高橋誠一郎 公式ホームページ

『吾輩は猫である』

夏目漱石と正岡子規の交友と作品の深まり――「教育勅語」の渙発から長編小説『三四郎』へ(レジュメ)

序に代えて

夏目漱石生誕150年によせて「夏目漱石と世界文学」をテーマとした「世界文学会」の2017年度第4回研究会が7月22日に行われました。

ホームページに掲げたレジュメとは副題と内容が少し異なりますが、発表では慶応3年に生まれた漱石と子規との交友だけでなく、明治の『文学界』の北村透谷と島崎藤村の交友や『国民之友』の社主・徳富蘇峰の関係をも視野に入れることで、「明治憲法」の発布と「教育勅語」の渙発から長編小説『三四郎』への流れを分析しました。

それにより「共謀罪」が強行採決された現在の日本における夏目漱石の作品の意義により肉薄できたのではないかと考えています。

なお、今回の発表は、拙著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)の記述を踏まえて、「教育勅語」の問題と文学者との関わりを考察した論文(文末の引用・参考文献)など加えて考察したものです。

 ISBN978-4-903174-33-4_xl(←画像をクリックで拡大できます)
 その後、初めての試みとしてユーチューブに動画がアップされましたが、慣れないために声もかすれて少し聞きにくい発表になっていましたので、レジュメ資料の1を見ながらお聞き頂ければ幸いです。

 http://youtu.be/nhIPCAoGNsE (1)

http://youtu.be/_1KBH3Lx0Fc (2)

 

資料1、講座の流れと主な引用箇所

はじめに――漱石と子規の青春と「教育勅語」の影

Ⅰ.子規の退寮事件と「教育勅語」論争

Ⅱ.陸羯南の新聞『日本』の理念と新聞『小日本』

Ⅲ.従軍記者・子規の戦争観と日露戦争中に書かれた『吾輩は猫である』

Ⅳ.漱石の『草枕』と子規の紀行文「かけはしの記」――長編小説『三四郎』へ

おわりに 「教育勅語」問題の現代性

主な引用・参考文献

夏目漱石と正岡子規の交友と方法としての比較・関連年表

 

はじめに――漱石と子規の青春と「教育勅語」の影

a.「子規は果物(くだもの)が大変好(す)きだった。且(か)ついくらでも食(く)える男だった。」(『三四郎』第1章)

「我死にし後は」(前書き)、「柿喰ヒの俳句好みと伝ふべし」(子規、明治30年)

b.「憲法発布は明治二十二年だったね。その時森文部大臣が殺(ころ)された。君は覚えていまい。幾年(いくつ)かな君は。そう、それじゃ、まだ赤ん坊の時分だ。僕は高等学校の生徒であった。大臣の葬式に参列するのだと云って、大勢鉄砲を担(かつ)いで出た。墓地へ行くのだと思ったら、そうではない。体操の教師が竹橋内(たけばしうち)へ引っ張って行って、路傍(みちばた)へ整列さした。我々は其処(そこ)へ立ったなり、大臣の柩(ひつぎ)を送ることになった。」(『三四郎』第11章)

c.「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」(「教育勅語」)

 Ⅰ.子規の退寮事件と「教育勅語」論争

a.「私は卯の年の生れですから、まんざら卯の花に縁がないでもないと思ひまして『卯の花をめがけてきたか時鳥(ほととぎす)』『卯の花の散るまで鳴くか子規(ほととぎす)』などとやらかしました。又子規といふ名も此時から始まりました。」(子規「啼血始末」)

b.「(佃にとっては)大学に文科があるというのも不満であったろうし、日本帝国の伸長のためにはなんの役にも立たぬものと断じたかったにちがいない。…中略…この思想は佃だけではなく、日本の帝国時代がおわるまでの軍人、官僚の潜在的偏見となり、ときに露骨に顕在するにいたる」(『坂の上の雲』第2巻「日清戦争」)。

c.「『義勇公に奉すべし』とのたまへる教育勅語、さては宣戦詔勅を非議」(大町桂月、与謝野晶子「君死にたまふこと勿(なか)れ」の批判)

d.『教育勅語』は「国体教育主義を経典化した」もの。

「正直に云えば、我が青年及び少年に歓迎せらるる書籍、及び雑誌等は、半ば以上は病的文学也、不完全なる文学也」(徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』)

