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(4)2・26事件の賛美と「改憲」の危険性

「磯部一等主計の遺稿について」論じた「『道義的革命』の論理」で三島由紀夫は、その前年に発表した『英霊の聲』で2・26事件の「スピリットのみを純粋培養して作品化しようと思った」と記している。

たしかに、古今東西の文学作品に通じ、華麗な文体で多くの作品を残した三島はすぐれた文学者であったが、近年のように磯部一等主計に憑依されたかのような『英霊の聲』以降の作品を政治的・宗教的な視点から評価して、「改憲」運動につなげることは危険だろう。

「日本の右翼テロリストは、その死生観において、ある伝統的な信仰につらぬかれていた。それは、かんたんにいえば、己の死後の生命の永続に関する楽天的な信念であり、護国の英雄として祭られることへの自愛的な帰依であった。そして、まさにそれを保障したものこそ、日本の国家神道と天皇信仰とにほかならなかった」と説明した「日本浪曼派」の研究者で三島の深い理解者でもあった橋川文三は、その危険性をこう指摘している。

「このような固有の神学思想は、一定の条件のもとでは、容易にいわゆる人権の抹殺をひきおこし、しかもそこに責任や罪を感じることのない心性をつくり出す。右翼テロリストにおいて「一殺多生」という仏典的発想が結びつくのも、そのような国有の死生観念を媒介とすると考えてよいと私は思う。「汝殺すなかれ」という人格神の絶対的戒律が与えられていない場合、そこには、いかなる残虐も本来的な生命への責任感をよびおこすことはないからである。」(「テロリズム信仰の精神史」『橋川文三 著作集』5、筑摩書房)。

興味深いのは、天草の乱を描いた大作『海鳴りの底』で村岡典嗣氏の論文「平田篤胤の神学に於ける耶蘇教の影響」から「復古神道」の根幹にはキリスト教からの援用があることを知ったことを記していた堀田は、主人公に「洋学応用の復古神道」が「儒仏を排し、幕末にいたっては国粋攘夷思想ということになり、祭政一致、廃仏毀釈ということになり、あろうことか、恩になったキリスト教排撃の最前衛となる。それは溜息の出るようなものである」という感想を抱かせている。

そして、作者は登場人物の一人に「平田篤胤がヤソ教から何を採って何をとらなかったかが問題なんだ、ナ」と語らせ、「復古神道はキリスト教にある、愛の思想ね、キリストの愛による救済、神の子であるキリストの犠牲による救済という思想が、この肝心なものがすっぽり抜けているんだ。汝、殺すなかれ、が、ね」と続けさせて、「復古神道」における「汝殺すなかれ」の理念の欠如を指摘していた。

日本人が情念に流されやすいことはたびたび多くの論者が指摘されてきているが、ウクライナ危機に乗じて、「敵基地攻撃論」や「緊急事態条項」が議論されるようになってきている現在、2・26事件の問題をきちんと把握しておく必要があるだろう。

(2023/2/14,ツイートの追加)

(3)、磯部浅一の「行動記」と裁判をめぐって

 2・26事件の首謀者の一人・磯部浅一は、「行動記」で「余はもう一度やりたい。あの快感は恐らく人生至上のものであろう」と記し、この文章を引用した三島由紀夫は、子供の頃に遭遇したこの事件の印象を「その雪の日、少年たちは取り残され、閑却され、無視されていた」が、「事件から完全に拒まれていた」ことが「その悲劇の客人たちを、異常に美しく空想させたのかもしれない」と「二・二六事件と私」に記している。

一方、2・26事件の前日に受験のために上京して来た若者を主人公とした堀田善衞も『若き日の…』で「まったくの偶然であったのだが、若者が引っ越したこのアパートの隣室に2・26事件のときの首謀者中の首謀者であったⅠという男の未亡人が住んでいた」と記し、磯部浅一の裁判についてこう記述している。

「Ⅰはすでにその年の八月十五日に銃殺刑を執行されてしまっていたはずであったが、Ⅰは十九名の死刑になった首謀者のなかでも、裁判中も、終始はげしく抵抗し、軍の首脳部もまた一時彼らの青年将校たちの行動に同調し、支持さえした点をあげて、陸軍大臣の告示や戒厳命令に関係のあったぜんぶの軍事参議官もまた同罪である、と痛烈に弾劾をしつづけたので」、「重要証人として八月の十九日まで執行の延期をうけていたのである。」

そして、右翼係りの刑事から聞かされた未亡人の行動についてもこう詳しく記している。「まだまだ若い未亡人は、夫の収監されていた代々木練兵場に特設された法廷と収監所とをかねたバラックの近くの、このアパートを選んだのであった。そうして夫の死後、軍首脳部弾劾と裁判の違法性について縷々(るる)と綴られたⅠの遺書を入手し、夫人はこれをある右翼の新聞記者とはかって写真で複写をし世上に流布させようとした。

