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司馬遼太郎

司馬作品から学んだことⅥ――「幕藩官僚の体質」が復活した原因

「特定秘密保護法案」の「廃案」に向けた先日の呼びかけに非常に多くの方の閲覧があったばかりでなく、いくつかの学会からは真摯で誠実な対応がありました。深く感謝します。

むろん、学会という大きな組織にはさまざまな意見の人がいますし、私も比較文明学的な視点から生態学における「多様性」を重要視しています。

しかしその多様性ばかりでなく生命や民主主義の原則をも脅かすような「悪法」には、それぞれの場からきちんと反対の意見をのべることが必要だと考えています。

呼びかけの文章をもう一度、記しておきます。

*   *   *

「テロ」の対策を目的とうたったこの法案は、諸外国の法律と比較すると国内の権力者や官僚が決定した情報の問題を「隠蔽」する性質が強く、「官僚の、官僚による、官僚と権力者のための法案」とでも名付けるべきものであることが明らかになってきています。

それゆえ私は、この法案は21世紀の日本を「明治憲法が発布される以前の状態に引き戻す」ものだと考えています。

*   *   *

ただ、ブログに掲載した後で、現在の官僚の実情を知らない者が書く文章にしては少し語調がきつかったかとも思いましたが、11月30日付けの朝日新聞のネット版には前中国大使・丹羽宇一郎氏の「秘密増殖、官僚の性」と題された記事が載っていました。それを読んで私の記述が間違ってはいなかったとほっとすると同時に、改めてこのような「悪法」を強行採決した現政権に対する怒りがわいてきました。

以下にその一部を引用しておきます。

「民主主義国家の日本で、こんなことが本当にまかり通るのか、と白昼夢をみる思いです。福島県の公聴会で、意見を述べた7人はみな慎重な審議を求めました。その翌日に衆議院で強行採決とは、茶番劇です。問題点を指摘する国民の声が、民主主義のプロセスが、無視されています。」

*   *   *

司馬遼太郎氏は『坂の上の雲』を書くのと同時に幕末の長州藩に焦点を当てて『世に棲む日日』を描き、そこで蘭学者・佐久間象山の元で学び国際的な視野を獲得していく若々しい松陰を描き出すとともに、「革命の第三世代」にあたる山県狂介(有朋)を、「革命集団に偶然まぎれこんだ権威と秩序の賛美者」と位置づけていました(第3巻、「ともし火」)。

ここでは拙著『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』人文書館、2009年)より、第7章の「『幕藩官僚の体質』の復活」の節を引用しておきます。

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注目したいのは、『世に棲む日日』の第二巻で司馬が竜馬の親友で革命後の政界で巨頭となる桂小五郎が、「いまの政府にときめいている大官などはみな維新前後のどさくさに時流にのった者ばかりだ。かれらには維新の理想などがわからず、利権だけがある。」と痛烈に批判し、「こういう政府をつくるためにわれわれは癸丑以来粉骨したわけではない。死んだ同志が地下で泣いているに相違ない」と語ったと描いていたことである(二・「長州人」)。

 そして、長州藩の重役たちの官僚的な体質を分析した箇所で、一八五三年に来日して幕府の役人と交渉した経験から、幕府の「ヤクニン」を「責任回避の能力のみ」が発達していると厳しく批判したロシアの作家ゴンチャローフの考察を紹介した司馬は、「当時のヨーロッパの水準からいえば、帝政ロシアの官僚の精神は多分に日本の官僚に似ていた。」と書いていた(三・「ヤクニン」)。

 さらに司馬は、「この徳川の幕藩官僚の体質は、革命早々の明治期にはあまり遺伝せず」、「昭和期にはその遺伝体質が顕著になった。」と続けていたが、なぜそうなったかの理由については幕末を扱ったこの長編小説ではあまり考察していない(傍線引用者)。

 しかし、高杉から決起を呼びかけられた諸隊の隊長たちの会議で沈黙を守っていた山県について、「かれはいつの場合でも自分の意見を言わないか、言っても最小限にとどめるというやりかたをとっていた。」と指摘した司馬は、「山県のずるさ」と責任回避能力の高さを厳しく批判していた(三・「長府屯営」)。

