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「ゴジラ」の哀しみ――編集長・花森安治と『暮しの手帖』

NHKの朝のテレビ小説『とと姉ちゃん』の編集長花山のモデルとなった花森安治のすごいところは、広告費が結局は雑誌の骨格をも歪めることを知って、商業誌であるにもかかわらず、『暮しの手帖』でいっさい広告を取らなかったことだ。

徴兵されると「貴様らの代りは、一銭五厘の葉書でいくらでも来るんだ」と怒鳴られていた花森が、「ぼくはペンの力で、『あたりまえの暮し』を守る」と始めたのが雑誌『暮しの手帖』であった。

戦時下に大政翼賛会の宣伝部で活躍し、「屠れ! 米英/われらの敵だ/進め!一億/火の玉だ!」という標語のレイアウトも手がけていた花森は「ぼくは、確かに戦争犯罪をおかした」と認め、「これからは絶対だまされない、だまされない人たちを増やしていく」との決意を語っていた。

テレビ中毒者が増加することを案じた花森安治は、「テレビ放送は朝10時から夜10時まで」とも1965年に雑誌で提案していた(「花森安治と『暮しの手帖』の歩み」より)。それは受動的な視聴により「だまされる人たちが増える」ことを心配していたのだと思える。

ニュースや大河ドラマなど「事実」を伝えないNHKの放送はほとんど見なくなっているので、見ないだけでなく見ると苦痛を与えられるNHKに対しては、視聴料の返還運動でも起こそうとも考えたりしているこの頃だが、朝のドラマ『とと姉ちゃん』は面白い。

1969年に取材中に倒れて入院した花森安治は「これからの世の中、どう考えたって悪くなる。荒廃する」との見通しを記すとともに、「ぼくらこんどは後へひかない」とも伝えていた。

『暮しの手帖』の名編集長・花森安治にはその風貌と迫力から、「ゴジラ」というあだ名が付けられていたとのことである。しかし、その後の「ゴジラ」が激しく変貌しただけでなく、テレビや新聞などもかつての「大政翼賛会」の頃に近づいているように見える。映画《ゴジラ》の本多監督だけでなく、花森の「哀しみ」も深いだろう。

映画《ゴジラ》を撮った本多猪四郎監督は、「『ゴジラ』は原爆の申し子である。原爆・水爆は決して許せない人類の敵であり、そんなものを人間が作り出した、その事への反省です」と語っていた。

「ゴジラ」と呼ばれた花森安治もこう書いていたのである。「民主々義の<民>は 庶民の民だ/ぼくらの暮しを なによりも第一にする ということだ/ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつかったら 企業を倒す ということだ/ぼくらの暮しと 政府の考え方が ぶつかったら 政府を倒す ということだ/それがほんとうの<民主々義>だ」。

編集者としての花森のすばらしさは、そのような重いテーマが雑誌の前面に出ることを抑えて、温かく手作り感と読み応えのある雑誌を作り上げていたことだろう。

安倍政権に追随するようなニュースや大河ドラマを製作しているNHKだけでなく民放や大新聞も、日本だけでなく、世界中で再び「戦争」に向けた「プロパガンダ」と歯車が回り始めたと思える今こそ、「プロパガンダ」に侵されることを拒んで広告を取らなかった花森安治と『暮しの手帖』の精神を学んでほしい。

なお、本稿は『「暮しの手帖」初代編集長 花森安治』((『暮しの手帖』別冊、2016年7月、臨時増刊号)の4章「遺言――ぼくには一本のペンがある」を中心に感想を記した。1章「仕事――この国の暮らしを変えるために」、2章「美学――手からつくられるものの美しさ」、3章「横顔――人間・花森安治」でも、多彩で誠実な花森安治の人間的な魅力が伝えられている。

19世紀の「自然支配の思想」と安倍政権の原発増設計画

今日(7月23日)の「東京新聞」(デジタル版)は、政府方針達成のために「原発の新増設必要」と電事連会長が語ったとする次のようなの記事と載せています。

「電気事業連合会の勝野哲会長(中部電力社長)は22日、共同通信のインタビューに応じ、2030年度の電源構成に占める原発比率を20~22%とする政府方針を達成するため「発電所の新増設や建て替えが必要だ」と語り、建設計画の前進に向け原発に対する信頼の回復に努めると強調した。」

しかし、地震や火山活動が活発化している日本で原発の増設を目標とする安倍政権とそれに追従して当面の利益を確保しようとする財界の方向性はきわめて危険でしょう。

日本の自然の上に成立した「伝統的な神道」は、今こそ、このような19世紀的な自然観を厳しく批判して、安倍政権や「日本会議」と決別すべきでしょう。

さらに、真の仏教徒も「国民」の生命を軽視して利権を重視する原子炉に、仏教の「文殊」と「普賢」の両菩薩の名前から「もんじゅ」や「ふげん」などと命名している自民党や安倍政権とは決別すべきでしょう。

