高橋誠一郎 公式ホームページ

『白痴』

黒澤映画《夢》の構造と小林秀雄の『罪と罰』観

 

はじめに――黒澤明と小林秀雄のドストエフスキー観

a、黒澤明監督の長編小説『白痴』観と映画《白痴》の結末

ドストエフスキーについて「生きていく上につっかえ棒になることを書いてくれてる人です」と語った黒澤明監督(1910~98年)は、敗戦後間もない1951年に公開された映画《白痴》で、「真に美しい善意の人」を主人公としたドストエフスキーの名作をなるべく忠実に映画化しようとしていた。

それゆえこの映画のラストのシーンで黒澤は、綾子(アグラーヤ)に「そう! ……あの人の様に……人を憎まず、ただ愛してだけ行けたら……私……私、なんて馬鹿だったんだろう……白痴だったの、わたしだわ!」と語らせていたのである*1。

b、長編小説『白痴』の結末と小林秀雄の解釈

一方、全8章からなる「『白痴』についてⅡ」に、『白痴』の結末について考察した第9章を1964年に書き加えて『白痴』論を出版した文芸評論家の小林秀雄(1902~83年)は、そこで次のような言葉を記していた。

「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだろう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである。彼と、その心が分ちたいという希ひによつてである。『自首なぞ飛んでもない事だ』と殺人者に言ふのは彼なのである」*2。

c、黒澤明のドストエフスキー観と映画《夢》

つまり、長編小説『白痴』だけに対象を絞るならば両者のドストエフスキー理解は正反対だったのである*3。しかも、1975年に行われた若者たちとの対談で黒澤明監督は、「小林秀雄もドストエフスキーをいろいろ書いているけど、『白痴』について小林秀雄と競争したって負けないよ。若い人もそういう具合の勉強のしかたをしなきゃいけない」と語っていた*4。

黒澤監督は小林秀雄の『白痴』観に対する批判を評論という形では書いていないが、映画《八月の狂詩曲》には『白痴』のテーマが見られるし、映画《夢》以前の《野良犬》、《醜聞(スキャンダル)》、《天国と地獄》など多くの作品には、『罪と罰』のテーマが強く響いている*5。

それゆえ本発表では、映画《夢》と『罪と罰』との構造的な類似性を指摘した後で、主に第四話と第六話から第八話までの流れを詳しく分析することで、小林秀雄の『罪と罰』観との比較をとおして黒澤明監督のドストエフスキー理解の深さを明らかにしたい*6。

 

Ⅰ、『罪と罰』における夢の構造と映画《夢》

 a、映画《夢》の構造と『罪と罰』

「こんな夢をみた」という字幕が最初に示されるオムニバス形式の映画《夢》は、1990年に公開されたが、黒澤明監督はドストエフスキー作品の愛読者であったばかりでなく、黒澤映画のすぐれた理解者でもあった作家・井上ひさしとの対談「夢は天才である」で、ドストエフスキーの言葉がこの映画の構想のきっかけになっていると語っている*7。

実際、黒澤監督のノートには、小沼文彦訳で長編小説『罪と罰』に記された「やせ馬が殺される夢」の個所の次のような記述が書き写されていたのである。「夢というものは病的な状態にある時には、並はずれて浮き上がるような印象とくっきりとした鮮やかさと並々ならぬ現実との類似を特色とする…中略…こうした夢、こうした病的な夢はいつも長く記憶に残って攪乱され、興奮した人間の組織に強烈な印象を与えるものである」。

しかもこのノートには「夢というものの特質を把握しなければならない。現実を描くのではなく、夢を描くのだ。夢が持っている奇妙なリアリティをつかまえなければならない」という黒澤自身のメモも記されていた*8。

b、小林秀雄の『罪と罰』解釈と夢の重視

戦後の1948年に書いた「『罪と罰』についてⅡ」で小林秀雄も、「この長編は、主人公に関する限り、一つの恐ろしい夢物語なのである」と書き、「事件の渦中にあつて、ラスコオリニコフが夢を見る場面が三つも出て来るが、さういふ夢の場面を必要としたについては、作者に深い仔細があつたに相違ないのであつて、どの夢にも、生が夢と化した人間の見る夢の極印がおされてゐる」と記している(小林、六、228)。

c、「やせ馬が殺される夢」とその後の二つの夢の関連性

実際、黒澤明が書き写していた『罪と罰』の夢についての考察の個所では、主人公のラスコーリニコフが、殺人の前に見る「やせ馬が殺される夢」を見た後で「高利貸しの老婆」を殺害して金品を奪うという自分の計画が「算術のように正確だ」としてもそんなことは決してできないと強く感じたと描かれている*9。

ただ、小林はエピローグにおける「人類滅亡の悪夢」について、「彼(引用者注――ラスコーリニコフ)は、犯行後、屋根裏の小部屋でも、これに類する夢を見たかも知れぬ」と書いているが、個々の夢はそれぞれ深く結びついており、それにつれて「殺すこと」についてのラスコーリニコフの認識も深まっているのである。

d、映画《夢》の構造と土壌の描写

この意味で注目したいのは、八話からなる映画《夢》は一見するとばらばらのテーマが描かれているようにも見えるが、「まあ、全部読んでいるわけじゃないんですけど、やっぱり私の基本となっているのは、ドストエフスキーとチェーホフですね」と語った作家の井上ひさしが*10、黒澤明との対談ではこの映画について「まず水と土の扱いに感動しました」と語っていることである(大系、三、374)。

すなわち、第一話「日照り雨」では、五歳くらいの主人公の「私」が森に行くと、「杉の大木の木立ちの間を縫って、しっとりとした、腐植土のたっぷりある、何を植えてもよく育ちそうな地面の黒い道が見えてくる」と指摘し、さらに第二話「桃畑」でも「少年の『私』が少女を追いかける竹林の中の小道、そこの土がすばらしい。竹の葉が何年も積もってふかふかの土」と語り、さらに第三話「雪あらし」では「雪が主人公です」が、「岩が、なにか頼もしいものとしてチラッと見えます」と指摘している。