Ⅱ.陸羯南の新聞『日本』の理念と新聞『小日本』

a.「秘密秘密何でも秘密、殊には『外交秘密』とやらが当局無二の好物なり、…中略… 斯かる手段こそ当局の尊崇する文明の本国欧米にては専制的野蛮政策とは申すなれ」新聞『小日本』)

b.「北村透谷子逝く 文学界記者として当今の超然的詩人として明治青年文壇の一方に異彩を放ちし透谷北村門太郎氏去る十五日払暁に乗し遂に羽化して穢土の人界を脱すと惜(をし)いかな氏年未だ三十に上(のぼ)らずあたら人世過半の春秋を草頭の露に残して空しく未来の志を棺の内に収め了(おは)んぬる事嗟々(あゝ)エマルソンは実に氏が此世のかたみなりけり、芝山の雨暗うして杜鵑(ほとゝとぎす)血に叫ぶの際氏が幽魂何処(いづこ)にか迷はん」新聞『小日本』)。

c.「愚なるかな、今日に於て旧組織の遺物なる忠君愛国などの岐路に迷ふ学者、請ふ刮目(くわつもく)して百年の後を見ん」(北村透谷「明治文学管見(日本文学史骨)」)

d.「(松陰の)尊王敵愾(てきがい)の志気は特に頼襄(らいのぼる)の国民的詠詩、及び『日本外史』より鼓吹し来たれるもの多し」(徳富蘇峰『吉田松陰』)

e.「青木(モデルは北村透谷)君が生きていたら、今頃は何を為(し)てるだろう」/「何を為てるだろう。新聞でもやってやしないか――しきりに新聞をやって見たいッて、そう言ってたからネ」(島崎藤村『春』)

Ⅲ.従軍記者・子規の戦争観と日露戦争中に書かれた『吾輩は猫である』

a.「若し夫の某将校の言ふ所『新聞記者は泥棒と思へ』『新聞記者は兵卒同様なり』等の語をして其胸臆より出でたりとせんか。是れ冷遇に止まらずして侮辱なり」(子規「従軍記事」)

「一国政府の腐敗は常に軍人干政のことより起こる」(陸羯南「武臣干政論」)

b.「三崎の山を打ち越えて/いくさの跡をとめくれば、此処も彼処も紫に/菫花咲く野のされこうべ」(子規「髑髏」)。

c.「(景樹が)大和歌の心を知らんとならば大和魂の尊き事を知れ、などと愚にもつかぬ事をぬかす事、彼が歌を知らぬ証拠なり」(子規「歌話」)

万の外国其声音の溷濁不清なるものは其性情の溷濁不正なるより出れば也」(香川景樹『古今和歌集正義総論』)

d.「世の中に比較といふ程明瞭なることもなく愉快なることもなし…中略…織田 豊臣 徳川の三傑を時鳥(ほととぎす)の句にて比較したるが如き 面白くてしかも其性質を現はすこと一人一人についていふよりも余程明瞭也」。「併シ斯く比較するといふことは総(すべて)の人又は物を悉(ことごと)く腹に入れての後にあらざれば出来ぬこと故 才子にあらざれば成し難き仕事なり」(子規「筆まかせ」)。

e.「大和魂(やまとだましい)! と叫んで日本人が肺病みの様な咳をした。/(中略)/大和魂! と新聞屋が云ふ。大和魂! と掏摸(すり)が云ふ。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸(ドイツ)で大和魂の芝居をする/東郷大将が大和魂を有(も)つて居る。肴屋の銀さんも大和魂を有つて居る。詐欺師(さぎし)、山師(やまし)、人殺しも大和魂を有つて居る。/(中略)/誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇(あ)つた者がない。大和魂はそれ天狗の類か」(漱石『吾輩は猫である』第6章)。

f.「どうかしてイワンの様な大馬鹿に逢つて見たいと存候。/出来るならば一日でもなつて見たいと存候。近年感ずる事有之イワンが大変頼母しく相成候」(夏目漱石、内田魯庵『イワンの馬鹿』訳の礼状)

g.「社会の暗黒裡に潜める罪悪を解剖すると同時に不完全なる社会組織、強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」(内田魯庵『復活』について)

 Ⅳ.漱石の『草枕』と子規の紀行文「かけはしの記」――長編小説『三四郎』へ

a.「やがて、長閑(のどか)な馬子唄(まごうた)が、春に更(ふ)けた空山(くうざ ん)一路の夢を破る。憐(あわ)れの底に気楽な響きがこもって、どう考えても画にかいた声だ。/ 馬子唄の鈴鹿(すずか)越ゆるや春の雨/ と、今度は斜(はす)に書き付けたが、書いて見て、これは自分の句でないと気が付いた。」(漱石『草枕』)