なぜならば、日本の近代化を主導した思想家の福沢諭吉は、『文明論之概略』において「水火を制御して蒸気を作れば、太平洋の波濤を渡る可し」とし、「智勇の向ふ所は天地に敵なく」、「山沢、河海、風雨、日月の類は、文明の奴隷と云う可きのみ」と断じていたからです。

比較文明学者の神山四郎は、「これは産業革命時のイギリス人トーマス・バックルから学んだ西洋思想そのものであって、それが今日の経済大国をつくったのだが、また同時に水俣病もつくったのである」と厳しく批判していましたが、現在は次のように言い直さねばならないでしょう。

「バックルや福沢諭吉のような近代文明観が今日の経済大国をつくったのだが、また同時に1979年にアメリカ・スリーマイル島原発事故を、1986年と2011年にはチェルノブイリと福島でレベル7の原発事故をつくったのである」と。

年表、核兵器・原発事故と終末時計

『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』(のべる出版企画)の構成案・旧版

『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』の執筆は、思いがけず序章で手間取ってしまいました。

ようやく書き終えましたのでここでは本書の構成案をまず示し、その後で数回に分けて序章を掲載することにします。

 

序章 映画《ゴジラ》六〇周年と終戦記念日

*  *  *

第一部 映画《ゴジラ》(一九五四)から黒澤映画《夢》(一九九〇)へ

第一章 ゴジラの咆哮と悲劇の発生

第二章 映画《モスラ》(一九六一)から《風の谷のナウシカ》へ

第三章 小説《モスラ対ゴジラ》(一九六四)と映画《ゴジラ》(一九八四)

第四章 「ゴジラ」の理念の変質と映画《夢》――本多猪四郎と黒澤明の友情

第二部 小説『永遠の0(ゼロ)』(二〇〇六)の構造と「オレオレ詐欺」の手法

はじめに 「約束」か「詐欺」か

第一章 孫が書き記す祖父の世代の「美しい」物語

第二章 地上での視線を欠いた「空」の戦いの物語ーー登場人物の画一性

第三章 高山という新聞記者――新聞の役割と「司馬史観」論争

第四章 神話の捏造――英雄の創出と「ゼロ」の神話化

*  *  *

終章 アニメ映画《紅の豚》(一九九二)から《風立ちぬ》(二〇一三)へ

(2016年11月2日、リンク先を追加)

『ゴジラの哀しみ――映画《ゴジラ》から映画《永遠の0(ゼロ)》へ』の目次を掲載

「司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』」、(序)と(1)を大幅に改訂

今年は徳富蘇峰が「忠君愛国」的な視点からの歴史教育の必要性を唱えた『大正の青年と帝国の前途』(1916年)を発行してから百年に当たります。

安倍首相が事務局長を務めていた「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(1997年設立)という名称は、蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』を強く意識して命名されているように思えます。

安倍首相は今年の参議院選挙で「改憲」を目指すと明言しましたので、「改憲」の危険性を知るためにもこの書を詳しく分析する必要があると思えます。

司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』をとおしてこの書を読み解く論考を書き進める中でかなり加筆をしましたので、(序)と(1)〈グローバリゼーションとナショナリズム――「司馬史観」論争と現代〉も大幅に改訂しました。

以下にリンク先を記しておきます。

司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』――歴史認識と教育の問題をめぐって(改訂版・序)

司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』と徳富蘇峰の『大正の青年と帝国の前途』――歴史認識と教育の問題をめぐって(改訂版・1)

「チェルノブイリ原発事故 隠された“真実”」(再放送)を見る

NHK・BSプレミアムで「チェルノブイリ原発事故 隠された“真実”」(再放送)を見ました。先ほど、ツイッターに投稿したので、ここでも再掲しておきます。

番組は「世界をパニックに陥れたあの未曾有の事故」の真実に迫る力作でしたが、「真実を隠そうとした深い闇」は現在の安倍政権の原発政策の危険性をも語っていると思えました。

すなわち、番組は「情報公開」の政策に踏み切ったばかりのゴルバチョフにも正確な情報が届かず、「国民」からの信頼を次第に損ねていく過程とゴルバチョフや真実を伝えようとした科学者の苦悩をも伝え得ていたのです。

一方、熊本大地震後の後で九州全域での地震が現在も続くなか、安倍首相の意向を汲んだ籾井会長の指示により川内原発付近での震度が表示されなくなったNHK問題の深刻さをもこの番組は意図せず示していました。

