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小林秀雄

黒澤映画《夢》と消えた「対談記事」の謎

   

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 一、フクシマの悲劇

 二〇一一年三月一一日に東日本大震災が起きたのは、大学の会議が終わった直後のことで、立っていることも出来ないような大きな揺れだった。慌てて会議室から外に出たあとでもう一度大きな揺れを感じながら、地殻変動でできた日本が地震大国であることを実感した。

 しかも、一九八六年のチェルノブィリ原発事故の際には長期留学生を引率してモスクワに滞在しており、風向きによっては被爆する可能性もあったが、ソ連のニュースだけでなく、日本大使館からもほとんど情報が伝わらずに、西欧から来た留学生たちが自国の大使館から得てくる情報に頼るしかなかったという経験をしていた*1。

 テレビやインターネットに映し出された福島第一原子力発電所の静止画像から目を離すことができずに食い入るように画像を見つめ続けていた私は、同僚の一人から日本の技術は進んでいるので大丈夫ですよと慰められた。

 しかし、イギリスのブリストル大学で研究をしていた一九九五年一月には、日本からの電話で慌ててテレビのニュースをつけると阪神淡路大震災で町中が燃えており、翌日には大地震でも大丈夫と喧伝されていた高速道路の橋桁が大きく曲がっている写真が大きく新聞に載っていた。その記事を読みながら、関東大震災から五〇年目の一九七三年に発表された小松左京の『日本沈没』を思い出して、日本では自然の恩恵は強調する一方でその猛威に対する認識はきわめて甘いのではないかという不安を強く持っていた。

 実際、大地震で止まった電車の回復を待っている時に福島第一原子力発電所の「炉心が冷却できない状態にある」ことを知った。翌朝も目覚めてからは三〇分おきにテレビのニュースで何事も起きていないことを確認していたが、午後四時過ぎに危惧していたことが起きた。

 一号機が水素爆発を起こしたあとで明らかになったのは、政・官・財が一体となって「絶対安全」だと宣伝していた原子力発電所には原子炉を冷やすために水を放水する消防車やきちんとした防護服もなく、さらに日本が最先端の技術を有すると誇っていたロボットも動かなかったことである。そして、使用済み核燃料が放置された古タイヤのように燃え出し、原子炉がメルトダウンして放射線が空気中に放出されただけでなく、被爆した大量の水が海に流れ出た。チェルノブイリ原発事故にも匹敵するような大事故は、核実験を続けてきたフランスやアメリカの技術支援によってようやく、最大の危機を脱したが、汚染水の流出は事故から三年経った現在も止まっていない。

二、黒澤映画《夢》と長編小説『罪と罰』における夢の構造

 刻一刻と悪化する福島第一原子力発電所の状況を見ながら思い起こしたのは、一九九〇年に公開された全八話からなるオムニバス形式の映画《夢》の第六話「赤富士」で今回の事故を予言していたとも思えるほどの迫力で原発事故が描かれていたことであった。

 アメリカの水爆実験によって被爆した「第五福竜丸」事件の後で撮った映画《生きものの記録》(シナリオの最初の題名は『死の灰』)では、原爆実験や核戦争の危険性を本能的に感じて日本からブラジルへと移住しようとした老人の決意と苦悩を描き、そのラスト・シーンでは精神を病んで精神病院に収容された主人公が夕日を見て「とうとう地球が燃えてしまった!!」と叫ぶシーンを描いていた*2(『全集 黒澤明』第四巻、一四〇頁――以下、巻数をローマ数字で、頁数を漢数字でかっこ内に記す)。

 その場面からは私は『罪と罰』のエピローグでラスコーリニコフが見る「人類滅亡の悪夢」を強く連想したが、富士山に建設された六つの原子力発電所が事故で次々と水素爆発を起こすという「赤富士」のシーンで黒澤明監督は、子供を連れて逃げ惑う母親に「原発は安全だ」と説明し原発を「国策」として推進してきた関係者を「縛り首にしなくちゃ、死んでも死にきれないよ!」と悲痛な声で批判させていた(Ⅶ・二〇)。

 それゆえ、制作費などさまざまな問題などを乗り越えて、この映画を公開していた黒澤明監督の先見の明を改めて強く感じるとともに、原発の危険性に気付きながらもあまり発言をしてこなかった自分の不明を深く恥じた。

 しかも事故後に『黒澤明の遺言「夢」』という著作を読んで、映画《夢》(一九九〇年、脚本・黒澤明)の「ノート」に、黒澤明監督がドストエフスキーの『罪と罰』に記された「やせ馬が殺される夢」の一節をそのまま書き写しただけでなく、その横に「夢というものの特質を把握しなければならない。現実を描くのではなく、夢を描くのだ。夢が持っている奇妙なリアリティをつかまえなければならない」というメモを記していたことを知った*3。  

 このことに注目してこの映画を見直すと、高利貸しの老婆を殺す前に見た「やせ馬が殺される夢」が、少年時代の体験と自然への畏れを描いた第一話「日照り雨」や、「桃の精」の苦しみが描かれている第二話「桃畑」などに対応していることに気づく。

 第三話「雪あらし」で描かれている「雪女」の哀しみは、『罪と罰』におけるソーニャの哀しみにも通じているだろう。主人公のラスコーリニコフが老婆を殺した後で見る「殺された老婆が笑う夢」は、死んだ兵士たちの亡霊が出て来る第四話「トンネル」につながっていると思える。

 第六話「赤富士」の後で描かれている第七話「鬼哭」では、ラスコーリニコフの「非凡人の理論」の根底にあった「弱肉強食の思想」や「自然支配の思想」と「人類滅亡の悪夢」との深い因果関係が示唆されている。

 さらに、第八話「水車のある村」において、「近頃の人間は、自分達も自然の一部だという事を忘れている」と語り、「特に学者には、頭がいいのかも知れないが、自然の深い心がさっぱりわからない者が多いので困る」と語る「モーゼの様な髭を生やした」老人の言葉は、血で「汚した大地に接吻なさい」と語ったソーニャの言葉に従って自首をしたラスコーリニコフがなぜ、シベリアで「復活」しえたのかという深い理由を説明しているとさえ思える。

 ではなぜ、偶然の一致とはいえないようなこれほどの類似が見られるのだろうか。

この意味で注目したいのは、一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林秀雄が、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」とし、エピローグは「半分は読者の為に書かれた」と解釈していたことである*4(『小林秀雄全集』第六巻、四五頁、五三頁── 以下、巻数と頁数を〔〕内に六・四五、五三のように表記する)。

 さらに小林は、第四章で詳しく見るように、一九三六年に書いた映画評ではスタンバーグ監督の映画《罪と罰》などに言及しながら、表現手段としての「文学」と「映画」を比較して、映画では『罪と罰』の深みを描くことはできないと批判していた〔四・二二四~二二六〕。

 一方、黒澤の映画における師といえる山本嘉次郎監督は、夏目漱石の『坊つちやん』を映画化して一九三五年に公開し、その翌年には『吾輩は猫である』を原作とした映画《吾輩は猫である》も公開していた。映画という表現手段を批判した小林の記述は、一九三六年にPCL映画撮影所(東宝の前身)に助監督として入社し、一九三八年には映画《綴方教室》に製作主任として参加する黒澤に、文学作品の映画化についての深い考察を迫っていたといえるだろう。

  実際、小林秀芥川龍之介を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していたが〔一・一五二〕、戦後の一九五〇年に公開した映画《羅生門》で黒澤は、夏目漱石の弟子にあたる芥川の深いドストエフスキー理解と芥川作品の現代的な意義を示していた。

 さらに最近になって、戦時中の一九四三年に公開された映画《愛の世界・山猫とみの話》の脚本に黒澤が深く関わっていたことが明らかになった*5。本論で詳しく見るように小林秀雄はシベリア流刑後にドストエフスキーが唱えた「大地主義」に否定的だったが、黒澤は『死の家の記録』などこの時期に書かれた作品を高く評価しており、彼が中心的な役割を担ったこの映画の脚本でも『虐げられた人々』からの影響がすでに強く見られる。

 ことに、沖縄で冤罪から死刑にされかかったことのある復員兵を主人公とした映画《白痴》の結末は、『白痴』の主人公ムィシキンがスイスからではなく、「シベリヤから還つた」とし、その結末についても「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間等は、その実行に何んの責任も持たない」と一九三四年に「『白痴』についてⅠ」で書いていた小林の記述とは正反対ともいえるほどに異なっていたのである〔六・一〇〇〕。

三、消えた「対談記事」

 小林秀雄は映画《白痴》を初めとする黒澤映画についてはほとんど語っていないので、彼が黒澤明監督のドストエフスキー観をどのように考えていたかは判らない。しかし小林は、映画《白痴》が公開された翌年の一九五二年から五三年にかけて八章からなる「『白痴』についてⅡ」を発表し、その後半では黒澤映画《白痴》ではあまり描かれていなかったレーベジェフやイッポリートに焦点をあてて論じていた。

 興味深いのは、その小林が一九五六年一二月に黒澤との対談を行っていたことである*6。この前年に黒澤は映画《生きものの記録》を公開していたが、「第五福竜丸」事件をきっかけに三千万以上の署名が集まるほど高まった反核の動きは、「ついに太陽をとらえた」と題して読売新聞に連載された特集や「原子力平和利用博覧会」の開始によって急速に流れが変わり、この時期には原爆の危険性を指摘することはすでに「季節外れ」のように見なされるようになっていた*7。

 しかし、第二章で詳しく見るように、小林秀雄は一九四八年に「人間の進歩について」と題して行われた物理学者の湯川秀樹との対談では、「原子力エネルギー」の「平和利用」という湯川の考えの危険性をいち早く指摘し、「道義心」の視点から厳しく批判していたが、その後に行われた黒澤明との対談で湯川秀樹は映画《生きものの記録》を高く評価していた。

 『白痴』の結末に対しては正反対の見解を示す一方で、「原子力エネルギー」の危険性を深く認識していた二人の巨匠がどのような対談を行っていたのだろうか。残念ながら、掲載されれば必ず売り上げを伸ばすと思われる二人の著名人による対談記事が雑誌に載らなかったために、対談の詳細な内容は明らかになっていない。

 しかし、飛行機事故などでは「ブラックボックス」を探し出して回収することが事故解明の第一歩とされるが、幸いこの時の対談については、その時の写真が残されているだけでなく*8、司会者などの短い回想も残されている。その後の二人の記述や映画などからは、『白痴』の結末の解釈などにたいする強いこだわりが感じられ、この時の対談が巨匠たちに残した痕跡の深さが感じられる。

 原発の推進が「国策」となると小林秀雄は「原子力エネルギー」の危険性についてほとんど語らなくなったが、映画《赤ひげ》の制作が発表された翌年の一九六四年に発行した『「白痴」について』(角川書店)では短い第九章を加えて、「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだらう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである(後略)」と書いていた〔傍線引用者。六・三四〇〕。名指しこそしてはいないものの、「不注意な読者」という表現は黒澤明監督を強く意識している可能性が高いと思われる。

 一方、映画《どですかでん》が営業的な失敗に終わった後で発作的に自殺を図っていた黒澤は、探検家アルセーニエフと自らをナナイ人(大地の人)と呼ぶ少数民族・ゴリド族の狩人デルスとの交流を描いた『デルスウ・ウザーラ』を原作とする映画《デルス・ウザーラ》をシベリアで撮って見事に復活した*9。    

この映画を一九七五年に日本で公開した後に若者たちと行った座談会で黒澤明は、「小林秀雄もドストエフスキーをいろいろ書いているけど、『白痴』について小林秀雄と競争したって負けないよ」と語ったが*10、その言葉に強い反発を覚えたかのように小林は、スリーマイル島の原発事故が起きた一九七九年に河上徹太郎と行った対談でも「『白痴』はシベリアから還ってきたんだよ」と繰り返して主張している*11。

 このような『白痴』の結末をめぐる互いを強く意識したと思われる両者の発言に注目するとき、映画《夢》はドストエフスキー作品の解釈をめぐるほぼ半生にわたる小林秀雄との「静かなる決闘」の成果だと言っても過言ではないとさえ思える。

 本書ではまず作者と主人公の問題に注目しながら、ムィシキンが「シベリヤから還つた」とする小林秀雄の『罪と罰』論と『白痴』論との関連を分析し、さらに主な登場人物の解釈の問題点を明らかにすることで、本論の方向性を確認する。第一章からは小林秀雄のドストエフスキー観と比較しつつ、映画の公開順に映画《白痴》から映画《夢》にいたる黒澤明監督のドストエフスキー理解の深まりに迫ることにしたい。

 消えた「対談記事」の謎に注目しつつ、小林秀雄と黒澤明のドストエフスキー観を具体的に比較することで、なぜ黒澤監督が映画《夢》で東京電力福島第一原子力発電所の悲劇を予言しえたかという「謎」にも迫ることができるだろう。

 

*1 チェルノブイリ原発事故については、「高橋誠一郎 公式ホームページ」の「映画・演劇評」、「劇《石棺》から映画《夢》へ」を参照。

*2 『全集 黒澤明』第四巻、岩波書店、一九八八年、一四〇頁。

*3 都築政昭『黒澤明の遺言「夢」』、近代文芸社、二〇〇五年参照。

*4 『小林秀雄全集』第六巻、新潮社、一九六七年、四五頁、五三頁。

*5 (編)石割平、円尾敏郎、谷輔次『はじめに喜劇ありき』ワイズ出版、二〇〇五年、一五一頁。

*6  黒澤明・浜野保樹『大系 黒澤明』第四巻、講談社、二〇一〇年、八一六頁(以下、『大系 黒澤明』と略記して、巻数と頁数のみを記す)。

*7  中日新聞社会部『日米同盟と原発──隠された核の戦後史』東京新聞、二〇一三年参照。

*8  黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、一九九九年、三六六頁。

*9  アルセーニエフ、長谷川四郎訳『デルスウ・ウザーラ──沿海州探検行』東洋文庫、一九六五年、三〇八頁、映画化に際しては日本語では発音しにくいことから、主人公のデルスウの名前はデルスと表記されたので、本書でも基本的にはデルスと記す。

*10  黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、一九九九年、二八八頁。

*11  小林秀雄『考える人』春季号/新潮社、二〇一三年、四五頁。

 

 

小林秀雄の『罪と罰』観と「良心」観

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小林秀雄の『罪と罰』観と「良心」観

一、

文芸評論家の小林秀雄は一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、「惟ふに超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難いがある」と「謎」を強調しつつ、「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」とし、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と続けていた〔傍線引用者、以下も同じ。『小林秀雄全集』、新潮社、第六巻、四五頁。以下、〔〕内に頁数のみを記す〕。

