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「なぜ今、『罪と罰』か」関連記事一覧を「主な研究」に再掲

ドストエフスキー関係の記事が見つけにくくなりましたので、何回か連載した記事は、「主な研究」に再掲することにしました。

まず、「なぜ今、『罪と罰』か」(1~9)を、「主な研究」の「タイトル一覧Ⅱ」に再掲します。

リンク→「なぜ今、『罪と罰』か」、関連記事一覧

宮崎議員の辞職と丸川環境相の発言撤回――無責任体質の復活(9)

妻の出産を機に育児休暇を取得する考えを表明して話題となっていた自民党の宮崎謙介衆院議員が12日に、記者会見で女性タレントとの不倫を認め、「自らの主張と軽率な行動のつじつまが合わないことを深く反省」して議員辞職願を提出したとの記事が今日の「東京新聞」に載りました。

一方、東京電力福島第一原発事故後に国が除染の長期目標を年間被ばく線量一ミリシーベルト以下に定めたことに「何の根拠もない」と発言していた丸川珠代環境相も12日に記者会見して発言を撤回して被災者に謝罪したものの、引責辞任は否定したとのことです。

宗教学者の島薗進氏は今日のツイッターで、真宗大谷派が2月1日に「関西電力高浜原子力発電所の再稼働に関する声明―原子力発電に依存しない社会を願って」を発表し、「他のいのちを顧みないものは、自らのいのちも見失います。そして、それは未来のいのちをも脅かすことになるのです。私たちは、原子力発電に依存し続けようとする人間の愚かさや核利用をめぐる無責任なあり方を、あらためて直視しなければなりません」と記していることを伝えています。

環境大臣の任務が国民の生命や安全を守ることであることに留意するならば、丸川珠代環境相の発言責任や安倍首相の任命責任は、議員辞職願を提出した宮崎議員よりもはるかに大きいと思えます。

安倍政権の支持団体であり日本の自然を大切に考えている筈の「神社本庁」は、このような事態をどのように把握しているのでしょうか。

武藤貴也議員と高市早苗総務相の「美しいスロ-ガン」――戦前のスローガンとの類似性

昨日は、〈高市総務相の「電波停止」発言と内務省の負の伝統〉という記事で高市議員の発言の危険性を指摘しました。

しかし、テレビなどでは戦前の日本を思わせる厳しい「言論統制」につながるこの発言の危険性がきちんと取り上げられていないようです。

これゆえ、ここではジャーナリズムではもうすでに過去の人となったようですが、一時、「時の人」となった武藤貴也議員の「憲法」観との比較を「美しいスローガン」をとおして行ってみます。

*   *   *

元・衆院平和安全法制特別委員会のメンバーであった武藤貴也議員は、自身のオフィシャルブログに、「私には、守りたい美しい日本がある。先人たちが、こんなに素晴らしい国を残してくれたのだから」という「美しいスロ-ガン」を掲げていました。

その武藤議員がどのような価値を「美しい」と感じているかは、2012年7月23日に「日本国憲法によって破壊された日本人的価値観」という題で書かれた文章により明らかでしょう。

「最近考えることがある。日本社会の様々な問題の根本原因は何なのかということを」と切り出した後藤氏は、「憲法の『国民主権・基本的人権の尊重・平和主義』こそが、「日本精神を破壊するものであり、大きな問題を孕んだ思想だと考えている」とし、「滅私奉公」の重要性を次のように説いている。

〈「基本的人権」は、戦前は制限されて当たり前だと考えられていた。…中略…国家や地域を守るためには基本的人権は、例え「生存権」であっても制限されるものだというのがいわば「常識」であった。もちろんその根底には「滅私奉公」と いう「日本精神」があったことは言うまでも無い。だからこそ第二次世界大戦時に国を守る為に日本国民は命を捧げたのである。しかし、戦後憲法によってもたらされたこの「基本的人権の尊重」という思想によって「滅私奉公」の概念は破壊されてしまった。〉  

*   *   *

戦前や戦中の日本における「公」の問題も深く考察していた司馬遼太郎氏は、「海浜も海洋も、大地と同様、当然ながら正しい意味での公のものであらねばならない」が、「明治後publicという解釈は、国民教育の上で、国権という意味にすりかえられてきた。義勇奉公とか滅私奉公などということは国家のために死ねということ」であったと指摘していました(『甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか』、『街道をゆく』第7巻、朝日文庫)。

