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国際比較文明学会での発表論文(英文)を「主な研究」に掲載

前回の記事では、サンクト・ペテルブルクで行われた国際比較文明学会で発表した拙論の要旨を記すとともに、科学アカデミーの学術センター会議室で行われた「サンクト・ペテルブルク――文明間の対話の都市」、「東西の諸文明と諸文化の交流におけるロシア」、「グローバリゼーションと文明の未来」の3つの部会の模様と、「北西ロシア――ロシア文明の源とその絶頂」と題して行われた学術旅行の簡単な紹介をしました。

 リンク→サンクト・ペテルブルクでの国際比較文明学会の報告

今回は国際比較文明学会での発表論文”The Acceptance of Dostoevsky in Japan — the theme of St.Petersburg and dialogue as the means”を「主な研究」に掲載します。

 リンク→The Acceptance of Dostoevsky in Japan

安倍政権の核政策・関連記事一覧

先ほど「パグウォッシュ会議の閉幕と原子炉「もんじゅ」の杜撰さ」という記事をアップしました。

祖父である岸信介氏の核政策を受け継いで、福島第一原子力発電所の大事故の後も、「国策」として行われてきた安倍政権の核政策の問題についてはこれまで書いてきましたので、以下に、関連記事を掲載します。

 

安倍政権の核政策・関連記事一覧

「安全保障関連法案」の危険性(2)――岸・安倍政権の「核政策」

原子力規制委・田中委員長の発言と安倍政権――無責任体質の復活(6)

原発事故の「責任者」は誰か――「無責任体質」の復活(3)

安倍晋三首相の公約とトルーマン大統領の孫・ダニエル氏の活動――「長崎原爆の日」に(2)

原子雲を見た英国軍人の「良心の苦悩」と岸信介首相の核兵器観――「長崎原爆の日」に(1) 

真実を語ったのは誰か――「日本ペンクラブ脱原発の集い」に参加して

御嶽山の噴火と川内原発の再稼働――映画《夢》と「自然支配」の思想

「長崎原爆の日」と「集団的自衛権」 

原発事故の隠蔽と東京都知事選

終戦記念日と「ゴジラ」の哀しみ

原爆の危険性と原発の輸出

汚染水の危機と黒澤映画《夢》

汚染水の深刻さと劇《石棺》

 

『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館のホームページより転載)

ISBN978-4-903174-33-4_xl(←画像をクリックで拡大できます)

装画:田主 誠/版画作品:『雲』

ジャンル[歴史・文学・思想]/四六判上製 245頁 /定価:本体2,700円+税

人文書館・HPより

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明治という激動と革新の時代のなかで

山茶花に新聞遅き場末哉 (子規 明治三十二年、日本新聞記者として)

司馬遼太郎の代表的な歴史小説、史的文明論である 『坂の上の雲』等を通して、近代化=欧化とは、 文明化とは何であったのかを、 比較文学・比較文明学的視点から問い直す!

「坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲がかがやいているとすれば、 それのみをみつめてのぼってゆく」明治の幸福な楽天家たちとその後の 「時代人」たちは、「坂の上」のたかだかとした「白い雲」のむこうに 何を見たのであろうか。

陸羯南(くが・かつなん)が創刊した新聞『日本』の「文苑」記者であり、 歌人・俳人・写生文家・正岡子規の軌跡を辿り、生涯の友・夏目漱石、 そして新聞人でもあった司馬遼太郎の視線(まなざし)から、しなやかに読む。

