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ドストエーフスキイの会「第231回例会のご案内」

 ドストエーフスキイの会「第231回例会のご案内」を「ニュースレター」(No.132)より転載します。

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第231回例会のご案内

下記の要領で例会を開催いたします。皆様のご参加をお待ちしています。                                      

日 時2016年1月23日(土)午後2時~5時       

場 所場 所千駄ヶ谷区民会館(JR原宿駅下車7分)

       ℡:03-3402-7854 

報告者:田中沙季 

 題 目: 現代に『カラマーゾフの兄弟』は可能か

――チェーホフ記念モスクワ芸術座『カラマーゾフ』をめぐって

*会員無料・一般参加者=会場費500円

 

報告者紹介:田中沙季(たなか さき)

1988年生まれ。早稲田大学文学研究科博士後期課程ロシア語ロシア文化コース在学中。論文「ドストエフスキイ『白痴』における陰謀:イッポリートをめぐって」『ロシア研究の未来:文化の根源を見つめ、展開を見通す:井桁貞義教授退職記念論集』(2013年)、「Ф.М. ドストエフスキーの『白痴』終局における言葉、行為、空間」『ロシア語ロシア文学研究』(2014年)。

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231回例会報告要旨

 現代に『カラマーゾフの兄弟』は可能か

――チェーホフ記念モスクワ芸術座『カラマーゾフ』をめぐって

                 田中沙季

本報告では、2013年からチェーホフ記念モスクワ芸術座で上演されている劇『カラマーゾフ』における演出の方法や脚色の分析を通して、現代社会のコンテクストの中でФ.М.ドストエフスキーの作品を表現することの意味を問うてみたい。

上演時間が4時間30分に及ぶこの長大な劇は、ゾシマ長老の庵室で、低く鈍いBGMが鳴る中、黒い革張りのソファーに腰かけた登場人物たちが議論をする場面から始まっている。舞台上の調度品や人物たちの衣装は現代的ではあるものの、会話は『カラマーゾフの兄弟』そのままであり、重苦しい雰囲気である。ところがゾシマ長老が庵室の外へ出ると、舞台に異変が起こる。突然舞台の両脇からスクリーンが現れて、客席の脇に立っているホフラコヴァ夫人役の女優をアップで映し出す。彼女はハンドマイクを持って舞台上のゾシマ長老に対して病気の娘リザヴェータの話をし始めるのだが、その姿はテレビのトークショーの観客そのものだ。そうかと思うと今度は舞台上にリザヴェータが車椅子で登場し、画面が彼女の正面を映し出すやいなや大音量でロシアのポップミュージックが流れ出す。そして音楽が止むと再びBGMが鳴り始め、何事もなかったかのように暗い雰囲気に戻っていく。

信じがたいことかもしれないが、『カラマーゾフ』という劇では4時間半にわたってこのようなことが起こり続ける。フョードルとイヴァン、アリョーシャの間でなされる「神はあるか」という問答の後に、ドミートリーがロシアの歌謡曲とともに殴りこんできて舞台が一気に滑稽な場面へと変容したり、スメルジャコフが舞台上で目玉焼きを作ったり、イヴァンが幼児虐待の話をアリョーシャに聞かせる場面の後で、いきなりゾシマ長老の死を報道する「ワイドショー」のスタジオに舞台が急転したり、グルーシェンカが派手な衣装を着て『カリンカ』に合わせて踊ったり、僧侶がロックを歌いだしたりと、ありとあらゆる局面に現代的なもの、大衆的なもの、通俗的なものが付加され、聖なるものが排除されているのだ。

ドストエフスキー研究の第一人者であるЛ.И. サラスキナは芸術座のサイトに「(演出家の)К. ボゴモロフは自身の作品を『カラマーゾフ』と正確に名づけている。『兄弟』という言葉を取り除いてしまったのだ。このことは同胞愛が存在するためには兄弟が必要だというドストエフスキーの言葉に通じている」というコメントを寄せている。「同胞愛」のない『カラマーゾフ』が描き出しているのはひたすらに肉体的快楽のみが追及されている地獄の世界であり、そこでは当然アリョーシャとイリューシャら少年たちとの交流の場面はカットされているし、ゾシマ長老でさえ通俗的なテレビ番組のパロディによって戯画化されている。