 それゆえ『坂の上の雲』の第一巻において、司馬は旧長州奇兵隊士の出身であった山県にとって幸運だったのは、大村益次郎が「維新成立後ほどなく兇刃にたおれたこと」で、「『長の陸軍』は山県有朋のひとり舞台になった。」と書いているのである(一・「馬」)。そして司馬は、「山県に大きな才能があるとすれば、自己をつねに権力の場所から放さないということであり、このための遠謀深慮はかれの芸というべきものであった」とし、ことに「官僚統御がたれよりもうまかった。かれの活動範囲は、軍部だけでなくほとんど官界の各分野を覆った」と厳しい評価を記している。

 この記述に注意を払うならば、昭和初期に顕著になる、自分の意見は語らずに権威に追従することで保身をはかろうとする「幕藩官僚の体質」は、山県有朋によって復活されたと司馬が考えていたと言っても過言ではないだろう。(再掲に際しては、文章の簡単な改訂を行った)。

*   *  *

「テロ」の対策を目的として掲げつつ、きちんとした議論もないままに衆議院で強行採決された「特定秘密保護法案」は、この 「幕藩官僚の体質」を平成において復活させることになるでしょう。

 

(2016年2月10日。リンク先を追加)

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司馬作品から学んだことⅤ――「正義の体系(イデオロギー)」の危険性

 「特定秘密保護法案」に関する少し以前の記事をネットで探していたところ2013年11月28日の「毎日新聞」地方版に「やっぱりやってくれましたね、安倍首相…」という題名の記事が載っていたことが分かりました。

 衆院での強行採決を取り上げたこの記事は、安倍首相が就任当時の所信表明で「数の力におごることなく国民の声に耳を傾けたい」と語っていたのは「偽りだったようです」と指摘し、「秘密法案の是非を論じる以前に、国民の大半は『なぜ成立を急ぐのか』という疑問が解けていない、と思います」と続けています。

*    *   *

昨日のブログでは、特定秘密保護法案に反対するために国会周辺で行われている市民のデモについて石破茂幹事長が「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらない」と自分のブログに記していたことに言及しました。

この石破茂幹事長の記述は「ドイツのワイマール憲法はいつの間にか変わっていた。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうか」と語っていた麻生副総理の発言を思い起こさせます。

毎日新聞の記事は、就任演説での所信表明を守らない安倍首相を批判していましたが、これらの発言に注目すると今回の強行採決は、「約束」を守るよりも自分の信じる「正義」を実行する勇気が大事であると安倍首相が考えているからではないかと思います。

なぜならば、安倍内閣の首脳たちの発言は、司馬遼太郎氏がその危険性を鋭く指摘していた「プロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立」しようとした明治期の国家観から今も脱却し得ていないことを示していると思われるからです。

それゆえ、このような安倍内閣によって提出された「特定秘密保護法案」に私は強い危機感を抱いており、今回の問題は単なる政治の問題ではなく、学問の根幹に関わる問題だと思っています。

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拙著『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』では、フロムの『自由からの逃走』にも言及しながら、ラスコーリニコフの「非凡人の理論」と第一次世界大戦後のドイツにおける「非凡民族の思想」との関連をも考察していました。

ドイツが福島第一原子力発電所の大事故の後で、国民的な議論と民衆の「英知」を結集して「脱原発」に踏み切れたのは、ドイツ帝国やヒトラーの第三帝国の負の側面をきちんと反省していたからでしょう。

 青年の頃に「神州無敵」などのスローガンに励まされて学徒出陣した司馬氏も、イデオロギーを「正義の体系」と呼んでその危険性に注意を促していました。

 しかも政治的な問題には極力関わらないような姿勢を保持しながらも司馬氏は、日本が「昭和初期の別国」のような状態になることは、なんとしても防ぎたいとの強い覚悟も記していたのです。

(「司馬遼太郎の洞察力――『罪と罰』と 『竜馬がゆく』の現代性」参照)

   *   *   *

次回は社会心理学者フロムの『自由からの逃走』の考察をとおして、『罪と罰』の現代的な意義を再考察したいと思います。それは現代の日本の政治が抱えている「権威主義的な価値観」の問題にも迫ることにもなるでしょう。

(2016年2月10日。リンク先を追加)

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司馬作品から学んだことⅣ――内務官僚と正岡子規の退寮問題

