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ナポレオン

サンクト・ペテルブルクでの国際比較文明学会の報告

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はじめに

2003年9月16日から22日まで国際比較文明学会とそれに続いて学術研修旅行がサンクト・ペテルブルクの建設300周年を記念してロシアで開かれ、筆者は「日本におけるドストエフスキー受容ーーサンクト・ペテルブルクのテーマと方法としての対話」という発表を行った。

主な関心はサンクト・ペテルブルクとロシア文学との関わりを再考察するとともに、比較文明学の創始者の一人とも言われるダニレフスキーや文学作品において深い歴史的考察を行ったプーシキンやその伝統を受け継ぐドストエフスキーやトルストイなどの大作家を輩出しているロシアにおいて、比較文明学の大会がどのように受け入れられるかに強い興味を持ったからでもある。

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(アレクサンドル・ネフスキー大修道院の外観。図版は「ウィキペディア」より)

もう一つの関心は学会での発表が終わったあとに組まれていた学術旅行で、そこにはロシア建国の際の都市であるノヴゴロドやプーシキンゆかりの都市であるプスコフなどとともに、ロシア最古の都市として耳慣れない都市の名前も書かれており、きわめて強い関心をもった。

ただ、ロシアの経済が混乱から完全には脱し切れていない中で、国際比較文明学会と国立エルミタージュ美術館、ソローキン・コンドラチェフ研究所、ロシア科学アカデミー歴史部門などロシア側の5学術団体が共同して行うこのような規模での国際学会を果たしてきちんと乗り越えられるかにも強い不安もあった。実際、運営方法をめぐっては様々ないきさつがあったようで、最初の日程表とは異なるものとなり、レジュメを送ってからもそれに対する応答がほとんどなく、さらには送金先の銀行に対する情報がなく入金されるかどうかは確信がありませんと日本の銀行から言われたり、ビザも出発間際までとれるかどうかもわからないなど、多くの不安を抱えたままでの出発となった。

それゆえ、モスクワからの夜行列車でサンクト・ペテルブルクの駅に16日の早朝に着いて、出迎えの係りの人から報告者の名前が記入された正式な予定表を渡された時には、ほっとした。なぜならば様々な困難に直面して途中で参加を取りやめにした方も多いと聞いていたが、そこには多くの日本人研究者の名前があったからだ。

すなわち、後でロシア側の組織者からもらった資料によれば、ロシア人約110名の他に、外国からも、アメリカ、日本、アイルランドから4名、スイス、フィンランド、スペイン、韓国などから44名(同伴者を含む)が参加していたが、アメリカ人の19名に次ぐ14名の方が万難を排して日本から参加されていたのである。お名前を記してその労に報いたい。すなわち、伊東俊太郎夫妻、川窪啓資夫妻、服部英二父子、宮原一武夫妻、奥山道明、松崎登、犬飼孝夫と私の他に、サンクト・ペテルブルク大学大学院で研究中で通訳などの労も買ってくれた大高まどか氏とホームページで見て飛び入りで参加された藤原ゆりこの各氏である。

以下、このときの大会と学術旅行の模様を簡単に報告する(本稿では原則として敬称を略す)。

 

1,サンクト・ペテルブルクでの学会

宿泊のホテルは、ネヴァ川添いにありアレクサンドル・ネフスキー大修道院の向かいに位置する大きなモスクワ・ホテルであった。この大修道院にはドストエフスキーやチャイコフスキー、さらにモスクワ大学の創設者ロモノーソフなどの墓があるので、いわばロシアの歴史と直面しながらの学会となり、初日から船による市内観光が組まれており、時間的な制約のなかでの精一杯の歓迎ぶりがみられた。

2日目の午前中は、4つのグループに分かれて、国立エルミタージュ美術館、文化人類学・民族学博物館(クンストカメラ)、科学アカデミー・東洋学研究所、科学アカデミー物質文化史研究所などを見学し、専門員からの説明を受けた。

私はピョートル一世によって創設され、ロモノーソフなどとも関係が深い文化人類学・民族学博物館(クンストカメラ)を訪れた。残念ながら、日本人学校の教師ゴンザなどのデスマスクを見ることはできなかったが、日本人の研究者が多いのを知った係員からラクスマンからエカテリーナ二世に献上された漂流民・大黒屋光太夫ゆかりの品物などや日本にも訪れたことのあるラングスドルフがアメリカで収集した物品のコーナーなどの詳しい説明があった。

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(クンストカメラ。図版は「ウィキペディア」より)

国立エルミタージュ美術館での昼食を挟んで、美術館に納められているトラキアやギリシャの金製品の多くには専門の研究者も目をみはっていた。さらにこの後には噴水で有名なピョートル宮殿への小旅行が実施され、夜には主催者による晩餐会も用意されていた。

18日の10時から科学アカデミーの学術センター会議室で行われた発表は、「サンクト・ペテルブルクーー文明間の対話の都市」、「東西の諸文明と諸文化の交流におけるロシア」、「グローバリゼーションと文明の未来」の3つの部会に分かれていた。しかし、いずれの部会も同じ会議室で行われたことや、ロシア側の実行委員会の組織が5つの学術団体で組織されていたために、予想通りそれぞれの組織から多くの発表希望者が出たので、その場で発表時間を大幅に制限され、さらに質疑応答の時間も削られるなどの不備がでた。ただ、発表はロシア語と英語で行われ、英語には2名の同時通訳者がついた。また、直前まではレジュメが印刷されているかどうか分からずに心配していた資料集は、下記のような2冊の論文・レジュメ集の形で渡され、発表時間の不足の不備を補ってあまりあるものだった。

たとえば、『東西の諸文明と諸文化の対話におけるサンクト・ペテルブルク』と題された191頁からなる論文・レジュメ集には、編者の一人であるソローキン・コンドラチェフ研究所所長のヤコベッツ氏の論文「諸文明の対話と相互関係におけるロシア――歴史的経験と21世紀の展望」が巻頭を飾っており、それに続く「第1部 サンクト・ペテルブルク--諸文明と諸文化の対話の都市」と、「第2部 東西の諸文明と諸文化の相互関係におけるロシア」に、最初の二つの部会で発表された多くの論文のレジュメが収められていた。それゆえ、本書ではテーマの関係もあり、ロシア人の発表が多かったが、それらとともに東京が今年400周年にあたることを紹介しながら、佐久間象山におけるピョートル大帝の改革やプスコフの修道士プロフェイの「第三ローマ・モスクワ」説にも言及しながら、トインビーの視点からロシア文明の特徴を考察した川窪啓資氏の「比較文明学的観点から見たサンクト・ペテルブルク」や私のレジュメも載せられていた。

私の発表「日本におけるドストエフスキーの受容――サンクト・ペテルブルクのテーマと方法としての対話」では、2001年に千葉大学で行われた国際ドストエフスキー集会の模様などについても言及しつつ、日本の近代化と『罪と罰』の受容との関わりを分析して、第二次世界大戦の前には、「生存闘争」を自然の法則と捉えた主人公に対する共感をしめすような解釈もあったことを紹介した。それとともに、ドストエフスキーが文学における対話という手法をとることによって、単一的な声ではなく、「多声的」(ポリフォニー)な世界を描きだしていたことに注意を払いながら、そのエピローグでは主人公に「人類滅亡の夢」を見させることにより、それまでの「自己中心的な世界観」を批判していることを指摘した。

さらに、司馬遼太郎の長編小説『菜の花の沖』に言及しつつ、ロシアにナポレオン一世が侵攻した1812年に、戦争という手段の問題点を根気強く説明することにより、領海侵犯の咎などで捉えられていたゴロヴニーンの解放に成功し、日露間で生じていた「文明の衝突」の危機を救った商人・高田屋嘉兵衛の「対話的な方法」の意義を考察した。そして、後期の江戸時代が有した高い文化水準と多様性が、ゴロヴニーンの『日本幽囚記』によって紹介されたことが、後に来日してロシアの文化を伝えることになる宣教師ニコライにも大きな影響を与えたことを指摘して、江戸時代が有した多様性についても注意を喚起して、単一的な原理による「グローバリゼーション」の問題をも指摘した。

最後の第3部会「グローバリゼーションと文明の未来」で発表された論文のレジュメは、『グローバリゼーションと諸文明の運命――グローバリゼーションの新しいモデルと文明間の交流をめざして』と題され、4部からなる論文・レジュメ集に収められていた(総頁数322頁)。これは科学アカデミーのチモフェーエフ教授、ソローキン・コンドラチェフ研究所のヤコベッツ所長、ブレッドソー国際比較文明学会長の編になるもので、多くの論文には発表者の紹介とともに簡単なロシア語訳がつけられていた。

この本の構成で眼を惹いたのは、第1部には「国連総会決議 56/6(2001年9月9日)/ ユネスコ一般声明(2001年)、/ ロシア・イラン国際シンポジウム・アピール」などの文書が資料として載せられていたことである。さらに第4部では「著書紹介」として比較文明学関係のロシアの書物が紹介されていたことである。それはもう一冊の場合も同様で、その分野におけるロシアの「研究論文集紹介」も収められていた。

第2部として編集された「グローバリゼーションと文明間の対話」には、国際比較文明学の会員だけでなくチモフェーエフ氏の「グローバル化する世界における文明間の相互関係の諸問題」やボンダレンコ氏の「グローバル社会認識のための方法論諸相」など多くのロシア人の論文も掲載されていたが、経済関係の専門家が多かったせいもあり、このような視点からの「グローバリゼーション」の問題点を論じたものが多いとの印象を受けた。

ここでは、国際比較文明学の形成を論じたブレッドソー氏の「文明間の対話――トインビー、クレーバー、ソローキンとコンドラチェフ」に続いて、”文明交流圏”という考えの重要性を説いた伊東俊太郎氏の「文明の対話と”文明交流圏”」のレジュメが国際比較文明学会・終身名誉会長の肩書きの紹介とともに載り、また国連における「文明間の対話の試みやイランのハタミ大統領による提案などを紹介しつつ、そのような対話の重要な例としてのシルクロードの意味を論じた服部英二氏の「シルク・ロードと文明間の対話」が掲載されていた。