『カラマーゾフ』は『カラマーゾフの兄弟』ではない。だが過剰なまでに世俗化された演出は、現代のロシアで作品の宗教性が共感不可能なものになっていることをよく示しているといえるだろう。2013年にフジテレビ系列で放送されたドラマ『カラマーゾフの兄弟』では日本の視聴者に合わせてか、原作の中のキリスト教的なテーマを「母親」に置き換えていた。それとは対照的に、芸術座の『カラマーゾフ』では安易な置き換えをせず、むしろ宗教的なテーマの不可能性を執拗なまでに示すことで、原作と現代ロシアとの間隙を表現しているのではないだろうか。本報告では『カラマーゾフ』の分析にとどまらず、他の演劇作品や映像作品との比較も交えることで、ドストエフスキーの作品を現代社会の中で表現するにあたって生じる問題について広く考えていきたい。

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「事務局便り」は、「ドストエーフスキイの会」のHP(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds)でご確認ください。

前回例会の「傍聴記」は、「主な研究」のページに掲載します。

 

「日本パグウォッシュ会議」が日印原子力協定を批判

今年、長崎で開かれた「パグウォッシュ会議」については何回か、このブログでも言及してきましたが、今日の「東京新聞」夕刊は、〈「核兵器廃絶 希求裏切る」 日本パグウォッシュ会議 日印原子力協定を批判〉という見出しで次のような記事を掲載しています。

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核兵器廃絶を目指す科学者らでつくる「日本パグウォッシュ会議」は二十五日までに、核拡散防止条約(NPT)未加盟のインドと日本が原子力協定の締結で原則合意したことについて「核兵器の廃絶を希求する被爆者や日本国民の期待を大きく裏切るものだ」と批判する声明を発表した。

声明は有志の連名。事実上の核保有国インドと、原発の輸出や技術協力などを可能にする協定を結ぶことは「世界の核軍縮・不拡散の規範に違反する」と指摘した。

その上で、政府が協定を締結するのであれば、インドが核実験をした場合に協定を破棄することを明文化することやインドに包括的核実験禁止条約(CTBT)批准など核軍縮の努力を要求することなどを求めた。

声明はまた、商業上の利益を優先し妥協することは「日本が積み上げてきた核軍縮外交の信頼性を失墜させる」と強い懸念を表明した。

 

「パグウォッシュ会議」関連の記事一覧

パグウォッシュ会議の閉幕と原子炉「もんじゅ」の杜撰さ

長崎でのパグウォッシュ会議と「核使用禁止」決議への日本の棄権

映画《母と暮せば》を見て

「文化の日」の叙勲とブレア元首相のイラク戦争謝罪――安倍政権の好戦的な価値観

小林秀雄の原子力エネルギー観と終末時計

 

リンク→〈「原発ビジネス」の衰退〉を転載

リンク→明治人の気概を――安倍政権と「原子力村」との癒着

 リンク→原爆の危険性と原発の輸出

 

「忘れる」文化と「記憶」する努力(1)――「天下り」の横行  

年末を迎えて「忘年会」の季節となりました。

「忘れる」ことが美徳とされる日本で、重要なことを「記憶」しておくために、いくつかの気になっていた原発事故関連の記事を記載しておきます。

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だいぶ前のことになりますが、10月4日の朝刊一面で「東京新聞」は、福島第一原子力発電所の大事故後の「天下り」の実態を調査した次のような記事を掲載していました。

その記事は「電力会社や関連団体に天下りした国家公務員OBが少なくとも、七十一人に上る」だけでなく、原子力エネルギーを推進していた「経産省」では、自粛を呼び掛けていたにもかかわらず、「最多の十七人が再就職していた」ことが判明したことを明らかにしています。