*   *     *

番組説明の文章

「今から29年前におきたチェルノブイリ原子力発電所の爆発事故。世界をパニックに陥れたあの未曾有の事故は当初、意図的に隠された。消火活動にあたった消防士、現場の作業員、また多くの市民が被ばく、隠ぺいが被害を拡大させた。真実を伝えようとして奔走したジャーナリスト、自ら命をたった科学者など、あの未曾有の事故を多角的視点から描く。」

写真のタイトル

*事故後、人口5万人が避難した街 “プリピャチ”

*放射能拡散を食い止めたヘリコプター部隊の指揮官アントシキン

*事故後わずか4行の事故一報 なぜ情報は伝わらなかったのか

*   *   *

安倍首相が2006年の国会で共産党・吉井議員の質問に「我が国において…中略…必要な電源が確保できずに冷却機能が失われた事例はない」と回答したように、チェルノブイリ原発事故の後ではソ連の原発なのであのような事故が起きたが、日本では絶対に起きないと説明されてきたのです。

生々しい原発事故の写真の後には、「史上最悪の原発事故チェルノブイリ原発」の説明が載っていますが、放射線の汚染水が大量に海に流れ出ている福島第一原子力発電所大事故こそを、今では「史上最悪の原発事故」と呼ばねばならないでしょう。

「劇《石棺》から映画《夢》へ」を再掲

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(4号炉の石棺、2006年。チェルノブイリ原発4号炉の石棺の画像は「ウィキペディア」より。Carl Montgomery – Flickr)

劇《石棺》から映画《夢》へ

はじめに チェルノブイリ原発事故と劇《石棺》

チェルノブイリ原発事故をモスクワで体験していた私は、黒澤映画や帝政ロシアや現代ソヴィエトにおける厳しい検閲の問題にもふれつつ、現代のチェーホフとも称されているヴァンピーロフの劇『去年の夏、チュリームスクで』と、原発事故をテーマにしたソ連の劇《石棺》を考察したエッセーを一九八八年に同人誌『人間の場から』(第10号)に書いた。

作家のヴァムピーロフが「時代の病気である人間の中の自然破壊に最初に気づき、劇作の筆をとりはじめた」ことを紹介した訳者の宮沢俊一氏は、「ヴァムピーロフを読み直すたびに《美が世界を救う》というドストエフスキーの有名な言葉が何度も何度も新たな希望をもって思い出されるのです」という作家ラスプーチンの言葉を紹介している。

映画《夢》が公開される二年前のエッセーだが、このとき私がチェルノブイリ原発事故のことを考えつつ、《美が世界を救う》という言葉が記されている長編小説『白痴』を映画化した映画《白痴》や映画《生きものの記録》などの黒澤映画に対する関心を深めていたことは確かなように思える。

それゆえ、ここでは劇『去年の夏、チュリームスクで』の感想は省略し、ロシアにおける「表現の自由」の問題と劇《石棺》を中心に、国民の生命にかかわる原発事故と情報の隠蔽の問題を確認しておきたい。そして最後に「表現の自由」という視点から、黒澤明監督の発言などをとおして福島第一原子力発電所の事故とその後の経過を考察する。(なお、ここでは用語や人名表記の一部を改めた)。

一、「演じることと見ること」

前回、私はモスクワの舞台においてドストエフスキー劇が予想以上に演じられていることを紹介したが(次項参照)、それは分野が異なるにせよ文学と演劇が密接な関わりを持ち続けていること、さらに演劇が生活の中に深く入り込んでいることを物語っていると言えるだろう。

最近、本場のイギリスで『マクベス』を上演して高い評価を受けた演出家の蜷川氏と主演女優栗原小巻もイギリスでは演劇が市民から愛されているのに対し、日本での観客層は主に婦人であると先日のテレビで語っていた。すなわち、働きバチの日本男子には観劇などをする暇はなく、又、ますます都市から離れていく日本の住宅事情では夜に妻と共に劇を見ながらゆっくりと人生について考える余裕も持ちにくく、さらにはヨーロッパの国々と比べて切符の値段もはるかに高いのだ。

ところで演劇の力ということで思い出されるのは『白痴』の映画化についてふれながら、「映画というのは考えるということにあんまり適した形式ではない」と述べた黒澤明監督の言葉である。それは一見、ドストエフスキーの本場ソヴィエトでも高い評価を受けた映画『白痴』の監督の言葉とは見えないだろう。だが氏の言葉が事実を突いていることも確かだ。現代において長編小説が読まれなくなってきたのは、恐らくそれがあまりに〈考えるということに適している〉からだろう。

それに反して、映画やテレビのドラマでは一度始まってしまえば、途中で多少の不満は残ったにせよ、ほとんど考えるというエネルギーを使わないまま最後まで見ることができる。そしてそのように観客を引っ張っていけるのは直接感覚に訴えることができるという映画の力であり、観客の前で直接演じる演劇はその力が一層強いといえるだろう。

