高橋誠一郎 公式ホームページ

国際ドストエフスキー・シンポジウム

第9回国際ドストエフスキー・シンポジウム(1995年)に参加して

今回の国際ドストエフスキー・シンポジウムは、1995年の7月30日から8月6日までオーストリアのガミングで、100名近い参加者を集めて盛大に行われた。今回の報告は郡伸哉氏にお願いして第5号の『ドストエーフスキイ広場』に掲載される予定なので、筆者は今回は降りるつもりだったが、なるべく新鮮なうちにそれとは重ならないような話題で報告して欲しいとのことだった。それゆえ、前回のシンポジウムなどと比較しながら、シンポジウムの周辺のことを中心に簡単に書いてみたい。

 

シンポジウムが行われたガミングは地図にも載っていない地名なので、初めは会長であり今回の主催者であるノイホイザー氏の勤めるクラーゲンフルト大学の一部のことを指しているのかと思っていた。しかし予想とは全くことなり、そこは山岳地域に近く小川が流れる美しい村だった。会場となった赤い屋根のきれいな修道院は泊まり込みでの会議などに使われているようで、このシンポジウムのすぐ後にはショパンの会が予定されていた。修道院に入りきれない者は近くのいくつかの民宿に泊まることとなった。筆者は車で送り迎えしてもらわねばならないほど遠くのところに当たり、初めのうちは運が悪いと思っていたが、きさくなおかみさんが用意する朝食もうまく、また途中の景色もきれいで後半からはゆっくりと歩いて通った。

こうして筆者はこの長い期間を、もっぱら宿泊所と会場の修道院の間を往復しながらドストエフスキーに集中して修道僧のような(?)日々を過ごした。時間的にも通常は9時30分から18時30分まで30分コーヒー・ブレイクと昼食をはさんでびっしりと予定が組まれ、白熱した議論が展開された。

今回のシンポジウムでは『カラマーゾフの兄弟』の解釈を主調として、下記のような多くのテーマが設定されていた。

1、『カラマーゾフの兄弟』の解釈

2、ドストエフスキーをめぐる文学理論の新しい試み

3、現在のロシアのイデオロギー的な論争におけるドストエフスキー

4、ドストエフスキーの歴史的文脈論的な研究

5、ドストエフスキーの詩学、およびドストエフスキイーと宗教

6、ドストエフスキーの作品の解釈

(1、初期作品、 2、『罪と罰』、 3、『悪霊』)

7、比較文学的な考察

(1、ロシア文学とドストエフスキー、 2、外国文学とドストエフスキー)

ただ、多くの発表が2セクションで行われたことについては前回も問題点が指摘されていたが、今回も参加者が多数だったためと議論に多くの時間を取ったために(25分程度の論文発表の時間の後に質疑応答に20分程度が取られていた)、ほとんどの発表が3セクションに別れ、時間的に重なって聞けない発表が多く出たのが、残念であった。

しかし、修道院の他にはこれといった名所もなく、テレビも新聞もないという好環境の中では、一日のすべての発表が終わった後でも討論や意見交換の時間は有り余るほどあり、この問題もおのずと解決を見たと言えるだろう。前回のオスロでは7月29日から8月2日と短くせっかく3年ぶりに再会した学者ともゆっくりと懇談する時間が少なく筆者もこの点に不満が残ったが、今回はガミング市長主催の晩餐会や閉会式後の晩餐など様々な機会に多くの研究者と心ゆくまでじっくりと話し合う時間が持てて有意義であった。

(シンポジウムの期間中にバスによるメルク修道院の見学とドナウ川沿いの小旅行が実施されたが、午前中の発表を終えてから真夜中の12時まで組まれていたために、ドイツ人は――実際はオーストリア人だが――、日本人と同様に勤勉すぎるという批判が一部から出されていた。しかし、このような不満もビールを飲みながらの夜の歓談にいつしか消え、皆満足して家路についていたようだ)。