さらに、10月11日の朝刊一面の「原発事故後 蜜月続く」と題した記事では、「原発が立地、または立地予定の十四の道県で、少なくとも四十五人の幹部OBが、原発を推進する電力会社やその関連組織に天下りしていたこと」を明らかにしています。

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「消費税の増税」がやむを得ないことが強調され、「軽減税率をめぐる与党内の交渉」が大きく伝えられる一方で、「安倍政権と原子力村との癒着」を示すこのような事態が今も進んでいるのです。

安倍政権のもとでは、日本の「経済」を立て直すことは不可能でしょう。

 

〈「原発ビジネス」の衰退〉を転載

鈴木耕氏がツイートで、「ハフィントンポスト日本版」の記事を紹介して、こう記していました。

〈普通に考えれば、もう「原発よ、お前はすでに死んでいる」のです。〉

→「原発ビジネス」の衰退 各国で広まる原発離れ

http://www.huffingtonpost.jp/foresight/nuclear-plant-business_b_8851334.html … @HuffPostJapanさんから

 

私も全く同感です。

一時、もてはやされていた原子力エネルギーは、安全で安価な自然再生エネルギーの技術革新が進んだ現在では、すでに過去の技術となっていると思われます。

この過去の危険なエネルギーを「国策」として進めている安倍政権も、「未来志向」ではなく、「過去に依存」する政権と言えそうです。

(加筆のうえ、タイトルを変更)

「映画《羅生門》から映画《白痴》へ」を「映画・演劇評」に掲載

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(↑画像をクリックで拡大できます。日本版の映画《羅生門》のポスター(パブリック・ドメイン)、図版は「ウィキペディア」より。槙田寿文氏所有の旧東ドイツ版のポスター。図版は「日本経済新聞」のデジタル版より)。

先日アップした「映画ポスター・三題――《白痴》、《ゴジラ》、《生きものの記録》という記事では、槙田氏所収の旧東ドイツ版の「羅生門」のポスターにも言及しました。

テーマが拡散してしまうのでそのエッセイでは映画《羅生門》のポスターの比較を行っていませんでしたが、「むせかえる真夏の草いきれの中で繰り展げられる盗賊と美女とその夫の、息詰まるような愛慾絵巻!」という扇情的な文章が記されているポスターは、黒澤映画《羅生門》の適確な説明ではなく、小林秀雄の『白痴』論の受け売りになっているようにみえます。

この初演を見た研究者の一人が多くの日本人観客は映画を理解できずに、途中で退席した人もいたと証言していることを考慮するならば、このポスターは観客にミスリードをしていたことになるでしょう。

ある程度、正確に筋を伝えようとするならば、「価値が混乱した時代に起きた殺人事件、錯綜する証言。真相はどこに!」とでも記すべきだったと思えます。

そのことはなぜ日本ではヒットしなかったこの映画が外国ではヴェネツィア国際映画祭金獅子賞とアカデミー賞名誉賞を受賞したかをも物語っていると思えます。

それゆえ、拙著『黒澤明で「白痴」を読み解く』の映画《羅生門》の考察の箇所に、『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』より、小林秀雄の『白痴』理解の問題点を指摘した箇所と長編小説『罪と罰』のエピローグの解釈の問題を加筆して「映画・演劇評」に掲載しました。

明治人の気概を――安倍政権と「原子力村」との癒着

「東京新聞」は2015年12月4日の朝刊で、〈原子力機構 続く「不透明な契約」 関係企業・団体に222億円〉との大見出しで、次のように記していました。

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OBらが経営する「ファミリー企業」への不透明な発注が問題視されてきた日本原子力研究開発機構(茨城県東海村)が、今年九月末までの約一年間で少なくとも二百二十二億円の業務を、二十八のファミリー企業・団体に発注していたことが本紙の調べで分かった。全発注額の二割近くを占める。あり方を見直すと表明した四年前の二百七十七億円からあまり改善されていない。機構運営費の大半は税金でまかなわれている。 (小倉貞俊、山川剛史)