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目次

 序章 木曽路の「白雲」と新聞記者・正岡子規

第一章 春風や――伊予松山と「文明開化」

第二章 「天からのあずかりもの」――子規とその青春

第三章 「文明」のモデルを求めて――「岩倉使節団」から「西南戦争」へ

第四章  「その人の足あと」――子規と新聞『日本』

第五章 「君を送りて思ふことあり」――子規の眼差し

終章 「秋の雲」――子規の面影

リンク→ 『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館、目次詳細

〈ハリウッド版・映画《Godzilla ゴジラ》と「安保関連法」の成立〉を「映画・演劇評」に掲載

昨年は映画《ゴジラ》が初めて公開されてから60周年ということで、原爆や原発に焦点をあてながら映画《ゴジラ》の特徴と「ゴジラシリーズ」の問題を4回にわたって考察した後で、〈映画《ゴジラ》の芹沢博士と監督の本多猪四郎の名前を組み合わせた芹沢猪四郎が活躍するアメリカ映画《Godzilla ゴジラ》は、映画《ゴジラ》の「原点」に戻ったという呼び声が高い〉ことを紹介し、下記のように結んでいました。

「残念ながら当分、この映画を見る時間的な余裕はなさそうだが、いつか機会を見て映画《ゴジラ》と比較しながら、アメリカ映画《Godzilla ゴジラ》で水爆実験や「原発事故」の問題がどのように描かれているかを考察してみたい」。

昨年は様々な事情からこの映画を観るのを控えていましたが、「安保関連法」が国会で「強行採決」された直後の9月25日夜に日本テレビ系「金曜ロードSHOW!」で地上波初放送されたので、「映画・演劇評」のページに感想を記すことにします。

 

映画《ゴジラ》関連の記事一覧

映画《ゴジラ》考Ⅴ――ハリウッド版・映画《Godzilla ゴジラ》と「安保関連法」の成立

映画《ゴジラ》考Ⅳ――「ゴジラシリーズ」と《ゴジラ》の「理念」の変質

映画《ゴジラ》考Ⅲ――映画《モスラ》と「反核」の理念

 映画《ゴジラ》考Ⅱ――「大自然」の怒りと「核戦争」の恐

映画《ゴジラ》考Ⅰ――映画《ジョーズ》と「事実」の隠蔽

 

リメンバー、9.17(3)――「安保関連法」の成立と「防衛装備庁」の発足

「安保関連法案」が「戦争法案」と呼ばれることを極端に嫌っていた安倍晋三氏は、国会での審議の際にもたびたび「レッテル貼り」と野党を批判していました。

しかし、「安保関連法案」が参議院で可決される前に、すでに経団連は「防衛産業を国家戦略として推進すべきだ」とする提言をまとめ、「新たに発足する防衛装備庁に対して、(1)装備品に関する適正な予算を確保し、人員の充実を図る(2)関係省庁を含めた官民による緊密な連携を基に、装備品や技術の海外移転の仕組みを構築する」などを具体的に要求していました。

リンク「安保法制」成立は防衛ビジネスのビッグチャンス 経団連のあからさまな(J-CASTニュース-2015/09/28)

こうして安倍政権下で発足した「防衛装備庁」について、「東京新聞」は〈「平和」名目に武器輸出促進〉という副題をつけた10月1日の夕刊記事で、「相手国が日本の事前同意なしに再輸出したり目的外使用したりする事例を認めており、日本製の武器や部品が知らない間に紛争地で使われる余地がある」だけでなく、「武器に関する権限が集中して防衛企業との関係が密接になり、汚職の温床になるとの指摘もある」と記し、さらにこの庁の発足が「軍拡競争」を助長する恐れについても次のように詳しく説明しています。

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防衛装備庁の設置は、安倍政権が「積極的平和主義」を名目に、海外への武器輸出に関する厳しいルールを緩和したのに合わせた対応だ。輸出促進だけでなく、軍事技術の面でも米国やオーストラリア、欧州諸国と共同開発などの連携を深める目的がある。自衛隊の海外活動の範囲を飛躍的に拡大させる安全保障関連法と連動しており、平和国家としてのこれまでの歩みと逆行する。

武器輸出解禁の背景には、経済界からの強い要請もある。武器や装備品の開発・生産企業は、同時に原発やインフラの海外輸出を行う企業が中心。海外で競争が激化する中、武器や装備品の部品などの輸出、他国との共同開発を増やすことで、体力や利益を高めたい思惑からだ。