しかも、ラスコーリニコフの孤独感に焦点を当てながら、「漠然とした孤独の想ひは、事件をきつかけとして明らかに痛みを感ずる感覚と化して彼の心を貫いた。この暗い孤独感はラスコオリニコフにつき纏つて決して離れない」と記した小林は〔四八〕、ラスコーリニコフの自白を紹介した後では、「作者はどんなにあそこで何も彼も片づけて了ひたかつただらう。これから先き、気狂い染みた自首を行はせ、シベリヤに行くまでこの罰当りのお守りをしなければならぬとは、なんといふ面倒な仕事だらう。第六章と終章とは、半分は読者の為に書かれたのである」と書いた〔五三〕。

そして、スヴィドゥリガイロフとラスコーリニコフとの関係を分析したあとで小林は、「この小説で作者が心を傾けて実現してみせてくれてゐるものは、人間の孤独といふものだ」と書くことで、ラスコーリニコフの「良心」の問題を「孤独」の問題へと逸らしていた〔六二〕。

この意味で注目したいのは、太平洋戦争の直前の一九四〇年八月に行われた林房雄や石川達三との鼎談「英雄を語る」で、「英雄とはなんだらう」という林の問いに「ナポレオンさ」と答え、ヒトラーを「小英雄」と呼んだ小林が、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語り、トルストイには「やはり凡人を正しいとする確信があったのだね」と続けた小林は、「暴力の無い所に英雄は無いよ」とも語っていたことである(小林秀雄『文學界』第七巻、一一月号。不二出版、復刻版、二〇〇八~二〇一一年)。

これらの記述や発言には『罪と罰』論だけでなく、小林秀雄のドストエフスキー論全体にかかわる重要な問題があると思われる。

 二、

敗戦後の一九四六年に座談会「コメディ・リテレール」で、トルストイ研究者の本多秋五から戦前の発言について問い質された小林秀雄は、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない」と語っていた(傍線引用者、以下、同じ。『小林秀雄全作品』第一五巻、新潮社、二〇〇三年)。

しかし、先の鼎談で林房雄から「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問われて、「大丈夫さ」と答えていた小林は、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていた。

 さらに小林が「日本はその点で宗教的だネ、日本国家に対して実に宗教的で」と語ると、この言葉を聞いた林房雄は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる。天皇陛下を戴いて諸共に皆んな滅びてしまへば宣いと覚悟してゐる」との覚悟を示していたのである。

林房雄が語ったこのような歴史認識が日本を無謀な戦争へと駆り立てたばかりでなく、ミッドウェー海戦での敗北の後では国力の差から勝つ見込みが次第になくなったにもかかわらず、神風特攻隊や沖縄での地上戦などで、戦争を引き延ばすことにより多くの有為な若者を死にいたらしめていたといえるだろう。

そのことを思い起こすならば、日本を代表する「知識人」の一人であり、『罪と罰』論を書いた小林秀雄が、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」と語り、「それについては今は何の後悔もしていない」と続けていたのはきわめて不自然と思われる。

 戦後に書いた「『罪と罰』についてⅡ」で、エピローグで描かれている「人類滅亡の悪夢」について、「ラスコオリニコフには、決して夢でも譫言でもなかつたからである。彼は、犯行後、屋根裏の小部屋でも、これに類する夢を見たかも知れぬ。何故なら、これは、彼の心の底に常にあつた烈しい倫理的問ひだつたからである」と指摘した小林は、「ラスコオリニコフが夢を見る都度、夢は人物について多くのことを読者に語つてきた筈だが、当人が夢から何かを明かされた事はない」と結論している〔二六〇~二六一〕。

 だが、果たしてそうだろうか。近著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)の第四章で詳しく分析したように、ドストエフスキーは『罪と罰』でラスコーリニコフにおける「罪の意識」の深まりを他者との関わりや「夢」をとおして驚くほど詳細に描いていたのである。

戦前に書いた『罪と罰』論において小林は、二人の女性を殺害したラスコーリニコフの「良心」観について、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と書いていたが、それは「今は何の後悔もしていない」と語った評論家自身の「良心」観ときわめて似ていると思える。

 三、

同じことは、「原子力エネルギー」の危険性の認識についても当てはまるだろう。

一九四九年にノーベル物理学賞を受賞することになる湯川秀樹博士とその前年に対談した小林秀雄は、「私、ちょうど原子爆弾が落っこったとき、島木健作君がわるくて、臨終の時、その話を聞いた。非常なショックを受けました」と切り出した小林は、「人間も遂に神を恐れぬことをやり出した……。ほんとうにぼくはそういう感情をもった」と語っていた(『小林秀雄全作品』第一六巻、新潮社、二〇〇四年)。

 それにたいして湯川が太陽熱も原子力で生まれており「そうひどいことでもない」と主張すると、「高度に発達する技術」の危険性を指摘した小林は、「目的を定めるのはぼくらの精神だ。精神とは要するに道義心だ。それ以外にぼくらが発明した技術に対抗する力がない」と厳しく反論していた。

 そして小林は「科学の進歩が平和の問題を質的に変えて了ったという恐ろしくはっきりした思想、そういうはっきりした思想が一つあればいいではないか」と結んでいた。

 ここには科学者が陥る科学技術の盲信に対する先駆的な批判があり、「道義心」の視点から真実を見抜く観察眼と辛くても事実を見る勇気の必要性を強調した小林の主張は、専門家の湯川が後に「核兵器廃絶」を訴えた一九五五年七月九日の「ラッセル・アインシュタイン宣言」に署名するきっかけを作ったといっても過言ではないだろう。

 しかし、それだけの先見の明を持っていた小林は、「戦争」のときと同じように「原発推進」が「国策」となると、「原子力エネルギー」の危険性については完全に沈黙してしまう。

たとえば、『文學界』の創刊五〇〇号を記念して評論家の河上徹太郎と一九七九年に行った対談で、歴史の認識は「合理的な道ではない。端的に、美的な道だ」と、戦前や戦中と同じような発言をした小林秀雄は、その一方で同じ年に起きて世界を揺るがしたスリーマイル島での原発事故には全く言及していないのである(『考える人』春季号、新潮社、二〇一三年)。

 このような小林秀雄の歴史認識や「原子力エネルギー」の認識に対して黒澤監督が深い危惧の念を抱いて長編小説『罪と罰』を詳しく読み直したことが、映画《夢》の構造が『罪と罰』における「夢」の構造ときわめて似ている理由ではないかと私は考えている。

小林秀雄の芥川龍之介観と黒澤明

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小林秀雄の芥川龍之介観と黒澤明

1,小林秀雄の芥川観とドストエフスキー論      

 芥川龍之介(1892~1927)が最後の年に検閲制度の厳しさを鋭く批判した作品『河童』を書いていたことはよく知られている。

芥川の自殺を取り上げた評論「芥川龍之介の美神と宿命」(『大調和』)を同じ年に書いた文芸評論家の小林秀雄(1902~83)は、日本が国際連盟から脱退して国際関係において孤立を深めるとともに、国内では京都帝国大学で滝川事件が起きるなど検閲の強化が進んだ一九三二(昭和七)年に発表した評論「現代文学の不安」で「この絶望した詩人たちの最も傷ましい典型は芥川龍之介であつた。多くの批評家が、芥川氏を近代知識人の宿命を体現した人物として論じてゐる。私は誤りであると思ふ」と書き、芥川を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定した。

興味深いのは、このような厳しい芥川の批判と対をなすようにして小林が、ドストエフスキー作品の本格的な考察への意欲を記していることである。

すなわち、ドストエフスキーについて「だが今、こん度こそは本当に彼を理解しなければならぬ時が来たらしい」と記した小林は、「『憑かれた人々』は私達を取り巻いてゐる。少くとも群小性格破産者の行列は、作家の頭から出て往来を歩いてゐる。こゝに小説典型を発見するのが今日新作家の一つの義務である」と続けていた〔『小林秀雄全集』第1巻〕。

  こうして小林は、「近代知識人の宿命を体現した人物として」論じられてきた芥川作品を、正面から論じて批判するのではなく、ドストエフスキーを引き合いに出すというレトリックを用いることで、芥川作品の文学的な価値を低めることに成功していた。

 2,黒澤明の芥川龍之介観

しかし、果たして芥川は「人間一人描き得なかつたエッセイスト」であり、ドストエフスキーとは無縁の作家だったのだろうか。以下、拙著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』より映画《羅生門》を考察した節の一部を引用することで、黒澤明の芥川観とドストエフスキー観の一端に迫ることにしたい(引用に際しては注の番号などは省いた)。

短編「羅生門」(1915)において価値が混乱した戦乱の世で老婆の服を盗むことも厭わない下人の荒々しいエネルギーを描きだした芥川龍之介(1892~1927)は、短編「藪の中」(1922)では「一つの事件」を三人のそれぞれの見方をとおして描いていた。このことを思い起こすならば、比較文学者の国松夏紀が指摘しているように、芥川はドストエフスキーのポリフォニー的な方法で短編「藪の中」を描いていたといえるだろう。

 映画《羅生門》(脚本・橋本忍、黒澤明)で、芥川のこれら二つの短編を組み合わせるとともに木樵の証言も加えた黒澤は、最後の場面では赤ん坊の服を盗むことも厭わない下人と対比しながら、苦しい生活ながらも捨てられた赤ん坊を育てようとする木樵とその言葉を信じようとする旅法師の姿を描いた。

 映画監督のクレイマンは、「多義性のイデアは(漢字を用いてきた)日本の芸術的思惟に古来存在した」もので、「この映画を見たあと、観客は殺人の探偵小説的謎解きをではなく、真実と存在、世界のなりたちの非一義性に関する”ドストエーフスキイ的”思想を持ち帰るのだ」と述べて高く評価している。

 この言葉はモノローグ的な形で主人公を描くことを避け、登場人物たちとの人間関係をとおして「ムィシキンという謎」を解くことを読者に求めていた『白痴』と同じような手法で、《羅生門》における「事件」が描かれていることを明らかにしているだろう。

 一方、「芥川はすべてのモラルの価値、すべての真実に疑問を投げることで満足した」と書いた映画評論家リチーは、最後のシーンについて「だが黒澤はあきらかに違う。黒澤はアナーキストでも人間嫌いでもない。彼は希望に執着する」と解釈した。しかし、大正5年に発行されたロマン・ロランの『トルストイ』の翻訳にも関わっていた芥川は、最晩年に書いた『西方の人』で、「クリストの祈りは今日(こんにち)でも我々に迫る力を持ってゐる」と書いていた。

 しかも、1922年に書いた『将軍』で「正義の戦争」とされた日露戦争の問題点を鋭く突いていた芥川は「藪の中」で、客観的に見えた「一つの事件」を、さまざまな人物の視点から見ると全く異なった「事件」に見えることを示し、現代の「歴史認識」の問題にもつながるような「事実」の認識の問題を提起していた。

 このことに注目するならば、最後のシーンは二つの短編だけでなく芥川作品の全体を視野に入れた黒澤明の深い解釈であり、それは1932(昭和7)年に発表した評論「現代文学の不安」で芥川龍之介を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していた小林秀雄の芥川観への鋭い批判であった可能性さえあると思える。

  そして、戦乱で荒廃した都を舞台に「我欲に走る」ようになった人間像とともに、人間に対する深い信頼をも描いて芥川の深い人間観や世界観を描いた映画《羅生門》は、悲惨な戦争でうちひしがれていた観客に感動を与え、1951年9月のヴェネチア映画祭ではグランプリを獲得した。(リンク先→『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』)

 

  3,晩年の芥川龍之介とドストエフスキー作品

 私は夏目漱石の弟子でもあった芥川がドストエフスキー作品のもっとも深い理解者の一人であり、黒澤監督はその一面を見事に映像化したと考えている。

今回の拙著ではドストエフスキーの初期作品についてはほとんど言及することができなかったので、最後に「暗黒の三〇年」と呼ばれるニコライ一世治下のロシア帝国ときわめて似た相貌を示すようになっていた昭和初期の日本の問題点を、芥川の『河童』をとおして簡単に考察しておきたい。

*    *    *

  福沢諭吉は、西欧の「良書」や「雑誌新聞紙」を見るのを禁じただけでなく、「学校の生徒は兵学校の生徒」と見なしていたので福沢諭吉が「未曽有(みぞう)の専制」と断じていた。

しかし、日本やロシアのように西欧とは異なる「伝統」と持つ国家において、「国権」が強調されるとき、国の方針に反対する者を「非愛国的」と見なすような傾向も生まれる。

 このような大正から昭和にかけての悲劇を象徴するような出来事が、第一高等学校から東京大学へと進み、第四次『新思潮』の同人として短篇『鼻』で漱石の激賞を受け、華々しく文壇にデビューした芥川龍之介の自殺であろう。

 評論家の関口安義氏は、芥川が第一高等学校在学中に蘆花の「謀叛論」を聞いたという実証はできないとしながらも、親友井川恭や成瀬正一などが受けた強い印象の記述をとおしてその影響を見ている。たしかに成瀬正一によるロマン・ロランの『トルストイ』の翻訳にもかかわっていた龍之介は、その早すぎる晩年には『将軍』や『桃太郎』などの短篇で「自国の正義」を主張して、国民を戦争へと駆り立てることを厳しく批判していたのである。

 しかし、1925(大正14)年に公布された治安維持法について司馬は、国家そのものが投網やかすみ網のようになっていたとし、「人間が、鳥かけもののように人間に仕掛けられてとらえられるというのは、未開の闇のようなぶきみさとおかしみがある」と鋭く批判した。このような状況下で書かれたのが、1927年に書かれた『歯車』である。

   ドストエフスキーにおける「分身」のテーマに注目した井桁貞義氏は、ここで芥川が『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』に言及しつつ、自己の分裂の危機を描いていると指摘している。さらに同じ年に書かれた『河童』で芥川は、「ある精神病院の患者」が語った話を記したという形で、「河童の国を借りて取り上げられる諸問題は、文明・風俗習慣・生誕・恋愛・家族制度・芸術・官憲の横暴・資本主義・法律・自殺・宗教」などの問題を取りあげていた。

 このことを指摘した評論家の関口安義氏は、河童の国の音楽会で警察により「演奏禁止」が命じられる場面をとおして、芥川が「当時の日本の官憲による言論・表現への諸検閲制度を暗に皮肉っている」とした。

 実際、語り手の〈僕〉に、「そんな検閲は乱暴じゃありませんか?」と河童の国を批判させた芥川は、河童のトックに「何、どの国の検閲よりもかえって進歩している位ですよ。たとえば日本を御覧なさい。現につい一月ばかり前にも……」と反論させながら、途中で沈黙させていたのである。

 しかも、芥川は河童の国では、「労働者の見方をする新聞さえも実は資本家ゲエルに(さらにはゲエル夫人に)支配されている」とも書いていた。日露戦争に際してはこれを批判する者たちが「平民新聞」を創刊していたが、すでに昭和の初期には「国家」が行う戦争を批判するような「言論の自由」さえもが失われ始めていた。