事実、元・衆院平和安全法制特別委員会のメンバーであった武藤貴也議員が高く評価した作家の百田尚樹氏は、小説『永遠の0(ゼロ)』において徳富蘇峰の『国民新聞』を「反戦新聞」のように描いていましたが、徳冨蘇峰は『大正の青年と帝国の前途』において、自分の生命をもかえりみない「白蟻」の勇敢さを褒め称えて、「若者」に「白蟻」のような存在になることを求めていたのです。

それゆえ司馬氏は「われわれの社会はよほど大きな思想を出現させて、『公』という意識を大地そのものに置きすえねばほろびるのではないか」という痛切な言葉を記していたのです。

原発事故の後もその危険性を直視せずに、目先の利益にとらわれて原発や武器の輸出という「軍拡政策」に走るとともに、「アベノミクス」という「ギャンブル的な経済政策」を行ってきた安倍政権によって、日本は重大な危機に陥っていると思われます。

*   *   *

一方、強圧的な「電波停止」発言を行った高市総務大臣の「公式サイト」にも「美しく、強く、成長する国、日本を」という、「王道楽土」や「八紘一宇(はっこういちう)」などの戦前のスローガンと似た「美しいスローガン」が掲げられていました。

しかし、高市議員の「電波停止」発言が「放送法」に違反している可能性があるばかりでなく、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」と規定されている憲法にも反する発言との指摘がすでになされています。

さらに問題は、現在の「日本国憲法」を守ろうとする発言を多く放送する放送局には「電波停止」もありうるとした高市議員の発言が、シールズの主張を「彼ら彼女らの主張は『戦争に行きたくない』という自己中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまでまん延したのは戦後教育のせいだろうが、非常に残念だ」と批判していた武藤議員の発言とも通じているように見えることです。

これらの発言には戦前の日本の著しい「美化」がありましたが、そのような「日本」に「復帰」させないためにも、安倍政権の閣僚や「総務大臣」を勤めている高市議員がどのような「憲法」観を持っているかを、報道機関や民主主義団体ばかりでなく仏教界やキリスト界、そして日本の自然や大地だけでなく地球環境をも大切に思う神道の人々は、よりきびしく追求すべきだと思えます。

(2016年2月12日。副題と青い字の箇所を追加)

関連記事一覧

高市総務相の「電波停止」発言と内務省の負の伝統

「内務省の負の伝統」関連の記事一覧

武藤貴也議員の発言と『永遠の0(ゼロ)』の歴史認識・「道徳」観

武藤貴也議員の核武装論と安倍首相の核認識――「広島原爆の日」の前夜に

安倍首相の「核兵器のない世界」の強調と安倍チルドレンの核武装論

麻生財務相の箝口令と「秘められた核武装論者」の人数

百田直樹氏の小説『永遠の0(ゼロ)』関連の記事一覧

「内務省の負の伝統」関連の記事一覧

先ほど、〈高市総務相の「電波停止」発言と内務省の負の伝統という記事をアップしました。

以下に、司馬遼太郎氏の作品をとおして考察した「内務省の負の伝統」関連の記事のリンク先を示しておきます。

 

関連記事一覧

「特定秘密保護法案」と明治八年の「新聞紙条例」(讒謗律)

司馬遼太郎の「治安維持法」観

司馬作品から学んだことⅠ――新聞紙条例と現代

改竄(ざん)された長編小説『坂の上の雲』――大河ドラマ《坂の上の雲》と「特定秘密保護法」

「特定秘密保護法案」の強行採決と日本の孤立化

司馬作品から学んだことⅡ――新聞紙条例(讒謗律)と内務省

司馬作品から学んだことⅢ――明治6年の内務省と戦後の官僚機構

司馬作品から学んだことⅣ――内務官僚と正岡子規の退寮問題  

司馬作品から学んだことⅤ――「正義の体系(イデオロギー)」の危険性

司馬作品から学んだことⅥ――「幕藩官僚の体質」が復活した原因

司馬作品から学んだことⅦ――高杉晋作の決断と独立の気概

司馬作品から学んだことⅧ――坂本龍馬の「大勇」

「特定秘密保護法」と自由民権運動――『坂の上の雲』と新聞記者・正岡子規

司馬作品から学んだことⅨ――「情報の隠蔽」と「愛国心」の強調の危険性

近著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』(人文書館)について 

高市総務相の「電波停止」発言と内務省の負の伝統

昨日は安倍首相が国会答弁で「改憲」を繰り返した問題を取り上げましたが、「東京新聞」は今日(2月10日)の朝刊で、Q&Aの形で高市総務相が高市早苗総務相が八日に続き九日も衆院予算委員会で、テレビ局などが放送法の違反を繰り返した場合、電波法に基づき電波停止を命じる可能性に言及した」ことを報道していました。