安倍政権は、武器輸出拡大も成長戦略の一部だと主張する。だが、利益優先の武器輸出促進は安保法に盛り込んだ集団的自衛権行使容認や他国軍の支援などとともに、敵国とみなされた国々の警戒感を高め「軍拡競争」を助長しかねない。

防衛省は過去、官製談合事件を起こし、旧防衛施設庁を廃止した経緯がある。名称を変えて役所を「復活」させ、再び組織が肥大化することは、防衛産業との新たな癒着を生む危険性もはらんでいる。 (中根政人)

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これらの出来事は「安保関連法案」の実態が「戦争法案」であったことを雄弁に物語っているでしょう。

このブログでは、明治7年の台湾出兵や明治10年の西南戦争などでは利益をあげ、巨万の財を築くことになる政商・岩崎弥太郎を語り手とした大河ドラマ《龍馬伝》(2010)が、安倍政権の政策を宣伝する広報的な性格を強く持っていることを指摘してきました。

リンク→大河ドラマ《龍馬伝》と「武器輸出三原則」の見直し

リンク→大河ドラマ《龍馬伝》の再放送とナショナリズムの危険性

「J-CASTニュース」は、今回の「安保関連法」の成立を「三菱重工業など日本を代表する防衛産業が、安保法案の成立をビジネスチャンス拡大の好機ととらえている」との指摘をしています。

しかし、それは目先の利益に惑わされた軽薄な見方といわねばならないでしょう。帝政ロシアや大日本帝国の歴史が物語っているように、軍事費の増大は一部の政治家と防衛産業に一時的には莫大な利益をもたらすことはあっても国民は増税に苦しめられて貧しくなり、最終的には国家の破綻につながる危険性が大きいのです。

被爆という世界で初めての悲劇を経験した国民や与野党の議員が70年間の長い時間をかけて定着させてきた「平和国家」としての日本のイメージを、クーデター的な方法で破壊した危険な安倍政権に代わる政権を一日も早く打ち立てる必要があるでしょう。

なぜ今、『罪と罰』か(2)――「ゴジラ」の咆哮と『罪と罰』の「呼び鈴」の音

ゴジラ

(製作: Toho Company Ltd. (東宝株式会社) © 1954。図版は露語版「ウィキペディア」より)

1954年の3月1日にアメリカ軍による水爆「ブラボー」の実験が行われました。この水爆が原爆の1000倍もの破壊力を持ったために、制限区域とされた地域をはるかに超える範囲が「死の灰」に覆われて、160キロ離れた海域で漁をしていた日本の漁船「第五福竜丸」の船員が被爆しました。

この事件から強い衝撃を受けた黒澤明監督は「世界で唯一の原爆の洗礼を受けた日本として、どこの国よりも早く、率先してこういう映画を作る」べきだと考えて映画《生きものの記録》の脚本「死の灰」(黒澤明、橋本忍、小國英雄)を書き始めました。

水爆実験に同じような衝撃を受けた本多猪四郎監督が同じ年の11月に公開したのが映画《ゴジラ》でした。この映画を久しぶりに見た時に感じたのは、冒頭のシーンが第48回アカデミー賞で作曲賞、音響賞、編集賞などを受賞したスティーヴン・スピルバーグ監督の映画《ジョーズ》(1975年)を、映像や音楽の面で先取りしていたことです。

《ジョーズ(Jaws)》の内容はよく知られていると思いますが、観光地で遊泳していた女性が大型の鮫に襲われて死亡するが、事態を軽く見せるために「事実」を隠そうとした市長などの対応から事件の隠蔽されたために、解決が遠ざかることになったのです。

一方、映画《ゴジラ》の冒頭では、船員達が甲板で音楽を演奏して楽しんでいた貨物船「栄光丸」が突然、白熱光に包まれて燃え上がり、救助に向かった貨物船も沈没するという不可解な事件が描かれていました。伊福部昭作曲の「ゴジラ」のライトモチーフは、一度聴いたら忘れられないような強いインパクトを持っているが、その理由を作曲家の和田薫はこう説明しています。