前回のブログ記事「司馬作品から学んだことⅢ――明治6年の内務省と戦後の官僚機構」で、人々の生命をはぐくむ「大地」さえもが投機の対象とされていた時期に、「土地に関する中央官庁にいる官吏の人に会った」司馬氏がその官僚から、「私ども役人は、明治政府が遺した物と考え方を守ってゆく立場です」という意味のことを告げられて、 「油断の横面を不意になぐられたような気がした」と書いていたことを紹介しました。

その後で司馬氏は、敗戦後も「内務省官吏は官にのこり、他の省はことごとく残された。/ 機構の思想も、官僚としての意識も、当然ながら残った」と続けていたのです(『翔ぶが如く』第10巻、文春文庫、「書きおえて」)。

晩年の司馬氏の写真からは、突き刺さるような鋭い視線を感じましたが、おそらく今日の日本の状況を予想して苛立ちをつのらせておられたのだと思います。

このように書くと、いわゆる「司馬史観」を批判する歴史家の方々からは甘すぎるとの反論があるでしょう。

しかしプロシアの参謀本部方式の特徴を「国家のすべての機能を国防の一点に集中するという思想である」と説明していた司馬氏は、このような方向性は当然教育にも反映されることとなり、正岡子規の退寮問題が内務官僚の佃一予(つくだかずまさ)の扇動によるものであったことを『坂の上の雲』において次のように記していたのです。拙著、 『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』(東海教育研究所、2005年、74~75頁より引用します。

  *   *   *

 このような風潮の中で…中略…後に「大蔵省の参事官」や「総理大臣の秘書官」を歴任した佃一予のように、「常磐会寄宿舎における子規の文学活動」を敵視し、「正岡に与(くみ)する者はわが郷党をほろぼす者ぞ」とまで批判する者が出てきていたのです。

 そして司馬は「官界で栄達することこそ正義であった」佃にとっては、「大学に文科があるというのも不満であったろうし、日本帝国の伸長のためにはなんの役にも立たぬものと断じたかったにちがいない」とし、「この思想は佃だけではなく、日本の帝国時代がおわるまでの軍人、官僚の潜在的偏見となり、ときに露骨に顕在するにいたる」と続けたのです。

 この指摘は非常に重要だと思います。なぜならば、次章でみるように日露戦争の旅順の攻防に際しては与謝野晶子の反戦的な詩歌が問題とされ、「国家の刑罰を加うべき罪人」とまで非難されることになるのですが、ここにはそのような流れの根幹に人間の生き方を問う「文学」を軽視する「軍人、官僚の潜在的偏見」があったことが示唆されているのです。

   *   *   *

  残念ながら、「特定秘密保護法案に反対する学者の会」の記事がまだ産経新聞には載っていないとのことですが、産経新聞には司馬作品の真の愛読者が多いと思います。日本を再び、昭和初期の「別国」とさせないためにも、この悪法の廃案に向けて一人でも多くの方が声をあげることを願っています。

(2016年11月2日、リンク先を変更)

正岡子規の時代と現代(5)―― 内務官僚の文学観と正岡子規の退寮問題

近著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)について

 

「強行採決に抗議する日本ペンクラブの声明」を「新着情報」に掲載しました

 

「東京新聞」の昨日の夕刊には、「特定秘密保護法案」が「時代に逆行」しており、「言論統制の第一歩」であるとの浅田次郎・日本ペンクラブ会長の談話が載っていました。

実際、国会での審議を軽視しただけでなく、地方の不安や報道機関の要請などを無視したこの強行採決は、戦前や戦中の「言論弾圧」につながっているといえるでしょう。

「平和」を党是としてきた与党の公明党が今回の暴挙ともいえる強行採決に際して、自民党の「ブレーキ」となるどころか、「アクセル」を踏んでいるようにも見えるのはなぜでしょうか。権力の側に身を置けば、戦時中のような「大弾圧」からは逃れられると考えているのかもしれません。

しかし、隣国のロシア革命での権力闘争を例に出すまでもなく、明治維新でも権力を握った薩長が今度は互いに激しく争ったことは、司馬遼太郎氏の長編小説『歳月』や『翔ぶが如く』の読者ならばよく知っていることです。

権力者の元にすべての情報が集まるような仕組みの危険性は、ジョージ・オーウェルの『1984』やザミャーチンの『われら』などの長編小説ですでに詳しく描かれています。

福島第一原子力発電所の大事故の状況をきちんと観察して、脱原発への道筋を作るだけでなく、若者たちを戦場へと兵士として送らないためにも、この法案は廃案にする必要があるでしょう。

