高橋誠一郎 公式ホームページ

山路愛山

新刊『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機――北村透谷から島崎藤村へ』(目次)

(装丁:山田英春)

ISBN978-4-86520-031-7 C0098
四六判上製 本文縦組224頁
定価(本体2000円+税)
2019.02

→ http://www.seibunsha.net/books/ISBN978-4-86520-031-7.htm

〔青春時代に「憲法」を獲得した明治の文学者たちの視点で、「憲法」のない帝政ロシアで書かれ、権力と自由の問題に肉薄した『罪と罰』を読み解き、島崎藤村の『破戒』や『夜明け前』との関連に迫る。→  https://twitter.com/stakaha5/status/1087718612624764929

〔さらに、「教育勅語」渙発後の北村透谷たちの『文学界』と徳富蘇峰の『国民の友』との激しい論争などをとおして「立憲主義」が崩壊する過程を考察し、蘇峰の英雄観を受け継いだ小林秀雄の『罪と罰』論の危険性を明らかにする。→ https://twitter.com/stakaha5/status/1087720436148985856

 

目次

はじめに 危機の時代と文学――『罪と罰』の受容と解釈の変容   

 

第一章 「古代復帰の夢想」と「維新」という幻想――『夜明け前』を読み直す

はじめに 黒船来航の「うわさ」と「写生」という方法

一、幕末の「山林事件」と「古代復帰の夢想」

二、幕末の「神国思想」と「天誅」という名のテロ

三、裏切られた「革命」――「神武創業への復帰」と明治の「山林事件」

四、新政府の悪政と「国会開設」運動

五、「復古神道」の衰退と青山半蔵の狂死

 

第二章 一九世紀のグローバリズムと日露の近代化――ドストエフスキーと徳富蘇峰

はじめに 徳富蘇峰の『国民之友』と島崎藤村

一、人間の考察と「方法としての文学」

二、帝政ロシアの言論統制と『貧しき人々』の方法

三、「大改革」の時代と法制度の整備

四、ナポレオン三世の戦争観と英雄観

五、横井小楠の横死と徳富蘇峰

六、徳富蘇峰の『国民之友』とドストエフスキーの『時代』

 

第三章 透谷の『罪と罰』観と明治の「史観」論争――徳富蘇峰の影

はじめに 北村透谷と島崎藤村の出会いと死別

一、『罪と罰』の世界と北村透谷

二、「人生相渉論争」と「教育勅語」の渙発

三、「宗教と教育」論争と蘇峰の「忠君愛国」観

四、透谷の自殺とその反響

 

第四章 明治の『文学界』と『罪と罰』の受容の深化

はじめに 『文学界』と『国民之友』の廃刊と島崎藤村

一、樋口一葉と明治の『文学界』

二、『文学界』の蘇峰批判と徳冨蘆花

三、『罪と罰』における女性の描写と樋口一葉

四、正岡子規の文学観と島崎藤村――「虚構」という手法

五、日露戦争の時代と言論統制

 

第五章 『罪と罰』で『破戒』を読み解く――差別と「良心」の考察

はじめに 『罪と罰』の構造と『破戒』

一、「事実」の告白と隠蔽

二、郡視学と校長の教育観――「忠孝」についての演説と差別

三、丑松の父と猪子蓮太郎の価値観

四、「鬱蒼たる森林」の謎と植物学――ラズミーヒンと土屋銀之助の働き

五、「内部の生命」――政治家・高柳と瀬川丑松

六、『破戒』と『罪と罰』の結末

            

第六章 『罪と罰』の新解釈とよみがえる「神国思想」――徳富蘇峰から小林秀雄へ

はじめに 蘇峰の戦争観と文学観

一、漱石と鷗外の文学観と蘇峰の歴史観――『大正の青年と帝国の前途』

二、小林秀雄の『破戒』論と『罪と罰』論――「排除」という手法

三、小林秀雄の『夜明け前』論とよみがえる「神国思想」

四、書評『我が闘争』と『罪と罰』――「支配と服従」の考察

五、小林秀雄と堀田善衞――危機の時代と文学

あとがきに代えて   「明治維新」一五〇年と「立憲主義」の危機

初出一覧

参考文献

 