「円谷英二さんから特に画を観させてもらったというエピソードがありますよね。あの曲は低音楽器を全て集めてやったわけですが、画を観なければ、ああいう極端な発想は生まれません」(『初代ゴジラ研究読本』、122頁)。

この言葉は映像と音楽の深い関わりを説明していますが、実は、長編小説『罪と罰』でも、若き主人公が「悪人」と見なした高利貸しの老婆のドアの呼び鈴を鳴らす場面も、あたかも悲劇の始まりを告げる劇場のベルのように響き、読者にもその音が聞こえるかのように描かれているのです。

*   *   *

ゴジラはなかなかその姿をスクリーンには現わさず、観客の好奇心と不安感を掻きたてるのですが、遭難した漁師の話を聞いた島の老人は大戸島(おおどしま)に伝わる伝説の怪獣「呉爾羅(ゴジラ)」の仕業ではないかと語り、昔はゴジラの被害が大きいときには若い女性を人身御供として海に捧げていたが、今はその代わりにお神楽を舞っているのだと説明します。

暴風雨の夜に大戸島に上陸して村の家屋を破壊し、死傷者を出した時にも「ゴジラ」はまだその全貌を現してはいないのですが、島に訪れた調査団の前に現れた「ゴジラ」の頭部を見た古代生物学者の山根博士(志村喬)は、国会で行われた公聴会で発見された古代の三葉虫と採取した砂を示しながら、おそらく200万年前の恐竜だろうと次のように説明します。

「海底洞窟にでもひそんでいて、彼等だけの生存を全うして今日まで生きながらえて居った……それが この度の水爆実験によって、その生活環境を完全に破壊された。もっと砕いて言えば あの水爆の被害を受けたために、安住の地を追い出されたと見られるのであります……」。

ここで注目したいのは、山根博士が古代の恐竜「ゴジラ」が水爆実験によって、安住の地を奪われたために出現したと説明していることです。その説明はビキニ沖での水爆実験によって、「第五福竜丸」事件を引き起こした後も、冷戦下で互いに核実験を繰り返す人間の傲慢さを痛烈に批判し得ているばかりか、黒澤監督が映画《夢》の第六話「赤富士」で予告することになる福島第一原子力発電所の大事故の危険性をも示唆していたと思えます。

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『罪と罰』のあらすじはよく知られていますが、「人間は自然を修正している、悪い人間だって修正したてもかまわない、あいつは要らないやつだというなら排除してもかまわない」という考え方を持っていた主人公が、高利貸しの老婆を殺害したあとの苦悩が描かれています。

現在の日本でも「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と解釈した文芸評論家・小林秀雄長編小説の『罪と罰』論が影響力を保っているようですが、ここで重要なのは、この時期のドストエフスキーが「大地主義」という理念を唱えていたことであり、ソーニャをとおしてロシアの知識人というのはロシアの大地から切り離された人たちだと批判をしていたことです。

たとえば、ソーニャは「血で汚した大地に接吻しなさい、あなたは殺したことで大地を汚してしまった」と諭し、それを受け入れた主人公は自首をしてシベリアに流されますが、最初のうちは「ただ一条の太陽の光、うっそうたる森、どこともしれぬ奥まった場所に湧き出る冷たい泉」が、どうして囚人たちによってそんなに大事なのかが分からなかったラスコーリニコフが、シベリアの大自然の中で生活するうちに「森」や「泉」の意味を認識して復活することになる過程が描かれているのです。

このような展開は一見、小説を読んでいるだけですとわかりにくいのですが、ロシア文学者の井桁貞義氏は、スラヴには古くから「聖なる大地」という表現があり、さらに古い叙事詩の伝説によって育った庶民たちは、大地とは決して魂を持たない存在ではなく、つまり汚されたら怒ると考えていたことを指摘しています。つまり、富士山が大噴火するように、汚された大地も怒るのです。

