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北村透谷

北村透谷と内村鑑三の「不敬事件」――「教育勅語」とキリスト教の問題

『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(集英社新書) で、宗教学者の島薗進氏は、「教育勅語」と「国家神道」のつながりをこう説明しています。

「教育勅語が発布された後は、学校での行事や集会を通じて、国家神道が国民自身の思想や生活に強く組み込まれていきました。いわば、『皇道』というものが、国民の心とからだの一部になっていったのです。/事実、この時期から、国家神道とそれを支持する人々によって、信教の自由、思想・良心の自由を脅かす事態がたびたび生じています。/たとえば、一八九一年に起きた内村鑑三不敬事件です」(108~109)。。

今回はその影響を明治期の『文学界』(1893~98)の精神的なリーダーであった北村透谷と徳富蘇峰の民友社との関係を通して考察することにします。

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透谷が評論「『罪と罰』の殺人罪」において、「最暗黒の社会にいかにおそろしき魔力の潜むありて、学問はあり分別ある脳髄の中(なか)に、学問なく分別なきものすら企(くわだ)つることを躊躇(ためら)ふべきほどの悪事をたくらましめたるかを現はすは、蓋(けだ)しこの書の主眼なり」と書いたのは大日本国帝国憲法が発布されてから4年後の1893年のことでした。

この記述を初めて読んだ時には、長編小説『罪と罰』に対する理解力の深さに驚かされたのですが、この時代を調べるなかでこのような透谷の言葉は単に彼の鋭い理解力を示すものではなく、権力者の横暴を制止するために「憲法」や「国会」の開設を求める厳しい流れの中での苦しい体験と考察の結果でもあったことが分かりました。

ことに注目したいのは、明治憲法の翌年に渙発された「教育勅語」の渙発とその影響です。たとえば、1891年1月には第一高等中学校教員であった内村鑑三が、教育勅語奉読式において天皇親筆の署名に対して敬礼はしたが最敬礼をしなかったために、「国賊」「不敬漢」という「レッテル」を貼られて退職を余儀なくされたといういわゆる不敬事件がおきていたのです。

しかも、ドイツ留学から帰国して東京帝国大学の文学部哲学科教授に任ぜられ『勅語衍義(えんぎ)』を出版していた井上哲次郎は、1893年4月に『教育ト宗教ノ衝突』を著して、改めて内村鑑三の行動を例に挙げながらキリスト教を、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」とした「教育勅語」の「国家主義」に反する反国体的宗教として激しく非難しました。それに対しては本多庸一、横井時雄、植村正久などのキリスト者が反論をしましたが、ことに高橋五郎は徳富蘇峰の民友社から発行した『排偽哲学論』で、これらの人々の反論にもふれながら、「人を不孝不忠不義の大罪人と讒誣するは決して軽き事にあらず」として、比較宗教の視点から井上の所論を「偽哲学」と鋭く反駁していました。

しかし、比較文明学者の山本新が位置づけているように「不敬事件」として騒がれ、これを契機に「大量の棄教現象」を生みだすという結末をむかえたこの事件は「国粋主義」台頭のきっかけとなり、北村透谷もその流れに巻き込まれていくことになるのです。

すなわち、北村透谷は「井上博士と基督教徒」でこのことにも触れながら次のように記しています。少し読みづらいかもしれませんが、原文をそのまま引用しておきます(269~270)。

「『教育ト宗教ノ衝突』一篇世に出でゝ宗教界は忽ち雲雷を駆り来り、平素沈着をもて聞えたる人々までも口を極めて博士を論難するを見る。…中略…彼れ果して曲学者流の筆を弄せしか。夫れ或は然らん。然れども吾人は井上博士の衷情を察せざるを得ず。彼は大学にあり、彼は政府の雇人(こじん)なり、学者としての舞台は広からずして雇人としての舞台は甚だ窮屈なるものなることを察せざるべからず」。

ここで透谷はキリスト教徒としての自分の立場を堂々と主張しておらず、議論を避けているような観もあります。しかし、「思へば御気の毒の事なり」と書いた透谷は、「爰に至りて却て憶ふ、天下学者を礼せざるの甚しきを、而して学者も亦た自らを重んぜざること爰に至るかを思ふて、嘆息なき能はず」と結んでいました。公務員として「国家」の立場を強調する井上博士への批判はきわめて厳しい批判を秘めていると感じます。

実際、1892年には、『特命全権大使 米欧回覧実記』を編集していた帝国大学教授久米邦武が『史学雑誌』に載せた学術論文「神道ハ祭典ノ古俗」が批判されて職を辞していましたが、35年後の1927年には今度は井上が『我が国体と国民道徳』で書いた「三種の神器」に関する記述などが不敬にあたると批判されて、その本が発禁処分となったばかりでなく、自身も公職を辞職することになるのです。

この問題は「文章即ち事業なり」と冒頭で宣言し、「もし世を益せずんば空の空なるのみ。文章は事実なるがゆえに崇むべし」と続けて、頼山陽を高く評価した山路愛山の史論「頼襄(のぼる)を論ず」(明治二十六年一月)を厳しく批判した「人生に相渉るとは何の謂ぞ」(『文学界』第2号)にも通じていると思われます。

この文の冒頭で、「繊巧細弱なる文学は端なく江湖の嫌厭を招きて、異(あや)しきまでに反動の勢力を現はし来りぬ」と記した透谷は、その後で「反動は愛山生を載せて走れり。而して今や愛山生は反動を載せて走らんとす。彼は『史論』と名くる鉄槌を以て撃砕すべき目的を拡めて、頻(しき)りに純文学の領地を襲はんとす」と非常に激しい言辞を連ねていたのです。