書評・紹介

(ご執筆頂いた方々に、この場をお借りして深く御礼申し上げます。)

‘19.07.20 書評 『世界文学』129号(大木昭男氏)

‘19.06.30 書評 「長瀬隆のホームページ」(長瀬隆氏)新著『「罪と罰」の受容と「立憲主義」の危機』に寄せて

‘19.04.06 書評 『図書新聞』04.13号(中山弘明氏)飛躍を恐れぬ闊達な「推論」の妙──「立憲主義」の孤塁を維持していく様相

      (成文社のHPより)

(2018年12月23日、改訂。2019年1月22日、カバーの写真を追加。2019年2月15日発行、7月29日、書評を追加)

『罪と罰』の受容と「憲法」の危機

              「ドストエーフスキイの会」第241回例会

『罪と罰』の受容と法制度と教育制度の考察――長編小説『破戒』を中心に

はじめに――『罪と罰』の受容と「憲法」の危機

慶応から明治に改元された1868年の4月に旧幕臣の子として生まれた内田魯庵(本名貢〔みつぎ〕、別号不知庵〔ふちあん〕)が、法学部の元学生を主人公とした長編小説『罪と罰』の英訳を読んで、「恰も広野に落雷に会って目眩き耳聾ひたるがごとき、今までに会って覚えない甚深な感動を与えられた」のは、「大日本帝国憲法」が発布された1889(明治22)年のことであった。

 『「罪と罰」をどう読むか〈ドストエフスキー読書会〉』(水声社、2016年)で紹介されているように、小林秀雄は「日本国憲法」の発布から1年後の1948年11月に発表した「『罪と罰』についてⅡ」で、魯庵のこの文章を引用して「読んだ人には皆覚えがある筈だ。いかにもこの作のもたらす感動は強い」と書いた。

この年の8月に湯川秀樹と対談「人間の進歩について」を行って原子力エネルギーの危険性を指摘していた小林秀雄のこの『罪と罰』論は、残虐な戦争と平和についての真摯な考察が反映されており、異様な迫力を持っている。

しかし、小林は「残念な事には誰も真面目に読み返そうとしないのである」と続けていたが、この長編小説ばかりでなくドストエフスキーの思想にも肉薄していた評論に北村透谷の「『罪と罰』の殺人罪」がある。明治元年に佐幕の旧小田原藩の士族の長男として生まれて苦学した北村透谷は、「憲法」が発布された年の10月に大隈重信に爆弾を投げた後に自害した来島や明治24年5月にロシア皇太子ニコライに斬りつけた津田巡査などに言及しながら、「来島某、津田某、等のいかに憐れむべき最後を為したるやを知るものは、『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥(しりぞ)くるやうの事なかるべし」と記していた。

題名が示しているようにこの評論にもドストエフスキーが長編小説で問題とした法律と罪の問題に真正面から迫ろうとする迫力がある。ただ、ここでは「大日本帝国憲法」が発布される朝に文部大臣の森有礼を襲った国粋主義者・西野文太郎についてはなぜかまったくふれられていないが、それは透谷がこの事件を軽く考えていたからではなく、むしろ検閲を強く意識してあえて省かねばならなかったほど大きな事件だったためと思われる。

翌月の『文学界』第2号に掲載された透谷の評論「人生に相渉(あいわた)るとは何の謂(いい)ぞ」は、その理由の一端を物語っているだろう。ここで透谷は頼山陽の歴史観を賛美した山路愛山の史論「頼襄(のぼる)を論ず」を次のような言葉で厳しく批判していた。

「反動は愛山生を載せて走れり。而して今や愛山生は反動を載せて走らんとす。彼は『史論』と名くる鉄槌を以て撃砕すべき目的を拡めて、頻(しき)りに純文学の領地を襲はんとす」(『北村透谷・山路愛山集』)。

