高橋誠一郎 公式ホームページ

『白痴』

学徒兵・木村久夫の悲劇と映画《白痴》

 真実の「わだつみ」 学徒兵木村久夫の二通の遺書

はじめに

戦没学徒の遺稿を集めた『きけ わだつみのこえ』(1949年、東大協同組合出版部)の中でも感動的な遺書を書いたことで知られる陸軍上等兵・木村久夫(1918~46年)の新たに見つかった遺書と事件の全容を記した『真実の「わだつみ」』が刊行された(以下、この本からの引用頁数は本文のかっこ内にアラビア数字で示す)*1。

「戦犯」の問題や死刑囚の精神的な苦しみだけでなく、当時の日本の統治の在り方などにも関わるその内容は、「無実の罪」で処刑された兵士の苦悩を描いた映画《私は貝になりたい》を思い起こさせるばかりでなく、死刑囚の気持ちも詳しく描いていたドストエフスキーの長編小説『白痴』の映画化を行った黒澤監督の映画《白痴》(1951年)の内容とも深く関わっていると思われる。

一、学徒兵・木村久夫の悲劇と『私は貝になりたい』

大阪府吹田市出身の木村は京都帝大に入学後、召集され、陸軍上等兵としてインド洋・カーニコバル島に駐屯した。説明によればこの島は、「『絶対国防圏』の西側の最前線」であり、もともとは英国領だったが日本軍が無血上陸し、翌年の秋には「第一飛行場の滑走路が完成していた」(122)。

この島で民政部に配属され通訳などをした木村は、「英語を話すインド系の住民だけでなく、現地語を覚えて先住民たちとも」熱心に交流していた(124)。しかし、当初は制空権も確保して平和に見えたこの地でも戦況が徐々に悪化し、ついには全滅も覚悟しなければならないほどに追い詰められるようになった。そのようななかで「スパイ事件」が起きたのである(130~146)。

陸軍から軍需米を盗んだ2名の原住民をスパイの疑いがあるとして取り調べることを依頼された木村が取り調べたところ、「民生部の協力者」で「ある程度、日本語も解する」インド人の医師ジョーンズとインド人から信号弾を手に入れたと2人は自供した。しかし、すでに2人は拷問を受けた形跡があり、さらに「海軍主導の民生部の捜査が甘い」とした陸軍参謀らは「住民を人間のように取り扱うのではなく、ぶって、急いで自白を引き出せ」と命じて凄惨な取り調べを行い、その結果、大規模なスパイ団にかかわっていたとされた者81人が軍律裁判抜きで死刑とされ、他にも取り調べ中に4名が死亡した。

日本軍が1945年10月に上陸した連合国軍によって日本軍が武装解除された後でこの事件が明るみに出、木村はスパイ容疑で住民を取り調べた際に拷問して死なせたとしてB級戦犯に問われた。しかし、シンガポールの戦犯裁判では、上官から真相を話すことを禁じられていた木村はあいまいな供述に終始した(147~156)。

その結果、「拷問を伴う取り調べを命じ、処刑を指示した参謀は無罪、中佐は懲役3年だったのに対し、指示通りに取り調べた」木村ら末端の兵士・軍属五人は死刑を言い渡されて、1946年5月に「絞首刑」の刑が執行された。木村は28歳だった。

木村は死刑を宣告されてから哲学者・田辺元の『哲学通論』を手にし、感激して読むとともに、本の余白に遺書を書き込んでいた。木村は「私のごとき者の例は、幾多あるのである」(28)と書いていたが、無実にもかかわらず戦犯として処刑されるというテーマは、加藤哲太郎の遺書『狂える戦犯死刑囚』を原作として、黒澤の映画《羅生門》や《生きる》《七人の侍》などにも脚本家として参加していた橋本忍がテレビドラマ化した《私は貝になりたい》(1958年)のテーマを思い起こさせる。

→1958年「私は貝になりたい」ダイジェスト – YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=3eoum9iEKEk

 「上官の命令は事のいかんを問わず天皇陛下の命令だ」と言われて捕虜の殺害を命じられた兵士の清水豊松は、手元がブルブル震えたためにかすり傷を負わせただけだったので上官から「足腰も立たんほどブン殴られた」*2。

それにもかかわらず捕虜殺害の罪に問われた豊松は、裁判で「あなたは、その命令をどうして断らなかったのですか?」と問われると、「(呆れ返る)分からねぇんだな、そんなことしようもんなら銃殺だよ」と反論するが、判事からは「不当な命令と思えば、軍律会議に提訴すればよいではないか?」と厳しく批判され、力なく「日本の軍隊では、二等兵は牛や馬と同じなんですよ、牛や馬と!」呟いたのである*3。

