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あとがきに代えて──小林秀雄と私

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あとがきに代えて──小林秀雄と私

 

 「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論は、それまで高校の文芸部で小説のまねごとのような作品を書いていた私が評論という分野に移行するきっかけになった。原作の文章を引用することにより作品のテーマに迫るという小林秀雄の評論からは私の文学研究の方法も大きな影響を受けていると思える。

 『カラマーゾフの兄弟』には続編はありえないことを明らかにしていただけでなく、「原子力エネルギー」の危険性も「道義心」という視点から批判していた小林の意義はきわめて大きい。

 しかし「『罪と罰』についてⅠ」で、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と書いた小林秀雄が、「『白痴』についてⅠ」で「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない、シベリヤから還つたのだ」と記していたことには強い違和感を覚えた。

 さらに、小林秀雄のドストエフスキー論を何度も読み返す中で、原作から多くの引用がされているがそこで記されているのは小林独自の「物語」であり、これは「創作」ではないかという深刻な疑問を持つようになった。

 ただ、これまで上梓した著作でほとんど小林秀雄に言及しなかったのは、長編小説『白痴』をきちんと読み解くことが意外と難しく、イッポリートやエヴゲーニーの発言に深く関わるグリボエードフの『知恵の悲しみ』やプーシキンの作品をも視野に入れないとムィシキンの恩人やアグラーヤの名付け親など複雑な人物構成から成り立っているこの長編小説をきちんと分析することができないことに気づいたためである。

 『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、二〇一一年)でようやく黒澤監督の映画《白痴》を通してこの長編小説を詳しく分析したが、小林秀雄のドストエフスキー論について言及するとあまりに議論が拡散してしまうために省かざるをえなかった。

 少年の頃に核戦争の危機を体験した私がベトナム戦争のころには文学書だけでなく宗教書や哲学書なども読みふけり、『罪と罰』や『白痴』を読んで深い感銘を受けたことや、『白痴』に対する私の思いが揺らいだ際に「つっかえ棒」になってくれたのが黒澤映画《白痴》であったことについては前著の「あとがき」で書いた。ここでは簡単に小林秀雄のドストエフスキー論と私の研究史との関わりを振り返っておきたい。

 *    *  *

  小林秀雄は、戦後に書いた「『罪と罰』についてⅡ」で、「ドストエフスキイは、バルザックを尊敬し、愛読したらしいが、仕事は、バルザックの終つたところから、全く新に始めたのである」と書いた。そして、「社会的存在としての人間といふ明瞭な徹底した考へは、バルザックによつてはじめて小説の世界に導入されたのである」が、「ドストエフスキイは、この社会環境の網の目のうちに隈なく織り込まれた人間の諸性格の絨毯を、惜し気もなく破り捨てた」と続けていた。〔二四八〕

 しかし、知識人の自意識と「孤独」の問題を極限まで掘り下げたドストエフスキーは、バルザックの「社会的存在としての人間」という考えも受け継ぎ深めることで、「非凡人の理論」の危険性などを示唆していた。この文章を読んだときには小林が戦争という悲劇を体験したあとでも、自分が創作した「物語」を守るために、原作を矮小化して解釈していると感じた。

  それゆえ、修士論文「方法としての文学──ドストエフスキーの方法をめぐって」(『研究論集 Ⅱ』、一九八〇年)では、感覚を軽視したデカルト哲学の問題点を批判していたスピノザの考察にも注意を払いながら、社会小説の側面も強く持つ『貧しき人々』から『地下室の手記』を経て『白痴』や『未成年』に至る流れには、シェストフが見ようとした断絶はなく、むしろテーマの連続性と問題意識の深まりが見られることを明らかにしようとした。

  上梓した時期はかなり後になったが、厳しい検閲制度のもとで戦争の足音が近付く中で、なんとか言論の自由を確立し農奴制を改革しようとしたドストエフスキーの初期作品の意味をプーシキンの諸作品などとの関わりをとおして考察した『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、二〇〇七年)には、私の大学院生の頃の問題意識がもっとも強く反映されていると思える。