 もっとも、これらのことは、すべてⅠ未亡人を監視するために、隣室の住人である若者の部屋へしばしばやって来た右翼係りの刑事から、折にふれて聞かされていたことなのである。若者としても、偶然のこと、とはいうものの、まったく異様なところへころがり込んだものであった。(……)刑事は三日にあげずやって来た。刑事はこれらの青年将校たちにはすこぶる同情的で、時にはⅠ未亡人の私用を弁じてやったりもしていたが、なんにしてもそれは若者にとっては閉口、迷惑、この上もないことであった。」

 この記述からは堀田が磯部裁判に強い関心を持っていたことが推測できるが、ここでも焦点を磯部のみに当てるのではなく、この記述の前後に従兄から密かに「赤旗」の入ったカバンを預かってほしいと頼まれて激しく動揺したというエピソードも挿入している。

「しかし従兄には、そういう者が来るなどとは、敢えて言わないことにした。隣室に、そういう女性がいることはかつて雑談のあいだに告げたことがあったが、彼女がそこまでの厳重な監視をうけていることは言わなかったのである。それに、燈台下暗し、ということがある。かえって安全であるかもしれないではないか、と異様な具合に腹をきめて、若者は、「わかった。いいよ」/ と言ってその風呂敷包みを従兄からうけとり、学校へ通うときのカバンのなかに」押し込んだ。

こうして、堀田は磯部の裁判を描くだけでなく、警察での拷問により体を壊して表向きは転向していた従兄から預けられたカバンに入っていた「赤旗」の記事における2・26事件の記事にもふれることで、磯部を「英雄化」せずに相対化して考えようとしたのだと思われる。

しかも、この長編小説では同級生との交遊をとおして、2.26事件でも注目された皇道派の 真崎大将についてもこう記されている(注:相沢事件とは、 ドイツでヒトラー内閣が成立した1933年8月12日に統制派の軍務局長永田鉄山が皇道派の青年将校・相沢三郎中佐に斬殺された事件)。

「Mという同級生の広大な邸が、原宿にあった。その邸前でソフト帽を目深くかぶった私服の誰何(すいか)に遭った。Mの父は陸軍大将で、軍内の派閥の、その一方の頭目であるといわれていた。二・二六事件のときにも、世間の注視のまとになった人であった。また相沢事件といわれた、軍務局長を陸軍省内で斬った軍人の裁判のときにも、その軍人のためによい証言をするだろうと期待されていながら、将官は勅許を得なければ法廷で証言は出来ぬ、と言ってつっぱねた人であった。勅許とはねえ、と世間では言っていた。血の冷たい感じのする将官であった。(……)そうして級友のM自身は、たいへんな女たらしであった。そのMの勉強部屋で、少年は生れてはじめてエロ写真なるものを見せられた。親爺が上海からもって来たんだ、とMが言った。」

 (2023/02/14、改訂とツイートの追加)

(2)、2・26事件と検閲の強化

三島由紀夫が『豊饒の海』の第二巻『奔馬』のモデルとした血盟団事件(2月~3月)で井上日召に率いられた学生たちによって、井上準之助と團琢磨が暗殺されるという連続テロ事件が起きた1932年には、京都大学法学部の滝川教授の発言が問題になる滝川事件も起きていた。

さらに満州国の承認に慎重だった犬養毅・内閣総理大臣が、武装した海軍の青年将校たちと血盟団の残党らによって殺害された5・15事件が起きた。1935年には、天皇機関説事件が起きていた。

『若き日の…』ではこれらの事件については言及されていないものの、1934(昭和9)年に『ファッシズム批判』を出版して、軍国主義と「国体明徴」運動を批判したことで知られていた河合栄治郎・東京帝国大学教授が書いた二・二六事件の批判記事がかなり長く引用されている。

「帝国大学新聞」について「大学が、また大学生が新聞を刷って売っているということが、少年にはなんともいえぬほどに清新で、自身の腹の底から甲高い声が出そうなほどに、爽快でもあった」と書いた主人公は、事件直後の三月九日付の号に載った記事の「筆者は河合栄治郎という人であった」ことを紹介して、次の文章を引用している。

 「彼等の我々と異なるところは、ただ彼等が暴力を所有し、我々がこれを所有せざることのみにある。だが偶然にも暴力を所有することが、何故に自己のみの所信を敢行しうる根拠となるのか、何故に国民多数の意志を蹂躙(じゅうりん)せしめる合理性となるか」。そして、主人公は「削除は多いにしても、筆者の怒りと批判ははっきりと出ていた」と結んでいる。

一方、押し入れからさがし出した雑誌の『中央公論』は六月号で、「同じ筆者が巻頭に論文を書いていた」が、「この方は、バッテンばかりで、さっぱり見当もつかなかった」と記されているが、ここでは「第三」のみを長く引用することで具体的に示しておきたい。