解説者の保坂正康が書いているように、「BC級戦犯裁判」では「上官が命令したことを認めない」ために、「無実でありながら絞首刑や有期刑を宣告された人たちが多い」状態だったのである*4。

こうして、罪もなく処刑されることになった清水豊松の「深い海の底なら……戦争もない……兵隊もない……(中略)どうしても生まれ代わらなければいけないのなら……私は貝になりたい……」という深い絶望の言葉でこのドラマは終わる。

二、『真実の「わだつみ」』の木村久夫と映画《白痴》の亀田欽司

木村久夫はその遺書で「吸う一息の息、吐く一息の息、食う一匙(ひとさじ)の飯、これらの一つ一つのすべてが、今の私に取っては現世への触感である。昨日は一人、今日は二人と絞首台の露と消えて行く、やがて数日のうちには、私へのお呼びもかかって来るであろう。それまでに味わう最後の現世への触感である。今までは何の自覚なくして行ってきたこれらのことが、味わえばこれほど切なる味を持ったものなることを痛感する次第である」と書き、「ただ与えられた瞬間瞬間をただありがたく、それあるがままに、享受していくのである」と続けていた(59-60)。

ドストエフスキーも長編小説『白痴』で死刑囚の気持ちについて詳しく記していたが、その長編小説を映画化した黒澤監督は、主人公を戦犯の罪で「銃殺」されそうになっていたが、「きわどいところで執行停止」になっていた若い兵士の亀田にしていた。そして銃殺される寸前の気持ちを綾子(アグラーヤ)から尋ねられた亀田は、「もし死ななかったら」、「その一つ一つの時間を……ただ感謝の心で一杯にして生きよう……ただ親切にやさしく……そういう思いで胸が破けそうでした」と語っていた*5。

黒澤明自身は徴兵されたことはなかったが、盟友の本多猪四郎は三度も赤紙で兵役に召集されており、本多夫人は「戦争が終わってから亡くなるまでの間、年二、三回、夜中にうなされ」ていたという重い証言をしている*6。

映画《白痴》の冒頭では、戦場から帰還した復員兵が北海道に向かう青函連絡船の三等室で夜中に「悪夢」にうなされて悲鳴をあげるというシーンを描いていた。そして亀田には、その後何度も発作を起こして沖縄の病院で治療したものの、「その時のショックで頭が狂って了って」白痴になったと初対面の赤間(ロゴージン)に正直に告げさせ、「戦争」を体験した兵士の極限的な精神状態を描いていた*7。

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娘の黒澤和子も黒澤監督が本多監督とよく戦争のことを話しており、「軍から命令が下されれば、現場の状況が無視され、様々な人格が破壊される、それが戦争の『悪』だと言っていた」という趣旨のことを語っていたが、『イノさんのトランク』という題名のドキュメンタリー番組では、トランクから見つかった本多の手紙には、本多が目撃した現地の情況とともに、「上等兵が、途中、数人の鮮人の若者を銃剣で突き殺す…」という文言や、「秋空のもとでこんな記事を書いているオレも現実の生活になれてしまったのだ。といっても、平気でいなければ気でも狂うか、自殺でもしなければならない」との記述も見られるのである(下線引用者)*8。

『真実の「わだつみ」』で、「南方占領後の日本軍人は、毎日利益を追う商人よりも根底の根性は下劣なものであった」という厳しい木村の言葉を紹介した加古は、木村らを犠牲にして生きのびた元中佐の坂上が、1957年に青森県弘前市で行われた聞き取り調査では、シンガポールで行われた戦犯裁判で口裏を合わせて虚偽の供述をしたのは、「軍の体面上又旅団長を救うため」だったと答えたことを紹介している*9。

旅団長の斎俊男少将自身が「責任は私にある」と潔く認めて「銃殺刑」に処せられていたことを考慮するならば、参謀たちが虚偽の供述を命じたのは自分を守るためだけだったことになる。しかし、木村の上官だった鷲見(すみ)豊三郎はその手記で、民生部側が「『死刑は数名にとどめ、残りは有期刑に』と提案したが、参謀の斎藤や中佐の坂上らは『刑務所のない孤島でいかにして実施しうるか』と、一蹴した」と記していた(138)。

加古はこの「スパイ事件」そのものが虚構だった可能性も指摘しているが、鷲見の記述から判断するとこの事件の隠蔽は単に自分たちの罪を隠すだけではなく、「戦争」に勝つことを至上目的とし、そのためには占領地の住民を殺すことも正当化していた参謀本部の思想そのものを隠蔽しようとしていた可能性さえあると思える*10。