そして、ソーニャの言葉に従って、大地に接吻してから自首したラスコーリニコフはシベリアの大地で「人類滅亡の悪夢を」見た後で、自分が正当化していた「非凡人の理論」の危険性を実感するようになることです。

この意味で『罪と罰』で描かれている「呼び鈴」の音は、単にラスコーリニコフの悲劇の始まりを告げているだけではなく、「覚醒」と「自然観の変化」の始まりをも示唆しているように思えます。

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(序)――「安倍談話」と「立憲政治」の危機

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(1)――「立憲主義」の危機と矮小化された『罪と罰』

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(3)――事実(テキスト)の軽視の危険性

リンク→なぜ今、『罪と罰』か(4)――弁護士ルージンと19世紀の新自由主義

参院特別委員会採決のビデオ判定を(4)――福山哲郎議員の反対討論

9月19日未明に開かれた参院本会議では特別委員会での「採決」に違法性はないのかという重大な問題を残しつつも、自民・公明両党などの賛成多数により「安全保障関連法案」が可決されました。

他方、国会審議では第三次アーミテージ・ナイ・レポートの内容と詳細に比較して、今回の法案が自公両党の作成によるものではなく、指示された事項の「完全コピー」の疑いが強いことや昨年末に行われた米軍中枢との会談で河野統幕長が、「(安保法制について)来年夏までには終了する」「オスプレイの不安全性を煽るのは一部の活動家だけ」などと発言していたことも明らかになりました。

このような結果を受けて野党議員からは国会審議に先立ってアメリカ議会に成立を約束した安倍政権が保守政治家の「気概」を喪っているのではないかとの厳しい批判もありました。

それゆえ、自分たちの言動の正しさを証明するためにも、安倍政権の側からもこれらの追求に対する反論が敢然となされるものと考えていました。しかし、答えるのではなく、違法性の疑いも指摘されている「採決」により、審議を打ち切ってこそこそと退場した安倍晋三氏と閣僚たちの姿は、「みっともない」の一言に尽きると思われます。

ただ、その「公平性」が厳しく問われているNHKはこの場面もきちんと中継し、日本中に放映していたので、来年に予定されている参議院選挙や、その後の衆議院選挙まで、この映像は日本各地に広まっていき、「事実」を伝えることになるでしょう。

*   *   *

興味深いのは、「牛歩、長時間演説、泣き落とし…未明の参院、野党が連発したルール違反の数々」と題した記事で野党を厳しく批判した産経新聞が、違法性の疑いも指摘されている「採決」の裏側を明らかにしたスクープ記事も掲載していたことです。

すなわち、〈“ふくよかな”議員が外側ブロック、自民の「鴻池委員長防衛シフト」〉という表題の記事は、いわゆる「人間かまくら」の構築が*1、防衛大出身の佐藤正久筆頭理事が指南役となり、開会前の同日早朝、ひそかに集まってシミュレーションもした」ことなどを内部暴露していたのです。

この記事は「若手議員たちは室内で、それぞれの体格や運動能力に応じた配置を考え、最も早く委員長席にたどり着くルートなどをシミュレーション。それが鉄壁の守備につながったという」と書き、この成果につながったのが防衛大の伝統競技である棒倒しの訓練であったことに注意を促して記事を結んでいます。

「国民の生命」に深く関わるこの法案を審議する参議院を、防衛大の体育祭のレベルに引き下げた佐藤議員の活躍を活写したこの記事と写真は話題を呼んでツイッターなどでかなり広がっていますので、参院特別委員会採決の「違法性」を争う裁判では、重要な証拠となると思われます。

最期に参院特別委員会での強行採決が「無効」であると訴えた福山哲郎議員の参議院本会議での反対討論の一部を、ツイッターや新聞の記事なども参考に映像から文字起こしすることにします(急いだために抜けている箇所や発言通りではない箇所もあると思いますが、ご了承ください。憲法9条の意義についての発言などは、後ほど改めて記すことにします)。

