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島崎藤村

〈樋口一葉と『罪と罰』〉関連記事一覧

〈樋口一葉と『罪と罰』〉の関連記事一覧を、ブログと「主な研究」の「タイトル一覧Ⅱ」に掲載します。

正岡子規と島崎藤村の出会い――「事実」を描く方法としての「虚構」

 正岡子規の小説観――長編小説『春』と樋口一葉の「たけくらべ」

樋口一葉における『罪と罰』の受容(1)――「にごりえ」をめぐって

樋口一葉における『罪と罰』の受容(2)――「十三夜」をめぐって

樋口一葉における『罪と罰』の受容(3)――「われから」をめぐって

樋口一葉における『罪と罰』の受容(1)――「にごりえ」をめぐって

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映画《にごりえ》(今井正監督、1953年)*1。図版は「ウィキペディア」より。

前回は島崎藤村が長編小説『春』において樋口一葉と『文学界』同人たちとの関係をどのように描いていたかを見ましたが、北村透谷の『罪と罰』観の一端は、「一週間ばかり実家へ行っていた夫人」からその時期に何をしていたのかを尋ねられた青木(透谷)の答えをとおして描かれています。すなわち青木に『俺は考へて居たサ』と答えさせた藤村は、さらにこう続けていました。

「『内田さんが訳した「罪と罰」の中にもあるよ、銭とりにも出かけないで、一体何をして居る、と下宿屋の婢に聞かれた時、考へることをして居る、その主人公が言ふところが有る。ああいふ事を既に言つてる人があるかと思ふと驚くよ。考へる事をしてゐる……丁度俺のはあれなんだね。』」(『春』二十三)。

注で示した資料では同人たちによるドストエフスキーの作品やトルストイの『戦争と平和』、さらにユゴーの『レ・ミゼラブル』やエマーソンの論文などの翻訳を挙げることにより、内田魯庵の『罪と罰』訳やこの雑誌の精神的な指導者であった透谷の『罪と罰』論がいかに大きな影響を同人たちに与えていたかを確認しました。

リンク→正岡子規の小説観――長編小説『春』と樋口一葉の「たけくらべ」

比較文明学的な視点からの分析は、北村透谷の場合などを論じた「日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって」という論文で行っていましたが、ここでは比較文学論の視点から「樋口一葉における『罪と罰』の受容」についてもきちんと考察しておきたいと思います。

*   *   *

近代日本文学の研究者・平岡敏夫氏は論文〈「にごりえ」と『罪と罰』――透谷の評にふれて〉において、「この『罪と罰』が日本近代文学に及ぼした影響については、まだまだ言い尽くされているとは言いがたい。 その一例が樋口一葉の場合である」と記し、「奇跡の十四か月といわれる期間に」一葉はなぜこのような作品を生み出し得たのかと問い、「この〈奇跡〉はドストエフスキー『罪と罰』の影響抜きには考えられないというのが私などの立場である」と主張していました(『北村透谷――没後百年のメルクマール』、おうふう, 2009年)。

銘酒屋「菊の井」の人気酌婦・お力が、彼女におぼれて長屋住いの土方の手伝いに落ちぶれた元ふとん屋の源七に殺されるという「夕暮れの惨劇」を描いた小説「にごりえ」は、母親による男児殺しを描いた透谷の「鬼心非鬼心」と『罪と罰』における老婆殺しの影響を受けているとの見解を示した平岡氏は、マルメラードフ夫婦と源七夫婦との比較をした研究も紹介しています*2。

注目したいのは、その後で氏が「お力が、突然ラスコーリニコフ的歩行をするところに、この作品の深さと面白さがある」と書いた秋山駿氏の考察の重要性を指摘していることです。

「お力は一散に家を出て、行かれる物ならこのままに唐天竺《からてんぢく》の果までも行つてしまいたい、ああ嫌だ嫌だ嫌だ、どうしたなら人の声も聞えない物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない処《ところ》へ行《ゆ》かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、何時《いつ》まで私は止められてゐるのかしら、これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だと道端の立木へ夢中に寄かかつて暫時《しばらく》そこに立どまれば、渡るにや怕し渡らねばと自分の謳ひし声をそのまま何処ともなく響いて来るに、仕方がないやつぱり私も丸木橋をば渡らずはなるまい(以下略)」