これらのことに注意を向けるならば、木村久夫と同じように映画《白痴》の亀田欽司も、日常生活ではいかなる場合でも人を殺せば、「殺人犯」となるが、「敵」を多く殺した者が「英雄」になり勲章を与えられるという「戦争」というきわめて異常な事態のことをよく認識していた人物として描かれていたといえるだろう。

実際、本多監督は映画《白痴》をめぐる座談会で「人間が冷静な思考を常にもつことができるとしたならば、戦争などは起こらないはずである、/戦争というものは、決して打算をはじいたらできることではない、多くの生命を失い、資材も浪費する、たとえ勝っても──敗ければもちろんだが、勝ったって決して得のいかない戦争などということは、人間が理性を失わないかぎり起こるものではない」と語り、この映画の意義を強調していたのである*11。

しかもドキュメンタリー番組『イノさんのトランク』では、黒澤監督が一九四二年(昭和十七年)の手紙で、「実際に戦っている兵隊の苦労は、しょせん、内地に居ちゃわかる訳がない。すまんすまんと云うより外はなく、それもまた何か白々しく、それも結局、心の隅の方に絶えず戦っている兵隊さんの事が、良心の呵責のように積もり積もっていく」と書いていたことも紹介されていた(太字は引用者)。

「倫理」や「道徳」に深く関わる「良心」という単語は、日本の社会や日常生活においては深くは定着していないように見えるが、ドストエフスキー作品においては『罪と罰』や『白痴』などの長編小説で「核」ともいえる重要な役割を担っている「良心」という用語が、黒澤監督の手紙では自然な形で用いられていたのである。

「せめて一冊の著述でも出来得るだけの時間と生命が欲しかった」とその遺書に記した木村久夫の処刑が実行されなかったならば、亀田欽司のような復員兵になっていた可能性が高いだろうし、旧制高知高校時代の恩師・塩尻公明によって木村の遺書の抜粋が1948年に月刊誌『新潮』の6月号に発表されていたことを考慮するならば(164)、映画《白痴》の構想にも影響していた可能性さえあるかもしれない。

つまり、長編小説『白痴』について文芸評論家の小林秀雄は、三角関係の愛情のもつれなどに焦点を当てて解釈していたが、黒澤監督が映画《白痴》で示唆したようにこの長編小説では「敵」を殺す事を「正義」とする「戦争」に対する重たい問題が提起されていたといえるだろう*12。 新たに見つかった木村久夫の遺書は、当時の植民地政策の問題点を明らかにするとともに、国の根幹にかかわる「憲法」に抵触すると思われる「特定秘密保護法」や「集団的自衛権」などが閣議決定されている現在の日本の危険性をも浮き彫りにしていると思える。  

 

*1 加古陽治『真実の「わだつみ」――学徒兵 木村久夫の二通の遺書』東京新聞、2014年。

*2 橋本忍『私は貝になりたい』(原作:加藤哲太郎『狂える戦犯死刑囚』)朝日文庫、2008年、59頁、79頁。

*3 同上、70頁。

*4 保坂正康「解説」、前掲書、『私は貝になりたい』、190頁。

*5 『全集 黒澤明』第3巻、岩波書店、1988年、87頁。

*6 ドキュメンタリー番組『イノさんのトランク』、NHK・BSプレミアム、2012年12月20日。

*7 『全集 黒澤明』第3巻、岩波書店、1988年、75頁。

*8 堀伸雄「試論・黒澤明の戦争観」(『黒澤明研究会誌』第二九号)より引用。なお、本多きみ『ゴジラのトランク 夫・本多猪四郎の愛情、黒澤明の友情』宝島社、2012年、『僕らを育てた本多猪四郎と黒澤明──本多きみ夫人インタビュー』アンド・ナウの会、平成22年なども参照。

*9  加古陽治「『わだつみ』木村久夫処刑」東京新聞、2014年8月15日 朝刊。

*10 司馬遼太郎は『坂の上の雲』において「国家のすべての機能を国防の一点に集中する」という「プロシャの参謀本部方式」を陸軍が取り入れたことが、日本を無謀な太平洋戦争にまで引きずりこむことになったことを明らかにしていた(高橋『司馬遼太郎の平和観――「坂の上の雲」を読み直す』東海教育研究所、2005年参照)。

