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正岡子規

商人・高田屋嘉兵衛の自然観と倫理観――『菜の花の沖』と現代

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はじめに――『坂の上の雲』から『菜の花の沖』へ

『坂の上の雲』(1968~72)において、明治初期から日露戦争の終結に至るまでの激動の歴史を描いていた司馬氏はこの長編小説の後で、勃発寸前までに至った日露の衝突の危機を救った江戸時代の商人・高田屋嘉兵衛を主人公とした長編小説『菜の花の沖』(1979~82)を描いていた。

本発表では『坂の上の雲』をも視野に入れることにより、近代化の問題に鋭く迫った『菜の花の沖』の現代的な意義に迫りたい(ここでは配付資料に図版とリンク先を追加した)。

Ⅰ.『菜の花の沖』の時代と「江戸文明」の再評価

a.『菜の花の沖』の構造

単行本で6巻からなる長編小説『菜の花の沖』(文藝春秋)の前半では、淡路島の寒村に生まれた嘉兵衛が兵庫に出て樽廻船に乗って一介の炊(かしき)から身を起こして船持ちの船頭となり、航路を切り開き大船団を率いて、折から緊張の高まりつつあった北の海へと乗り出していくまでが描かれている。

そして、後半では厳しい封建制度の中で行動の自由を得、菜の花から作る菜種油を販売して財を成し、虐げられていたアイヌの人々と共に対等な立場で貿易を行い、箱館の町を発展させた嘉兵衛が一介の商人でありながら、戦争の危機を救うという重大な役割を果すまでが描かれるのである。

b.高田屋嘉兵衛(1769~1827)とその時代

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(高田屋嘉兵衛 (1812/13年)の肖像画。画像は「ウィキペディア」より)

『菜の花の沖』は主人公が生まれた淡路島の形状とその位置の描写から始まる。

「島山(しまやま)は、ちぬの海(大阪湾)をゆったりと塞(ふさ)ぐようにして横たわっている。…中略…わずか一里のむこうに本土の車馬の往来するのが見え、その間を明石海峡の急流がながれており、本土に変化があればすぐさま響いてしまう」(1・「都志の浦」)。

そのような例として「この話の主人公がうまれるすこし前」に、「六甲山山麓の住吉川、芦屋川などの急流ぞいに水車工場がうまれ」たと記した司馬氏は、「それまでは菜種油は高価なものであったが、この大量生産によってやすくなり、さらにはこの油を諸国にくばるために兵庫や西宮(にしのみや)あたりの海運業が栄えた」と説明している。それは貧しい農家の子供だった高田屋嘉兵衛が将来、海運業者として飛躍することになる背景でもあった。このことにより司馬氏は高田屋嘉兵衛がこの時期に忽然と現れた「英雄」ではなく、時代の流れのなかから生まれてきたことを明らかにしているのである。

c.高田屋嘉兵衛の自然観

司馬氏は兵庫の回船問屋堺屋で働き始めた頃の嘉兵衛についてこう記す。「この時期、嘉兵衛はおぼろげながらかれ自身が生涯をかけてつくりあげた哲学の原型のようなものを、身のうちにつくりつつあった。そのことは、かれの気質や嗜好と密接にむすびついている。潮汐や風、星、船舶の構造と同じように、嘉兵衛は自分の心までを客観化してしまうところがあった」。それは「つまりは正直ということであった」とし、「自分と自分の心をたえず客体化して見つづけておかねば、海におこる森羅万象(しんらばんんしょう)がわからなくなる、と嘉兵衛はおもっている」(1・「兵庫」)。

そして、「みずから持船を指揮し、松前(北海道の藩領地域)にのりだした」彼に次のように語らせている。「海でくらしていると、人間が大自然のなかでいかに非力で小さな存在かということを知る、という。海の人間のなかで、陸にいるような増上慢や夜郎自大のものはおらんよ、といった。陸には、追従で立身したり、人の褌ですもうをとって金儲けをする者がいるが、海にはおらんな。真に人間というものが好きになり、頼もしくなるというのも、海じゃな」。

この言葉はなにゆえ、なぜ高田屋嘉兵衛が当時奴隷のように虐げられていたアイヌの人々をも人間として接することができたかや、ロシア人との交渉においてなぜの彼の言葉が説得力を持ち得たのかをも明らかにしていると言えよう。

こうして「潮」と人間の観察を踏まえつつ、黒潮の流れにのって北海道にまでのりだした高田屋嘉兵衛の活躍を通して、そのような人物を生みだし得た「江戸文明」の意味を明らかにするのである。

d.高田屋嘉兵衛の蝦夷観と江戸時代の新しい知識人

注目したいのは、司馬氏が「江戸期はふしぎな時代であった。鉄の箱のように極端な鎖国社会を形成しながら、その箱のなかのひとびとの知的活動は、つねに唐(中国)と阿蘭陀(オランダ)の二つの異文化を日本と対置しながら物を考えるという癖があった」(3・「春信」)とし、江戸後期には「文明」と「野蛮」に分けて、「低地」をさげすむのではない工藤平助や高橋三平など第三の「知的なグループがすでに江戸に存在していた」ことにも注意を向けている(3・「箱館」)。

e.江戸時代の商取引と江戸時代の先進性

第四巻で司馬氏は、高田屋嘉兵衛が波濤を超えてクナシリ航路を開拓し、エトロフの地域での商業権を得て、商人としても飛躍する時期を描いている。江戸時代の商取引に言及した網野善彦氏も「遅れていたら商業や取引を自分たちの用語だけでやれる」はずはないと説明して、「『遅れている日本』というイメージは、明治政府によって作り出された虚像だ」と説明している。