「馬子唄の鈴鹿(すずか)上るや春の雨」(子規、明治25年)

b.小説で「白いひげをむしゃむしゃと生やした老人」として描かれているのは熊本実学党の名士・前田案山子(かかし)で、彼が明治11年に建てた別邸には中江兆民が訪れてルソーの講義をしたり、女性民権家の岸田俊子が来て演説をおこなっていた(安住恭子『「草枕」の那美と辛亥革命』)白水社、2012年)。

c.「一体戦争は何のためにするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんな馬鹿気たものはない」

d.「亡びるね」という男の言葉を聞いた三四郎は最初「熊本でこんなことを口に出せば、すぐ擲(な)ぐられる。わるくすると国賊取扱にされる」と感じた。しかし、「囚(とら)われちゃ駄目だ。いくら日本のためを思っても贔屓(ひいき)の引倒しになるばかりだ」という男の言葉を聞いたときに、「真実に熊本を出たような心持ちがした。同時に熊本にいた時の自分は非常に卑怯であったと悟った」と記されている(『三四郎』)。

e.「反動は愛山生を載せて走れり。而して今や愛山生は反動を載せて走らんとす」(北村透谷「人生に相渉るとは何の謂ぞ」)。

おわりに 「教育勅語」問題の現代性

a.「教育勅語」の「始まりと終わりの部分で天皇と臣民の間の紐帯、その神的な由来、 また臣民の側の神聖な義務について」述べられているという構造を持っている(島薗進『国家神道と日本人』岩波新書)。

b.「日本魂とは何ぞや、一言にして云へば、忠君愛国の精神也。君国の為めには、我が 生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神也」(徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』)

 

主な引用・参考文献

高橋誠一郎『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年。
――『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』成文社、2007年。
――『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2002年 。
――「北村透谷と島崎藤村――「教育勅語」の考察と社会観の深まり」『世界文学』 第125号、2017年。
――「作品の解釈と「積極的な誤訳」――寺田透の小林秀雄観」『世界文学』第122号、2015年。
――「司馬遼太郎の徳冨蘆花と蘇峰観――『坂の上の雲』と日露戦争をめぐって」『COMPARATIO』九州大学・比較文化研究会、第8号、2004年。
 『漱石全集』全15巻、岩波書店、1965~67年(振り仮名は一部省略した)。
小森陽一『世紀末の予言者・夏目漱石』講談社、1999年。
木下豊房『ドストエフスキー その対話的世界』成文社、2002年。
大木昭男『漱石と「露西亜の小説」』東洋書店、2010年。
井桁貞義『ドストエフスキイ 言葉の生命』群像社、2011年。
安住恭子『「草枕」の那美と辛亥革命』白水社、2012年。
清水孝純『漱石『夢十夜』探索 闇に浮かぶ道標』翰林書房、2015年。
中村文雄『漱石と子規 漱石と修――大逆事件をめぐって』和泉書院、2002年。
『子規と漱石』(『子規選集』第9巻)、増進会出版社、2002年。
『子規全集』全22巻、別巻3巻、監修・正岡忠三郎・司馬遼太郎・大岡昇平他、講談社、1975~79年。
坪内稔典『正岡子規 言葉と生きる』岩波新書、2010年。
末延芳晴『正岡子規、従軍す』平凡社、2010年。
成澤榮壽『加藤拓川――伊藤博文を激怒させた硬骨の外交官』高文研、2012年。
『現代日本文學大系6 北村透谷・山路愛山集』筑摩書房、1969年。
槇林滉二「透谷と人生相渉論争――反動との戦い」、桶谷秀昭・平岡敏夫・佐藤泰正編『透谷と近代日本』翰林書房、1994年。
徳富蘇峰『吉田松陰』岩波文庫、1981年 司馬遼太郎『本郷界隈』(『街道をゆく』第37巻)朝日文芸文庫、1969年。
有山輝雄『陸羯南』吉川弘文館、2007年。
島崎藤村『春』、『破戒』、新潮文庫。
相馬正一『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』人文書館、2006年。
木村毅「日本翻訳史概観」『明治翻訳文學集』筑摩書房、1972年。

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』第5章より、第4節〈虫のように、埋め草になって――「国民」から「臣民」へ〉

