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良心

小林秀雄の『罪と罰』観と「良心」観

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小林秀雄の『罪と罰』観と「良心」観

一、

文芸評論家の小林秀雄は一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、「惟ふに超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難いがある」と「謎」を強調しつつ、「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」とし、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と続けていた〔傍線引用者、以下も同じ。『小林秀雄全集』、新潮社、第六巻、四五頁。以下、〔〕内に頁数のみを記す〕。

しかも、ラスコーリニコフの孤独感に焦点を当てながら、「漠然とした孤独の想ひは、事件をきつかけとして明らかに痛みを感ずる感覚と化して彼の心を貫いた。この暗い孤独感はラスコオリニコフにつき纏つて決して離れない」と記した小林は〔四八〕、ラスコーリニコフの自白を紹介した後では、「作者はどんなにあそこで何も彼も片づけて了ひたかつただらう。これから先き、気狂い染みた自首を行はせ、シベリヤに行くまでこの罰当りのお守りをしなければならぬとは、なんといふ面倒な仕事だらう。第六章と終章とは、半分は読者の為に書かれたのである」と書いた〔五三〕。

そして、スヴィドゥリガイロフとラスコーリニコフとの関係を分析したあとで小林は、「この小説で作者が心を傾けて実現してみせてくれてゐるものは、人間の孤独といふものだ」と書くことで、ラスコーリニコフの「良心」の問題を「孤独」の問題へと逸らしていた〔六二〕。

この意味で注目したいのは、太平洋戦争の直前の一九四〇年八月に行われた林房雄や石川達三との鼎談「英雄を語る」で、「英雄とはなんだらう」という林の問いに「ナポレオンさ」と答え、ヒトラーを「小英雄」と呼んだ小林が、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語り、トルストイには「やはり凡人を正しいとする確信があったのだね」と続けた小林は、「暴力の無い所に英雄は無いよ」とも語っていたことである(小林秀雄『文學界』第七巻、一一月号。不二出版、復刻版、二〇〇八~二〇一一年)。

これらの記述や発言には『罪と罰』論だけでなく、小林秀雄のドストエフスキー論全体にかかわる重要な問題があると思われる。

 二、

敗戦後の一九四六年に座談会「コメディ・リテレール」で、トルストイ研究者の本多秋五から戦前の発言について問い質された小林秀雄は、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない」と語っていた(傍線引用者、以下、同じ。『小林秀雄全作品』第一五巻、新潮社、二〇〇三年)。

しかし、先の鼎談で林房雄から「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問われて、「大丈夫さ」と答えていた小林は、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていた。

 さらに小林が「日本はその点で宗教的だネ、日本国家に対して実に宗教的で」と語ると、この言葉を聞いた林房雄は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる。天皇陛下を戴いて諸共に皆んな滅びてしまへば宣いと覚悟してゐる」との覚悟を示していたのである。

林房雄が語ったこのような歴史認識が日本を無謀な戦争へと駆り立てたばかりでなく、ミッドウェー海戦での敗北の後では国力の差から勝つ見込みが次第になくなったにもかかわらず、神風特攻隊や沖縄での地上戦などで、戦争を引き延ばすことにより多くの有為な若者を死にいたらしめていたといえるだろう。

そのことを思い起こすならば、日本を代表する「知識人」の一人であり、『罪と罰』論を書いた小林秀雄が、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」と語り、「それについては今は何の後悔もしていない」と続けていたのはきわめて不自然と思われる。

 戦後に書いた「『罪と罰』についてⅡ」で、エピローグで描かれている「人類滅亡の悪夢」について、「ラスコオリニコフには、決して夢でも譫言でもなかつたからである。彼は、犯行後、屋根裏の小部屋でも、これに類する夢を見たかも知れぬ。何故なら、これは、彼の心の底に常にあつた烈しい倫理的問ひだつたからである」と指摘した小林は、「ラスコオリニコフが夢を見る都度、夢は人物について多くのことを読者に語つてきた筈だが、当人が夢から何かを明かされた事はない」と結論している〔二六〇~二六一〕。

 だが、果たしてそうだろうか。近著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)の第四章で詳しく分析したように、ドストエフスキーは『罪と罰』でラスコーリニコフにおける「罪の意識」の深まりを他者との関わりや「夢」をとおして驚くほど詳細に描いていたのである。

戦前に書いた『罪と罰』論において小林は、二人の女性を殺害したラスコーリニコフの「良心」観について、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と書いていたが、それは「今は何の後悔もしていない」と語った評論家自身の「良心」観ときわめて似ていると思える。

 三、

同じことは、「原子力エネルギー」の危険性の認識についても当てはまるだろう。

一九四九年にノーベル物理学賞を受賞することになる湯川秀樹博士とその前年に対談した小林秀雄は、「私、ちょうど原子爆弾が落っこったとき、島木健作君がわるくて、臨終の時、その話を聞いた。非常なショックを受けました」と切り出した小林は、「人間も遂に神を恐れぬことをやり出した……。ほんとうにぼくはそういう感情をもった」と語っていた(『小林秀雄全作品』第一六巻、新潮社、二〇〇四年)。

 それにたいして湯川が太陽熱も原子力で生まれており「そうひどいことでもない」と主張すると、「高度に発達する技術」の危険性を指摘した小林は、「目的を定めるのはぼくらの精神だ。精神とは要するに道義心だ。それ以外にぼくらが発明した技術に対抗する力がない」と厳しく反論していた。

 そして小林は「科学の進歩が平和の問題を質的に変えて了ったという恐ろしくはっきりした思想、そういうはっきりした思想が一つあればいいではないか」と結んでいた。

 ここには科学者が陥る科学技術の盲信に対する先駆的な批判があり、「道義心」の視点から真実を見抜く観察眼と辛くても事実を見る勇気の必要性を強調した小林の主張は、専門家の湯川が後に「核兵器廃絶」を訴えた一九五五年七月九日の「ラッセル・アインシュタイン宣言」に署名するきっかけを作ったといっても過言ではないだろう。

 しかし、それだけの先見の明を持っていた小林は、「戦争」のときと同じように「原発推進」が「国策」となると、「原子力エネルギー」の危険性については完全に沈黙してしまう。

たとえば、『文學界』の創刊五〇〇号を記念して評論家の河上徹太郎と一九七九年に行った対談で、歴史の認識は「合理的な道ではない。端的に、美的な道だ」と、戦前や戦中と同じような発言をした小林秀雄は、その一方で同じ年に起きて世界を揺るがしたスリーマイル島での原発事故には全く言及していないのである(『考える人』春季号、新潮社、二〇一三年)。

 このような小林秀雄の歴史認識や「原子力エネルギー」の認識に対して黒澤監督が深い危惧の念を抱いて長編小説『罪と罰』を詳しく読み直したことが、映画《夢》の構造が『罪と罰』における「夢」の構造ときわめて似ている理由ではないかと私は考えている。