キリスト教を「教育勅語」の「国家主義」に反する反国体的宗教として厳しく断じた著書に対する反論として書かれた「井上博士と基督教徒」は、激しさを抑えるような文体で書かかれていたので、この文章を読んだときには、その激しさに驚かされました。

しかし、愛山が民友社の『国民新聞』記者であったばかりでなく、キリスト教メソジスト派の雑誌『護教』の主筆として健筆をふるい、その合間には熱心に伝道活動をも行っていたことを考えるならば、「彼に因りて日本人は祖国の歴史を知れり。日本人は日本国の何物たるかを知れり。日本国の万国に勝れたる所以を知れり」と頼山陽の事業を讃えた愛山が、「天下の人心俄然(がぜん)として覚め、尊皇攘夷の声四海に遍(あまね)かりしもの、奚(いづくん)ぞ知らん彼が教訓の結果に非るを。嗚呼(あゝ)是れ頼襄の事業也」と結んでいることに怒りと強い危機感を覚えたのだと思えます。

実際、「尊皇攘夷」という儒教的な理念を唱えた愛山の史論は、日清戦争前に書いた初版の『吉田松陰』では、松陰が「無謀の攘夷論者」ではなく開国論者だったことを強調していながら、日露戦争後に著した「乃木希典の要請と校閲による」改訂版の『吉田松陰』では、「彼は実に膨張的帝国論者の先駆者なり」と位置づけることになる徳富蘇峰の変貌をも予告していたとさえいえるでしょう。

しかも、「教育勅語」の渙発によって変貌を余儀なくさせられたのは、キリスト者だけではありませんでした。宗教学者の島薗氏は先の書で「天理教も、その教義の内容が行政やマスコミ、地域住民、宗教界から批判を受け、教義の中に国家神道の装いを組み込まざるを得ませんでした」と指摘していたのです。

安倍政権の政治手法と日露の「教育勅語」の類似性

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安倍政権の強引な政治手法からは、「憲法」のなかったニコライ1世治下の「暗黒の30年」との類似性を痛感します。

2007年に発行した『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』(成文社)では、ニコライ1世の時代に出されたロシア版「教育勅語」の問題と厳しい検閲下で『貧しき人々』などの小説をとおして言論の自由の必要性を主張した若きドストエフスキーの創作活動との関係を考察していました。

前著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)では、ロシア版「教育勅語」と日本の「教育勅語」の類似性についても詳しく考察しました。

ロシア思想史の研究者の高野雅之氏は、「正教・専制・国民性」の「三位一体」を強調した「ウヴァーロフの通達」を「ロシア版『教育勅語』」と呼んでいますが、注目したいのは一九三七年には文部省から発行された『國體の本義』の「解説叢書」の一冊として教学局から出版された『我が風土・國民性と文學』と題する小冊子では、「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっていることは」、「日本の国体の精華であって、万国に類例が無いのである」と強調されていたことです。

この「敬神・忠君・愛国の三精神が一になっている」という文言は、「正教・専制・国民性」の「三位一体」による「愛国主義的な」教育を求めたウヴァーロフの通告を強く連想させます。「教育勅語」が渙発された後の日本は、教育システムの面ではロシア帝国の政策に近づいていたといえるでしょう。(註――「教育勅語」と帝政ロシアの「ウヴァーロフの通達」だけでなく、清国の「聖諭廣訓」との類似性については高橋『新聞への思い』人文書館、2015年、106~108頁参照)。

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現在は新たな著書の執筆にかかっていますが、「憲法停止状態」とも言える状態から脱出するためにも、もう一度北村透谷や島崎藤村などの著作をとおして、「教育勅語」の影響を具体的に分析したいと考えています。

若きドストエフスキーを「憲法」のない帝政ロシアの自由民権論者として捉え直すとき、北村透谷や島崎藤村など明治の『文学界』同人たちによる『罪と罰』の深い受容の意味が明らかになると思えます。

「教育勅語」の問題を再考察する際にたいへん参考になったのが、リツイートで紹介した中島岳志氏と島薗進氏の『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』と樋口陽一氏と小林節氏の『「憲法改正」の真実』(ともに集英社新書)でした。

それらの著書を読む中で「教育勅語」の問題が「明治憲法」の変質や現在の「改憲」の問題とも深く絡んでいたことを改めて確認することができました。それらについてはいずれ参考になった箇所を中心に詳しく紹介することで、島崎藤村が『夜明け前』で描いた幕末から明治初期の時代についても考えてみたいと思います。

(2017年2月22日、図版と註を追加し、題名を改題)

樋口一葉における『罪と罰』の受容(2)――「十三夜」をめぐって

一葉の研究者である和田芳恵氏は、樋口一葉の婚約者だった渋谷三郎の兄で郵便局長だった渋谷仙二郎の家に、石阪昌孝を最高指導者とする自由民権運動の結社の事務所が置かれていたことを指摘しています(「樋口一葉 明治女流文学入門」『日本現代文学全集』第10巻)。

和田氏は一葉と渋谷三郎が会ったのが、大阪事件のあった明治18年で、この頃に三郎が自由民権運動から離脱していたことにもふれています。北村透谷の研究者には、よく知られていることと思われますが、一葉の経歴と透谷には、石阪昌孝という接点があったのです。

まだ奈津と結婚をするという覚悟の出来ていなかった三郎は、その後去っていったのですが、和田氏は顕真術者・久佐賀義孝に面会した後で一葉が記した激しい言葉に、「はじめて知ったころの、自由党の壮士渋谷三郎」との関わりを見ています。