この文章を引用した秋山駿氏は「主人公が自分の心を直視しながら歩く。一葉がよくもこんなラスコーリニコフ的歩行の場面を採用したものだ」と感心するとともに、さらにこの後の文章も引用して「マルメラードフの繰り言」との類似や「身投げなど思うお力にはソーニャの面影がある」とも書いていることも指摘していたのです(『私小説という人生』新潮社)。

平岡氏が「一葉がことに翻訳小説が好きで、不知庵の『罪と罰』を借したときは、たいへんに悦び、くり返しくり返し数度読んだと『文学界』の同人戸川残花が語っている」ことにも言及していることに留意するならば、社会の底辺で生きる人々を描いた一葉の小説と『罪と罰』との類似性は明らかでしょう。

さらに木村真佐幸氏が「一葉”奇跡の十四ヶ月の要因」と題した章で*3、1894年に顕真術者・久佐賀義孝に面会して「一身をいけにえにして相場ということをやってみたい、教え給えと哀願」した一葉の言葉には「鬼気迫る壮絶観がある」と記していることを紹介した平岡氏はこう続けています。

「ラスコーリニコフと金貸しの老婆の存在、一葉と一葉が借金を申し込む久佐賀の存在とは、ある種の相似がありはしないか」。

 

*1 映画《にごりえ》は、「十三夜」「大つごもり」と「にごりえ」の3編を原作とした文学座・新世紀映画社製作、松竹配給のオムニバス映画。

*2 銘酒屋とは飲み屋を装いながら、ひそかに私娼を抱えて売春した店。

*3 木村真佐幸『樋口一葉と現代』翰林書房。

(続く)

リンク→日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって

正岡子規の小説観――長編小説『春』と樋口一葉の「たけくらべ」

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(樋口一葉の肖像。図版は「ウィキペディア」より)

 

前回は〈正岡子規と島崎藤村の出会い――「事実」を描く方法としての「虚構」〉という記事を書きました。

そこでは1894(明治27)年に新聞『小日本』に掲載された北村透谷の追悼記事が正岡子規によって書かれていた可能性が高いことを確認するとともに、後に長編小説『春』で、北村透谷との友情やその死について描くことになる島崎藤村と子規との出会いの意味についても考えてみました。

長編小説『春』で描かれているのは、明治女学校を辞めた藤村(小説では岸本捨吉)が放浪から戻った1893(明治26)年の夏より、仙台の東北学院の赴任が決まって出発する1896(明治29)年の8月末までの時期で、1893年1月に創刊された『文学界』の同人たちとの交友も記されています。

注目したいのは、1893年3月に発表した「雪の日」から、「琴の音」、「花ごもり」、「やみ夜」「大つごもり」、そして「たけくらべ」など複数の作品を『文学界』に掲載していた樋口一葉(1872~96年。小説では堤姉妹の姉)の家庭についても次のように描かれていることです。

「『どうだね、これから堤さんの許(ところ)へ出掛けて見ないか。足立君も行ってるかも知れないよ』/こう菅が言出した。」

「そこには堤姉妹が年老いた母親にかしずいて、侘(わび)しい、風雅な女暮しをしていた。いずれも苦労した、談話(はなし)の面白い人達であったが、殊(こと)に姉は和歌から小説に入って、既に一家を成していた。この人を世に紹介したのは連中の雑誌で、日頃親しくするところから、よく市川や足立や菅がその家を訪ねたものである*」(百九)。

*   *   *

よく知られているように、森鷗外は7回にわたり連載された「たけくらべ」が1896年4月に『文芸倶楽部』に一括掲載されると、『めさまし草』の「三人冗語」で「吾はたとへ世の人に一葉崇拝の嘲を受けむまでも、此人に誠の詩人といふ称を惜しまざるなり」と一葉を称賛しました。

森鴎外と深い交友のあった正岡子規も、新聞『日本』に1896(明治29)年に連載していた随筆「松蘿玉液」(しょうらぎょくえき)の5月4日の回で「たけくらべ」を高く評価するのですが、注目したいのはその前段の「小説」という項目を次のように書き始めていたことです。

「文学者として小説を読めば世に小説程つまらぬ者はあらず、先ず劈頭(へきとう)より文章がたるみたり言葉が拙しとそれにのみ気を取られ、」「吾れ従来小説が好きながら小説を読むことは稀なり」としながらも、最後を「あれこれと読みもて行けばここに一物あり」と結んでいるのです。