「第三に彼等は政党の堕落と財閥の横暴とをみた。国体を明徴ならしむることによって、国民思想の安定を図りうると考へたことに、彼等の単純さがある。×××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××。しかし複雑なる社会問題に囲まれ、幾多の思想によりて攪乱されてゐる一般市民にとっては、×××××××××××××××××××××××、未だ問題を解決することにはなりえない。××××××××、現代に処して、いかなる内容を盛るべきかが、今や必要とされてゐるからである。」

実際、この事件の首謀者は非公開で弁護人なしという特設軍法会議で裁かれ処刑された。それによって軍部における統制派の権力は強まり、「祭政一致」の原則に基づいて「専制・正教・国民性」を厳守するように求めた「ロシア帝国」と同じような政策が実施され、それを批判することは全くできなくなったのである。

芥川龍之介は自作『将軍』の検閲と伏字に対して怒りを感じていたが、2・26事件以降には軍部における統制派の権力が強まり、「祭政一致」の原則に基づいて「専制・正教・国民性」を厳守するように求めた「ロシア帝国」と同じような政策が実施され、それを批判することは全くできなくなっていたのである。

 この長編小説ではラジオから流れてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説が主人公の重要な転機になっていたが、1933年1月にナチスが政権を握ったドイツでは「非ドイツ的な魂」に対する抗議運動が行われるようになり、5月10日のユダヤの知識人の書物を大量に焚書にした際にもゲッベルスが扇動的な演説をしており、その際に焚書の対象とされたドイツの公法学者ゲオルク・イェリネックの著書『人権宣言論』を1906年に訳出していたのが「天皇機関説」事件でやり玉に挙げられることになる美濃部達吉だったのである。

主人公が仏文科への転科を決意したのは1940年秋のことだったが、その際には白柳君との会話などをとおして日本では「商工省の通達があって、洋書の輸入は禁止された」が、「一九三五年にパリで行われた国際作家会議の記録によると、ドイツの作家代表は匿名は無論のこと、顔に覆面までをかぶって出て来るというひどい政治の有様」になっていたことなども記されている。

 (2023/02/14、改訂とツイートの追加)

『若き日の詩人たちの肖像』で2・26事件を考える (1)2・26事件とシベリア出兵

堀田善衞の自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』(以下、『若き日の…』と略記する)第一部の冒頭ではドイツから帰国した新進の指揮者によるラヴェルのボレロとベートーヴェンの運命交響楽を聞くために早めに上京した主人公が、その翌日に交通規制で足止めされていて友人宅から下宿に戻った兄から、戒厳令が布かれ前日にボレロを聴いた軍人会館が「戒厳司令部」になったと告げられる。

三島由紀夫が『英霊の聲』で神道系の「帰神(かむがかり)の会」で英霊に語らせたように「昭和維新、尊皇斬奸」をスローガンに大蔵大臣・高橋是清や内大臣・斎藤実、教育総監・渡辺錠太郎などの政府要人を殺害した皇道派の陸軍青年将校たちは、自分たちの行動は幕末の志士が起こした桜田門外の変と同様に高く評価されるものと信じていた。

しかし、反乱軍とされたために彼らが率いた1、483名の下士官や兵士と鎮圧に向かった軍との間での戦闘もありうるような危険な状況に首都が陥ったのであり、この地域の住民は退去せよとの命令が出ていた。主人公は受験勉強を理由に家からの移動を拒否したのだが、それは1918年に起きた米騒動が少年の港町にも波及して来た時に、「北前船の廻船問屋をいとなんで来た家の曾祖母は、米をめぐっての民衆の騒乱のことを知悉(ちしつ)して」おり、「直ちに家の者、店の者の先頭に立っててきぱきと指示」をして、民衆に粥をくばり騒ぎをおさめていたからである。

こうして、堀田善衞は第一部の冒頭で首都を揺るがした2・26事件と主人公の少年が生まれた年に起きた米騒動を比較することで、読者により広い視点でみることの大切さを示唆していたと言えるだろう。

1955年に発表した長編小説『夜の森』で堀田はすでに、北陸で発生した米騒動の拡がりや九州の炭鉱での暴動が、8月2日の「出兵宣言」の後で起きたコメの価格の高騰とも深い関りをもっていることを示したばかりでなく、この出兵の際には虐殺が行われていたことや、満州国の建国に先駆けて傀儡国家樹立の試みがなされていたことも記していたのである。

そして、『若き日の…』では「シベリア出兵のときに、ロシア人の家から掻っ払って来たのだという、黄色い大きな琥珀(こはく)をくりぬいてつくった置時計」を自慢にしていた管理人のことも記されているが、 何の理由も告げられずに逮捕された主人公が 、「物品のように」どさりと留置場へ放り込まれて一三日間拘留されたのは、満州国皇帝来日の予備拘禁であったことも記されている。

「日本浪曼派」の保田與重郎は「『満州国皇帝旗に捧ぐる曲』について」で、「満州国の理念」を「フランス共和国、ソヴエート連邦以降初めての、別箇に新しい果敢な文明理論とその世界観の表現」と讃えていた。一方、堀田は武力による満州国の建国はその後の日本の政治や法律をも変えて「無法が法の名において」行われ、無謀な戦争の拡大へと突き進ませることになったことを明確に描写していたのである。