また、国連の活動に注目しながら、「不殺生・共存共生・公正」という3つの原則を説いた伊東俊太郎氏の提案にも言及した犬飼孝夫氏の「地球企業市民のための〈シヴィリゼーショナル・ミニマム〉とは? 国連グローバル・コンパクト」のレジュメや、第3部の「グローバリゼーションの時代における文化と宗教の対話」には、主に明治期における神道と国家神道との関わりを論じた奥山道明氏の「日本と西欧との対話および近代宗教制度の確立」が掲載されていた。

こうして、日本人研究者の発表はいずれも大きな関心をもって受け止められた。ただ、先にも記したように時間的な制限のために質疑応答の時間がなく、また、最後に第4部として予定されていた討議と会議総括の時間もあまりとれなかったのは残念であった。

しかし、その夜に日本人の研究者10人が集まってホテルのレストランで催された夕食会では、ロシアに対する様々な理解を「神話」と断じて新しいロシア像を示したヤコベッツ氏の「北西ロシアの過去とロシア文明の未来」というきわめて興味深い論文を取り上げた伊東俊太郎名誉会長の問題提起を受けて、ロシア文明の位置をめぐって質疑応答の時間のたっぷりある議論が交わされ、思いがけぬ「円卓会議」となり、楽しいひとときを持つことができた。実際、次節でみるようにこの論文は「ロシア文明の源」を訪ねた学術旅行へのテーゼの如きものでもあったのである。

2,学術旅行「北西ロシア――ロシア文明の源とその絶頂」

学会の後に組まれた旅行は、外国人向けの国内旅行に少し学問的な色彩を加えた程度のものかと最初は思っていた。しかし、ほぼ毎日開かれた「円卓会議」など、朝は8時から時には夜の10時半の夕食といったいささかハードなスケジュールの中で「ロシア国家の建国や理念」をめぐって、知的好奇心を刺激するきわめておもしろい論争や場所が示された。まず、スケジュールを掲げる。

9月19日 レニングラード攻防戦記念パノラマ館、スタラヤ・ラドガ――ロシア最古の都市で古代ロシア最初の首都、歴史的記念物と考古学的発掘の見学、文明の対話の方法(スタラヤ・ラドガ1250周年記念円卓会議)、ノヴゴロド到着

9月20日 ベリーキー・ノヴゴロド――歴史と文化の探訪、ロシア文明の歴史におけ るノブゴロド共和国(円卓会議)

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(ノヴゴロドのクレムリン。図版は「ウィキペディア」より)。

9月21日 プスコフ、イズボルスク、ウスペンスキー修道院のあるエストニア近くのペチョールィ訪問

9月22日 ロシア文明の西の前哨地点(プスコフ1100周年記念円卓会議)、プーシキンゆかりの地訪問、サンクト・ペテルブルク帰還

 

議論の焦点の一つは、これまでロシア最古の都市とされてきたノヴゴロドよりも古く、1250年前に創られたとされるロシア最古の町スタラヤ・ラドガ(Staraya Lagoda)の発掘現場と展示館の見学であった。

ロシアの建国にかかわる論争は、ピョートル一世によって創設された科学アカデミーに招かれたドイツ人の歴史家バイエルが『原初年代記』によって、ノヴゴロドがバイキングの一族であるバリャーグ族の長リューリクによって創られたとしたときから持ち上がっていた。これは日本の建国がそれまでいた民族ではなく、朝鮮からきた少数の「騎馬民族」によって形成されたとする江上波夫説を思いださせるようないわば「ロシアの騎馬民族説」論争ともいえるようなものであった。

ロモノーソフをはじめとするロシア人の歴史家は、平和的に招いたと書かれていたことや、その後のリューリク朝ではスラヴ的な要素が強いことなどから、すでにロシアが高い文化的水準をもっていたことを示してロシアの独自性を示そうとしてきたのである。しかしドストエフスキーもこのことに言及しているが、これまでの歴史的な研究からはバイエルによって指摘された「ロシア国家のバイキング起源説」を覆すのは難しいように思われていたのである。

これに対してスタラヤ・ラドガの発掘は、すでにノヴゴロドの建設に先立ってスラヴ的な要素の強い都市が造られていたことを示すものとして、高い関心を呼んでいるのである。たとえば、現在の発掘責任者のキルピチニコフ氏は、今回の発掘とロモノーソフの説の正しさを証明するのかとの私の質問に対して、たしかにこの発掘成果はロモノーソフの先見性を実証するものであると強く語った。この議論についての結論がでたのかとおもわれたのだが、ノヴゴロドで行われた「円卓会議」では、発見されたものは古いがしかしヴァイキング的な性格を持つとして、歴史学者から前日の結論に対する疑問が出されて、激しい議論となった。日本の王朝が朝鮮系の騎馬民族によって創られたとする江上波夫説に対する反発が強く激しい議論を巻き起こしたが、ロシアでもふたたび「ロシアの騎馬民族説」とでも名付けられるような議論がふたたび巻き起こっているのである。

さらにノヴゴロドやプスコフの「円卓会議」では、ハンザ同盟との関わりを論じた発表やプーシキンとミハイロフスコエ村との関わりが論じられるなど、「ロシア国家の理念」にかかわるもう一つの重要な議論もなされた。

すなわち、「ロシア最古の都市」であったノヴゴロドやプスコフは、国家の中心がキエフに移り、キエフ・ロシアが形成された後でも、ハンザ同盟に加入して、「ロシアの〈自由都市〉と呼ばれる共和政体の都市として発展し、政治的にもその後のロシア史上に例を見ない独自の一時期を画した」が、その後「分裂したロシアの再統一を進めるモスクワによって」、15世紀末から16世紀初頭にかけて次々と併合されていた(『ロシア・ソ連を知る事典』平凡社)。

これらの都市の独自性については、歴史家だけでなくロシアの改革を試みたデカブリストたちがが強い関心を抱いたことは知られているが、ロシア国家の統一性が重要視されるなかで、政治的な意味でこれらの都市にスポットライトがあてられることは少なかった。

しかし、これまではロシア最初の国家として位置づけられてきたキエフ・ロシアの中核をなしていたかつてのキエフ公国を受け継いだウクライナが独立し、新しい「ロシア国家の理念」が求められる中で浮かんできたのが、モスクワ公国にも受け継がれたキエフ・ロシアの専制的な政治原理とはことなる民主的な原理による「ノヴゴロド・ロシア」あるいは「北西ロシア」の理念なのである。

残念ながら、学術旅行への参加者は半数以下であり、日本人も私を含めて4人だったが、宮原夫妻とはロシア正教の現在をめぐって、犬飼氏とはロシアの自然環境問題などについて意見を交わすことができ、また個人的にも長い間の念願でもあったロシア民話に出てくる蜂蜜酒を古風なロシア風のレストランで飲むことができた。こうして、付随的だと思われていた旅行は、終わってみると私にとってはむしろこちらの方の収穫の方が大きかったとも感じられるほどに充実した内容であった。

 

結語

ロシアでの初めての国際比較文明学会は一般の外国からの参加者にとっては、様々なロシアの歴史的事物やエルミタージュ美術館などを訪れることができた一方で、かなりハードなスケジュールのために発表や質問時間が制限されたという不満も残ったようだ。

しかし、ロシア研究者である私にとっては、現在のロシアの政治・経済状況を知ることができるとともに、「ロシアの理念」が現在のロシアにおいて、どのように構築されようとしているのかをも知ることができ、きわめて有益な大会となった。

ただ、多くの外国人研究者の中でロシア語を話すのが筆者一人であったことや、単独行動主義的な原則を強めている現在のアメリカ政府に対する厳しい批判をしているフランスやドイツからの参加者が全くいなかったのはさびしかった。川窪国際委員長はかつて総会で、国際比較文明学会でも日本人が日本語で発表できるように通訳をつける制度を作ってはどうかと提案されたことがあったが、今回はロシア側の発表者が全員ロシア語で発表していたのが印象に残った。先に言及した国際ドストエフスキー学会ではロシア語の他にも英独仏の各言語の使用が認められているが、梅棹忠夫氏がフランスで国際交流の必要性を通訳をつけて日本語で語っていたことを思い起こすならば、文明間の共存と多様性の重要性を訴える国際比較文明学会においては、将来、日本語も含めた形での使用言語の多言語主義が考えられる時期にきているのかとも思った。

また、ロシア文明の独自性を強く主張する一方で、国連の「多元的な原理」をも重視しながら、新しい「グローバリゼーション」のモデルを探そうとする今回のロシア側の姿勢や戦略は、ブッシュ・ドクトリンの一元的な原理に従う傾向が強いように見える日本の戦略から見るときわめてしたたかに映った。また、今回の学術旅行も単なる研究活動とせずに、外国人の研究者に対してロシアの新しい観光旅行の魅力をもアピールする場ともなっていたのは、いささか功利的な色彩も少し感じたが、しかしそれはペレストロイカからロシアへの移行期の時期に、ロシアの経済が二流国へと低迷するようになったことへの厳しい反省の中で、なんとか自立的な形でロシアの経済を改革しようとする力強い試みの一環として評価できよう。

日本の比較文明学の創始者の一人である山本新は、トインビーの考察を深めることによって、日本とロシアにおける近代化を比較して「欧化と国粋」の問題に気づき、「100年以上の距離をおいて、二つの文明のあいだに並行現象がおこっている」と鋭く重い分析をした。この意味で筆者はこれまでロシアと日本の近代化の比較を中心に研究してきたが、日本の今後の方向性を考える上でもロシアの比較文明学(文化学)の状況を追っていくことはこの意味でも重要であろう。