 

Ⅱ.高田屋嘉兵衛の説得力――「江戸文明」の独自性

a.高田屋嘉兵衛とゴローニン(以下、司馬氏の表記に従う)の屈辱

司馬氏は嘉兵衛が捕らわれた時の状況をこう記している。「自由を奪われた嘉兵衛は、怒りのために全身の血が両眼から噴きだすようであり、それ以上にこの男を激昂させたのは、ロシア人たちがかれを縛ったことである。…中略…嘉兵衛の自尊心にはこれがたまらなかった。『縛るな』 ねじ伏せられながら、叫んだ」。

注目したいのは、司馬氏がここで高田屋嘉兵衛のこのシーンを描く前に、日本人が「一国の艦長を罠にかけ、けもののように縛り」あげたことや「囚人にとって苦痛をきわめた」、「逮捕・護送」についても詳しく記していたことである。

ここには「歴史的な事実」を一方の視点からだけ見るのではなく、他の視点からも描くという司馬氏の比較文明論的な視野がよく現れていると思える。

b.近代の「奇怪な国家心理」について

ゴローニンが江戸幕府に捕らえられるようになった時代的な背景を説明しつつ、司馬氏は、「 『国家』という巨大な組織は近代が近づくにつれていよいよばけもののように非人間的なものになってゆく。とくに、国家間が緊張したとき、相手国への猜疑と過剰な自国防衛意識」が起きるだけでなく、「さらには双方の国が国民を煽る敵愾心の宣伝といった奇怪な国家心理」も働くという分析を行っている。

c.高田屋嘉兵衛の決意

その一方で、司馬氏は高田屋嘉兵衛が「このままゆけば国家間の戦争になると憂えていたかもしれない」と記し、彼が『人質になった以上は、両国の和平のために、なんとかよき方向に持ってゆきたいのが心底です』と記したことに触れて、これは「一介の町人身分にすれば、江戸期の身分制的なふんいきから高く跳躍した物言い」であり、「この決意をした瞬間、船頭の嘉兵衛は歴史の上に、新しいあしあとを穿った」と記している。

d.高田屋嘉兵衛とナポレオン

 司馬氏が『坂の上の雲』において主人公の一人とした俳人の正岡子規は若い頃に書いた「筆まかせ」で比較の重要性を強調していた(近著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年が、それは夏目漱石の作品ばかりでなく、『菜の花の沖』にも見られる。ことに重要と思われるのは、嘉兵衛がロシア側に捕らえられたのと同じ年にロシアに侵攻してモスクワを占領したナポレオンの両者を比較して司馬氏が、「嘉兵衛はナポレオンと同じ年にうまれている」ばかりでなく、「両人とも島の出身だった」と記していることである。

さらに嘉兵衛が「欧州ではナポレオンの出現以来、戦争の絶間がないそうではないか」と語り、「扨々(さてさて)、恐敷事候(おそろしきことにそうろう)」と批判したことに注意を促した司馬氏が「ただ一人の友人しか持てなかった」ナポレオンと、「嘉兵衛の事情は異なっている」と続けていることを考慮するならば、ここでは日露両国の衝突の危険性を平和的に解決した高田屋嘉兵衛と武力によるヨーロッパの統一を目指したナポレオンの生き方とが比較されているのは明らかだろう。

e.高田屋嘉兵衛の上国観と「国政悪敷国」

司馬氏は嘉兵衛が、「わが国は軍事については、敵国の物を奪いとることは大法にて禁制になっています」と言い、言葉を継いで「日本と当国の軍制のちがいは、日本の場合、どういう怨みがあっても、自国を固めることはあっても、不法に他国を攻めるようなことがない」と伝えたと記して、「こういうことを大見得でもって言えたのは、江戸期の日本だったればこそであったろう」と続けた。

嘉兵衛がリコルドに「国政が悪い国家とは何か」という主題について、「愛国心を売りものにしたり、宣伝や扇動材料につかったりする国はろくな国ではない」と説いたとし、ここで「『国政悪敷国』というふうにやわらかい表現をつかっている」ことに注意を促した司馬氏は、「下国とか悪国ということばをつかわないのは、国に善悪などはなく、国政がいいか悪いかだけだという考え方が嘉兵衛にあるからだろうか」と記した。

f.『坂の上の雲』における戦争の批判

『坂の上の雲』において司馬氏は一九世紀末を「地球は列強の陰謀と戦争の舞台でしかない」と規定していたが、ここには戦争を絶えず生み続けた近代ヨーロッパの「国民国家」への鋭い批判を見ることができる。