日本ペンクラブの「特定秘密保護法案の衆議院特別委員会強行採決に抗議する声明」を「新着情報」に掲載しました

司馬作品から学んだことⅡ――新聞紙条例(讒謗律)と内務省

先ほど、各新聞が一斉にネット版で、「与党が採決を強行」し「特定秘密保護法」が衆議院を通過したとの号外を報じました。

安倍首相は「この法案は40時間以上の審議がなされている。他の法案と比べてはるかに慎重な熟議がなされている」と答弁したとのことですが、首相の「言語感覚」だけでなく、「時間感覚」にも首をかしげざるをえません。

  *   *   *

11月13日付けのブログ記事「特定秘密保護法案」と明治八年の「新聞紙条例」(讒謗律)では、「明治初年の太政官が、旧幕以上の厳格さで在野の口封じをしはじめたのは、明治八年『新聞紙条例』(讒謗律)を発布してからである」という『翔ぶが如く』の一節を引用しました。

また、「普仏戦争」で「大国」フランスに勝利してドイツ帝国を打ち立てたビスマルクと対談した大久保利通が、「プロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立」しようとしたことにも触れました(文春文庫、第1巻「征韓論」)。

*    *   *

内務省が設置されたのは、『新聞紙条例』(讒謗律)の発布の2年前の1873年(明治6年)のことでしたが、司馬氏は坂本龍馬の盟友であった木戸孝允(桂小五郎)の目をとおして次のように記しています。

「内務省がいかにおそるべき機能であるかということは、木戸には十分想像できた。内務省は各地方知事を指揮するという点で、その卿たる者は事実上日本の内政をにぎってしまうということになる。知事は地方警察をにぎっている。従って内務卿は知事を通して日本中の人民に捕縄(ほじょう)をかけることもできるのである。さらに内務卿の直轄機構のなかに、川路利良が研究している警視庁が入っている。警視庁は東京の治安に任ずるだけでなく、政治警察の機能ももち、もし内務卿にしてその気になれば、同僚の参議たちをも検束して牢にたたきこむこともできるのである。」(文春文庫、第1巻「小さな国」)。 

(2016年11月1日、リンク先を変更)

正岡子規の時代と現代(3)――「特定秘密保護法」とソ連の「報道の自由度」

「特定秘密保護法案」と明治八年の「新聞紙条例」(讒謗律)

「征韓論」に沸騰した時期から西南戦争までを描いた長編小説『翔ぶが如く』で司馬遼太郎氏は、「この時期、歴史はあたかも坂の上から巨岩をころがしたようにはげしく動こうとしている」と描いていました(『翔ぶが如く』、第3巻「分裂」)。

世界を震撼させた福島第一原子力発電所の大事故から「特定秘密保護法案」の提出に至る流れを見ていると、現在の日本もまさにこのような状態にあるのではないかと感じます。

福島第一原子力発電所の事故後に起きた汚染水や燃料棒取り出しの問題の危険性が高まっているので、急遽、執筆中の著作を先送りして黒澤明監督の映画《夢》や《生きものの記録》をとおして、「第五福竜丸」事件や原発の問題を考察する著作を書き進めています。

しかし、民主党政権を倒した後で現政権が打ち出した「特定秘密保護法案」が、軍事的な秘密だけでなく、沖縄問題などの外交的な秘密や原発問題の危険性をも隠蔽できるような性質を有していることが、次第に明確になってきています。

この法律については10月31日付けのブログ記事「司馬遼太郎の洞察力――『罪と罰』と 『竜馬がゆく』の現代性」でも触れましたが、衆議院通過の期限が迫ってきているので、司馬作品の研究者という視点から、倒幕後の日本の状況と比較しつつ、この法律の問題点をもう一度考えてみたいと思います。

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国民に秘密裏に外国との交渉を進めた幕府を倒幕寸前までに追い詰めつつも、坂本龍馬が「大政奉還」の案を出した理由について、政権が変わっても今度は薩長が結んで別の独裁政権を樹立したのでは、革命を行った意味が失われると、『竜馬がゆく』において龍馬に語らせていた司馬氏は。明治初期の薩長政権を藩閥独裁政権と呼んでいました。