そして、次の段で「たけくらべ といふ」と書き始めた子規は、「汚穢(おわい)山の如き中より一もとの花を摘み来りて清香を南風に散ずれば人皆其香に酔ふて泥の如しと」続けていました。

さらに「一行を読めば一行に驚き一回を読めば一回に驚きぬ。…中略…西鶴を学んで佶屈(きつくつ)に失せず平易なる言語を以て此緊密の文を為すもの未だ其の比を見ず。…中略…或は笑ひ或は怒り或は泣き或は黙する処に於て終始嬌痴(きようち)を離れざるは作者の技倆を見るに足る」と記した子規は、「一葉何者ぞ」と記していたのです。

1894年の末に「大つごもり」を発表してから「奇跡の十四か月」と言われる期間に「にごりえ」「十三夜」や「われから」など多くの佳作を残して、樋口一葉は1896年の11月に結核で亡くなるのですが、「松蘿玉液」における子規の記述は今もその意義を失っていないと思えます。

なお、島崎藤村の長編小説『春』には、内田魯庵の『罪と罰』訳のこともでてくるので、稿を改めて、次回は樋口一葉と『罪と罰』との関わりを簡単に考察することにします。

 

*注、足立のモデルは馬場孤蝶(1869-1940)、菅は戸川秋骨(1870 – 1939)、そして、市川は平田禿木(とくぼく、1873 – 1943)で、いずれも多くの翻訳書がある英文学者である。この雑誌たちの傾向を知る上でも興味深いので、以下に内田魯庵および『文学界』同人が1917年までに翻訳した作品の一部を掲載する。[]内は現代の題名。

内田魯庵:『罪と罰』内田老鶴圃、1892~93年、『損辱』[虐げられし人々]、『国民之友』、1894年5月~95年6月/『馬鹿者イワン』[イワンの馬鹿]、『学鐙』1902年/『復活』、新聞『日本』1905年4月5日-12月22日

馬場孤蝶(足立):「小児の心」[ネートチカ・ネズワーノワ]『明星』、1908年10月/「博徒」[賭博者]『明星』、1908年 11月/『戦争と平和』泰西名著文庫、1914年。

戸川秋骨(菅):ツルゲーネフ『猟人日記』(共訳・重訳)1909年/ 『エマーソン論文集』上下、玄黄社、1911-12年/ユゴー『哀史』(ああ無情)[レ・ミゼラブル]、泰西名著文庫、1915-16年。

 平田禿木(市川):サッカレー『虚栄の市』、国民文庫刊行会、1914–15年/『エマアソン全集 第1- 5巻』、国民文庫刊行会、1917年/デフォー『新譯ロビンソン漂流記』、冨山房、1917年。

注は井桁貞義・本間暁編『ドストエフスキイ文献年表・解説』(『ドストエフスキイ文献集成』第22巻、1996年7月、大空社)、榊原貴教編「ドストエフスキイ翻訳作品年表」デジタル版、および「ウィキペディア」などを参照して作成。

正岡子規と島崎藤村の出会い――「事実」を描く方法としての「虚構」

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(『文学界』創刊号の表紙。図版は「ウィキペディア」より)

フランス文学者の寺田透は「明治二十七年の句を通読して驚嘆させられるのは、…中略…子規の好奇心に満ちた多様性といふことである」と書いていましたが、寺田が指摘した明治27(1894)年には正岡子規が編集主任に抜擢されていた家庭向けの新聞『小日本』第74号に次のような追悼記事が掲載されました。

「北村透谷子逝く 文学界記者として当今の超然的詩人として明治青年文壇の一方に異彩を放ちし透谷北村門太郎氏去る十五日払暁に乗し遂に羽化して穢土の人界を脱すと惜(をし)いかな氏年未だ三十に上(のぼ)らずあたら人世過半の春秋を草頭の露に残して空しく未来の志を棺の内に収め了(おは)んぬる事嗟々(あゝ)エマルソンは実に氏が此世のかたみなりけり、芝山の雨暗うして杜鵑(ほとゝとぎす)血に叫ぶの際氏が幽魂何処(いづこ)にか迷はん」。