今後ともロシアにおけるこのような研究の流れを注意深く見守っていきたいと思う。

(「サンクト・ペテルブルクでの国際比較文明学会報告」『文明研究』第22号、2003年。再掲に際しては、人名の表記や文体などを一部変更した)。

商人・高田屋嘉兵衛の自然観と倫理観――『菜の花の沖』と現代

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はじめに――『坂の上の雲』から『菜の花の沖』へ

『坂の上の雲』(1968~72)において、明治初期から日露戦争の終結に至るまでの激動の歴史を描いていた司馬氏はこの長編小説の後で、勃発寸前までに至った日露の衝突の危機を救った江戸時代の商人・高田屋嘉兵衛を主人公とした長編小説『菜の花の沖』(1979~82)を描いていた。

本発表では『坂の上の雲』をも視野に入れることにより、近代化の問題に鋭く迫った『菜の花の沖』の現代的な意義に迫りたい(ここでは配付資料に図版とリンク先を追加した)。

Ⅰ.『菜の花の沖』の時代と「江戸文明」の再評価

a.『菜の花の沖』の構造

単行本で6巻からなる長編小説『菜の花の沖』(文藝春秋)の前半では、淡路島の寒村に生まれた嘉兵衛が兵庫に出て樽廻船に乗って一介の炊(かしき)から身を起こして船持ちの船頭となり、航路を切り開き大船団を率いて、折から緊張の高まりつつあった北の海へと乗り出していくまでが描かれている。

そして、後半では厳しい封建制度の中で行動の自由を得、菜の花から作る菜種油を販売して財を成し、虐げられていたアイヌの人々と共に対等な立場で貿易を行い、箱館の町を発展させた嘉兵衛が一介の商人でありながら、戦争の危機を救うという重大な役割を果すまでが描かれるのである。

b.高田屋嘉兵衛(1769~1827)とその時代

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(高田屋嘉兵衛 (1812/13年)の肖像画。画像は「ウィキペディア」より)

『菜の花の沖』は主人公が生まれた淡路島の形状とその位置の描写から始まる。

「島山(しまやま)は、ちぬの海(大阪湾)をゆったりと塞(ふさ)ぐようにして横たわっている。…中略…わずか一里のむこうに本土の車馬の往来するのが見え、その間を明石海峡の急流がながれており、本土に変化があればすぐさま響いてしまう」(1・「都志の浦」)。

そのような例として「この話の主人公がうまれるすこし前」に、「六甲山山麓の住吉川、芦屋川などの急流ぞいに水車工場がうまれ」たと記した司馬氏は、「それまでは菜種油は高価なものであったが、この大量生産によってやすくなり、さらにはこの油を諸国にくばるために兵庫や西宮(にしのみや)あたりの海運業が栄えた」と説明している。それは貧しい農家の子供だった高田屋嘉兵衛が将来、海運業者として飛躍することになる背景でもあった。このことにより司馬氏は高田屋嘉兵衛がこの時期に忽然と現れた「英雄」ではなく、時代の流れのなかから生まれてきたことを明らかにしているのである。

c.高田屋嘉兵衛の自然観

司馬氏は兵庫の回船問屋堺屋で働き始めた頃の嘉兵衛についてこう記す。「この時期、嘉兵衛はおぼろげながらかれ自身が生涯をかけてつくりあげた哲学の原型のようなものを、身のうちにつくりつつあった。そのことは、かれの気質や嗜好と密接にむすびついている。潮汐や風、星、船舶の構造と同じように、嘉兵衛は自分の心までを客観化してしまうところがあった」。それは「つまりは正直ということであった」とし、「自分と自分の心をたえず客体化して見つづけておかねば、海におこる森羅万象(しんらばんんしょう)がわからなくなる、と嘉兵衛はおもっている」(1・「兵庫」)。

そして、「みずから持船を指揮し、松前(北海道の藩領地域)にのりだした」彼に次のように語らせている。「海でくらしていると、人間が大自然のなかでいかに非力で小さな存在かということを知る、という。海の人間のなかで、陸にいるような増上慢や夜郎自大のものはおらんよ、といった。陸には、追従で立身したり、人の褌ですもうをとって金儲けをする者がいるが、海にはおらんな。真に人間というものが好きになり、頼もしくなるというのも、海じゃな」。

この言葉はなにゆえ、なぜ高田屋嘉兵衛が当時奴隷のように虐げられていたアイヌの人々をも人間として接することができたかや、ロシア人との交渉においてなぜの彼の言葉が説得力を持ち得たのかをも明らかにしていると言えよう。

こうして「潮」と人間の観察を踏まえつつ、黒潮の流れにのって北海道にまでのりだした高田屋嘉兵衛の活躍を通して、そのような人物を生みだし得た「江戸文明」の意味を明らかにするのである。

d.高田屋嘉兵衛の蝦夷観と江戸時代の新しい知識人

注目したいのは、司馬氏が「江戸期はふしぎな時代であった。鉄の箱のように極端な鎖国社会を形成しながら、その箱のなかのひとびとの知的活動は、つねに唐(中国)と阿蘭陀(オランダ)の二つの異文化を日本と対置しながら物を考えるという癖があった」(3・「春信」)とし、江戸後期には「文明」と「野蛮」に分けて、「低地」をさげすむのではない工藤平助や高橋三平など第三の「知的なグループがすでに江戸に存在していた」ことにも注意を向けている(3・「箱館」)。

e.江戸時代の商取引と江戸時代の先進性

第四巻で司馬氏は、高田屋嘉兵衛が波濤を超えてクナシリ航路を開拓し、エトロフの地域での商業権を得て、商人としても飛躍する時期を描いている。江戸時代の商取引に言及した網野善彦氏も「遅れていたら商業や取引を自分たちの用語だけでやれる」はずはないと説明して、「『遅れている日本』というイメージは、明治政府によって作り出された虚像だ」と説明している。

 

Ⅱ.高田屋嘉兵衛の説得力――「江戸文明」の独自性

a.高田屋嘉兵衛とゴローニン(以下、司馬氏の表記に従う)の屈辱

司馬氏は嘉兵衛が捕らわれた時の状況をこう記している。「自由を奪われた嘉兵衛は、怒りのために全身の血が両眼から噴きだすようであり、それ以上にこの男を激昂させたのは、ロシア人たちがかれを縛ったことである。…中略…嘉兵衛の自尊心にはこれがたまらなかった。『縛るな』 ねじ伏せられながら、叫んだ」。

注目したいのは、司馬氏がここで高田屋嘉兵衛のこのシーンを描く前に、日本人が「一国の艦長を罠にかけ、けもののように縛り」あげたことや「囚人にとって苦痛をきわめた」、「逮捕・護送」についても詳しく記していたことである。

ここには「歴史的な事実」を一方の視点からだけ見るのではなく、他の視点からも描くという司馬氏の比較文明論的な視野がよく現れていると思える。

b.近代の「奇怪な国家心理」について

ゴローニンが江戸幕府に捕らえられるようになった時代的な背景を説明しつつ、司馬氏は、「 『国家』という巨大な組織は近代が近づくにつれていよいよばけもののように非人間的なものになってゆく。とくに、国家間が緊張したとき、相手国への猜疑と過剰な自国防衛意識」が起きるだけでなく、「さらには双方の国が国民を煽る敵愾心の宣伝といった奇怪な国家心理」も働くという分析を行っている。

c.高田屋嘉兵衛の決意

その一方で、司馬氏は高田屋嘉兵衛が「このままゆけば国家間の戦争になると憂えていたかもしれない」と記し、彼が『人質になった以上は、両国の和平のために、なんとかよき方向に持ってゆきたいのが心底です』と記したことに触れて、これは「一介の町人身分にすれば、江戸期の身分制的なふんいきから高く跳躍した物言い」であり、「この決意をした瞬間、船頭の嘉兵衛は歴史の上に、新しいあしあとを穿った」と記している。

d.高田屋嘉兵衛とナポレオン

 司馬氏が『坂の上の雲』において主人公の一人とした俳人の正岡子規は若い頃に書いた「筆まかせ」で比較の重要性を強調していた(近著『新聞への思い――正岡子規と「坂の上の雲」』人文書館、2015年が、それは夏目漱石の作品ばかりでなく、『菜の花の沖』にも見られる。ことに重要と思われるのは、嘉兵衛がロシア側に捕らえられたのと同じ年にロシアに侵攻してモスクワを占領したナポレオンの両者を比較して司馬氏が、「嘉兵衛はナポレオンと同じ年にうまれている」ばかりでなく、「両人とも島の出身だった」と記していることである。

さらに嘉兵衛が「欧州ではナポレオンの出現以来、戦争の絶間がないそうではないか」と語り、「扨々(さてさて)、恐敷事候(おそろしきことにそうろう)」と批判したことに注意を促した司馬氏が「ただ一人の友人しか持てなかった」ナポレオンと、「嘉兵衛の事情は異なっている」と続けていることを考慮するならば、ここでは日露両国の衝突の危険性を平和的に解決した高田屋嘉兵衛と武力によるヨーロッパの統一を目指したナポレオンの生き方とが比較されているのは明らかだろう。

e.高田屋嘉兵衛の上国観と「国政悪敷国」

司馬氏は嘉兵衛が、「わが国は軍事については、敵国の物を奪いとることは大法にて禁制になっています」と言い、言葉を継いで「日本と当国の軍制のちがいは、日本の場合、どういう怨みがあっても、自国を固めることはあっても、不法に他国を攻めるようなことがない」と伝えたと記して、「こういうことを大見得でもって言えたのは、江戸期の日本だったればこそであったろう」と続けた。

嘉兵衛がリコルドに「国政が悪い国家とは何か」という主題について、「愛国心を売りものにしたり、宣伝や扇動材料につかったりする国はろくな国ではない」と説いたとし、ここで「『国政悪敷国』というふうにやわらかい表現をつかっている」ことに注意を促した司馬氏は、「下国とか悪国ということばをつかわないのは、国に善悪などはなく、国政がいいか悪いかだけだという考え方が嘉兵衛にあるからだろうか」と記した。

f.『坂の上の雲』における戦争の批判

『坂の上の雲』において司馬氏は一九世紀末を「地球は列強の陰謀と戦争の舞台でしかない」と規定していたが、ここには戦争を絶えず生み続けた近代ヨーロッパの「国民国家」への鋭い批判を見ることができる。