井上ひさしは、第五話「鴉」に続いて描かれる第六話「赤富士」と第七話「鬼哭」には、「ものすごいイヤな土が出てきます」と指摘した後で、第八話「水車のある村」で、「もう一度、すばらしい土があらわれる」と語っている。映画《夢》について語られたこの言葉は、後に見るような『罪と罰』の構造をも説明しているように見える。

e、ペテルブルグの「壮麗な眺望」とシベリアの「鬱蒼たる森」の謎

『罪と罰』の冒頭近くで犯行後にネヴァ河の川岸にたたずんだラスコーリニコフが「大学に通っていた時分」に河の向こう側に広がる寺院のドームや宮殿などの「壮麗な眺望」から「なぜとも知れぬうそ寒さ」を感じていたことや、彼がこの「何かすっきりと割りきれぬ自分の印象に驚きに似た気持ちを感じ」つつも、「その解明を先にのばしてきた」と描かれている。

殺害の後で、血で「汚した大地に接吻」して自白しなさいというソーニャの言葉を受け入れたラスコーリニコフが、流刑地のシベリアで「人類滅亡の悪夢」を見る前には、「ただ一条の太陽の光、鬱蒼(うっそう)たる森、どこともしれぬ奥まった場所に、湧きでる冷たい泉が」、なぜ囚人たちにとってそれほど重要な意味を持つのかが分からなかったことも記されていたのである。

 

Ⅱ、『罪と罰』の「死んだ老婆が笑う夢」と第四話「トンネル」

a、復員兵の悲鳴と「戦死した部下」たちの亡霊

映画《白痴》は戦場から帰還した主人公の復員兵(亀田・ムィシキン)が、北海道に向かう青函連絡船の三等室で、戦争犯罪で死刑を宣告されるという悪夢にうなされて悲鳴をあげるという冒頭のシーンから始まる。

そして、近くにいたジャンパーの男(赤間・ロゴージン)に「何て声出しやがるんだア」と言われると、「す、すみません……夢を見たもんで」と語り、さらに「いま、銃殺されるとこだったんです……僕、よくその夢を見ます……実は僕、戦犯で死刑の宣告されたもんですから……」と説明したのである(黒澤、三、75)。

一方、第四話の「トンネル」は、古ぼけた戦闘帽にゴム長靴をはき、色あせた将校の外套を羽織った復員姿の「私」(寺尾聰)が、前方のトンネルに向かってひきずるような重い足取りでやってくる場面から始まる。

後に広島の原爆で亡くなった父を幽霊として娘の前に現出させるという戯曲『父と暮らせば』を書くことになる井上ひさしは黒澤明との対談において、「戦争から生還してきた「私」の前に戦死したはずの部下たち、野口一等兵や第三小隊の亡霊たちが現われる話」が描かれている第四話「トンネル」について、「あの大きなトンネルの中から湧いてくるさまよえる第三小隊のザッザッザッという軍靴の響きには圧倒されます。黒澤映画における効果音の凄さ、すばらしさは周知のことですが、今回の軍靴の響きは音であることを超えて、戦争そのものの象徴音として聞こえてきました。」と語っている(大系、三、375)。

そして、主人公の寺尾聰が演じている「私」を旅人である能のワキと指摘し、「野口一等兵と第三小隊が怨霊物、亡霊で、つまりシテです。そしてトンネルが橋掛かりで、あの敗戦直後の日本の地面によくあった荒れて水たまりのある土が能舞台ですね。電柱が松の古木。背後のコンクリの、急な土手は松羽目のように見えてきます」と続けた井上は、「もっというとこのエピソードは夢幻能なのだと思います。夢の話の中に夢幻能をはめこんである」とし指摘して、「正直にいって、全黒澤映画で、もっともすぐれた場面です」と続けている。

b、「死んだ老婆が笑う夢」と幽霊の話

一方、『罪と罰』で「高利貸しの老婆」の殺害を正当化していたラスコーリニコフは、夢の中で再び老婆の部屋にいる自分を見出し、まだ老婆が生きていることに愕然とし、脳天目がけておのを打ちおろすが、現実とは異なり老婆はびくともしない。そして、最初は静かに笑っていた老婆は、ラスコーリニコフが力まかせに殴り始めるとついには全身をゆすぶって笑い出したのである*11。

しかも、恐怖に襲われて目覚めた彼の枕元に座っていたのが、「強者」にはすべてのことが許されると考えていたスヴィドリガイロフであり、彼はあたかもラスコーリニコフの悪夢を見ていたかのように、初対面の彼に自分の妻マルファの「幽霊」について語り始め、幽霊は実際に存在するのだが「ただ健康な人間には見えないだけだ」と主張した。それゆえ、「老婆の悪夢」はいわば負の意味でワキの僧のような役を演じているスヴィドリガイロフによって、「招魂」されたかのような印象さえ受けるのである。

ここで注目したいのはドストエフスキーが、後に老婆を殺したことによって「自分を殺したんだ、永久に!」とソーニャに語っていることである。この夢は一見、非論理的に見えるが、殺された老婆の姿は彼の記憶にはっきりと刻み込まれて残ったのに対し、殺した側のラスコーリニコフの身体は自分自身に対して決定的な不和を示すようになったといえよう。つまり、ラスコーリニコフ自身の目は彼の犯罪をことごとく見つめていたのであり、彼の腕や指は、おのが老婆の脳天に当たった時の手ざわりや彼女の体から流れ出た血の感触をはっきりと覚えていた。それゆえ、目撃者をすべて殺そうとしたとき、彼は殺害の実行者である自分の身体を消さねばならなくなっていたといえるだろう。

c、「殺すこと」の考察と戦争の問題

さらにドストエフスキーは、本編の終わり近くで「兄さんは、血を流したんじゃない!」と語った妹のドゥーニャに対してラスコーリニコフに、「殺してやれば四十もの罪障がつぐなわれるような、貧乏人の生き血をすっていた婆ァを殺したことが、それが罪なのかい?」と問わせたばかりでなく、さらに自分が犯した殺人と比較しながら、「なぜ爆弾や、包囲攻撃で人を殺すほうがより高級な形式なんだい」と反駁させてもいた。

実は、『罪と罰』が発表されたこの年には、軍国主義的な傾向を強めていたプロシアがオーストリアとの戦争に勝利しており、ナポレオン三世下のフランスとプロシアとの間で大戦争が勃発する危険性が増していた。それゆえ、戦争で使用された爆弾に言及したこの記述には戦争によって「自分の正義」を示そうとすることに対するドストエフスキーの危惧がよく現れていると思われる。