『「小日本」と正岡子規』の「解説」で浅岡邦男氏はこの追悼文が子規によって書かれていた可能性が高いと記しています。たしかに、詩人の透谷が『文学界』の記者でもあったことに注意を促しながら、「遂に羽化して穢土の人界を脱す」と記し、子規の号でもある「ほととぎす」という単語を用いて「芝山の雨暗うして杜鵑(ほとゝとぎす)血に叫ぶ」とも記されているこの追悼文が、子規の文章である可能性はきわめて高いと思われます。

しかも、この年には子規が1892年に書き上げていた小説「月の都」が新聞『小日本』に連載されていましたが、透谷も同じ1892年の10月に『国民の友』に発表した評論「他界に対する観念」で、「物語時代の『竹取』、謡曲時代の『羽衣』、この二篇に勝(まさ)りて我邦文学の他界に対する美妙の観念を代表する者はあらず」と書き、「人界の汚濁を厭(いと)ふ」て、「共(とも)に帰るところは月宮なり」(200)と記していたのです。

さらに透谷の「罪と罰(内田不知庵譯)」(1892)には「嘗()つてユーゴ(ママ)のミゼレハル(ママ)、銀器(ぎんき)を盜(ぬす)む一條(いちじょう)を讀()みし時(とき)に其(その)精緻(せいち)に驚(おどろ)きし事(こと)ありし」という記述がありますが、正岡子規も全集で4頁ほどですが、ジャン・ヴァルジャンがミリエル僧正を殺そうとした際に、月の光に照らされた僧正の微笑を見て、殺害を止めるという「良心」の重要性が示唆されている重要な箇所の短い部分訳をしていたのです。

それゆえ、北村透谷の追悼文が子規によって書かれていた可能性が高いとの記述を見つけたときは、子規と透谷との文学観の類似性にたいへん昂奮しました。

それは子規が文学作品における「虚構」という方法についても理解していることを示唆していると思えたからでした。つまり、すぐれた文学作品における「虚構」は、読者を昂奮させる「でたらめ」ではなく、むしろドストエフスキー作品に現れているように、なかなか見えにくい「事実」を明らかにするための方法といえるでしょう。

しかも日露戦争直後の1906年に長編小説『破戒』を自費出版することになる島崎藤村は、正岡子規と1897年に会って新聞『日本』への入社についての相談をしたばかりでなく、子規の小説「花枕」についての感想も述べていたのです。

その藤村は1908年には長編小説『春』で、1893年1月に星野天知らと『文学界』~1898年1月)を創刊してその精神的な指導者となった北村透谷との友情やその死について描くことになります。

病身にもかかわらず木曽路の山道から美濃路へと徒歩で旅し、新聞『日本』に連載された紀行文「かけはしの記」を「信濃なる木曾の旅路を人問はゞ/ たゞ白雲のたつとこたへよ」という歌で結んでいた子規と、「木曾路(きそじ)はすべて山のなかである。…中略…一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた」という印象的な文章で始まる長編小説『夜明け前』を書くことになる島崎藤村との出会いは日本の近代文学にとってもきわめて重要だったと思われます。

それゆえ、二人の出会いの光景を想像した時には、透谷の自殺から芥川龍之介の自殺に至る厳しい日本の近代文学史が走馬燈のように浮かんでくるような感慨に打たれたのです。

なぜ今、『罪と罰』か(8)――長編小説『破戒』における教育制度の考察と『貧しき人々』

前回は校長が「教育勅語」に記された「忠孝」の理念を強調する一方で、「憲法」に記された「四民平等」の理念にもかかわらず差別的な考えを持っていたことや、郡視学の甥・勝野文平がつかんだ情報を用いて丑松を学校から放逐しようとしていたことを確認しました。

*   *   *

『破戒』で日本における差別の問題を取り上げた藤村は、その一方で「人種の偏執といふことが無いものなら、『キシネフ』(引用者注――キシニョフ、キシナウとも記される。モルドバ共和国の首都。1903年にポグロムが起きた)で殺される猶太人(ユダヤじん)もなからうし、西洋で言囃(いひはや)す黄禍の説もなからう」とも記して、国際的な状況にも注意を促していました(第1章第4節)。

この意味で注目したいのは、若きドストエフスキーが言論の自由がほとんどなく「暗黒の30年」と呼ばれるニコライ一世の時代に、第一作『貧しき人々』で、女主人公ワルワーラの「手記」において「権力者としての教師」の問題や寄宿学校における教師による「体罰」や友達からの「いじめ」という差別に深くかかわる問題を描いていたばかりでなく、裁判のテーマも取り上げていたことです。