実際、すでに『竜馬がゆく』において明治7年の台湾出兵や明治10年の西南戦争などでは利益をあげ、巨万の財を築くことになる政商・岩崎弥太郎を批判的に描いていた司馬氏は、『坂の上の雲』では、外国からの借金によって軍備の拡大と近代化を行ったことや戦争と経済の関係をこう分析していた。

「日本の戦時国民経済がほぼ平時とかわらなかったのは、主として外国の同情によって順調にすすんだ外債のおかげであった。結果としての数字でいえば日露戦争は十九億円の金がかかった。このうち外債が十二億円であったから、ほとんどが借金でまかなった戦争といっていい」(五・「奉天へ」)。

夏目漱石は日英同盟の締結に沸く日本をロンドンから冷静に観察していたが、司馬氏も『坂の上の雲』において「自国の東アジア市場を侵されることをおそれ」たイギリスが同盟国の日本に求めたのは、「ロシアという驀進(ばくしん)している機関車にむかって、大石をかかえてその前にとびこんでくれる」ことだと書いていたのである(七・「退却」)。

一時的な景気にはつながっても長い目で見れば、国家経済を破綻へと導くことになる戦争や兵器の輸出などの問題をこの記述は鋭く指摘していたといえる。

g.『本郷界隈』における『三四郎』の考察

夏目漱石は『三四郎』で日露戦争後の日本を厳しく批判した広田先生の言葉を描く前に、一人息子を日露戦争で失った老人の「一体戦争は何のためにするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんな馬鹿気たものはない」という嘆きを描いていた。司馬氏は『三四郎』のこの文章を受けて「爺さんの議論は、漱石その人の感想でもあったのだろう」と書き、日本が「外債返しに四苦八苦していた」ために、「製艦費ということで、官吏は月給の一割を天引きされて」いたことに注意を向けている(『本郷界隈』)。

 

Ⅲ.「後期江戸時代」の再評価と新しい文明の可能性

a.ゴローニンの日本観

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(『日本幽囚記』の著者ゴロヴニーン。図版は「ウィキペディア」より)。

司馬氏は囚われの身であったゴローニンが、「『日本人こそ世界で最も凶悪な野蛮人だ』と、帰国後も叫びつづけることもできたし、ふつうの精神ならそのようにしたところで当然ともいえる」と記した後で、そうは記さなかったゴローニンの偉大さに司馬氏が触れている。

実際、ゴローニンは『日本幽囚記』で日本の教育を、「一国民を全体として他の国民と比較すると、私の意見では、日本人は天下で最も教育のある国民である。日本には読み書きのできない者や、自分の国の法律を知らない者は一人もいない。日本では法律はめったに変更されない」と絶賛している。

彼がイギリスで教育を受けていることを考えるならば彼の意見は重たく、ヨーロッパ文明の絶対視を越えて比較文明論的な視点から歴史を見ようとする新しさがある。

b.ケンペルの「鎖国論」

1690年にオランダ商館の医師として長崎に着任し、将軍綱吉にも三度の拝謁を許されたケンペルも「日本国民のやり方は全く背理の行為である」と一応は鎖国を批判しつつも、「日本人の模範例に」ならって各民族が鎖国をした場合には、不毛の土地を開墾できるだけでなく、「学問、技術、道徳の分野ではより更なる熱意と精勤を以て自己を陶冶し」、「子供の教育、家事全般には益々熱心に身を入れ」、「国民として最も幸福な状態の頂点に近づいてゆく」と絶賛していた(小堀桂一郎『鎖国の思想』中公新書)。

c.ヴォルテールの評価

江戸時代を遅れた時代とする見方になれた私たちには不思議な記述だが、重要なのはここで彼が「戦乱によって家屋や諸所の都市が破壊されたり、人間が殺戮され、国土が荒廃に帰した」西欧と比較していることであろう。上垣外憲一はケンペルの書物を読んだヴォルテールが「日本人は世界で最も寛容な国民である」と記していることに注意を払い、「同時代の西洋諸国が戦争に明け暮れていた」ことと比べれば、驚くべく永続的な平和を享受していたことも、評価されねばならない」と記している。

d.江戸時代後期における「公益」の感覚

この意味で注目したいのは司馬遼太郎氏が『菜の花の沖』において、自分の発明を公開した町人の発明家である工楽松右衛門の言葉として、「人として天下の益ならん事を計らず、碌(ろく)々として一生を過ごさんは禽獣(きんじゅう)にもおとるべし」という激しい言葉を紹介して、「この公益の感覚は、この時期よりもずっと後期の町人社会になるとよほどひろがってくる」と書いていることである(2・「松右衛門」)。

しかも、司馬氏は「嘉兵衛は商人(あきんど)というより仁者だ」言った幕府の役人高橋三平の言葉を紹介しながら、「たしかにそうであったろう」と続け、「商利や生産上の利益」を「息せき切って」追求し、「また使っている人間たちを利益追求のために鞭打つようなことをした場合、当人も使用人も精神まで卑しくなってしまう」(5・「嘉兵衛船」)と書いた。