 事実、芥川が自殺した翌年の1928(昭和3)年に出された『統帥参考』という参謀本部の将校か陸軍大学校の学生しか見ることのできない「極秘中の極秘の本」に、「国が戦争になった場合、統帥機関が日本国民を統治する」と記されていた。さらに1935(昭和10)年には、それまで高等教育機関で使われていた美濃部達吉の著作『憲法講義』が発禁処分となって、「国民」の権利を保障する盾の役目を果たしていた「憲法」は完全に形骸化されるにいたった。こうして、明治時代に「国民」となったはずの日本の若者が、「臣民」として「国家」が遂行する「聖戦」に学徒動員などで戦場に駆り出される可能性が開かれることになったのである*1。

 「言論・表現の自由を阻害することは、あってはならないと芥川は考えていた」とした関口氏は、「『将軍』への伏せ字問題その他で、彼自身が体験してきたやりきれない日本の現実であった」と続けている。このことは日本でも若きドストエフスキーが生きた「暗黒の三〇年」と同じように、まともな形で正論を唱えれば「狂人」とされるので、「狂人の手記」という虚構の形でしか正論を語れない時代が、すぐ近くまで来ていたことを明確に物語っているだろう。

4,長編小説『若き日の詩人たちの肖像』とドストエフスキーの『白夜』

 大学受験のために上京した日に二・二六事件に遭遇した若者を主人公とした長編小説『若き日の詩人たちの肖像』で、堀田善衛はラジオから聞こえてきたナチスの宣伝相ゲッベルスの演説から受けた衝撃と比較しながら、ニコライ一世治下の厳しい検閲制度と迫り来る戦争の重圧の中で描かれた『白夜』の冒頭の美しい文章に何度も言及している。

 この作品で堀田は烈しい拷問によって苦しんだいわゆる「左翼」の若者たちや、イデオロギー的には異なりながらも彼らに共感を示して「言論の自由」のために文筆活動を行っていた主人公の若者の姿をとおして、昭和初期の暗い時代を活き活きと描いていたのである。

 しかもここで堀田善衛は、厳しい言論弾圧のもとに「右傾化」する時勢の中でドストエフスキーの読み方を変えていった愛読者の姿も描いているが、太平洋戦争へと突入する時期に『罪と罰』を西欧的な世界への挑戦の書物とする見方が日本で高まったのも、このような政治の流れと無関係ではない。(中略)

 すなわち、ニーチェによるドストエフスキー理解を踏まえたシェストフは、ドストエフスキーをも「超人思想」の提唱者であり、「悲劇の哲学」の創始者の一人とした。このようなシェストフの解釈が日本でも受け入れられる中で、優れた批評家であった小林秀雄ですら、『罪と罰』のエピローグではラスコーリニコフは影のような存在になっていると指摘して、書かれている彼の更生をも否定した。それは「近代人が近代に克つのは近代によってである」として、欧米との戦争を評価した小林の近代観から導かれたものでもあった。

(拙著ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ成文社、2007年、230~236頁より注などを省略した形で引用)。

 *1、「統帥権」の問題を深く考察した作家・司馬遼太郎の芥川龍之介観については、拙論「司馬遼太郎と小林秀雄――『軍神』の問題をめぐって」(『全作家』第90号)参照。 (4月23日加筆)

 

黒澤映画《夢》と消えた「対談記事」の謎 

 

黒澤映画《夢》と消えた「対談記事」の謎         

 一、フクシマの悲劇

 二〇一一年三月一一日に東日本大震災が起きたのは、大学の会議が終わった直後のことで、立っていることも出来ないような大きな揺れだった。慌てて会議室から外に出たあとでもう一度大きな揺れを感じながら、地殻変動でできた日本が地震大国であることを実感した。

 しかも、一九八六年のチェルノブィリ原発事故の際には長期留学生を引率してモスクワに滞在しており、風向きによっては被爆する可能性もあったが、ソ連のニュースだけでなく、日本大使館からもほとんど情報が伝わらずに、西欧から来た留学生たちが自国の大使館から得てくる情報に頼るしかなかったという経験をしていた*1。

 テレビやインターネットに映し出された福島第一原子力発電所の静止画像から目を離すことができずに食い入るように画像を見つめ続けていた私は、同僚の一人から日本の技術は進んでいるので大丈夫ですよと慰められた。

 しかし、イギリスのブリストル大学で研究をしていた一九九五年一月には、日本からの電話で慌ててテレビのニュースをつけると阪神淡路大震災で町中が燃えており、翌日には大地震でも大丈夫と喧伝されていた高速道路の橋桁が大きく曲がっている写真が大きく新聞に載っていた。その記事を読みながら、関東大震災から五〇年目の一九七三年に発表された小松左京の『日本沈没』を思い出して、日本では自然の恩恵は強調する一方でその猛威に対する認識はきわめて甘いのではないかという不安を強く持っていた。

 実際、大地震で止まった電車の回復を待っている時に福島第一原子力発電所の「炉心が冷却できない状態にある」ことを知った。翌朝も目覚めてからは三〇分おきにテレビのニュースで何事も起きていないことを確認していたが、午後四時過ぎに危惧していたことが起きた。

 一号機が水素爆発を起こしたあとで明らかになったのは、政・官・財が一体となって「絶対安全」だと宣伝していた原子力発電所には原子炉を冷やすために水を放水する消防車やきちんとした防護服もなく、さらに日本が最先端の技術を有すると誇っていたロボットも動かなかったことである。そして、使用済み核燃料が放置された古タイヤのように燃え出し、原子炉がメルトダウンして放射線が空気中に放出されただけでなく、被爆した大量の水が海に流れ出た。チェルノブイリ原発事故にも匹敵するような大事故は、核実験を続けてきたフランスやアメリカの技術支援によってようやく、最大の危機を脱したが、汚染水の流出は事故から三年経った現在も止まっていない。

二、黒澤映画《夢》と長編小説『罪と罰』における夢の構造

 刻一刻と悪化する福島第一原子力発電所の状況を見ながら思い起こしたのは、一九九〇年に公開された全八話からなるオムニバス形式の映画《夢》の第六話「赤富士」で今回の事故を予言していたとも思えるほどの迫力で原発事故が描かれていたことであった。

 アメリカの水爆実験によって被爆した「第五福竜丸」事件の後で撮った映画《生きものの記録》(シナリオの最初の題名は『死の灰』)では、原爆実験や核戦争の危険性を本能的に感じて日本からブラジルへと移住しようとした老人の決意と苦悩を描き、そのラスト・シーンでは精神を病んで精神病院に収容された主人公が夕日を見て「とうとう地球が燃えてしまった!!」と叫ぶシーンを描いていた*2(『全集 黒澤明』第四巻、一四〇頁――以下、巻数をローマ数字で、頁数を漢数字でかっこ内に記す)。

 その場面からは私は『罪と罰』のエピローグでラスコーリニコフが見る「人類滅亡の悪夢」を強く連想したが、富士山に建設された六つの原子力発電所が事故で次々と水素爆発を起こすという「赤富士」のシーンで黒澤明監督は、子供を連れて逃げ惑う母親に「原発は安全だ」と説明し原発を「国策」として推進してきた関係者を「縛り首にしなくちゃ、死んでも死にきれないよ!」と悲痛な声で批判させていた(Ⅶ・二〇)。

 それゆえ、制作費などさまざまな問題などを乗り越えて、この映画を公開していた黒澤明監督の先見の明を改めて強く感じるとともに、原発の危険性に気付きながらもあまり発言をしてこなかった自分の不明を深く恥じた。

 しかも事故後に『黒澤明の遺言「夢」』という著作を読んで、映画《夢》(一九九〇年、脚本・黒澤明)の「ノート」に、黒澤明監督がドストエフスキーの『罪と罰』に記された「やせ馬が殺される夢」の一節をそのまま書き写しただけでなく、その横に「夢というものの特質を把握しなければならない。現実を描くのではなく、夢を描くのだ。夢が持っている奇妙なリアリティをつかまえなければならない」というメモを記していたことを知った*3。  

 このことに注目してこの映画を見直すと、高利貸しの老婆を殺す前に見た「やせ馬が殺される夢」が、少年時代の体験と自然への畏れを描いた第一話「日照り雨」や、「桃の精」の苦しみが描かれている第二話「桃畑」などに対応していることに気づく。

 第三話「雪あらし」で描かれている「雪女」の哀しみは、『罪と罰』におけるソーニャの哀しみにも通じているだろう。主人公のラスコーリニコフが老婆を殺した後で見る「殺された老婆が笑う夢」は、死んだ兵士たちの亡霊が出て来る第四話「トンネル」につながっていると思える。

 第六話「赤富士」の後で描かれている第七話「鬼哭」では、ラスコーリニコフの「非凡人の理論」の根底にあった「弱肉強食の思想」や「自然支配の思想」と「人類滅亡の悪夢」との深い因果関係が示唆されている。

 さらに、第八話「水車のある村」において、「近頃の人間は、自分達も自然の一部だという事を忘れている」と語り、「特に学者には、頭がいいのかも知れないが、自然の深い心がさっぱりわからない者が多いので困る」と語る「モーゼの様な髭を生やした」老人の言葉は、血で「汚した大地に接吻なさい」と語ったソーニャの言葉に従って自首をしたラスコーリニコフがなぜ、シベリアで「復活」しえたのかという深い理由を説明しているとさえ思える。

 ではなぜ、偶然の一致とはいえないようなこれほどの類似が見られるのだろうか。

この意味で注目したいのは、一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林秀雄が、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」とし、エピローグは「半分は読者の為に書かれた」と解釈していたことである*4(『小林秀雄全集』第六巻、四五頁、五三頁── 以下、巻数と頁数を〔〕内に六・四五、五三のように表記する)。

 さらに小林は、第四章で詳しく見るように、一九三六年に書いた映画評ではスタンバーグ監督の映画《罪と罰》などに言及しながら、表現手段としての「文学」と「映画」を比較して、映画では『罪と罰』の深みを描くことはできないと批判していた〔四・二二四~二二六〕。

 一方、黒澤の映画における師といえる山本嘉次郎監督は、夏目漱石の『坊つちやん』を映画化して一九三五年に公開し、その翌年には『吾輩は猫である』を原作とした映画《吾輩は猫である》も公開していた。映画という表現手段を批判した小林の記述は、一九三六年にPCL映画撮影所(東宝の前身)に助監督として入社し、一九三八年には映画《綴方教室》に製作主任として参加する黒澤に、文学作品の映画化についての深い考察を迫っていたといえるだろう。

  実際、小林秀芥川龍之介を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していたが〔一・一五二〕、戦後の一九五〇年に公開した映画《羅生門》で黒澤は、夏目漱石の弟子にあたる芥川の深いドストエフスキー理解と芥川作品の現代的な意義を示していた。

 さらに最近になって、戦時中の一九四三年に公開された映画《愛の世界・山猫とみの話》の脚本に黒澤が深く関わっていたことが明らかになった*5。本論で詳しく見るように小林秀雄はシベリア流刑後にドストエフスキーが唱えた「大地主義」に否定的だったが、黒澤は『死の家の記録』などこの時期に書かれた作品を高く評価しており、彼が中心的な役割を担ったこの映画の脚本でも『虐げられた人々』からの影響がすでに強く見られる。

 ことに、沖縄で冤罪から死刑にされかかったことのある復員兵を主人公とした映画《白痴》の結末は、『白痴』の主人公ムィシキンがスイスからではなく、「シベリヤから還つた」とし、その結末についても「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間等は、その実行に何んの責任も持たない」と一九三四年に「『白痴』についてⅠ」で書いていた小林の記述とは正反対ともいえるほどに異なっていたのである〔六・一〇〇〕。

三、消えた「対談記事」

 小林秀雄は映画《白痴》を初めとする黒澤映画についてはほとんど語っていないので、彼が黒澤明監督のドストエフスキー観をどのように考えていたかは判らない。しかし小林は、映画《白痴》が公開された翌年の一九五二年から五三年にかけて八章からなる「『白痴』についてⅡ」を発表し、その後半では黒澤映画《白痴》ではあまり描かれていなかったレーベジェフやイッポリートに焦点をあてて論じていた。

 興味深いのは、その小林が一九五六年一二月に黒澤との対談を行っていたことである*6。この前年に黒澤は映画《生きものの記録》を公開していたが、「第五福竜丸」事件をきっかけに三千万以上の署名が集まるほど高まった反核の動きは、「ついに太陽をとらえた」と題して読売新聞に連載された特集や「原子力平和利用博覧会」の開始によって急速に流れが変わり、この時期には原爆の危険性を指摘することはすでに「季節外れ」のように見なされるようになっていた*7。

 しかし、第二章で詳しく見るように、小林秀雄は一九四八年に「人間の進歩について」と題して行われた物理学者の湯川秀樹との対談では、「原子力エネルギー」の「平和利用」という湯川の考えの危険性をいち早く指摘し、「道義心」の視点から厳しく批判していたが、その後に行われた黒澤明との対談で湯川秀樹は映画《生きものの記録》を高く評価していた。

 『白痴』の結末に対しては正反対の見解を示す一方で、「原子力エネルギー」の危険性を深く認識していた二人の巨匠がどのような対談を行っていたのだろうか。残念ながら、掲載されれば必ず売り上げを伸ばすと思われる二人の著名人による対談記事が雑誌に載らなかったために、対談の詳細な内容は明らかになっていない。

 しかし、飛行機事故などでは「ブラックボックス」を探し出して回収することが事故解明の第一歩とされるが、幸いこの時の対談については、その時の写真が残されているだけでなく*8、司会者などの短い回想も残されている。その後の二人の記述や映画などからは、『白痴』の結末の解釈などにたいする強いこだわりが感じられ、この時の対談が巨匠たちに残した痕跡の深さが感じられる。

 原発の推進が「国策」となると小林秀雄は「原子力エネルギー」の危険性についてほとんど語らなくなったが、映画《赤ひげ》の制作が発表された翌年の一九六四年に発行した『「白痴」について』(角川書店)では短い第九章を加えて、「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだらう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである(後略)」と書いていた〔傍線引用者。六・三四〇〕。名指しこそしてはいないものの、「不注意な読者」という表現は黒澤明監督を強く意識している可能性が高いと思われる。

 一方、映画《どですかでん》が営業的な失敗に終わった後で発作的に自殺を図っていた黒澤は、探検家アルセーニエフと自らをナナイ人(大地の人)と呼ぶ少数民族・ゴリド族の狩人デルスとの交流を描いた『デルスウ・ウザーラ』を原作とする映画《デルス・ウザーラ》をシベリアで撮って見事に復活した*9。    

この映画を一九七五年に日本で公開した後に若者たちと行った座談会で黒澤明は、「小林秀雄もドストエフスキーをいろいろ書いているけど、『白痴』について小林秀雄と競争したって負けないよ」と語ったが*10、その言葉に強い反発を覚えたかのように小林は、スリーマイル島の原発事故が起きた一九七九年に河上徹太郎と行った対談でも「『白痴』はシベリアから還ってきたんだよ」と繰り返して主張している*11。