*   *   *

田舎で育ったために学校生活にまったく慣れていなかったワルワーラが学校生活の寂しさから、最初のうちは予習もできなかったために、怒りっぽかった女の先生たちから、「教室の隅っこに膝をついて坐らされ、食事も一皿しか貰えない」というような罰を受けたのです。

このような体罰の問題については、『死の家の記録』(1860~62)でより深く考察されることになるのですが、すでにドストエフスキーは『貧しき人々』で、田舎育ちで学校生活に慣れなかったワルワーラを、教師たちが学習の進度を邪魔する「できない子」として体罰を与えるとき、「教室」という一種の「閉ざされた空間」において「いじめ」の問題が発生することを描いていました。

「ワルワーラの手記」では、そのことが次のように記されています。「女生徒たちはあたくしのことを笑ったり、からかったり、あたくしが質問に答えていると横から口をはさんでまごつかせたり、みんなでいっしょに並んで昼食やお茶にいくときにはつねったり、なんでもないことを舎監の先生に告げ口したりするのでした」。

級友たちも「秩序」の受動的な破壊者である「できない子」を批判することで、「権力」を持つ教師に気に入られようとし始めるのです。ワルワーラは「一晩じゅう校長先生や女の先生や友だちの姿が夢にあらわれ」たと書いていますが、それは学校の日常生活の中で次第に追いつめられた彼女の心理状態をもあらわしているでしょう。

しかも、『貧しき人々』の構造で注目したいのは、プーシキンの作品に出会ったことでより広い世界に目覚めるようになる「ワルワーラの手記」がこの作品の中核に置かれることで、それまで自分を「ゼロ」と考えていた中年の官吏ジェーヴシキンが、ワルワーラとの文通や貸し与えられたプーシキンの作品によって、自分の価値を見いだすようになるだけでなく、社会的な意識にも目覚めていく過程も描かれていることです。

たとえば、九月五日付けの手紙では夕暮れ時のフォンタンカの通りを歩く貧しい人々と華やかなゴローホワヤ街やそこを馬車で通る金持ちの人々とを比較したジェーヴシキンは、大金持ちの耳に「自分のことばかりを考えるのは、自分ひとりのために生きていくのはたくさんだ」とささやく者ものがいないことがいけないのであると記しています。

注目したいのは、この作品でも「国庫の利益をなおざりにした」として解雇された元役人ゴルシコーフが、「請負仕事をごまかした商人」と争って、「こね」や「財産」のない者が裁判に勝つことはきわめて難しかったにもかかわらずこの裁判に勝ったものの、それまでのストレスからあまりの興奮に、突然亡くなってしまったという顛末が描かれていることです。

この小説は悲劇的な結末を迎えますが、それは、裁判の公平さや権力の暴走を防ぐことのできるような「憲法」の重要性を、イソップの言葉で読者に示唆するためだったと思えるのです。

(リンク→高橋『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』成文社、2007年)

それゆえ、私は初めて『貧しき人々』を読んだ時には、言論の自由が厳しく制限されていたニコライ一世治下の「暗黒の30年」にこのような小説を発表していた若きドストエフスキーに、「薩長藩閥政府」から「憲法」を勝ち取ろうとしていた日本の自由民権論者たちとの類似性すら感じていたのです。

*   *   *

一方、日本が国際連盟から脱退して国際関係において孤立を深めるとともに、国内では京都帝国大学で滝川事件が起きるなど検閲の強化が進んだ1932年に発表した評論「現代文学の不安」で文芸評論家の小林秀雄は、芥川龍之介を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定する一方で、「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記して、ドストエフスキーの作品を知識人の不安や孤独に焦点をあてて読み解いていました。

しかも、前期と後期の作品との間に深い「断層」を見て、『罪と罰』の前作『地下室の手記』を論じつつ、ドストエフスキーを「理性と良心」を否定する「悲劇の哲学」の創造者と規定していた哲学者のシェストフから強い影響を受けていた小林は、前期の作品をほとんど無視し、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(注――ラスコーリニコフ)には現れぬ」と解釈したのです。

「報復の権利」を主張したブッシュ元大統領が始めたイラク戦争の翌年の2004年に、ドストエフスキーの作品を「父殺しの文学」と規定する著作を発表した小説家の亀山郁夫氏も主人公たちに犯罪者的な傾向を強く見て、「現代の救世主たるムイシキンは、じつは人々を破滅へといざなう悪魔だった」という独創的な解釈を示しました(『ドストエフスキー 父殺しの文学』上、285頁)。