本稿では「二・二六は最終的な落着におちつくまで接着してはなれなかった」と記されている『若き日の…』における2・26事件の描写をとおして、この問題と三島事件のかかわりを以下の順で考察する。
2, 2・26事件と検閲の強化、3,磯部浅一の「行動記」と裁判、4, 2・26事件の賛美と「改憲」の危険性。

  (2023/02/14、改訂、改題してツイートを追加)

ウクライナ危機と満州事変 

 作家の堀田善衞は自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』 (以下、『若き日の…』と略記) で中学に入学した年に勃発した1931年の満州事変の後では「事変という奴は終わりそうもない」と感じていたと描いています。

それゆえ、ソ連崩壊後のチェチェン紛争の鎮圧後には言論への弾圧を強めていたロシアのプーチン大統領によるウクライナ侵攻は、関東軍による満州事変を連想させます。

関東軍による満洲全土の占領後に現地調査したリットン調査団の報告書を受けて国際連盟特別総会が満洲国の存続を認めない勧告案を採択すると、日本は1932年の3月27日に国際連盟に脱退を表明しました。そして、紀元2600年を盛大に祝った1940年の翌年には太平洋戦争に突入していたのです。

堀田善衞の長編小説『若き日の…』が出版されたのは1968年9月のことでしたが、その翌月の10月23日には日本政府主催の「明治百年記念式典」が日本武道館で開催されました。このような日本の状況を考慮するならば、堀田善衞が長編小説『若き日の…』で昭和初期の重苦しい時代を克明に描き出したのは、この時代の危険性を記しておく必要があると考えたためではないかと思えます。今回の事態に際してはプーチン大統領の誤った決断だけでなく、この事態に乗じて「改憲」を行い、緊急事態条項を入れるなど昭和初期の日本へと逆戻りさせようとしていることへの批判も必要です。

(2022年3月26日改訂と改題、2023/02/13、改訂と改題、ツイートを追加)

「小林秀雄神話」の解体(3)――「人生斫断家」という定義と2・26事件

3、「人生斫断家」という定義と2・26事件

鹿島茂氏は神田で売られていた古本の中に「『地獄の季節』を見つけて衝撃の出会いを経験してからすでに二十二年近くを経過している」にもかかわらず、小林秀雄が「烈しい爆薬が」「見事に炸裂」したといった「妙に青臭い」表現を用いているのはなぜだろうかと問いかけています。

恐らくその一因は著者も視野に入れている時代との関りを考慮することで明らかになるでしょう。すなわち、小林が『地獄の季節』を翻訳したのはロンドン海軍軍縮条約が批准された1930年でしたが、「統帥権干犯」問題で浜口首相が銃撃され、海軍の「艦隊派」も北一輝などの右翼やマスコミ対策などをとおして条約反対の機運を盛り上げたことで、一気に「国粋主義」的な機運が高まって翌年には満州事変が起きていたのです。

小林がサント・ブーヴの『我が毒』を翻訳した1939年にはノモンハン事変の敗北、アメリカの対日経済制裁、独ソ不可侵条約の締結」などの大事件が相次ぐ一方で、「国内的には日本浪曼派の台頭など、日本回帰の風潮は強まり」、小林自身も「着実に日本の伝統へと向かいつつあった」(52)のです。

それゆえ、保田與重郎主宰の「日本浪曼派」を考察した評論家の橋川文三は、小林秀雄の美意識が「むしろ過剰な自意識解析の果てに、一種の決断主義(太字の個所は原文では傍点)として規定されるのに反し、保田の国学的主情主義は、(……)むしろ没主体への傾向が著しい」と指摘し、「満州国の理念」を賛美した「日本浪曼派」の「保田と小林とが戦争のイデオローグとしてもっともユニークな存在であった」と記していました(『日本浪曼派批判序説 耽美的パトリオティズムの系譜』、講談社文芸文庫)。

入学試験のために主人公が上京した翌日に、皇道派の将校たちが「昭和維新、尊皇斬奸」を掲げてクーデターを起こそうとした2・26事件と遭遇したことが描かれている『若き日の詩人たちの肖像』では、中学に入学した年に勃発した満州事変の後では「事変という奴は終わりそうもない」と主人公が感じていたことも描かれています。

『若き日の詩人たちの肖像』の主人公は、留置場に理由もなく入れられた際には芥川龍之介の遺書『或旧友へ送る手記』の文章を思い出して憤慨したことが記されていますが、なんとか「出口」を見つけたいと願っていた若き主人公にとって、芥川が自殺という手段でこの世から去っていたことは、腹立たしいことだったのです。