『坂の上の雲』を戦争賛美の小説とした「新しい歴史教科書をつくる会」や「日本会議」など論客による解釈が広まったために、正岡子規や司馬遼太郎への誤解も広がっているようです。

しかし、私は『坂の上の雲』を太平洋戦争における「特攻」につながる「自殺戦術」の問題点と「大和魂」の絶対化の危険性を鋭く指摘した作品であり、そのような視点を司馬は子規と漱石から受け継いでいると考えています。

その理由を説明した箇所を拙著より引用しておきます。

第4節〈虫のように、埋め草になって――「国民」から「臣民」へ〉より

司馬氏は「貧乏で世界常識に欠けた国の陸軍が、銃剣突撃の思想で攻めよう」としたために、「おもわぬ屍山血河(しざんけつが)の惨状を招くことになった」南山の激戦での攻撃を次のように描いていました(下線引用者、三・「陸軍」)。

「歩兵は途中砲煙をくぐり、砲火に粉砕されながら、ようやく生き残りがそこまで接近すると緻密(ちみつ)な火網(かもう)を構成している敵の機関銃が、前後左右から猛射してきて、虫のように殺されてしまう。それでも日本軍は、勇敢なのか忠実なのか、前進しかしらぬ生きもののようにこのロシア陣地の火網のなかに入ってくる。入ると、まるで人肉をミキサーにでかけたようにこなごなにされてしまう」。

*   *

ここで司馬氏は、「虫のように殺されてしまう」兵士への深い哀悼の念を記していましたが、実は夏目漱石も日露戦争直後の一九〇六年一月に発表した短編小説『趣味の遺伝』では、旅順での苛酷な戦闘で亡くなった友人の無念さに思いを馳せてこう描いていました*29。

「狙いを定めて打ち出す機関砲は、杖を引いて竹垣の側面を走らす時の音がして瞬(またた)く間に彼等を射殺した。殺された者が這い上がれる筈がない。石を置いた沢庵(たくあん)の如く積み重なって、人の眼に触れぬ坑内に横はる者に、向へ上がれと望むのは、望むものヽ無理である」。

しかも、この作品の冒頭近くで軍の凱旋を祝す行列に新橋駅で出会った主人公が、「大和魂を鋳固めた製作品」のような兵士たちの中に、「亡友浩さんとよく似た二十八九の軍曹」を見かける場面を描いていた漱石は、「沢庵の如く積み重なって」死んでいる友人への思いを、「日露の講和が成就して乃木大将が目出度(めでた)く凱旋しても上がる事は出来ん」と記していたのです(下線引用者)。

このように見てくるとき、突撃の場面が何度も詳細に描かれているのは、「国家」のために自らの死をも怖れなかった明治の庶民の勇敢さや「心意気」を描くためではなく、ひとびとの平等や自由のために「国民国家」の樹立を目指した坂本竜馬たち幕末の志士たちの熱い思いと、長い歴史を経てようやく「自立」した「国民」は、いつ命令に従うだけの従順な「臣民」に堕してしまったのだろうかという重たい問いを司馬氏が漱石から受けついでいたためではないかと思われます。

ただ、ここで注意を払っておきたいのは、漱石も「大和魂」を絶対化することの危険性を、比較という方法を知っていた子規から学んでいたように思われることです。

実は、「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」という有名な文章で始まる明治三一年二月一四日の「再び歌よみに与ふる書」で、歌人の「香川景樹(かがわかげき)は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申す迄も無之候」と記していた子規は、翌年に書いた「歌話」の(十二)で香川景樹の『古今和歌集正義総論』を次のように厳しく批判していました*30。

「案の如く景樹は馬鹿なり。大和歌の心を知らんとならば大和魂の尊き事を知れ、などと愚にもつかぬ事をぬかす事、彼が歌を知らぬ証拠なり。…中略…言霊の幸(さき)はふ国といふ事は歌よみなどの口癖にいふ事なれど、こは昔日本に文字といふ者無く何も彼も口にてすませし故起りし言葉にて、今日より見れば寧ろ野蛮を証明する恥辱の言葉なり」。