〈なんだ、そんな事か、それならば演劇の力なんて大したことではないじゃないか〉と思われるかも知れない。確かにそれだけならば演劇は世の中を改善しうるような力強い力を持ち得ないはずだからである。だが後に見るように、その面でも演劇は力を持ち得ていたし、今も持っているのだ。では黒沢氏の定義が間違っているのだろうか。そうではない。恐らく、私達は氏の表現を限定するだけでよい。「上映中は」と。そう、映画や演劇は上映中は考えるということにはあまり適さないのだ。

沢山の印象や感覚が観客を襲い、観客はそれに呑み込まれる。しかし、時の経過と共に観客は自分を取り戻す。今見たシーンを思い出してみる。語られたせりふが浮んでくる。蜷川と栗原の両氏は、イギリスの劇場のレストランは真夜中でも開いていると語っているが、それは食欲を満たすばかりではあるまい。そこには語る時間と語る相手がいる。

そう、多少極端に言うならば、映画(演劇)がその思索的な力を発揮するのは、それが終わった時からなのだ。だが、余韻と余白の美を作り上げた私達日本人は今、終わった後の創造的な余韻を持ち得ているだろうか。

*                           *                             *       *          *

一方、ロシアの演劇史を見ると、そこには上演禁止の戯曲が累々と死体のように横たわっている。ロシアの検閲官は文学に対しても厳しかったが、演劇にはさらに厳しかったのだ。以下、少し長くなるがドストエフスキーの場合を見てみよう。

《ドストエフスキーが亡くなってから暫くの期間は、概して演劇界は不毛であり、ロシアの伝統的レパートリーを豊富にできた筈の当時の作家や劇作家の問題作は、殊に激しい弾圧を受けた。八〇年代には…中略…ドストエフスキーの長編小説が舞台にのる可能性は開かれていなかった。演劇の検閲官は、上演のための改作が度々要求されていた『罪と罰』、『虐げられた人々』、『白痴』、『カラマーゾフの兄弟』などの上演を徹底して禁止したのである。かつて舞台にかけられたことがあり、ドストエフスキーの目からは「罪のない」小説『伯父様の夢』による喜劇ですらも一八八八年には検閲官によって禁止の措置を受けた。

ドストエフスキーのこの小説を改作した喜劇『うつつの夢』について、演劇の検閲官ダナウーロフは、通常の上申の中で、この喜劇が「舞台で許可しえるリアリズムの限界を越えており、その内容においても表現においても、検閲の条件には全くそぐわない」と報告し、さらに彼は「概して、審査の対象であるこの喜劇は、筋書き自体の無道徳性と作者自身によって与えられた粗野で汚れた色彩の結果、極端に好ましからぬ、重苦しい印象を引き起こすものであり、それゆえ本官はこの喜劇の舞台での上演を許可することはできないと判断するものである」と結論している。検閲官はこの月並みな意見を、ドストエフスキーの他の作品にも拡大して、それらが劇場にかかり、観客に対して直接的で情念的な影響を与えることを妨げたのである》(A・ニーノフ、「ドストエフスキー劇の誕生」『ドストエフスキーと演劇』)。

この事実はロシアの為政者が演劇をいかに恐れていたかを端的に物語るものだろう。だが演劇の力を恐れたのは帝政ロシアの為政者ばかりではなかった。『去年の夏、チュリームスクで』の作者ヴァンピーロフの場合をみてみよう。訳者の宮沢俊一氏は、優れた演出家トフストノーゴフが「ソヴェート戯曲の最高傑作の一つである『鴨猟』が書かれてから十一年も上演を妨げられていた事態を絶対に容認する訳にはいかない」と一九八六年の初めに「文学新聞」紙上で検閲の廃止を要求したことを紹介しながら、「スターリン批判と自由化の波を食い止めようとしていた六十年代のブレジネフ政権の官僚は、執拗に新しい純粋なものの出現を抑えようとしていた」と書き、ヴァンピーロフの主な作品が両首都で演じられるようになったのは「彼の死後のことである」と解説している。

二、劇《石棺》

グーバレフの戯曲『石棺』もまたソヴィエトの現実を鋭くえぐり出したと言えるだろう。この戯曲はチェルノブイリの事故を扱っているが、この事故が起きた時、私は学生と共にモスクワにいた。周知のようにこの事故はウクライナばかりでなく、近隣諸国にも多くの被害を与えたが、たまたまこの数日間南風がずっと吹いていたためにかろうじてモスクワは汚染から逃れ得た。だがそれは単なる偶然に過ぎず、もし北風が吹いていたら、私達も又汚染から逃れることはできなかった筈であり、その事は私に核の時代に生きることがいかなる危険性と隣接しているかを再認識させもしたのだ。