一方、小林秀雄がランボーを「人生斫断家」と定義していたことに注目した鹿島茂は、「斫断」というのは辞書にはないので「同じ意味の漢字を並べて意味を強調する」ための造語で、「いきなりぶった切る」という意味を出したかったのではないかと記しています(170)。

そして著者は小林秀雄のランボー論が流行った理由を、当時の時代状況などにも注意を払いながら「昭和維新」を熱心に論じあい、「斎藤実や高橋是清を惨殺した二・二六の将校」と、小林が「その深層心理ないしは無意識において」は、「それほどには違っていなかったのではあるまいか?」と推定し(186)小林秀雄訳『地獄の季節』に見られる「美神との刺違へ」的イメージが二・二六の青年将校などの同世代人にも共通して見られる」と書いているのです(263)。

 きわめて大胆な仮定ですが、たしかにランボーの詩について「彼は美神を捕らえて刺違へた」と解釈し、戦闘用語の「爆薬」とか「炸裂」という単語を用いていた小林の「いきなりぶった切る」という意味の「斫断」という単語は、「一思いに打ちこわす、それだけの話さ」と語り、「いやなによりも権力だ!」と続けていたラスコーリニコフの言葉を想起させます。 

つまり、ドストエフスキーはラスコーリニコフに「凡人」について、「服従するのが好きな人たちです」と語らせたドストエフスキーは「どうするって? 打ちこわすべきものを、一思いに打ちこわす、それだけの話さ。(……)自由と権力、いやなによりも権力だ! (……)ふるえおののくいっさいのやからと、この蟻塚(ありづか)の全体を支配することだ!」(江川卓訳)とも語らせていました。

さらに、1940年には『我が闘争』の短評でヒトラーの考えを賛美した小林秀雄が、その翌月に『文学界』に掲載された作家・林房雄や石川達三との鼎談「英雄を語る」では、ナポレオンを「英雄」としたばかりでなく、ヒトラーも「小英雄」と呼んで、「暴力の無い所に英雄は無いよ」と続けていました。

一方、『罪と罰』の創作ノートにはラスコーリニコフには「人間どもに対する深い侮蔑感があった」と書かれています。ドストエフスキーはラスコーリニコフに、自分の「権力志向」だけではなく、大衆の「服従志向」にも言及させることでラスコーリニコフのいらだちを見事に表現しえており、それゆえ小林秀雄の『罪と罰』論も主人公の苛立ちをも見事に指摘したことで、同時代の若者たちの共感をも勝ち得ることができたのです。

それとともに1936年に発表した「文学の伝統性と近代性」というエッセイでは中野重治などを批判しつつ、「伝統は何処にあるか。僕の血のなかにある。若し無ければぼくは生きていないはずだ。こんな簡単明瞭な事実はない」と書き、「僕は大勢に順応して行きたい。妥協して行きたい」とも記すことになる小林は、芥川を厳しく批判することですでに時勢に順応しようとしていたことも感じられるのです。

「小林秀雄神話」の解体(2)――『地獄の季節』の誤訳とムィシキンの形象の曲解

2、『地獄の季節』の誤訳とムィシキンの形象の曲解

ランボオの『地獄の季節』という題名は正しくは「地獄に於ける或る季節」であると小林秀雄自身が後に断っていることに注意を促して(39)、彼の翻訳が「ほとんど『創作』に近くなっていた」と指摘した著者はこう続けています。

「ところが、その訳文の「月並みならざる」な文体が同じような精神の傾きを持った同時代の青年たちに圧倒的な熱狂をもって歓迎され、小林は一躍時代のヒーローとなり、以後五十年間、一九八〇年代に時代が転換するまで「文学の神様」の座にとどまりつづけた」のである。」(41)

その理由は小林が時代を先取りするような形で 『地獄の季節』を訳出したことにあると思いますが、著者は小林秀雄が1947年3月に書いた「ランボオの問題」(現タイトル「ランボオⅢ」)冒頭の文章を引用することで小林との出会いの意義を考察しているので引用しておきます。

「僕が、はじめてランボオに、出くわしたのは、廿三歳の春であつた。その時、僕は、神田をぶらぶら歩いてゐた、と書いてもよい。向こうからやつて来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである。僕には、何の準備もなかつた。ある本屋の店頭で、偶然見付けたメルキュウル版の『地獄の季節』の見すぼらしい豆本に、どんなに烈しい爆薬が仕掛けられてゐたか、僕は夢にも考へてはゐなかつた。而も、この爆弾の発火装置は、僕の覚束ない語学の力なぞ殆ど問題ではないくらゐ敏感に出来てゐた。豆本は見事に炸裂し、僕は、数年の間、ランボオといふ事件の渦中にあつた。それは確かに事件であつた様に思はれる。文学とは他人にとつて何であれ、少くとも、自分にとつては、或る思想、或る観念、いや一つの言葉さへ現実の事件である、とはじめて教へてくれたのは、ランボオだつた様にも思はれる」(135-136)。