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樋口一葉が小説「十三夜」で描いたお関と『罪と罰』のドゥーニャとの簡単な比較は、「絆とアイデンティティ」という教養科目で用いた教科書『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』で行っていました。ここではそこでの考察を踏まえてもう少し掘り下げてみたいと思います。

研究者の菅聡子氏は「『十三夜』の闇」と題した章の冒頭で、こう記しています。

「『にごりえ』のお力が制度外の女性であったのに対して、『十三夜』で一葉が描いたのは、まさしく制度内の女--斎藤家の娘、原田の妻、太郎の母--としてのお関の姿であった」、「制度内の、あるいは家庭の中の女性にとって、〈娘・妻・母〉という制度内の役割以外の生は存在しないのだろうか」(『樋口一葉 われは女なりけるものを』NHK出版)。

正月の羽子板の羽が奏任官の原田の車に落ちるという偶然の出会いで原田勇に見初められ、身分の不釣り合いを超えて原田家に嫁いだお関は、初めの頃はちやほやされていたのですが、息子の太郎を出産した後は、教育のないことなどをさげすまれて、辛い毎日を送るようになっていたのです。

離婚を決意して戻ってきた娘の訴えを聞いた父親は、「お前が口に出さんとて親も察しる弟も察しる」と慰めるのですが、離縁という選択肢はほとんどありませんでした。このことについいて菅氏はこう説明しています。

「お関の父・斎藤主計(かずえ)は没落した士族であるらしい。その斎藤家の復興の望みが託されているのは、次期家長である亥之助(いのすけ)である。昼は勤めに出、夜は夜学に通う亥之助の、将来の立身出世がかなうか否かに斎藤家の将来もかかっているのだ。この彼の将来にとって、『奏任官』原田の力は絶大である」。

こうして一葉は「十三夜」で、勉強熱心な弟・亥之助や置いてきた幼い一人息子の太郎のことを持ち出されて説得され、「私の身体は今夜をはじめに勇のもの」と再び戻る決心をしたお関の苦悩を描き出していたのです。

このような「十三夜」の内容を詳しく知るとき、『罪と罰』で描かれているラスコーリニコフの妹・ドゥーニャの重い決心の理由もよく理解できるでしょう。

『罪と罰』で描かれることになる事件の発端は、ラスコーリニコフが母親からの手紙で、ドゥーニャが近くペテルブルクに事務所を開く予定の弁護士ルージンと婚約したことを知ったことにありました。

兄に送金するために「家庭教師として住みこむとき、百ルーブリというお金を前借り」していたドゥーニャは、雇用者のスヴィドリガイロフから言い寄られても、「この借金の片がつくまでは、勤めをやめるわけに」いかなかったのです。最初は、夫が誘惑されたと思い込んだ妻のマルファは悪い噂を広めたのですが、後にドゥーニャの潔白を知って、年配とはいえ立身出世していた自分の遠縁のルージンを結婚相手として紹介したのです。

ドゥーニャが婚約に至るまでのこのようないきさつを手紙で詳しく記した母のプリヘーリヤは、息子にやがてルージンの「共同経営者にもなれるのじゃないか、おまけにちょうどお前が法学部に籍を置いていることでもあるしと、将来の設計まで作っています」と書き、ドゥーニャについて「あの子が、おまえをかぎりもなく、自分自身よりも愛していることを知ってください」と書いた後で、「おまえは私たちにとってすべてです」と続けていました。

ここで注目したいのは、「十三夜」のお関の夫・原田が「明治憲法下の高等官の一種で、高等官三等から八等に相当する職とされていた」奏任官(そうにんかん)であったと記されていることです。弁護士のルージンも七等文官であると記されていますが、ロシアの官等制度のもとでは八等官になると世襲貴族になれたので、日本の制度に当てはめれば奏任官と呼べるような地位だったのです。

長編小説『罪と罰』の構成の見事さは、マルメラードフの家族の悲劇をきちんと具体的に描くことで、家族を養うために売春婦に身を落としたソーニャの苦悩をとおして、兄の立身出世のために中年の弁護士ルージンとの愛のない結婚を決意したラスコーリニコフの妹ドゥーニャの苦悩をも浮かび上がらせているにあると思います。

小説「にごりえ」でお力におぼれて長屋住いの土方の手伝いに落ちぶれた源七だけでなく、「自ら道楽者」と名乗る裕福な上客・結城朝之助も描いていた樋口一葉は、「十三夜」でも原田家に戻る途中のお関と「小綺麗な煙草屋の一人息子」であったが、おちぶれて「もっとも下層の職業の一つとされた」人力車夫に落ちぶれていた高坂録之助との出会いも描くことで、小説の世界に広がりを与えていたのです。

リンク→正岡子規の小説観――長編小説『春』と樋口一葉の「たけくらべ」

リンク→樋口一葉における『罪と罰』の受容(1)――「にごりえ」をめぐって

正岡子規と島崎藤村の出会い――「事実」を描く方法としての「虚構」

Bungakukai(Meiji)

(『文学界』創刊号の表紙。図版は「ウィキペディア」より)

フランス文学者の寺田透は「明治二十七年の句を通読して驚嘆させられるのは、…中略…子規の好奇心に満ちた多様性といふことである」と書いていましたが、寺田が指摘した明治27(1894)年には正岡子規が編集主任に抜擢されていた家庭向けの新聞『小日本』第74号に次のような追悼記事が掲載されました。