いささか激しすぎる批判のようにも感じますが、前章では子規の「はて知らずの記」に関連して東北の詩人・石川啄木の「訛り」を詠んだ歌についても考察しました。子規はここで香川景樹が続けて「万の外国其声音の溷濁不清なるものは其性情の溷濁不正なるより出れば也」と断言していることを、「此の如き議論の独断的にして正鵠(せいこく)を誤りたるは当時世界を知らぬ人だちの通弊」であると指摘し、「これを日本国内に徴するも、東北の人は総(すべ)て声音混濁しをれども、性情はかへつて質朴にして偽(うそ)なきが如き以て見るべし」と、東北弁を例に挙げながら批判することで、自分の価値観を絶対化することの危険性を指摘していたのです。

このような子規の問題意識を最も強く受け継いでいるのが、明治三八年(一九〇五)の一月から翌年の九月まで『ホトトギス』に断続的に掲載された『吾輩は猫である』において描かれている主人公・苦沙弥先生の次のような新体詩ではないかと私は考えています。

その新体詩は「大和魂(やまとだましい)! と叫んで日本人が肺病みの様な咳をした」という文章で始まり、「起し得て突兀(とつこつ」ですね」という寒月君や東風君など聞き手の感想を間に描きながら読み進められていくのですが、ここでは詩の一部を抜粋して引用しておきます*31。

「大和魂! と新聞屋が云ふ。大和魂! と掏摸(すり)が云ふ。大和魂が一躍して海を渡った。英国で大和魂の演説をする。独逸(ドイツ)で大和魂の芝居をする/東郷大将が大和魂を有(も)つて居る。肴屋の銀さんも大和魂を有つて居る。詐欺師(さぎし)、山師(やまし)、人殺しも大和魂を有つて居る。/(中略)/誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇(あ)つた者がない。大和魂はそれ天狗の類か」。

苦沙弥先生の新体詩はここで唐突に終わるのですが、この作品の第十一話で漱石は、「子規さんとは御つき合でしたか」との東風君の問いに、「なにつき合はなくつても始終無線電信で肝胆相照らして居たもんだ」と苦沙弥が応えたと描いているのです。

「大和魂」を絶対化して「スローガン」のように用いることの危険性を主人公に語らせていた漱石の指摘は『坂の上の雲』という長編小説を考える上でも重要だと思われます。なぜならば司馬氏は、小説の筋における時間の流れに逆行する形で、南山の激戦や旅順での白襷隊の突撃を描く前に、「太平洋戦争を指導した日本陸軍の首脳部の戦略戦術思想」を、「戦略的基盤や経済的基礎のうらづけのない、『必勝の信念』の鼓吹(こすい)や『神州不滅』思想の宣伝、それに自殺戦術の賛美とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学が、軍服をきた戦争指導者たちの基礎思想のようになってしまっていた」と痛烈に批判していたからです(三・「砲火」)。

そして、『坂の上の雲』を書き終わった一九七二年に発表した「戦車・この憂鬱な乗り物」と題したエッセーで司馬氏は、「戦車であればいいじゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂でおぎなう」とした「参謀本部の思想」を厳しく批判しているのです(下線引用者)*32。

正岡子規の時代と現代(6)――『坂の上の雲』における「自殺戦術」の批判と徳富蘇峰の「突撃」観

「日本魂とは何ぞや、一言にして云へば、忠君愛国の精神也。君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神也」(徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』、拙著『新聞への思い』人文書館、190頁)

ISBN978-4-903174-33-4_xl(←画像をクリックで拡大できます)

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)

正岡子規の時代と現代(6)――『坂の上の雲』における「自殺戦術」の批判と徳富蘇峰の日本軍人観

「『司馬史観』の説得力」という論考で教育学者の藤岡信勝氏は、長編小説『坂の上の雲』では「健康なナショナリズムに鼓舞されて、その知力と精力の限界まで捧げて戦い抜いた」明治の人々の姿が描かれているとし、自分たちの歴史認識は「司馬史観」と多くの点で重なると誇っていました。

しかし、藤岡氏が作家の司馬遼太郎氏が亡くなった一九九六年にこの論考を発表したのは、司馬氏から徹底的に批判されることを危惧したためではないかと思われます。なぜならば、司馬氏は日本陸軍の最初の大きな戦いであり、「貧乏で世界常識に欠けた国の陸軍が、銃剣突撃の思想で攻めよう」としたために、「おもわぬ屍山血河(しざんけつが)の惨状を招くことになった」南山の激戦での攻撃を次のように描いているからです(傍点引用者、三・「陸軍」)。