 このような『白痴』の結末をめぐる互いを強く意識したと思われる両者の発言に注目するとき、映画《夢》はドストエフスキー作品の解釈をめぐるほぼ半生にわたる小林秀雄との「静かなる決闘」の成果だと言っても過言ではないとさえ思える。

 本書ではまず作者と主人公の問題に注目しながら、ムィシキンが「シベリヤから還つた」とする小林秀雄の『罪と罰』論と『白痴』論との関連を分析し、さらに主な登場人物の解釈の問題点を明らかにすることで、本論の方向性を確認する。第一章からは小林秀雄のドストエフスキー観と比較しつつ、映画の公開順に映画《白痴》から映画《夢》にいたる黒澤明監督のドストエフスキー理解の深まりに迫ることにしたい。

 消えた「対談記事」の謎に注目しつつ、小林秀雄と黒澤明のドストエフスキー観を具体的に比較することで、なぜ黒澤監督が映画《夢》で東京電力福島第一原子力発電所の悲劇を予言しえたかという「謎」にも迫ることができるだろう。

 

*1 チェルノブイリ原発事故については、「高橋誠一郎 公式ホームページ」の「映画・演劇評」、「劇《石棺》から映画《夢》へ」を参照。

 *2 『全集 黒澤明』第四巻、岩波書店、一九八八年、一四〇頁。

 *3 都築政昭『黒澤明の遺言「夢」』、近代文芸社、二〇〇五年参照。

*4 『小林秀雄全集』第六巻、新潮社、一九六七年、四五頁、五三頁。

*5 (編)石割平、円尾敏郎、谷輔次『はじめに喜劇ありき』ワイズ出版、二〇〇五年、一五一頁。

*6  黒澤明・浜野保樹『大系 黒澤明』第四巻、講談社、二〇一〇年、八一六頁(以下、『大系 黒澤明』と略記して、巻数と頁数のみを記す)。

*7  中日新聞社会部『日米同盟と原発──隠された核の戦後史』東京新聞、二〇一三年参照。

*8  黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、一九九九年、三六六頁。

*9  アルセーニエフ、長谷川四郎訳『デルスウ・ウザーラ──沿海州探検行』東洋文庫、一九六五年、三〇八頁、映画化に際しては日本語では発音しにくいことから、主人公のデルスウの名前はデルスと表記されたので、本書でも基本的にはデルスと記す。

*10  黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、一九九九年、二八八頁。

*11  小林秀雄『考える人』春季号/新潮社、二〇一三年、四五頁。

 

 

ムィシキンの観察力とシナリオ『肖像』――小林秀雄と黒澤明のムィシキン観をめぐって

 

1,「シベリヤから還つた」ムィシキン

 「『罪と罰』についてⅠ」(1934)の冒頭で、「重要な事は、告白体といふ困難な道からこの広大な作品を書かうと努めたほど、ラスコオリニコフといふ人物が作者に親しい人物であつたといふ事である」と記していた文芸評論家の小林秀雄は、「ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」という解釈を示した(『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、62~63頁。全集第6巻からの引用に際しては旧漢字を新漢字になおすとともに、本文中の〔〕内に頁数をアラビア数字で示す)。

 「『白痴』についてⅠ」(1934)においても、「本当に美しい人間」を描こうとしたドストエフスキーの「明瞭な企図」と「その実現された処」の違いの激しさを指摘した小林は、「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない、シベリヤから還つたのだ」と繰り返し強調している。

 そして、「『罪と罰』の終末を仔細に読んだ人は、あそこにゐるラスコオリニコフは未だ人間に触れないムイシュキンだといふことに気が付くであろう」と続けた小林は、「この小説の終りで、作者が復活の曙光とよんでゐるものは、恐らく僕等が一般に理解してゐる復活、即ち精神上の或は生活上のどういふ革新にも縁のないものだ」と断言した〔82~83頁〕。

 戦後に書いた「『白痴』についてⅡ」(1952~53)でもムィシキンがスイスから帰国する「汽車の中で、独り言を繰返す」ことに注意を促した小林は、「詮索するにも及ぶまい。当人が『これから人間の中に出て行く』と言つてゐるのだから、この男には過去なぞないのだらう」と断定している〔299頁〕。

 しかし、ここで小林は「これから人間の中に出て行く」というムイシュキンの言葉が、汽車の中での「独り言」と説明しているが、この言葉はエパンチン家の令嬢たちにスイスの村でのマリーと子供たちの逸話を説明した後で語られた言葉であり、しかもムィシキンは「ぼくは自分の仕事を誠実に、しっかりとやり遂げようと決めました」と続けていた(第1部第6章)。

 つまり、スイスでの治療をほぼ終えたムィシキン公爵が混沌としている祖国に帰国する決意をしたのは、母方の親戚の莫大な遺産を相続したとの知らせに接したためであり、ドストエフスキーは小説の冒頭で自分が得た遺産を苦しんでいるロシアの人々のために尽くしたいと考えていたムィシキンと、莫大な遺産で女性を自分のものにしようと願ったロゴージンという対照的な若者の出会いを描いていたのである。

 ムィシキンが「シベリヤから還つた」と解釈すると彼が西欧で見たギロチンによる死刑の場面もなくなり、『白痴』における主要なテーマの一つである「殺すなかれ」というイエスの言葉と、近代西欧文明の批判が読者の視界から抜け落ちてしまうことになる。

 「『白痴』についてⅠ」で『白痴』の結末の異常性を強調した小林秀雄は、「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と記していた〔100~103頁〕。

 ムィシキンの帰国の理由を説明していたエパンチン家での会話の部分を読み落としたことが、このような陰惨な解釈にも直結していると思われる。

 

2,「アグラアヤの為に思ひ附いた画題」

 小林秀雄は「『白痴』についてⅠ」で「周知の事だが、作者はこの主人公を通じて、自分の二つの異常な生活経験を、熱烈に表現してゐる」として、癲癇の発作とともに死刑体験とを挙げていた〔90~91頁〕。

 戦後に書いた「『白痴』についてⅡ」でも、「この死刑の話は、執拗に、三通りの違つた形で繰返し語られ、恰も、作品の主音想(ライト・モチフ)が鳴るのを聞くやうだ」とした小林秀雄は、「ギロチンが落ちて来る一分間前の罪人の顔を描いてはどうか」という「三番目の話は、ムイシュキンがアグラアヤの為に思ひ附いた画題の話である」と続けている〔傍点引用者、281~2〕。

 しかし、ムィシキンが画題を示したのは絵の才能のある次女のアデライーダに対してであって、三女アグラーヤにではなかった。

 しかも、ムィシキンの「見る」能力を考察した川崎浹氏が指摘しているように、エパンチン家で「アデライーダに『見る』ことを示唆した」あとにスイスのことを話したムィシキン公爵は、スイスで見たギロチンの話をした後で死刑囚の顔を描きなさいと語っていたのである(第1部第5章、「『見る』という行為――ムイシュキン公爵とアデライーダ」、104頁)。

 この論考について木下豊房氏も「この物を見る目という本質的な問題を『白痴』のアデライーダの絵の題材への迷いに見て取り、背後に作家のリアリズム観の存在を指摘した川崎氏の慧眼を評価したい」と結論している。

 ドストエフスキー論の「大家」とされてきた文芸評論家の小林秀雄が、『白痴』においてきわめて重要な役割を演じているエパンチン家のアグラーヤとアデライーダの名前を取り違えていたことは、ムィシキンの「孤独」に焦点を絞って考察した小林秀雄の視野にはエパンチン家の家族関係だけではなく、ムィシキンの「観察力」も入っていなかったことを物語っているだろう。

 あるいは、「注意深い読者」であった小林秀雄の視野にはムィシキンの「観察力」も入っていたかもしれない。しかし、このような「事実」としての「テキスト」を忠実に読み解くことで「殺すなかれ」と語ったムィシキンを高く評価することは、戦争に走り出した当時の日本の「国策」に反することも知っていた。そのために、「軍国主義」を批判する評論の筆者として逮捕されることを逃れるために、「テキストから逃走」してしまった可能性も高いと思われる。

 問題は同じような事態が戦後にも起きていたと思われることである。よく知られているように小林秀雄は、科学者の湯川秀樹との対談では「原子力エネルギー」の危険性を「道義心」の視点から厳しく指摘していた。しかし、「第五福竜丸」事件の後で、「原子力の平和利用」が「国策」として打ち出されると、小林秀雄はこの問題を全く語らなくなってしまったのである(拙論「知識人の傲慢と民衆の英知――映画《生きものの記録》と『死の家の記録』」、『黒澤明研究会誌』第30号、参照)。

 一方、このような小林秀雄のムィシキン観とは異なり、長編小説『白痴』におけるムィシキンの観察力をきわめて高く評価したのが黒澤明監督の映画《白痴》であった。

 

3,映画《白痴》とシナリオ『肖像』

 黒澤映画《白痴》(脚本・久板栄二郎、黒澤明、1951年)の亀田(ムィシキン)には絵画を観察する能力は与えられていないが、戦争だけでなく死刑という極限的な体験をしていた亀田には人を見る直感的な観察力が与えられている。

 この意味で注目したいのは、この映画の3年前に黒澤明が木下恵介監督(1912~1998年)のために書いた映画《肖像》のシナリオの主人公の老年の画家がムィシキンを想起させるばかりでなく、老画家の家族を嫌がらせで追い出すためにその二階を間借りして住み込んだ悪徳不動産屋の愛人・ミドリも、ナスターシヤを思い起こさせることである。

 黒澤明監督は「僕は、映画におけるシナリオの地位は、米作における苗つくりのようなものだと思っている」と述べ、、「弱いシナリオから絶対に優れた映画は出来上がらない」と結んでいた(第3巻、286頁)。

 この言葉に留意するならば、シナリオ『肖像』は黒澤明監督の映画《白痴》におけるムィシキン理解の深さを知る上でも、きわめて重要な作品であるといえるだろう。

 井川邦子、小沢栄太郎、三宅邦子、三浦光子、菅井一郎、東山千栄子、佐田啓二などの出演で撮られ、1948年に公開されて第3回毎日映画コンクール監督賞を受賞したこの映画のシナリオの内容を簡単に見ておきたい(サイト「木下恵介生誕100年プロジェクト」の画像も参照)。

 

 まず注目したいのは、主人公の老画家から肖像画のモデルとなるように頼まれたミドリが、「でも、どうして、私なんか」と尋ねると、画家の野村は「なんて言いますかな……不思議なかげがあるんですよ、あなたの顔には」と説明していることである(『全集 黒澤明』第3巻、214頁)。この台詞は、写真館に掲示されている那須妙子(ナスターシヤ――原節子)の写真をみつめて、「綺麗ですねえ」と同意しながらも、「……しかし、何だかこの顔を見ていると胸が痛くなる」と続けた亀田(ムィシキン)の台詞を想起させる(シーン八)。

 一方、嫌々ながらもモデルを務めていたミドリは同じような境遇の芳子に「私ね、じっと座ってその画描きの綺麗な眼でじっと見られていると、なんだか、澄んだ冷い流れに身体をひたしている様な気がするの……自分の身体のいやなあぶらやあかみたいなものが洗い落されて行く様な……」と告白する。

 「いやだよ……お前さんその画描きに惚れるンじゃないのかい」と芳子から冷やかされると、ミドリは「その人、薄汚いお爺さんだわ」と言いながらも、「でも、私……その人好きよ……だんだん好きになって行くわ……初めは、随分まぬけな人だと思ってたけど……」と続けるのである。

 しかも、酔っぱらった勢いで自分が淑女ではなく愛人であると明かしてしまったミドリは、「こんなの私なものか……これが私の肖像だなんて……笑わせるわ」と言い放ち、「煙草を出して吸いつけると壁にもたれてあばずれたポーズ」を取ったが、画家の義理の娘・久美子から「いいえ……どんな不幸が今のような境遇に貴女を追い込んだのか知らないけれど……本当は……貴女はやっぱり、お父さんが描いたような貴女に違いないんです」と説得される。

 その台詞もムィシキンがナスターシヤに「あなたは苦しんだあげくに、ひどい地獄から清いままで出てきたのです」と語った言葉を思い起こさせるのである。そしてミドリは、結末近くで「死んだつもりで、出直して見るんだわ……私達、なんにもやって見もしないで、何もかも駄目だってきめてかかっていたような気がするわ」と語り、同じ稼業だった芳子に「弱虫なのは私達だわ」と続けて自立への決意を語ったのである。

 台詞自体は何人かの登場人物に分与されているが、画家の家族に励まされて苦しくとも自立しようとするミドリの決意は、ムィシキンに励まされたナスターシヤの思いとも対応しているだろう。

 こうして黒澤は老画家の肖像画をとおして、真実を見抜く観察眼の必要性と辛くても「事実」を見る勇気が、状況を変える唯一の方法であることをこの脚本で強調していたのであり、それは映画《白痴》の亀田(ムィシキン)像に直結している。 

日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって

287-8

(高橋誠一郎『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房の表紙。図版はオムスクの監獄)

はじめに  日本の近代化とナショナリズムの覚醒

明治9年(1875年、以下、年号は原則として西暦で示す)に、ベルツはその日記に、「これは最も不思議千万の事ではあるが--今日の日本人は、自身の過去に就いては何事も知る事を欲していない。教養ある人士も、過去に引け目を感じているのである」とし、「何も彼も野蛮至極であった」と言明した者や…中略…「我等は歴史を持って居ない、我等の歴史は今から始まるのだ」とまで断言する者までいるという驚きを記している*1。

だが、実はこのような自己の過去を否定するという精神の働きは、一部の日本人知識人の特殊性を物語るものではない。たとえば、社会学者の作田啓一は『個人主義の運命――近代小説と社会学』で、「ナポレオン戦争を支えたフランス民族のナショナリズム」では、「フランス革命によって到達した民主主義的な諸価値を世界に拡げること」を「彼らの使命」と説明している*2(以下、本書をKと略記し、本文中に頁数を示す)。

このような思想的潮流の中で、フランスの文明を普遍的な文明ととらえたロシアの思想家チャアダーエフは、ナポレオンを破った祖国戦争(1812)の後でも農奴制のような非近代的な制度が改革されないことに悲観し、ロシアはギリシア正教を受け入れたために「人類の普遍的な発展」から孤立したのだと厳しく批判した。こうして、それ以降ロシアでは発展のあり方をめぐって「欧化と国粋」の激しい対立が生まれることになったのである*3。

しかし、一方で「国民国家」の成立と自分たちを「普遍的な理念」の普及者として主張したフランスにおける民族意識の昂揚は、隣国ドイツやギリシア正教を国教とするロシアにおいては、激しい反発から自国の民族意識の高まりを生みだし、独自の「国民性」が求められるようになったのである。