実際、長編小説『歳月』(初出時の題名は『英雄たちの神話』)では佐賀の乱を起こして斬首されることになる江藤新平を主人公としていましたが、井上馨や山県有朋など長州閥の大官による汚職は、江藤たちの激しい怒りを呼んで西南戦争へと至るきっかけとなったのです。

そのような中、「普仏戦争」で「大国」フランスに勝利してドイツ帝国を打ち立てたビスマルクと対談した大久保利通は、「プロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立しようと」しました(第1巻「征韓論」)。

一方、政府の強権的な政策を批判して森有礼や福沢諭吉などによって創刊された『明六雑誌』は、「明治七年以来、毎月二回か三回発行されたが、初年度は毎号平均三千二百五部売れたという。明治初年の読書人口からいえば、驚異的な売れゆきといっていい。しかしながら、宮崎八郎が上京した明治八年夏には、この雑誌は早くも危機に在った」(第5巻「明治八年・東京」)。

なぜならば、「明治初年の太政官が、旧幕以上の厳格さで在野の口封じをしはじめたのは、明治八年『新聞紙条例』(讒謗律)を発布してからである。これによって、およそ政府を批判する言論は、この条例の中の教唆扇動によってからめとられるか、あるいは国家顛覆論、成法誹毀(ひき)ということでひっかかるか、どちらかの目に遭った」のです。

私は法律の専門家ではありませんが、この明治8年の『新聞紙条例』(讒謗律)が、共産主義だけでなく宗教団体や自由主義などあらゆる政府批判を弾圧の対象とした昭和16年の治安維持法のさきがけとなったことは明らかだと思えます。

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『坂の上の雲』をとおしてナショナリズムの問題や近代兵器の悲惨さを描いた司馬氏は、「日本というこの自然地理的環境をもった国は、たとえば戦争というものをやろうとしてもできっこないのだという平凡な認識を冷静に国民常識としてひろめてゆく」ことが、「大事なように思える」と書いていました(「大正生れの『故老』」『歴史と視点』)。

同じことは原発問題についてもいえるでしょう。近年中に巨大な地震に襲われることが分かっている日本では、本来、原発というものを建ててはいけないのだという「平凡な認識を冷静に国民常識としてひろめてゆく」ことが必要でしょう。

発行は春になると思いますが、執筆中の拙著『司馬遼太郎の視線(まなざし)ーー「坂の上の雲」と子規と』(仮題、人文書館)では、文学者・新聞記者としての正岡子規に焦点を当てて、『坂の上の雲』を読み解いています。

戦争自体は体験しなかったものの病気を押して従軍記者となり、現地を自分の体と眼で体感した子規が、『歌よみに与ふる書』で「歌は事実をよまなければならない」と記したことは、『三四郎』を書くことになる親友の夏目漱石の文明観にも強い影響を与えただろうと考えています。

さらに、何度も発行禁止の厳しい処罰を受けながらも、新聞『日本』の発行を続けた陸羯南や正岡子規など明治人の気概からは勇気を受け取りましたので、なんとか平成の人々にもそれを伝えたいと考えています。

正岡子規の時代と現代(1)――「報道の自由度」の低下と民主主義の危機

(2016年11月1日、リンク先を追加)

「トルストイで司馬作品を読み解く」のレジュメを「主な研究(活動)」に掲載しました

 

2013年9月28日に昭和女子大学で、「トルストイで司馬作品を読み解く――『坂の上の雲』と『翔ぶが如く』を中心に」という題名の講演を行いました。

故藤沼貴前会長や川端香男里現会長はじめ著名な研究者を擁し、多くのすぐれた研究を積み重ねてこられたこの会で講演する機会を与えられたことを光栄に思っています。

最初は「『戦争と平和』で司馬作品を読み解く」という題名で発表しようと考えていました。しかし、大逆事件の前年に森鴎外は小説『青年』で、夏目漱石をモデルとした登場人物に、日本ではトルストイさえも「小さく」されていると語らせていましたが、それはドストエフスキーについてもあてはまると思えます。