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この記事を受けて私は、薩長藩閥政治の腐敗に対して厳しかった明治の新聞人に言及しながら、「明治人の気概を」と題したブログ記事を書き始めたものの時間に追われてそのままになっていました。

今日の「東京新聞」朝刊は、「自民党行政改革推進本部の行政事業レビュープロジェクトチーム(PT)」が「二十一日、日本原子力研究開発機構(茨城県東海村)による不透明な入札を指摘する調査報告書を、河野太郎行革担当相に提出した」ことを報じています。

さらに記事は報告を受けた河野氏が、〈「事実なら相当ひどい。談合の疑惑が濃いとしか言いようがない数字だ」と指摘。PTの平将明座長も記者団に「正直言って異常だ」と述べ、党としても公正取引委員会と情報交換しながら対応する考えを示した〉と記しています。

すでに日本は「自然再生エネルギー」を有効に活用する科学技術を保有しているにもかかわらず、「原子力の重要性」を強調して「原子力村」との癒着を続けて、国民の税金を無駄に浪費している安倍政権は、明治の志士の気概に倣うならば、早期に平和的に打倒すべきでしょう。

安倍政権の人権感覚と福島の被曝線量――無責任体制の復活(9)

ここのところ新聞記事を追う暇がなかったために、少し古い記事になってしまいますが、「泉田新潟県知事9/5メディア懇談会」での知事の発言が「サイト阿修羅」で文字に起こされていました。

そこでは、長崎と広島で被爆された方には、累積被曝量が1mSvを超えた人には、被爆手帳が交付され、「この被爆者手帳貰うと、医療費無料」になっていたが、それから70年を経て起きた福島第一原子力発電所の事故では、「福島は年間20mSv浴びて」も、「医療費無料の対象にもならない」ことが指摘されています。

泉田新潟県知事は「年間約5mSvを超えると、日本の普通のエリアでは、放射線管理区域になる」が、「福島では20mSvまで住んでも良い」ということになると「法の下の平等っていうのは、どうなってるんでしょうかという訴えが、私のところにも届いて来ます」と語っています。

現在は安倍政権によって強引に原発の再稼働が行われていますが、まだ「沖縄」と同じように、「福島」も特殊な問題だと認識している人が多いように見えます。

しかし、戦前の東条状英機内閣と同じように、きわめて「無責任な」安倍政権下で現在の状況が進めば、「沖縄」や「福島」と同じような同じ状態が、日本中で起きる危険性がきわめて高いと思われます。

リンク→泉田新潟県知事9/5メディア懇談会 http://www.youtube.com/watch?v=FHUyhldie9o

 

安倍政権の無責任体質・関連の記事一覧

安倍首相の「嘘」と「事実」の報道――無責任体質の復活(8)

アベノミクスと武藤貴也議員の詐欺疑惑――無責任体質の復活(7)

原子力規制委・田中委員長の発言と安倍政権――無責任体質の復活(6)

「新国立」の責任者は誰か(2)――「無責任体質」の復活(5)

デマと中傷を広めたのは誰か――「無責任体質」の復活(4)

原発事故の「責任者」は誰か――「無責任体質」の復活(3)

TPP交渉と安倍内閣――「無責任体質」の復活(2)

「戦前の無責任体系」の復活と小林秀雄氏の『罪と罰』の解釈

大義」を放棄した安倍内閣(2)――「公約」の軽視

「大義」を放棄した安倍内閣

映画《母と暮せば》を見て

山田洋次監督の映画《母と暮せば》を見ました。

NHKBS1で放送されたドキュメンタリー番組「BS1スペシャル 戦争を継ぐ ~山田洋次・84歳の挑戦~」でその苦労が詳しく描かれていた冒頭の教室での被爆とインク瓶が溶ける場面は、やはり圧巻でした。

