斬新な視点から「コジマ・プルトコフ」という架空のユーモア作家とドストエフスキーとの関係を考察した金澤友緒氏の論文については、「ニュースレター」では紙面の都合上あまり深く言及できなかったが、雑誌《ズボスカール》との対比や共作という視点からもたいへん興味深い論考であった(『ドストエーフスキイ広場』第22号)。
たとえば、文壇への復帰を願っていたドストエフスキーがトルストイの『幼年時代』に強い関心を抱いて「Л・Нとは誰のことか」と手紙で尋ねていたという指摘からは、オストロフスキーの作品に強い興味を示していた手紙のことを思い起こし、「プルトコフ」の生涯をとおしてこの時代をも浮かび上がらせていると感じた。
『ステパンチコヴォ村とその住民達』においてドストエフスキーが「プルトニコフ」の作品から引用するだけでなく、それに対する登場人物の反応を描いているとの指摘は、長編小説『白痴』においてプーシキンの詩『貧しき騎士』が果たしている役割にも通じており、ドストエフスキーの創作方法の一端をも明らかにしていた。
さらに論文を読み返しながら私が思い起こしていたのは、ベケートフ兄弟のサークルに接近した際に知り合ったペテルブルグ大学の学生で、詩人のプレシチェーエフ(一八二五~九三)とドストエフスキーとの関係のことであった。
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1,プレシチェーエフへの献辞
ドストエフスキーは、一八四七年の四月一三日から六月一五日まで五回にわたって『サンクト・ペテルブルグ報知』にフェリエトン『ペテルブルグ年代記』を連載したが、これはドストエフスキーだけの作品ではなく、プレシチェーエフとの共作であった。
きわめて興味深いのは一八四七年四月二七日のフェリエトンには、『白夜』に書かれることになる「夢想家」についての考察がすでにはっきりと見られることである。
つまり、そこには「自分のもっているいいところを現わす」手段がないと、人間は「酒で身を持ちくずしたり」、「トランプに手を出し」たり、さらには、「自負心で頭がおかしくなったりする」と指摘され、その文末近くでは「われわれはみんな多少とも夢想家ではないのか!」という特徴的な文章も記されているのである。
よく知られているように『白夜』は、「感傷的な物語」という副題の他にも、「夢想家の思い出より」という副題をも持っているが、研究者のコマローヴィチは「作品を献ずることにおいては概して吝惜の人であった」ドストエフスキーにはめずらしく、『白夜』には当初プレシチェーエフにへの献辞が掲げられていたことを指摘している。
すなわち、ドストエフスキーが献辞を付した作品は、兄ミハイルに捧げられた『虐げられた人たち』と姪のソフィアに捧げられた『白痴』、そして妻アンナに献じられた『カラマーゾフの兄弟』の三作と、『白夜』だけだったのである。
さらに、『白夜』が掲載された雑誌の少し後の号で発表されたプレシチェーエフの中編小説『友情ある忠告』でも主人公が「夢想家」であり、その内容が「酷似しているのは、何も驚くべきことではない」としたコマローヴィチは、「この二つの中編小説は、親友であった作者たちの同質の精神状態から生まれた」のであり、彼らの共通のテーマは疑いもなく「フランス・ユートピア思想の諸々のテーマ」だったと続けている。
このように見るとき、ドストエフスキーはニコライ一世の「暗黒の三〇年」と呼ばれる時期を、まさに詩「進め!」のように、プレシチェーエフとともに心を奮い立たせながら「手に手をとって」前へと進もうとしていたといえよう。
(拙著『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』、成文社、第4章「『白夜』とペトラシェフスキー事件事件」参照)
2, プレシチェーエフからの手紙
ドストエフスキーが逮捕された容疑の一つは、反ロシア的な文書とされていた「ベリンスキーの手紙」を朗読したことであったが、その手紙のコピーをモスクワで入手したのがプレシチェーエフであり、ドストエフスキーはそのモスクワから送られてきたそのコピーを翌年の四月に朗読し、その直後に逮捕されているのである。
こうして、ドストエフスキーはシベリア流刑という厳しい体験を強いられることになったのだが、かれらの交際は流刑後も続いていた。
劇作家のオストロフスキーの戯曲がドストエフスキーの「大地主義」の形成に大きな役割を果たしたことは、以前にこのHPでもふれたが、たとえば、詩人のプレシチェーエフはドストエフスキーに「君の『雷雨』評を首を長くして待っている」と手紙に書いていた。
ドストエフスキー自身はこの論文を書かなかったが、彼の兄ミハイルが雑誌『たいまつ』にこの戯曲の劇評を書いており、それはドストエフスキーのプーシキン観とも深く関わるだけでなく、フリードレンデルが指摘しているようにこの論文にはドストエフスキーの手も入っていると考えられる。
ミハイルはこの論文でそれ以前に書かれた主な戯曲にも触れた後で、オストロフスキーが『雷雨』で「まだ誰も手を付けていなかったロシアの生活の幾つかの新しい側面を取り上げ」たと主張し、殊にカチェリーナの性格は「作者によって大胆にきわめて正確に創造されている」と述べ、オストロフスキーがプーシキンの『オネーギン』の「タチヤーナ以降、記されることのなかったロシア女性の美しさ」をもその戯曲の中で描いたと指摘している。
それとともにミハイルは「我々の考えではその作品においてオストロフスキー氏はスラヴ派でも西欧派でもなく、ロシアの生活とロシア人の心を深く知る一芸術家なのである」と高く評価した。それはオストローフスキイの「新しい言葉を信じている」と述べたドストエフスキーの思想にも重なるものであり、このオストロフスキー論はドストエフスキー兄弟が発刊することになる雑誌の理念をも表明していたのである。
(拙著『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』、刀水書房、74頁参照)。
3,プレシチェーエフとチェーホフ
こうしてプレシチェーエフは、シベリアから帰還したドストエフスキーが文壇に復帰する際に、オストロフスキーとの関係の橋渡しをしていたといえるだろう。
興味深いのは、「チェーホフと知合う以前から、このユーモア作家に注目していた」プレシチェーエフが、チェーホフの出世作『大草原』の誕生にも係わっていることをロシア文学研究者の佐藤清郎氏が明らかにしていることである(『チェーホフの生涯』筑摩書房、一六六~一六八頁)。
このことは詩人プレシチェーエフがチェーホフのうちに、若きドストエフスキーの作風の継承者を見ていたとも考えられ、きわめて興味深い。(『ロシアの近代化と若きドストエフスキー』終章、注*21)。
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(最近、『ロシア語ロシア文学研究』第45号に「プレシチェーエフの青春」と題する高橋知之氏の論文が掲載された。ロシア語文献だけでなく、欧米の文献にも広く目を配って、事件発覚前のモスクワにおけるプレシチェーエフ行動の意味に迫った好論文だと思える。地味だが重要なテーマであり、ドストエフスキーとの詳細な比較も課題としているとのことなので今後も期待したい。)