さらに亀山氏は前期の作品との継続性も指摘して、『貧しき人々』のジェーヴシキンをも悪徳地主である「ブイコフの模倣者」であり、「むしろ悪と欲望の側へとワルワーラを使嗾する存在」でもあると断定したのです(上、72頁)。

このようなセンセーショナルな解釈は読み物としては面白いものの、その作品で主人公たちの「不安」をとおして「教育制度」などについても深く考察していたドストエフスキーの作品を矮小化していると私は感じました。

さらに大きな問題はこのような主観的な解釈が、「憲法」のない帝政ロシアで検閲を強く意識しながらも、「裁判の公平」や「言論の自由」をイソップの言葉で果敢に主張していたドストエフスキー作品の意味を読者から隠す結果になっていることです。

*   *   *

これらの小林氏や亀山氏のドストエフスキー論と比較するとき、明治時代の北村透谷や島崎藤村は、なぜ文明論的な視野と骨太の骨格を持つ『罪と罰』に肉薄し得ていたのでしょうか。

次回は、ドストエフスキーが弁護士ルージンとラスコーリニコフなどの対決をとおして「法律」の問題を深く考察していることを踏まえて、再び帝政ロシアの時代に書かれた『罪と罰』における「良心」の問題を考えて見たいと思います。

なぜ今、『罪と罰』か(6)――教育制度の問題と長編小説『破戒』

先ほど前回の記事に青字の箇所を追加しましたが、「なぜ今、『罪と罰』か(5)」ではまず、近代的な法体系を持っている国家では、権力者が行う不正を監視するためにも、個人の「良心」が重要視されてきたことを確認しました。

しかし、皇帝が絶対的な権力を握る帝政ロシアでは公平な裁判が行われないことが多かったことに注意を促して、法学部で学んでいたラスコーリニコフが自分の「良心」によって、「悪人」を裁くという「犯罪」に踏み切った遠因は、そのような裁判の状況に彼が深く失望していたであろうことを指摘しました。

*   *   *

ただ、『罪と罰』における「良心」の構造については、もう少し後で詳しく見ることにして、ここでは島崎藤村(1872~1943)の長編小説『破戒』において教育制度の問題の問題がどのように考察されているかを確認するとともに、『貧しき人々』における教育制度や裁判制度の考察にもふれておきたいと思います。

なぜならば、『罪と罰』では主人公を法学部の学生と設定することで、ドストエフスキーは法律や正義の問題に鋭く踏み込んだ分析をしていましたが、藤村もこの長編小説の主人公を師範学校の卒業生を主人公とすることで、当時の日本の教育制度の問題を深く考察していたからです。

夏目漱石が弟子の森田草平に宛てた手紙で「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也」と激賞したこの長編小説『破戒』が、ドストエフスキーの『罪と罰』から強い影響を受けていることは多くの批評家から指摘されています(平野謙『島崎藤村』岩波文庫、2001年参照)。

たとえば、批評家の木村毅は「それより私は、この英訳『罪と罰』を半ばも読み進まぬうちに、重大な発見をした。かつて愛読した藤村の『破戒』は、この作の換骨奪胎というよりも、むしろ結構は、『罪と罰』のしき写しと云っていいほど、酷似している」とさえ書いているのです(太字は引用者、「日本翻訳史概観」『明治翻訳文學集』、昭和47年、筑摩書房)。

しかし、主人公を沖縄戦の後で死刑を間違って宣告された日本人の「復員兵」に代え、舞台を北海道に移し替えた黒澤監督の映画《白痴》は、日本ではあまりヒットしなかったものの、日本の研究者や本場ロシアの研究者や映画監督からは、長編小説『白痴』の理念をよく伝えていると非常に高く評価されています。その筋や登場人物の人物体系には、『罪と罰』からの影響が強く見られるものの長編小説『破戒』も、『罪と罰』を踏まえて当時の日本の現実を見事に描き出していました。

それゆえ、木村毅も先の文章に続けて「『破戒』が日露戦争後の文壇を近代的に、自然主義の方向へと大きく旋回させた功は否めず、それはつまり、ドストイエフスキイの『罪と罰』の価値の大きさを今更のように見直すことになった」と書いていたのです。