それはロシアに限ったことではなく、いわゆる「文明開化」が求められた明治維新以降の日本でも近代化の過程における「西欧化と土着」の問題が起きてくるようになる。なぜならば、ベルツの「日記」が書かれる3年前に政府は、西欧諸国からの強い要望もあり、キリスト教の禁制をも解いており、西欧文明を学ぶ機会も大幅に拡大したが、自らの普遍性を主張する「近代西欧文明」自身が、それ以外の諸文明の独自性や意義を否定する働きをも担っていたのである。

「西洋崇拝による土着軽視」とその反発としての「国粋」思想の勃興の流れに注目した比較文明学者の山本新は、このサイクルが日本ではほぼ20周年で周期的に交替しているという説を唱えた*4。吉澤五郎は近著でこのような「西欧化と土着」のサイクルを分かりやすく図示しているが、興味深いのは、サイクルの高揚期や低迷期などの節目とドストエフスキー受容が不思議と一致していることである*5。

すなわち、松本健一は「ドストエフスキイが熱狂的に読まれた時代が過去に五度ほどあった」とし、①、1892年前後 ②、1907年前後 ③、大正期 ④、1934年から1937年 ⑤、1945年から1950年を挙げているのである*6。

以下、本稿では「個人主義のゆくえを考えることは、ナショナリズムのゆくえを考えることに通じる」(K.201)とした作田啓一の考察を踏まえながら、比較文明論的な視点から第二次世界大戦に到るまでに時期を絞って日本におけるドストエフスキー受容と「欧化と国粋」のサイクルの問題の係わりを考察し、「文明の衝突」を乗り越える可能性を探りたい*7。

第1節  ロシアの近代化とロシア文学の受容

明治維新の初期に東京外国語学校の教員として招かれていたメーチニコフは、岩倉具視、木戸孝允、副島種臣などの「維新を指導した少数の国家的人物」をはじめとする多くの人たちが、ピョートル大帝の「熱烈なファンである」と書いた*8。

彼の言葉は誇張のようにも思えるが、実際、明治維新に際しては「ざんぎり頭をたたいて見れば文明開化の音がする」と歌われたように断髪令が出されたが、ピョートルもロシア人の意識を変えるために、成人男性が生やしていたあごひげを切り取ることや衣服を西欧式に改めるなどの命令を発しているのである。さらに彼は「ペテルブルク市長に命じて、定期的に夜会をひらかせ、貴族たちが夫人同伴で出席することを義務」づけたが、「わが国の『鹿鳴館』の先駆」だったのである*9。

また、明治政府は1871年暮れに西欧文明を早急に取り入れるために、「一国の政権の最高首脳部の大半をあげて、先進文明世界を視察し、これから学ぼうとする」使節団を1年以上にわたって西欧に派遣したが*10。ピョートル大帝もロシアの内政が安定しないなか250名もの随員と留学生を連れて、一年半にわたる長い西欧視察旅行に出かけていた。さらに、1872年12月に明治政府はそれまでの太陰暦を西暦(グレゴリオ暦)に改めるという大改革を行ったが、ピョートル一世も年号を天地創造の日から数え、1年の始まりを9月1日としていたそれまでのビザンツ暦を、西暦に近いユリウス暦に改めていた。

こうして明治政府は「殖産興業」と「富国強兵」をめざしたピョートル大帝の改革をなぞるかのように息せき切って「近代化」を進めたのであった。幕末の1862年にロシアを訪れた福沢諭吉も、当時のロシアには厳しい評価をしたものの、元禄の頃に行われたピョートル大帝の改革については、「学校を設け海陸軍を建て」、「堂々たる一大国の基(もとい)を開き、今日に至るまで、威名を世界中に轟かせり」と記した*11。

ところで、作田啓一はデュルケームなどの考えによりながら、「近代政治史とは、さまざまの特権を持った中間集団を国家が打ち砕く過程」であり、「この闘争を通じて、中世的な共同態は衰退してゆき、それに代わって国家と個人が社会の有力な構造要素」となってきたとし、こうして「国家の成長に伴って個人主義が発展してきた」と説明している(K.90-93)。

このことは強大な西欧諸国との接触によって開国を余儀なくされた日本が、近代国家の成立をめざして行った改革を例に取れば分かりやすい。明治維新に際し、明治政府は廃藩置県をも断行し、藩にも自治を許すそれまでの幕藩体制というゆるやかな制度を取りやめて、強大な中央集権国家の設立を目指したのである。このような「近代化」を推進したのが、それまでの日本を「半開」とし、西欧を「文明」と位置づけた福沢諭吉であった。彼は『学問のすゝめ』(1872)において「唯学問を勤(つとめ)て物事をよく知る者は貴人となり、富人となり」と書き、さらに「専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり」として新しい西欧の学問を学ぶことが「立身出世」につながると強調したのであった。このような見方は、同時に新政府が欲していた方向性でもあり、同じ年に学制が発布され公的な義務教育が始まり、これ以降「わずか数年の間に2万6千余校という小学校ができ」ることとなった。こうして、身分や貧富に係わらず、「富国強兵」という国家の要望に答える能力を有した者には「立身出世」が可能となったのである。

だが、作田が書いているように、「近代化が進み、公的生活において人々が参加する集団の規模が大きくなり、官僚制化してゆくと、公私の二つの領域において、人々は相互に異質的な要求に直面することを余儀なく」される。なぜならば、「自己を発展させよという個性の命令に忠実な個人」は、「どの方向へ向かうかの選択」という「苦しい自己決定を行ったあとに、葛藤と不満とが待ち受けているかもしれ」ないからだからである(K,113~4)。

このような事態を日本もむかえた。「中間集団」の文化を否定する一元的な価値の上からの強制や「西欧化」を強要する「文明開化」への反発は、すでに徴兵反対一揆(1873)や佐賀の乱(1874)などの形で噴出し始めていた。それが、ベルツが日本人知識人への驚きを記した翌年の1876年3月に「廃刀令」が出されると、同じ年の10月には神風連の乱や秋月の乱、萩の乱などが頻発することになり、その翌年には国力を二分した西南の役が起きることになった。さらに、これらの乱が鎮圧された後は、今度は武器ではなく筆を持って政府批判を繰り広げる「自由民権運動」が盛んになったのである。

このことは、日本の文明開化よりも150年以上も早くロシアの近代化を行ったピョートル大帝の改革とそれ以降の歴史の流れにも現れた。ロシアではピョートル大帝の死後、強国としての位置を築く一方で、相次ぐ宮廷クーデターの中で特権を増やした貴族とは正反対に、農民の隷属化が進んで過酷な農奴制が確立していた。このような中、ロシアの知識人たちは、国家のさらなる近代化を目指すとともに個人の自由や民衆の権利を求める運動をも展開したのだった。

これに対応しているのが、ロシア文学の受容だろう。島崎藤村は『千曲川のスケッチ』の奥書において、「明治年代に入って言文一致の創設とその発達に力を添えた人々の骨折と云うものは、文学の根底に横たわる基礎工事であったとわたしには思われる」と書いている。このような困難な作業に大きな影響を及ぼしたのが、農奴制の問題を文学的な視点から鋭く批判したツルゲーネフの『猟人日記』の中の一編を言文一致体で訳した二葉亭四迷の『あひびき』である。

川端香男里は、ロシア文学が「1908年には翻訳の点数で英米文学を追い越し」ていたことに注意を促して、「昭和20年代までに世に出た作家や評論家でドストエフスキー、トルストイ、チェーホフから影響を受けなかった者はいない」と述べ、さらにロシア文学受容のピーク時について、ツルゲーネフは明治期、トルストイは大正期、そしてドストエフスキーは昭和期に入ってからとも指摘した*12。すなわち、官民挙げて日本が「文明開化」に精力を注いでいた明治には西欧派のツルゲーネフが流行り、日露戦争前後の時期からは平和論を唱えたトルストイの作品が好んで読まれたのであり、近代化の問題点が明白となり、近代西欧文明の批判の強まるとともに、ドストエフスキーが爆発的な広がりを見せたといえよう。

 

第2節  『罪と罰』の翻訳と北村透谷

内田魯庵が二葉亭四迷の助力を得て日本で最初に『罪と罰』を訳出したのは、1892年のことであった。だが、この時は充分な購買者数を得ることができずに、その前半部分を訳したのみで終わった。ただ、この時すでに鋭く本質的な理解を示した者に北村透谷がいる。

彼は「『罪と罰』の殺人罪」(1893)という書評において、ハムレットにも言及しながら、「最暗黒の社会にいかにおそろしき魔力の潜むありて、学問はあり分別ある脳髄の中に、学問なく分別なきものすら企つることを躊躇(ためら)うべきほどの悪事をたくらましめたるかを現はすは、蓋(けだ)しこの書の主眼なり」と喝破したのである*13。

しかし、このような透谷の言葉は単に彼の鋭い理解力を示すものではなく、「近代化」の流れの中での苦しい体験の結果でもあった。ラスコーリニコフの母親は息子に家名をあげることを望んでいたが、透谷の母も小田原藩藩士だった夫の禄高が、佐幕派だったために3分の1に減らされる中で、息子の「立身出世」を強く期待したのだった。さらに、ラスコーリニコフは「非凡人の理論」を編み出して高利貸しの老婆の殺害におよんだが、1884年の5月には、近隣の三郡百余村に金を貸付け、「負債人民からの憎悪の的であった」高利貸露木卯三郎が殺害されるという事件が大磯で起きていた。

注目すべきは、透谷がその末尾近くで大隈重信に爆弾を投げた来島や、来日中のロシア皇太子ニコライ二世に斬りつけた津田巡査などに言及しながら、「来島某、津田某、等のいかに憐れむべき最後を為したるやを知るものは、『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥(しりぞ)くるやうの事なかるべし」とすら述べていることである。

この言葉はドブロリューボフに言及した1862年のドストエフスキーの論評を思い起こさせる。ここでドストエフスキーは「深く神聖に真理を確信している」りっぱな人物が、「ただただ自分の高潔無比な目的を達せんがために」、誤った手段を取ることもありうるのだといい、問題は「彼が目的到達のために用いた手段に存する」ことは明瞭であると考察したのだった。このような考察は『罪と罰』などで、「十字軍」や「暴力革命」などの「手段」をも「正当化」した、「カトリック」や「テロリスト」への哲学的な批判として深化されていくのである。

透谷の考察は、「目的と手段」の問題を通じて「近代西欧文明」の問題の根元にも迫ろうとしたドストエフスキーの作品の本質にも肉薄していたのである。だが、ここでも透谷の理解は、「時代」とも深く係わっている。すなわち、1884年には朝鮮で「近代化」を推進しようとする独立党を押して内閣を作ろうとするクーデターが失敗した甲申事変が起きたが、この翌年には朝鮮での独立運動を支援するために、強盗をしてこの資金を得ようとした大阪事件が起きた。この時透谷は「自由民権運動」に係わっていた親しい友人から参加を求められていたのである。

色川大吉は、この事件の首謀者の論理が1873年に「単身韓国にのりこもうとした西郷の征韓論の論理」や「一国の人心を興起して全体を感動せしむるの方便は外戦に若(し)くものなし」と1878年に記した福沢諭吉の「通俗国権論の論理」と基本的にはほぼ共通しているとし、彼らには「封建的な事大党をたおして、開明的な独立党に政権をとらせ、朝鮮人民への連帯と友情をしめそう」とする姿勢もあったことに注目している*14。すなわち、彼らの論理には、ロシアの現状を打破するためにポーランドの独立運動にも理解を示したドブロリューボフたちの考えに近いものもあったのである。

だが、透谷はこのような「目的」を達するために、強盗のような「手段」を取ることには賛成できず拒否するという、ちょうど『悪霊』(1871~2)のシャートフ的な体験を有していたのであり、その後彼自身もキリーロフのように若くして自殺した。

 

第3節  近代化の深化と夏目漱石

夏目漱石が『三四郎』を書き上げたのは、1908年のことであった。この時期までに日本は急速な近代化を経て、日清戦争(1894~5)や日露戦争(1904~05)で勝利をおさめ、朝鮮での勢力を強めるなど「富国強兵」に成功していた。だが、ちょうどポーランドを分割し、コーカサスをも併合して領土の拡大に成功したロシアが、国家の強大化に反して民衆のレベルでは農奴化がかえって進んできたように、日本でも「強大な国権」への批判が下から噴出し、このころから価値の2分化が顕著になっていた。

このような近代化の苦悩を象徴的に物語っているのが、政府の派遣によりイギリスに留学し、帰国後に教鞭を取っていた東京帝国大学での職を辞して、近代日本の知識人の苦悩を描く小説を書くことになる夏目漱石だろう。

司馬遼太郎は『三四郎』について、「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と規定するとともに、「明治後、東京そのものが、欧米の文明を受容する装置になった。…中略…下部(地方や下級学校)にそれを配るという配電盤の役割を果たした」と指摘している*15。

この指摘は「ペテルブルグほど人間の心に暗く、激しく、奇怪な影響を与えるところは、まずありますまいよ」と語り、「これは全ロシアの政治的中心なので、その特性が万事に反射せざるをえません」と続けた『罪と罰』の登場人物スヴィドリガイロフの言葉を思い起こさせる。実際、ロシアの首都サンクト・ペテルブルクもピョートル一世により、西欧の科学技術を大幅に取り入れるために「西欧への窓」として建設されたのである。

しかも、司馬は1872年にできた「司法職務定制」により、「弁護士の前身といえる」「代言人という職と機能が」成立したことに注目し、それ以降、1881年に明治大学の前身である明治法律学校が出来たのをはじめ、英吉利法律学校(後の中央大学)や日本法律学校(後の日本大学)が次々と設立されていることに注目し、「明治は駆けながら法をつくり、法を教える時代」だったと規定している。

司馬遼太郎の読みは『三四郎』の社会的背景だけでなく、名門サンクト・ペテルブルク大学の法学部を中退した若者を主人公とした『罪と罰』の社会的背景をも説明し得ている。すなわち、主人公のラスコーリニコフの妹ドゥーニャの婚約者で、今まさに首都に法律事務所を開こうとしていた弁護士のルージンは「いろいろな新しい傾向とか、改革とか、新思想とか、すべてそうした」、「いっさいを残りなく見ようとするには、やっぱりペテルブルクにいなければなりません」と述べていたのである。

このようなルージンの「文明観」を、ラズミーヒンは「科学、文化、思索、発明」などの知識がロシアの知識人にはまだまだ未熟でありながら、それなのに「他人の知識でお茶をにごすのが楽でいいものだから、すっかりそれになれっこになってしまった」と鋭く批判する。このような彼の批判は、明治末期の1911年に「内発的」ではない日本の開化を厳しく批判した漱石の「現代日本の開化」という講演ときわめて似ている。