愛山を「反動」と決めつけた文章の激しさには驚かされるが、それはキリスト教の伝道者でもあった友人の愛山がこの史論で「彼に因りて日本人は祖国の歴史を知れり」と書いて、頼山陽の「尊王攘夷思想」を讃えていたためだと思われる(277頁)。

愛山の史論が徳富蘇峰の雑誌に掲載されていたために、透谷の批判に対しては愛山だけでなく蘇峰も反論して、『国民之友』と明治の『文学界』をも巻き込んで「人生相渉論争」と呼ばれる論争が勃発した。

この論争については島崎藤村が明治時代の雑誌『文学界』の同人たちとの交友とともに、生活や論争の疲れが重なって自殺するに至る北村透谷の思索と苦悩を自伝的長編小説『春』で詳しく描いている。

ただ、そこでも注意深く直接的な言及は避けられているが、拙論〔北村透谷と島崎藤村――「教育勅語」の考察と社会観の深まり〕(『世界文学』No.125)で考察したように、この時期の透谷を苛立たせ苦しめていたのは、「教育勅語」の発布により、「大日本帝国憲法」の「立憲主義」の根幹が危うくなり始めていた当時の政治状況だったと思える。

すなわち、森有礼の暗殺後に総理大臣となった山県有朋は、かつての部下の芳川顕正を文部大臣に起用して、「親孝行や友達を大切にする」などの普遍的な道徳ばかりでなく、「天壌無窮」という『日本書紀』に記された用語を用いて、「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と説いた「教育勅語」を「憲法」が施行される前月の1890(明治23)年10月30日に発布させていたのである。

しかも、後年「軍人勅諭ノコトガ頭ニアル故ニ教育ニモ同様ノモノヲ得ンコトヲ望メリ」と山県有朋は回想しているが、「教育勅語」も「軍人勅諭」を入れる箱と同一の「黒塗御紋付箱」に入れられ、さらに「教育勅語」の末尾に記された天皇の署名にたいして職員生徒全員が順番に最敬礼をするという「身体的な強要」をも含んだ儀礼を伴うことが閣議で決定された。

すると約3ヶ月後の1月には第一高等中学校で行われた教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対してキリスト教の信者でもあった教員の内村鑑三が最敬礼をしなかったために、「不敬漢」という「レッテル」を貼られて退職を余儀なくされるという事件が起きた。

比較文明学者の山本新が指摘しているように、この「不敬事件」によって「国粋主義」が台頭することになり、ことに1935年の「天皇機関説事件」の後では「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっていることは」、「日本の国体の精華であって、万国に類例が無いのである」と強調されるようになる。この時期になると「教育勅語」の解釈はロシア思想史の研究者の高野雅之が、「ロシア版『教育勅語』」と呼んだ、「正教・専制・国民性」の「三位一体」を強調した1833年の「ウヴァーロフの通達」と酷似してくるといえよう。

一方、島崎藤村は北村透谷よりも4歳若いこともあり、内田魯庵訳の『罪と罰』についての書評や、『文学界』と『国民之友』などの間で繰り広げられた「人生相渉論争」には加わっていないが、長編小説『春』では「一週間ばかり実家へ行っていた夫人」から何をしていたのか尋ねられた青木駿一(北村透谷)に、「『俺は考えていたサ』と」答えさせ、さらにこう続けさせていた。

「『内田さんが訳した「罪と罰」の中にもあるよ』、銭とりにも出かけないで、一体何を為(し)ている、と下宿屋の婢(おんな)に聞かれた時、考えることを為ている、とあの主人公が言うところが有る。ああいうことを既に言つてる人が有るかと思うと驚くよ。考える事をしている……丁度俺のはあれなんだね』」(『春』二十三)。

日露戦争の直後に島崎藤村が自費出版した長編小説『破戒』については、高い評価とともに当初から『罪と罰』との類似が指摘されていたが(平野謙『島崎藤村』岩波現代文庫、31頁)、そのことは長編小説『破戒』の意義を減じるものではないだろう。