それゆえ、ソヴィエトでこの事故を扱った戯曲が発表されたと知った時にはどのような視点からこの事故が描かれるかに強い興味を惹かれた。

「ぐでんぐでんに酔っ払って実験用原子炉のそばで寝てしまった」ために多量の放射能を浴びたのだが奇跡的に生き残り病院に一年以上も入院しているこの作品の主人公は『罪と罰』の大酒呑みマルメラードフを思わせるような、道化の患者である。そして、チェルノブイルの原発事故の実体はこの男が治療を受けている放射線治療病院を舞台にして解明されていく。

この場面設定はすぐれている。なぜならばこの患者やこの病院で医師たちの視点からはこの苛酷な事件もある程度、客観的に見ることができるし、また、事故の患者たちとじかに接する彼らは、たとえば、市役所や裁判所を舞台とする場合よりも、内部の視点からこの事件を描きえる。さらに作者はここに三人の新入りの研修医を登場させ、放射能の恐ろしさをほとんど知らなかった彼女たちを瀕死の病人たちが次々と運ばれる戦場のような場に立たせあるいは若い患者の一ときの愛を描いて戯曲に幅と深みを与え得ている。そして、何よりも自ら「不死身の男」と名のる自分も放射線の被害者である道化を介在させることによって事故の悲劇性を笑いを通して鋭く描きだしているのだ。

事故の実態や危機に際しての個々の行動は運ばれてきた患者たちの会話や彼らと事情調査を行う検事の会話を通して徐々に明らかにされていく。たとえば、決死の覚悟で消火にあたった消防士や変圧器を接続するために現場に止まったオペレーター、あるいは出張で来ていただけなのに科学者として反応の変化を気を失うまで追い続けた物理学者の行動が再現される一方で、被害の大きさを熟知しながらも、上司や市民に知らせる事を怠った研究所長の行為が暴露される。

始めは温厚で人情味豊かな人間と思われていた消防指令の将軍も、実は対人関係をスムーズにし、摩擦を起さないために原子炉の屋根に禁じられていた可燃性の素材を用いる許可を与えていたことや、現所長が上部の受けのみを狙って計画の遂行だけにきゅうきゅうとしていたことが明らかにされる。そして事故の発端となった緊急炉心冷却装置を切ったのは誰だという物理学者の問いに対して、「不死身の男」は作者の声を代弁して、それはシステムだ、「無責任体制だ」と断言する。

この劇の題名ともなっている「石棺」という言葉は、劇の冒頭から「不死身の男」が解いているクロスワードの答えという形で巧妙に劇中に挿入されている。研究所長との対決の場で彼は「ファラオ王朝のピラミッドにしたって、まだ五千年の歴史があるだけだ。しかし、この原子炉のピラミッドは(中略)少なくとも一万年以上はしっかりと立っているだろうよ」と語るのである。訳者の解説によれば、この原子炉の埋葬には三十万立方メートルのコンクリートが使われたが、「しかしコンクリートの耐用年数は五十年だから、五十年ごとに石棺の上にコンクリートを塗り補強しつづけねばならない」、「まさに現代科学技術の生みだしたピラミッド」と言わねばならぬような代物なのである。

こうしてこの戯曲は原発の管理者や行政者の責任を激しく糾弾するばかりでなく、きわめて進んだ文明と共に危険とも隣接した核の時代という現代に生きる私達の原子力に対する関心の薄さや、後世への倫理的な責任をも鋭くついており、この劇はソヴィエトの現実を痛烈に批判するばかりでなく、その批判力の鋭さで未来への扉を少しにせよこじあけているようにも見える。

(ウラジーミル・グーバレフ、金光不二夫訳『石棺――チェルノブイリの黙示録』、リベルタ出版、参照)

三、映画《夢》と福島第一原子力発電所の事故

Earthquake and Tsunami damage-Dai Ichi Power Plant, Japan(←画像をクリックで拡大できます)

(2011年3月16日撮影:左から4号機、3号機、2号機、1号機。)

このエッセーを書いた翌年の一九八九年にリュブリャーナで開かれた国際ドストエフスキー学会に参加した私は、そこで多くのロシアの研究者と出会ったことで、作家や演出家たちが自分の職を賭けて勝ち取った「表現の自由」の重みと演劇や映画などの力を実感した(「ドストエーフスキイの会」会報、第一〇〇回例会報告、「国際ドストエフスキー・シンポジウムに参加して」、一九八九年一二月、参照)。

一方、日本では「絶対安全」とされていた福島第一原子力発電所で、映画《夢》の第六話で「赤富士」のエピソードを描いた黒澤明監督が危惧していたようなチェルノブイルの原発事故に匹敵するような地球規模の大事故が二〇一一年三月一一日に起きた。