「後続世代」も「小林秀雄訳のランボー」との出会いに同じような衝撃を受けており、後に「小林秀雄の訳文の完膚なきまでの否定者となった」フランス文学者の篠沢秀夫も、この訳が「白水社から刊行されて以来、戦前戦後を通じて、不安な青春の精神に強い衝撃をあたえる読み物として重きをなしてきた」と書いていることに注意を促した著者は、小林が「さういふ時だ、ランボオが現れたのは、球体は砕けて散つた。僕は出発する事が出来た」と書いている個所を引用して、それまでは「ボードレール的なガラス球体の中に閉じ込められ」ていたような状態だったのであろうと推定しています(161)。

そして、当時の木版画を多数掲載することで当時の政治や社会や経済、文化なども視覚的に紹介しつつ、『レ・ミゼラブル』の内容と意義とを分かり易くかつ伝えた『「レ・ミゼラブル」百六景』を1987年に出版していた鹿島氏は、『ドーダの人』で一世を風靡した小林秀雄訳の『地獄の季節』を篠沢秀夫訳の『地獄での一季節』と比較しながら詳しく検証し、次のように記しているのです(161)。

すなわち、「夜は明けて、眼の光は失せ、顔には生きた色もなく、行き交ふ人も、恐らくこの俺に眼を呉れるものはなかったのだ。/ 突然、俺の眼に、過ぎて行く街々の泥土は、赤く見え、黒く見えた。」という個所をランボーが『レ・ミゼラブル』を踏まえて描いていることを無視して、小林は「ランボーの『私小説』として誤読し、これを『ランボー体験』として敷衍してしまたった」(167)。

こうして著者は、小林秀雄が「ランボーを誤訳する前に誤読し、いわば、ランボーの翻訳というかたちを借りて『創作』を行った」とし、「この意味で、『他人を借りて自己を語る』という小林秀雄の批評態度はすでにランボーの段階から『確立』されていたことになる」と書いているのです。

同じことは小林秀雄の『罪と罰』理解にも当てはまります。「高利貸し」の問題が事件の発端となっていたことや弁護士ルージンとの口論や司法取調官ポルフィーリイとの白熱した会話などを省いて『罪と罰』を考察した小林は、「超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難い謎がある」とし、ラスコーリニコフには「罪の意識も罰の意識も」ついに現れなかったと断言しているのです(全集、6・45)。

ドストエフスキーがエピローグの「人類滅亡の悪夢」を見た後のラスコーリニコフの更生を示唆していたことに留意するならば、小林秀雄の『罪と罰』論がドストエフスキーの作品を分析した解釈ではなく、自分の心情に沿った解釈であったと言えるでしょう。

 このような『罪と罰』の解釈は同じ年に開始した『白痴』論とも連動しており、「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない。シベリヤから還つたのだ」という大胆な解釈をした小林は(全集、6・63)、「『罪と罰』の終末を仔細に読んだ人は、あそこにゐるラスコオリニコフは未だ人間に触れないムイシュキンだといふことに気が付くであろう」と記して、二つの作品の主人公の同一性を強調していました。

その理由について小林は死刑について語った後でムィシキンが「からからと笑ひ出し」たことを、「この時ムイシュキンははや魔的な存在となつてゐる」とし、「作者は読者を混乱させない為に一切の説明をはぶいてゐる」ので、「突然かういふ断層にぶつかる。一つ一つ例を挙げないが、これらの断層を、注意深い読者だけが墜落する様に配列してゐる作者の技量には驚くべきものがある」と説明しています(全集、90-91)。

 こうして小林は、この場面を「全編中の大断層の一つ」として指摘することで、死刑や死体などの「無気味さ」について面白そうに語っていたムィシキンの異常さを強調しているのです。しかし、これは自分の解釈へと読者を「誘導」するような小林の「創作」的な解釈で、「注意深い読者」ならば、すぐにその誤読に気付くはずです。

 なぜならば、『白痴』ではムィシキンが死刑廃止論者として描かれていますが、1860年の『灯火』誌の第三号には死刑の廃止を訴えたユゴーの1829年の作品『死刑囚最後の日』がドストエフスキーの兄ミハイルの訳で掲載されていました。ドストエフスキー自身も『作家の日記』においてこの作品について、「死刑の宣告を受けたものが、最後の一日どころか、最後の一時間まで、そして文字通り最後の一瞬まで手記を書き続ける」ことが現実にはありえないにしても、ここに描かれているのは死刑囚の心理に迫り得ていることを高く評価して、これを「最もリアリスチックで最も真実味あふれる作品」と位置づけているのです(高橋誠一郎、『欧化と国粋 日露の「文明開化」とドストエフスキー』参照)。

それらのことに注目するならば、殺人を犯した後も「罪の意識も罰の意識も」現れなかったラスコーリニコフとムィシキンとの同一視は不可能だといえるでしょう。1861年にフィレンツェでユゴーの大作『レ・ミゼラブル(悲惨な人々)』を手に入れると街の見学も忘れて読みふけり、翌年にはこの長編小説と『ノートルダム・ド・パリ』についての詳しい紹介を『時代』に掲載したドストエフスキーは、その筋や人物体系を『罪と罰』に取り入れ(井桁貞義『ドストエフスキイ 言葉の生命』参照)、『白痴』にも組み込んでいるのです。