*   *   *

1908年に長編小説『春』で、文芸評論家の北村透谷(1868~1894)との友情やその死について描いていた島崎藤村は、透谷について「彼は私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人の一人だ。そして私達のために、早くもいろいろな支度をして置いて呉れたやうな気がする」と書いていました。そのことを想起するならば、透谷の評論「井上博士と基督教徒」も『破戒』を理解するうえでもきわめて重要だといえると思えます。

この評論は井上哲次郎・東京帝国大学哲学科教授が、「教育勅語」奉読式において天皇親筆の署名に対して敬礼はしたが最敬礼をしなかったために、「不敬」とされて退職を余儀なくされていた内村鑑三を例に挙げながらキリスト教を「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」とした「教育勅語」の「国家主義」に反する反国体的宗教として激しく非難したことに対する反論として書かれ、透谷はここで、学問的な見地からではなく「政府の雇人(こじん)」として発言した井上博士の方法を批判していたのです。

島崎藤村も長編小説『破戒』で、差別された主人公の心理的な苦しみや葛藤を詳しく描き出していたばかりでなく、「教育勅語」の渙発と同じ明治23年10月に公布された「小学令改正」により郡視学の監督下に置かれた小学校教育の問題をも鋭く描いていました。

すなわち、第2章で郡視学と町会議員たちによる授業の視察を描いた藤村はここで、「功績表彰の文字を彫刻した名誉の金牌(きんぱい)を授与された」校長が、「郡視学の命令を上官の命令」と考えていたばかりでなく、「軍隊風に児童を薫陶(くんたう)したい」と考えていたことに注意を促していました(太字は引用者)。

その校長が生徒たちから慕われていた主人公の瀬川丑松(うしまつ)や土屋銀之助などの教員をうとましく思い、郡視学の甥の若い教員・勝野文平を使ってなんとか丑松を別の学校に追い出したいと考えたことから事件が勃発することになるのです。

*   *   *

すなわち、金牌を授与されたお祝いに、「今晩三浦屋迄御出(おいで)を願へませうか。郡視学さんも、何卒(どうか)まあ是非御同道を」と議員たちが校長を誘ったと描き、「賢いと言はれる教育者は、いづれも町会議員なぞに結托して、位置の堅固を計るのが普通だ」と記した藤村は、その後で二人きりになった際の郡視学と校長の会話を次のように描写していました。

(郡視学)『吾党の中から受賞者を出したのは名誉さ。君の御喜悦(およろこび)も御察し申す』

(校長)『勝野君も非常に喜んで呉れましてね。』

(郡視学)『甥(をひ)がですか、あゝ左様(さう)でしたらう。…中略…実際、甥は貴方の為を思つて居るのですからな。』

そして藤村は、「郡視学が甥と言つたのは、検定試験を受けて、合格して、此頃新しく赴任して来た正教員。勝野文平といふのが其男の名である。割合に新参の校長は文平を引立てゝ、自分の味方に附けようとした」書いていたのです。

(続く)

 

「講座  『坂の上の雲』の時代と『罪と罰』の受容」を「新着情報」のページに掲載

リンク→講座 『坂の上の雲』の時代と『罪と罰』の受容

  3月4日に標記の題名で<世田谷文学館友の会>の講座を行うことになりましたので、講座のリード文と日時などを「おしらせ」123号より、「新着情報」のページに転載しました。

<世田谷文学館友の会>の講座では、これまでにも、2013年2月19日に「『草枕』で司馬遼太郎の『翔ぶが如く』を読み解く」という題名で、2014年6月27日には、「新聞記者・正岡子規と夏目漱石――『坂の上の雲』をとおして」という題名でお話しする機会を頂きました。

今年は「憲法」のない帝政ロシアで1866年に書かれたドストエフスキーの『罪と罰』が発表されてから150年に当たり、スペインのグラナダで『罪と罰』をメインテーマとした国際学会(IDS)が開催されます。

それゆえ、今回の講座では新聞『日本』の記者でもあった正岡子規と夏目漱石や島崎藤村との関係などに注目しながら、評論「『罪と罰』の殺人罪」(1893年)を書いた北村透谷を主人公の一人とした藤村の『春』や日露戦争直後に上梓された『破戒』などとその時代を分析することにより、『罪と罰』が日本の近代文学に与えた深い影響と現代的な意義についてお話したいと考えています。