「北村透谷子逝く 文学界記者として当今の超然的詩人として明治青年文壇の一方に異彩を放ちし透谷北村門太郎氏去る十五日払暁に乗し遂に羽化して穢土の人界を脱すと惜(をし)いかな氏年未だ三十に上(のぼ)らずあたら人世過半の春秋を草頭の露に残して空しく未来の志を棺の内に収め了(おは)んぬる事嗟々(あゝ)エマルソンは実に氏が此世のかたみなりけり、芝山の雨暗うして杜鵑(ほとゝとぎす)血に叫ぶの際氏が幽魂何処(いづこ)にか迷はん」。

『「小日本」と正岡子規』の「解説」で浅岡邦男氏はこの追悼文が子規によって書かれていた可能性が高いと記しています。たしかに、詩人の透谷が『文学界』の記者でもあったことに注意を促しながら、「遂に羽化して穢土の人界を脱す」と記し、子規の号でもある「ほととぎす」という単語を用いて「芝山の雨暗うして杜鵑(ほとゝとぎす)血に叫ぶ」とも記されているこの追悼文が、子規の文章である可能性はきわめて高いと思われます。

しかも、この年には子規が1892年に書き上げていた小説「月の都」が新聞『小日本』に連載されていましたが、透谷も同じ1892年の10月に『国民の友』に発表した評論「他界に対する観念」で、「物語時代の『竹取』、謡曲時代の『羽衣』、この二篇に勝(まさ)りて我邦文学の他界に対する美妙の観念を代表する者はあらず」と書き、「人界の汚濁を厭(いと)ふ」て、「共(とも)に帰るところは月宮なり」(200)と記していたのです。

さらに透谷の「罪と罰(内田不知庵譯)」(1892)には「嘗()つてユーゴ(ママ)のミゼレハル(ママ)、銀器(ぎんき)を盜(ぬす)む一條(いちじょう)を讀()みし時(とき)に其(その)精緻(せいち)に驚(おどろ)きし事(こと)ありし」という記述がありますが、正岡子規も全集で4頁ほどですが、ジャン・ヴァルジャンがミリエル僧正を殺そうとした際に、月の光に照らされた僧正の微笑を見て、殺害を止めるという「良心」の重要性が示唆されている重要な箇所の短い部分訳をしていたのです。

それゆえ、北村透谷の追悼文が子規によって書かれていた可能性が高いとの記述を見つけたときは、子規と透谷との文学観の類似性にたいへん昂奮しました。

それは子規が文学作品における「虚構」という方法についても理解していることを示唆していると思えたからでした。つまり、すぐれた文学作品における「虚構」は、読者を昂奮させる「でたらめ」ではなく、むしろドストエフスキー作品に現れているように、なかなか見えにくい「事実」を明らかにするための方法といえるでしょう。

しかも日露戦争直後の1906年に長編小説『破戒』を自費出版することになる島崎藤村は、正岡子規と1897年に会って新聞『日本』への入社についての相談をしたばかりでなく、子規の小説「花枕」についての感想も述べていたのです。

その藤村は1908年には長編小説『春』で、1893年1月に星野天知らと『文学界』~1898年1月)を創刊してその精神的な指導者となった北村透谷との友情やその死について描くことになります。

病身にもかかわらず木曽路の山道から美濃路へと徒歩で旅し、新聞『日本』に連載された紀行文「かけはしの記」を「信濃なる木曾の旅路を人問はゞ/ たゞ白雲のたつとこたへよ」という歌で結んでいた子規と、「木曾路(きそじ)はすべて山のなかである。…中略…一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた」という印象的な文章で始まる長編小説『夜明け前』を書くことになる島崎藤村との出会いは日本の近代文学にとってもきわめて重要だったと思われます。

それゆえ、二人の出会いの光景を想像した時には、透谷の自殺から芥川龍之介の自殺に至る厳しい日本の近代文学史が走馬燈のように浮かんでくるような感慨に打たれたのです。

「物質への情熱」と「好奇心に満ちた多様性」――寺田透の小林秀雄観(3)

Ⅰ、「物質への情熱」――小林秀雄の正岡子規論

小林秀雄に正岡子規の「歌よみに与ふる書」を論じたエッセイ「物質への情熱」があります(『小林秀雄全集』第一巻)。

この冒頭で「正岡子規に『歌よみに与ふる書』といふ文章がある事は誰でも知つてゐる。そのかたくなに、生ま生ましい、強靱な調子を、私は大変愛するのだが」と記した小林秀雄は、「読んでゐて、病床に切歯する彼の姿と、へろへろ歌よみ共の顔とが、並んで髣髴と浮んで来るには少々参るのだ」と続けていました。

さらに、「惟ふに正岡子規は、日本詩人稀れにみる論理的な実証的な精神を持つた天才であつた」と記した小林秀雄は、「どんな大きな情熱も情熱のない人を動かす事は出来ないのかも知れない。子規の言葉は理論ではない、発音された言語である」との理解を示していました。

ただ、このエッセイに戸惑いを覚えたのは、冒頭近くで正岡子規の主張に対しては「到底歌よみ共には合点が行かぬと私は思ふ。少くとも子規が難詰したい歌よみ共には通じまいと思ふ」と書き、「『歌よみに与ふる書』は真実の語り難いのを嘆じた書状である。果して他人(ひと)を説得する事が出来るものであらうか」とも記した小林が次のように続けていたことです。

「詩人は美しいものを歌ふ楽な人種ではない。在るものはたゞ現実だけで、現実に肉薄する為に美しさを頼りとしなければならぬのが詩人である。女に肉薄するのに惚れるといふ事を頼りにするのが絶対に必要な様なものである」。

Ⅱ、「歌よみに与ふる書」と『坂の上の雲』

正岡子規が新聞『日本』に掲載した「歌よみに与ふる書」については、司馬氏も長編小説『坂の上の雲』でふれています。私はこの箇所こそが『坂の上の雲』の中核となっていると考えています。

