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堀伸雄氏の「黒澤明と『カラマーゾフの兄弟』に関する一考察」を聴いて
今回の例会は3月22日に行われたが、冒頭で堀氏は翌日の23日が黒澤監督の誕生日に当たるので、当日は監督が生きておられたら映画《夢》の第八話「水車のある村」の老人(笠智衆)と同じ103歳の最後の日にあたることを紹介した。
黒澤明監督の映画《白痴》については、1975年にこの会でも鑑賞会が開かれるなど関心が高いが、それ以外の作品におけるドストエフスキーとの関係については、《どですかでん》の発表以外はなかったと思われる。
『黒澤明 夢のあしあと』(黒澤明研究会編・共同通信社・1999年)の編纂に参加されていた堀氏は、発表の前半では、『藝苑』(厳松堂書店、1946年)に掲載された「わが愛読書」で、黒澤がトルストイとドストエフスキー、そしてバルザックを挙げていたことや、『死の家の記録』の映画化も真剣に考えていたことなどを地道な調査にも基づいて明らかにした。さらに、ポリフォニーやカーニバルの手法にも注目しながら、黒澤監督の「憐憫」と「直視」の精神とドストエフスキー作品との深いつながりを指摘した。
後半では『カラマーゾフの兄弟』の続編におけるアリョーシャのその後を描いてみたいと語った黒澤の言葉に注目しながら、日本における『カラマーゾフの兄弟』の受容と「続編構想の日本への伝搬」について詳しく分析したあとで、《乱》(1985公開)およびシナリオ『黒き死の仮面』(未映画化・1977)と『カラマーゾフの兄弟』のシナリオの一部をテキストとして検証した。
私にとって興味深かったのは、「語り手」の問題の重要性に注意を促しながら、「アリョーシャを主人公とする続編」の問題点について指摘した木下氏の質問であった。実際、アリョーシャがその後、皇帝の暗殺を目指す革命家になるという説を認めると、『カラマーゾフの兄弟』の本編で描かれていた「殺すこと」を批判したアリョーシャ像を否定せざるをえなくなると思える。さらに、尊敬する師ゾシマの死体が発した死臭によって、「精神的な死」の危機を経験しながらも、大地への接吻で「復活」していたアリョーシャが再び「復活」することは不自然でもあるだろう。
発表者の堀氏も『カラマーゾフの兄弟』の「続編」という微妙なテーマを論じつつ、想像を膨らませるのではなく冷静なテキストの分析をとおして、信仰の問題や「神の存在」についての議論もある《乱》や『黒き死の仮面』と、『カラマーゾフの兄弟』との構造や「大審問官」などのテーマとの類似性を明らかにした。
最後の場面でのアリョーシャの台詞が《まあだだよ》の先生が語るメッセージの手法につながるという指摘は、ロシアの映画人からも高く評価された映画《白痴》を撮った黒澤監督の『カラマーゾフの兄弟』理解の深さをも示唆していると思えた。
堀氏は結論の箇所で、ドストエフスキーから受け継いでいると思える黒澤明の「直視の姿勢」が「核」や「環境」への関心とも深く結びついていることを確認し、映画《生きものの記録》などの重要性にも言及した。
シナリオ『黒き死の仮面』についてはあまり知られていなかったこともあり、映画評論家リチーの映画《白痴》観についての鋭い質問が出たほかは、会場での質問は残念ながら少なかったが、緻密に構成された発表と視覚的でかつ具体的な配付資料により、分かりやすく知的刺激に富む発表だった。それはバルザックと黒澤明についてなどのさまざまな質問が飛び交って盛り上がった懇親会にも反映していたと思える。