実際、すでに『竜馬がゆく』において明治7年の台湾出兵や明治10年の西南戦争などでは利益をあげ、巨万の財を築くことになる政商・岩崎弥太郎を批判的に描いていた司馬氏は、『坂の上の雲』では、外国からの借金によって軍備の拡大と近代化を行ったことや戦争と経済の関係をこう分析していた。

「日本の戦時国民経済がほぼ平時とかわらなかったのは、主として外国の同情によって順調にすすんだ外債のおかげであった。結果としての数字でいえば日露戦争は十九億円の金がかかった。このうち外債が十二億円であったから、ほとんどが借金でまかなった戦争といっていい」(五・「奉天へ」)。

夏目漱石は日英同盟の締結に沸く日本をロンドンから冷静に観察していたが、司馬氏も『坂の上の雲』において「自国の東アジア市場を侵されることをおそれ」たイギリスが同盟国の日本に求めたのは、「ロシアという驀進(ばくしん)している機関車にむかって、大石をかかえてその前にとびこんでくれる」ことだと書いていたのである(七・「退却」)。

一時的な景気にはつながっても長い目で見れば、国家経済を破綻へと導くことになる戦争や兵器の輸出などの問題をこの記述は鋭く指摘していたといえる。

g.『本郷界隈』における『三四郎』の考察

夏目漱石は『三四郎』で日露戦争後の日本を厳しく批判した広田先生の言葉を描く前に、一人息子を日露戦争で失った老人の「一体戦争は何のためにするものだか解らない。後で景気でも好くなればだが、大事な子は殺される、物価は高くなる。こんな馬鹿気たものはない」という嘆きを描いていた。司馬氏は『三四郎』のこの文章を受けて「爺さんの議論は、漱石その人の感想でもあったのだろう」と書き、日本が「外債返しに四苦八苦していた」ために、「製艦費ということで、官吏は月給の一割を天引きされて」いたことに注意を向けている(『本郷界隈』)。

 

Ⅲ.「後期江戸時代」の再評価と新しい文明の可能性

a.ゴローニンの日本観

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(『日本幽囚記』の著者ゴロヴニーン。図版は「ウィキペディア」より)。

司馬氏は囚われの身であったゴローニンが、「『日本人こそ世界で最も凶悪な野蛮人だ』と、帰国後も叫びつづけることもできたし、ふつうの精神ならそのようにしたところで当然ともいえる」と記した後で、そうは記さなかったゴローニンの偉大さに司馬氏が触れている。

実際、ゴローニンは『日本幽囚記』で日本の教育を、「一国民を全体として他の国民と比較すると、私の意見では、日本人は天下で最も教育のある国民である。日本には読み書きのできない者や、自分の国の法律を知らない者は一人もいない。日本では法律はめったに変更されない」と絶賛している。

彼がイギリスで教育を受けていることを考えるならば彼の意見は重たく、ヨーロッパ文明の絶対視を越えて比較文明論的な視点から歴史を見ようとする新しさがある。

b.ケンペルの「鎖国論」

1690年にオランダ商館の医師として長崎に着任し、将軍綱吉にも三度の拝謁を許されたケンペルも「日本国民のやり方は全く背理の行為である」と一応は鎖国を批判しつつも、「日本人の模範例に」ならって各民族が鎖国をした場合には、不毛の土地を開墾できるだけでなく、「学問、技術、道徳の分野ではより更なる熱意と精勤を以て自己を陶冶し」、「子供の教育、家事全般には益々熱心に身を入れ」、「国民として最も幸福な状態の頂点に近づいてゆく」と絶賛していた(小堀桂一郎『鎖国の思想』中公新書)。

c.ヴォルテールの評価

江戸時代を遅れた時代とする見方になれた私たちには不思議な記述だが、重要なのはここで彼が「戦乱によって家屋や諸所の都市が破壊されたり、人間が殺戮され、国土が荒廃に帰した」西欧と比較していることであろう。上垣外憲一はケンペルの書物を読んだヴォルテールが「日本人は世界で最も寛容な国民である」と記していることに注意を払い、「同時代の西洋諸国が戦争に明け暮れていた」ことと比べれば、驚くべく永続的な平和を享受していたことも、評価されねばならない」と記している。

d.江戸時代後期における「公益」の感覚

この意味で注目したいのは司馬遼太郎氏が『菜の花の沖』において、自分の発明を公開した町人の発明家である工楽松右衛門の言葉として、「人として天下の益ならん事を計らず、碌(ろく)々として一生を過ごさんは禽獣(きんじゅう)にもおとるべし」という激しい言葉を紹介して、「この公益の感覚は、この時期よりもずっと後期の町人社会になるとよほどひろがってくる」と書いていることである(2・「松右衛門」)。

しかも、司馬氏は「嘉兵衛は商人(あきんど)というより仁者だ」言った幕府の役人高橋三平の言葉を紹介しながら、「たしかにそうであったろう」と続け、「商利や生産上の利益」を「息せき切って」追求し、「また使っている人間たちを利益追求のために鞭打つようなことをした場合、当人も使用人も精神まで卑しくなってしまう」(5・「嘉兵衛船」)と書いた。

つまり、最近になって強調されるようになった「公益」という思想は、すでに江戸後期の町人社会で成立していたのであり、それは「自己中心主義」や「自店中心主義」のみならず、「国益」を前面に出した最近の「自国中心主義」をも批判できるようなより厳しい形で成立していたと思える。

e.江戸時代における「軍縮と教育」

川勝平太氏も「江戸時代の日本人」が、「軍縮と教育とを柱とする『徳治主義』によってゆるやかな経済成長」を実現したことに注目して、「軍事にではなく、教育に投資をし、知的水準をあげることは、自国のみならず、地上のどの国においても圧制者の出現を許さぬ環境づくりになる」とし、「野蛮(戦争、環境破壊)の克服こそ文明の文明たる所以である」と強調している(『日本文明と近代西洋――「鎖国」再考』)。

 

結語 日本の伝統に基づいた「積極的な平和政策」の必要性

残念ながら、今年の9月には「安全保障関連法」が「強行採決」されて、原爆の悲惨さを踏まえたそれまでの日本の「平和政策」から「武器輸出」の推進へと舵が切られた。

しかし、『坂の上の雲』で機関銃や原爆などの近代的な大量殺戮兵器や軍事同盟の危険性を鋭く描いていた司馬氏は、高田屋嘉兵衛を主人公としたこの長編小説で、江戸時代における「軍縮と教育」こそが日本の誇るべき伝統であり、この理念を広めていくことが悲惨な「核戦争」から世界を救うことになると描いていたように思える。

 

参考文献

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高橋『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』のべる出版企画、2002年。

柴村羊五『北海の豪商 高田屋嘉兵衛』亜紀書房、2000年。

黒部亨『高田屋嘉兵衛』神戸新聞総合出版センター、2000年。

須藤隆仙『函館の歴史』東洋書院、1980年。

高田屋嘉兵衛とその時代については年表3、「司馬遼太郎とロシア」関連年表、参照。

 

あとがきに代えて──小林秀雄と私

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あとがきに代えて──小林秀雄と私

 

 「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論は、それまで高校の文芸部で小説のまねごとのような作品を書いていた私が評論という分野に移行するきっかけになった。原作の文章を引用することにより作品のテーマに迫るという小林秀雄の評論からは私の文学研究の方法も大きな影響を受けていると思える。

 『カラマーゾフの兄弟』には続編はありえないことを明らかにしていただけでなく、「原子力エネルギー」の危険性も「道義心」という視点から批判していた小林の意義はきわめて大きい。

 しかし「『罪と罰』についてⅠ」で、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と書いた小林秀雄が、「『白痴』についてⅠ」で「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない、シベリヤから還つたのだ」と記していたことには強い違和感を覚えた。

 さらに、小林秀雄のドストエフスキー論を何度も読み返す中で、原作から多くの引用がされているがそこで記されているのは小林独自の「物語」であり、これは「創作」ではないかという深刻な疑問を持つようになった。

 ただ、これまで上梓した著作でほとんど小林秀雄に言及しなかったのは、長編小説『白痴』をきちんと読み解くことが意外と難しく、イッポリートやエヴゲーニーの発言に深く関わるグリボエードフの『知恵の悲しみ』やプーシキンの作品をも視野に入れないとムィシキンの恩人やアグラーヤの名付け親など複雑な人物構成から成り立っているこの長編小説をきちんと分析することができないことに気づいたためである。

 『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、二〇一一年)でようやく黒澤監督の映画《白痴》を通してこの長編小説を詳しく分析したが、小林秀雄のドストエフスキー論について言及するとあまりに議論が拡散してしまうために省かざるをえなかった。

 少年の頃に核戦争の危機を体験した私がベトナム戦争のころには文学書だけでなく宗教書や哲学書なども読みふけり、『罪と罰』や『白痴』を読んで深い感銘を受けたことや、『白痴』に対する私の思いが揺らいだ際に「つっかえ棒」になってくれたのが黒澤映画《白痴》であったことについては前著の「あとがき」で書いた。ここでは簡単に小林秀雄のドストエフスキー論と私の研究史との関わりを振り返っておきたい。

 *    *  *

  小林秀雄は、戦後に書いた「『罪と罰』についてⅡ」で、「ドストエフスキイは、バルザックを尊敬し、愛読したらしいが、仕事は、バルザックの終つたところから、全く新に始めたのである」と書いた。そして、「社会的存在としての人間といふ明瞭な徹底した考へは、バルザックによつてはじめて小説の世界に導入されたのである」が、「ドストエフスキイは、この社会環境の網の目のうちに隈なく織り込まれた人間の諸性格の絨毯を、惜し気もなく破り捨てた」と続けていた。〔二四八〕