*   *   *

A 心配なのは報道を萎縮させる動きだ。自民党は昨年四月、報道番組でやらせが指摘されたNHKと、コメンテーターが官邸批判したテレビ朝日のそれぞれの幹部から事情を聴取した。昨年十一月には、放送倫理・番組向上機構(BPO)が自民党によるNHK幹部の聴取を「圧力」と批判した。その後、看板キャスターらの降板決定が相次ぎ、報道のあり方を危ぶむ声もある。

Q やっぱり心配だね。

A 民主党の細野豪志政調会長は九日の記者会見で「放送法四条を振りかざして、メディアの萎縮をもたらすと非常に危惧する」と述べた。報道圧力と受け取られる政権側の発言は国会で議論になりそうだ。

*   *   *

この高市発言を読んで思い出したのは、昨年の夏に問題となった作家の百田尚樹氏の発言のことでした。

すなわち、安倍首相との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』があり、さらには元NHK経営委員を務めた作家の百田直樹氏が、自民党若手議員の勉強会「文化芸術懇話会」で「沖縄の二つの新聞はつぶさないといけない」などと自分が発言したことに関して、昨年、8月8日に東京都内で記者会見を行って「一民間人がどこで何を言おうと言論弾圧でも何でもない」と述べていたのです。

この発言に関して当初は百田氏を擁護していた安倍首相が3日の「衆院特別委員会」で「心からおわび」との発言をしたのに続き、菅官房長官も翁長知事との4日夜の会談で、沖縄をめぐる発言について「ご迷惑を掛けて申し訳ない」と陳謝していました。

リンク→元NHK経営委員・百田尚樹氏の新聞観

しかし、安倍政権は陳謝する一方で陳謝させられたことに対する仕返しのように今度は閣僚が、上から目線で「放送や報道の萎縮につながる」発言を公然と始めたように思われます。

安倍政権の強圧的な姿勢については、〈安倍政権による「言論弾圧」の予兆〉(2014年12月13日)でも論じましたが、かつての内務省の流れを強く受け継いでいる総務省の大臣である今回の高市発言からは、ドイツ帝国にならって「内務省」の権限を強化し、「新聞紙条例」などで言論を厳しく弾圧した明治時代の「薩長藩閥政府」との類似性と危険性を強く感じます。

リンク→新聞記者・正岡子規関連の記事一覧

〈司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって〉を「主な研究」に掲載

先ほど、論文〈司馬遼太郎と小林秀雄――「軍神」の問題をめぐって〉を二つに分割しましたので、後半の部分も「主な研究」に掲載します。

「司馬遼太郎と小林秀雄(2)」の構成は以下のとおりです。

はじめに

一、司馬遼太郎の『殉死』と芥川龍之介の『将軍』

二、小林秀雄の『将軍』観と司馬遼太郎の「軍神」批判

 

リンク→司馬遼太郎と小林秀雄(1)――歴史認識とイデオロギーの問題をめぐって

リンク→司馬遼太郎と小林秀雄(2)――芥川龍之介の『将軍』をめぐって

「なぜ今、『罪と罰』か」、関連記事一覧

Crime_and_Punishment-1

(『罪と罰』の表紙、ロシア版「ウィキペディア」より)

このシリーズも思いがけず長いものとなりましたので、「なぜ今、『罪と罰』か」の関連記事一覧を掲載します。

なぜ今、『罪と罰』か(1)――「立憲主義」の危機と矮小化された『罪と罰』

なぜ今、『罪と罰』か(2)――「ゴジラ」の咆哮と『罪と罰』の「呼び鈴」の音

なぜ今、『罪と罰』か(3)――事実(テキスト)の軽視の危険性

なぜ今、『罪と罰』か(4)――弁護士ルージンと19世紀の新自由主義

なぜ今、『罪と罰』か(5)――裁判制度と「良心」の重要性

なぜ今、『罪と罰』か(6)――教育制度の問題と長編小説『破戒』

なぜ今、『罪と罰』か(7)――教育制度の問題と長編小説『破戒』(2)

なぜ今、『罪と罰』か(8)――長編小説『破戒』における教育制度の考察と『貧しき人々』

なぜ今、『罪と罰』か(9)――ユゴーの『レ・ミゼラブル』から『罪と罰』へ

なお、始めた際にはこのシリーズの(序)として、〈「安倍談話」と「立憲政治」の危機〉という記事を置いていましたが、『罪と罰』との直接的な関係は薄いので元の題名に戻し、リンク先を変更しました。

なぜ今、『罪と罰』か(5)――裁判制度と「良心」の重要性

「事実(テキスト)の軽視の危険性」と題した第3回で考察したように、文芸評論家の小林秀雄は「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」と書き、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と続けていました。