私は「ドストエフスキーと『知恵の悲しみ』――良心の問題という視点から」という題名で発表した自分の論文の内容に関連して核実験の廃止も訴えたが、浮き世とは隔絶した環境の中で行われたとはいえ、このシンポジウムも世界の流れとは無関係ではありえなかった。たとえば、シンポジウムに参加しようとしたユーゴの学者に対して入国のビザが出されなかったことを雑談の中で知ったが、折からクロアチアの軍隊が自国内のセルビア人に攻撃をしかけていたこともあり、国連はセルビア人勢力には厳しいがクロアチアに対しては甘いといった批判もロシアや東欧の学者からは聞こえてきた。

また、チェチェンの問題に関連してロシア人の参加者からは、少なくとも軍隊ではもはやエリツィン大統領はまったく人気がなく、彼と比べればジリノフスキーの方がはるかに人気があるという発言もあった。なぜかと問うと、前者は一度もチェチェンに行かなかったが、後者は実際に行って兵士を励ましたからだと言う。そして、彼は経済状況の悪化の中で多くの庶民は政治に対して幻滅しており、政治家の理想の高さではなくどのように行動するかによって判断する傾向にあると分析し、それゆえ、エリツィンを批判して退官することになった元将軍でさえ今度の大統領選挙で勝つ可能性があるとのことであった。折からの日本の選挙の投票率の低さを思い出して身につまされながら聞いていたが、確かにロシアの将来はまだまだ楽観を許すものではないようだ。

今回の一番の特徴は、インドから参加した学者がヒンズー教や禅とドストエフスキーの思想を比較し、韓国から来た学者が朝鮮出身の文学者A・キムとドストエフスキーとの係わりを論じるなどアジアから多くの研究者が参加したことだろう。ことに日本からはこれまでの最高の7名の研究者が大挙参加した。しかも、印象的だったのは多くの学者がこのような事態を奇異なものとは捉えずに、むしろアジアや日本の実力からすれば当然のように受け入れていたことである。

このような状況を受けて木下豊房氏が「国際ドストエフスキ―学会」(IDS)の副会長の一人に選出され、また北海道大学の安藤厚氏が日本のコーディネーターに選出された。

次回のシンポジウムはニューヨークで開催されることが決まったが、今回を上回る方が参加されることを期待したい。また、筆者も何人もの学者から今度は日本でもぜひ開催して貰いたいとの要望を聞いたが、アジアにおけるドストエフスキーの受容などをテーマに日本でも開催すべき時期が来ているのかも知れない。

(本稿では肩書きは省略し、HPへの掲載に際しては人名と国名表記を一部、変更するとともに、文意を正確に伝えるために最低限の訂正を行った)。

(ドストエーフスキイの会「ニュースレター」第22号、1995年8月)

 

第7回国際ドストエーフスキイ・シンポジウム(1989年)に参加して

第七回国際ドストエフスキー・シンポジウムは「ドストエフスキーと二〇世紀」の大テーマの元にユーゴスラヴィア北部、スロヴェニア共和国の首都リュブリャーナで1989年の7月22日から29日にわたって行われた。

リュブリャーナは城のある丘を取り囲むように静かに流れるリュブニツァ川に寄りそうように広がる、古いドイツの城下町を思わせる美しい町である。今回、日本からの参加者はモスクワの長期滞在を終えたばかりの井桁貞義氏と私の二人だけであったが、私たちはモスクワと比べて豊富な品物やサービスの良さだけでなく、一年半で二〇倍にも跳上がるインフレにも驚かされた。しかし、この町の人々はインフレを気にするふうもなく、あちこちに点在する南国風のカフェには日暮れともなるといずこともなく若者たちが集まり、物静かに談笑していた