リンク→子規の「歌よみに与ふる書」と真之――「かきがら」を捨てるということ

なぜならば、『坂の上の雲』単行本の第4巻のあとがきでは、「当時の日本人というものの能力を考えてみたいというのがこの作品の主題だが、こういう主題ではやはり小説になりにくい」と記し、その理由としてこのような小説は「事実に拘束される」が、「官修の『日露戦史』においてすべて都合のわるいことは隠蔽」されていると記されています。このような「事実」の隠蔽に対する怒りが、膨大な時間をかけつつ自分で戦史を調べてこの長編小説を書かせていたのだと思えるのです。

一方、よく知られているように、小林秀雄は敗戦後の1946年に戦前の発言について問い質されると「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」と啖呵を切っていました。

しかし、1948年に行われた物理学者の湯川秀樹博士との対談では、「原子力エネルギー」を産み出した「高度に発達した技術」の問題を「道義心」の視点から厳しく指摘した小林は、原発の推進が「国策」となるとその危険性を「黙過」したのです。

それゆえ、俳人・正岡子規を中心に司馬氏の『坂の上の雲』を読み解こうとしていた私は、福島第一原子力発電所の大事故がまだ収束していないにもかかわらず、「アンダーコントロール」と宣言し、自然環境を軽視した政治が行われるようになった日本をみながら、「事実をきちんと見る」ためには「評論の神様とも言われる」文芸評論家・小林秀雄の方法をきちんと問い直さなければならないと痛感したのです。

Ⅲ、「好奇心に満ちた多様性」――寺田透の正岡子規観

注目したいのは、小林秀雄が正岡子規論に「物質への情熱」という題名を付けたことに強い違和感を記していた寺田透が、『子規全集』第二巻に「従軍発病とその前後」という題の「解説」を書き、そこで子規の「多様性」に注意を促していることです。

「明治二十七年の句を通読して驚嘆させられるのは、無論これは全部についても言へることだが、子規の多産であり、その病軀にもかかはらぬ健康であり、さらにこれが江戸時代の俳句と子規のそれを区別するもつとも明瞭なことだが、子規の好奇心に満ちた多様性といふことである。」

ここで言及されている明治27年には、日清戦争が勃発し、この翌年に子規は病身をおして従軍記者となるのですが、この時期についてはこのHPの「正岡子規・夏目漱石関連簡易年表」を引用することによって、この時期と子規との関連を簡単に説明しておきます。

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1894(明治27) 子規、2月、上根岸82番地(羯南宅東隣)へ転居。2月11日『「小日本』創刊、編集責任者となり、月給30円。小説「月の都」を創刊号より3月1日まで連載。3月 挿絵画家として浅井忠より中村不折を紹介される。5月、北村透谷の自殺についての記事を書く。7月、『小日本』廃刊により『日本』に戻る。7月29日、清国軍を攻撃。8月1日、清国に宣戦布告。9月黄海海戦で勝利、11月、旅順を占領。

1895(明治28) 子規、3月、日清戦争への従軍許可がおりる。4月10日、宇品出港、近衛連隊つき記者として金州・旅順をまわる。金州で従弟・藤野潔(古白)のピストル自殺を知る。「陣中日記」を『日本』に連載。5月4日、金州で森鴎外を訪問。17日、帰国途上船中で喀血。23日、県立神戸病院に入院、一時重態に陥る。7月23日、須磨保養院へ移る。8月20日、退院。8月27日、松山中学教員夏目金之助の下宿「愚陀仏庵」に移る。」

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日本にとってばかりでなく、子規にとってもたいへんな年であったことが分かりますが、「たとへば次の新年の句二句すら、題材が富士であり筑波であるにもかかはらず、陳腐さより、時代の新しさを感じさせる」とし、〈ほのほの(原文ではくりかえし記号)と茜の中や今朝の不二〉と〈白し青し相生の筑波けさの春〉の二句を紹介した寺田は、こう記しています。

「これらの句からは、藩境などといふもののなくなつた国土を、自由に走つて行ける眼と心の喜びと言つたものが直覚されるといふことは言はずにゐられない。」

そして、子規が独身であるにも関わらず、〈古妻のいきたなしとや初鴉〉という「虚構」を記した句も書いていることを注目した寺田は、「この春には春雨の題で、〈春雨のわれまぼろしに近き身ぞ〉/深々として不気味な句を作者は作つた」ことを紹介して、「これも、誰もまだ作ることのできなかつた句だと言へよう」と子規の句の「多様性」に注意を促していました。

さらに、〈あちら向き古足袋さして居る妻よ〉という句を評して、「この明るさは、現実に縛られず、その上に別種の世界をくりひろげる空想のそれだといふことである」とも寺田は書いていました。

子規に関していろいろな著書を調べていた際に、最も刺激を受けた子規論の一つが「虚構」をも許容する子規の「多様性」を指摘した寺田透のこの「解説」だったのです。

「歌は事実をよまなければならない。その事実は写生でなければならない」との持論を展開した子規には、「虚構」をも許容する「多様性」があったという寺田の指摘は非常に重要だと思えます。

なぜならば、1908年に長編小説『春』で、北村透谷との友情やその死について描くことになる島崎藤村(1872~1943)は、北村透谷(1868~1894)の追悼記事を書いた可能性の高い子規と1897年に会って新聞『日本』への入社についての相談をしたばかりでなく、子規の小説『花枕』についての感想も述べていたのです。

子規が小説「曼珠沙華」で部落民に対する差別の問題をも描いていることを考えるならば、後に長編小説『破戒』を書くことになる藤村が子規と会っていたことの意味は大きいでしょう。