(参考図書:高橋『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年)。

安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(3)――長編小説『夜明け前』と「復古神道」の仏教観

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(書影は相馬正一著『国家と個人 島崎藤村「明け前」と現代』、人文書館)

 

安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(3)――長編小説『夜明け前』と「復古神道」の仏教観

いよいよ今年は、日本の未来をも左右する可能性の強い参議院選(あるいは衆参同時選挙)が行われる重要な年となりましたが、安倍政権の「改憲」方針の危険性を認識している人がまだ少ないようです。

それゆえ、昨日は『坂の上の雲』の解釈に対する司馬氏の不安と長編小説『竜馬がゆく』における「神国思想」の批判を確認しました。

*   *   *

イデオロギーを「正義の大系」と呼んで、その危険性に注意を促していた司馬氏が、「征韓論」で国論が割れたころから西南戦争にいたる明治初期の激動の時期を描いた長編小説『翔ぶが如く』で、神道原理主義とも呼べるような「廃仏毀釈」運動に言及していたのは偶然ではないと思えます。

なぜならば、この問題についてはすでに島崎藤村が、馬籠宿の本陣・問屋・庄屋の三役を務めていた自分の父親をモデルとした長編小説『夜明け前』で詳しく分析していたからです。

平田派の国学を学んだ藤村の父・正樹は「復古神道の立場から仏教を邪教として否定し、先祖の建立した馬籠の永昌寺本堂に放火しかけて取り押さえられ」、「狂人として旧本陣裏に特設した座敷牢に幽閉され」、そこで生涯を閉じていました(相馬正一『国家と個人 島崎藤村『夜明け前』と現代』、人文書館、2006年、203頁)。

ここで注目しておきたいのは、明治7年に教部省考証課の雇員となり、水無神社の宮司となった藤村の父・正樹が単なる「狂人」ではなく、尾張藩の役人と交渉してなんとか「苦境にあえぐ村びと」を救おうと骨を折っていた馬籠島崎氏の17代目の庄屋で、村人のことを考える真面目な人物であったことです。

近代日本文学研究者の相馬正一氏は、長編小説『夜明け前』を「読み解くキー・ワード」として、「街道」とともに「黒船」を挙げていますが、島崎藤村の父・正樹の生き方をかえるきっかけになったのが、「黒船」の来港でした(相馬正一、前掲書、219頁)。

藤村はこの長編小説で黒船を、「人間の組織的な意志の壮大な権化、人間の合理的な利益のためにはいかなる原始的な自然の状態にあるものをも克服し尽そうというごとき勇猛な目的を決定するもの」と規定していました(『夜明け前』第一部第三章)。

「街道」や「黒船」というキー・ワードから連想される作品には、司馬氏の歴史小説『世に棲む日日』があります。ここでは、二隻の黒船が空砲を射撃すると、「遠雷のようなとどろきが湾内にひびきわたり、沿岸の山々にこだました」と描かれ、それを聞いた松陰は「西洋の巨大な文明に」、日本という「小さな文明が、あの砲声とともに砕かれたようにおもった」と記されています(一・「浦賀へ」)。

そして司馬氏は、幕末に「尊皇攘夷」思想が広まった理由を、「ペリーとその艦隊の威喝的な態度や意図」に幕府の官僚は脅えたが、「在野世論はこれに大反発をきたし、対外敵愾心が日本列島の津々浦々に澎湃として」起こったと説明しているのです。(詳しくは拙著『「竜馬」という日本人――司馬遼太郎が描いたこと』(人文書館)を参照してください)。

問題は倒幕に成功したことで、正樹の夢が叶ったかに見えた「明治維新」の後で、村びとたちの暮らしがいっそう悪化したことです。『夜明け前』では疲弊した宿村を救うために、伐採を禁じられてきた「停止木(ちょうじぼく)の解禁」を訴えて、「五箇条の誓文から『旧来ノ弊習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基ヅクベシ』の一節を引用し」ていた請願書は取り上げられず、訴えようとしていた主人公・半蔵が、それまでの庄屋にかわる「戸長」をも免職になるという出来事が描かれています。

「王政復古」を唱えて「民生の福利増進が図られるはずであった維新政府の政策は、いつのまにか欧米型の資本主義を取り入れた殖産産業・富国強兵策へと転じていた」のです(相馬正一、前掲書、120頁)。

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(2017年1月3日、副題を追加)