*11 黒澤明・浜野保樹『大系  黒澤明』第1巻、講談社、2009年、627頁。

*12 高橋『黒澤明と小林秀雄――「罪と罰」をめぐる静かなる決闘』、成文社、2014年、序章参照。

追記:本稿を脱稿後に映画《白痴》の前年に公開された黒澤映画《醜聞(スキャンダル)》(1950年)でも主演した女優の山口淑子氏が亡くなられた。その後の報道番組で李香蘭という中国名で多くの映画に出演していたために祖国を裏切ったという罪で銃殺になるはずだった山口氏が、日本人であることが証明されて無罪となり、戦後は「贖罪」として平和活動に奔走されていたことを知った。彼女が語った「贖罪」という言葉は、映画《白痴》の亀田(ムィシキン)像を考える上でもきわめて重要だと思える。

世界文学120号(『世界文学』No.120、2014)  

(2019年3月5日、書影とユーチューブを追加)

「広場」23号合評会・「傍聴記」

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「広場」23号合評会を聴いて

                     

 7月19日の例会では『ドストエーフスキイ広場』第23号の論文を中心に合評会が行われた。紙面の都合から議論となった争点を中心に順を追って紹介していきたい。

 原口美早紀氏の論文「『白痴』におけるキリスト教思想」を論じた福井勝也氏は、ドストエフスキーの手紙を引用することで「ドストエフスキイのキリスト教思想はヨハネ福音書に多く依っている」ことを指摘したこの論文を高く評価する一方で、手紙の同じ箇所を引用しつつも小林秀雄が「ポジとしてのイエス」に対して「陰画(ネガ゙)としてのイエス」という視点を提示していたことを強調した。

 この論文に関してはもっとも注目されたのは、原口氏の視点で、『白痴』のムィシキンには「ヨハネ福音書」のイエス像と同じように「喜びの福音を伝える者」としての要素が大きく、またイッポリートが「弁明」を書いた理由も彼が「饗宴」を求めたからだろうとの解釈だった。この解釈は説得力があるという意見が目立った。

 高橋論文「『シベリヤから還った』ムィシキン」を論じた木下豊房氏は、E.H.カーが小林秀雄の視点に及ぼした影響はかなり強く、ナスターシャが「商人の妾」であることや「キリスト教への発心」の時期が『悪霊』以降であるという説をカーが書いていることを明らかにするとともに、「小林にとっての最大の関心事は、観念に憑りつかれた人間が、駆り立てられるようにカタルシスに向かってたどる心理的プロセス」であったと指摘し、小林のドストエフスキー論の背景に戦争に向かう当時の時代情況を見ようとすることやエウゲーニイにムイシキンの告発者としての役割などを見ることは「深読み」であろうとの批判がなされた。

 しかし、ムィシキンを「シベリヤから還った」者と規定した小林秀雄が、『罪と罰』論では殺人を犯した主人公には「罪の意識も罰の意識も遂に彼には現れぬ」と記していたことやエヴゲーニイがプーシキンの愛読者でもあったことにも注意を払わねばならないだろう。「黒澤と小林を対比する方法によって、小林についていろいろ見えてくるものがあるのは確か」との指摘はきわめて重要だと思われた。

 大木昭男氏の論文「ドストエーフスキイとラスプーチン」を論じた近藤靖宏氏は、まず中編小説『火事』が書かれたのが、チェルノブイリ原発事故があったことに聴衆の注意を促すことで、この作品が書かれたソ連の時代状況を示し、『カラマーゾフの兄弟』の「ガラリアのカナ」におけるアリョーシャの体験の描写と比較しながら、『火事』でも実際の風景と心象風景が組み合わされて迫力のある描写になっていることを指摘した。

 その一方で、この作品で描かれている農村や主人公の情況が日本の読者には不明な点が多いので、二人の作家の内的な関係が今ひとつ分かりにくいとの感想もあったが、その点では論文では削除されていたが、報告では触れられていた『おかしな男の夢』における「覚醒」の問題や、『火事』でも頻出する「良心」という単語の役割がより明確になると二人の作家の比較が説得力をもったのではないかとの意見も出された。

 清水孝純氏の「ドストエフスキーとグノーシス」の予定していた論評者が出席できなくなったために、急遽、代役を引き受けられた木下氏は清水論文の問題提起を受けて「グノーシス主義にとって、善悪の問題は知による認識にかかわるもの」だが、ドストエフスキーにとって善悪の問題は、「信仰、不信仰の問題と深く結びついていて、人物創造の基軸をなしている」とし、作家が子供の頃に読み『カラマーゾフの兄弟』でもゾシマ長老に語らさせていた「「『旧・新約聖書の百四つの物語』という美しい絵入りの本」にも収められていた「ヨブ記」の重要性を指摘した。