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現在も私は与党の暴力的な強行採決は断じて認めるわけにはいきません。今も国会周辺には多くの人が反対の声をあげて集まっており、全国でテレビやフェイスブックやツイッターで注視しています。SEALDsだけでなく、憲法の学者、元最高裁長官、各大学の有志の皆さん、そして一人ひとりの個人が、この法案を廃案にしたいと少しずつ一歩ずつ勇気を出して全国で動き出しています。これの数え切れない皆様の気持ちを代弁するには力不足ですが、立憲主義、平和主義、民主主義、日本の戦後七十年の歩みにことごとく背くこの法案に対して違憲と断じ、反対を表明します。

国民の皆様に心からお詫びさせて頂きます。残念ながらあと数十分もすれば、数の力におごった与党がこの法案を通過させることになるでしょう。本当に申し訳なく思います。野党は力不足でしたが、それぞれの議員がそれぞれの政党が、やれることは懸命にやらせていただいたつもりです。そこは国民に信頼して頂きたいと思います。

今の私の発言は15分に制限されました。今日もお隣の衆議院では枝野幹事長が約2時間の演説をされました。なぜ参議院では15分なのでしょうか。ここは言論の府です。我々は国民の意見を伝えるためにここに立っています。言論の府の言論が与党により数の力で封殺されています。これは昨日の暴力的な強行採決にもつながっている。昨日の採決は存在し得ない、あり得ないと私は思います。

三権分立の我が国で、立法府で審議中の法案に対してOBとはいえ司法それも最高裁長官が「違憲」と発言されることは極めて異常な事態。いいですか、少なくとも四十年以上、日本は集団的自衛権を行使できないと、歴代法制局長官と自民党の先輩、首相を含むすべての閣僚が決めてきた。あなた方は違憲なのは明白だ。あなた方は保守ではない。あなた方にあるのは単なる保身でしかない。立法事実はどこかへ消えた。米艦防護もそう、自衛隊のリスクは減ると言った安倍総理の発言ももうほとんど絵空事になっている。これまでの審議でわが国の安全保障の法体系を崩していることが明らかなのに、なぜ謙虚に修正をしたり出し直すことは考えないのですか?

一つ重要なことを申し上げます。昨日の暴力的な強行採決の場面を思い出してください。鴻池委員長が復席されました。私は野党の理事として、議事に合意していなかったので議事の整理をしたいと委員長に歩み寄った。すると委員でもない与党議員が一気に駆け寄ってきて、委員長を取り囲みました。議事録には委員会の開会の時間が書いていない。

特別委員会では地方公聴会の報告がされていない。報告がないということは、採決の前提が崩れ、重大な瑕疵(かし)があることになる。野党の採決権が剥奪されたと同時に外部の方が公述人としてこられた方の議事録が残っていない、地方公聴会はなかったものにされます。与党は採決のルールを守っていない。時間を守ることよりも参院最大の汚点です。この採決は無効であるということになります。これこそが言論封殺ではありませんか。(後略)

(2016年2月24日。副題の一部を削除)

参院特別委員会採決のビデオ判定を(3)――NHKが中継放映した「採決」の実態

参院特別委員会で「自公両党」により「民主主義」に対する冒涜と思えるような「採決(?)」が行われた後で、民主党の福山哲郎理事が憤然と「あんな暴力的な採決が可決になったら、わが国の民主主義は死ぬ」とNHKのアナウンサーの問いに答えていたのが印象的でした。

安倍晋三氏*1に気に入られた籾井氏が会長を務めているNHKでは、この採決を正当化する「解釈」が行われているようですが、そのNHKが中継した映像は別の「事実」を明確に証言しているように思われます。

現在は日付が代わって19日の土曜日になりましたが、今も国会の外では参院特別委員会採決に際しての「自公両党」の暴挙を批判し、安倍政権の退陣を求める多くの人々が抗議活動を行っています。

このブログ記事では二日間にわたり参院特別委員会採決が「無効」である可能性を指摘してきました。NHKだけでなくワイドショーなどでも野党を批判する解説者がいまもいますが、有田芳生議員はツイートで分かりにくかった映像の裏側を明らかにしていますので、「自公両党」による「採決(?)」の問題点を指摘した箇所を引用しておきます。