 しかし、知識人の自意識と「孤独」の問題を極限まで掘り下げたドストエフスキーは、バルザックの「社会的存在としての人間」という考えも受け継ぎ深めることで、「非凡人の理論」の危険性などを示唆していた。この文章を読んだときには小林が戦争という悲劇を体験したあとでも、自分が創作した「物語」を守るために、原作を矮小化して解釈していると感じた。

  それゆえ、修士論文「方法としての文学──ドストエフスキーの方法をめぐって」(『研究論集 Ⅱ』、一九八〇年)では、感覚を軽視したデカルト哲学の問題点を批判していたスピノザの考察にも注意を払いながら、社会小説の側面も強く持つ『貧しき人々』から『地下室の手記』を経て『白痴』や『未成年』に至る流れには、シェストフが見ようとした断絶はなく、むしろテーマの連続性と問題意識の深まりが見られることを明らかにしようとした。

  上梓した時期はかなり後になったが、厳しい検閲制度のもとで戦争の足音が近付く中で、なんとか言論の自由を確立し農奴制を改革しようとしたドストエフスキーの初期作品の意味をプーシキンの諸作品などとの関わりをとおして考察した『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、二〇〇七年)には、私の大学院生の頃の問題意識がもっとも強く反映されていると思える。

 ラスコーリニコフの「罪の意識と罰の意識」については、「『罪と罰』における「良心」の構造」(『文明研究』、一九八七年)で詳しく分析し、その論文を元に国際ドストエフスキー学会(IDS)で発表を行い、そのことが機縁となってイギリスのブリストル大学に研究留学する機会を得た。イギリスの哲学や経済史の深い知識をふまえて、『地下室の手記』では西欧の歴史観や哲学の鋭い批判が行われていることを明らかにしていたピース教授の著作は、後期のドストエフスキー作品を読み解くために必要な研究書と思える(リチャード・ピース、池田和彦訳、高橋編『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』のべる出版企画、二〇〇六年)。

 この時期に考えていた構想が『「罪と罰」を読む──「正義」の犯罪と文明の危機』(刀水書房、一九九六年、新版〈追記――『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』〉、二〇〇〇年)につながり、そこでラスコーリニコフの「良心」観に注意を払いつつ、「人類滅亡の夢」にいたる彼の夢の深まりを考察していたことが、映画《夢》の構造との類似性に気づくきっかけともなった。

 日露の近代化の類似性と問題点を考察した『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』(刀水書房、二〇〇二年)でも、雑誌『時代』に掲載された『虐げられた人々』、『死の家の記録』、『冬に記す夏の印象』などの作品を詳しく分析することで小林秀雄によって軽視されていた「大地主義」の意義を示そうとした。

 プーシキンの『ボリス・ゴドゥノフ』については授業では取りあげていたが、僭称者の問題を扱う予定の『悪霊』論で本格的に論じようとしていたためにこれまで言及してこなかった。今回、この作品における「夢」の問題にも言及したことで、『罪と罰』から『悪霊』に至る流れの一端を明らかにできたのではないかと考えている。

 「テキスト」という「事実」を自分の主観によって解釈し、大衆受けのする「物語」を「創作」するという小林の方法は、厳しい現実を直視しないで威勢のよい発言をしていた鼎談「英雄を語る」*などにおける歴史認識にも通じていると思える。このような方法の問題がきちんと認識されなければ、国民の生命を軽視した戦争や原発事故の悲劇が再び繰り返されることになるだろう。

 「『罪と罰』をめぐる静かなる決闘」という副題が浮かんだ際には、少し大げさではないかとの思いもあった。しかし、本書を書き進めるにつれて、映画《白痴》が小林の『白痴』論に対する映像をとおしての厳しい批判であり、映画《夢》における「夢」の構造も小林の『罪と罰』観を生涯にわたって批判的に考え続けていたことの結果だという思いを強くした。黒澤明は映画界に入る当初から小林秀雄のドストエフスキー観を強く意識しており、小林によって提起された重たい問題を最後まで持続して考え続けた監督だと思えるのである。

 時が経つと不満な点も出て来るとは思うが、現時点では本書がほぼ半世紀にもわたる私のドストエフスキー研究の集大成となったのではないかと感じている。

 黒澤明監督を文芸評論家・小林秀雄の批判者としてとらえることで、ドストエフスキー作品の意義を明らかにしようとした本書の方法については厳しい批判もあると思うので、忌憚のないご批判やご助言を頂ければ幸いである。

 

注 1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、「英雄とはなんだらう」という同人の林房雄の問いに「ナポレオンさ」と答えた小林秀雄は、ヒトラーも「小英雄」と呼んで、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語っていた。

戦争に対して不安を抱いた林が「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけると小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていたのである。この小林の言葉を聴いた林は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」との覚悟を示していた。(「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁((不二出版、復刻版、2008~2011年)。

(2014年5月3日、注の加筆:7月14日)

 

小林秀雄の『罪と罰』観と「良心」観

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小林秀雄の『罪と罰』観と「良心」観

一、

文芸評論家の小林秀雄は一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で、「惟ふに超人主義の破滅とかキリスト教的愛への復帰とかいふ人口に膾炙したラスコオリニコフ解釈では到底明瞭にとき難いがある」と「謎」を強調しつつ、「殺人はラスコオリニコフの悪夢の一とかけらに過ぎぬ」とし、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と続けていた〔傍線引用者、以下も同じ。『小林秀雄全集』、新潮社、第六巻、四五頁。以下、〔〕内に頁数のみを記す〕。

しかも、ラスコーリニコフの孤独感に焦点を当てながら、「漠然とした孤独の想ひは、事件をきつかけとして明らかに痛みを感ずる感覚と化して彼の心を貫いた。この暗い孤独感はラスコオリニコフにつき纏つて決して離れない」と記した小林は〔四八〕、ラスコーリニコフの自白を紹介した後では、「作者はどんなにあそこで何も彼も片づけて了ひたかつただらう。これから先き、気狂い染みた自首を行はせ、シベリヤに行くまでこの罰当りのお守りをしなければならぬとは、なんといふ面倒な仕事だらう。第六章と終章とは、半分は読者の為に書かれたのである」と書いた〔五三〕。

そして、スヴィドゥリガイロフとラスコーリニコフとの関係を分析したあとで小林は、「この小説で作者が心を傾けて実現してみせてくれてゐるものは、人間の孤独といふものだ」と書くことで、ラスコーリニコフの「良心」の問題を「孤独」の問題へと逸らしていた〔六二〕。

この意味で注目したいのは、太平洋戦争の直前の一九四〇年八月に行われた林房雄や石川達三との鼎談「英雄を語る」で、「英雄とはなんだらう」という林の問いに「ナポレオンさ」と答え、ヒトラーを「小英雄」と呼んだ小林が、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語り、トルストイには「やはり凡人を正しいとする確信があったのだね」と続けた小林は、「暴力の無い所に英雄は無いよ」とも語っていたことである(小林秀雄『文學界』第七巻、一一月号。不二出版、復刻版、二〇〇八~二〇一一年)。

これらの記述や発言には『罪と罰』論だけでなく、小林秀雄のドストエフスキー論全体にかかわる重要な問題があると思われる。

 二、

敗戦後の一九四六年に座談会「コメディ・リテレール」で、トルストイ研究者の本多秋五から戦前の発言について問い質された小林秀雄は、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない」と語っていた(傍線引用者、以下、同じ。『小林秀雄全作品』第一五巻、新潮社、二〇〇三年)。

しかし、先の鼎談で林房雄から「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問われて、「大丈夫さ」と答えていた小林は、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていた。

 さらに小林が「日本はその点で宗教的だネ、日本国家に対して実に宗教的で」と語ると、この言葉を聞いた林房雄は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる。天皇陛下を戴いて諸共に皆んな滅びてしまへば宣いと覚悟してゐる」との覚悟を示していたのである。

林房雄が語ったこのような歴史認識が日本を無謀な戦争へと駆り立てたばかりでなく、ミッドウェー海戦での敗北の後では国力の差から勝つ見込みが次第になくなったにもかかわらず、神風特攻隊や沖縄での地上戦などで、戦争を引き延ばすことにより多くの有為な若者を死にいたらしめていたといえるだろう。

そのことを思い起こすならば、日本を代表する「知識人」の一人であり、『罪と罰』論を書いた小林秀雄が、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した」と語り、「それについては今は何の後悔もしていない」と続けていたのはきわめて不自然と思われる。

 戦後に書いた「『罪と罰』についてⅡ」で、エピローグで描かれている「人類滅亡の悪夢」について、「ラスコオリニコフには、決して夢でも譫言でもなかつたからである。彼は、犯行後、屋根裏の小部屋でも、これに類する夢を見たかも知れぬ。何故なら、これは、彼の心の底に常にあつた烈しい倫理的問ひだつたからである」と指摘した小林は、「ラスコオリニコフが夢を見る都度、夢は人物について多くのことを読者に語つてきた筈だが、当人が夢から何かを明かされた事はない」と結論している〔二六〇~二六一〕。

 だが、果たしてそうだろうか。近著『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』(成文社)の第四章で詳しく分析したように、ドストエフスキーは『罪と罰』でラスコーリニコフにおける「罪の意識」の深まりを他者との関わりや「夢」をとおして驚くほど詳細に描いていたのである。

戦前に書いた『罪と罰』論において小林は、二人の女性を殺害したラスコーリニコフの「良心」観について、「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と書いていたが、それは「今は何の後悔もしていない」と語った評論家自身の「良心」観ときわめて似ていると思える。

 三、

同じことは、「原子力エネルギー」の危険性の認識についても当てはまるだろう。

一九四九年にノーベル物理学賞を受賞することになる湯川秀樹博士とその前年に対談した小林秀雄は、「私、ちょうど原子爆弾が落っこったとき、島木健作君がわるくて、臨終の時、その話を聞いた。非常なショックを受けました」と切り出した小林は、「人間も遂に神を恐れぬことをやり出した……。ほんとうにぼくはそういう感情をもった」と語っていた(『小林秀雄全作品』第一六巻、新潮社、二〇〇四年)。

