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フィクションから事実へ――『永遠の0(ゼロ)』を超えて(1)

百田尚樹氏は『永遠の0(ゼロ)』の内容に関連して、「私は徹底して戦争を、特攻を否定している」と語っていました。この小説が読者の心に訴えかける力を持った一因は、「生命が大切」だと訴えた主人公・宮部久蔵の理念には、権力に幻惑されて「憎悪表現」を用いるようになる以前の百田氏の純真な思いが反映されていたからだと思われます。

それゆえ、今回は「生命が大切」というこの小説の主人公・宮部久蔵の理念を生かすためにはどうすべきなのかを、「臆病者」と題された第2章での長谷川の言葉を数回にわたって詳しく分析することで考えてみたいと思います。

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戦闘機搭乗員としてラバウル航空隊で一緒だった長谷川は、開口一番に久蔵のことを「奴は海軍航空隊一の臆病者だった」と決めつけ、さらに「奴はいつも逃げ回っていた。勝つことよりも己の命が助かることが奴の一番の望みだった」と語ります。

それに対して、「命が大切というのは、自然な感情だと思いますが?」と慶子が言うと長谷川は「それは女の感情だ」といい、「それはね、お嬢さん。平和な時代の考え方だよ」と続け、「みんながそういう考え方であれば、戦争なんか起きないと思います」という慶子の反論に対しては、小学生に諭すように次のように断言しているのです。

「人類の歴史は戦争の歴史だ。もちろん戦争は悪だ。最大の悪だろう…中略…だが誰も戦争をなくせない。今ここで戦争が必要悪であるかどうかをあんたと議論しても無意味だ。…中略…あの戦争が侵略戦争だったか、自衛のための戦争だったかは、わしたち兵士にとっては関係ない。」

これに対して慶子は何も言えずに黙ってしまっていたのですが、祖父の「思い」を大切にするならば、「それは女の感情だ」と決めつけた長谷川に対してきちんした反論をすべきだったでしょう。以下に長谷川の特徴的な論理を3つほど抽出して問題点を明らかにすることにします。

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「命が大切というのは、自然な感情」ではなく、「平和な時代の考え方だ」。

この論理の危険性については、『罪と罰』の読者には改めて繰り返す必要はないと思えますが「平和な時代」であれば、人を殺せば殺人罪に問われますが、戦時中では「敵を多く殺した者が英雄として讃えられ、勲章を与えられるのです。

それゆえ、古今のすぐれた政治家は、そのような「戦争の時代」にならないように叡智を働かせていたのです。

一方、〈武器輸出に支援金…安倍政権が「戦争できる日本」へ本格始動〉の見出しで「東京新聞は」、安倍政権が戦後の自民党政権でさえ制限していた「武器の輸出」に踏み切り、一気に軍事大国への道を進み始めていることを指摘しています。

「兵器を売ることで日本が世界に戦争の火だねをばらまいてしまうこと」になると指摘した埼玉大名誉教授の鎌倉孝夫氏は、「日本は『死の商人』になってしまいます」との強い危惧を語っていたのです。

リンク→大河ドラマ《龍馬伝》と「武器輸出三原則」の見直し

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前回は〈この小説のテーマは「約束」です。言葉も愛も、現代(いま)よりずっと重たかった時代の物語です〉との著者からのコメントに対して、読者からのコメントとして、次のような激しい言葉を記しました。

〈この小説のテーマは「詐欺」です。言葉も命も、現代(いま)よりずっと軽かった時代の物語です。〉

このとき私が想起していたのは小説『永遠の0(ゼロ)』の内容だけではなく、「大東亜共栄圏」の確立を目指して始めた「日中戦争」や「太平洋戦争」の際に唱えられた「五族協和」「王道楽土」などの「美しいスローガン」のことでした。

すでにこのブログでも何回か触れたように「満州国」などの実態は、それらの「美しいスローガン」とは正反対のものだったのです。

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同じような響きは安倍政権が掲げる「積極的平和主義」からも聞き取れます。

語義からも感じられるように「積極的平和主義」という用語は、最初に唱えられた「平和学」の用法とは全く正反対の意味で用いられています。

すなわち、「ウィキペディア」によれば、【「積極的平和」は1942年、米国の法学者クインシー・ライトが消極的平和とセットで唱えたのが最初とされる。その後、ノルウェーの平和学者ヨハン・ガルトゥングは消極的平和を「戦争のない状態」、積極的平和を戦争がないだけではなく「貧困、差別など社会的構造から発生する暴力がない状態」と定義した。この定義が「積極的平和(主義)」の世界での一般的な解釈となって】おり、「日本でも平和学では20世紀から同様に解釈されて」いるとのことなのです。