 ラスコーリニコフの「罪の意識と罰の意識」については、「『罪と罰』における「良心」の構造」(『文明研究』、一九八七年)で詳しく分析し、その論文を元に国際ドストエフスキー学会(IDS)で発表を行い、そのことが機縁となってイギリスのブリストル大学に研究留学する機会を得た。イギリスの哲学や経済史の深い知識をふまえて、『地下室の手記』では西欧の歴史観や哲学の鋭い批判が行われていることを明らかにしていたピース教授の著作は、後期のドストエフスキー作品を読み解くために必要な研究書と思える(リチャード・ピース、池田和彦訳、高橋編『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』のべる出版企画、二〇〇六年)。

 この時期に考えていた構想が『「罪と罰」を読む──「正義」の犯罪と文明の危機』(刀水書房、一九九六年、新版〈追記――『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』〉、二〇〇〇年)につながり、そこでラスコーリニコフの「良心」観に注意を払いつつ、「人類滅亡の夢」にいたる彼の夢の深まりを考察していたことが、映画《夢》の構造との類似性に気づくきっかけともなった。

 日露の近代化の類似性と問題点を考察した『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』(刀水書房、二〇〇二年)でも、雑誌『時代』に掲載された『虐げられた人々』、『死の家の記録』、『冬に記す夏の印象』などの作品を詳しく分析することで小林秀雄によって軽視されていた「大地主義」の意義を示そうとした。

 プーシキンの『ボリス・ゴドゥノフ』については授業では取りあげていたが、僭称者の問題を扱う予定の『悪霊』論で本格的に論じようとしていたためにこれまで言及してこなかった。今回、この作品における「夢」の問題にも言及したことで、『罪と罰』から『悪霊』に至る流れの一端を明らかにできたのではないかと考えている。

 「テキスト」という「事実」を自分の主観によって解釈し、大衆受けのする「物語」を「創作」するという小林の方法は、厳しい現実を直視しないで威勢のよい発言をしていた鼎談「英雄を語る」*などにおける歴史認識にも通じていると思える。このような方法の問題がきちんと認識されなければ、国民の生命を軽視した戦争や原発事故の悲劇が再び繰り返されることになるだろう。

 「『罪と罰』をめぐる静かなる決闘」という副題が浮かんだ際には、少し大げさではないかとの思いもあった。しかし、本書を書き進めるにつれて、映画《白痴》が小林の『白痴』論に対する映像をとおしての厳しい批判であり、映画《夢》における「夢」の構造も小林の『罪と罰』観を生涯にわたって批判的に考え続けていたことの結果だという思いを強くした。黒澤明は映画界に入る当初から小林秀雄のドストエフスキー観を強く意識しており、小林によって提起された重たい問題を最後まで持続して考え続けた監督だと思えるのである。

 時が経つと不満な点も出て来るとは思うが、現時点では本書がほぼ半世紀にもわたる私のドストエフスキー研究の集大成となったのではないかと感じている。

 黒澤明監督を文芸評論家・小林秀雄の批判者としてとらえることで、ドストエフスキー作品の意義を明らかにしようとした本書の方法については厳しい批判もあると思うので、忌憚のないご批判やご助言を頂ければ幸いである。

 

注 1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、「英雄とはなんだらう」という同人の林房雄の問いに「ナポレオンさ」と答えた小林秀雄は、ヒトラーも「小英雄」と呼んで、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語っていた。

戦争に対して不安を抱いた林が「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけると小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていたのである。この小林の言葉を聴いた林は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」との覚悟を示していた。(「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁((不二出版、復刻版、2008~2011年)。

(2014年5月3日、注の加筆:7月14日)

 

リチャード・ピース名誉教授の訃報に接して

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リチャード・ピース名誉教授の訃報に接して

 

“sad news“ という件名でのIDSからのメールを木下先生から転送して頂き、Richard Peaceブリストル大学名誉教授のご逝去を知ったのは昨年一二月八日のことであった。

グラナダのシンポジウムで久しぶりにお会いできることを楽しみにしている旨を記したピース教授夫妻へのクリスマス・カードを書き終えて、投函する直前だったので、この思いがけない訃報にしばらく茫然自失の状態だった。

英国大学スラヴィスト学会の会長やハル大学の文学部長などを歴任した世界的に著名なロシア文学者のピース教授と初めてお会いしたのは、一九九二年にオスロで開かれた国際ドストエフスキイ学会においてであった。混沌とした当時のロシアの政治・経済状況と比較しつつ、『地下室の手記』の直後に書かれた短編小説『鰐(クロコダイル)』の現代性を浮き彫りにした氏の発表からは新鮮な感銘を受け、お話しするなかで深い学識に支えられた重厚で温和なお人柄に魅せられた。            