たとえば、井桁貞義氏は論文「『レ・ミゼラブル』『罪と罰』『破戒』」で、「『罪と罰』では『レ・ミゼラブル』とほぼ同一の人物システムを使いながら、当時のロシアが突き当たっていた社会的な問題点と、さらに精神的な問題を摘出している」と指摘するとともに、『罪と罰』と『破戒』の間にも同じような関係を見ている。

つまり、五千万人以上の死者を出した第二次世界大戦の終戦から間もない1951年に公開された映画《白痴》で、激戦地・沖縄で戦犯として死刑の宣告を受け、銃殺寸前に刑が取りやめになった「復員兵」を主人公としつつも、長編小説『白痴』の登場人物や筋を生かして、研究者や本場ロシアの監督たちから長編小説『白痴』の理念をよく伝えていると非常に高く評価された。『破戒』はそれと同じようなことを1906年に行っていたといえるだろう。

さらに、この長編小説『破戒』では明治維新に際して四民平等が唱えられて、明治4年には「穢多非人ノ称ヲ廃シ身分職業共平民同様トス」とされた「解放令」が出されていたにもかかわらず実質的には続いていた差別の問題が描かれていることはよく知られている。

しかし、藤村はここで北村透谷の理念を受け継ぐかのように、「教育勅語」と同じ明治23年10月に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた小学校教育の問題を、「郡視学の命令を上官の命令」と考えて、「軍隊風に児童を薫陶(くんたう)したい」と望んでいた校長と主人公・瀬川丑松との対立をとおして鋭く描きだしていた。

後に藤村が透谷を「彼は私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人の一人だ。そして私達のために、早くもいろいろな支度をして置いて呉れたやうな気がする」ときわめて高く評価していることを考えるならば、藤村が北村透谷が当時、直面していた問題を考察し続けていたことは確実だろう。

しかも、透谷が自殺した明治27年の5月から翌年の6月にかけては、帝政ロシアで農奴解放令が出された1861年1月から7月まで雑誌『時代』に連載された長編小説『虐げられた人々』の内田魯庵による訳が『損辱』という題名で『国民之友』に連載されていた。さらに、1904(明治37)年の4月には、『貧しき人々』のワルワーラの手記の部分が、「貧しき少女」という題名で瀬沼夏葉の訳により『文芸倶楽部』に掲載されていた。

福沢諭吉は自由民権運動が高まっていた1879(明治12)年に書いた『民情一新』で、ドストエフスキーが青春を過ごした西欧の「良書」や「雑誌新聞紙」を見るのを禁じただけでなく、学校の生徒を「兵学校の生徒」と見なしたニコライ一世の政治を「未曽有(みぞう)の専制」と断じていたが、「教育勅語」発布後の日本の教育制度などは急速に帝政ロシアの制度に似てきていた。

そのことを考慮するならば、島崎藤村が『破戒』を書く際に、「暗黒の30年」と呼ばれる時期に書かれた『貧しき人々』や、法律や裁判制度の改革も行われた「大改革」の時期に連載された『虐げられた人々』を視野に入れていたことは充分に考えられる。

さらに、俳人の正岡子規は当時、編集を任されていた新聞『小日本』に、日清戦争の直前に自殺した北村透谷の追悼文を掲載していたが、島崎藤村は日清戦争後の明治31年に正岡子規と会って新聞『日本』への入社についての相談をしていた。

ISBN978-4-903174-33-4_xl

その新聞『日本』に日露戦争の最中に『復活』の訳を掲載した内田魯庵は、「強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」との説明を載せていた。このような魯庵の記述には功利主義を主張した悪徳弁護士ルージンとの激しい論争が描かれていた『罪と罰』の理解が反映していると思われる。

一方、弟子の森田草平に宛てた手紙で長編小説『破戒』(明治39)を「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞した夏目漱石は、同じ年にやはり学校の教員を主人公とした『坊つちゃん』を書き、長編小説『春』(明治41年)の「最後の五六行は名文に候」と高浜虚子に書いた後で連載を始めた長編小説『三四郎』では自分と同世代の広田先生の深い考察を描き出していた。