『戦争と平和』のエピローグで「祖国戦争」の勝利のあとでたどるロシアの厳しい歴史を示唆したトルストイは、「日露戦争」の最中には敢然と戦争の惨禍を指摘していました。

一方、現在の日本ではきちんとした議論もないままに、「特定秘密保護法案」さえもが採択されそうな状況となり、福島第一原子力発電所の事故の状況さえも「国家的な秘密」とされたり、兵士が不足しているアメリカ政府の要請によって日本の若者が戦場へと送られる危険性が強くなってきています。

それゆえ講演ではまず、トルストイのドストエフスキー観をとおして日本の近代化のモデルとなったロシアの近代化の問題点を指摘し、その後で『戦争と平和』を強く意識しながら『坂の上の雲』を書いた司馬遼太郎の『翔ぶが如く』における「教育」と「軍隊」の制度や「内務省」と「法律」の問題の考察を明らかにすることで、トルストイの現代的な意義に迫ろうとしました。

ただ、長編小説『翔ぶが如く』はあまり有名な作品ではないので、司馬文学の愛読者以外の方にとっては少し難しい講演になってしまったと反省しており、論文化する際には、やはり『戦争と平和』と『坂の上の雲』の比較になるべく焦点を絞って書くようにしたいと考えています。

司会の労を執られた木村敦夫氏や事務局長の三浦雅正己氏はじめ、関係者の方々にこの場をお借りして感謝の意を表します。

司馬遼太郎の洞察力――『罪と罰』と 『竜馬がゆく』の現代性

先のブログ記事で坂本龍馬を主人公とした『竜馬がゆく』を読んだ時には、司馬遼太郎という作家が若い頃にはおそらく、坂本龍馬と同じ時代を生きていたドストエフスキーの文学を耽読していたのだろうという推測を記しました。

その理由は『罪と罰』と 『竜馬がゆく』における「正義の殺人」の分析が、その後の歴史状況をも見事に捉えていることです。

クリミア戦争後の思想的な混乱の時代に「非凡人の理論」を編み出して、自分には「悪人」を殺すことで世直しをすることが許されていると考えた『罪と罰』の主人公の行動と苦悩を描き出したドストエフスキーは、予審判事のポルフィーリイに「もしあなたがもっとほかの理論を考え出したら、それこそ百億倍も見苦しいことをしでかしたかもしれませんよ」と批判させていました。

八五〇万人以上の死者を出した第一次世界大戦後に、ヘルマン・ヘッセはドストエフスキーの創作を「ここ数年来ヨーロッパを内からも外からも呑み込んでいる解体と混沌を、これに先んじて映し出した予言的なものであると感じる」と記していました(拙著 『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー、刀水書房、六頁)。

実際、敗戦後の屈辱感に覆われていた中で、「大国」フランスを破った普仏戦争の栄光を強調することでドイツ人の民族意識を煽ったナチス政権下のドイツでは「非凡人の理論」は「非凡民族の理論」となって、ユダヤ人の虐殺を正当化することになったのです。

*   *   *

古代中国の歴史家・司馬遷が著した『史記』を愛読していた司馬氏を特徴付けるのは、情念に流されることなく冷静に歴史を見つめる広く深い「視線(まなざし)」でしょう。

太平洋戦争後の敗戦から間もない時期に司馬氏が 『竜馬がゆく』で取り上げたのは、「黒船」による武力を背景にした「開国」要求が、日本中の「志士」たちに激しい怒りを呼び起こし、「攘夷」という形で「自分の正義」を武力で訴えようとした幕末という時代でした。そのような混乱の時代には日本でも、中国の危機の時代に生まれた「尊皇攘夷」というイデオロギーに影響された武市半平太は、深い教養を持ち、人格的にも高潔であったにもかかわらず、自分の理想を実現するために「天誅」という名前の暗殺を行う「暗殺団」さえ持つようになったのです。

司馬遼太郎氏は坂本龍馬を主人公とした『竜馬がゆく』において、武市半平太と同じような危機感を持っていた龍馬が、勝海舟との出会いで国際的な広い視野を得て、比較文明論ともいえる新しい視点から行動するようになることを雄大な構想で描き出しました。咸臨丸でアメリカを訪れていた勝海舟から、アメリカの南北戦争でも、近代兵器の発達によって莫大な人的被害を出していたことを知った龍馬は、「正義の戦争」の問題点も深く認識して、自衛の必要性だけでなく戦争を防ぐための外交的な努力の必要性も唱える思想家へと成長していくのです。