つまり、「積極的平和主義」という用語からは、「攻撃は最大の防御」という用語と同じような危険な響きが感じられのです。

このように見てくるとき、「命が大切というのは、自然な感情」ではなく、「平和な時代の考え方だ」と決めつけた長谷川の考えは、「積極的平和主義」を謳う安倍政権の方向性を擁護する考えだったのです。

リンク→百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「殉国」の思想

リンク→百田尚樹氏の「ノンフィクション」観と安倍政治のフィクション性

(2016年3月9日。改題し、リンク先を追加)

黒幕は誰か――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(9)

 

ネタバレあり

『永遠の0(ゼロ)』を読み始めた私は、そのトリックが明らかになる後半に近づくにしたがって、この作品が「文学」を侮辱しているばかりでなく、その「作者」が「人間」を馬鹿にしていると激しい怒りを覚えました。

「黒幕は誰か」という今回のテーマについては、一応、推理小説的な構造を持つこの作品のネタバレになるので躊躇していました。

しかし、「臆病者」と罵(ののし)られながらも、「家族」のことを大切に思い、「命が大切」と語っていた宮部久蔵が終戦間際に「突撃」して亡くなるという最後の不自然さについては、すでにアマゾンのカスタマーレビューなどでも指摘されています。

それゆえ、まだ読んでいない人にはネタバレになることをお断りしたうえで、『永遠の0(ゼロ)』という小説の構造において、誰が「オレオレ詐欺」グループの黒幕的な働きをしているのを明らかにしたいと思います。

*   *

まず、『永遠の0(ゼロ)』(講談社文庫)の家族関係と人間関係を確認しておきます。

家族関係

宮部久蔵(祖父、零戦のパイロット、特攻隊員として死亡)

宮部松乃(祖母、久蔵の死後、大石賢一郎と再婚)

佐伯清子(宮部夫妻の娘、姉弟の母、夫の死後、会計事務所を経営)

佐伯健太郎(清子の息子、語り手、弁護士を志す若者)

佐伯慶子(清子の娘、フリーのライター)

 佐伯慶子をめぐる二人の男性

高山隆二(大手新聞社の終戦60周年のプロジェクトの一員。慶子に好意を抱く)

藤木秀一(大石賢一郎の法律事務所で学生時代からアルバイトをしながら司法試験を目指し、慶子が想いを寄せていた男性)

取材対象者

第2章/長谷川梅男(ラバウル航空隊の戦友、祖父の宮部を「臆病者」と罵る)

第3章/伊藤寛次(第一航空戦隊赤城時代の戦友。久蔵の空戦技術を高く評価)

第4章/井崎源次郎(ラバウル航空隊時代の部下。久蔵に二度助けられる)

第5章/井崎源次郎(ガダルカナル島での悲惨な戦いについて語る)

第6章/永井清孝(ラバウルで機体を整備。久蔵についての逸話を語る)。

第7章/谷川正夫(戦争後の苦労を語り、戦後のモラルの低下を批判)

第8章/岡部昌男(県会議員を4期勤める、「特攻は十死零生の作戦」と批判)

第9章/武田貴則(一部上場企業の元社長、徳富蘇峰を礼賛し、高山を追い返す)

第10章/景浦介山(祖父と空中戦を行って命を狙った・やくざ)

第11章/大西保彦(小さな旅館を営む元一等兵曹で沖縄戦の記憶を語る)

第12章/大石賢一郎(ここで初めて宮部久蔵との関わりを明かす)。

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察しのよい人ならば、この構成を見ただけで推測がつくと思いますが、この小説を姉弟の成長の物語として読もうとするとき、その致命的な欠陥が小説の構造と祖父・大石賢一郎が果たしている役割にあると思われます。

第1章で語り手の健太郎は、祖母・松乃の葬式からしばらく経って、祖父の大石賢一郎から、彼らの実の祖父が終戦間際に特攻で戦死した海軍航空兵で、祖父の死後に祖母は彼らの母・清子を連れて自分と再婚したことを知らされて驚いたが、「祖母からは前夫のことはほとんど知らされていなかったらしい」と記しています。

それから6年後に、司法試験に4度も落ちて「自信もやる気も失せて」いた「ぼく」が、フリーのライターをしている姉の慶子から取材のアシスタントを頼まれて、「特攻隊員」たちの取材をとおして戦争に迫ろうとするこの企画に参加するところから物語が始まります。