つまり、最近になって強調されるようになった「公益」という思想は、すでに江戸後期の町人社会で成立していたのであり、それは「自己中心主義」や「自店中心主義」のみならず、「国益」を前面に出した最近の「自国中心主義」をも批判できるようなより厳しい形で成立していたと思える。

e.江戸時代における「軍縮と教育」

川勝平太氏も「江戸時代の日本人」が、「軍縮と教育とを柱とする『徳治主義』によってゆるやかな経済成長」を実現したことに注目して、「軍事にではなく、教育に投資をし、知的水準をあげることは、自国のみならず、地上のどの国においても圧制者の出現を許さぬ環境づくりになる」とし、「野蛮(戦争、環境破壊)の克服こそ文明の文明たる所以である」と強調している(『日本文明と近代西洋――「鎖国」再考』)。

 

結語 日本の伝統に基づいた「積極的な平和政策」の必要性

残念ながら、今年の9月には「安全保障関連法」が「強行採決」されて、原爆の悲惨さを踏まえたそれまでの日本の「平和政策」から「武器輸出」の推進へと舵が切られた。

しかし、『坂の上の雲』で機関銃や原爆などの近代的な大量殺戮兵器や軍事同盟の危険性を鋭く描いていた司馬氏は、高田屋嘉兵衛を主人公としたこの長編小説で、江戸時代における「軍縮と教育」こそが日本の誇るべき伝統であり、この理念を広めていくことが悲惨な「核戦争」から世界を救うことになると描いていたように思える。

 

参考文献

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高橋『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』のべる出版企画、2002年。

柴村羊五『北海の豪商 高田屋嘉兵衛』亜紀書房、2000年。

黒部亨『高田屋嘉兵衛』神戸新聞総合出版センター、2000年。

須藤隆仙『函館の歴史』東洋書院、1980年。

高田屋嘉兵衛とその時代については年表3、「司馬遼太郎とロシア」関連年表、参照。

 

『復活』の二つの訳とドストエフスキーの受容

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『復活』の二つの訳とドストエフスキーの受容

はじめに

昨年の3月に「日本トルストイ協会」で行われた講演で籾内裕子氏は、内田魯庵訳の『復活』への二葉亭四迷の関わりを詳しく考察し、12月にはトルストイの劇《復活》を上演した島村抱月主宰の劇団・藝術座百年を記念したイベントも開かれました。

さらに、夏には故藤沼貴氏による長編小説『復活』の新しい訳が岩波文庫から出版され、「解説」には『罪と罰』の結末との類似性の指摘がされていました。その記述からは、改めてドストエフスキーとトルストイのテーマと問題意識の深い繋がりや、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」とした文芸評論家の小林秀雄の『罪と罰』解釈の問題点が感じられました*1。

本稿では『復活』とその訳に注目することで、対立して論じられることの多いドストエフスキーとトルストイの作品の内的な深い関係をエッセー風に考察したいと思います(図版はいずれも「岩波文庫」より)。

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一、雑誌『時代』とトルストイ

農奴制の廃止や言論の自由などを求めたために1848年のペトラシェフスキー事件で逮捕され、死刑の宣告を受けた後に減刑されてシベリアに流刑されたドストエフスキーは、流刑中の1852年に『同時代人』に掲載された『幼年時代』に記されている「Л.Н.とはだれのことか」と兄ミハイルへの手紙で尋ねていました*2。

農奴解放だけでなく法律や教育制度の改革も行われた「大改革」の時期に首都に帰還したドストエフスキーは、兄とともに総合雑誌『時代』を創刊し、多くが文盲の状態に取り残されている民衆に対する教育の普及の重要性を強調し、そこで1862年2月に創刊された月刊教育雑誌『ヤースナヤ・ポリャーナ』の紹介を行ったばかりでなく、『死の家の記録』では厳しい検閲の下にもかかわらず、監獄の状況を鋭く描き出しました*3。

それゆえ、トルストイはこの長編小説について「我を忘れてあるところは読み返したりしましたが、近代文学の中でプーシキンを含めてこれ以上の傑作を知りません。作の調子ではなく、観点に驚いたのです。誠意にあふれており、自然であり、キリスト教的で、申し分のない教訓の書です」と書いているのです*4。

一方、ドストエフスキーが唱えた「大地主義」について、「その教義は、要するに西欧派とスラヴ派との折衷主義であつて、…中略…穏健だが何等独創的なものもない思想であり、確固たる理論も持たぬ哲学であつた」とした文芸評論家の小林秀雄は、『死の家の記録』についても「厭人と孤独と狂気とが書かせた」ゴリャンチコフの「手記だつた事を思ひ出す必要がある」と書いています*5。