実際、福沢は日本が「開国20年の間に、200年の事を成した」と「文明開化」の成功を誇ったが、一方、漱石はすでに『三四郎』において自分と同じ年齢の登場人物広田に「明治の思想は西洋の歴史にあらわれた300年の活動を40年で繰返している」と「皮相上滑り」な「文明開化」を批判させたのである*16。

この意味で注目したいのは、『三四郎』に先だって朝日新聞に発表された二つの作品である。すなわち、『三四郎』が書かれる直前には、島崎藤村が北村透谷などの若者たちを主人公とした作品『春』を発表しており、さらにその直前には漱石が、足尾銅山をテーマにした『坑夫』という作品を発表していたのである。

立松和平はこの前年の1907年に「足尾銅山で鉱夫たちにより大暴動が起こり、軍隊が出動して鎮圧」されていたことに注意を向けて、「足尾銅山は、富国強兵の最先端を走っていた。…中略…日露戦争で使われた鉄砲の玉は、ほとんどが足尾で産出した銅を原料としていたといわれている」と指摘している*17。このような大量生産の結果、足尾では、現在の環境汚染の先駈けとも言える「鉱毒事件」が発生したのである。

このように見てくる時、「西欧文明を目的」とした福沢の「文明観」は、近代化を要請した「時代」の産物であり、一方、福沢よりも30年ほど遅れて生まれた漱石は、「文明開化」の結果発生した近代化の負の面をも見ねばならなかったと言える。

 

第4節  近代化の矛盾と「近代の超克」論

漱石は『三四郎』において広田先生に「いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね」と語らせ、このままでは「亡びるね」とさえ断言させていた。司馬遼太郎はこの言葉に注意を促して、「ひげの男の予言がわずか38年後の昭和20年(1945)に的中するのである」と記した*18。

そして、司馬は日露戦争後にロシアから充分な戦後補償を得られなかったことを不満として、日本各地で日本政府の弱腰を責めたてる「国民大会が次々に開かれ」たことを重視し、ことに放火にまで走った「日比谷公園に集まった群衆」こそが、「日本を誤らせたのではないか」と記している。そして、司馬は「ナショナリズムは、本来、しずかに眠らせておくべきものなのである。わざわざこれに火をつけてまわるというのは、よほど高度の(あるいは高度に悪質な)政治意図から出る操作というべき」だと鋭く批判していた。

ナショナリズムの加熱がどうしてこのような結果を招くかを、作田は社会学の視点から「大衆デモクラシーのもとでは、有権者の票の獲得にあたって、理性に訴える説得よりも、感情に訴える操縦のほうが有効であると言われるようになり、また事実、その傾向が強く」なったと説明している(K.110)。

ここで注目したいのは、作田が「個人の自尊心」と「国家の自尊心」とは深いところで密接に結びついていることを指摘して、「個人主義」だけでなく「個人主義の双生児であるナショナリズムも、自尊心によって動かされて」きたと指摘していることである(K.201)。つまり、お互いに自国の「正義」をかざして戦った第一次世界大戦では、フランスなどが勝って、「自民族」の優秀さを謳歌したが、それは戦争に敗れて経済的な打撃だけでなく、精神的にもドイツ人を深く傷つけてしまったのである。こうして、「自尊心」をも侮辱されたと感じた中で、ラスコーリニコフの「非凡人」の理論を「民族」にまで拡大して、「優秀な民族」は、「悪い民族」を滅ぼすべきだと主張し、ユダヤ民族の抹殺を謀ったヒトラーの理論が生まれてくることになったのである*19。

日本における『罪と罰』の受容の波が太平洋戦争へと突入する時期に高まったのも、このような流れと無関係ではない。松本健一は真珠湾攻撃の翌年に出版された堀場正夫の『英雄と祭典』にふれて、彼が『罪と罰』を「『ヨーロッパ近代の理知の歴史』とその『受難者』ラスコーリニコフの物語」ととらえ、「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と見なしたことを紹介している*20。

むろん、このような読みは現在のレベルでの研究を踏まえた上での読みから見れば、きわめて問題があるが、このような「読み」には、時代的な背景もあった。ニーチェの思想から強い影響を受けたシェストフは、ドストエフスキーをも「超人思想」の提唱者であり、「悲劇の哲学」の創始者の一人としていたるとした*21。このようなシェストフの解釈が日本でも受け入れられる中で、優れた批評家であった小林秀雄ですらも、『罪と罰』のエピローグではラスコーリニコフは影のような存在に成っていると指摘して、書かれている彼の更生をも否定したのであった*22。

それは「近代人が近代に勝つのは近代によってである」とした小林の福沢的な近代観から導かれたものでもあった。こうして、堀場の理解は太平洋戦争の直前に「近代の超克」を謳ってなされた日本の著名な知識人たちによる討論のテーマや主張とも重なり合うものだったのである。

だが、ドストエフスキーは『罪と罰』において、「非凡人の理論」から殺人を犯したラスコーリニコフの悲劇を描くとともに、それに対抗する形でロシア正教の敬虔な信者ソーニャの苦難と彼女によるラスコーリニコフの救いを対置していた。そして、『地下室の手記』(1864)では主人公に、バックルによれば「人間は文明によって穏和に」なるなどと説かれているが、ナポレオン戦争や南北戦争では「血は川をなして流れている」ではないかと、「近代西欧の<知>」への鋭い批判を投げかけていた。実際、『戦争の社会学』によれば、すでに「フランス革命からナポレオン帝国の戦争」(1792-1815)の間に、「巻き込まれた人口は一億人。殺害されたものは200万人以上」だったのである*23。

こうして、お互いに他国によって滅ぼされないようにと「富国強兵」と武器の改良に励んだ結果、原子爆弾さえも製造されたことによって、第二次世界大戦では5000万人を越える戦死者を出すことになるのである。

作田啓一は「第二次大戦以降、自立ナショナリズムは、かつてヨーロッパに支配されていた諸民族のあいだにおいて燃え上がる」ようになったと指摘しているが、このような状況はオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊した第一次世界大戦前のヨーロッパでも起きたし、さらにソ連邦が崩壊した後にも、世界的なレベルでナショナリズムの高まりが起きている。そして、これに連動する形で最近の日本でも「国家」に価値を置くことによって、このような不安定さや混乱を回避しようとするナショナリズム的な発言や行動が多く見られるようになってきた。

だが、それは一時的には国内の矛盾を解決するかに見えるが、ひいては「国権と民権」の対立だけではなく、「国益と国益」との対決を引き起こして、ハンチントン氏が指摘するような第三次世界大戦につながる危険性を含んでいる。他方、作田は「超大国の自尊心は、核戦争の危機をかもし出す条件の一つとなって」いると指摘しているが、ソ連邦の崩壊とともに、核物質や核技術も海外へと流出した現在、大国ばかりでなく、小国でさえもが「自国の自尊心」から核戦争に到る危険性が出てきているのである。

比較文明学者の神川正彦は、「近代」の「学的パラダイム」が、ナポレオン以後に成立した国民国家を成立させている「ナショナリズム」と同じように、「ディシプリン(専門個別科学領域)の自律性」にもとづいた「単純化と排除のパラダイム」であると分析している*24。

「文明の衝突」が語られるようになった現在、近代的な古いパラダイムを克服して、「文明の共存」を可能にするような新しい「学的パラダイムの確立」が、焦眉の課題となっている。

 

*1 『ベルツの「日記」』、濱邊正彦訳、岩波書店、昭和14年、14~15頁、なお、引用に際しては新かな、新字体に改めた。

*2  作田啓一、『個人主義の運命――近代小説と社会学』、岩波新書、107頁。

*3  高橋「ヨーロッパ『近代』への危機意識の深化(1)――ドストエーフスキイの西欧文明観」参照。神川正彦、川窪啓資編、『講座比較文明』第1巻、朝倉書店、1999年、50~63頁。

*4  山本新、神川正彦・ 吉澤五郎編『周辺文明論ーー欧化と土着』、刀水書房、1985年。

*5  吉澤五郎、『世界史の回廊--比較文明の視点』、世界思想社、1999年、96頁

*6  松本健一、『ドストエフスキーと日本人』、朝日新聞社、昭和50年。

*7  本稿は、東海大学で行われた比較文明学会の公開シンポジウムで「『欧化と国粋の「サイクル』克服の試み――ドストエフスキーの受容と司馬遼太郎文明観」という題名で発表した論考(『比較文明』第16号、2000年、146~151頁)に、日本における『罪と罰』の受容と「欧化と土着」の問題に焦点を絞って、加筆したものである。なお、ドストエフスキーの訳は『ドストエフスキー全集』(新潮社)により、巻数と頁数を本文中に( )内に示す。

*8  メーチニコフ、渡辺雅司訳『亡命ロシア人が見た明治維新』、講談社学術文庫、1982年、25頁。

*9  相田重夫、『帝政ロシアの光と影』(『人間の世界歴史』、第12巻)、三省堂、1983年、128頁。

*10  井上清、『明治維新』、(『日本の歴史』、第20巻、中央公論社、200頁)。

*11  福沢諭吉の文明観については、高橋「日本の近代化とドストエーフスキイ――福沢諭吉から夏目漱石へ」参照。(『日本の近代化と知識人』、東海大学出版会、2000年、所収)。

*12  川端香男里『ロシアソ連を知る事典』、平凡社、1989年、520頁。

*13  『北村透谷選集』、勝本清一郎校訂、岩波文庫、212頁。

*14  色川大吉、『明治精神史』(上)、講談社学術文庫、175頁。

*15  司馬遼太郎、『本郷界隈』(『街道をゆく』第巻)、朝日文芸文庫、267~271頁。

*16 司馬遼太郎の夏目漱石観については、日本ペンクラブ電子文藝館に寄稿した「司馬遼太郎の夏目漱石観   ―比較の重要性の認識をめぐって―」を参照。

*17  立松和平、「足尾から『坑夫』を幻視する」、『夏目漱石:青春の旅』所収。

*18  司馬遼太郎の近代化観の変化については、高橋「『文明の衝突』と『他者』の認識――『坂の上の雲』における方法の変遷」(『異文化交流』創刊号、31~58頁、参照)。この考察は「司馬遼太郎における文明観の変遷と沖縄――周辺文明論の視点から」(『文明研究』第20号、2001年)へと受け継がれ、拙著『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、2002年)の第2章と第3章として収録されている。

*19  勝田吉太郎、『神なき時代の預言者――ドストエフスキーと現代』、日本教文社、昭和59年、44~6頁。

*20  松本健一、前掲書、198頁。

*21 拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、2002年、125~126ページ、および注に挙げた文献を参照。

*22  『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、53頁。

*23  引用は、前田哲男、『戦争と平和――戦争放棄と常備軍廃止への道』、ほるぷ出版、156頁による。

*24  神川正彦、「比較文明学という学的パラダイムの構築のために」(神川正彦、川窪啓資編、前掲書『講座比較文明』第1巻、6~9頁、180~181頁)。

 (『東海大学外国語教育センター紀要』第21輯、2000年)

 

追記:再掲に際しては、人名の表記を現在のものに統一した他、文体や注の記述なども改訂した。

テキストからの逃走――小林秀雄の「『白痴』についてⅠ」を中心に (発表要旨)

 

作家の坂口安吾が、戦後間もない1947年に著した「教祖の文学 ――小林秀雄論」で、「思うに、小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ」と書き、小林秀雄が「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったと厳しく批判したことはよく知られている(『坂口安吾全集 5』、筑摩書房、1998年、239~243頁)。

しかし、小林秀雄とも同人誌『文科』の同人だった坂口は、この評論において「日本は小林の方法を学んで小林と一緒に育つて、近頃ではあべこべに先生の欠点が鼻につくやうになつたけれども、実は小林の欠点が分るやうになつたのも小林の方法を学んだせゐだといふことを、彼の果した文学上の偉大な役割を忘れてはならない」とも記していた(同上、232~233頁)。

実際、「『未成年』の独創性について」(1933)と題された論考など初期の論考にはきわめて深いドストエフスキー作品の理解が見られ、また『カラマアゾフの兄弟』論(1941)における「この最後の作も、まさしく行くところまで行つてゐる。完全な形式が、続編を拒絶してゐる」との適確な指摘は、現在の通俗的な理解をも凌駕しているといえるだろう(『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、170頁。以下、全集からの引用に際しては旧漢字を新漢字になおすとともに、本文中の括弧内に頁数をアラビア数字で示した)。

それゆえ、本稿では小林秀雄が何も語らなかった黒澤映画《白痴》(1951)を参考にしながら、ドストエフスキーの作品と小林秀雄の評論とを具体的に比較することによって、小林のドストエフスキー論の意義と問題点を検証したい。

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最初に『永遠の良人』論と『未成年』論における小林の独創的な分析とその特徴を確認する。次に小林秀雄が「『罪と罰』についてⅠ」では、『地下室の手記』の主人公の言説とドストエフスキー自身とを結び付けることで、ドストエフスキーが前期の作品と訣別しそれまでの「理性と良識」を捨てたと主張したシェストフの『悲劇の哲学』からの強い影響を受け始めていることを明らかにする。

すなわち、「第六章と終章とは、半分は読者の為に書かれたのである」と書いた小林は〔53〕、この評論の終わりで「ドストエフスキイは遂にラスコオリニコフ的憂愁を逃れ得ただらうか」と読者に問いかけていたのである〔63〕。

次の「『白痴』についてⅠ」で小林は、『罪と罰』の終りで「作者が復活の曙光とよんでゐるものは、恐らく僕等が一般に理解してゐる復活、即ち精神上の或は生活上のどういふ革新にも縁のないものだ」とラスコーリニコフの「悔悟」を否定し、「ラスコオリニコフは生きのびて来たドストエフスキイその人に他ならぬ」と断言していた〔83~84〕。

このような小林の解釈は、戦争に向けて走り出していた当時の日本社会では多くの読者に受け入れられた。なぜならば、「非凡人」には「悪人を殺す」ことも許されると考えて「高利貸しの老婆」を殺害したラスコーリニコフが、シベリアで自分の罪を深く反省してしまっては、「自国の正義」のために「敵」と戦う「戦争」も否定されることになってしまうからである。

最も問題なのは、『罪と罰』との連続性を強調するために小林が「来るべき『白痴』はこの憂愁の一段と兇暴な純化であつた。ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」とテキストとは全く違う、読者の予想を超えるような大胆な解釈をしていたことである〔傍線引用者、63〕。

「『白痴』についてⅠ」もこのような解釈に従って記述されているが、シベリアから帰還したことになると、ムィシキンが治療を受けていたスイスの村で体験したマリーのエピソードがなくなることで、判断力がつく前に妾にされていたナスターシヤの心理や行動を理解することが難しくなる。さらには、ムィシキンが西欧で見たギロチンによる死刑の場面もなくなり、『白痴』における主要なテーマの一つである「殺すなかれ」というイエスの言葉と、近代西欧文明の批判も読者の視界から抜け落ちてしまうことになる。