それゆえ、今回の発表では「憲法」と「教育勅語」が発布された当時の時代状況や人間関係にも注意を払うとともに、北村透谷だけでなく正岡子規や夏目漱石の作品も視野に入れることで、「非凡人の思想」の危険性を明らかにした『罪と罰』と「差別思想」の問題点を示した『破戒』との深い関係を明らかにしたい。

そのことにより「改憲」だけでなく、「教育勅語」の復活さえも議論されるようになった現在の日本における『罪と罰』の意義に迫ることができるだろう。私自身は日本の近代文学の専門家ではないので、忌憚のないご批判や率直なご感想を頂ければ幸いである。

(2017年10月5日、改題と改訂)

北村透谷と内村鑑三の「不敬事件」――「教育勅語」とキリスト教の問題

『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書) で、宗教学者の島薗進氏は、「教育勅語」と「国家神道」のつながりをこう説明しています。

「教育勅語が発布された後は、学校での行事や集会を通じて、国家神道が国民自身の思想や生活に強く組み込まれていきました。いわば、『皇道』というものが、国民の心とからだの一部になっていったのです。/事実、この時期から、国家神道とそれを支持する人々によって、信教の自由、思想・良心の自由を脅かす事態がたびたび生じています。/たとえば、一八九一年に起きた内村鑑三不敬事件です」(108~109)。。

今回はその影響を明治期の『文学界』(1893~98)の精神的なリーダーであった北村透谷と徳富蘇峰の民友社との関係を通して考察することにします。

*   *   *

透谷が評論「『罪と罰』の殺人罪」において、「最暗黒の社会にいかにおそろしき魔力の潜むありて、学問はあり分別ある脳髄の中(なか)に、学問なく分別なきものすら企(くわだ)つることを躊躇(ためら)ふべきほどの悪事をたくらましめたるかを現はすは、蓋(けだ)しこの書の主眼なり」と書いたのは大日本国帝国憲法が発布されてから4年後の1893年のことでした。

この記述を初めて読んだ時には、長編小説『罪と罰』に対する理解力の深さに驚かされたのですが、この時代を調べるなかでこのような透谷の言葉は単に彼の鋭い理解力を示すものではなく、権力者の横暴を制止するために「憲法」や「国会」の開設を求める厳しい流れの中での苦しい体験と考察の結果でもあったことが分かりました。

ことに注目したいのは、明治憲法の翌年に渙発された「教育勅語」の渙発とその影響です。たとえば、1891年1月には第一高等中学校教員であった内村鑑三が、教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対して敬礼はしたが最敬礼をしなかったために、「国賊」「不敬漢」という「レッテル」を貼られて退職を余儀なくされたといういわゆる不敬事件がおきていたのです。

しかも、ドイツ留学から帰国して東京帝国大学の文学部哲学科教授に任ぜられ『勅語衍義(えんぎ)』を出版していた井上哲次郎は、1893年4月に『教育ト宗教ノ衝突』を著して、改めて内村鑑三の行動を例に挙げながらキリスト教を、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」とした「教育勅語」の「国家主義」に反する反国体的宗教として激しく非難しました。それに対しては本多庸一、横井時雄、植村正久などのキリスト者が反論をしましたが、ことに高橋五郎は徳富蘇峰の民友社から発行した『排偽哲学論』で、これらの人々の反論にもふれながら、「人を不孝不忠不義の大罪人と讒誣するは決して軽き事にあらず」として、比較宗教の視点から井上の所論を「偽哲学」と鋭く反駁していました。

しかし、比較文明学者の山本新が位置づけているように「不敬事件」として騒がれ、これを契機に「大量の棄教現象」を生みだすという結末をむかえたこの事件は「国粋主義」台頭のきっかけとなり、北村透谷もその流れに巻き込まれていくことになるのです。

すなわち、北村透谷は「井上博士と基督教徒」でこのことにも触れながら次のように記しています。少し読みづらいかもしれませんが、原文をそのまま引用しておきます(269~270)。