しかし、この作品が一時、「検閲官」の差し止めで中止されるなど厳しい検閲下で書かれていたことを忘れてはならないでしょう。興味深いのは、雑誌『時代』の創刊号から7ヵ月にわたって連載された長編小説『虐げられた人々』(原題は『虐げられ、侮辱された人々』)でドストエフスキーが登場人物にトルストイの作品にも言及させていることです。

「大改革」の時代のロシアが抱えていた問題を浮き彫りにしているこの作品のことはあまり知られていないので、まずその粗筋を紹介しその後で『罪と罰』との関連にふれることにします。

この長編小説は、主人公のイワンがみすぼらしい老人と犬の死に立ち会うというシーンから始まり、その後で少女ネリーをめぐる出来事とイワンを養育したイフメーネフの没落と娘ナターシャをめぐる筋が並行的に描かれていきます。

物語が進むにつれて、しだいにこれらの悲劇の原因が、ワルコフスキー公爵の犯罪的な詐欺によるものであることがはっきりしてくるのです。すなわち、物語の冒頭で亡くなるネリーの祖父はイギリスで工場の経営者だったのですが、娘がワルコフスキー公爵にだまされて父の書類を持ち出して駆け落ちしたために全財産を失って破産に陥っていました。

一方、150人の農奴を持つ地主で、主人公のイワンを養育したイフメーネフ老人の悲劇も900人の農奴を所有する領主としてワルコフスキー公爵が隣村に引っ越してきたことに起因しています。しばしばイフメーネフ家を訪れて懇意になったワルコフスキー公爵は、自分の領地の管理を依頼し、5年後にはその経営手腕に満足したとして新たな領地の購入とその村の管理をも任せたのです。

ここで注目したいのは、ワルコフスキーがイワンに「私はかつて形而上学を学びましたし、博愛主義者になったこともあるし、ほとんどあなたと同じ思想を抱いていたこともある」と語っていることです。父親からあまり関心を払われずに親戚の伯爵の家に預けられていた息子のアリョーシャは、トルストイの『幼年時代』と『少年時代』を熱中して読んだとイワンに伝えていますが、この時彼は父親のうちに、自分の領地ヤースナヤ・ポリャーナに学校や病院を建設して農民の養育に励んだトルストイのような面影を見ていたように思えます。人の良いイフメーネフ老人がワルコフスキー公爵を信じて彼の領地の管理や新たな領地の購入を手伝ったのは、改革者のような彼の姿勢に幻惑されたためだったといえるでしょう*6。

しかし、領地を購入した後でワルコフスキー公爵は、領地の購入代金をごまかされたという訴訟を起こし、隣村の地主たちを抱き込んでさまざまな噂を流し、有力なコネや賄賂を使って裁判を有利に運んだために、裁判に敗れて一万ルーブルの支払いを命じられたイフメーネフ老人は自分の村を手放さねばならなくなったのです。

この小説が連載された雑誌『時代』(1861年1月号~1863年4月号)が検閲で発行禁止となった後、ドストエフスキーは新たに創刊した雑誌『世紀』に『地下室の手記』などを発表してなんとか存続させようとしましたが、この雑誌も1865年には廃刊になりました。その翌年に発表されたのが、「強者のみに有利なる法律」に激しい怒りを覚え、「高利貸しの老婆」を「悪人」と規定して殺した元法学部の学生・ラスコーリニコフの苦悩と行動を詳しく描いた長編小説『罪と罰』でした。

二、内田魯庵訳の『復活』と新聞『小日本』

日本では内田魯庵が二葉亭四迷の助力を得て1892年に『罪と罰』の第一部を、翌年には第二部を英語から訳していましたが、充分な購買者数を得ることができなかったために『罪と罰』の後半部分は出版されませんでした。それにも関わらず、評論「『罪と罰』の殺人罪」できわめて深い解釈を記したのが北村透谷だったのです*7。

『罪と罰』を訳していた内田魯庵訳の『復活』が政論新聞『日本』に連載されたのは、日露戦争終結前の1905年4月5日から12月22日にかけてでした*8。魯庵はこの訳を掲載する前日に「トルストイの『復活』を訳するに就き」との文章を載せて、そこでこの長編小説の意義を次のように記していました。

「社会の暗黒裡に潜める罪悪を解剖すると同時に不完全なる社会組織、強者のみに有利なる法律、誤りたる道徳等のために如何に無垢なる人心が汚され無辜なる良民が犠牲となるかを明らかにす」。

私が強い関心を抱いたのは、どのような経緯で魯庵訳の『復活』が『日本』に掲載されたのかということでした。そのことに関連してまず注目したいのは、正岡子規が編集主任に抜擢されていた家庭向けの新聞『小日本』に掲載された文芸評論家・北村透谷の自殺についての次のような記事が子規によって書かれていた可能性が高いことです*9。

「北村透谷子逝く 文学界記者として当今の超然的詩人として明治青年文壇の一方に異彩を放ちし透谷北村門太郎氏去る十五日払暁に乗し遂に羽化して穢土の人界を脱すと惜(をし)いかな氏年未だ三十に上(のぼ)らずあたら人世過半の春秋を草頭の露に残して空しく未来の志を棺の内に収め了(おは)んぬる事嗟々(あゝ)エマルソンは実に氏が此世のかたみなりけり、芝山の雨暗うして杜鵑(ほとゝとぎす)血に叫ぶの際氏が幽魂何処(いづこ)にか迷はん」。