「歩兵は途中砲煙をくぐり、砲火に粉砕されながら、ようやく生き残りがそこまで接近すると緻密(ちみつ)な火網(かもう)を構成している敵の機関銃が、前後左右から猛射してきて、虫のように殺されてしまう。それでも日本軍は、勇敢なのか忠実なのか、前進しかしらぬ生きもののようにこのロシア陣地の火網のなかに入ってくる。入ると、まるで人肉をミキサーにでかけたようにこなごなにされてしまう」(太字は引用者)。

以下、太平洋戦争時の「特攻隊」につながる「自殺戦術」が、『坂の上の雲』でどのように描かれているかを簡単に見たあとで、徳富蘇峰が『大正の青年と帝国の前途』で描いた「突撃」観との比較を行うことにします。

*   *

南山の激戦での日本軍の攻撃方法に注意を促していた司馬氏は、前節で見た旅順艦隊との海戦を描いた後で、旅順の要塞をめぐる死闘は「要塞の前衛基地である剣山の攻防からかぞえると、百九十一日を要し、日本側の死傷六万人という世界戦史にもない未曾有の流血の記録をつくった」と指摘しています(三・「黄塵」)。

注目したいのは、「驚嘆すべきことは、乃木軍の最高幹部の無能よりも、命令のまま黙々と埋め草になって死んでゆくこの明治という時代の無名日本人たちの温順さ」であると記した司馬氏が、「命令は絶対のものであった。かれらは、一つおぼえのようにくりかえされる同一目標への攻撃命令に黙々としたがい、巨大な殺人機械の前で団体ごと、束(たば)になって殺された」と続けていることです。

ことに後の「特攻隊」につながる決死隊が、「ようやく松樹山西方の鉄条網の線に到達したとき、敵の砲火と機関銃火はすさまじく、とくに側面からの砲火が白襷隊(しろだすきたい)の生命をかなりうばった」とされ、「三千人の白襷隊が事実上潰滅したのは、午後八時四十分の戦闘開始から一時間ほど経ってからであった」と描かれています(四・「旅順総攻撃」)。

ここで司馬氏は、「虫のように殺されてしまう」兵士への深い哀悼の念を記していましたが、実は夏目漱石も日露戦争直後の一九〇六年一月に発表した短編小説『趣味の遺伝』では、旅順での苛酷な戦闘で亡くなった友人の無念さに思いを馳せてこう描いていました*29。

「狙いを定めて打ち出す機関砲は、杖を引いて竹垣の側面を走らす時の音がして瞬(またた)く間に彼等を射殺した。殺された者が這い上がれる筈がない。石を置いた沢庵(たくあん)の如く積み重なって、人の眼に触れぬ坑内に横はる者に、向へ上がれと望むのは、望むものヽ無理である」。

しかも、この作品の冒頭近くで軍の凱旋を祝す行列に新橋駅で出会った主人公が、「大和魂を鋳固めた製作品」のような兵士たちの中に、「亡友浩さんとよく似た二十八九の軍曹」を見かける場面を描いていた漱石は、「沢庵の如く積み重なって」死んでいる友人への思いを、「日露の講和が成就して乃木大将が目出度(めでた)く凱旋しても上がる事は出来ん」と記していたのです(太字は引用者)。

このように見てくるとき、突撃の場面が何度も詳細に描かれているのは、「国家」のために自らの死をも怖れなかった明治の庶民の勇敢さや「心意気」を描くためではなく、ひとびとの平等や自由のために「国民国家」の樹立を目指した坂本竜馬たち幕末の志士たちの熱い思いと、長い歴史を経てようやく「自立」した「国民」は、いつ命令に従うだけの従順な「臣民」に堕してしまったのだろうかという重たい問いを司馬氏が漱石から受けついでいたためではないかと思われます。(『新聞への思い』、177~178頁)。

ことに主人公の苦沙弥先生に、「大和魂(やまとだましい)! と叫んで日本人が肺病みの様な咳をした」という文章で始まる新体詩を朗読させることで、「大和魂」を絶対化して「スローガン」のように用いることの危険性を指摘していた『吾輩は猫である』は、『坂の上の雲』という長編小説を考える上でも重要だと思われます。

なぜならば司馬氏は、小説の筋における時間の流れに逆行する形で、南山の激戦や旅順での白襷隊の突撃を描く前に、「太平洋戦争を指導した日本陸軍の首脳部の戦略戦術思想」を、「戦略的基盤や経済的基礎のうらづけのない、『必勝の信念』の鼓吹(こすい)や『神州不滅』思想の宣伝、それに自殺戦術の賛美とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学が、軍服をきた戦争指導者たちの基礎思想のようになってしまっていた」と痛烈に批判していたからです(三・「砲火」)。