「『教育ト宗教ノ衝突』一篇世に出でゝ宗教界は忽ち雲雷を駆り来り、平素沈着をもて聞えたる人々までも口を極めて博士を論難するを見る。…中略…彼れ果して曲学者流の筆を弄せしか。夫れ或は然らん。然れども吾人は井上博士の衷情を察せざるを得ず。彼は大学にあり、彼は政府の雇人(こじん)なり、学者としての舞台は広からずして雇人としての舞台は甚だ窮屈なるものなることを察せざるべからず」。

ここで透谷はキリスト教徒としての自分の立場を堂々と主張しておらず、議論を避けているような観もあります。しかし、「思へば御気の毒の事なり」と書いた透谷は、「爰に至りて却て憶ふ、天下学者を礼せざるの甚しきを、而して学者も亦た自らを重んぜざること爰に至るかを思ふて、嘆息なき能はず」と結んでいました。公務員として「国家」の立場を強調する井上博士への批判はきわめて厳しい批判を秘めていると感じます。

実際、1892年には、『特命全権大使 米欧回覧実記』を編集していた帝国大学教授久米邦武が『史学雑誌』に載せた学術論文「神道ハ祭典ノ古俗」が批判されて職を辞していましたが、35年後の1927年には今度は井上が『我が国体と国民道徳』で書いた「三種の神器」に関する記述などが不敬にあたると批判されて、その本が発禁処分となったばかりでなく、自身も公職を辞職することになるのです。

この問題は「文章即ち事業なり」と冒頭で宣言し、「もし世を益せずんば空の空なるのみ。文章は事実なるがゆえに崇むべし」と続けて、頼山陽を高く評価した山路愛山の史論「頼襄(のぼる)を論ず」(明治二十六年一月)を厳しく批判した「人生に相渉るとは何の謂ぞ」(『文学界』第2号)にも通じていると思われます。

この文の冒頭で、「繊巧細弱なる文学は端なく江湖の嫌厭を招きて、異(あや)しきまでに反動の勢力を現はし来りぬ」と記した透谷は、その後で「反動は愛山生を載せて走れり。而して今や愛山生は反動を載せて走らんとす。彼は『史論』と名くる鉄槌を以て撃砕すべき目的を拡めて、頻(しき)りに純文学の領地を襲はんとす」と非常に激しい言辞を連ねていたのです。

キリスト教を「教育勅語」の「国家主義」に反する反国体的宗教として厳しく断じた著書に対する反論として書かれた「井上博士と基督教徒」は、激しさを抑えるような文体で書かかれていたので、この文章を読んだときには、その激しさに驚かされました。

しかし、愛山が民友社の『国民新聞』記者であったばかりでなく、キリスト教メソジスト派の雑誌『護教』の主筆として健筆をふるい、その合間には熱心に伝道活動をも行っていたことを考えるならば、「彼に因りて日本人は祖国の歴史を知れり。日本人は日本国の何物たるかを知れり。日本国の万国に勝れたる所以を知れり」と頼山陽の事業を讃えた愛山が、「天下の人心俄然(がぜん)として覚め、尊皇攘夷の声四海に遍(あまね)かりしもの、奚(いづくん)ぞ知らん彼が教訓の結果に非るを。嗚呼(あゝ)是れ頼襄の事業也」と結んでいることに怒りと強い危機感を覚えたのだと思えます。

実際、「尊皇攘夷」という儒教的な理念を唱えた愛山の史論は、日清戦争前に書いた初版の『吉田松陰』では、松陰が「無謀の攘夷論者」ではなく開国論者だったことを強調していながら、日露戦争後に著した「乃木希典の要請と校閲による」改訂版の『吉田松陰』では、「彼は実に膨張的帝国論者の先駆者なり」と位置づけることになる徳富蘇峰の変貌をも予告していたとさえいえるでしょう。

しかも、「教育勅語」の渙発によって変貌を余儀なくさせられたのは、キリスト者だけではありませんでした。宗教学者の島薗氏は先の書で「天理教も、その教義の内容が行政やマスコミ、地域住民、宗教界から批判を受け、教義の中に国家神道の装いを組み込まざるを得ませんでした」と指摘していたのです。