*   *   *

心あるメディアの方にお願いです。自民党議員が委員会の強行採決で「人間かまくら」を作り、鴻池委員長を隔離した映像や写真を報道して下さい。わたしたちは、採決時に委員長席に抗議のため駆けつけたものの「無効採決」時に野党議員はおりません。あの異様な物体は自民党議員による暴力的な素顔です。

「いけー!」という自民党委員の合図で委員長席に向かった彼らは、鴻池氏を外部から隔離するために「人間かまくら」を作り出す。私の前にいた小川敏夫議員は眼鏡を飛ばされ、打撲傷を負った。行為者は――何と自民党の議員秘書だった。

安保特で鴻池委員長を「人間かまくら」に囲い込み、外部から何も見えない、聞こえない情況にして、「聴取不能」(速記録)の無効採決が行われた。そのとき鴻池委員長の背後に構えたのは、公明党の議員だった。調べてみれば剣道6段。「むきだしの暴力」採決の一光景だ。

委員席にいた議員は、自分が起立したとき、何を採決したかを知っている者はいないはずだ。「かまくら」のなかで何が起きているかは、囲い込んだ者たちしかわからないからだ。

*   *   *

以上のような方法で「採決(?)」された法案が可決されたと強弁することはできるのでしょうか。今も実施されているかどうかは分かりませんが、小学校のホームルームで何かを決めるための採決でそんなことをしたら、先生に厳しくしかられるでしょう。

「李下に冠を正さず」と題した記事では、多くの報道関係者が安倍氏によって会食に招待されていることを記しましたが、何度も接待されている記者がこのような「事実」をきちんと報道せず安倍氏を擁護する記事や発言を繰り返すならば、「贈賄の罪」にはならなくとも、少なくとも倫理的には厳しく問われるべきでしょう。

リンク→御用メディアはもはや共犯だ!安倍独裁政権の … – リテラ

リンク→安倍親衛隊フジテレビが御用記者・田崎史郎と結託して … – リテラ

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衆参両院での安倍氏の答弁が質問に答える真摯なものではなく、同じフレーズを繰り返す壊れたレコードのようなものであり、自席からヤジをとばして何度も注意されたことは憲政における汚点として記録されるでしょう。閣僚たちの発言も国会での答弁と呼べるような水準ではなかったことも明らかです。

さらに、「中央公聴会」や「地方公聴会」の後で、そこで発言した人々の意見が何ら審議に反映されておらず、報告もされていないことなど採決の前提が崩れていることなども指摘されています。

今回の採決にいたる手続きには違法性がなかったかを第三者の機関によって、残された議事録やNHKの映像資料の分析することによりきちんと調査し、明らかにすることが必要でしょう。

 

*1  安倍氏の肩書きを外した理由については、〈参院特別委員会採決のビデオ判定を(2)――「民主主義」の重大なルール違反〉を参照。

参院特別委員会採決のビデオ判定を(2)――「民主主義」の重大なルール違反

採決

図版は〔NHK NEWS WEB〕より

 

昨日のブログ記事では下記のような理由から、参院特別委員会採決は無効である可能性が強いと記しました。

〔不信任案が否決された直後に与党の議員が委員長席に駆け寄り、それに続いて野党議員が駆け寄り、もみ合う映像が何度も流されましたが、「締め括り審議」はどこに消えたのでしょうか。

すでに大相撲では映像によるビデオ判定が採用されています。鴻池委員長の発言は聞こえず、議事録には「精査不能」と記されているとのことですが、そのような場合には大相撲では「取り直し」となります。まして、「国民の生命」に関わる重要な法案ならば、「精査不能」の「締め括り審議」は、きちんと「やり直し」とされるべきと思われます。〕