「小林秀雄神話」の解体(1)――「他人を借りて自己を語る」という方法

1,「他人を借りて自己を語る」という方法――小林秀雄とサント・ブーヴ

鹿島茂氏の『ドーダの人、小林秀雄』は、下記の章から構成されています。   小林秀雄の難関ドーダ/ 小林秀雄のフランス語と翻訳/ 小林秀雄と長谷川泰子/ ドーダと人口の関係性/ 小林秀雄と父親/ アーサー・シモンズの影響/ 小林秀雄とランボー/ 小林秀雄と河上徹太郎/ ヤンキー小林秀雄/ 小林秀雄をアモック/ 小林秀雄の純ドーダ

フランスの文学と文化の研究者の視点から、小林秀雄の『地獄の季節』訳の問題などをとおして「小林神話」の解体を試みた本書からは啓発される点が多かったのですが、ここでは時代との関りに注意を払いながら小林のランボーの理解とドストエフスキー作品の解釈との関連を中心に見ていきたいと思います。

まず注目したいのは、「小林秀雄と父親」の章で1921年に小林秀雄が父親を失っていることに注意を促して、幼くして「家長」となった「小林には、俗な言葉でいうなら『家運』を『挽回』し、病気の母の療養を扶けねばならない責任」を課せられたという江藤淳の言葉を紹介していることです(117)。

一方、『三四郎』で日露戦争以降の日本に対する厳しい見方を記した夏目漱石が、『それから』では大逆事件(1910)が起きることを示唆するような描写をし、森鷗外も『沈黙の塔』で検閲への強い懸念を記したことはよく知られていますが、芥川龍之介もこの事件に対する政府の対応を強く批判した徳冨蘆花の演説から強い影響を受けて1915年に『羅生門』を書いた可能性が高く、小林も一時は日露戦争を批判的に記した芥川の『将軍』(1922)を愛読していたのです。

しかし、漱石たちの危惧したように、時代は悪化の一途をたどりますが、そのような中で小林秀雄が選んだのがフランス文学であり、1926年のボードレールから始まって、1939年のサント・ブーヴに終わる小林秀雄の翻訳履歴を概観した著者は、小林秀雄が「この時代のインテリが好みそうなフランス文学を探り当てそれを時代に先駆けて訳している」という印象を伝えています。

そして小林が最後にサント・ブーヴの『我が毒』を翻訳していることに注意を促し、「小林が日本において近代批評を確立するにあたって、他人を借りて自己を語るというサント・ブーヴの方法に拠ったこともよく知られている」と記した著者は続けて、「中原中也の死を契機に」、「昭和十四年に小林は『我が毒』を「わがこと」と思って創作的翻訳を行ったと見なすべきなのである」と主張しています(55)。

 ここだけを引用すると強引なようにも見えますが、その後で著者はその理由を「日本の小林秀雄研究者はあまり気づいていないようだが、それは十九世紀のフランス文学を少しでも齧(かじ)ったものには至極自明なものである。中原に対する小林の関係は、ユゴーに対するサント・ブーヴのそれと相似的であるということだ。つまり、親友の妻(内縁の妻)を寝取ったということである」と説明しているのです(56)。

しかも、「東大仏文科に在籍しながら、中原中也から愛人・長谷川泰子を奪い、杉並の天沼で同棲生活を始めた小林秀雄」は、「泰子の潔癖症が激化することで、一転して地獄のような生活へ」と変わり、「まるでシベリア流刑だ」とその苦痛を泰子に語るようになっていました。

「この泰子の証言は、小林におけるドストエフスキー受容史を調べる上で、かなり大きな手掛かりになるはずだ」とした鹿島氏は、この頃から小林が「ドストエフスキーの著作、とりわけ『死の家の記録』に」親しんでいたことが分かるからだと記しています。

ただ、 「小林が日本において近代批評を確立するにあたって、他人を借りて自己を語るというサント・ブーヴの方法に拠ったこともよく知られている」という著者の指摘に注目するならば、 長谷川泰子の同棲の体験は『死の家の記録』よりも『白痴』に対する小林秀雄の「創作」的な解釈とより深く結びついていると思えます。

すなわち、 1934年に『罪と罰』論に続いて連載した『白痴』論では、 この長編小説の複雑な人物体系や筋の流れを省略し、ナスターシヤの心理や行動を理解する上で欠かせない スイスの村でのマリーの悲劇を描いたエピソードには全く触れずに、 彼女をめぐる主人公ムィシキンとロゴージンとの三角関係に焦点を絞ってこの長編小説を論じているのです。