こうしてドストエフスキーは、『罪と罰』において「殺すこと」の問題を根源的な形で考察していたのであり、「殺すなかれ」という理念を語る『白痴』の主人公は、このような考察とも密接に関わっていることは明らかだと思える。

d、「トンネル」における「国策」としての戦争の批判

第四話の「トンネル」では、戦争から復員してきた「私」(寺尾聡)が、四列縦隊を組んでトンネルの入口から出てきた兵隊たちにたいして、泣きながら、「すまん! 生き残った儂(わし)は、お前達に合わす顔もない。お前達を全滅させたのはこの儂の責任だ」と語るシーンが描かれている。

そこには戦意高揚を目的とした「国策映画」の製作にかかわってしまった黒澤の深い苦悩が反映しているだろう。それゆえ黒澤は、戦後には恩師山本嘉次郎との対談でも、「自らを含めた映画人の戦争協力とその責任について」次のような厳しい自己批判を行っていた。

「戦争中に協力してやってきたことに対しては、社会的には勿論、一個の芸術家としても、大変な責任があると思います。ああいう芸術のあり方は、本来あり得べきものではない。それに対して、戦わなかったということだけでも、責任だと思います。それを自分自身を欺瞞してやってきたことは、芸術家として大変恥ずべきことだったと思う」(大系、一、685~686)。

e、小林秀雄の戦争体験と『罪と罰』のエピローグ解釈

一方、1946年に座談会「コメディ・リテレール」で、トルストイ研究者の本多秋五から戦前の発言を問い質された小林秀雄は、「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない」と語り、「必然性というものは図式ではない。僕の身に否応なくふりかかってくる、そのものです。僕はいつもそれを受け入れる」と続け、「僕のような気まぐれ者は、戦争中支那なぞをうろつき廻り、仕事なぞろくにしなかったが、ドストイエフスキイの仕事だけはずっと考えていた」と結んでいた*12。

小林は戦後の1948年に書いた「『罪と罰』についてⅡ」でも、「物語は以上で終つた。作者は、短いエピロオグを書いてゐるが、重要なことは、凡て本文で語り尽した後、作者にはもはや語るべきものは残つてゐない筈なのである。恐らく作者は、自分の事よりも、寧ろ読者の心持の方を考へてゐたかとも思はれる」と断言していた。

だが、そうだろうか。次章ではこれまでの考察を踏まえつつ第七話「鬼哭」を分析することで、『罪と罰』のエピローグに記された「人類滅亡の悪夢」の意味を考察することにしたい。

 

Ⅲ、『罪と罰』の「人類滅亡の悪夢」と第七話「鬼哭」

a、エピローグの「人類滅亡の悪夢」とキューバ危機

ドストエフスキーは『罪と罰』のエピローグで、「鬱蒼たる森林」の意味を理解できなかったラスコーリニコフに「人類滅亡の悪夢」を見させていた。

それは、「知力と意志を授けられた」「旋毛虫」におかされ自分だけが真理を知っていると思いこんだ人々が互いに自分の真理を主張して殺し合いを始め、ついには地球上に数名の者しか残らなかったという「悪夢」である。

これは病院に入院したラスコーリニコフが体力と気力が衰えていたために見た夢であり、単なる妄想のようにも見える。しかし、終戦時の原爆の悲劇を記憶していた黒澤明監督は、冷戦下における軍拡競争の中でビキニ沖でアメリカの水爆実験で第五福竜丸が被爆するという事件が起きた後で撮った《生きものの記録》(1955)の最後のシーンでは、原爆を恐れた主人公が夕焼けの色をついに「地球が燃えている」と思い込む光景をスクリーンに描き出していた。実際に1962年にはキューバ危機で核戦争によって「世界が破滅する」という危険性も指摘されるようになっていたのである。

b、小林秀雄と湯川秀樹の対談と原爆の批判

この意味で注目したいのは、1948年の8月に小林秀雄が原子物理学者の湯川秀樹との対話で、いち早く原爆の危険性を鋭く指摘していたことである。

すなわち、「私、ちょうど原子爆弾が落っこったとき、島木健作君がわるくて、臨終の時、その話を聞いた。非常なショックを受けました」と切り出した小林は、「人間も遂に神を恐れぬことをやり出した……。ほんとうにぼくはそういう感情をもった」と語っていた。

そして湯川が「平和はすべてに優先する問題なんです。今までとはその点で質的な違いがあると考えなければいけない。そのことを前提とした上でほかの問題を議論しないといけない。アインシュタインはそういうことを言っている。私も全然同感です」と答えると、「私もそう思う」と同意した小林は、「科学の進歩が平和の問題を質的に変えて了ったという恐ろしくはっきりした思想、そういうはっきりした思想が一つあればいいではないか」と結んでいたのである*13。ここには科学技術の盲信に対する先駆的な指摘があったといえるだろう。

c、第六話「赤富士」の予言性と「人類滅亡の悪夢」

原子力発電の問題を鋭く提起していた第六話「赤富士」は、福島第一原子力発電所の事故を予言していたとして最近も話題になった*14。

一方、原爆の危険性についての深い理解を示していた小林は、『罪と罰』についてⅡ」では、シベリアの病院でラスコーリニコフが見た「人類滅亡の悪夢」について、「アジヤの奥地に発生してヨオロッパに向つて進む、嘗て聞いた事もない伝染病に、全世界の人々が犠牲になる」と紹介したあとで、「夢の印象はもの淋しく、悩ましく、ラスコオリニコフの心の中に反響し、長い間消えようとしないのが、彼を苦しめた」と書いている(小林、六、259~260)。