そして、『坂の上の雲』を書き終わった一九七二年に発表した「戦車・この憂鬱な乗り物」と題したエッセーで司馬氏は、「戦車であればいいじゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂でおぎなう」とした「参謀本部の思想」を厳しく批判しているのです(太字は引用者)*32。(『新聞への思い』、180~181頁)。

*   *   *

このように見てくるとき、『坂の上の雲』では「健康なナショナリズムに鼓舞されて、その知力と精力の限界まで捧げて戦い抜いた」明治の人々の姿が描かれているという藤岡氏の解釈が、「思い込み」に近いものであることが分かります。しかし、藤岡氏のような解釈が生じた原因は、「テキスト」に描かれている事実ではなく、「テキスト」に感情移入して「主観的に読む」ことが勧められていた日本の文学論や歴史教育にもあると思われます。

なぜならば、坂本多加雄・「新しい歴史教科書を作る会」理事も、徳富蘇峰を「巧みな『物語』制作者」であるとし、「そうした『物語』によって提示される『事実』が、今日なお、われわれに様々なことを語りかけてくる」として、蘇峰の歴史観の現代的な意義を強調していたからです。

では、『大正の青年と帝国の前途』において「『義勇公に奉すべし』と記されている『教育勅語』を「国体教育主義を経典化した」と位置づけていた蘇峰は、どのように日露戦争の「突撃」を描いていたのでしょうか。

*   *   *

第一次世界大戦中の大正五年(一九一六)に公刊した『大正の青年と帝国の前途』において「何物よりも、大切なるは、我が日本魂也」とし、「日本魂とは何ぞや、一言にして云へば、忠君愛国の精神也」とした徳富蘇峰は、それは「君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神也」と説明し、さらに危険な硫化銅塊を置いても「先頭から順次に」その中に飛び込んだ「白蟻の勇敢さ」と比較すれば、「我が旅順の攻撃も」、「顔色なきが如し」とさえ書いて、集団のためには自分の生命をもかえりみない「白蟻」の勇敢さを讃えていたのです*40。

司馬氏は日露戦争以降の日本で強まった「自殺戦術の讃美とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学」を『坂の上の雲』で厳しく批判していましたが、そのような思想を強烈に唱えたのが日露戦争後の蘇峰だったのです。

ここで思い起こしておきたいのは、漱石や子規の文章を「自他の環境の本質や状態をのべることもできる」と高く評価した司馬氏が、「桂月も鏡花も蘇峰も一目的にしか通用しない」と記していたことです*41。

鏡花については論じることはできませんが、旅順の攻撃で突撃する日本兵が「虫のように」殺されたと描いたとき司馬氏が、「国民」から人間としての尊厳を奪い、「臣民」として「勇敢な」白蟻のように戦うことを強いる大町桂月や徳富蘇峰の文章を考えていたことは間違いないだろうと私は考えています。

そのような蘇峰の『国民新聞』と対照的な姿勢を示したのが、子規が入社してからは俳句欄を創設していた新聞『日本』でした。(『新聞への思い』、190~191頁)。

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追記:安倍政権による「共謀罪」の危険性

小説家の盛田隆二氏(@product1954)はツイッターで「毎日新聞【230万人はどのように戦死したのか】は必読。どの戦場でも戦死者の6~8割が「餓死」という世界でも例がない惨状。日本軍の「ブラック企業」体質は70年前から現在に一直線に繋がっている」と書いています→

戦没者と餓死者(←画像をクリックで拡大できます)

このような悲惨な太平洋戦争にも「日本会議」系の論客が評価する言論人の徳富蘇峰が、『大正の青年と帝国の前途』(大正5)で、「教育勅語」を「国体教育主義を経典化した」ものと規定し、「君国の為めには、我が生命、財産、其他のあらゆるものを献ぐるの精神」の必要性を分かり易く解説していたことは繋がっていると思われます。

再び、悲劇を繰り返さないためにも稲田朋美・防衛相をはじめとして多くの閣僚たちが「教育勅語」を賛美している安倍政権による「共謀罪」を成立は阻止しなければなりません。

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『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(目次

→人文書館のHPに掲載された「ブックレビュー」、『新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」』

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)のブックレビューを転載

“未来への警鐘として”