さて、シンポジウムは「ドストエフスキーと二〇世紀の歴史的現実」、「ドストエフスキーの作品における象徴とロシアの象徴主義者たち」、「ドストエフスキーと二〇世紀の宗教・哲学思想」、「ドストエフスキーと二〇世紀文学」、「二〇世紀の演劇及び芸術におけるドストエフスキー」の五つのテーマをめぐって発表や討論が行われ、ドストエフスキーが二〇世紀に与えた影響が詳細かつ、多面的に考察された。この他、夕食後には、「ドストエフスキー ――病気と芸術的創造」という題や「ドストエフスキーと黙示録」という題の二〇世紀末の現在を反映するような共同討議も持たれ、フロイトとドストエフスキーの関係を論じたものやチェルノブイリの原発事故を論じた報告者も出るなど白熱した論議が行われた。

ところで、今回も世界各地から八十名近い研究者が集ったが、ことにソ連からはG・フリードレンデル氏を始め、八名の研究者とレニングラードおよびスターラヤ・ルッサのドストエフスキー博物館の二人の館長が大挙参加した。そして、ソ連側の報告にはこれまでの伝統的な研究の他に、ドストエフスキーの作品が『われら』に及ぼした影響を論じたトゥニマーノフ氏の発表や、『悪霊』をとりあげて権力と潜称者について論じたサラースキナ女史の発表、そしてロシア・イミグラントたちの宗教的なドストエフスキー論を取り上げたベローフ氏の報告など、これまでの研究領域を大きく踏み出すものが見られた。研究者の一人は「ペレストロイカの時期だから来ることができた」と語ったが、確かにペレストロイカの動向はドストエフスキー研究にも無視しえない影響を与えているようだ。

今回は特に「ユーゴスラヴィアの日」が設けられ、「ドストエフスキーとユーゴスラヴィア文学」のテーマでユーゴの各共和国の研究者を中心に一〇本の報告が発表された。このような試みもまた各民族の独自性を尊重しようとするペレストロイカの流れと無関係ではないであろう。

だが、ペレストロイカでの歴史の見直しや個性や自由の再評価は、バルト三国を始めアルメニアなど各共和国で民族意識の昂揚をも生みだしており、前世紀の末に多くの流血と犠牲の上に民族の枠を越えた国家として成立した筈のソ連邦は、一世紀を経過して今世紀の末に再び民族の単位で分裂する危険性をすらかかえているように見えた。そして、民族問題はソ連邦にとどまらず、かつて私が遊学したことのあるブルガリアでもトルコ人の抑圧の問題が、そして開催地のユーゴでも各共和国間の対立が新聞で取り上げられていた。南スラヴの一都市で開かれたこのシンポジウムに、ソ連邦や東欧がかかえるこれらの問題がどのような形でドストエフスキーを通して論じられるのかということに私は強い関心と期待を抱いていた。そして、その期待は裏切られなかった。

シンポジウムの間中、私は多くの個性的ですぐれた名優たちがドストエフスキーという主題をめぐって演ずる劇場にまぎれこみ、筋書のない、時には思いがけぬ展開を見せる劇の観客になったような興奮につねにとらえられていた。たとえば、プログラムにはブラット湖への旅行が20ドルで組まれていたが、東欧やソ連の研究者からの強い批判が起き、ついには全員が無料で参加することになったことがある。マケドニアの学者から同じユーゴでもマケドニアとスロヴェニアでは3倍の貧富の差があり、20ドルというのは自分達にとっては大変な高額だと説明されて半信半疑だった私は、次にポーランドの研究者から彼の祖国では20ドルあれば一ケ月を裕福に暮せると聞かされて言葉を失った。びっしりと組まれたプログラムを終えた後、私たちは場所を変えてビールを片手にドストエフスキーやペレストロイカをめぐって話しつづけたが、その時すでに重大な出来事は丁度、チェーホフ劇のように舞台の外で起きていたのだろう。シンポジウムの幕がおりた八月に入ってから、今に至っても続く東欧の激動が始まったのである。