*   *   *

印象的だったのは、参議院での「みっともない」光景に対して、何が起きたのかがわからないこのような状況下でNHKのアナウンサーが、「可決されたもようです」と何度も繰り返し*1、安倍首相がいち早く委員会の会場から去って行ったことです*2

その時はなぜ去って行くのかが分からなかったのですが、おそらく、このような委員会の流れを知っていたか、あるいは指示していたからでしょう。

その後、野党5党からは特別委の採決は無効だという申し入れを山崎正昭参院議長にしたが聞き入れられず、NHKの夜のニュース解説などでは、あの混乱の中で5回もの「採決」が行われたことになったとの説明がなされました。

しかし、「締め括り審議」などを飛ばして、委員長席を取り囲んだごく少数の自民・公明党議員のみが確認しただけの採決は、一般市民の感覚からはとうてい無効としか思えません(冒頭の図版参照)。NHKの籾井会長の意向でそのような解説をするようにとの業務命令があったかどうかは、今後、法廷などで検証されるべきでしょう

さらに、「毎日新聞」のデジタル版によれば、次のことも明らかになっています。「参院のウェブサイトで公開されている審議の録画には、鴻池氏が着席してからの約1分10秒間、「速記を中止しているので音声は放送していません」というテロップが出る。鴻池氏の入場直前に、委員長の代理を務めていた自民党の佐藤正久議員が速記の中止を命じているからだ。記録を取っていない間に採決が行われた可能性も否定できない。」

安倍晋三氏は首相の座にしばらくは留まるかも知れませんが、昨日の参議院で民主主義に対する重大なルール違反を犯し、そのことが問われていずれそう遠くない時期に失脚すると思われますので、今後、このブログでは首相の肩書きは外して記します。

*1 「毎日新聞」のデジタル版によれば、正確には次のような表現だったようです。「生中継するNHKすら『何らかの採決が行われたものとみられます』などと実況し、散会するまで『可決』を伝えられなかった」。

*2 同じく「毎日新聞」のデジタル版は、「採決前の慣例の首相らが出席する締めくくり質疑も省略された。理由を問うと鴻池氏の表情が険しくなった。『察してくれよ。本当はやりたかったですよ。野党の皆さんだって質問したかったでしょう。そういう事態だったということです』」と記しています。

(2015年9月18日。「毎日新聞」のデジタル版により、注などを追加)

関連記事一覧

参院特別委員会採決のビデオ判定を(1)―NHKの委員会中継を見て

李下に冠を正さず――ワイドショーとコメンテーター

「国会」と「憲法」、そして「国民」の冒涜――「民主主義のルール」と安倍首相

9月14日18時半 国会正門前に! ――自分の思いを表現すること

9.14

昨年末の総選挙では「秘密法・集団的自衛権」は、「争点にならず」と公言していたにもかかわらず、安倍政権は参議院で「違憲」の疑いが濃く、「戦争法案」を衆議院で強行採決しました。

この暴挙に対する批判が高まり、過半数の「国民」が慎重な審議を求めているにもかかわらず、自民・公明両党は参議院でも「国民」の理解とはかかわりなく採決を強行する方針を確認しました。

この法案の一連の審議を通じて明らかになったのは、「国民」の「生命」や「財産」を軽視する一方で、一部の大企業や「お友達」の利益を重視する安倍政権の独裁的な手法です。

この法案が通ると「日本」は再び「統帥権」が大手を振っていた戦前や、さらには「憲法」がなく「薩長藩閥政治」が国政を牛耳っていた明治初期の状況にまで後退してしまう危険性が強いと思われます。

明治の俳人・正岡子規は俳句の改革をとおして、「国民」の一人一人が自分の思いを自分の声で表現できる文芸の形式を確立しました。今の私たちに求められているのは、自分のできる範囲で自分の思いを為政者に伝えることでしょう。

リンク→「戦争法案」に反対する学生のアピールを転載――自分の声で語ること

リンク→「大義」を放棄した安倍内閣

リンク→「大義」を放棄した安倍内閣(2)――「公約」の軽視

(2015年9月15日。副題とリンク先を追加)