子規の写生と方法、漱石の冷徹な現実批評の

精神を受け継いで伝える!

isbn978-4-903174-33-4_xl  装画:田主 誠/版画作品:『雲』

 人文書館のHP・ブックレビューのページに、大木昭男・桜美林大学名誉教授の書評の抜粋が掲載されましたので転載します。

(人文書館のHPより) → 新聞への思い 正岡子規と「坂の上の雲」

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                                           大木昭男

今年は作家司馬遼太郎(1923~96)の没後20周年にあたる。本書の著者、高橋誠一郎氏は、これまでに司馬遼太郎に関する多くの著書、論文を発表しており、今回は『坂の上の雲』を中心に、そこに登場する四国伊予松山出身の三人――陸軍騎兵の創始者となった秋山好古(1859~1930)、その弟で、海軍士官として活躍した秋山真之(1868~1918)、俳諧に革新をもたらした正岡子規(本名は常規、つねのり、1867~1902)――に焦点をあてて「開化期」の日本について、広範な資料を駆使して論述している。(中略)

本書では、松山出身の上記三人のうち、特に正岡子規の生涯が中心に据えられているので、その関連だけでも多数の人物との交友関係が紹介されている。そのうち特に興味ふかかったのは、子規と夏目漱石との関係である。(中略)

正岡子規と夏目漱石との交友は、1884(明治17)年に二人がともに東京大学予備門(のちの第一高等中学校)に入学した時点から始まる。……子規は此の頃記したエッセイにおいて、夏目金之助(漱石)を数ある朋友たちのうち、「畏友」として挙げている(『筆まかせ』の「交際」の章)。(中略)

漱石が子規から学んでいたこととして、著者、高橋氏が「『大和魂』を絶対化することの危険性」を指摘していることは、本書の眼目として重要な箇所である。それは、……自分の価値観を絶対化することの危険性の指摘である。このような子規の問題意識を最も強く受け継いでいる例として、著者は『吾輩は猫である』において描かれている第六話における苦沙弥先生の「大和魂」を揶揄的に連発する風刺的新体詩が挙げられている。その先、第十一話で漱石は、「子規さんとは御つき合でしたか」との東風君の問いに「なにつき合はなくつても始終無線電信で肝胆相照らして居たもんだ」と苦沙弥に応えさせる場面が紹介される。

「大和魂」を絶対化して「スローガン」のように用いることの危険性を、苦沙弥先生に語らせていた漱石の批判的指摘は、『坂の上の雲』の作者司馬遼太郎が言わんとしていることにつながっていく。すなわち、日本陸軍首脳部の「戦略的基盤や経済的基礎のうらづけのない、『必勝の信念』の鼓吹や『神州不滅』思想の宣伝、それに自殺戦術の賛美とその固定化という信じがたいほどの神秘哲学が、軍服を着た戦争指導者たちの基礎思想のようになってしまっていた」という考え方に。さらに、学徒兵として戦車隊に組み込まれた体験の持ち主である司馬氏が、『戦車・この憂鬱な乗り物』(1972)と題したエッセーで「戦車であればいいじゃないか。防御鋼板の薄さは大和魂でおぎなう」とした「参謀本部の思想」を厳しく批判していたことが指摘されている。

……高橋氏が本書を執筆するに到った動機のひとつは、『坂の上の雲』を賞賛する人だけでなく、批判する人の多くがこの小説では戦争が肯定的に描かれていると解釈していたことへの反発であったと思う。文学作品を評価する場合、作者の意図を正確に理解して読者大衆に伝えてゆく責務がある。『坂の上の雲』に描かれた日清・日露の戦争を、司馬は日本とロシアいずれの側にも偏することなく、出来うる限り歴史的事実に則して客観的に描いており、未来への警鐘とも受け止められる。その手法と歴史観は、子規の比較と写生の方法、漱石の冷徹な現実批評の精神を受け継いでいると見てよかろう。高橋氏の著書は、『坂の上の雲』で作者司馬遼太郎が日本国民に伝えようとした意図を豊富な資料を駆使して伝えている。

大木昭男(オオキ・テルオ、桜美林大学名誉教授、著書『漱石と「露西亜の小説」』など)

大木昭男著『ロシア最後の農村派作家――ワレンチン・ラスプーチンの文学』(群像社、 2015年)

『世界文学』(2016年、第123号、世界文学研究会編「Ⅳ 書評」より)学会誌 世界文学会ページ