慶子から「本当のおじいさんがどんな人だったのか、とても興味があるわ。だってこれは自分のルーツなのよ」と語られた「ぼく」は、「突然、亡霊が現れたようなもの」と感じたと描かれており、なぜ祖父の大石賢一郎が自分の妻・松乃の死後まで彼らの実の祖父のことを黙っていたのだろうかという疑問が浮かんできますが、その疑問には答えられぬままに物語は進むのです。

*   *

祖父の大石賢一郎については、30歳を過ぎてから弁護士となった「努力の人」であり、「貧しい人たちのために走り回る弁護士」で、「ぼくはその姿を見て弁護士を目指していたのだ」と描かれているだけでなく、事務所でアルバイトをしていた苦学生の藤木からも尊敬されるような「理想」の人物であることが強調されています。

第3章の冒頭では「ぼく」が実の祖父の調査を始めたことを告げると、一瞬、祖父の大石が「ちょっと怖いようなまなざし」で、「じっとぼくの目を見つめた」と描かれていますが、そこでは何も語られません。

注目したいのはこの章で、アルバイトをしていた苦学生の藤木との楽しい思い出や、中学生だった姉との関係が簡単に記されており、それが新聞記者・高山との比較という形で続いていくことになることです。

たとえば、この小説の山場の一つである第9章では、慶子に好意を寄せる新聞記者・高山が、一部上場企業の元社長にもなっていた特攻隊員の武田貴則から怒鳴られてすごすごと引き返す場面が描かれていました。

それゆえ、高山には姉の慶子に合わす顔もないはずなのですが、「最後」と題された第11章では、高山が武田への発言を深く反省して姉にもプロポーズをするが、弟から「ぼくはあの人を義兄さんとは呼びたくないな」と言われたことで迷っていた慶子は断念し、藤木との結婚を考えることが示唆されているのです。

*   *

このような流れを経てようやく「流星」と題された第12章で、「臆病者」と罵られていた実の祖父・宮部久蔵の実像が「祖父」の大石賢一郎から明かされることになります。

映画《永遠の0(ゼロ)》の宣伝文では「60年間封印されていた、大いなる謎――時代を超えて解き明かされる、究極の愛の物語」と大きく謳われています。

しかし、第12章で大石は「いつかお前たちに語らなければならないと思っていた」と説明していますが、「命の大切」さを訴えていた宮部の理念を娘の清子に伝えようとはせず、60年間も沈黙し続けたのでしょうか。

結論的にいえば、「命の大切」さを訴えていた宮部の理念ではなく、自分の思想を植え付けるためだったと思われます。

進化した「オレオレ詐欺」では、様々な役を演じるグループの者が限られた情報を一方的に伝えることによって次第に被害者を信じ込ませていきます。

それと同じように小説『永遠の0(ゼロ)』でも大石の沈黙こそが、巧妙に構成された順番に従って登場する「特攻隊員」の語る言葉とよって、次第に読者を「滅私奉公」の精神と「白蟻」の勇敢さを教えた戦前の「道徳」に基づいて行動するように誘導することを可能にしていたのです。

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次回の予告

このシリーズは年を越す前に一気に書き上げたいと考えていましたが、最終回は来年になります。

次回: 侮辱された主人公・宮部久蔵――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(10)

「作者」の強い悪意――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(7)

 

いよいよ終りに近づいてきましたので、「美しい家族愛の物語」を描いているかに見える小説『永遠の0(ゼロ)』の構造に秘められた「強い悪意」を明らかにしたいと思います。

ただ、その前に〈私は、記憶に新しい都知事選での応援演説をはじめ百田氏の言動には同意できないことだらけです。〉と書いた寺川氏が引用している百田氏の次のようなツイートの文章を分析することで、「作者」の「強い悪意」を明らかにしておきます。

「すごくいいことを思いついた!もし他国が日本に攻めてきたら、9条教の信者を前線に送り出す。そして他国の軍隊の前に立ち、『こっちには9条があるぞ!立ち去れ!』と叫んでもらう。もし、9条の威力が本物なら、そこで戦争は終わる。世界は奇跡を目の当たりにして、人類の歴史は変わる。」

この文章が書かれたのは2013年10月7日付のツイートとのことですので、百田氏がNHKの経営委員に就任する一ヶ月前になりますが、NHKはどのような審査をしてこのような発言をする彼を選んだのでしょうか。しかも、百田氏は就任の際には「公共放送として、視聴者のために素晴らしい番組を提供できる環境とシステムを作ることにベストを尽くしたいと思っています」との抱負を述べていたのです(太字引用者)。