そのあとで明らかになったのは、原子力発電所には原子炉を消火する消防車がなく、きちんとした防御服もなく、さらに日本が最先端の技術を有すると誇っていたロボットも動かなかったことである。使用済み核燃料も放置された古タイヤのように燃え出したばかりでなく、原子炉建屋が爆発してメルトダウンで汚染した放射能が原子炉から空気中に放出され、さらに放射能に汚染された大量の水が海に流れ出るなどの事態が次々と発生した。

推進派の学者や政治家、高級官僚がお墨付きを出して「絶対に安全である」と原子力産業の育成につとめてきた日本には、「美しい日本の自然」が強調されてきたにもかかわらずその大地や大気、そして海を汚しつつある原発事故の拡大を制御する技術がなく、核実験を続けることで危機的な事態へのノウハウを蓄積してきた核大国の援助によって、ようやく最悪の事態を当面は免れることができたのである。

スイスやドイツなどでは今回の「フクシマ」後に脱原発の政策が明確に打ち出され、続いて国民投票を行ったイタリアでもその方向性が示された。チェルノブイリ原発事故の際に十分な情報を与えられていたこれらの国々では、マグマの上にある薄い地表の上に成立している世界における原発の危険性をきちんと判断することができたのだと思われる。

日本でもようやくこの事故のあとで、「政治家・学者・マスコミ」などが「原発マネー」に群がっていたことや、官僚の「天下」など「利権」による「癒着」の構造が明らかになった。ことに私を驚かしたのは、莫大な予算を投じて『わくわく原子力ランド』のような教科書の副読本が配布され、戦前や戦中の「不敗神話」と同じような形で「安全神話」が小中学生に教えられていたことであった(『東京新聞』四月一九日号の「”安全神話”教える 不適切な原発副読本」など参照)。日本の原子力行政では、戦前の日本さながらに「国策」の名の下に反対を許さずに、莫大な広告費を費やして進められてきたのである。

さらに、福島第一原子力発電所が爆発すれば大量に放出されることになる放射能の被爆を防ぐために開発された「SPEEDI」の情報が、国民には知らされなかった一方で、アメリカ軍には伝えられていたことが翌年になって新聞に載り、八〇キロ圏内に住むアメリカ人に退避命令が出された理由が明らかになった。

しかも、『東京新聞』一二月四日付けの朝刊では、東京電力の社員たちが記者会見では、「事故やトラブル」を「事象」と、「老朽化」を「高経年化」と、さらに「汚染水」を「滞留水」と、「放射能汚泥」を「廃スラッジ」などと言い直していることが報じられている。

このような用語の言い換えは、「退却」を「転進」と「全滅」を「玉砕」と呼び、「敗戦」を「終戦」と「占領軍」を「進駐軍」と言い換えた当時の日本と、現在の日本の体制がほとんど変わっていないのではないのかという深刻な思いを抱かせる。

ドキュメンタリー映画『一〇〇,〇〇〇年後の安全』を撮ったデンマーク出身のマドセン監督は、「日本には、事実を国民に教えない文化があるのか」と問いかけ、「福島事故で浮き彫りになったのは、日本人の”心のメルトダウン”だ」と感じていると語った(「処理先送り 倫理の問題」[こちら特報部]『東京新聞』二〇一一年一二月二三日)。

四、日本の原発行政と「表現の自由」

このような事態は、「日本映画と、日本人の国際性を問う」と題したジャーナリスト筑紫哲也との一九九三年の対談で、「繁栄」や「自由」を謳歌しているように見える日本には、権力の問題を指摘するような「表現の自由」がないことを批判していた黒澤監督の指摘がいかに正鵠を射ていたかを物語っているだろう。

黒澤「……たとえば政治の問題とか。/アメリカの場合は、こんなこと映画にしてもいいのかっていうものもやらせているでしょう。そこがアメリカのいいところでね。…中略…日本でああいうものを作ろうと思ったら、大騒ぎになる。第一、金出すのがいないでしょう。それから、作っても上映されないかもしれない。」

筑紫「だから今こそ、『悪い奴ほどよく眠る』を上映したらいいと思う。まったく今のテーマですよね。」

黒澤「絶対やらないです。『生きものの記録』でも、どっかで抑えられているんだと僕は思いますよ。」(『大系 黒澤明』第四巻。初出、『BART』一九九三年四月二六日号)。

実際、多くの東北の人々が苦しみ放射能もれなどの事故が相次いでいるさなかに、外務省の初代原子力課長が会長を務める「エネルギー戦略研究会」や、「日本原子力学会シニア・ネットワーク連絡会」、さらには「エネルギー問題に発言する会」などの原発推進団体が、原発問題を検証した昨年末のNHKの報道番組にたいして「(番組内容には)誤りや論拠が不明な点、不都合な事実の隠蔽(いんぺい)がある」との抗議文を送っていたことが明らかになった(東京新聞、二月一日朝刊、一面)。