そして「ラスコオリニコフが夢を見る都度、夢は人物について多くのことを読者に語つてきた筈だが、当人が夢から何かを明かされた事はない」と断言しているのである。

しかし小林秀雄の同人誌の仲間であった作家の坂口安吾は、1947年6月に雑誌『新潮』に発表された「教祖の文学――小林秀雄論――」で戦前に書かれた小林のドストエフスキー論を高く評価しつつも、戦後に文芸批評の「大家」として復権した小林秀雄を、「生きた人間を自分の文学から締め出してしまつた」と批判し、「彼は骨董の鑑定人だ」と批判していた*15。

d、『罪と罰』の現代性と第七話「鬼哭」

『地下室の手記』を精緻に読み解いたイギリスの研究者ピースは、この作品では主人公が「弱肉強食の思想」や「統計学」さらには「功利主義」など近代西欧の主要な流れとなっていた哲学との対決をしていると指摘している*16。こうして雑誌『時代』に書いた諸論文や作品で当時の西欧の思想を厳しく批判していたドストエフスキーは、『罪と罰』においてこのような流行の思想に影響されて「高利貸しの老婆」の殺害を行ったラスコーリニコフの行動と苦悩を深く描き出すとともに、近代西欧の自然観とロシアの民衆的な自然観を鋭く対置させていたのである。

ラスコーリニコフの「復活」がこの悪夢を見たあとで起きたとドストエフスキーが書いていることに留意するならば、「高利貸しの老婆」の殺害を、敵国との戦争と同じ論理で考えていたラスコーリニコフは、「人類滅亡の夢」をみたことで「弱肉強食の思想」や自己を「絶対化」して「他者」を抹殺することを正当化する「非凡人の理論」の危険性に気づいたといえるだろう。

それゆえ、850万人以上の死亡者を出した第一次世界大戦後に、ヘルマン・ヘッセはドストエフスキーの創作を「ここ数年来ヨーロッパを内からも外からも呑み込んでいる解体と混沌を、これに先んじて映し出した予言的なものであると感じる」と高く評価していたのである*17。

そして第七話「鬼哭」で核戦争後の世界を描いた黒澤明監督も、「……馬鹿な人間が、地球を猛毒物質の掃き溜めにしてしまったんだ」と批判させている。それとともに、鬼が「俺たちは共喰いをして生きているんだ!」と語り、「俺みたいな一本角の鬼は、二本角や三本角の鬼の食い物になるしかない……人間だった時、権力を握って悪賢く図々しくのさばっていた奴等が鬼になってものさばってるんだ!」と続けている(黒澤、七、23)。

鬼のこの言葉は、ドストエフスキーが『罪と罰』がラスコーリニコフの犯罪とその後の苦悩をとおして明らかにしていた「弱肉強食の論理」が第二次世界大戦後の現代でも政治や経済の分野で重視されていることに対する鋭い批判を見ることができる。

 

おわりに――ラスコーリニコフの「復活」と第八話「水車のある風景」

こうしてラスコーリニコフは、病院で見た「悪夢」の「悲しく痛ましい余韻」に退院後も悩まされていたが、同じ頃にソーニャも病気にかかって数日間も訪れて来ないことが重なり、彼は彼女の不在を不安にも感じ始めていた。

ラスコーリニコフの「復活」が起きた暖かい日の朝をドストエフスキーは次のように描いている。彼は「丸太の上に腰をおろして、荒涼とした広い川面をながめ始めた。高い岸からは、広い眺望が開けていた。遠い向こう岸のからは歌声がかすかに流れてきた。…中略…向こうでは、時間そのものが歩みをとめ、いまだにアブラハムとその羊の群の時代が終わっていないかのようだった」。

そこにソーニャが現れると、「ふいに何かが彼をつかんで、彼女の足もとに身を投げさせた」と書いたドストエフスキーは、「とうとう、この瞬間がやって」きたと続け、彼らの「病みつかれた青白い顔には…中略…全き復活の朝焼けが、すでに明るく輝いていた」と書いている。

第六話「赤富士」と第七話「鬼哭」の夢をとおして、自然の力を無視する一方で人間の科学力を過信した人間の傲慢さを鋭く描き出した後で黒澤明監督も、一転して自然のすばらしさを描いた第八話「水車のある村」を置いているのである。

この「水車のある村」では、「鬱蒼とした森、その下を水を満々とたたえた小川が流れ、大小六つもの水車がゆっくり回っている。時間が止まったようなのどかさ」を描き出している。しかも、最後の場面では「カメラは、川底に沢山の藻が流れにゆらめく清冽な流れを映し出す」のである。

さらに、制作費などの条件で実現には至らなかったが、シナリオの段階では八つの話以外に三つの夢も描かれており、ことに最後には地球に平和が訪れるという「素晴らしい夢」も描かれていたのである。

ドストエフスキーは『罪と罰』でラスコーリニコフの信じていたような近代的な自然観の危険性とそこからの「復活」を文学的な方法で見事に示唆していたが、黒澤映画《夢》にはこのような『罪と罰』のテーマと構造が色濃く響いていると思われる。

 

*1 黒澤明『黒澤明全集』、岩波書店、第3巻、1988年、145頁。以下、全集からの引用に際しては、本文中の括弧内に巻数を漢数字で、頁数をローマ数字で(黒澤、三、145)というように記す。

*2 小林秀雄『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、340頁。以下、全集からの引用に際しては、本文中の括弧内に巻数を漢数字で、頁数をローマ数字で(小林、六、340)というように記す。なお引用に際しては、旧漢字は新しい漢字になおした。

*3 井桁貞義はこのことを「ドストエフスキイと黒澤明」ですでに指摘している。柳富子編著『ロシア文化の森へ ――比較文化の総合研究』第二集所収、2006年、676~677頁。

*4 黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、1999年、288頁。なお、『夢のあしあと』の366頁には、黒澤明と小林秀雄が歓談している写真が掲載されている。ただ、活字化された資料は残っていないが、堀伸雄はジャーナリストの龍野忠久の著書『パリ・一九六〇』(沖積社、1991)には、映画《蜘蛛巣城》(1957)の公開後にこの対談が行われていたことなどが記されていることを明らかにしている(『黒澤明研究会誌』第24号、232頁)。黒澤明・浜野保樹『大系 黒澤明監督』第4巻、講談社、816頁)。

*5 高橋『黒澤明で「白痴」を読み解く』、成文社、2011年、123~126頁、135頁。および同書に掲載した参考文献を参照。

*6 映画《白痴》の特徴については、「映画《白痴》と『イワンの馬鹿』」(『黒澤明研究会誌』第27号、2012年、92~119頁)でも考察したが、黒澤明監督と小林秀雄のドストエフスキー観との相違については、「小林秀雄のドストエフスキー観と映画《白痴》」というテーマで稿を改めて書く予定である。