この意味で私が一番関心を抱いたのは、井桁氏が司会をされた「ドストエフスキーと二〇世紀の歴史的現実」の部会で発表したポーランドの研究者ラザリ氏の報告である。彼はドストエフスキーの「ナロードノスチ(国民性、民族性)」という概念を取り上げ、この概念が社会主義ソ連では初め否定的な形で捉えられていたが、スターリンの時代に復権し、文芸評論家たちによって重用されていたと分析したのである。氏の直後に立ったソ連側の報告者は気分を害して「ロシア語を理解しない参加者もいるようですから、私の報告は五分程で終わらせてもらいます」と語り、司会者から宥められるような一幕も生みだしたが、彼の報告は参加者の間で激しい反発や困惑を招いた。すなわち、ある者はドストエフスキーが侮辱されたと怒り、ある者はドストエフスキーの小説と評論は分けて論じるべきではないかと語った。しかし、東欧の研究者を中心に高い評価も得ていた。それは彼の指摘が現代の多民族国家ソ連や東欧圏の問題点をも突いていたからだろう。

さて、私は「ドストエフスキーと二〇世紀の宗教・哲学思想」の部会で「『罪と罰』における良心の概念の問題」という題で発表した。ベルジャーエフは「何びともドストエフスキー以前、彼ほどに良心の呵責と悔恨を研究したものはいなかった」と述べてその重要性を指摘したが、個々の作品における具体的な「良心」の概念の分析はあまりなされていないように見えたからだ。

長編小説『罪と罰』において、一見、良心は否定的な働きをしているかに見える。しかし、私たちは『罪と罰』が哲学書ではなく、小説であることに注意を払わねばならないだろう。単語「良心」は生身の体を持つ登場人物の口を通して様々な人間関係の中で語られるのである。さて、小説の冒頭で大学生は対話者に「我々は義務や良心をどう解釈しているのか」という問いを発しながら、自分の問いには答えていない。しかし、彼と同じような理論を有するラスコーリニコフは彼の言葉を補うかのように「非凡人」は「自分の内部で、良心に照らして、血を踏み越える許可を自分に与える」のだと語るのである。こうして、冒頭で発せられた大学生の問いは『罪と罰』全体を覆っており、ドストエフスキーは『罪と罰』の中で読者と共にラスコーリニコフの「良心」解釈について深い考察を行っているのである。

そしてこの点に注意する時、この長編小説では単語「良心」は様々な状況の元で何人もの人間によって語られ、しかもそれらの使用法では意味が異なっている場合もあることが明らかになる。たとえば、学生と将校との会話やラスコーリニコフとポルフィーリイとの対話の中での用法はよく知られているが、この他の緊張した会話の中でも「良心」は無視しえない役割を担っているのである。たとえば、母の手紙を読み終えたラスコーリニコフは、兄のために愛してもいない人物との結婚を承諾したドゥーニャのことを考えながら「おお、こういう場合我々は、自分の道徳的感情をも押さえつけてしまうし、自由も安逸も、はては良心までも、何もかも一切合財、ぼろ市にだしてしまうのだ」と考えている。一方、スヴィドリガイロフは、奥さんを殺したのはあなたでしょう、というラスコーリニコフに対して「自分の良心はこの点にかけては、しごく平静なものです」と語り、ドゥーニャにも彼女が兄のために自分の要求を認めて体を許しても「あなたの良心には、なにもやましいところはない」と説得している。一方、スヴィドリガイロフから兄の理論を聞いたドゥーニャは「でも、良心の呵責ってものが? そうすると、あなたは兄に道徳的な感情がまるっきりないと思っていらっしゃるんですね」と問い詰めているのである。

このように見ていく時、私たちはラスコーリニコフの「良心」の用法においても二つの対立的な概念と出会う。第一の概念はカントと同様に義務の概念と強く結びついている。それはそれ自体は何も悪いものではないが、間違った理論と結び付くことによって、ラスコーリニコフを犯罪へと追いやる。第二の概念は、道徳的感情と結び付いている。作者はラスコーリニコフの感触を正確に描き出しながら、彼の感覚が常に理性の決定に反対していたが、あまりに理性を高く評価したラスコーリニコフは自分の感情を軽蔑しそれに注意を払わなかったことを強調しているのである。