「高濃度の汚染水」がまだ大量に残り、原子炉の状態もはっきりしていないにもかかわらず、「冷温停止状態」が報告されると昨年末には「事故収束」が高らかに宣言され、「武器の輸出原則の緩和」に続いて昨年末には国民レベルでの議論や国会での討議もないままに原発の輸出が決められた。さらに、自民党政権が発足すると、戦後の原子力政策をそのまま受けついで、原子力の推進が謳われるようになり、安倍首相が先頭にたって原子力発電所の輸出に乗り出すようになっている。

これまで日本は「被爆国」として同情的に見られてきたが、「地震大国」でもある日本で同じような原発事故を繰り返したならば、今度は「放射能」による「加害国」として厳しい批判を世界中から浴びることになるだろう。私たちの子孫が「加害者」として肩身の狭い思いをするのではなく、日本人の誇りを持って世界で活躍できるようにするためにも、私たちはきっぱりとした決断を下す必要があるだろう。

(初出、『人間の場から』第10号、1988年。2013年7月8日、加筆、7月23日.改訂。2016年3月15日、図版を追加)

「安倍首相の政治手法と小説家・百田尚樹氏のノンフィクション観」関連記事一覧

安倍晋三氏には作家の百田尚樹氏との共著『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』(ワック株式会社、2013年)があります。

安倍首相の政治手法を考えるうえでも重要なので小説家・百田尚樹氏のノンフィクション観について考察したブログ記事の一覧もアップします。

 

百田尚樹氏の『殉愛』裁判と安倍首相の手法

『日本よ、世界の真ん中で咲き誇れ』における「憎悪表現」

百田尚樹氏の『殉愛』と安倍首相の「殉国」の思想

「安全保障関連法案」の危険性と小説『永遠の0(ゼロ)』の構造

日本の言論状況とフォーキンの劇《語れ》

「国民」の健康や安全、さらは財産にも深く関わるTPP交渉について議論すべき国会に黒塗りにされた資料が出されても不思議に思わない自民党や公明党の議員には唖然とさせられました。

さらに、それを批判すべき新聞やテレビなどのマスコミさえもが口をつぐんでいる現在の日本の状況に強い危機感を覚えています。

そこで思い出したのが権力者の汚職などが蔓延していたソ連の末期のペレストロイカの時期に、エルモーロワ劇場で上演されたフォーキンの劇《語れ》のことです。

ここでは同人誌『人間の場から』(第13号、1989年)に掲載した劇評「見ることと演じること(4)――記憶について」から引用することによってこの劇を紹介します。グラースノスチ(情報公開)を求める「国民」の声によってソ連全体が変わり始める時期の劇です。

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最近ソヴィエトの演劇が変わりつつある。そんな実感を一ケ月程前にモスクワのエルモーロワ劇場で見たベケットの劇『ゴドーを待ちながら』でも感じた。この劇場はかつてはいつでも券が手に入れられるような劇場だったのだが、最近は以前とは雰囲気が違うのだ。観客はすでに「何か」を期待して集まり、その期待が観客席に一種の緊張感を生み出す。

幕はなく、舞台には両端に黒い屏風と中央に枯木そしてその木の下に黒いマットレスがあるばかりだ。次第にホールが暗くなり、一瞬闇がホールを包む。だが闇の中でも舞台に向って観客の視線が突き刺さるのが感じられた。そして舞台に一本のローソクがともり、劇が始まった。劇は「待つ」という行為を象徴にまで高め、殊に第二幕では他者の記憶の喪失を通して人間の孤独感、断絶感を浮きぼりにしていた。

雰囲気を変えたもの、それは恐らく首席演出家フォーキンの存在と彼の問題意識だろう。彼は自分が演出した劇『語れ』の中で、十年一日のように型通りの報告をしていた人間が、自分の声で語り出そうとするその一瞬を見事にとらえていた。

彼は劇の一登場人物ばかりでなく、劇場自体にも「自分の声」で語ることを要求しているかのように見える。そしてそのような「声」を期待する観客の視線は俳優をも変えたように見えた。

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福島第一原子力発電所のレベル7の大事故がまだ完全には収束していないにもかかわらず原発の再稼働が行われ、危険な「戦争法」でさえもがきちんとした議論もないままに強行採決されるような日本で、今、必要なのは一人一人が自分の「声」で語る勇気とグラースノスチ(情報公開)のように思えます。

ツィッターの開始(ユーザー名とアカウント)