『白痴』のテキストが具体的に分析されている「『白痴』についてⅠ」の第三章で、小林は「ムイシュキンの正体といふものは読むに従つていよいよ無気味に思はれて来るのである」と書き、簡単な筋の紹介を行ってから「殆ど小説のプロットとは言ひ難い」と断じている〔87~88〕。しかし、それはスイスでのエピソードが省かれているばかりでなく、筋の紹介に際しても重要な登場人物が意図的に省略されているために、ムィシキンの言動の「謎」だけが浮かび上がっているからだと思われる。

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研究者の相馬正一は、「教祖の文学」で「面と向かって評論界のボス・小林秀雄」を初めて「槍玉に挙げた」坂口安吾が、その直前に書いた「通俗と変貌と」(1947)でも、小林を「実は非常に鋭敏に外部からの影響を受けて、内部から変貌しつづけた人であり」、「勝利の変貌であるよりも、敗北の変貌であったようだ」と書いていたことを指摘している(『坂口安吾 戦後を駆け抜けた男』人文書館)。

領土問題などをめぐって近隣諸国との軋轢が強まっている現在、小林秀雄の評論が再び脚光を浴び始めている。本発表では坂口安吾のリアリズム観も紹介しながら具体的に小林の文章を引用しつつ論じることで、小林秀雄のドストエフスキー論の意義と問題点を明らかにしたい。忌憚のないご意見やご批判を頂ければ幸いである。(再掲に際しては、読みやすいように文体的な改訂を行った)。

黒澤映画《夢》の構造と小林秀雄の『罪と罰』観

 

はじめに――黒澤明と小林秀雄のドストエフスキー観

a、黒澤明監督の長編小説『白痴』観と映画《白痴》の結末

ドストエフスキーについて「生きていく上につっかえ棒になることを書いてくれてる人です」と語った黒澤明監督(1910~98年)は、敗戦後間もない1951年に公開された映画《白痴》で、「真に美しい善意の人」を主人公としたドストエフスキーの名作をなるべく忠実に映画化しようとしていた。

それゆえこの映画のラストのシーンで黒澤は、綾子(アグラーヤ)に「そう! ……あの人の様に……人を憎まず、ただ愛してだけ行けたら……私……私、なんて馬鹿だったんだろう……白痴だったの、わたしだわ!」と語らせていたのである*1。

b、長編小説『白痴』の結末と小林秀雄の解釈

一方、全8章からなる「『白痴』についてⅡ」に、『白痴』の結末について考察した第9章を1964年に書き加えて『白痴』論を出版した文芸評論家の小林秀雄(1902~83年)は、そこで次のような言葉を記していた。

「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだろう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである。彼と、その心が分ちたいという希ひによつてである。『自首なぞ飛んでもない事だ』と殺人者に言ふのは彼なのである」*2。

c、黒澤明のドストエフスキー観と映画《夢》

つまり、長編小説『白痴』だけに対象を絞るならば両者のドストエフスキー理解は正反対だったのである*3。しかも、1975年に行われた若者たちとの対談で黒澤明監督は、「小林秀雄もドストエフスキーをいろいろ書いているけど、『白痴』について小林秀雄と競争したって負けないよ。若い人もそういう具合の勉強のしかたをしなきゃいけない」と語っていた*4。

黒澤監督は小林秀雄の『白痴』観に対する批判を評論という形では書いていないが、映画《八月の狂詩曲》には『白痴』のテーマが見られるし、映画《夢》以前の《野良犬》、《醜聞(スキャンダル)》、《天国と地獄》など多くの作品には、『罪と罰』のテーマが強く響いている*5。

それゆえ本発表では、映画《夢》と『罪と罰』との構造的な類似性を指摘した後で、主に第四話と第六話から第八話までの流れを詳しく分析することで、小林秀雄の『罪と罰』観との比較をとおして黒澤明監督のドストエフスキー理解の深さを明らかにしたい*6。

 

Ⅰ、『罪と罰』における夢の構造と映画《夢》

 a、映画《夢》の構造と『罪と罰』

「こんな夢をみた」という字幕が最初に示されるオムニバス形式の映画《夢》は、1990年に公開されたが、黒澤明監督はドストエフスキー作品の愛読者であったばかりでなく、黒澤映画のすぐれた理解者でもあった作家・井上ひさしとの対談「夢は天才である」で、ドストエフスキーの言葉がこの映画の構想のきっかけになっていると語っている*7。

実際、黒澤監督のノートには、小沼文彦訳で長編小説『罪と罰』に記された「やせ馬が殺される夢」の個所の次のような記述が書き写されていたのである。「夢というものは病的な状態にある時には、並はずれて浮き上がるような印象とくっきりとした鮮やかさと並々ならぬ現実との類似を特色とする…中略…こうした夢、こうした病的な夢はいつも長く記憶に残って攪乱され、興奮した人間の組織に強烈な印象を与えるものである」。

しかもこのノートには「夢というものの特質を把握しなければならない。現実を描くのではなく、夢を描くのだ。夢が持っている奇妙なリアリティをつかまえなければならない」という黒澤自身のメモも記されていた*8。

b、小林秀雄の『罪と罰』解釈と夢の重視

戦後の1948年に書いた「『罪と罰』についてⅡ」で小林秀雄も、「この長編は、主人公に関する限り、一つの恐ろしい夢物語なのである」と書き、「事件の渦中にあつて、ラスコオリニコフが夢を見る場面が三つも出て来るが、さういふ夢の場面を必要としたについては、作者に深い仔細があつたに相違ないのであつて、どの夢にも、生が夢と化した人間の見る夢の極印がおされてゐる」と記している(小林、六、228)。

c、「やせ馬が殺される夢」とその後の二つの夢の関連性

実際、黒澤明が書き写していた『罪と罰』の夢についての考察の個所では、主人公のラスコーリニコフが、殺人の前に見る「やせ馬が殺される夢」を見た後で「高利貸しの老婆」を殺害して金品を奪うという自分の計画が「算術のように正確だ」としてもそんなことは決してできないと強く感じたと描かれている*9。

ただ、小林はエピローグにおける「人類滅亡の悪夢」について、「彼(引用者注――ラスコーリニコフ)は、犯行後、屋根裏の小部屋でも、これに類する夢を見たかも知れぬ」と書いているが、個々の夢はそれぞれ深く結びついており、それにつれて「殺すこと」についてのラスコーリニコフの認識も深まっているのである。

d、映画《夢》の構造と土壌の描写

この意味で注目したいのは、八話からなる映画《夢》は一見するとばらばらのテーマが描かれているようにも見えるが、「まあ、全部読んでいるわけじゃないんですけど、やっぱり私の基本となっているのは、ドストエフスキーとチェーホフですね」と語った作家の井上ひさしが*10、黒澤明との対談ではこの映画について「まず水と土の扱いに感動しました」と語っていることである(大系、三、374)。

すなわち、第一話「日照り雨」では、五歳くらいの主人公の「私」が森に行くと、「杉の大木の木立ちの間を縫って、しっとりとした、腐植土のたっぷりある、何を植えてもよく育ちそうな地面の黒い道が見えてくる」と指摘し、さらに第二話「桃畑」でも「少年の『私』が少女を追いかける竹林の中の小道、そこの土がすばらしい。竹の葉が何年も積もってふかふかの土」と語り、さらに第三話「雪あらし」では「雪が主人公です」が、「岩が、なにか頼もしいものとしてチラッと見えます」と指摘している。

井上ひさしは、第五話「鴉」に続いて描かれる第六話「赤富士」と第七話「鬼哭」には、「ものすごいイヤな土が出てきます」と指摘した後で、第八話「水車のある村」で、「もう一度、すばらしい土があらわれる」と語っている。映画《夢》について語られたこの言葉は、後に見るような『罪と罰』の構造をも説明しているように見える。

e、ペテルブルグの「壮麗な眺望」とシベリアの「鬱蒼たる森」の謎

『罪と罰』の冒頭近くで犯行後にネヴァ河の川岸にたたずんだラスコーリニコフが「大学に通っていた時分」に河の向こう側に広がる寺院のドームや宮殿などの「壮麗な眺望」から「なぜとも知れぬうそ寒さ」を感じていたことや、彼がこの「何かすっきりと割りきれぬ自分の印象に驚きに似た気持ちを感じ」つつも、「その解明を先にのばしてきた」と描かれている。

殺害の後で、血で「汚した大地に接吻」して自白しなさいというソーニャの言葉を受け入れたラスコーリニコフが、流刑地のシベリアで「人類滅亡の悪夢」を見る前には、「ただ一条の太陽の光、鬱蒼(うっそう)たる森、どこともしれぬ奥まった場所に、湧きでる冷たい泉が」、なぜ囚人たちにとってそれほど重要な意味を持つのかが分からなかったことも記されていたのである。

 

Ⅱ、『罪と罰』の「死んだ老婆が笑う夢」と第四話「トンネル」

a、復員兵の悲鳴と「戦死した部下」たちの亡霊

映画《白痴》は戦場から帰還した主人公の復員兵(亀田・ムィシキン)が、北海道に向かう青函連絡船の三等室で、戦争犯罪で死刑を宣告されるという悪夢にうなされて悲鳴をあげるという冒頭のシーンから始まる。

そして、近くにいたジャンパーの男(赤間・ロゴージン)に「何て声出しやがるんだア」と言われると、「す、すみません……夢を見たもんで」と語り、さらに「いま、銃殺されるとこだったんです……僕、よくその夢を見ます……実は僕、戦犯で死刑の宣告されたもんですから……」と説明したのである(黒澤、三、75)。

一方、第四話の「トンネル」は、古ぼけた戦闘帽にゴム長靴をはき、色あせた将校の外套を羽織った復員姿の「私」(寺尾聰)が、前方のトンネルに向かってひきずるような重い足取りでやってくる場面から始まる。

後に広島の原爆で亡くなった父を幽霊として娘の前に現出させるという戯曲『父と暮らせば』を書くことになる井上ひさしは黒澤明との対談において、「戦争から生還してきた「私」の前に戦死したはずの部下たち、野口一等兵や第三小隊の亡霊たちが現われる話」が描かれている第四話「トンネル」について、「あの大きなトンネルの中から湧いてくるさまよえる第三小隊のザッザッザッという軍靴の響きには圧倒されます。黒澤映画における効果音の凄さ、すばらしさは周知のことですが、今回の軍靴の響きは音であることを超えて、戦争そのものの象徴音として聞こえてきました。」と語っている(大系、三、375)。

そして、主人公の寺尾聰が演じている「私」を旅人である能のワキと指摘し、「野口一等兵と第三小隊が怨霊物、亡霊で、つまりシテです。そしてトンネルが橋掛かりで、あの敗戦直後の日本の地面によくあった荒れて水たまりのある土が能舞台ですね。電柱が松の古木。背後のコンクリの、急な土手は松羽目のように見えてきます」と続けた井上は、「もっというとこのエピソードは夢幻能なのだと思います。夢の話の中に夢幻能をはめこんである」とし指摘して、「正直にいって、全黒澤映画で、もっともすぐれた場面です」と続けている。

b、「死んだ老婆が笑う夢」と幽霊の話

一方、『罪と罰』で「高利貸しの老婆」の殺害を正当化していたラスコーリニコフは、夢の中で再び老婆の部屋にいる自分を見出し、まだ老婆が生きていることに愕然とし、脳天目がけておのを打ちおろすが、現実とは異なり老婆はびくともしない。そして、最初は静かに笑っていた老婆は、ラスコーリニコフが力まかせに殴り始めるとついには全身をゆすぶって笑い出したのである*11。

しかも、恐怖に襲われて目覚めた彼の枕元に座っていたのが、「強者」にはすべてのことが許されると考えていたスヴィドリガイロフであり、彼はあたかもラスコーリニコフの悪夢を見ていたかのように、初対面の彼に自分の妻マルファの「幽霊」について語り始め、幽霊は実際に存在するのだが「ただ健康な人間には見えないだけだ」と主張した。それゆえ、「老婆の悪夢」はいわば負の意味でワキの僧のような役を演じているスヴィドリガイロフによって、「招魂」されたかのような印象さえ受けるのである。

ここで注目したいのはドストエフスキーが、後に老婆を殺したことによって「自分を殺したんだ、永久に!」とソーニャに語っていることである。この夢は一見、非論理的に見えるが、殺された老婆の姿は彼の記憶にはっきりと刻み込まれて残ったのに対し、殺した側のラスコーリニコフの身体は自分自身に対して決定的な不和を示すようになったといえよう。つまり、ラスコーリニコフ自身の目は彼の犯罪をことごとく見つめていたのであり、彼の腕や指は、おのが老婆の脳天に当たった時の手ざわりや彼女の体から流れ出た血の感触をはっきりと覚えていた。それゆえ、目撃者をすべて殺そうとしたとき、彼は殺害の実行者である自分の身体を消さねばならなくなっていたといえるだろう。

c、「殺すこと」の考察と戦争の問題

さらにドストエフスキーは、本編の終わり近くで「兄さんは、血を流したんじゃない!」と語った妹のドゥーニャに対してラスコーリニコフに、「殺してやれば四十もの罪障がつぐなわれるような、貧乏人の生き血をすっていた婆ァを殺したことが、それが罪なのかい?」と問わせたばかりでなく、さらに自分が犯した殺人と比較しながら、「なぜ爆弾や、包囲攻撃で人を殺すほうがより高級な形式なんだい」と反駁させてもいた。

実は、『罪と罰』が発表されたこの年には、軍国主義的な傾向を強めていたプロシアがオーストリアとの戦争に勝利しており、ナポレオン三世下のフランスとプロシアとの間で大戦争が勃発する危険性が増していた。それゆえ、戦争で使用された爆弾に言及したこの記述には戦争によって「自分の正義」を示そうとすることに対するドストエフスキーの危惧がよく現れていると思われる。

こうしてドストエフスキーは、『罪と罰』において「殺すこと」の問題を根源的な形で考察していたのであり、「殺すなかれ」という理念を語る『白痴』の主人公は、このような考察とも密接に関わっていることは明らかだと思える。

d、「トンネル」における「国策」としての戦争の批判

第四話の「トンネル」では、戦争から復員してきた「私」(寺尾聡)が、四列縦隊を組んでトンネルの入口から出てきた兵隊たちにたいして、泣きながら、「すまん! 生き残った儂(わし)は、お前達に合わす顔もない。お前達を全滅させたのはこの儂の責任だ」と語るシーンが描かれている。

そこには戦意高揚を目的とした「国策映画」の製作にかかわってしまった黒澤の深い苦悩が反映しているだろう。それゆえ黒澤は、戦後には恩師山本嘉次郎との対談でも、「自らを含めた映画人の戦争協力とその責任について」次のような厳しい自己批判を行っていた。