幸い私の報告は好意的な評価を受けたが、その理由の一つは冒頭で中国の事件に言及し「人が死ぬことを恐れるな。北京で十万人死んでも大丈夫だ。北京でこのような暴徒を完全に排除しなければ、将来に禍根を残す」という高官が語ったと伝えられる言葉と「……とにかく一億人の首だって、そう恐れるにはあたりません。なぜかと言って、呑気な紙の上の空想を追っていたら、百年ばかりの間に専制主義が一億どころか、五億人の首でも食い尽くしてしまいますからね」(江川卓訳)という『悪霊』のピョートルの言葉を比較しながら、ピョートルにも彼独自の良心の理論があったことを指摘したためかもしれない。

ドストエフスキーは『罪と罰』のエピローグで、自分だけが真理を知っていると思い込んだ人々がその真理を主張して互いに殺し合いを始め、ついにはほんの数人を除く全人類が亡んだという、すさまじい夢をラスコーリニコフに見させる。ドストエフスキーは「良心」理解が、誤った思い込みに陥った時の危険性を鋭く批判していたのであり、残念ながら地球が何回もゆうに消滅するだけの核兵器を有しながら、イデオロギーや宗教の違い、さらには民族のちがいなどによってなおも争いを続ける「現代」の持つ危険性を鋭く予言しえていたと言えるだろう。

総会では、人事と次期の開催地の問題が議題として取り上げられ、ノイホイザー氏が会長に選出され、日本側委員には木下豊房氏が再選された。また、次回は1992年の8月1日から5日までノルウェーのオスロで、開かれることが選挙の結果決定された。会議の席では、会の財政上の困難が指摘され、機関誌(“Dostoevsky Studies”)の購買を含めた会員の援助が求められた。なお、私たちは『ドストエーフスキイ研究』第三号と最近の例会会報を手渡したが、その時、それらは日本の「ドストエーフスキイの会」が活動していることを物語ってはいても、何が書かれているかを外国人には何も伝えていないということ、つまり、丁度経済力はあるけれども何を考えているかは分からない「無口な日本人」、あるいは閉鎖的な日本文化のイメージと重なるかもしれないということを痛感した。

実際にそのことを若い研究者たちから率直な批判もされた。確かに情報の点でも単に外国の研究を紹介する段階から、日本での研究をも積極的に外国に発信する機能も持つべき時期に来ているようだ。その年度のドストエフスキー関係の論文、書物一覧を載せるだけでなくその欧文訳や、さらに一歩進めて欧文の目次や論文のレジュメもこれからは掲載してもよいようにも思える。

シンポジウムを終え飛行便を待っていた私は、帰国の前夜レニングラード出身のトゥニマーノフ氏とともに川辺を歩いたが、その折、氏は「美しい川だ」という感慨をポツリと語った。以前、とうとうたるネワの流れと比較しながら、こんな小さな川では川という感じがしないなあという感想を語っていた氏の言葉に私はなぜか、大国ソヴィエトのペレストロイカの遅々たる歩みや民族問題に心を痛めるロシア人研究者の苦悩をも感じた。

リュブリャーナのシンポジウムで私は単に様々なドストエフスキー研究者たちと知り合うことができただけでなく、改めて現代社会の相互の緊密な係わりをも実感しえたように思う。民族問題を初め様々な問題を抱えるソヴィエトや東欧がこの後どのように進んでいくのか、ドストエフスキーの問題と共に見つめていきたい。(本稿では肩書きは省略した)。

(「第100回例会報告」、『ドストエーフスキイの会会報』第111号、1989年。『場 ドストエーフスキイの会の記録』Ⅳ、1999年に再掲。HPへの掲載に際しては人名と国名表記を一部変更するとともに、文意を正確に伝えるための最低限の訂正を行った