 それにたいして湯川が太陽熱も原子力で生まれており「そうひどいことでもない」と主張すると、「高度に発達する技術」の危険性を指摘した小林は、「目的を定めるのはぼくらの精神だ。精神とは要するに道義心だ。それ以外にぼくらが発明した技術に対抗する力がない」と厳しく反論していた。

 そして小林は「科学の進歩が平和の問題を質的に変えて了ったという恐ろしくはっきりした思想、そういうはっきりした思想が一つあればいいではないか」と結んでいた。

 ここには科学者が陥る科学技術の盲信に対する先駆的な批判があり、「道義心」の視点から真実を見抜く観察眼と辛くても事実を見る勇気の必要性を強調した小林の主張は、専門家の湯川が後に「核兵器廃絶」を訴えた一九五五年七月九日の「ラッセル・アインシュタイン宣言」に署名するきっかけを作ったといっても過言ではないだろう。

 しかし、それだけの先見の明を持っていた小林は、「戦争」のときと同じように「原発推進」が「国策」となると、「原子力エネルギー」の危険性については完全に沈黙してしまう。

たとえば、『文學界』の創刊五〇〇号を記念して評論家の河上徹太郎と一九七九年に行った対談で、歴史の認識は「合理的な道ではない。端的に、美的な道だ」と、戦前や戦中と同じような発言をした小林秀雄は、その一方で同じ年に起きて世界を揺るがしたスリーマイル島での原発事故には全く言及していないのである(『考える人』春季号、新潮社、二〇一三年)。

 このような小林秀雄の歴史認識や「原子力エネルギー」の認識に対して黒澤監督が深い危惧の念を抱いて長編小説『罪と罰』を詳しく読み直したことが、映画《夢》の構造が『罪と罰』における「夢」の構造ときわめて似ている理由ではないかと私は考えている。

日本における『罪と罰』の受容――「欧化と国粋」のサイクルをめぐって

287-8

(高橋誠一郎『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』刀水書房の表紙。図版はオムスクの監獄)

はじめに  日本の近代化とナショナリズムの覚醒

明治9年(1875年、以下、年号は原則として西暦で示す)に、ベルツはその日記に、「これは最も不思議千万の事ではあるが--今日の日本人は、自身の過去に就いては何事も知る事を欲していない。教養ある人士も、過去に引け目を感じているのである」とし、「何も彼も野蛮至極であった」と言明した者や…中略…「我等は歴史を持って居ない、我等の歴史は今から始まるのだ」とまで断言する者までいるという驚きを記している*1。

だが、実はこのような自己の過去を否定するという精神の働きは、一部の日本人知識人の特殊性を物語るものではない。たとえば、社会学者の作田啓一は『個人主義の運命――近代小説と社会学』で、「ナポレオン戦争を支えたフランス民族のナショナリズム」では、「フランス革命によって到達した民主主義的な諸価値を世界に拡げること」を「彼らの使命」と説明している*2(以下、本書をKと略記し、本文中に頁数を示す)。

このような思想的潮流の中で、フランスの文明を普遍的な文明ととらえたロシアの思想家チャアダーエフは、ナポレオンを破った祖国戦争(1812)の後でも農奴制のような非近代的な制度が改革されないことに悲観し、ロシアはギリシア正教を受け入れたために「人類の普遍的な発展」から孤立したのだと厳しく批判した。こうして、それ以降ロシアでは発展のあり方をめぐって「欧化と国粋」の激しい対立が生まれることになったのである*3。

しかし、一方で「国民国家」の成立と自分たちを「普遍的な理念」の普及者として主張したフランスにおける民族意識の昂揚は、隣国ドイツやギリシア正教を国教とするロシアにおいては、激しい反発から自国の民族意識の高まりを生みだし、独自の「国民性」が求められるようになったのである。

それはロシアに限ったことではなく、いわゆる「文明開化」が求められた明治維新以降の日本でも近代化の過程における「西欧化と土着」の問題が起きてくるようになる。なぜならば、ベルツの「日記」が書かれる3年前に政府は、西欧諸国からの強い要望もあり、キリスト教の禁制をも解いており、西欧文明を学ぶ機会も大幅に拡大したが、自らの普遍性を主張する「近代西欧文明」自身が、それ以外の諸文明の独自性や意義を否定する働きをも担っていたのである。

「西洋崇拝による土着軽視」とその反発としての「国粋」思想の勃興の流れに注目した比較文明学者の山本新は、このサイクルが日本ではほぼ20周年で周期的に交替しているという説を唱えた*4。吉澤五郎は近著でこのような「西欧化と土着」のサイクルを分かりやすく図示しているが、興味深いのは、サイクルの高揚期や低迷期などの節目とドストエフスキー受容が不思議と一致していることである*5。

すなわち、松本健一は「ドストエフスキイが熱狂的に読まれた時代が過去に五度ほどあった」とし、①、1892年前後 ②、1907年前後 ③、大正期 ④、1934年から1937年 ⑤、1945年から1950年を挙げているのである*6。

以下、本稿では「個人主義のゆくえを考えることは、ナショナリズムのゆくえを考えることに通じる」(K.201)とした作田啓一の考察を踏まえながら、比較文明論的な視点から第二次世界大戦に到るまでに時期を絞って日本におけるドストエフスキー受容と「欧化と国粋」のサイクルの問題の係わりを考察し、「文明の衝突」を乗り越える可能性を探りたい*7。

第1節  ロシアの近代化とロシア文学の受容

明治維新の初期に東京外国語学校の教員として招かれていたメーチニコフは、岩倉具視、木戸孝允、副島種臣などの「維新を指導した少数の国家的人物」をはじめとする多くの人たちが、ピョートル大帝の「熱烈なファンである」と書いた*8。

彼の言葉は誇張のようにも思えるが、実際、明治維新に際しては「ざんぎり頭をたたいて見れば文明開化の音がする」と歌われたように断髪令が出されたが、ピョートルもロシア人の意識を変えるために、成人男性が生やしていたあごひげを切り取ることや衣服を西欧式に改めるなどの命令を発しているのである。さらに彼は「ペテルブルク市長に命じて、定期的に夜会をひらかせ、貴族たちが夫人同伴で出席することを義務」づけたが、「わが国の『鹿鳴館』の先駆」だったのである*9。

また、明治政府は1871年暮れに西欧文明を早急に取り入れるために、「一国の政権の最高首脳部の大半をあげて、先進文明世界を視察し、これから学ぼうとする」使節団を1年以上にわたって西欧に派遣したが*10。ピョートル大帝もロシアの内政が安定しないなか250名もの随員と留学生を連れて、一年半にわたる長い西欧視察旅行に出かけていた。さらに、1872年12月に明治政府はそれまでの太陰暦を西暦(グレゴリオ暦)に改めるという大改革を行ったが、ピョートル一世も年号を天地創造の日から数え、1年の始まりを9月1日としていたそれまでのビザンツ暦を、西暦に近いユリウス暦に改めていた。

こうして明治政府は「殖産興業」と「富国強兵」をめざしたピョートル大帝の改革をなぞるかのように息せき切って「近代化」を進めたのであった。幕末の1862年にロシアを訪れた福沢諭吉も、当時のロシアには厳しい評価をしたものの、元禄の頃に行われたピョートル大帝の改革については、「学校を設け海陸軍を建て」、「堂々たる一大国の基(もとい)を開き、今日に至るまで、威名を世界中に轟かせり」と記した*11。

ところで、作田啓一はデュルケームなどの考えによりながら、「近代政治史とは、さまざまの特権を持った中間集団を国家が打ち砕く過程」であり、「この闘争を通じて、中世的な共同態は衰退してゆき、それに代わって国家と個人が社会の有力な構造要素」となってきたとし、こうして「国家の成長に伴って個人主義が発展してきた」と説明している(K.90-93)。

このことは強大な西欧諸国との接触によって開国を余儀なくされた日本が、近代国家の成立をめざして行った改革を例に取れば分かりやすい。明治維新に際し、明治政府は廃藩置県をも断行し、藩にも自治を許すそれまでの幕藩体制というゆるやかな制度を取りやめて、強大な中央集権国家の設立を目指したのである。このような「近代化」を推進したのが、それまでの日本を「半開」とし、西欧を「文明」と位置づけた福沢諭吉であった。彼は『学問のすゝめ』(1872)において「唯学問を勤(つとめ)て物事をよく知る者は貴人となり、富人となり」と書き、さらに「専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり」として新しい西欧の学問を学ぶことが「立身出世」につながると強調したのであった。このような見方は、同時に新政府が欲していた方向性でもあり、同じ年に学制が発布され公的な義務教育が始まり、これ以降「わずか数年の間に2万6千余校という小学校ができ」ることとなった。こうして、身分や貧富に係わらず、「富国強兵」という国家の要望に答える能力を有した者には「立身出世」が可能となったのである。

だが、作田が書いているように、「近代化が進み、公的生活において人々が参加する集団の規模が大きくなり、官僚制化してゆくと、公私の二つの領域において、人々は相互に異質的な要求に直面することを余儀なく」される。なぜならば、「自己を発展させよという個性の命令に忠実な個人」は、「どの方向へ向かうかの選択」という「苦しい自己決定を行ったあとに、葛藤と不満とが待ち受けているかもしれ」ないからだからである(K,113~4)。

このような事態を日本もむかえた。「中間集団」の文化を否定する一元的な価値の上からの強制や「西欧化」を強要する「文明開化」への反発は、すでに徴兵反対一揆(1873)や佐賀の乱(1874)などの形で噴出し始めていた。それが、ベルツが日本人知識人への驚きを記した翌年の1876年3月に「廃刀令」が出されると、同じ年の10月には神風連の乱や秋月の乱、萩の乱などが頻発することになり、その翌年には国力を二分した西南の役が起きることになった。さらに、これらの乱が鎮圧された後は、今度は武器ではなく筆を持って政府批判を繰り広げる「自由民権運動」が盛んになったのである。