映像では、原爆の悲惨さを示すような生々しい映像はほとんど用いられていませんが、息子を喪った母親(吉永小百合)や快活だった医学生の息子(二宮和也)、その恋人(黒木華)などがきちんと描かれていました。

広島で被爆した娘のもとに父親が亡霊となって現れ、生き残ったことに罪悪感を持つ娘を励ますという井上ひさし氏の『父と暮せば』の構想を引き継いだこの映画でも、長崎で被爆して亡くなった若者の婚約者が、再び前を向いて生きようとするまでのエピソードを丹念に描いて、平和の大切さがじんわりと伝わる説得力のある映画になっていると感じました。

黒澤映画《夢》の「トンネル」のシーンと戯曲『父と暮せば』との関連については、拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)で少し触れましたが、この映画でも映画《夢》の「トンネル」のシーンを彷彿とさせる場面があり、黒澤監督の理念の継承も感じられました。

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安保関連法案を強行採決した安倍政権は軍需産業や原発産業の育成に力を入れていますが、今年は原爆が日本に落とされてから70年目に当たります。

原爆が日本に落とされたことに責任を感じたアインシュタインは、哲学者のラッセルとともにパグウォッシュ会議を組織して、戦争の危険性を強く科学者や市民に訴えましたが、今年はその会議が初めて長崎市で行われました。

戦後70年を迎えた今こそ、原水爆の危険性を深く思い起こすべき時期だと思われます。

リンク→映画『母と暮せば』予告 – YouTube

「寺田透の小林秀雄観」を「主な研究」に掲載

本日、『世界文学』第122号が届きました。

そこにはロシア文学関係では木下豊房氏の「ドストエフスキー文学翻訳の過去と現在」や、杉山秀子氏の「夏葉のチエホフ受容とその翻訳」などの論文が掲載されていますが、「作品の解釈と『積極的な誤訳』――寺田透の小林秀雄観」と題した私の小論も掲載されています。

論文の「はじめに」に記したように、寺田透の小林秀雄観についてはかねてから強い関心を持っていましたが、自分の感性によってドストエフスキーのテキストを読み込むことで、独自な解釈を行った小林秀雄の方法と同じように研究書には依拠せずに書きたいと考えていたために、手つかずのままでした。

拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』を上梓したあとで調べ初めてみるとすぐれた卓見が随所に見つかりましたので、小林の翻訳や文体についてだけでなく、『ゴッホの手紙』などの伝記的研究の問題点についても鋭い分析を行っていた寺田透の小林秀雄観を「主な研究」に掲載します。

リンク→作品の解釈と「積極的な誤訳」――寺田透の小林秀雄観

リンク→「様々な意匠」と隠された「意匠」

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「映画ポスター・三題」を「映画・演劇評」に掲載

本日、黒澤明研究会の「会誌」第34号が届きました。

この号では黒澤映画には欠かせない俳優の井川比佐志氏を囲んでのインタビューや追加取材など黒澤映画と出演者への敬意が感じられる丁寧な作りで「井川比佐志さん特集」が組まれています。参加者の方々の井川さんへの適確な質問で、黒澤明映画の現場に立ち会っているような感さえ受けます。

また、「井川比佐志さんの役者魂と安部公房との時代」と題された堀伸雄氏の論稿や槙田寿文氏の「シナリオ、書いたり消したり『どですかでん』」など特集に関連した論稿だけでなく、一般投稿にも「黒澤明と漱石山脈の接点(上)」と題された三井庄二氏の論稿も集まり、編集にあたった方々の思いが反映した充実した雑誌となっています。

私も「映画ポスター・三題――《白痴》、《ゴジラ》、《生きものの記録》」という短いエッセイを書きました。内容的には目新しいものではありませんが、映画のポスターという視点から、これらの映画の特徴に少しは迫ることができたのではないかと思えますので、「映画・演劇評」に掲載します。