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(図版は正岡子規編集・執筆『小日本』〈全2巻・別巻、大空社、1994年〉、大空社のHPより)

この記事が掲載された新聞『小日本』は明治八年に発布された「讒謗律」や「新聞紙条例」によってたびたび発行停止処分を受けていた新聞『日本』を補う形で創刊されたのですが、俳句や和歌のコーナーを設けて投稿を広く呼びかけた子規は、その創刊号からは自分の小説「月の都」を卯之花舎(うのはなや)の署名で掲載していました。

若い仏師の悲恋を描いた幸田露伴の『風流仏』に強い感銘を受けた子規が、1891年の冬期休暇中に一気に書き上げたこの小説の原稿は「露伴氏の一閲を乞うた」ものの批評が芳しくなかったために、社主の羯南翁から自恃(じじ)居士(高橋建三氏)の手に渡り、二葉亭四迷のところまで行っていたのです*10。

それゆえ、夏目漱石が英国から親友の正岡子規に書いた手紙でトルストイの破門についてのイギリスの新聞の記事を紹介していたのは一方的な紹介ではなく、子規の関心に応えていたという可能性さえあると思われます。

さらに、『罪と罰』を高く評価した北村透谷は、トルストイの長編小説『戦争と平和』や『イワンの馬鹿』を英訳で読み、徳冨蘆花よりも早くにトルストイの戦争観にも言及して、両者をともに高く評価していました*11。二葉亭四迷の勧めで1908年に連載した長編小説『春』で島崎藤村が、『文学界』の同人であった北村透谷との友情やその死について描いていたことはよく知られていますが、短い記事とはいえ子規はすでに北村透谷の意義を高く評価する記事を書いていたのです。

子規が書いた短い記事を視野にいれると二葉亭四迷だけでなく、夏目漱石も深い印象を受けただろうと推測され、内田魯庵訳の『復活』が政論新聞『日本』に掲載されるようになった遠因は正岡子規にあったと言ってもよいのではないかと思えます。

さらに正岡子規や北村透谷との関連で注目したいのは、1910年に修善寺で大病を患った夏目漱石が、「思い出す事など」で「無意識裡に経過した大吐血の間の死の数瞬間」とドストエフスキーの「癲癇時の体験」との比較をしつつ、ペトラシェフスキー事件で捉えられ、刑場に連れ出された「寒い空と、新しい刑壇と刑壇の上にたつ彼の姿と、襯衣一枚で顫えてゐる彼の姿を根氣よく描き去り描き來って已まなかった」と記していたことです。

比較文学の清水孝純氏はこの時漱石が「時代を震撼させた」日本の大逆事件を「思い浮かべていたことは想像に難くない」と記しています*12。この指摘は重要でしょう。ペトラシェフスキー事件の翌年にオーストリア帝国の要請によってハンガリー出兵に踏み切っていたロシア帝国はその数年後にクリミア戦争へと突入していました。大逆事件で幸徳秋水などを逮捕した年に「日韓併合」を行った日本も、その後大陸への進出を強めることになったのです。

三、トルストイの『罪と罰』観と『復活』

トルストイの『罪と罰』観を考える上で重要なのは、日露戦争後にヤースナヤ・ポリャーナを訪れた德富蘆花からロシアの作家のうち誰を評価するかと尋ねられた際に、「ドストエフスキー」であると答え、さらに蘆花が『罪と罰』についての評価を問うと「甚佳甚佳(はなはだよし、はなはだよし)」と続けていたことです*13。

そのような高い評価に注目するならば、トルストイは「高利貸しの老婆」を「悪人」と規定してその殺害を正当化した主人公ラスコーリニコフの悲劇と苦悩を描き出すとともに、ソーニャとの関わりに読者の注意を促しながら、シベリアの流刑地で森や泉の尊さを知る民衆との違いを認識させていたエピローグの意義を深く理解していたと思えます。

たしかに、ドストエフスキーは『罪と罰』の本編では、「殺してやれば四十もの罪障がつぐなわれるような、貧乏人の生き血をすっていた婆ァを殺したことが、それが罪なのかい?」と妹に問わせ、さらに自分が犯した殺人と比較しながら、「なぜ爆弾や、包囲攻撃で人を殺すほうがより高級な形式なんだい」と反駁もさせていました*14。

しかし、ドストエフスキーはラスコーリニコフに「人類滅亡の悪夢」を見させていた後で、「罪の意識」に目覚めた主人公が徐々に変わっていく「新しい物語」を次のように示唆していたのです。

「ここにはすでに新しい物語がはじまっている。それは、ひとりの人間が徐々に更生していく物語、彼が徐々に生まれかわり、一つの世界から他の世界へと徐々に移っていき、これまでまったく知ることのなかった新しい現実を知るようになる物語である。それは、新しい物語のテーマとなりうるものだろう。しかし、いまのわれわれの物語は、これで終わった。」