このことは、日本の文明開化よりも150年以上も早くロシアの近代化を行ったピョートル大帝の改革とそれ以降の歴史の流れにも現れた。ロシアではピョートル大帝の死後、強国としての位置を築く一方で、相次ぐ宮廷クーデターの中で特権を増やした貴族とは正反対に、農民の隷属化が進んで過酷な農奴制が確立していた。このような中、ロシアの知識人たちは、国家のさらなる近代化を目指すとともに個人の自由や民衆の権利を求める運動をも展開したのだった。

これに対応しているのが、ロシア文学の受容だろう。島崎藤村は『千曲川のスケッチ』の奥書において、「明治年代に入って言文一致の創設とその発達に力を添えた人々の骨折と云うものは、文学の根底に横たわる基礎工事であったとわたしには思われる」と書いている。このような困難な作業に大きな影響を及ぼしたのが、農奴制の問題を文学的な視点から鋭く批判したツルゲーネフの『猟人日記』の中の一編を言文一致体で訳した二葉亭四迷の『あひびき』である。

川端香男里は、ロシア文学が「1908年には翻訳の点数で英米文学を追い越し」ていたことに注意を促して、「昭和20年代までに世に出た作家や評論家でドストエフスキー、トルストイ、チェーホフから影響を受けなかった者はいない」と述べ、さらにロシア文学受容のピーク時について、ツルゲーネフは明治期、トルストイは大正期、そしてドストエフスキーは昭和期に入ってからとも指摘した*12。すなわち、官民挙げて日本が「文明開化」に精力を注いでいた明治には西欧派のツルゲーネフが流行り、日露戦争前後の時期からは平和論を唱えたトルストイの作品が好んで読まれたのであり、近代化の問題点が明白となり、近代西欧文明の批判の強まるとともに、ドストエフスキーが爆発的な広がりを見せたといえよう。

 

第2節  『罪と罰』の翻訳と北村透谷

内田魯庵が二葉亭四迷の助力を得て日本で最初に『罪と罰』を訳出したのは、1892年のことであった。だが、この時は充分な購買者数を得ることができずに、その前半部分を訳したのみで終わった。ただ、この時すでに鋭く本質的な理解を示した者に北村透谷がいる。

彼は「『罪と罰』の殺人罪」(1893)という書評において、ハムレットにも言及しながら、「最暗黒の社会にいかにおそろしき魔力の潜むありて、学問はあり分別ある脳髄の中に、学問なく分別なきものすら企つることを躊躇(ためら)うべきほどの悪事をたくらましめたるかを現はすは、蓋(けだ)しこの書の主眼なり」と喝破したのである*13。

しかし、このような透谷の言葉は単に彼の鋭い理解力を示すものではなく、「近代化」の流れの中での苦しい体験の結果でもあった。ラスコーリニコフの母親は息子に家名をあげることを望んでいたが、透谷の母も小田原藩藩士だった夫の禄高が、佐幕派だったために3分の1に減らされる中で、息子の「立身出世」を強く期待したのだった。さらに、ラスコーリニコフは「非凡人の理論」を編み出して高利貸しの老婆の殺害におよんだが、1884年の5月には、近隣の三郡百余村に金を貸付け、「負債人民からの憎悪の的であった」高利貸露木卯三郎が殺害されるという事件が大磯で起きていた。

注目すべきは、透谷がその末尾近くで大隈重信に爆弾を投げた来島や、来日中のロシア皇太子ニコライ二世に斬りつけた津田巡査などに言及しながら、「来島某、津田某、等のいかに憐れむべき最後を為したるやを知るものは、『罪と罰』の殺人の原因を浅薄なりと笑ひて斥(しりぞ)くるやうの事なかるべし」とすら述べていることである。

この言葉はドブロリューボフに言及した1862年のドストエフスキーの論評を思い起こさせる。ここでドストエフスキーは「深く神聖に真理を確信している」りっぱな人物が、「ただただ自分の高潔無比な目的を達せんがために」、誤った手段を取ることもありうるのだといい、問題は「彼が目的到達のために用いた手段に存する」ことは明瞭であると考察したのだった。このような考察は『罪と罰』などで、「十字軍」や「暴力革命」などの「手段」をも「正当化」した、「カトリック」や「テロリスト」への哲学的な批判として深化されていくのである。

透谷の考察は、「目的と手段」の問題を通じて「近代西欧文明」の問題の根元にも迫ろうとしたドストエフスキーの作品の本質にも肉薄していたのである。だが、ここでも透谷の理解は、「時代」とも深く係わっている。すなわち、1884年には朝鮮で「近代化」を推進しようとする独立党を押して内閣を作ろうとするクーデターが失敗した甲申事変が起きたが、この翌年には朝鮮での独立運動を支援するために、強盗をしてこの資金を得ようとした大阪事件が起きた。この時透谷は「自由民権運動」に係わっていた親しい友人から参加を求められていたのである。

色川大吉は、この事件の首謀者の論理が1873年に「単身韓国にのりこもうとした西郷の征韓論の論理」や「一国の人心を興起して全体を感動せしむるの方便は外戦に若(し)くものなし」と1878年に記した福沢諭吉の「通俗国権論の論理」と基本的にはほぼ共通しているとし、彼らには「封建的な事大党をたおして、開明的な独立党に政権をとらせ、朝鮮人民への連帯と友情をしめそう」とする姿勢もあったことに注目している*14。すなわち、彼らの論理には、ロシアの現状を打破するためにポーランドの独立運動にも理解を示したドブロリューボフたちの考えに近いものもあったのである。

だが、透谷はこのような「目的」を達するために、強盗のような「手段」を取ることには賛成できず拒否するという、ちょうど『悪霊』(1871~2)のシャートフ的な体験を有していたのであり、その後彼自身もキリーロフのように若くして自殺した。

 

第3節  近代化の深化と夏目漱石

夏目漱石が『三四郎』を書き上げたのは、1908年のことであった。この時期までに日本は急速な近代化を経て、日清戦争(1894~5)や日露戦争(1904~05)で勝利をおさめ、朝鮮での勢力を強めるなど「富国強兵」に成功していた。だが、ちょうどポーランドを分割し、コーカサスをも併合して領土の拡大に成功したロシアが、国家の強大化に反して民衆のレベルでは農奴化がかえって進んできたように、日本でも「強大な国権」への批判が下から噴出し、このころから価値の2分化が顕著になっていた。

このような近代化の苦悩を象徴的に物語っているのが、政府の派遣によりイギリスに留学し、帰国後に教鞭を取っていた東京帝国大学での職を辞して、近代日本の知識人の苦悩を描く小説を書くことになる夏目漱石だろう。

司馬遼太郎は『三四郎』について、「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と規定するとともに、「明治後、東京そのものが、欧米の文明を受容する装置になった。…中略…下部(地方や下級学校)にそれを配るという配電盤の役割を果たした」と指摘している*15。

この指摘は「ペテルブルグほど人間の心に暗く、激しく、奇怪な影響を与えるところは、まずありますまいよ」と語り、「これは全ロシアの政治的中心なので、その特性が万事に反射せざるをえません」と続けた『罪と罰』の登場人物スヴィドリガイロフの言葉を思い起こさせる。実際、ロシアの首都サンクト・ペテルブルクもピョートル一世により、西欧の科学技術を大幅に取り入れるために「西欧への窓」として建設されたのである。

しかも、司馬は1872年にできた「司法職務定制」により、「弁護士の前身といえる」「代言人という職と機能が」成立したことに注目し、それ以降、1881年に明治大学の前身である明治法律学校が出来たのをはじめ、英吉利法律学校(後の中央大学)や日本法律学校(後の日本大学)が次々と設立されていることに注目し、「明治は駆けながら法をつくり、法を教える時代」だったと規定している。

司馬遼太郎の読みは『三四郎』の社会的背景だけでなく、名門サンクト・ペテルブルク大学の法学部を中退した若者を主人公とした『罪と罰』の社会的背景をも説明し得ている。すなわち、主人公のラスコーリニコフの妹ドゥーニャの婚約者で、今まさに首都に法律事務所を開こうとしていた弁護士のルージンは「いろいろな新しい傾向とか、改革とか、新思想とか、すべてそうした」、「いっさいを残りなく見ようとするには、やっぱりペテルブルクにいなければなりません」と述べていたのである。

このようなルージンの「文明観」を、ラズミーヒンは「科学、文化、思索、発明」などの知識がロシアの知識人にはまだまだ未熟でありながら、それなのに「他人の知識でお茶をにごすのが楽でいいものだから、すっかりそれになれっこになってしまった」と鋭く批判する。このような彼の批判は、明治末期の1911年に「内発的」ではない日本の開化を厳しく批判した漱石の「現代日本の開化」という講演ときわめて似ている。

実際、福沢は日本が「開国20年の間に、200年の事を成した」と「文明開化」の成功を誇ったが、一方、漱石はすでに『三四郎』において自分と同じ年齢の登場人物広田に「明治の思想は西洋の歴史にあらわれた300年の活動を40年で繰返している」と「皮相上滑り」な「文明開化」を批判させたのである*16。

この意味で注目したいのは、『三四郎』に先だって朝日新聞に発表された二つの作品である。すなわち、『三四郎』が書かれる直前には、島崎藤村が北村透谷などの若者たちを主人公とした作品『春』を発表しており、さらにその直前には漱石が、足尾銅山をテーマにした『坑夫』という作品を発表していたのである。

立松和平はこの前年の1907年に「足尾銅山で鉱夫たちにより大暴動が起こり、軍隊が出動して鎮圧」されていたことに注意を向けて、「足尾銅山は、富国強兵の最先端を走っていた。…中略…日露戦争で使われた鉄砲の玉は、ほとんどが足尾で産出した銅を原料としていたといわれている」と指摘している*17。このような大量生産の結果、足尾では、現在の環境汚染の先駈けとも言える「鉱毒事件」が発生したのである。

このように見てくる時、「西欧文明を目的」とした福沢の「文明観」は、近代化を要請した「時代」の産物であり、一方、福沢よりも30年ほど遅れて生まれた漱石は、「文明開化」の結果発生した近代化の負の面をも見ねばならなかったと言える。