「戦争中に協力してやってきたことに対しては、社会的には勿論、一個の芸術家としても、大変な責任があると思います。ああいう芸術のあり方は、本来あり得べきものではない。それに対して、戦わなかったということだけでも、責任だと思います。それを自分自身を欺瞞してやってきたことは、芸術家として大変恥ずべきことだったと思う」(大系、一、685~686)。

e、小林秀雄の戦争体験と『罪と罰』のエピローグ解釈

一方、1946年に座談会「コメディ・リテレール」で、トルストイ研究者の本多秋五から戦前の発言を問い質された小林秀雄は、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない」と語り、「必然性というものは図式ではない。僕の身に否応なくふりかかってくる、そのものです。僕はいつもそれを受け入れる」と続け、「僕のような気まぐれ者は、戦争中支那なぞをうろつき廻り、仕事なぞろくにしなかったが、ドストイエフスキイの仕事だけはずっと考えていた」と結んでいた*12。

小林は戦後の1948年に書いた「『罪と罰』についてⅡ」でも、「物語は以上で終つた。作者は、短いエピロオグを書いてゐるが、重要なことは、凡て本文で語り尽した後、作者にはもはや語るべきものは残つてゐない筈なのである。恐らく作者は、自分の事よりも、寧ろ読者の心持の方を考へてゐたかとも思はれる」と断言していた。

だが、そうだろうか。次章ではこれまでの考察を踏まえつつ第七話「鬼哭」を分析することで、『罪と罰』のエピローグに記された「人類滅亡の悪夢」の意味を考察することにしたい。

 

Ⅲ、『罪と罰』の「人類滅亡の悪夢」と第七話「鬼哭」

a、エピローグの「人類滅亡の悪夢」とキューバ危機

ドストエフスキーは『罪と罰』のエピローグで、「鬱蒼たる森林」の意味を理解できなかったラスコーリニコフに「人類滅亡の悪夢」を見させていた。

それは、「知力と意志を授けられた」「旋毛虫」におかされ自分だけが真理を知っていると思いこんだ人々が互いに自分の真理を主張して殺し合いを始め、ついには地球上に数名の者しか残らなかったという「悪夢」である。

これは病院に入院したラスコーリニコフが体力と気力が衰えていたために見た夢であり、単なる妄想のようにも見える。しかし、終戦時の原爆の悲劇を記憶していた黒澤明監督は、冷戦下における軍拡競争の中でビキニ沖でアメリカの水爆実験で第五福竜丸が被爆するという事件が起きた後で撮った《生きものの記録》(1955)の最後のシーンでは、原爆を恐れた主人公が夕焼けの色をついに「地球が燃えている」と思い込む光景をスクリーンに描き出していた。実際に1962年にはキューバ危機で核戦争によって「世界が破滅する」という危険性も指摘されるようになっていたのである。

b、小林秀雄と湯川秀樹の対談と原爆の批判

この意味で注目したいのは、1948年の8月に小林秀雄が原子物理学者の湯川秀樹との対話で、いち早く原爆の危険性を鋭く指摘していたことである。

すなわち、「私、ちょうど原子爆弾が落っこったとき、島木健作君がわるくて、臨終の時、その話を聞いた。非常なショックを受けました」と切り出した小林は、「人間も遂に神を恐れぬことをやり出した……。ほんとうにぼくはそういう感情をもった」と語っていた。

そして湯川が「平和はすべてに優先する問題なんです。今までとはその点で質的な違いがあると考えなければいけない。そのことを前提とした上でほかの問題を議論しないといけない。アインシュタインはそういうことを言っている。私も全然同感です」と答えると、「私もそう思う」と同意した小林は、「科学の進歩が平和の問題を質的に変えて了ったという恐ろしくはっきりした思想、そういうはっきりした思想が一つあればいいではないか」と結んでいたのである*13。ここには科学技術の盲信に対する先駆的な指摘があったといえるだろう。

c、第六話「赤富士」の予言性と「人類滅亡の悪夢」

原子力発電の問題を鋭く提起していた第六話「赤富士」は、福島第一原子力発電所の事故を予言していたとして最近も話題になった*14。

一方、原爆の危険性についての深い理解を示していた小林は、『罪と罰』についてⅡ」では、シベリアの病院でラスコーリニコフが見た「人類滅亡の悪夢」について、「アジヤの奥地に発生してヨオロッパに向つて進む、嘗て聞いた事もない伝染病に、全世界の人々が犠牲になる」と紹介したあとで、「夢の印象はもの淋しく、悩ましく、ラスコオリニコフの心の中に反響し、長い間消えようとしないのが、彼を苦しめた」と書いている(小林、六、259~260)。

そして「ラスコオリニコフが夢を見る都度、夢は人物について多くのことを読者に語つてきた筈だが、当人が夢から何かを明かされた事はない」と断言しているのである。

しかし小林秀雄の同人誌の仲間であった作家の坂口安吾は、1947年6月に雑誌『新潮』に発表された「教祖の文学――小林秀雄論――」で戦前に書かれた小林のドストエフスキー論を高く評価しつつも、戦後に文芸批評の「大家」として復権した小林秀雄を、「生きた人間を自分の文学から締め出してしまつた」と批判し、「彼は骨董の鑑定人だ」と批判していた*15。

d、『罪と罰』の現代性と第七話「鬼哭」

『地下室の手記』を精緻に読み解いたイギリスの研究者ピースは、この作品では主人公が「弱肉強食の思想」や「統計学」さらには「功利主義」など近代西欧の主要な流れとなっていた哲学との対決をしていると指摘している*16。こうして雑誌『時代』に書いた諸論文や作品で当時の西欧の思想を厳しく批判していたドストエフスキーは、『罪と罰』においてこのような流行の思想に影響されて「高利貸しの老婆」の殺害を行ったラスコーリニコフの行動と苦悩を深く描き出すとともに、近代西欧の自然観とロシアの民衆的な自然観を鋭く対置させていたのである。

ラスコーリニコフの「復活」がこの悪夢を見たあとで起きたとドストエフスキーが書いていることに留意するならば、「高利貸しの老婆」の殺害を、敵国との戦争と同じ論理で考えていたラスコーリニコフは、「人類滅亡の夢」をみたことで「弱肉強食の思想」や自己を「絶対化」して「他者」を抹殺することを正当化する「非凡人の理論」の危険性に気づいたといえるだろう。

それゆえ、850万人以上の死亡者を出した第一次世界大戦後に、ヘルマン・ヘッセはドストエフスキーの創作を「ここ数年来ヨーロッパを内からも外からも呑み込んでいる解体と混沌を、これに先んじて映し出した予言的なものであると感じる」と高く評価していたのである*17。

そして第七話「鬼哭」で核戦争後の世界を描いた黒澤明監督も、「……馬鹿な人間が、地球を猛毒物質の掃き溜めにしてしまったんだ」と批判させている。それとともに、鬼が「俺たちは共喰いをして生きているんだ!」と語り、「俺みたいな一本角の鬼は、二本角や三本角の鬼の食い物になるしかない……人間だった時、権力を握って悪賢く図々しくのさばっていた奴等が鬼になってものさばってるんだ!」と続けている(黒澤、七、23)。

鬼のこの言葉は、ドストエフスキーが『罪と罰』がラスコーリニコフの犯罪とその後の苦悩をとおして明らかにしていた「弱肉強食の論理」が第二次世界大戦後の現代でも政治や経済の分野で重視されていることに対する鋭い批判を見ることができる。

 

おわりに――ラスコーリニコフの「復活」と第八話「水車のある風景」

こうしてラスコーリニコフは、病院で見た「悪夢」の「悲しく痛ましい余韻」に退院後も悩まされていたが、同じ頃にソーニャも病気にかかって数日間も訪れて来ないことが重なり、彼は彼女の不在を不安にも感じ始めていた。

ラスコーリニコフの「復活」が起きた暖かい日の朝をドストエフスキーは次のように描いている。彼は「丸太の上に腰をおろして、荒涼とした広い川面をながめ始めた。高い岸からは、広い眺望が開けていた。遠い向こう岸のからは歌声がかすかに流れてきた。…中略…向こうでは、時間そのものが歩みをとめ、いまだにアブラハムとその羊の群の時代が終わっていないかのようだった」。

そこにソーニャが現れると、「ふいに何かが彼をつかんで、彼女の足もとに身を投げさせた」と書いたドストエフスキーは、「とうとう、この瞬間がやって」きたと続け、彼らの「病みつかれた青白い顔には…中略…全き復活の朝焼けが、すでに明るく輝いていた」と書いている。

第六話「赤富士」と第七話「鬼哭」の夢をとおして、自然の力を無視する一方で人間の科学力を過信した人間の傲慢さを鋭く描き出した後で黒澤明監督も、一転して自然のすばらしさを描いた第八話「水車のある村」を置いているのである。

この「水車のある村」では、「鬱蒼とした森、その下を水を満々とたたえた小川が流れ、大小六つもの水車がゆっくり回っている。時間が止まったようなのどかさ」を描き出している。しかも、最後の場面では「カメラは、川底に沢山の藻が流れにゆらめく清冽な流れを映し出す」のである。

さらに、制作費などの条件で実現には至らなかったが、シナリオの段階では八つの話以外に三つの夢も描かれており、ことに最後には地球に平和が訪れるという「素晴らしい夢」も描かれていたのである。

ドストエフスキーは『罪と罰』でラスコーリニコフの信じていたような近代的な自然観の危険性とそこからの「復活」を文学的な方法で見事に示唆していたが、黒澤映画《夢》にはこのような『罪と罰』のテーマと構造が色濃く響いていると思われる。

 

*1 黒澤明『黒澤明全集』、岩波書店、第3巻、1988年、145頁。以下、全集からの引用に際しては、本文中の括弧内に巻数を漢数字で、頁数をローマ数字で(黒澤、三、145)というように記す。

*2 小林秀雄『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、340頁。以下、全集からの引用に際しては、本文中の括弧内に巻数を漢数字で、頁数をローマ数字で(小林、六、340)というように記す。なお引用に際しては、旧漢字は新しい漢字になおした。

*3 井桁貞義はこのことを「ドストエフスキイと黒澤明」ですでに指摘している。柳富子編著『ロシア文化の森へ ――比較文化の総合研究』第二集所収、2006年、676~677頁。

*4 黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、1999年、288頁。なお、『夢のあしあと』の366頁には、黒澤明と小林秀雄が歓談している写真が掲載されている。ただ、活字化された資料は残っていないが、堀伸雄はジャーナリストの龍野忠久の著書『パリ・一九六〇』(沖積社、1991)には、映画《蜘蛛巣城》(1957)の公開後にこの対談が行われていたことなどが記されていることを明らかにしている(『黒澤明研究会誌』第24号、232頁)。黒澤明・浜野保樹『大系 黒澤明監督』第4巻、講談社、816頁)。

*5 高橋『黒澤明で「白痴」を読み解く』、成文社、2011年、123~126頁、135頁。および同書に掲載した参考文献を参照。

*6 映画《白痴》の特徴については、「映画《白痴》と『イワンの馬鹿』」(『黒澤明研究会誌』第27号、2012年、92~119頁)でも考察したが、黒澤明監督と小林秀雄のドストエフスキー観との相違については、「小林秀雄のドストエフスキー観と映画《白痴》」というテーマで稿を改めて書く予定である。

*7 黒澤明、浜野保樹『大系 黒澤明』第3巻、講談社、2010年、収録。以下、大系と略して本文中に巻数と頁数を示す。なお、初出は『文藝春秋』1990年6月。

*8 都築政昭『黒澤明の遺言「夢」』、近代文芸社、2005年、18~19頁。

「黒澤デジタルアーカイブ」龍谷大学。www.afc.ryukoku.ac.jp/Komon/kurosawa/index.html

*9 ロシア語アカデミー版追加、訳は江川卓『罪と罰』、岩波文庫より引用。

*10 雑誌「チャイカ」(第三号)のインタビュー。高橋誠一郎「ドストエーフスキイと井上ひさし」『「ドストエーフスキイの会」会報』107号、1989年1月20日号。(『場 「ドストエーフスキイの会」の記録Ⅳ 1983~1990』、ドストエーフスキイの会編、1999年、244~245頁、再録)。

*11  高橋『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』、刀水書房、2000年、第7章「隠された『自己』」参照。

*12 「座談 コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」『小林秀雄全作品』第15巻、新潮社、2003年、34~36頁。

*13 小林秀雄「対談 人間の進歩について」、『小林秀雄全作品』第16巻 2004年、51~54頁。

*14 三井庄二「反核映画作家・反核論者の黒澤明」、堀伸雄「黒澤映画と『核』~その良心と怒り」(『黒澤明研究会誌』第25号)などを参照。

*15 『坂口安吾全集 5』、筑摩書房、1998年、239~243頁。および、相馬正一『坂口安吾 戦後を駆け抜けた男』、第5章「教祖・小林秀雄への挑戦状」、人文書館、二〇〇六年参照。

*16 Richard Peace,”Dostoyevsky’s Notes from Underground”,Bristol Classical Press, 1993.池田和彦訳、高橋編『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』

ノベル出版企画、二〇〇六年参照。

*17 ベレジーナ「ヘルマン・ヘッセの理解したドストエフスキイ」より引用、『ドストエフスキイと西欧文学』レイゾフ編、川崎浹、大川隆訳、勁草書房、1980年、230頁。

 

 追記;

発表に際しては、1,参考文献として注に示した以外の文献 2,映画《夢》の図版、3,黒澤明監督・小林秀雄関連年表を添付していたがここでは省いた。より詳しい年表は近く本ホームページの「年表」に掲載することにしたい。

なお、この時の発表では時間的な理由から、第一話から第三話までと第五話についての考察を除外していたが、『黒澤明研究会誌』第29号(黒澤明研究会40周年記念特別号、2013年3月)にはそれらの考察も加えて寄稿した。

本稿では、文体レベルの改訂を行うとともに、研究例会での感想などを踏まえて本発表の注の一部を変更するとともに、発表の内容をより正確に示すために「黒澤映画《夢》における長編小説『罪と罰』のテーマ」より改題した(11月6日)。

「主な研究(活動)」のページ構成

Ⅰ、 (ドストエフスキー、ロシア文学、堀田善衞、小林秀雄関係)

 Trutovsky_004

(26歳時のドストエフスキーの肖像画、トルトフスキイ絵、図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

 

Ⅱ、 (司馬遼太郎、正岡子規、近代日本文学関係)

Akutagawa_ryunosuke

(芥川龍之介の写真、Yokohama045、図版は「ウィキペディア」より) 

 

Ⅲ、市民講座と例会 

3-1,講演・市民講座(2011年~2017年)

3-2,講演・市民講座(2001年~2010年)

3-3,「ドストエーフスキイの会」例会一覧(第218回~第239回)