*7 黒澤明、浜野保樹『大系 黒澤明』第3巻、講談社、2010年、収録。以下、大系と略して本文中に巻数と頁数を示す。なお、初出は『文藝春秋』1990年6月。

*8 都築政昭『黒澤明の遺言「夢」』、近代文芸社、2005年、18~19頁。

「黒澤デジタルアーカイブ」龍谷大学。www.afc.ryukoku.ac.jp/Komon/kurosawa/index.html

*9 ロシア語アカデミー版追加、訳は江川卓『罪と罰』、岩波文庫より引用。

*10 雑誌「チャイカ」(第三号)のインタビュー。高橋誠一郎「ドストエーフスキイと井上ひさし」『「ドストエーフスキイの会」会報』107号、1989年1月20日号。(『場 「ドストエーフスキイの会」の記録Ⅳ 1983~1990』、ドストエーフスキイの会編、1999年、244~245頁、再録)。

*11  高橋『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』、刀水書房、2000年、第7章「隠された『自己』」参照。

*12 「座談 コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで」『小林秀雄全作品』第15巻、新潮社、2003年、34~36頁。

*13 小林秀雄「対談 人間の進歩について」、『小林秀雄全作品』第16巻 2004年、51~54頁。

*14 三井庄二「反核映画作家・反核論者の黒澤明」、堀伸雄「黒澤映画と『核』~その良心と怒り」(『黒澤明研究会誌』第25号)などを参照。

*15 『坂口安吾全集 5』、筑摩書房、1998年、239~243頁。および、相馬正一『坂口安吾 戦後を駆け抜けた男』、第5章「教祖・小林秀雄への挑戦状」、人文書館、二〇〇六年参照。

*16 Richard Peace,”Dostoyevsky’s Notes from Underground”,Bristol Classical Press, 1993.池田和彦訳、高橋編『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』

ノベル出版企画、二〇〇六年参照。

*17 ベレジーナ「ヘルマン・ヘッセの理解したドストエフスキイ」より引用、『ドストエフスキイと西欧文学』レイゾフ編、川崎浹、大川隆訳、勁草書房、1980年、230頁。

 

 追記;

発表に際しては、1,参考文献として注に示した以外の文献 2,映画《夢》の図版、3,黒澤明監督・小林秀雄関連年表を添付していたがここでは省いた。より詳しい年表は近く本ホームページの「年表」に掲載することにしたい。

なお、この時の発表では時間的な理由から、第一話から第三話までと第五話についての考察を除外していたが、『黒澤明研究会誌』第29号(黒澤明研究会40周年記念特別号、2013年3月)にはそれらの考察も加えて寄稿した。

本稿では、文体レベルの改訂を行うとともに、研究例会での感想などを踏まえて本発表の注の一部を変更するとともに、発表の内容をより正確に示すために「黒澤映画《夢》における長編小説『罪と罰』のテーマ」より改題した(11月6日)。

第8回国際ドストエフスキー・シンポジウム(1992年)に参加して

今回のシンポジウムは1992年の7月29日から8月2日にわたって、世界の22ヶ国から84名の参加者を迎えてオスロで行われた。期間が短かったせいで、発表の多くが二つのセッションに分かれて行われ、スケジュールも朝早くから夜までぎっしりとつまっていたために、半分近くの発表が聞けず、じっくりと問題を話し合う時間も少なかったなどの点については不満の声も聞かれた。

しかし、期間中には『カラマーゾフの兄弟』の映画化であり、ロシアと日本でのみ上映されていた映画《少年たち》や作者の才能を感じさせるアニメ映画《おかしな男の夢》がドミートリイ・ドストエフスキー氏の簡単な説明の後で上映されたり、手入れの行き届いた庭と赤い屋根の家が連なる上品な別荘地のような感もあるオスロの市内見物やムンク美術館の見学、ノルウェーの音楽を中心とするピアノ演奏の鑑賞もあり、北欧の文化の一端にふれることもできて論文発表以外の面でも充実したシンポジウムとなった。

前回のシンポジウムでは、特に一日が割かれて「ドストエフスキーとユーゴスラヴィア文学」のテーマで一〇本もの報告が発表されたが、今回も、特別の日は設けられなかったものの、「ドストエフスキーとムンク」の発表の他にもロシア・アカデミー会員フリードレンデル氏の「ドストエフスキーとイプセン」、「ドストエフスキーとハムスン」、「ドストエフスキーとキルケゴール」(本号木下豊房氏の翻訳参照)といった北欧とドストエフスキーとの係わりに言及した論文が数多く発表された。

また、会場となったオスロ大学の構内には「クロトカヤ(おとなしい女)」と題するムンクの絵を用いたシンポジウムのポスターが数多く張られていたが、マルチン・ナーク氏は、二一歳のムンクが「『罪と罰』の数頁は、それだけで芸術作品であり、これまでにこんなすばらしい作品は読んだことがない」と述べていることを紹介して、多くの作品に登場するシルクハットは犯行の下見を行ったラスコーリニコフが不安に駆られて自分の「奇妙で目立つ」帽子に手をやった場面を下敷きにしており、切羽詰まった状況で日常的でつまらない物に集中するというドストエフスキーの方法はムンクの絵画のライトモチーフとなっていると述べた。また、『白夜』や『賭博者』などもムンクに影響を与えているが、ことにムンクが強く惹かれたのは『白痴』であり、「嫉妬」をモチーフとする数々の作品がこの小説に影響されて描かれていると指摘した。

シンポジウムでは「ドストエフスキーと二〇世紀の宗教・哲学思想」や「ドストエフスキーの詩学」、さらに「ドストエフスキーと現代」というテーマのセッションの他にも「ドストエフスキーはリアリストかロマンチストか」、「『永遠の夫』について」といったパネルディスカッションも設けられた。この中には『罪と罰』とブーニンの作品とを比較したトゥニマーノフ氏の発表やドストエフスキーに対するナボコフの関わりを論じたサラースキナ女史の発表や、意味論的な分析からドストエフスキーの作品に迫ったハンガリーの研究者たちの発表など興味深い論文が多かった。