*   *

文明史家とも呼べるような広い視野と深い洞察を行っていた作家の司馬遼太郎氏は、明治以降の日本における「義勇奉公とか滅私奉公などということは国家のために死ねということ」であったことに注意を促して、「われわれの社会はよほど大きな思想を出現させて、『公』という意識を大地そのものに置きすえねばほろびるのではないか」という痛切な言葉を記していました(『甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか』、『街道をゆく』第7巻、朝日文庫)。

一ヶ月前のツイートの文章を思い出せば、百田氏は恥ずかしくてNHKの経営委員には就任できなかったのではないかと私には思えたのですが、司馬氏の記述を踏まえて考えるならば、このとき百田氏が用いた「公共放送」とは現在用いられている「公共」という意味ではなく、「国民」に人としての尊厳の重要性ではなく、「滅私奉公」の精神と「白蟻」の勇敢さを教えた戦前の「道徳」に基づいている可能性があります。

戦前や戦争中の放送が政治家や「大本営の発表」をそのまま伝えていたことを思い起こすならば、百田氏は「公共放送」という言葉で、新しい権力者となった安倍首相への「服従」をNHKに暗に要求していたとも考えられるのです。

*   *

このように書くと言い過ぎではないかと感じる人もいるかもしれません。しかし、「戦争が起きたときには『9条教の信者』を前線に送りだせばよい」とした百田氏の文章を読んで思い出したのは、戦争末期にも東条英機首相の方針に反対した丸山眞男などの学者だけでなく、松前重義などの高級官僚も陸軍の二等兵として「前線」に送りだされていたことです。

つまり、安倍首相の「お友達」である百田氏のツイッターでの発言は、単なる「思いつき」ではなく、「歴史的な事実」を踏まえた「恫喝」に近い性質のものなのです。

説明するまでもありませんが、互いに殺しあいを行う戦場では何を語っても無意味であり、声を上げる前に射殺されるだろうことは確実だと思われます。

このことを重視するならば、百田作品の「信者」が、このメッセージを読んで、「9条教の信者」は殺してもよいと誤解する危険性もなくはありません。それゆえ、先のツイッターの文章は「テロ」の「教唆」となる危険性さえあり、「言葉の重み」に対する百田氏の認識の軽さに唖然とします。

最近の日本では「セクハラ」だけでなく、「パワハラ」や「アカデミー・ハラスメント」なども罪に問われるようになってきていますが、いかに親しい「お友達」であっても、危険な発言に対してはきちんと対処すべきでしょう。

 

 

「作品」に込められた「作者」の思想――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(6)

 

前回の記事ではテーマが拡散してしまうために触れませんでしたが、『マガジン9』のスタックの寺川薫氏の「コラム」で問題だと思われたのは、「作者と作品の関係」に言及した次の文章です。

〈「作品」でなく「人」で判断することの愚かさは、「主張の内容」でなく、それを唱えている「人や組織」で事の是非を判断することと似ています。〉

*   *

たしかに、様々な人が存在する「組織」に対して、同じレッテルを「貼る」ことは問題でしょう。

たとえば、勤王派と言われた幕末期の長州藩にも、松陰が処刑された直後は「尊皇攘夷」の過激な行動を行いながら、後には世界的な広い視野を有していた時期の松陰の教えに従って世界を知ろうとした松陰の初期からの弟子・高杉晋作だけでなく、「征韓論」を主張して萩の乱では「殉国軍」を挙兵した前原一誠のような人物もいました。

しかし、〈「作品」でなく「人」で判断することの愚かさは、…中略…「人や組織」で事の是非を判断することと似ています〉と主張するのは、論理の飛躍になるでしょう。

なぜならば、様々な人が存在する「組織」には多様性があって当然なのですが、作者が苦労して創作した文学作品には作者の思いがつまっており、「作者」と「作品」が全く別でもかまわないとすることは、作品をとおして作者の思想や思いに迫ろうとする文学研究をも否定することになる危険性があるからです。

作者の人間としての幅が非常に広い場合はありますし、作者の思想や作品の傾向が時を経て、変わることもあります。しかし、「作品」にはその時の作者の思いや思想が反映されているのです。

つまり、「作者」と「作品」が全く別でもかまわないとすることは、「文学作品」を他の人(社)から依頼され、その意向を汲んで製作する「コマーシャル的な作品」と同じレベルにしてしまうことになるのです。

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他方で、「作者」と「作品」が全く別でもかまわないとした寺川氏は、〈私は、記憶に新しい都知事選での応援演説をはじめ百田氏の言動には同意できないことだらけです。〉と書き、戦争が起きたときには「9条教の信者」を前線に送りだせばよいとした百田氏のツイートも引用しています。