 
しかも、よく知られているように、 ナスターシヤは 孤児となって貴族のトーツキーに養育されたものの少女趣味のあった彼によって無理矢理に妾にさせられていたのですが、そのような状況を省いた小林はナスターシヤを「この作者が好んで描く言はば自意識上のサディストでありマゾヒストである」と規定していたのです。

さらに、結末の異常性を強調して「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはただ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と記していた(全集、6・100)。

しかし、堀田善衞が自伝的な長編小説『若き日の詩人たちの肖像』で、『白痴』の主人公を「天使」と解釈しているように、ドストエフスキーが「ロシアのキリスト」を意識して造形したムィシキンを 「悪魔に魂を売り渡して了つた」人間と解釈することは作者を侮辱することでもあると思えます。(なお、『若き日の詩人たちの肖像』について鹿島氏は「日本の文学の主流は、いわゆる私小説です。つまり、私(わたくし)とその周辺のことだけを考えて書いている。それが日本的な個人主義ですが、堀田さんの考える個人主義は、他の人とのつながりも書いている」と『堀田善衞を読む』(集英社新書)で高く評価しています。

原作とは全く異なると思える『白痴』解釈の問題については、次節の後半で再度考察することにします。

ウクライナ侵攻と安倍元首相のプーチン観

 1936年にクーデター未遂が起きた2月26日の今日もロシア軍のウクライナ軍事侵攻が現在も続いています。

しかし、旧ソ連諸国を統合する「大国ロシア」の防衛線としてウクライナを重視するプーチン大統領の見方の古さが指摘されてiいるように、「大義」を欠いた侵攻に参加させられたロシア兵の士気は上がっていないようです。

 一方、 安倍元首相 はプーチン大統領に「ウラジーミル。君と僕は、同じ未来を見ている」と親しげに呼びかけていましたが、安倍氏の祖父・岸元首相は満州国にも深く関わっていました。

  それにもかかわらずフジテレビの報道番組では橋本徹氏が「次の参院選で核兵器保有を争点にすべき」と語ると、安倍氏元首相は「核兵器」についての「議論をタブー視してはならない」と応じ、ウクライナ危機に乗じて「改憲」の動きを早めようとしています。

 それゆえ、ウクライナ危機は単に他国の問題ではなく、日本の民主主義や 「核兵器禁止条約」の問題とも深く関わっていると言えるでしょう。

一方、28日の 17時のJIJI.COMには 維新の松井大阪市長が「非核三原則、昭和の価値観」、 「米国の原子力潜水艦をリースしてもらうというような議論もすべきだ」と語ったとの記事が載りました。

21世紀にようやく批准された「核兵器禁止条約」の意義を真っ向から否定する ような、「昭和維新」をスローガンにした青年将校達のように威勢のよい発言ですが、「八紘一宇」を唱えた彼らの行動がどのような悲惨な状況を生みだしたかを冷静かつ真剣に考えるべき重大な岐路に立っていると思えます。

(2022/ 02/28 改訂、 03/24 改訂し改題)

「明治維新」の賛美と「国家神道」復活の危険性

 司馬遼太郎氏が亡くなられた後で起きたいわゆる「司馬史観」論争では、「#日本会議」系の論者が、対立する歴史家の見方を「自虐史観」と名づけ、司馬氏の歴史観とは正反対の見方を安倍元首相などの政治家が全面的に応援して広めた。

 しかし、司馬氏は坂本竜馬をテロリズムの批判者として描いた『竜馬がゆく』において、自分の言葉で「神国思想」や「維新」の理念をこう批判していたのである。

 幕末の「神国思想」が「国定国史教科書の史観」となり、「その狂信的な流れは昭和になって、昭和維新を信ずる妄想グループにひきつがれ、ついに大東亜戦争をひきおこして、国を惨憺(さんたん)たる荒廃におとし入れた」(「勝海舟」『竜馬がゆく』)。

 「天誅」という名のテロが横行した「明治維新」を無条件に賛美することは日本社会の右傾化を促して、2・26事件から太平洋戦争に至る流れを繰り返す危険があった。

 実際、安倍元首相などの意向に沿ってNHKの大河ドラマなどで「維新」が美しく描かれたことや、「#日本会議」系の論客たちの理論に立脚して物語を創作した『永遠の0』がヒットしたことは、日韓関係の緊張や現在の「憲法」問題につながっていると思える。

 劇作家の井上ひさし氏や憲法学者の樋口陽一氏は、司馬氏の歴史観に深い理解を示していたが、司馬氏の歴史観を右翼的な立場から賛美した「司馬史観」論争以降は大幅に説得力を減じて、改めて論じることには無力感も覚える。

 だが、日本が危機に瀕している現在、あきらめずに論じることにする。ここでは安倍元首相の国家観を論じたツイートの後で、その危険性を指摘していた司馬遼太郎の「明治国家観」、「昭和国家観」、「沖縄観」、「韓国観」の順番に掲載する。

 結論 日露戦争の美化から太平洋戦争へ

 (2022/01/24、改題)