自分の理論が核兵器の発明にも利用されてしまったことを知ってから、核兵器廃絶と戦争廃止のための努力を続けた物理学者のアインシュタインは、ドストエフスキーについて「彼はどんな思想家よりも多くのものを、すなわちガウスよりも多くのものを私に与えてくれる」と述べていました*15。兵器の改良により大量殺人が可能になった現代では、新たな戦争が「人類滅亡」につながる可能性が実際に出てきていたのであり、ドストエフスキーやトルストイはその危険性をいち早く洞察していたといえるでしょう。

一方、1934年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林秀雄は、ラスコーリニコフには「罪の意識」はなかったと断言し、エピローグも「半分は読者の為に書かれた」と記していました。そして、戦後に書いた『罪と罰』論でもエピローグの結末に記された「新しい物語」に言及した小林は、ドストエフスキーが『白痴』で「この『新しい物語』を書かうと考へた事は確かである」としながらも、主人公が「次第に更生し、遂に新しい現実を知ることは可能であるか」と読者に問い、不可能であると断言していたのです*16。

このような解釈と正反対の解釈を示したのがトルストイ研究者の藤沼貴氏でした。『罪と罰』の粗筋を「誤った『超人』思想に駆られて殺人を犯し、シベリアに流刑されたラスコーリニコフは、彼と共に流刑地まで来たかつての娼婦ソーニャの純粋な愛によってよみがえり、自分の罪を認めて復活する」と簡明に記した藤沼氏は、『復活』の結末の次のような文章が『罪と罰』の結末に酷似していることを指摘していました*17。

「この夜から、ネフリュードフにとってまったく新しい生活が始まった、それは彼が新しい生活条件に入ったからというよりむしろ、このとき以来彼の身に生じたすべてのことが、彼にとって以前とまったく別の意味を得ることになったからだった。ネフリュードフの人生のこの新しい時期がどのようなかたちで終わるか、それは未来が示してくれる」。

四、『復活』のネフリュードフと『白痴』のムィシキン

トルストイの劇《復活》で松井須磨子が「カチューシャの唄」を歌ってから百年に当たることを記念して行われたイベントでは、トルストイの原作とそれを劇化したアンリ・バタイユの脚本やその英訳をしたビアボム・トゥリーの脚本をもとにした島村抱月の劇との違いも論じられました*18。

私にとってことに興味深かったのは、名門貴族のネフリュードフが奔走したかいがあり、皇帝からの特赦状が届いてカチューシャ(マスロワ)は自由になるが、彼女は政治犯のシモンソンとともにシベリアへいくことを選ぶことです。

この後で、トルストイは「奇妙な斜めを向いた目とあわれを誘うような微笑の中に」、ネフリュードフが彼女は自分を愛していたが、彼女は娼婦だった「自分を彼に結びつければ、彼の一生をだいなしにすると考え、シモンソンといっしょに姿を消して、ネフリュードフを自由にしようとしていたのだ」と読み取ったと記しています*19。

トルストイの『復活』が誘惑した後で捨てた小間使いのカチューシャと裁判所で再会したことで「良心の呵責」に苦しむようになった貴族のネフリュードフの物語であることに注意を払うならば、その描写は、子供の時の火事が原因で孤児となり貴族のトーツキーによって養われていたが、美しい乙女になると犯されて妾にさせられていたナスターシヤが、ムィシキンからのプロポーズに歓喜しながらも、子供のように純粋な彼の一生をだいなしにすると考えて、ロゴージンとともに去っていたことを思い起こさせます。

『罪と罰』の結末に記された「ひとりの人間が徐々に更生していく物語」という記述に注目しながら、『復活』と『白痴』の第一部を比較するとき、主人公と虐げられた女性との関係の描かれ方の類似性に驚かされます。

トルストイは長編小説『白痴』の主人公ムィシキンを「その値打ちを知っている者にとっては何千というダイヤモンドに匹敵する」と高く評価していました*20。

長編小説『罪と罰』や『白痴』における「良心」という単語の用法に注目しながら読むとき、しばしば否定的に論じられるムィシキンの行動は、名門貴族の末裔であったという「贖罪的な意識」から自分の非力さを知りつつも「殺すなかれ」という理念を広めようとしていたと解釈できるのではないでしょうか*21。

おわりに

ドストエフスキーとトルストイはしばしば対立的な作家として対置されてきましたが、ドストエフスキーはトルストイの農民に対する教育活動を高く評価していましたし、トルストイもまた「大地主義」の理念に深い関心を寄せていたのです。

長編小説『復活』と『罪と罰』の結末に記された「新しい物語」の記述の類似性を指摘した藤沼氏の言葉に注目しながら、『罪と罰』から『白痴』への流れを分析するとき、両者の相互関係を深く理解することが、二人の大作家の作品を正しく理解する上でも必要不可欠であることを物語っているでしょう。

 