リンク→正岡子規と島崎藤村の出会い――「事実」を描く方法としての「虚構」

(2016年2月3日。〈「事実をよむ」ことと「虚構」という方法〉より改題し、大幅に改訂)

 

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なぜ今、『罪と罰』か(9)――ユゴーの『レ・ミゼラブル』から『罪と罰』へ

前回はまず、『罪と罰』で「法律」の問題を深く考察することになるドストエフスキーが、言論の自由がほとんどなかったニコライ一世の時代に、第一作『貧しき人々』で「教育制度」の問題を深く考察していたばかりでなく、裁判のテーマも取り上げていたことに注意を促しました。

その後で文芸評論家の小林秀雄が『貧しき人々』など前期の作品をほとんど論じていないことや、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注――ラスコーリニコフ)には現れぬ」と解釈したことの問題点を指摘しました。

*   *   *

コゼット

(少女・コゼットの絵、ユーグ版より。図版は「ウィキペディア」より)

一時期、熱心に読んでいた小林秀雄のドストエフスキー論に疑問を抱くきっかけになった一因は、フランス文学者にもかかわらず、小林氏がシェストフには言及する一方で、『罪と罰』や『白痴』を書く際にドストエフスキーが強く意識していたユゴーの『レ・ミゼラブル』については、ほとんど沈黙していたことにもあると思われます。

『白痴』のムィシキンについて、「使嗾する神ムイシキン! けっして皮肉な読みではありません。ムイシキンは完全に無力どころか、世界の破滅をみちびく役どころを演じなくてはならない」と記した亀山郁夫氏も、戦後、実証的な研究がなされて、ドストエフスキーの『レ・ミゼラブル』観についても、多くの文献が出ていたにもかかわらず、このことにはまったく言及していません。

ドストエフスキーの『レ・ミゼラブル』観を著名な二人がまったく無視していたのは、その発言に言及することは自分の解釈を根底から崩すことになる危険性があることを察知していたためだろうと私は考えています。

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実は、初めてのヨーロッパへの旅行で1862年に出版されたばかりのこの作品をフィレンツェで手に入れたドストエフスキーは、街の見学も忘れて読みふけっていました。

そして、兄ミハイルとともに発行した雑誌『時代』の9月号に掲載された『ノートルダム・ド・パリ』の翻訳の序文でドストエフスキーは、「(ユゴーの)思想は十九世紀のあらゆる芸術の根本的な思想」であると高く評価し、それは「状況や数世紀にもわたる停滞、社会的偏見の圧迫によって不当に押しつぶされた者、滅亡した者の復興」であると説明し、「ユゴーはこうした〈復活〉のイデアの我らの世紀の文学において最も重要な伝道者である」と記していたのです。

さらに、結婚後に出発したヨーロッパ旅行の際に『レ・ミゼラブル』を読んだ妻のアンナは、夫が「この作品をとても高く評価していて、楽しみながら何度も読み返して」いたばかりでなく、「この作品に描かれた人物たちの性格のいろんな面を私に指摘し、説明してくれた」と日記に記していました。

このようなアンナ夫人の記述に従うならば、このときドストエフスキーは主人公のジャン・ヴァルジャンだけでなく、裕福な学生の恋人から身重の身で捨てられ、娘を育てるために自分の豊かな髪や歯などを徐々に売って、ついには売春婦にまで身を落とすことになったファンティーヌの悲劇やその娘コゼットについても妻に語っていたと思われるのです。

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注目したいのは、明治時代の評論家・北村透谷が評論「『罪と罰』の殺人罪」(1893年)において、「最暗黒の社会にいかにおそろしき魔力の潜むありて、学問はあり分別ある脳髄の中(なか)に、学問なく分別なきものすら企(くわだ)つることを躊躇(ためら)うべきほどの悪事をたくらましめたるかを現はすは、蓋(けだ)しこの書の主眼なり」と書いていたことです。

この記述を初めて読んだ時には、「憲法」がなく言論の自由も厳しく制限されていた帝政ロシアで書かれた長編小説『罪と罰』に対する理解力の深さに驚かされたのですが、透谷とその時代を調べるうちに、このような透谷の言葉は単に彼の鋭い理解力を示すものではなく、権力者の横暴を制止するために「憲法」や「国会」の開設を求める厳しい流れの中での苦しい体験と考察の結果でもあったことが分かりました。

実は、自由民権運動に対する厳しい圧迫が続く中で、民権運動が下火になった状況下で過激化した大井憲太郎らのグループが、朝鮮での独立運動を支援するために、強盗をして資金を得ようとした際に、透谷も友人の大矢正夫から参加を求められていたのです。

しかし透谷は、「目的」を達するためとはいえ、強盗のような「手段」を取ることには賛成できずに、苦悩の末、頭を剃り盟友と決別し、その後、ユゴーのごとき文学者となろうとしていました。

このような透谷の思いは、「罪と罰(内田不知庵譯)」(1892年)における「嘗(か)つてユーゴ(ママ)のミゼレハル(ママ)、銀器(ぎんき)を盜(ぬす)む一條(いちじょう)を讀(よ)みし時(とき)に其(その)精緻(せいち)に驚(おどろ)きし事(こと)ありし」という記述にも現れています。

その透谷の追悼記事を新聞『小日本』に書いた可能性の高い俳人の正岡子規も全集で4頁ほどですが、ジャン・ヴァルジャンがミリエル僧正を殺そうとした際に、月の光に照らされた僧正の微笑を見て、殺害を止めるという「良心」の重要性が示唆されている重要な箇所の短い部分訳をしていました。