このツイートの内容は、きわめて重要な問題を含んでいますので、次回はこのツイートの文面と『永遠の0(ゼロ)』との関係をとおして、この小説が「他者」との「対話」を拒否するような構造になっていることを明らかにしたいと思います。

沈黙する女性・慶子――「オレオレ詐欺」の手法と『永遠の0(ゼロ)』(3)

 

語り手である「ぼく」の姉・慶子が、「オレオレ詐欺」のヒール(悪役)を演じる新聞記者・高山の助手ではないかという仮説は奇抜すぎるように見えるかもしれません。

このようなイメージを持ったのは、「臆病者」と題された第2章で、取材のために訪れた元海軍少尉・長谷川梅男から「祖父」の宮部久蔵を激しく批判された際に姉の慶子が、きちんとした反論をほとんどできずに、打ちのめされて帰ってくる箇所に強い違和感を抱いたためです。

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胡散臭さは取材に行く前の姉弟の会話からも臭っていました。「ところで、戦争のことについて、ちょっとは勉強したの?」という「ぼく」の質問にたいして、慶子は「そんな暇ないわよ」と答えているのです。

その程度の知識しかなくてプロジェクトに参加しようとしている慶子の責任感のなさにはあきれますが、慶子をスタッフとして採用した高山の責任はより重いでしょう。

慶子の無責任さは取材の場ですぐに明らかになります。

戦闘機搭乗員としてラバウル航空隊で一緒だった長谷川は、開口一番に久蔵のことを「奴は海軍航空隊一の臆病者だった」と決めつけ、さらに「奴はいつも逃げ回っていた。勝つことよりも己の命が助かることが奴の一番の望みだった」と語ります。

それに対して、「命が大切というのは、自然な感情だと思いますが?」と慶子が言うと長谷川は「それは女の感情だ」といい、「それはね、お嬢さん。平和な時代の考え方だよ」と続け、「みんながそういう考え方であれば、戦争なんか起きないと思います」という慶子の反論に対しては、小学生に諭すように次のように断言しているのです。

「人類の歴史は戦争の歴史だ。もちろん戦争は悪だ。最大の悪だろう…中略…だが誰も戦争をなくせない。今ここで戦争が必要悪であるかどうかをあんたと議論しても無意味だ。…中略…あの戦争が侵略戦争だったか、自衛のための戦争だったかは、わしたち兵士にとっては関係ない。」

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長谷川から「こんなわしの話が聞きたいか」と聞かれて黙ってしまった姉に変わって「ぼく」が「お願いします」といって、取材が始められます。

問題は、この取材の後で百田氏が慶子に「本当言うと、おじいさんには少しがっかりしたわ…中略…私は反戦思想の持ち主だから、おじいさんには勇敢な兵士であってほしくないけど、それとは別にがっかりしたわ」と語らせていることです(太字は引用者)。

百田氏は「ぼく」に、「正直に言うと、姉はジャーナリストには向いていないと思っていた。気は強いが、気を遣い過ぎる性格だから」とあらかじめ断らせていました。しかし、フリーライターとはいえ30歳という年齢を考えれば、戦争や当時の状況についてのかなりの知識をもっていて当然のはずなのですが、弟に「戦争のことについて、勉強する暇はなかった」と告げていた慶子は、戦争も知らずにどのようにして「反戦思想の持ち主」になったのでしょうか。

この小説の最大の山場の一つである第9章「カミカゼアタック」では、プロジェクトの企画者である新聞記者の高山が、「一部上場企業の社長まで務めた」元海軍中尉の武田貴則からその平和思想を批判され、「帰ってくれたまえ」と言われてすごすごと退散する場面が描かれています。

普通ならば、このような状況に不自然さを感じると思いますが、多くの読者がそこにあまり違和感を覚えないのは、自分の「反戦思想」を「それは女の感情だ」と決めつけられても、姉の慶子がきちんとした反論をほとんどできなかったと描かれている第2章「臆病者」が、第9章の展開の伏線となっているからだと思われます。

この作品に私が「オレ、オレ詐欺」の手法を感じるのは、百田氏がこの後で「ぼくの心にも祖父が臆病者だったという台詞(せりふ)はずっしりと残っていた…中略…なぜならば、ぼく自身がいつも逃げていたからだ。ぼくには祖父の血が流れていたのだ」と続けているからです。