《注》

*1  小林秀雄「『罪と罰』についてⅠ」、『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、45頁。

*2  川端香男里『100分de名著、トルストイ「戦争と平和」』NHK出版、2013年。

*3  ドストエフスキー、望月哲男訳『死の家の記録』光文社、2013年参照。

*4  グロスマン、松浦健三訳編「年譜(伝記、日記と資料)『ドストエフスキー全集』(別巻)、新潮社、1980年、483頁。

*5  小林秀雄「『罪と罰』についてⅠ」、『小林秀雄全集』第5巻、新潮社、66頁。

*6  高橋『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房、2002年、第2章〈「大改革の時代」と「大地主義」〉参照。

*7  北村透谷「『罪と罰』の殺人罪」『北村透谷選集』岩波文庫、1970年参照。

*8  籾内裕子「内田魯庵と二葉亭四迷――『復活』初訳をめぐって」『緑の杖』(日本トルストイ協会報)第12号、2015年、2~13頁。

*9  『「小日本」と正岡子規』大空社、1994年、34頁。

*10柴田宵曲『評伝正岡子規』岩波文庫、2002年。

*11北村透谷、前掲書、1970年。

*12 清水孝純「日本におけるドストエフスキー ――大正初期に見る紹介・批評の状況」、『ロシア・西欧・日本』朝日出版社、昭和51年、452~454頁。

なお蘆花のトルストイ観については、阿部軍治『徳富蘆花とトルストイ――日露文学交流の足跡』(改訂増補版)彩流社、2008年参照。

*13 徳冨蘆花「順禮紀行」、『明治文學学全集』第42巻、筑摩書房、昭和41年、183~186頁。

*14 ドストエフスキー、江川卓訳『罪と罰』岩波文庫より引用。

*15 クズネツォフ、小箕俊介訳『アインシュタインとドストエフスキー』れんが書房新社、1985年、9頁。

*16 小林秀雄、前掲書、『小林秀雄全集』第6巻、291頁。小林秀雄のドストエフスキー観の問題点については、髙橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』成文社、2014年参照。

*17 藤沼貴「トルストイ最後の長編小説『復活』」、藤沼貴訳『復活』岩波文庫下巻、2014年。初出は『トルストイ』第三文明社、2009年、504頁。

*18 昨年12月7日のパネルデスカッション「カチューシャの唄大流行と大衆の時代」、および、木村敦夫「トルストイの『復活』と島村抱月の『復活』」、東京藝術大学音楽学部紀要、第39集、平成26年、39~58頁参照。

*19 トルストイ、藤沼貴訳『復活』岩波文庫下巻、440頁。

*20 トルストイ、訳は『白痴』新潮文庫下巻、「あとがき」の木村浩訳より引用。

*21 髙橋『黒澤明で「白痴」を読み解く』成文社、2011年参照。

(『緑の杖』〈日本トルストイ協会報〉第12号、2015年)

 

講座 「新聞記者・正岡子規と夏目漱石――『坂の上の雲』をとおして」

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講座 「新聞記者・正岡子規と夏目漱石――『坂の上の雲』をとおして」

 

正岡子規の死去の報にロンドンで接して「筒袖や秋の柩にしたがわず」などの句を手向けた漱石は、帰国後には子規が創刊した『ホトトギス』に『吾輩は猫である』を連載した。

本講座では、寄宿舎を追放になった子規が東京帝国大学を退学して新聞記者となる頃から、日清戦争に際して従軍記者となるが病を得て保養していた故郷の松山で、漱石の借りていた下宿の一階で句会を開いた時期に焦点をあてて『坂の上の雲』を読み解く。

明治8年に発布された「新聞紙条例」がその後の日本に及ぼした影響や子規の叔父・加藤拓川と新聞『日本』の(くが)羯南(かつなん)との交友にも注意を払うことで、新聞記者・子規の活動の現代的な意義を明らかにしたい。 

*   *   *

 

文献と主な参考文献

司馬遼太郎『坂の上の雲』(文春文庫、全8巻)。

ただ、長篇なので各巻の子規に関わる*のマークを付けた章に目をとおしておいて頂ければ分かり易いと思われます。

 第1巻: *「春や昔」、*「真之」、*「騎兵」、*「七変人」,*「海軍兵学校」,「馬」,*「ほととぎす」,「軍艦」

第2巻: *「日清戦争」、*「根岸」、「威海衛」、*「須磨の灯」、*「渡米」、「米西戦争」、*「子規庵」、「列強」

第3巻*「十七夜」  // 第8巻 *「雨の坂」

  

主な参考文献

1,坪内稔典『正岡子規の〈楽しむ力〉』NHK出版、2009年。

2,中村文雄『漱石と子規、漱石と修――大逆事件をめぐって』和泉書院、2002年。

3,末延芳晴『正岡子規、従軍す』平凡社、2011年。

4,高橋誠一郎『司馬遼太郎とロシア』ユーラシア・ブックレット、東洋書店、2010年。

5,高橋誠一郎「司馬遼太郎の夏目漱石観」(日本ペンクラブ、電子文藝館)は、インターネットで公開。