そして小林は、「罪と罰とは作者の取り扱つた問題といふよりも、この長編の結末に提出されている大きな疑問である、罪とは何か、罰とは何か、と、この小説で作者が心を傾けて実現してみせてくれてゐるものは、人間の孤独といふものだ」と記し、「罪と罰」の問題を「孤独」の問題に矮小化していました。

問題は、このように「良心」の問題を矮小化することによって、小林が帝政ロシアや日本における「裁判制度」の問題から読者の視線を逸らしていたことです。

たとえば、王や皇帝に絶対的な権力が与えられていた王政や帝政の時代には、権力者の横暴や無法を抑えることができずに、多くの人々が無実の罪で苦しんでいました。

そのためにヨーロッパやロシアにおいては、彼らの絶対的な権力にも対抗できるような「個人の良心」が重要視されたのであり、「良心」とは自らの生命をも危険にさらしても、不正をただすことを求めるような激しい概念であるといえるでしょう。

近代的な法制度を持つ国家では、近代の法律でも権力者が行う不正を監視するためにも、個人の「良心」が重要視され、日本の「憲法」でも裁判官は、中立の立場で公正な裁判をするために、「その良心に従い独立してその職権を行い、日本国憲法及び法律にのみ拘束される」と(裁判官の職権行使の独立)が定められています。

しかし、裁判制度が不備な帝政ロシアでは、長編小説『虐げられた人々』で描かれているように、ワルコフスキー公爵の策略によって裁判の被告となったイフメーネフ老人が、有力なコネや賄賂を使わなかったために裁判に敗け、自分の村を手放さねばならなくなっていたのです。

法学部で学んでいたラスコーリニコフが自分で「悪人」を裁くという「犯罪」に踏み切った遠因は、皇帝が絶対的な権力を握る帝政ロシアでは、公平な裁判が行われず、そのような状況に彼が深く失望していたことが挙げられるでしょう。

*   *   *

一方、司馬氏が『翔ぶが如く』で詳しく描いていたように、「軍国主義的な憲法」を持つドイツ帝国をモデルとしていた日本では、今も裁判制度に次のような問題点を抱えています(以下、「ウィキペディア」から引用します)。

「裁判官は建前上、独立して裁判を行うことが憲法に定められているものの、下級裁判所の裁判官についての人事権は最高裁判所が握っており、最高裁判所の意向に反する判決を出すとその裁判官は最高裁判所から差別的処遇(昇進拒否・左遷など)を受ける問題などは、米国の法学界からも指摘されている[29]。

そのことから、日本の裁判所の司法行政は、人事面で冷遇されることを恐れて常に最高裁判所の意向をうかがいながら権力者に都合のよい判決ばかりを書く裁判官(通称:ヒラメ裁判官)が大量に生み出される原因になっていると批判されている[30]。

また、憲法80条1項では、下級裁判所の裁判官の候補者を指名する権限は最高裁判所にあると定められており、裁判官の道を希望する司法修習生たちの中でも最高裁判所の意向にそぐわないと判断された者は裁判官への任官を一方的に拒否されるという問題も指摘されている。(中略)

最高裁判所裁判官の人事権は、憲法上は内閣が握っている。」

このような現状から、上級の裁判所にいくほどに内閣の影響力が強くなり、「国民」の意向とは反対の判決も行われることになるのです。

*   *   *

このことが明白に現れたのが、第二次安倍内閣が強引な人事により、「内閣法制局長官」を変えて、昨年の国会審議においてそれまでの自民党の「集団的自衛権」の見解を破棄したことでしょう。

この問題について九州大学法学部教授の南野森氏は、2014年2月7日のブログでこう記していました。

〈第2次安倍内閣は、去る2013年8月8日、内閣法制局の山本庸幸長官を退任させ、後任に元外務省国際法局長で駐仏大使の小松一郎氏を任命した。この人事は、内閣法制局の次長や部長どころか参事官すら経験したことのない完全に「外部」の人間が、しかも2000年まで他省庁とは異なる独自の採用試験を実施していた外務省の人間が、いきなり長官ポストに抜擢されたものであり、戦後の内閣法制局の歴史において異例中の異例、初めてづくしの驚愕人事であった。〉

(2016年1月25日、青字の箇所を追加)

 

〈忍び寄る「国家神道」の足音〉関連記事一覧

本ブログの記事では、「大義なきイラク戦争を主導したラムズフェルド元国防長官とアーミテージ元国務副長官」の二人にたいして勲一等「旭日大綬章」を贈った安倍政権が行う「改憲」方針の裏に隠されている「復古」の姿勢の危険性を指摘していました。