こうして、「祖父」の疑惑に関心を持った孫の「ぼく」の苦悩に共感した読者は、最後まで「物語」から抜け出すことができなくなるという構造をこの小説は持っているのです。

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『永遠の0(ゼロ)』については、まだいろいろと考えるべきことがありますが、明後日の日曜が投票日なので今回はここまででいったん中断することにし、最後に稿をかえて選挙の争点にも関わる「命が大切というのは、自然な感情だと思います」という慶子の言葉の意味を考察することにします。

 

「ブログ記事・タイトル一覧」のページにⅥとⅦを掲載

 

ブログの記事が増えましたので、「ブログ記事」タイトル一覧Ⅵ(2014年7月1日 ~12月3日)とタイトル一覧Ⅶ(2014年12月3日~)を、「ブログ記事・タイトル一覧」(物件)に掲載しました。

リンク→「ブログ記事」タイトル一覧Ⅶ(2014年12月3日 ~)

総選挙期間中、「デモクラTV」が無料公開

昨年7月12日のブログ記事でデモクラTV(http://dmcr.tv)と東京新聞を推薦しました。
リンク→デモクラTVと東京新聞を推薦しますーー新聞報道の問題と『坂の上の雲』
下記の案内が入っていましたので、お知らせします。
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総選挙期間中、デモクラTVを無料公開します。
ストリーミング、アーカイヴを含めて、
12月2日から14日まで、いつでも、だれでも、
ご覧いただけます。
ぜひお知り合いの皆様にお伝えください。
また、SNSなどで、広めていただければ
大変、助かります。

デモクラTVは、去年4月の発足以来、
平等な機会の確保による、
自由な言論の実現をめざし、
数多くの番組を制作してきました。
でも、まだまだ道半ばです。
ひょっとすると、もっと悪い方向に、
日本の言論が行ってしまいそうな気のする今日この頃です。

さらに多くの皆様に、デモクラTVをご利用いただくため、
選挙期間中に限り、すべてのコンテンツを無料公開いたします。
ぜひ、たくさんの皆様にお知らせください。
そして、面白い! この言論の場は大切だ!と思われたら、
登録して会員になってくださるよう、お口添えをお願いします。

百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「殉国」の思想

作家でNHK経営委員でもある百田尚樹氏の名前を私が最初に意識したのは、衆議院議員だった土井たか子氏が2014年9月20日に死去したとの報道がなされた後で、氏がツイッターで故人の土井氏を「売国奴」と罵ったことが報じられた際でした。

今回、NHKの経営委員紹介のページを調べると、2013年の11月に経営委員に就任した際には、「公共放送として、視聴者のために素晴らしい番組を提供できる環境とシステムを作ることにベストを尽くしたいと思っています」との抱負を述べていたことが分かりました。

「衆議院」の議長も勤めた故人をNHKの「放送倫理基本綱領」にも反すると思われる用語でいう一方的に罵る人物が、どのようにしてNHKの経営委員に選ばれたのでしょうか。その後、共著を発行したワックという出版社から出版された雑誌『WiLL』に書かれた次のような記事の裁判の判決が見つかりました(「ウィキペディア」)。

〈雑誌『WiLL』(2006年5月号)に「社民党(旧社会党)元党首の土井たか子を「本名『李高順』、半島出身とされる」と記述し、慰謝料1000万円と謝罪広告の請求訴訟を起こされる。2008年11月13日、神戸地裁尼崎支部は「明らかな虚偽」として『WiLL』に200万円の賠償を命じた。この判決は最高裁で確定している。〉

『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』を発行したのが、雑誌『WiLL』を発行しているワックであることにも注目するならば、NHKの経営委員に選ばれた百田氏がこのような発言をしたのは共著者である安倍首相の権力を背景に、最高裁での判定に意趣返しをしたようにも見えてきます。

さらに、衆議院議長をも勤めた土井たか子氏の「死」が大きく報道された際に、ツイッターでこのような発信をしたのは、その「死」をも利用して自分の存在を政権や有権者に誇示しようとしていたのではないかという「いかがわしさ」も感じます。

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先のブログ記事〈 政府与党の「報道への圧力」とNHK問題〉では書き忘れていましたが、安倍政権が復活してから、NHKのニュース番組で取り上げられる回数が増えたばかりでなく、安倍首相の顔がクローズアップされるなど、番組の「公平性」に問題があると思われるような状況が生まれています。

一方、著名人「やしきたかじん」氏と昨年、再婚した妻との「純愛」とその「死」を看取るまでの「美談」を描いた百田尚樹氏のノンフィクション『殉愛』(幻冬舎)が出版される際には、その著作を民放の各局が大々的に取り上げるという事態が起きました。