その後『罪と罰』をきちんと分析するためには、『冬に記す夏の印象』や『地下室の手記』の考察が必要であると考えて「日露両国の近代化の比較」というテーマでイギリスでの研究を望んだところ、ブリストル大学(University of Bristol)に快く迎え入れて頂いた。一年間という短い期間であったが、一八七六年創設という古い伝統を持つ総合大学の図書館を自由に利用させて頂いたばかりでなく、ピース教授の授業への参加やロシア学科の同僚の教員の方々との歓談の機会や二度にわたる研究発表の場も与えて頂いた。

個人的にもブリストルやヨークシャーのご自宅に招待して頂き、奥様とともにヒースの咲く北部の要衝ヨークを散策し、バイキング博物館を案内して頂いた際には、イギリスの歴史と文化の深さを実感した。

二〇〇〇年に行われた千葉大学での国際研究集会には、奥様の体調がすぐれなかったためにお一人での来日となったが、妻とともに京都・奈良の旅行をしたことが貴重な思い出になっている。ピース教授のご著書Dostoevsky`s Notes from Undergroundと論文Russian Concepts of Freedomを編集して『ドストエフスキイ 「地下室の手記を読む』(のべる出版企画、二〇〇六年)という題で池田和彦氏の訳で出版した際には、「日本の読者の皆様へ」という献辞も頂いた。

教授の著書を日本で出版するに際しては、主要作品における登場人物の名前や分離派の問題の重要性を広い視点から明らかにして欧米やロシアだけでなく、日本人の研究者にも強い影響を及ぼした主著Dostoyevsky: An Examination of the Major Novels  (Cambridge University Press,1971)の一部を訳出することも考えたが、この書の内容は江川卓教授や作田啓一教授の著書ですでにたびたび引用・紹介されていた。

それゆえ、文学的・思想的な背景やそれまでの批評史を踏まえて、言語学や比較文学の手法を用いながらテキストの綿密な分析を行った『地下室の手記』論が、後期の大作を理解するための基礎的な文献にもなると考えてこの著書を選んだ。

しかし、その後の日本ではピース教授の研究に依拠しながら、それをゆがめた形で用いている著作が流行っている。このような日本の状況をゴンチャローフの『フリゲート艦パルラダ号』などの研究をとおして日本の歴史・文化に強い関心を持たれ、江戸東京博物館などへの小旅行も満喫されていた親日家のピース教授が知られたら激しく落胆されたと思う。『白痴』論のみでも訳出すべきだったかとの悔いも残るが、ご研究の意義をホームページなどで少しずつでも明らかにしていきたい。

IDSの副会長という要職にもおられたピース教授からはその後もシンポジウムへの参加のお誘いを頂いていたが、学務が忙しくなったこともありご依頼に添えなかった。次回のスペインの大会でお会いできないのは痛恨の極みだが、せめて先生のお写真も載っている訳書を持参して、日本における先生の学説の広く深い受容についてご報告することで、学恩に少しでも報いたいと考えている。

   (『ドストエーフスキイ広場』第23号、2014年4月)

 

「研究活動・前史」と「引率時の体験とIDSでの発表」など

「研究活動・前史」

都立広尾高等学校に在学中はベトナム戦争の時期だったこともあり、文学作品だけでなく宗教書や哲学書を夢中になって読みふけっていた。このころに「他者」を殺すことで、「自分」を殺してしまったという哲学的な言葉が記されているドストエフスキーの『罪と罰』や、自己と他者との深い関わりが示唆されていた『白痴』と出会ったことがロシア文学に関心を持つきっかけとなった。

 東海大学文学部文明学科ヨーロッパ専攻に入学した後、ブルガリアのソフィア大学に2年間留学して、「辺境」の「小国」と思われていたこの国で学び、東ローマ帝国と「ブルガリア帝国」との関わりを詳しく知った。

この時期に東欧の視点から西欧やロシアを見ることができたことが私の文明観の形成したばかりでなく、『坂の上の雲』などの司馬遼太郎の作品への関心を深まる遠因ともなったと思える。

 大学院文学研究科(文明研究専攻)の時期には1年間モスクワ大学に留学してドストエフスキーの初期作品の研究をした。

   *   *   *

「引率時の体験とIDSでの発表」
引率教員としてモスクワを訪れた1986年にはチェルノブイリ事故と遭遇して、原子爆弾や原子力発電の問題の大きさを再認識することになった。