3月20日からツィッターを始めました。

ようやくプロフィール欄に情報を打ち込み、リツイートをすることができるところまできました。

まだ、慣れていないので当分は発信機能とリツイートを中心に使用したいと考えています。

ユーザー名とアカウントは下記のとおりです。

リンク→高橋誠一郎 / リンク→@stakaha5

 

これまでに以下の記事とリツイートをアップしました。

新聞記者としての正岡子規(1~3)

司馬遼太郎の「明治国家」観(1~3)

安倍政権の国家観

司馬遼太郎の「昭和国家」観(1~4)

ただ、ツイッターでは少し文章を省略しましたので、「新聞記者としての正岡子規」(1~3)以外の記事は、次回以降にこのブログでもまとめて掲載します。

相馬正一著『国家と個人――島崎藤村『夜明け前』と現代』(人文書館、2006年)

ISBN4-903174-07-7_xl

 

五街道の一つである中山道の馬籠宿で本陣・問屋・庄屋を兼務した島崎藤村の父・正樹をモデルにした青山半蔵の悲劇を描いた『夜明け前』を相馬氏は「はじめに」でこう規定しています。

「江戸と京都の中間地点の宿場に生きる一庶民の目を通して、幕末から明治維新にかけての時代の激動期を、膨大な資料を踏まえて描き切った労作である」。

主人公・青山半蔵の人物造形については、彼が「『こう乱脈な時代になって来ると、いろいろな人が飛び出すよ。世をはかなむ人もあるし、発狂する人もある』と嘆きながらも、『まあ、賢明で迷っているよりも、愚直でまっすぐに進むんだね』と自分に言い聞かせる」ような人物として描かれていと指摘しています。

らに相馬氏は、「藤村が『夜明け前』の構想を練っていた昭和二年から、これを発表しはじめた昭和四年までの日本の政情は、藤村の父正樹の生きた明治維新初期の政情と酷似している点が多い」ことにも注意を促しているのです。

さて、本書は次のような章からなっています。

一、  「夜明け前」の性格とゾライズム
二、  幕藩体制崩壊と黒船の脅威
三、  栗本鋤雲著『匏菴十種』の翻案
四、  和宮降嫁の波紋と天狗党の義挙
五、  報復劇としての王政復古クーデター
六、  戸長罷免とお粂の自殺未遂

七、  献扇事件とその余波
八、  神官罷免と生家追放
九、  万福寺放火事件の顛末
十、  平田門下・青山半蔵の最期
結、  「夜明け前」と現代

構成からもうかがえるように、本書の特徴の一つは木曽谷住民の生活を守るために奔走した国学者の青山半蔵に焦点をあてて、幕末から明治維新にかけての激動の時期を描きながらも、半蔵の言動を静かに見つめる万福寺の松雲和尚の広い視野や藤村の師でもあった栗本鋤雲(小説では喜多村瑞見)の「東西文明を見据えた公平な史観」をとおして、半蔵の思想が相対化され客観的に描かれていることです。

半蔵の思想は国学の師匠や学友、さらには自分の弟子との関係だけでなく、義兄の思想の純粋さには同感しながらも、時勢のイデオロギーに引きずられていくことへの危惧の念も示していた妻の兄・寿平次の言動をとおして批判的にも描かれています。

島崎藤村は「田中ファシズム内閣が、〈国家〉の名において個人の言論・思想を封殺する狂気を実感しながら、『夜明け前』の執筆と取り組んでいたのである」と相馬氏は記しています。

司馬氏が「昭和初期の別国」と呼んだこのような暗い時代に、木曽路の馬篭宿を視座として黒船の来航に始まる幕末から西南戦争に至る激動の時代を見事に活写した藤村の観察力と気力には改めて感心させられます。

青山半蔵の人物造形が、北村透谷をモデルとした長編小説『春』の主人公・青木駿一が下敷きにされていることをたびたび指摘していた相馬氏は、「島崎正樹に〈青山〉姓を名告らせたのは、先に北村透谷を〈青木〉姓にしたことと無関係ではあるまい」とも記しています。

ただ、透谷を深く敬愛していた藤村は「彼は私達と同時代にあつて、最も高く見、遠く見た人の一人だ。そして私達のために、早くもいろいろな支度をして置いて呉れたやうな気がする」とも書いていました。

このことに留意するならば、北村透谷の形象は主人公の青山半蔵のモデルとなっているだけでなく、喜多村瑞見(モデルは栗本鋤雲)の「東西文明を見据えた公平な史観」にも分与されているのではないかと私は考えています。

ともあれ、青山半蔵の人物造形と北村透谷との関係に深く踏み込んで分析しているばかりでなく、透谷と藤村におけるテーヌの〈民族・環境・時代〉の三因子の受容についても指摘しているこの著書から私は強い知的刺激を受けました。

このHPの読者の方々にも強く推薦したい著書です。