NHK経営委員の百田氏の著作の宣伝方法には、「首相」という肩書きを用いて自分の見解を反映させるという安倍首相と同じ手法が用いられているように感じます。

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一般の広告だけでなく民放の番組でも「美談」が大々的に報じられたことで、百万部は確実に超えると思われたノンフィクション『殉愛』は、思わぬ所から破綻をきたします。

すでに報道されているように、記載された「事実」とは異なる多くの証拠の写真がウェブ上に流れているだけでなく、屋鋪氏の実の娘にも裁判に訴えられたことで、その「事実性」に疑問が突きつけられたのです。

この記事を書くために著書を買い求めて読んでいますが、読み始めてすぐに感じたのは、どっかで読んだことがあるというデジャブ感です。むろん、様々な記事が出ていますのでそのためもあるのですが、一番の大きな理由は自分が宣伝したい「人物」の「正しさ」を強調するために、それに反対する人物やグループを徹底的にけなし追い詰めるという『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック)で用いられていた手法にあると思われます。

『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック)では「売国」などという「憎悪表現」と思われる用語が、民主党という政党や私たちがほとんど接する機会のない政治家に対して投げかけられていました。それゆえ、テーマと範囲が広すぎてわかりにくかったのですが、「家族」の物語を描いたこのノンフィクション『殉愛』(幻冬舎)では、登場人物も多くないためにその構図が分かりやすいのです。

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様々なサイトで紹介されているので具体的な内容には踏み込みませんが、改めて感じたのは百田という人物は、分かりやすく「美しい物語」を創作し、それを宣伝する能力には長けているようだが、「人の「死」や「命」の尊厳をきちんと感じることが出来ない、自分の立身出世のみに関心がある作家だろうということです。

それと全く同じことが「身内」と「お友達」のみを重視する共著者の安倍首相にも当てはまるのではないでしょうか。

安倍氏には過去の「歴史」を美しい物語に創り変え、それを宣伝する能力には長けていても、夫や子供を失った「国民」の苦しさや哀しみ、そして現在の状況に耐えている民衆の痛みをきちんと感じることが出来ない政治家だろうということです。

今度の総選挙では、「国民」が「臣民」とさせられて、「羊」のように戦場へと送られた戦前の歴史を「取り戻させない」ためにも、重要な一票を投じたいと考えています。

追記:「百田尚樹氏の「ノンフィクション」観と安倍政治のフィクション性」という記事を書くなかで百田氏の『殉愛』という題名には、「国家」のためには「国民の生命や財産」を犠牲にしてもかまわないとして「戦前」を美化する安倍晋三氏の思想へのおもねりがあると強く感じました。

それゆえ、〈百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「愛国」の手法〉を、〈百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「殉国」の思想〉に改題します。

リンク→憲法96条の改正と「臣民」への転落――『坂の上の雲』と『戦争と平和』

リンク→百田尚樹氏の「ノンフィクション」観と安倍政治のフィクション性

(2016年3月9日。〈百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「愛国」の手法〉より改題し、青い字の箇所とリンク先を追加) 

御嶽山の噴火と川内原発の再稼働――映画《夢》と「自然支配」の思想

 

御嶽山の噴火と川内原発の再稼働――映画《夢》と「自然支配」の思想

 

一、地震予知と火山噴火予知の難しさ

27日に長野、岐阜両県にまたがる御嶽山(3067メートル)が突然、噴火し、28日現在も山頂付近の登山道などで31人が心肺停止になっているのが発見されたとのニュースが流れています。この噴火からは火山の噴火や地震の予知などの難しさとともに、人間に恵みを与えてくれる大自然の力の脅威を改めて痛感させられました。

「東京新聞」の本日付けの社説は「地球上には約千五百の活火山がある。日本列島には、そのうち百十、約7%が集中している」が、「大学の研究者など火山専門家が常駐する観測施設があるのは桜島(鹿児島県)や有珠山(北海道)など五カ所だけ」であることを指摘し、「火山国に暮らすわれわれとしては」、「謙虚に火山を恐れ、よく備えなければならない」と記しています。

そして、原子力規制委員会が「今月、周辺に活火山群がある鹿児島県の九州電力川内原発について、新規制基準にかなうと判断した」ことに、「原発は、対応できるのか」との重大な疑問を呈しています。