 国際ドストエーフスキイ・シンポジウム(IDS)への参加
リュブリャーナで行われた1989年の第7回大会では、『罪と罰』における「良心」の問題を発表したが、この時期には旧ユーゴスラヴィアの共和国間の対立が芽生えていた。その後の経過からは、それまで仲良く共存していた民族でも過去の問題を互いに非難し始めると戦争にまで到ることを痛感させられた。オスロで開かれた1992年の第8回大会の帰途では混乱期のロシアと遭遇した。             

1994年4月から1年間は、ロシアと日本の近代化の比較をテーマとして、イギリス・ブリストル大学のロシア学科で研究したが、この時にイギリスの近代化をも視野に入れた研究することができたことで私の視野も広がり、ほぼ私の文明観や研究方法が定まったと思える。

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「追記」

中学時代の初めに読んだ本で印象に残っているのは、武者小路実篤の作品だった。今になってみるとこのときの読書体験が、『白痴』や『イワンの馬鹿』との出会いを準備していたと思える。下村湖人の『次郎物語』を読んだことで社会的な視野が広がり、夏目漱石の『坊っちゃん』や『三四郎』、島崎藤村の『破戒』や芥川龍之介の作品などの読書へとつながった。

高校時代には文芸部に入っていたこともあり文学書は乱読したが、『論語』や『聖書』、仏教書の他にキルケゴールの『死に至る病』なども頭をひねりながら読んだ。ドストエフスキーの長編小説を読み終えた後で、プーシキンの『エヴゲーニイ・オネーギン』やツルゲーネフの『その前夜』、さらにはトルストイの『戦争と平和』などを読んだことが現在の研究につながっていると思える。

(7月7日に記載、12月23日加筆)

ドストエフスキー生誕記念国際会議(1996年)に参加して

「ドストエフスキーと世界文化」と題する国際会議が、1996年11月11日から17日まで、モスクワ大学文学部、ロシア・文化省、国立文学博物館およびサンクト・ペテルブルクのドストエフスキー博物館の四者の共催で行われた。

ドストエフスキーの誕生日に当たる11日には彼のためのミサやドストエフスキー博物館前の作家の像への献花が行われた。この後に博物館の見学や、ドストエフスキー関連のモスクワ見学が組まれ、文学博物館における「ドストエフスキーの世界」と題する展示会の開会式も行われた。

モスクワ大学で行われた12日の開催式に際しては、カターエフ教授の司会で文化省の大臣や修道院長が祝辞を読み上げた他、ドストエフスキーの偉大さをたたえたエリツィン大統領の病院からのメッセージも伝えられた。「ドストエフスキー協会」会長のヴォルギン氏は、外国の諸都市やサンクト・ペテルブルクなどで行われてきたドストエフスキーの国際会議が、初めて作家の生まれたモスクワで行われることの意義を強調した。

参加者の一番の注目を引いたのは、プログラムには載っていなかったソルジェニーツィン氏が壇上に呼ばれた時であった。氏はその短い講演で「ドストエフスキーは、アレクサンドル2世の暗殺の前に亡くなったが、もし彼が生きていたらそのニュースをどのように感じただろうか」と問いかけたあと、「もし彼が、現在のロシアの混乱や貧困を見たらどう感じるだろうか」と言葉を継いで、ロシアの現状を厳しく批判した。そして「ドストエフスキーはロシアの作家や哲学者のうちで、未来への洞察力の最もある予言者であった」とし、彼の作品をさらに注意深く読む必要があることを参加者に訴えた。

翌日の『СЕГОДНЯ』紙は、ソルジェニーツィンの発言に関連して、現在、ロシアでは『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』などとともに『虐げられた人々』が当面の緊急課題となっていると報じていた。実際、ロシアの政治的経済的な混乱は、この国際会議にも暗い影を落としていたようだ。

その一つは本場ロシアでの開催にもかかわらず、治安の問題のせいだろうが、モスクワでは国際ドストエフスキー学会(IDS)の主立ったメンバーをほとんど見ることが出来なかったことである(15日から行われたサンクト・ペテルブルクの会議には、イギリスのキリーロワやシンプソン、アメリカのボグラードなどの研究者が参加した)。また、移動の時間などに余裕がなかったため、外国からの参加者は会議の最中にも、宿泊や列車の手配などの手続きをせねばならぬ事態も起きた。