 

第4節  近代化の矛盾と「近代の超克」論

漱石は『三四郎』において広田先生に「いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね」と語らせ、このままでは「亡びるね」とさえ断言させていた。司馬遼太郎はこの言葉に注意を促して、「ひげの男の予言がわずか38年後の昭和20年(1945)に的中するのである」と記した*18。

そして、司馬は日露戦争後にロシアから充分な戦後補償を得られなかったことを不満として、日本各地で日本政府の弱腰を責めたてる「国民大会が次々に開かれ」たことを重視し、ことに放火にまで走った「日比谷公園に集まった群衆」こそが、「日本を誤らせたのではないか」と記している。そして、司馬は「ナショナリズムは、本来、しずかに眠らせておくべきものなのである。わざわざこれに火をつけてまわるというのは、よほど高度の(あるいは高度に悪質な)政治意図から出る操作というべき」だと鋭く批判していた。

ナショナリズムの加熱がどうしてこのような結果を招くかを、作田は社会学の視点から「大衆デモクラシーのもとでは、有権者の票の獲得にあたって、理性に訴える説得よりも、感情に訴える操縦のほうが有効であると言われるようになり、また事実、その傾向が強く」なったと説明している(K.110)。

ここで注目したいのは、作田が「個人の自尊心」と「国家の自尊心」とは深いところで密接に結びついていることを指摘して、「個人主義」だけでなく「個人主義の双生児であるナショナリズムも、自尊心によって動かされて」きたと指摘していることである(K.201)。つまり、お互いに自国の「正義」をかざして戦った第一次世界大戦では、フランスなどが勝って、「自民族」の優秀さを謳歌したが、それは戦争に敗れて経済的な打撃だけでなく、精神的にもドイツ人を深く傷つけてしまったのである。こうして、「自尊心」をも侮辱されたと感じた中で、ラスコーリニコフの「非凡人」の理論を「民族」にまで拡大して、「優秀な民族」は、「悪い民族」を滅ぼすべきだと主張し、ユダヤ民族の抹殺を謀ったヒトラーの理論が生まれてくることになったのである*19。

日本における『罪と罰』の受容の波が太平洋戦争へと突入する時期に高まったのも、このような流れと無関係ではない。松本健一は真珠湾攻撃の翌年に出版された堀場正夫の『英雄と祭典』にふれて、彼が『罪と罰』を「『ヨーロッパ近代の理知の歴史』とその『受難者』ラスコーリニコフの物語」ととらえ、「大東亜戦争を、西欧的近代の超克への聖戦」と見なしたことを紹介している*20。

むろん、このような読みは現在のレベルでの研究を踏まえた上での読みから見れば、きわめて問題があるが、このような「読み」には、時代的な背景もあった。ニーチェの思想から強い影響を受けたシェストフは、ドストエフスキーをも「超人思想」の提唱者であり、「悲劇の哲学」の創始者の一人としていたるとした*21。このようなシェストフの解釈が日本でも受け入れられる中で、優れた批評家であった小林秀雄ですらも、『罪と罰』のエピローグではラスコーリニコフは影のような存在に成っていると指摘して、書かれている彼の更生をも否定したのであった*22。

それは「近代人が近代に勝つのは近代によってである」とした小林の福沢的な近代観から導かれたものでもあった。こうして、堀場の理解は太平洋戦争の直前に「近代の超克」を謳ってなされた日本の著名な知識人たちによる討論のテーマや主張とも重なり合うものだったのである。

だが、ドストエフスキーは『罪と罰』において、「非凡人の理論」から殺人を犯したラスコーリニコフの悲劇を描くとともに、それに対抗する形でロシア正教の敬虔な信者ソーニャの苦難と彼女によるラスコーリニコフの救いを対置していた。そして、『地下室の手記』(1864)では主人公に、バックルによれば「人間は文明によって穏和に」なるなどと説かれているが、ナポレオン戦争や南北戦争では「血は川をなして流れている」ではないかと、「近代西欧の<知>」への鋭い批判を投げかけていた。実際、『戦争の社会学』によれば、すでに「フランス革命からナポレオン帝国の戦争」(1792-1815)の間に、「巻き込まれた人口は一億人。殺害されたものは200万人以上」だったのである*23。

こうして、お互いに他国によって滅ぼされないようにと「富国強兵」と武器の改良に励んだ結果、原子爆弾さえも製造されたことによって、第二次世界大戦では5000万人を越える戦死者を出すことになるのである。

作田啓一は「第二次大戦以降、自立ナショナリズムは、かつてヨーロッパに支配されていた諸民族のあいだにおいて燃え上がる」ようになったと指摘しているが、このような状況はオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊した第一次世界大戦前のヨーロッパでも起きたし、さらにソ連邦が崩壊した後にも、世界的なレベルでナショナリズムの高まりが起きている。そして、これに連動する形で最近の日本でも「国家」に価値を置くことによって、このような不安定さや混乱を回避しようとするナショナリズム的な発言や行動が多く見られるようになってきた。

だが、それは一時的には国内の矛盾を解決するかに見えるが、ひいては「国権と民権」の対立だけではなく、「国益と国益」との対決を引き起こして、ハンチントン氏が指摘するような第三次世界大戦につながる危険性を含んでいる。他方、作田は「超大国の自尊心は、核戦争の危機をかもし出す条件の一つとなって」いると指摘しているが、ソ連邦の崩壊とともに、核物質や核技術も海外へと流出した現在、大国ばかりでなく、小国でさえもが「自国の自尊心」から核戦争に到る危険性が出てきているのである。

比較文明学者の神川正彦は、「近代」の「学的パラダイム」が、ナポレオン以後に成立した国民国家を成立させている「ナショナリズム」と同じように、「ディシプリン(専門個別科学領域)の自律性」にもとづいた「単純化と排除のパラダイム」であると分析している*24。

「文明の衝突」が語られるようになった現在、近代的な古いパラダイムを克服して、「文明の共存」を可能にするような新しい「学的パラダイムの確立」が、焦眉の課題となっている。

 

*1 『ベルツの「日記」』、濱邊正彦訳、岩波書店、昭和14年、14~15頁、なお、引用に際しては新かな、新字体に改めた。

*2  作田啓一、『個人主義の運命――近代小説と社会学』、岩波新書、107頁。

*3  高橋「ヨーロッパ『近代』への危機意識の深化(1)――ドストエーフスキイの西欧文明観」参照。神川正彦、川窪啓資編、『講座比較文明』第1巻、朝倉書店、1999年、50~63頁。

*4  山本新、神川正彦・ 吉澤五郎編『周辺文明論ーー欧化と土着』、刀水書房、1985年。

*5  吉澤五郎、『世界史の回廊--比較文明の視点』、世界思想社、1999年、96頁

*6  松本健一、『ドストエフスキーと日本人』、朝日新聞社、昭和50年。

*7  本稿は、東海大学で行われた比較文明学会の公開シンポジウムで「『欧化と国粋の「サイクル』克服の試み――ドストエフスキーの受容と司馬遼太郎文明観」という題名で発表した論考(『比較文明』第16号、2000年、146~151頁)に、日本における『罪と罰』の受容と「欧化と土着」の問題に焦点を絞って、加筆したものである。なお、ドストエフスキーの訳は『ドストエフスキー全集』(新潮社)により、巻数と頁数を本文中に( )内に示す。

*8  メーチニコフ、渡辺雅司訳『亡命ロシア人が見た明治維新』、講談社学術文庫、1982年、25頁。

*9  相田重夫、『帝政ロシアの光と影』(『人間の世界歴史』、第12巻)、三省堂、1983年、128頁。

*10  井上清、『明治維新』、(『日本の歴史』、第20巻、中央公論社、200頁)。

*11  福沢諭吉の文明観については、高橋「日本の近代化とドストエーフスキイ――福沢諭吉から夏目漱石へ」参照。(『日本の近代化と知識人』、東海大学出版会、2000年、所収)。

*12  川端香男里『ロシアソ連を知る事典』、平凡社、1989年、520頁。

*13  『北村透谷選集』、勝本清一郎校訂、岩波文庫、212頁。

*14  色川大吉、『明治精神史』(上)、講談社学術文庫、175頁。

*15  司馬遼太郎、『本郷界隈』(『街道をゆく』第巻)、朝日文芸文庫、267~271頁。

*16 司馬遼太郎の夏目漱石観については、日本ペンクラブ電子文藝館に寄稿した「司馬遼太郎の夏目漱石観   ―比較の重要性の認識をめぐって―」を参照。

*17  立松和平、「足尾から『坑夫』を幻視する」、『夏目漱石:青春の旅』所収。

*18  司馬遼太郎の近代化観の変化については、高橋「『文明の衝突』と『他者』の認識――『坂の上の雲』における方法の変遷」(『異文化交流』創刊号、31~58頁、参照)。この考察は「司馬遼太郎における文明観の変遷と沖縄――周辺文明論の視点から」(『文明研究』第20号、2001年)へと受け継がれ、拙著『この国のあした――司馬遼太郎の戦争観』(のべる出版企画、2002年)の第2章と第3章として収録されている。

*19  勝田吉太郎、『神なき時代の預言者――ドストエフスキーと現代』、日本教文社、昭和59年、44~6頁。

*20  松本健一、前掲書、198頁。

*21 拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、2002年、125~126ページ、および注に挙げた文献を参照。

*22  『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、53頁。

*23  引用は、前田哲男、『戦争と平和――戦争放棄と常備軍廃止への道』、ほるぷ出版、156頁による。

*24  神川正彦、「比較文明学という学的パラダイムの構築のために」(神川正彦、川窪啓資編、前掲書『講座比較文明』第1巻、6~9頁、180~181頁)。

 (『東海大学外国語教育センター紀要』第21輯、2000年)

 

追記:再掲に際しては、人名の表記を現在のものに統一した他、文体や注の記述なども改訂した。