筆者は文明論的な視点から「ドストエフスキーにおける分身のテーマと良心の問題」という題名で発表を行ったが、今回の主な関心の一つはソ連崩壊後のロシアや東欧の動きがこのシンポジウムにどのような形で反映されるかにあった。前回のシンポジウムでは旧ソ連からも多くの研究者が参加するなどペレストロイカが行われていた当時の状況を強く反映したものであったが、今回もユーゴスラヴィアの分裂やソ連の崩壊といった変化を受けてかつてのユーゴスラヴィアからの参加予定者二名が参加を取りやめる一方で、前回は不参加だったベラルーシやエストニアからも発表者が現れるなど時代の急変を感じさせるものとなった(なお、ロシアからは前回の主だったメンバーの他にヴェトローフスカヤ女史が新たに参加していた)。

私は前回のシンポジウムについて、ドストエフスキーにおける「民族性」という概念を取り上げて分析したラザリ氏の発表がかつての多民族国家ソ連や東欧圏の問題点をも突いていたゆえに参加者の間で激しい論議を呼んだことを報告したが、そのシンポジウムから程なくして分裂した旧ユーゴスラヴィアだけでなく、かつての旧ソ連でもアルメニアやグルジアなどで、民族や宗教などの対立から内戦が勃発し現在にいたるまで激しい戦いが続いている。そして、それはロシアにとっても対岸の火事ではなく、領土問題などもからんでそれらがいつロシアに飛び火しても不思議ではない状況にある。

残念ながら別のセッションだったので聴講できなかったがイギリス人の研究者ピース氏は「予言者ドストエフスキー」という発表で、ドストエフスキーが『悪霊』などの作品で独裁制の危険性を予言したばかりでなく、『いやらしい話』や『鰐』などの作品では経済的な利益ためとはいえロシア人が外国の「鰐」の体中に入り込むことの危険性をも予告していたと指摘した。実際、シンポジウムの前後に三年振りにモスクワにも滞在した私の目に映ったロシアの現状も氏の指摘の正しさを物語っているように思えた。

以下、ロシアに滞在した時に感じたことも交えながら、シンポジウムで強く印象に残った発表を中心に簡単に報告する。

*   *   *

モスクワでの最初の印象は驚くほど物価は高騰しているが、街には活気が出ているなという肯定的なものであった。街のあちこちでは縁日が開かれているかのように、露店商が歩道に机などを置いて様々な品物を一杯に並べていた。そこにはそれまで見かけることの少なかったバナナなどの果物や野菜さらにはビールを始めとするアルコール飲料も山のように積まれていた。

しかし、街に活気が出てきたようだという私の指摘にたいして、まだエリツィンを支持していると述べた友人夫妻ですら、今活気があるのは外国の観光客とマフィア、そして成金相手の商人だけだと苦々しげに答えた。実際、赤の広場のすぐ近くにできたカジノは入場料だけで10ドルも払わねばならず、サンクト・ペテルブルクなどの立派な外装や内装を有する店やレストランで通用するのはほとんどが外貨だけだった。一見、賑やかな露店も売れる場所は場所代の払える者達によって占められ、わずかな物を売る中年の人々は通りの端に立ち続けていたし、物乞いする老人たちの姿はいたる所で見られるようになっていた。

そして、残念ながら現代多くのロシア人が経験している経済的危機は、私の予想をも大きく上回るものであった。たとえば、前回、ユーゴスラヴィアでは年間20倍にもなるというインフレに驚かされたが、今回私が滞在した時ロシアでも、ほんの数年前まで5コペイカ(日本円にして約20円)だった地下鉄の料金は滞在時に20倍になり、食品なども物によっては30~40倍にもなるという激しいインフレ下にあった。

7月の半ばに1ドル=130ルーブル程だったレート(1ルーブル=1円)は、帰国する頃には1ドル=240ルーブルと価値が半減していた。現在、勤労者の平均給料が3~4000ルーブルで、給料の遅配が3~5ヶ月という状況なので、当時は一ヶ月に10ドルあればなんとか生活が出来たというる事になる。[1993年3月現在では1ドル=700ルーブル近くにまでなり、地下鉄の料金や卵の値段もかつての100倍近くにまで跳ね上がっているとのことである]。

このような中で私は何度か自分がドストエフスキーの描いたあの時期のロシアに迷い込んだような錯覚に陥った。たとえば、あるとき私は友人のアパートを間違えて別の建物の部屋のベルを押してしまったことがあるが、その時、中から老婆の怒ったような声がして「誰だい、私は誰も入れないからね」と厳しく問いただされ、私が部屋を間違えたことを告げてあやまり立ち去りかけた時も、部屋の中からは「わたしゃ、誰も入れないよ」という老婆の怒鳴り声がしていた。その時、私はドアの後ろに誰も信じられずにおびえたように隠れている老婆の姿を連想し、一瞬自分がラスコーリニコフになったような気がした。老婆の声は一年で20倍にも物価が跳ね上がるインフレの中で、ほとんど売る物もなくわずかな食べ物だけで暮らしている多くの年金生活者たちの声を象徴していたのかも知れない。

ドストエフスキーは『罪と罰』の中で酔っぱらった少女を救おうとしてあきらめたラスコーリニコフに「お互いに喰らいあうがいいさ」と述べさせているが、娼家の建設をめぐるテレビの討論番組では、最近多くの少女たちが売春を一種の「自由恋愛」のようにとらえていることが強く指摘され、また性犯罪の急激な増加に触れて、そのような家の建設が早急に必要だと述べた婦人の意見が共感を持って受け入れられていたのが記憶に残った。

このような混沌の中で、現在の道徳的危機をロシアの歴史を学ぶことやロシア正教によって乗り切ろうとする動きが出てくるのは当然であろう。たとえば、歩道に机を置く露店商が一杯に並べて売っているのは推理小説やSF、さらにはポルノ小説などの本であったが、それらとともに聖書やロシアの聖者伝などキリスト教関係の書物やカラムジーンを初めとしてソロヴィヨーフ、クリュチェーフスキイなど革命前のロシアの歴史家の著作集も目についた。こうした過去の文化への関心が高まりの中で、ロシアの文化や正教の担い手としての評価を再びドストエフスキーに与える傾向も強まってきている。