しかも、1897年に子規と会った作家の佐藤紅緑(こうろく)は、ミリエル僧正の逸話に強い関心を示していた子規が、物騒であるとは感じつつもミリエル僧正にならって人が入ってくることができるように「裏木戸の通行を禁止」せずに、そのままにしてもいると語っていたことを証言しています。

このことは俳人の正岡子規も『レ・ミゼラブル』において核心ともいえる重要な役割を果たしていた「良心」の問題を深く認識していたことを示していると思えます。

なぜならば、透谷よりも1年前に松山で生まれた子規も、自由民権運動が盛んな頃に政治への関心を強めて1882年の12月には北予青年演説会で演説し、翌年の1月には「国会」と「黒塊」とを重ねて国会の意義を訴える「天将ニ黒塊ヲ現ハサントス」という演説を行っていたからです。

そして、それを校長から咎められたことで松山中学を退学し、上京して東京帝国大学に入学した子規は、北村透谷が雑誌『平和』を創刊した年の12月1日に東京帝国大学を中退して新聞『日本』に入社していました。

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作家の司馬遼太郎氏は夏目漱石の長編小説『三四郎』について、「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と記し、「明治後、東京そのものが、欧米の文明を受容する装置になった。…中略…下部(地方や下級学校)にそれを配るという配電盤の役割を果たした」と指摘しています(『本郷界隈』)。

そして、1872年にできた「司法職務定制」により、「弁護士の前身といえる」「代言人という職と機能が」成立したことを指摘した司馬氏は、1881年に明治大学の前身である明治法律学校が出来たのをはじめ、英吉利法律学校(後の中央大学)や日本法律学校(後の日本大学)が次々と設立されていることに注意を促し、「明治は駆けながら法をつくり、法を教える時代」だったと記しているのです。

この説明は『三四郎』の社会的背景だけでなく、名門サンクト・ペテルブルク大学の法学部を中退したラスコーリニコフを主人公とした『罪と罰』の社会的背景をも説明し得ていると思えます。

母親のプリヘーリヤは手紙の中で、妹のドゥーニャが首都に法律事務所を開こうとしている弁護士ルージンと結婚すれば、ラスコーリニコフもやがて法律事務所の「共同経営者にもなれるのじゃないか、おまけにちょうどお前が法学部に籍を置いていることでもあるしと、将来の設計まで作っています」と書いていました。

ロシアの官等制度のもとでは八等官になると世襲貴族になれたので、この意味においては貧しい境遇から七等文官にまで独力で出世したルージンは、ラスコーリニコフの輝かしい未来像の一つだったはずでもあったのです。

しかし、ドストエフスキーは首都に法律事務所を開こうとしていたルージンが、「いろいろな新しい傾向とか、改革とか、新思想とか」を見るためには、「やっぱりペテルブルクにいなければなりません」と述べたことを、ラズミーヒンに「科学、文化、思索、発明」などの知識がロシアの知識人にはまだまだ未熟でありながら、それなのに「他人の知識でお茶をにごすのが楽でいいものだから、すっかりそれになれっこになってしまった」と鋭く批判させています。

このような彼の批判は、明治末期の1911年に「内発的」ではない日本の開化を厳しく批判した漱石の「現代日本の開化」という講演ときわめて似ているように私には思えるのです。

リンク→日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって

  (続く)

 

追記: 〈『罪と罰』における「良心」をめぐる劇〉と題した次回の考察で、このシリーズをひとまず終える予定です。

ただ、このシリーズも思いがけず長いものとなりましたので、次のブログ記事には〈「なぜ今、『罪と罰』か」関連記事一覧〉を掲載します。

また、小林秀雄のドストエフスキー観の問題点については、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』で詳しく考察しましたが、私は司馬遼太郎氏も実は小林秀雄の厳しい批判者の一人だったのではないかと考えています。

それゆえ、次回の考察を行う前に〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉と題した評論を「主な研究」に掲載することにしたいと思います。

なお、このシリーズでは詳しい引用文献などは示しません。拙著『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』(刀水書房、2002年)や『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、2011年)などの注に記した文献を参照して頂ければ幸いです。

 

なぜ今、『罪と罰』か(6)――教育制度の問題と長編小説『破戒』

先ほど前回の記事に青字の箇所を追加しましたが、「なぜ今、『罪と罰』か(5)」ではまず、近代的な法体系を持っている国家では、権力者が行う不正を監視するためにも、個人の「良心」が重要視されてきたことを確認しました。

しかし、皇帝が絶対的な権力を握る帝政ロシアでは公平な裁判が行われないことが多かったことに注意を促して、法学部で学んでいたラスコーリニコフが自分の「良心」によって、「悪人」を裁くという「犯罪」に踏み切った遠因は、そのような裁判の状況に彼が深く失望していたであろうことを指摘しました。

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ただ、『罪と罰』における「良心」の構造については、もう少し後で詳しく見ることにして、ここでは島崎藤村(1872~1943)の長編小説『破戒』において教育制度の問題の問題がどのように考察されているかを確認するとともに、『貧しき人々』における教育制度や裁判制度の考察にもふれておきたいと思います。

なぜならば、『罪と罰』では主人公を法学部の学生と設定することで、ドストエフスキーは法律や正義の問題に鋭く踏み込んだ分析をしていましたが、藤村もこの長編小説の主人公を師範学校の卒業生を主人公とすることで、当時の日本の教育制度の問題を深く考察していたからです。

夏目漱石が弟子の森田草平に宛てた手紙で「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞したこの長編小説『破戒』が、ドストエフスキーの『罪と罰』から強い影響を受けていることは多くの批評家から指摘されています(平野謙『島崎藤村』岩波文庫、2001年参照)。