*   *   *

忍び寄る「国家神道」の足音〉を特集した今日の「東京新聞」朝刊は「こちら特報部」でこう記しています。

「安倍首相は二十二日の施政方針演説で、改憲への意欲をあらためて示した。夏の参院選も当然、意識していたはずだ。そうした首相の改憲モードに呼応するように今年、初詣でにぎわう神社の多くに改憲の署名用紙が置かれていた。包括する神社本庁は、いわば「安倍応援団」の中核だ。戦前、神社が担った国家神道は敗戦により解体された。しかし、ここに来て復活を期す空気が強まっている。」

そして、記事は次のように結ばれています。

「神道が再び国家と結びつけば、戦前のように政治の道具として、国民を戦争に動員するスローガンとして使われるだろう。」

*   *   *

宗教学者の島薗進氏の今日のツィッターでも、【疑わしい20条改正案 政教分離の意義再認識を】という題の「中外日報」(宗教・文化の新聞)の12/18社説が紹介され、その理由が記されていました。

http://www.chugainippoh.co.jp/editorial/2015/1218.html …

〈明治維新は「祭政一致」を掲げ、やがて「万世一系の天皇をいただく国体」の教説と一体のものとなった。これを抑えられず、立憲政治と良心の自由を掘り崩した〉。

 

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安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(1)――岩倉具視の賛美と日本の華族制度

安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(2)――長編小説『翔ぶが如く』における「神祇官」の考察

安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(3)――島崎藤村の長編小説『夜明け前』と「復古神道」の仏教観

安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(4)――「神道政治連盟」と公明党との不思議な関係

安倍首相の「改憲」方針と明治初期の「廃仏毀釈」運動(5)――美しいスローガンと現実との乖離

 

「アベノミクス」の詐欺性(3)――公的年金運用の「ハイリスク」の隠蔽

2014年11月25日に書いた「株価と年金」というブログ記事では、安倍内閣が価対策として、「127兆円規模の公的年金を運用する世界最大級の機関投資家である年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)」に、「年金の運用額を引き上げるという改革案」を打ち出させたことに対しては、当初から厳しい批判があったことを紹介していました。

すなわち、松井克明氏は「GPIF改革が年金を破壊? 巨額損失の危険も 株価対策に年金を利用という愚策」という題名の記事(『Business Journal』7月2日)を、前GPIF運用委員の小幡績慶氏は「寄稿 GPIF改革四つの誤り 政治介入で運用は崩壊する」という記事(「週刊ダイヤモンド」ダイヤモンド社/6月21日号)を書いていたのです。

こうして、「年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が、年金の運用額を引き上げるという改革案を打ち出したこと」に対しては、当初から経済学者から強い批判が出ていました。

しかし、これに対して安倍政権は何らの対策もとらず、国民への説明もしていなかったのですが、2016年1月19日付け「日刊ゲンダイ」(デジタル版)は、6日連続で下落した日経平均株価の異常事態を受けて、16日のTBS「報道特集」でGPIFの損失リスクに対する感想を問われた「アベノミクスの“生みの親”とされる浜田宏一・米エール大名誉教授」が、〈損をするんですよと(国民に)言っておけと、僕はいろんな人に言いました〉が、〈でも(政府側は)それはとてもおっかなくて、そういうことは言えないと〉と語っていたと報じて、次のように結んでいます(朱色は引用者)

〈浜田教授が「ハイリスク・ハイリターン」について国民に説明しろ、と指摘していたにもかかわらず、安倍政権は頬かむりしたワケだ。…中略…国民を愚弄するにもホドがある。〉

*   *   *

「株価と年金」というブログ記事では、〈昔から「素人は相場には手を出すな」という格言がありますが、株の素人の私から見ると現政権全体が「相場師」化している〉ように感じますと批判しました。

それから一年以上が過ぎた現在、状況は一層厳しくなっているように見えます。

安倍首相はこのような事態をむかえても「改憲」に前のめりのようですが、道義的に最初にしなければならないのは、自民党が抱え込んでいる疑惑のある議員の問題や、「ハイリスク」についての説明を果たしてこなかった自分の責任を明らかにすることでしょう。

ことに、「国民の生命や財産」にも深く関わるマイナンバー制度やTPP交渉の責任者である甘利明・内閣府特命担当大臣(経済財政政策)に、金銭授受の疑惑が浮かんできたことは経済界との癒着が目立つ安倍内閣の体質を物語っており、安倍首相は任命責任を取って一刻も早くに退陣すべきだと思われます。

(2016年1月22日。青字の箇所を訂正、追加。副題を変更)

 

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