しかも、『竜馬がゆく』において幕末の「攘夷運動」を詳しく描いた司馬は、その頃の「神国思想」が、「国定国史教科書の史観」となったと歴史の連続性を指摘し、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」と痛烈に批判しているのです( 『竜馬がゆく』第2巻、「勝海舟」)。

注目したいのは、司馬氏が『坂の上の雲』を書くのと同時に幕末の長州藩に焦点を当てて『世に棲む日日』を描き、そこで戦前に徳富蘇峰によって描かれた吉田松陰とはまったく異なる、佐久間象山の元で学び国際的な視野を獲得していく若々しい松陰を描き出していることです。しかも、師の吉田松陰と高杉晋作や弟子筋の桂小五郎との精神的な深いつながりにも注意を喚起していた司馬氏は、「革命の第三世代」にあたる山県狂介(有朋)を、「革命集団に偶然まぎれこんだ権威と秩序の賛美者」と位置づけていることです(『世に棲む日日』、第3巻、「ともし火」)。

このことはなぜ司馬氏が『坂の上の雲』を書き終えたあとで『翔ぶが如く』を書き続けることで、明治八年の『新聞紙条例』(讒謗律)が発布されて、「およそ政府を批判する言論は、この条例の中の教唆扇動によってからめとられるか、あるいは国家顛覆論、成法誹毀(ひき)ということでひっかかるか、どちらかの目に遭った」時代から西南戦争に至る時代の問題点を浮き彫りにしようとしたかが分かるでしょう(第5巻「明治八年・東京」)。

現在の日本でもきちんと議論もされないままに、閣議で「特定秘密保護法案」が決定されましたが、この法案の問題点は徹底的に議論されるべきだと思います。

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『坂の上の雲』において、日本が最終的に近代化のモデルとして選ぶことになるプロシアの「参謀本部」の問題を描くことになる司馬氏の視野の広さは、『竜馬がゆく』で新興国プロシアに言及し、『世に棲む日日』においてはアヘン戦争(1840~42)を、日本の近代化のきっかけになった戦争ときちんと位置づけていることでしょう。

拙著『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと(人文書館、2009年)では、 『竜馬がゆく』と『世に棲む日日』だけでなく、この時期を扱った『花神』などの多くの作品にも言及したために、385頁という事典なみの厚い本となりました。

司馬氏の歴史観の全体像に近づくために事項索引を作成しました。(下線部をクリックすると「著書・共著」の当該のページに飛びます)。

「坂本龍馬関連年表」を「ロシア文学関連年表」に掲載しました

 

年表Ⅰの「ドストエフスキー関連年表(1789~1881)」に続いて、「Ⅱ、坂本龍馬関連年表(1809~1869)」を「ロシア文学関連年表」に掲載しました。

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ドストエフスキーの研究者である私が司馬遼太郎氏の研究もしている理由については、市民講座などでもたびたび質問されますが、坂本龍馬(1835~67)は、ドストエフスキー(1821~81)よりも、10年以上も遅くに生まれながらも『罪と罰』が発行された翌年に暗殺されれて亡くなっています。

その龍馬を主人公とした『竜馬がゆく』を読んだ時には、司馬遼太郎という作家が若い頃にはおそらく、坂本龍馬と同じ時代を生きていたドストエフスキーの文学を耽読していたのだろうと感じました。その理由については、稿を改めて記すことにします。

(「ロシア文学関連年表」というページは、近いうちに「年表一覧」という題名に変更する予定です)。

 

《風立ちぬ》論Ⅳ――ノモンハンの「風」と司馬遼太郎の志

アニメ映画《風立ちぬ》が「国内の映画ランキング」の一位の座から去ったことで、早くも話題は次の映画に移り始めているようにみえます。

しかし、アニメ映画というジャンルで、文明史家とも呼べるような雄大な視野を持った司馬遼太郎氏の志を表現していると思えるこの作品については、きちんと語り続けていかねばならないでしょう。

 宮崎駿監督が「書生」として司会を務めた鼎談集『時代の風音』(朝日文庫、1997)で司馬氏は、20世紀の大きな特徴の一つとして「大量に殺戮できる兵器を、機関銃から始まって最後に核まで至るもの」を作っただけでなく、「兵器は全部、人を殺すための道具ながら、これが進歩の証(あかし)」とされてきたことを厳しく批判していました(「二十世紀とは」)。