たとえば、批評家の木村毅は「それより私は、この英訳『罪と罰』を半ばも読み進まぬうちに、重大な発見をした。かつて愛読した藤村の『破戒』は、この作の換骨奪胎というよりも、むしろ結構は、『罪と罰』のしき写しと云っていいほど、酷似している」とさえ書いているのです(太字は引用者、「日本翻訳史概観」『明治翻訳文學集』、昭和47年、筑摩書房)。

しかし、主人公を沖縄戦の後で死刑を間違って宣告された日本人の「復員兵」に代え、舞台を北海道に移し替えた黒澤監督の映画《白痴》は、日本ではあまりヒットしなかったものの、日本の研究者や本場ロシアの研究者や映画監督からは、長編小説『白痴』の理念をよく伝えていると非常に高く評価されています。その筋や登場人物の人物体系には、『罪と罰』からの影響が強く見られるものの長編小説『破戒』も、『罪と罰』を踏まえて当時の日本の現実を見事に描き出していました。

それゆえ、木村毅も先の文章に続けて「『破戒』が日露戦争後の文壇を近代的に、自然主義の方向へと大きく旋回させた功は否めず、それはつまり、ドストイエフスキイの『罪と罰』の価値の大きさを今更のように見直すことになった」と書いていたのです。

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1908年に長編小説『春』で、文芸評論家の北村透谷(1868~1894)との友情やその死について描いていた島崎藤村は、透谷について「彼は私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人の一人だ。そして私達のために、早くもいろいろな支度をして置いて呉れたやうな気がする」と書いていました。そのことを想起するならば、透谷の評論「井上博士と基督教徒」も『破戒』を理解するうえでもきわめて重要だといえると思えます。

この評論は井上哲次郎・東京帝国大学哲学科教授が、「教育勅語」奉読式において天皇親筆の署名に対して敬礼はしたが最敬礼をしなかったために、「不敬」とされて退職を余儀なくされていた内村鑑三を例に挙げながらキリスト教を「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」とした「教育勅語」の「国家主義」に反する反国体的宗教として激しく非難したことに対する反論として書かれ、透谷はここで、学問的な見地からではなく「政府の雇人(こじん)」として発言した井上博士の方法を批判していたのです。

島崎藤村も長編小説『破戒』で、差別された主人公の心理的な苦しみや葛藤を詳しく描き出していたばかりでなく、「教育勅語」の渙発と同じ明治23年10月に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた小学校教育の問題をも鋭く描いていました。

すなわち、第2章で郡視学と町会議員たちによる授業の視察を描いた藤村はここで、「功績表彰の文字を彫刻した名誉の金牌(きんぱい)を授与された」校長が、「郡視学の命令を上官の命令」と考えていたばかりでなく、「軍隊風に児童を薫陶(くんたう)したい」と考えていたことに注意を促していました(太字は引用者)。

その校長が生徒たちから慕われていた主人公の瀬川丑松(うしまつ)や土屋銀之助などの教員をうとましく思い、郡視学の甥の若い教員・勝野文平を使ってなんとか丑松を別の学校に追い出したいと考えたことから事件が勃発することになるのです。

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すなわち、金牌を授与されたお祝いに、「今晩三浦屋迄御出(おいで)を願へませうか。郡視学さんも、何卒(どうか)まあ是非御同道を」と議員たちが校長を誘ったと描き、「賢いと言はれる教育者は、いづれも町会議員なぞに結托して、位置の堅固を計るのが普通だ」と記した藤村は、その後で二人きりになった際の郡視学と校長の会話を次のように描写していました。

(郡視学)『吾党の中から受賞者を出したのは名誉さ。君の御喜悦(およろこび)も御察し申す』

(校長)『勝野君も非常に喜んで呉れましてね。』

(郡視学)『甥(をひ)がですか、あゝ左様(さう)でしたらう。…中略…実際、甥は貴方の為を思つて居るのですからな。』

そして藤村は、「郡視学が甥と言つたのは、検定試験を受けて、合格して、此頃新しく赴任して来た正教員。勝野文平といふのが其男の名である。割合に新参の校長は文平を引立てゝ、自分の味方に附けようとした」書いていたのです。

(続く)

 

「講座  『坂の上の雲』の時代と『罪と罰』の受容」を「新着情報」のページに掲載

リンク→講座 『坂の上の雲』の時代と『罪と罰』の受容

  3月4日に標記の題名で<世田谷文学館友の会>の講座を行うことになりましたので、講座のリード文と日時などを「おしらせ」123号より、「新着情報」のページに転載しました。

<世田谷文学館友の会>の講座では、これまでにも、2013年2月19日に「『草枕』で司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を読み解く」という題名で、2014年6月27日には、「新聞記者・正岡子規と夏目漱石――『坂の上の雲』をとおして」という題名でお話しする機会を頂きました。

今年は「憲法」のない帝政ロシアで1866年に書かれたドストエフスキーの『罪と罰』が発表されてから150年に当たり、スペインのグラナダで『罪と罰』をメインテーマとした国際学会(IDS)が開催されます。

それゆえ、今回の講座では新聞『日本』の記者でもあった正岡子規と夏目漱石や島崎藤村との関係などに注目しながら、評論「『罪と罰』の殺人罪」(1893年)を書いた北村透谷を主人公の一人とした藤村の『春』や日露戦争直後に上梓された『破戒』などとその時代を分析することにより、『罪と罰』が日本の近代文学に与えた深い影響と現代的な意義についてお話したいと考えています。

(参考図書:高橋『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年)。