他方、ロシア人報告者も欠席や新たな発表者の挿入などの変更が目立った。このためプログラムに記されたことがらが大きく異なり、またレジュメの書かれたプリントなども配られなかったので、変更内容が分からないような状態にもおちいった。

会議の終了後にあるロシア人教授にこのような混乱の理由をたずねると「たとえば、私の月給はわずか100ドルなんですよ」との一言が返ってきた。多くの参加予定者にとっては旅費を捻出すること自体がすでに困難だったのである。

こうした状況を考えれば、2都市にわたり130名近い発表者がいた国際会議がこれといった大きな混乱もなく終了したこと自体が成功と言えるだろう。先に挙げた研究者以外では、ルーマニアのコヴァチ、ベラルーシのレナンスキイ、さらにフランスのアレンなどの各氏の他にもドイツ、イタリアさらにクロアチアの学者の姿も見えた。日本からは糸川紘一氏が「『罪と罰』におけるパラドックス」と題する報告を行い、私は「ドストエフスキーとオストロフスキー」という発表を行った。ロシア側ではトゥニマーノフ、ザハーロフ、ステパニャン、ヴェトローフスカヤ、サラースキナといったIDSへの常連の参加者が自ら発表を行う一方、適切な司会もこなして議論を盛り上げた。興味深い発表も多かったが、ここでは議論を呼んだいくつかの発表を中心に紹介することにしたい。

ポーランドのラザリ氏のテーマ「ソボールノスチについて」は、これまでのIDSでのドストエフスキーとロシアのナショナリズムの問題の考察の続きといったもので特に目新しいものではなかった。しかし、IDSでは通常激しい批判と拍手が相半ばする氏の発表だが、「ロシアの民衆の主な特質についてのドストエフスキーの考察」や「ロシアの理念」といった発表が続いたセッションでは明らかに孤立しており、このようなテーマを客観的に論ずることの難しさを感じた。

この点で興味をひいたのは、ドストエフスキーの作品をカトリックの論理的な言語であるフランス語に訳す際の様々な困難について朴訥に語り、聴衆の共感を呼んだ翻訳者の発表である。彼はフランス語の文語では単語の繰り返しなどが基本的には許されず、またラテン語の影響が強かったために<yбивец>というような用語がフランス語の口語に定着していないなどその難しさを指摘するとともに、最近、直訳に近い訳語でなされた劇が成功を収めていることをも報告して、ギリシア正教の理念を伝えるためには正確なロシア語訳の必要なことを強調した。

レールモントフやゴーゴリの場合にも言及しながら、ドストエフスキーの作品における「家と道」のかかわりについて語ったクレイマン女史の論理的な発表に対しては、家としての修道院をどのように考えるかとか、あまりにも抽象的なアプローチの仕方ではないかなどの質問や批判が相次いだ。しかし、女史は「私に手袋を投げたい人には、休憩の時間に対応します」と冷静に応じた。

おそらく最も議論を呼んだのは、サンクト・ペテルブルクに持ち越されたベローフ氏の発表であっただろう。氏は来年に刊行される予定の自著の『ドストエフスキー辞典』について語りながら、故フリードレンデル氏などが編集した30巻全集の欠点などを強い口調で厳しく批判した。このため司会者は感情的な議論は避けて下さいという前提で質問を受け付けたが、やはり議論は白熱したものとなった。

会議に併せて、期間中にモスクワドラマ劇場では脇役に光をあてるという意欲的な演出をした《白痴》の3部作が3夜にわたって上演された。サンクト・ペテルブルクでは普通の住宅の1室を改造した場所でごく少数の観客を対象に《おかしな男の夢》が上演された。この作品の重要性についてはいくつかの発表も言及していたが、狭い空間を利用して見事な出来であった。

なお、IDSの昨年の国際会議の後に日韓の発表論文集が北海道大学スラブ研究センターから刊行されたが、ロシアの「ドストエフスキー協会」と日本の「ドストエーフスキイの会」の共編という形で、それらの論文が今回発行された論文集『ドストエフスキーと世界文化』の第8集にロシア側の論文とともに掲載され、参加者の強い関心をひいた。こうした試みが今後も続けられることを期待したい。

(本稿では肩書きは省略し、HPへの掲載に際しては人名と国名表記を一部変更するとともに、文体レベルの訂正を行った)。

   「国際交流ニューズレター」(日本ロシア文学会国際交流委員会、No.8、1996年)