注目したいのは、映画の終わり近くでノモンハンの草原とそこに吹く風が描かれていることです。この場面を見たときに、司馬氏の作品を評論という方法で論じてきた私は、宮崎監督が司馬氏の深く重たい思いを見事に映像化していると感じ、熱い思いがこみ上げてきました。

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司馬氏は賞賛される一方で、批判されることも多い作家でしたが、司馬作品を比較的好意的に見ている人の中にも、ことに晩年には「参謀本部」や「統帥権」の問題を鋭く分析している司馬氏が、いろいろと批判しながらノモンハンの戦車部隊をテーマにした長編小説を書かなかったことには疑問をもっている方が多いようです。

しかし、司馬氏は「書かなかった」のではなく、「書けなかった」のです。この点については誤解している方も多いと思われるので、最近〔「書かなかったこと」と「書けなかったこと」〕と題するエッセーを書きました。(同人誌『全作家』第91号)。ここではその一部を引用することで、「ノモンハンの草原に吹く風」が描かれたシーンを見たときの私の熱い思いの説明に代えたいと思います。

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「私は小説にするつもりで、ノモンハン事件のことを徹底的に調べたことがある」と記した司馬氏は、「ノモンハンは結果として七十数パーセントの死傷率」だったが、それは「現場では全員死んでるというイメージです」と作家・井上ひさし氏との対談で語るとともに、連隊長として実際に戦闘に参加した須見新一郎元大佐の証言をとおして、「敗戦の責任を、立案者の関東軍参謀が取るのではなく」、貧弱な装備で戦わされ勇敢に戦った「現場の連隊長に取らせている」と指摘し、「天幕のなかにピストルを置いて、暗に自殺せよと命じた」ことを紹介している(『国家・宗教・日本人』)。

「このばかばかしさに抵抗した」須見元大佐が退職させられたことを指摘した司馬氏は、彼のうらみはすべて「他者からみれば無限にちかい機能をもちつつ何の責任もとらされず、とりもしない」、「参謀という魔法の杖のもちぬしにむけられていた」と書いている(『この国のかたち』・第一巻)。

こうして「ノモンハン事件」を主題とした長編小説は、『坂の上の雲』での分析を踏まえて、「昭和初期」の日本の問題にも鋭く迫る大作となることが十分に予想された。しかしこの長編小説の取材のためもあり、司馬氏が元大本営参謀でシベリアでの強制労働から戻ったあとには、商事会社の副社長となり再び政財界で大きな影響力を持つようになった瀬島龍三氏と対談をしたことが、構想を破綻させることになった。

すなわち、『文藝春秋』の昭和四十九年正月号に掲載されたこの対談を読んだ須見元連隊長は、「よくもあんな卑劣なやつと対談をして。私はあなたを見損なった」とする絶縁状を送りつけ、さらに「これまでの話した内容は使ってはならない」とも付け加えていた(「司馬遼太郎とノモンハン事件」)。

この話について記した元編集者の半藤一利氏は、「かんじんの人に絶縁状を叩きつけられたことが、実は司馬さんの書く意欲を大いにそぎとった」のではないかと推測している。また、小林竜夫氏は須見元大佐がこの長編小説の主人公だったのではないかと考え、「須見のような人物を登場させることはできなく」なったことが、小説の挫折の主な理由だろうと想定している(『モラル的緊張へ――司馬遼太郎考』)。

たしかに、惚れ込んだ人物を調べつつ歴史小説を書き進めていた司馬のような作家にとって主人公を失うことは大きく、小説は「書けなくなった」と思えるのである。

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アニメ映画を見ていたときは、広い草原を見て司馬氏がたびたび言及している蒙古の草原のようだと漠然と感じていたのですが、半藤一利氏との対談で宮崎監督は次のように語っていたのです。

「少年時代の堀越二郎の夢に出て来る草原は、空想の世界の草原です。でも、終わりの草原は現実で、『あれはノモンハンのホロンバイル草原だよ』ってスタッフに言っていた」(『腰抜け愛国談義』文春ジブリ文庫)。

その記述を読んだ時には、宮崎監督が映像をとおして作家・司馬遼太郎氏の志を受け継ぎ、表現していると改めて強く思いました。

(2015年11月4日。訂正と追加)。