今回のシンポジウムでもオスロの小さな正教会でドストエフスキーの追悼式が行われたが、単なる礼儀としてだけでなく信者として参加した人が前回よりも増えていたように感じた。そして、キリスト教的な面からドストエフスキーに迫ろうとする傾向は今回のシンポジウムでの発表にも及んでいた。

たとえば、ザハーロフ氏は冒頭でまず、ロシアではキリスト教の受容がキリル文字や文書の受容と重なることに注意を促して、ロシア文学とロシア正教との関わりの深さを指摘し、「ドストエフスキー作品のシンボルの研究でいまだ手が付けられていないテーマに常用暦と教会暦がある」と指摘した。そして、『貧しき人々』においてドストエフスキーが復活祭などキリスト教的な祭日を巧妙によけて描いていることや、一八四〇年代の作品でも四月一日、新年、「白夜」などの常用季節暦の日にシンボリックな意味を与えていたことを具体的に例証した。

しかし、投獄と流刑によって、作家の世界観は大きく変わり、「ドストエフスキーはキリスト教的な救済の概念を見いだしただけではなく、福音のテキストの中に限りない創作の可能性を発見した」と述べて、その後の作品において教会暦がどのような働きをしているかを明らかにしている。たとえば、ディケンズの『クリスマス・キャロル』のように世界文学にはクリスマス物というジャンルがあり、ドストエフスキーにおいても『死の家の記録』や『キリストのヨルカに召された少年』ではクリスマスが、シンボリックな意味を持っている。しかし、ドストエフスキーの作品においてとりわけ重要な役割を果たしているのは復活祭であり、ドストエフスキーは復活祭物と呼べるような新しいジャンルの作品を書いたと主張して、『死の家の記録』や『虐げられた人々』、『罪と罰』、『白痴』、『未成年』などの作品における復活祭の時期の重要さを強調した。

さらに、氏はナスターシヤ・フィリーポヴナがロシア正教会の聖ゲオルギーの日にトーツキーのもとを去ったこと、ギリシャ語で十字架を意味するスタヴロスから命名された『悪霊』のスタヴローギンが「十字架挙栄祭」の日に登場すること等をあげながら、「キリスト教徒の聖なる概念が、教会暦の一年の周期に表現されるようにドストエフスキーも最も深い部分の精神的で創造的な悔悟をキリスト教暦のシンボルによって表現している」と結んでいる。

このような傾向は他の発表にも見られた。たとえば、アメリカの研究者アンダーソン氏はまずラザロについての説教が『罪と罰』における宗教的な寓意の核心となっていることに注意を向けている。そして、氏はラスコーリニコフが石の下に財布を隠す場面とソーニャが彼に福音書のラザロの復活の箇所を読む場面を結び付けながら、これらの場面の描写がイコンの描写方法と似ていることを指摘して、二つの場面は、丁度二つ折のイコンに描かれた一対の絵のように深く結びついており、イコンの方法を意図的に採用することによって主人公の精神の埋葬と復活のテーマを浮かび上がらせていると主張した。また、イギリスの研究者キリーロワ女史はキリストのまねびとしての痴愚者の観点からムイシキンの形象について論じた。

このような作業はドストエフスキー自身が自らキリスト教的な作家であろうとしている以上、必然的な作業であろうし、こうした論文はロシアの文化的な特徴をより正確に捉え、ドストエフスキーの本質に迫る上でもいっそう広く紹介される必要があるだろう。ただ、このようなアプローチの方法が時として、ドストエフスキーに対する理解を「深める」のではなく、理解の幅を「狭める」ような傾向をも生み出しているようにも感じた。たとえば、夏目漱石の作品にも言及しながらドストエフスキーにおける美と共感の意味について論じた木下氏の発表は、多くの会員から共感を持って受け取られ高い評価を受けたが、「ロシア正教的な見方からすると美と共感とを同列に並べて論じることは邪道ではないか」といった主旨の強い反論も出されたのである。

既に述べたように、ドストエフスキーにおけるロシア正教的な視点に留意することは必要だろう。しかし、ドストエフスキーをロシア正教徒として限定してしまうことは危険性をも伴うように思われるのである。たとえば、キリスト教受容一千年を記念した絵では、最前列の中央に蝋燭を持ったドストエフスキーが描かれている。だが、この絵ではドストエフスキーだけでなく、キエフ公国を滅ぼした異教徒のバトゥ汗も苦悩する裸の乙女の隣にうす笑いを浮かべて座っている姿で描写されてもいた。ロシア人の民族意識を高揚させるようなこの絵が、今もなおモンゴル系などの少数民族やイスラム教徒を多く抱えるロシア連邦において、ロシア人以外の人々にどのような感情を抱かせるかを想像するのはさほど難しくはないだろう。

歴史文化財保護協会から派生したグループ「パーミャチ(記憶)」がその民族主義的性格を強めて反ユダヤ主義を標榜しているように、厳しい政治的・経済的状況の中ではロシア史への関心の増大ですらも、それが拝外的な民族主義と結びつくとき、武力を伴う民族間の衝突に発展しかねない危険性を含んでいる。同じことは宗教についても当てはまるだろう。平和的に見える宗教ですらもそれが民族主義的な傾向と結びつくとき、民族間の対立を煽るという結果を招きかねないように思える。

シンポジウムの最後の日には「ドストエフスキーと現代」いうセッションが設けられたが、そこで発表された論文のいくつかとそれをめぐる白熱した論議は、このような民族・宗教問題に直接かかわるものであった。まず、ポーランドの研究者ラザリ氏は最近のロシアの民族主義者たちがドストエフスキーの唱えた「大地主義」を標榜しながら、ドストエフスキーの後継者を自称していることを具体的に例証し、ドストエフスキーに対するこのような理解が生み出す危険性を指摘するとともにロシアにおいては個人の自立が弱いと述べて、「ナシズム(我々主義)」と名付けられるような全体主義の傾向が強いとも主張した。

