎『竜馬がゆく』文春文庫、第3巻「勝海舟」より)。

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安倍氏が国会で「わが党においては結党以来、強行採決をしようと考えたことはない」と答弁していたにもかかわらず、昨日、またも安倍政権によりTPP法案の強行採決が行われました。

このニュース報道を受けて、早速、「国民の健康も不安も無視する安倍政権の戦前的な価値観」とのコメントをツイッターに載せたのに続いて、下記の文章とその理由を説明した文を掲載しました。

「農業や医薬、ISDS条項など、国民の生命や安全を犠牲にしてTPPの国会成立を急ぐ安倍政権と自公両党。責任者の甘利元大臣の証言がなく、資料が黒塗りでは議論にならないのは明白。安倍氏に仕える自公の議員の姿は、律令制度の頃の官僚に似ている」。

〈なぜならば、明治維新で成立した薩長藩閥政府が理想視していたのは、律令時代の太政官制度でしたが、司馬氏の言葉を借りれば律令制度の頃の「公地公民」という用語の「公」とは「公家(くげ)」という概念に即したものであり、その制度も「京の公家(天皇とその血族官僚)が、『公田』に『公民』を縛りつけ、収穫を国衙経由で京へ送らせることによって成立していた」からです(司馬遼太郎、「潟のみち」より〉。

残念ながら、司馬氏の文明史家ともいえる広い視野は「新しい歴史教科書をつくる会」や「日本会議」などの論客による「褒め殺し」とも呼べるような一方的な解釈によって、いちじるしく矮小化され歪められてしまいました。

そのような解釈の顕著な例が、明治7年の台湾出兵や明治10年の西南戦争などで巨万の富を得て、三菱財閥を創業した政商・岩崎弥太郎を「語り手」としたNHKの《龍馬伝》(2010)でしょう。

安倍氏や「日本会議」などの論客からの強い要請によって放映されたと思われるこの大河ドラマは《龍馬伝》という題名に反して、「むしろ旗」を掲げて「尊王攘夷」というイデオロギーを叫んでいた幕末の宗教的な人々を情念的に美しく描いていたのです。

大河ドラマ《龍馬伝》の再放送とナショナリズムの危険性

大河ドラマ《龍馬伝》と「武器輸出三原則」の見直し

一方、司馬氏は『竜馬がゆく』の「勝海舟」の章で坂本竜馬についてこう記していました。

「たしかにこの宗教的攘夷論は幕末を動かしたエネルギーではあったが、しかし、ここに奇妙なことがある。/攘夷論者のなかには、そういう宗教色をもたない一群があった。長州の桂小五郎、薩摩の大久保一蔵(利通)、西郷吉之助、そして坂本竜馬である。」

そして、『竜馬がゆく』では当時の日本や世界の政治状況にもふれながら、勝海舟と出会った後の竜馬の視野の広がりと「文明論者」とも呼べるような思想の深まりが描かれていたのです。

それゆえ、ここでは拙著『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』(人文書館、2009年)より、「公地公民」制などについて考察した「”開墾百姓の子孫”」と題した第2節の一部(120~121頁)を引用することで、司馬氏の農政観の一端を記しておきます。

*   *   *

”古き世を打ち破る”   

竜馬と庄屋の息子である中岡慎太郎との出会いを描いたこのシーンは、商才が強調されることの多い坂本竜馬の農民観を推測する上でも重要だろう。

すなわち竜馬が商人的な「利」の視点を持っていたことはよく知られているが、司馬は武士が「その家系を誇示する」時代にあって、竜馬に自分は「長岡藩才谷村の開墾百姓の子孫じゃ。土地をふやし金をふやし、郷士の株を買った。働き者の子孫よ」とも語らせているのである(四・「片袖」)。

ここで竜馬が自分を「開墾百姓の子孫」と認識していることの意味はきわめて重いと思われる。なぜならば、「公地公民」という用語の「公とは明治以後の西洋輸入の概念の社会ということではなく、『公家(くげ)』という概念に即した公」であったことを明らかにした司馬が、鎌倉幕府成立の歴史的な意義を高く評価しているからである(「潟のみち」『信州佐久平みち、潟のみちほか』)*12。

すなわち、司馬によれば「公地公民」とは、「具体的には京の公家(天皇とその血族官僚)が、『公田』に『公民』を縛りつけ、収穫を国衙経由で京へ送らせることによって成立していた制度」だったのである。そして、このような境遇をきらい「関東などに流れて原野をひらき、農場主になった」者たちが、「自分たちの土地所有の権利を安定」させるために頼朝を押し立てて成立させたのが鎌倉幕府だったのである。

しかも『箱根の坂』(一九八二~三)ではさらに、「諸国を管理するのに守護や地頭を置いた」鎌倉幕府や室町幕府について、「個々の農民からいえば、かれが隷属している地頭との間のタテ関係しか持てなかった」と記した司馬は、主人公の北条早雲に「日本の支配層は支配層のためにのみ互いに争うのみで、農民(たみ)のために思った政治をなした者は一人もおりませぬ」とも語らせている(中・「富士が嶺」)*13。

それゆえ、司馬は応仁・文明の乱(一四六七~七七)によって、世が乱れ、農民(たみ)が苦しむのを見た早雲に、「わしは、坂を越えて小田原」に入り、「古き世を打ち破る」と語らせていた。そして、「単に坂といえば箱根峠のことである」と続けた司馬は、「年貢は、十(とお)のうち四」という低い税率の「伊豆方式」を発した早雲が、守護や地頭などの「中間搾取機構を廃した」ことの意義を強調したのである(下・「坂を越ゆ」)。

こうして、「農業経営の知識」が深く、「十二郷の百姓どもの百姓頭になり、この地を駿河では格別な地にしたい」と思った北条早雲が、「民政主義をかかげて」室町体制を打ちやぶったことを、「日本の社会史にとって」は、「革命とよんでもいい」と高く評価した司馬は、「江戸期に善政をしいたといわれる大名でも、小田原における北条氏にはおよばないという評価がある」と続けていた(下・「あとがき」)。

このような大地とのつながりを重視する農民的な視点は、商才にも富んでいた竜馬が、なぜ武力討幕の機運が高まった際に、武器を調達することで大儲けをすることができる絶好の機会である戦争を忌避して、「時勢」に逆らうことが自分の生命を脅かすことになることを知りつつも、幕府が自ら政権を朝廷に返上する「大政奉還」という和平案を提出したかのを理解するうえでも重要だろう。

*   *   *

なお、『箱根の坂』における農政問題に対する認識の深まりは、日露戦争をクライマックスとする長編小説『坂の上の雲』を書く中で、ロシアのコサックと日本の鎌倉武士とを比較しながら、専制国家・ロシアにおける「農奴制」の問題を考察した結果だと思えます。

上からの近代化を強行に推し進めた帝政ロシアは「富国強兵」には成功し、皇帝と一部の貴族は莫大な富を得ました。しかし、特権化した貴族や近代化のために増大した人頭税のために、人口の大部分を占め、それまでは自立していた農民は、権利を奪われ生活が貧しくなって「農奴」と呼ばれるような存在へと落ちぶれ、逃亡した農民の一部はコサックとなったのです。

それゆえ、『坂の上の雲』を書き終えた後で、司馬遼太郎氏は「私は、当時のロシア農民の場からロシア革命を大きく評価するものです」と書き、「帝政末期のロシアは、農奴にとってとても住めた国ではなかったのです」と続けていたのです(「ロシアの特異性について」『ロシアについてーー北方の原形』文春文庫)。

(2016年11月7日、青い字の箇所を追加)