二,原発の推進と19世紀の「自然支配の思想」

すでにこのHPでも引用していたように日本の近代化を主導した思想家の福沢諭吉は、西欧文明の優越性を主張したバックルの文明観に依拠しながら、『文明論之概略』において「水火を制御して蒸気を作れば、太平洋の波濤を渡る可し」とし、「智勇の向ふ所は天地に敵なく」、「山沢、河海、風雨、日月の類は、文明の奴隷と云う可きのみ」と断じていました。

このような福沢の文明観について歴史学者の神山四郎は、「これは産業革命時のイギリス人トーマス・バックルから学んだ西洋思想そのものであって、それが今日の経済大国をつくったのだが、また同時に水俣病もつくったのである」と厳しく批判しています(『比較文明と歴史哲学』)。

このような文明観が原発の推進を掲げる現政権や日本の経済界などでは受けつがれたことが、地殻変動により形成されていまもさかんな火山活動が続き地震も多発している日本列島に、原爆と同じ原理によって成り立っている原子力発電所を建設させ、福島第一原子力発電所の大事故を引き起こしたといえるでしょう。しかも、今回は運良く免れることができたものの、東京電力の不手際と優柔不断さにより関東一帯が放射能で汚染され、東京をも含む関東一帯の住民が避難しなければならない事態とも直面していたのです。

慧眼な思想家であった福沢諭吉ならば原発事故に遭遇したあとでは、その見解を変えて、「反核」「脱原発」運動の先頭に立っていたと思われます。しかし、19世紀の「自然支配」の思想を未だに信じている経済産業省や産業界は、大自然の力への敬虔な畏れの気持ちを持たないように見える首相をかつぐことで、大惨事の後も原発の再稼働や輸出の政策を強引に推し進めています。

このような経済産業省の姿勢からは、文明史家の司馬遼太郎氏が強く批判していた「参謀本部の思想」が連想させられます。「参謀本部」がミッドウェー海戦での大敗北についての情報を隠す一方で、「神州無敵」などのスローガンで「国民」を欺いたことが、沖縄での悲惨な戦闘や広島・長崎の被爆という悲劇を生み出していたのです。

三、映画《夢》における「知識人」の批判と民衆の叡智

1986年のチェルノブィリ原発事故の後で詳しくこの事故について調べた黒澤明監督は、作家のガルシア゠マルケスが対談で「核の力そのものがいけないのではなくて、(中略)核の使い方を誤った人がいけないんじゃないでしょうか」と、「核の平和利用」もありうると主張したことに対して、次のように批判していました。

「核っていうのはね、だいたい人間が制御できないんだよ。そういうものを作ること自体がね、人間が思い上がっていると思うの、ぼくは」と語り、「人間はすべてのものをコントロールできると考えているのがいけない。傲慢だ」。

この言葉にはドストエフスキーの『罪と罰』などをとおして、「知識人」の「良心」の問題を深く考察した黒澤監督の「原発」観だけでなく、自然観が明確に語られていると思います。実際、放射性廃棄物の中にはプルトニウムのように半減期が長く、安全なレベルまで放射能が減少するまでには10万年近くかかるものもあることが以前から指摘されており、目先の利益だけでなく、後の世代のことや日本の自然環境を考えるならば、そのような廃棄物を産み出す「原発」の推進は「傲慢」だといえるでしょう。

しかも、黒澤監督の発言は日本の「自然地理的な状況」を踏まえてのものでもあるとも感じます。なぜならば、黒澤監督のもとでチーフ助監督を務めた経験もある森谷司郎監督は、海底に異変が起きていることを発見し、続いて東京大地震、富士山噴火、そして列島全体が沈没するという壮大なテーマの長編小説『日本沈没』を橋本忍の脚本で1973年に映画化していたのです。

古代では「天変地異」を天が人間に伝える警告と捉えていましたが、それは民衆の「迷信」と見なすべきではなく、むしろ日頃から大地や自然と接して暮らすことから得た民衆の「叡智」と考えるべきでしょう。

原発事故が描かれている映画《夢》の第六話「赤富士」で、幼い子供たちを連れた母親に「原発そのものに危険はない。絶対ミスを犯さないから問題はない、とぬかした奴等は、ゆるせない!」と厳しく批判させていた黒澤監督は、第八話の「水車のある村」では古代の「モーゼのような髭を生やした」水車小屋の老人にこう語らせていたのです。

多くの「知識人」は、「人間を不幸せにする様なものを一生懸命発明して得意になっている。また、困った事に、大多数の人間達は、その馬鹿な発明を奇跡の様に思って有難がり、その前にぬかずく。/そしてそのために、自然が失われ、自分達も亡んで行くことに気がつかない」。

御嶽山の噴火と映画《夢》」より改題

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