これに対してロシアの研究者からは、そういった片寄った理解が広まらないように私達はこのような会を通してドストエフスキーの全体像を伝えるように努力せねばならないという強い反論が出され、発表者から自分の意図もドストエフスキーを誹謗することにあるのではないという表明があった。また、最近のユーゴスラヴィアの内戦に触れてそれを平等や友愛といった「理念」の崩壊とを結びつけたマケドニアの発表者ジュルチノフ氏に対しては、現在の混乱は「理念」の崩壊と理解するよりも、かつての社会主義諸国における宗教の欠如の結果ではないかというロシアの学者からの強い反論があり、これに対してロシア正教の歴史は必ずしも流血を防げはしなかったことを証明しているのではないかと主張してマケドニアの学者を援護する意見も出された。

私にとって興味深かったのは、これらの発言が単に個人的な見解の違いだけによるものではなく、ようやく宗教の自由が確保されたロシア、長い間ロシアの政治的支配下にあったポーランド、いまなお激しい内戦が続く旧ユーゴスラヴィアの諸国に隣接するマケドニアなどそれぞれの国の歴史的状況の違いをも大きく反映していたことである。

ただ、ほとんど同じ言語を話すボスニア・ヘルツェゴヴィナのセルビア人、クロアチア人、ムスリム人の三つの勢力が、カトリック、正教、イスラムという宗教の違いから分かれ、憎しみあい殺しあっている現状は、各々の宗教が持つ文化的な価値は認めつつも、様々な宗教の違いをも越えて「共生」を主張しうるような「理念」を私達が早急に確立せねばならないことを物語っているように思える。そしてその際、私たちは「殺すこと」について深い考察を行ったドストエフスキーの作品から学ぶとともに、ドストエフスキーを理想化することなく後期の論文で彼が述べているような排外的な民族主義的発言に対しては厳しく批判せねばならないだろう。

次回のシンポジウムはオーストリアで1995年の8月1日から5日まで開催されることが決定した。その時ドストエフスキーの宗教・民族観はいかなる状況のもとで語られ、どのような議論がなされるのだろうか。これからも注目していきたい。

(本稿では肩書きは省略した。HPへの掲載に際しては人名と国名表記を一部、変更するとともに、文意を正確に伝えるために最低限の訂正を行った)

 (『ドストエーフスキイ広場』第三号、1993年)。

大木昭男氏の「ドストエーフスキイとラスプーチン」を聴いて

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大木昭男氏の「ドストエーフスキイとラスプーチン ――中編小説『火事』のラストシーンの解釈」を聴いて

今回の発表は、イタリアの国際的文学賞を受賞した短編などを収録した作家ラスプーチンの短編集『病院にて――ソ連崩壊後の短編集』〈群像社〉の翻訳を公刊したばかりの大木氏の発表であった。

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ラスプーチンとは個人的にも旧知の間柄である大木氏は、波乱にとんだ作家の人生を略年譜で分かりやすく説明しながら、中編小説『火事』のラストシーンでの「永遠に姿を消してしまう」という描写の謎に鋭く迫った。ことに、宮沢俊一訳を踏まえて新らしく訳出した最終章の朗読は、重厚で深い陰影と示唆に富む文体をとおして、ラスプーチン自身の生の声を聞くような感さえあり、聴衆の深い共感を呼んで『火事』全体を大木訳で読んで見たいという感想も出たほどであった。

そして、正教における「復活」の重要性を強調した氏は、ラスプーチンも洗礼を受けて正教徒となっていることに注意を促して、『火事』の主人公と『カラマーゾフの兄弟』の「ガリラヤのカナ」におけるアリョーシャの体験の描写との類似性を指摘した。さらに、大木氏はドストエフスキーが1864年のメモで人類の発展を、1,族長制の時代、2,過渡期的状態の文明の時代、3,最終段階のキリスト教の時代の三段階に分類していたことを指摘し、『火事』とドストエフスキーの『おかしな男の夢』の構造を比較することで、その共通のテーマが「己自らの如く他を愛せよ」という認識と「新しい生」への出発ということにあると述べた。

特に私が関心を持ったのは、『白痴』における「サストラダーニエ(共苦)」という用語や「美は世界を救う」というテーマの重要性を強調した氏が、ムィシキンを「シベリアから還った」とする小林秀雄の解釈には無理があり、むしろ未来の「キリスト教の時代」から来たと言うほうが適切だろうと批判した点である。

たしかに、芦川進一氏が指摘するように「『白痴』Ⅱ」に記された「聖書には、生きる事に関する、強い素朴な一種異様な畏敬の念が一貫していて、これが十字架のキリストに至って極まっている様に見える」という文章は名文で心に深く残る。しかし、第3章に記されたこの文章は、第9章の「『キリスト公爵』から、宗教的なものも倫理的なものも、遂に現れはしなかった。来たものは文字通りの破局であって、これを悲劇とさへ呼ぶ事はできまい」という文章へと続いているのである。小林秀雄のムィシキン観の問題は、今後の詳しい検討の課題といえるだろう。

「農村」の重要性を訴えた作家の視点に対しては、果たしてこのような価値が現代において意味を持ちうるのかという鋭い質問も出されたが、「原発などによるすさまじい環境破壊」で「人類が危機的状況」にある一方で、夢物語のように思われていた自然エネルギーは、科学の発展によって可能性を増大させている。ドストエフスキーが唱えた「大地(土壌)主義」とその問題意識を現代に受けついでいる作家ラスプーチンとその作品の意味はきわめて大きいと思える。

「ドストエーフスキイの会 ニュースレター」117号

 (201年1月12日改訂、2015年3月26日、「ドストエーフスキイの会」〈第215回例会傍聴記〉より改題)。

「主な研究(活動)」のページ構成

Ⅰ、 (ドストエフスキー、ロシア文学、堀田善衞、小林秀雄関係)

 Trutovsky_004

(26歳時のドストエフスキーの肖像画、トルトフスキイ絵、図版はロシア語版「ウィキペディア」より)

 

Ⅱ、 (司馬遼太郎、正岡子規、近代日本文学関係)

Akutagawa_ryunosuke

(芥川龍之介の写真、Yokohama045、図版は「ウィキペディア」より) 

 

Ⅲ、市民講座と例会 

3-1,講演・市民講座(2011年~2017年)

3-2,講演・市民講座(2001年~2010年)

3-3,「ドストエーフスキイの会」例会一覧(第218回~第239回)