 すでに字数を大幅に越えたが、主人公たちの娼婦に対する言説を考察した西野常夫氏の「椎名麟三の『地下室の手記』論と『深尾正治の手記』」のテーマがきわめて深い内容であり、椎名麟三への関心もあるので、ぜひ例会での発表をお願いして質疑応答をゆっくりとしたいとの言葉が印象に残った。

 残念ながら、当日の参加者は少なかったが、「ドストエーフスキイの会」を活性化するためにも、遠方の会員も参加しやすいような形が模索されるべき時期に来ているのではないかと感じられた。

 

あとがきに代えて──小林秀雄と私

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あとがきに代えて──小林秀雄と私

 

 「告白」の重要性に注意を払うことによって知識人の孤独と自意識の問題に鋭く迫った小林秀雄のドストエフスキー論は、それまで高校の文芸部で小説のまねごとのような作品を書いていた私が評論という分野に移行するきっかけになった。原作の文章を引用することにより作品のテーマに迫るという小林秀雄の評論からは私の文学研究の方法も大きな影響を受けていると思える。

 『カラマーゾフの兄弟』には続編はありえないことを明らかにしていただけでなく、「原子力エネルギー」の危険性も「道義心」という視点から批判していた小林の意義はきわめて大きい。

 しかし「『罪と罰』についてⅠ」で、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」と書いた小林秀雄が、「『白痴』についてⅠ」で「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない、シベリヤから還つたのだ」と記していたことには強い違和感を覚えた。

 さらに、小林秀雄のドストエフスキー論を何度も読み返す中で、原作から多くの引用がされているがそこで記されているのは小林独自の「物語」であり、これは「創作」ではないかという深刻な疑問を持つようになった。

 ただ、これまで上梓した著作でほとんど小林秀雄に言及しなかったのは、長編小説『白痴』をきちんと読み解くことが意外と難しく、イッポリートやエヴゲーニーの発言に深く関わるグリボエードフの『知恵の悲しみ』やプーシキンの作品をも視野に入れないとムィシキンの恩人やアグラーヤの名付け親など複雑な人物構成から成り立っているこの長編小説をきちんと分析することができないことに気づいたためである。

 『黒澤明で「白痴」を読み解く』(成文社、二〇一一年)でようやく黒澤監督の映画《白痴》を通してこの長編小説を詳しく分析したが、小林秀雄のドストエフスキー論について言及するとあまりに議論が拡散してしまうために省かざるをえなかった。

 少年の頃に核戦争の危機を体験した私がベトナム戦争のころには文学書だけでなく宗教書や哲学書なども読みふけり、『罪と罰』や『白痴』を読んで深い感銘を受けたことや、『白痴』に対する私の思いが揺らいだ際に「つっかえ棒」になってくれたのが黒澤映画《白痴》であったことについては前著の「あとがき」で書いた。ここでは簡単に小林秀雄のドストエフスキー論と私の研究史との関わりを振り返っておきたい。

 *    *  *

  小林秀雄は、戦後に書いた「『罪と罰』についてⅡ」で、「ドストエフスキイは、バルザックを尊敬し、愛読したらしいが、仕事は、バルザックの終つたところから、全く新に始めたのである」と書いた。そして、「社会的存在としての人間といふ明瞭な徹底した考へは、バルザックによつてはじめて小説の世界に導入されたのである」が、「ドストエフスキイは、この社会環境の網の目のうちに隈なく織り込まれた人間の諸性格の絨毯を、惜し気もなく破り捨てた」と続けていた。〔二四八〕

 しかし、知識人の自意識と「孤独」の問題を極限まで掘り下げたドストエフスキーは、バルザックの「社会的存在としての人間」という考えも受け継ぎ深めることで、「非凡人の理論」の危険性などを示唆していた。この文章を読んだときには小林が戦争という悲劇を体験したあとでも、自分が創作した「物語」を守るために、原作を矮小化して解釈していると感じた。

  それゆえ、修士論文「方法としての文学──ドストエフスキーの方法をめぐって」(『研究論集 Ⅱ』、一九八〇年)では、感覚を軽視したデカルト哲学の問題点を批判していたスピノザの考察にも注意を払いながら、社会小説の側面も強く持つ『貧しき人々』から『地下室の手記』を経て『白痴』や『未成年』に至る流れには、シェストフが見ようとした断絶はなく、むしろテーマの連続性と問題意識の深まりが見られることを明らかにしようとした。

  上梓した時期はかなり後になったが、厳しい検閲制度のもとで戦争の足音が近付く中で、なんとか言論の自由を確立し農奴制を改革しようとしたドストエフスキーの初期作品の意味をプーシキンの諸作品などとの関わりをとおして考察した『ロシアの近代化と若きドストエフスキー ――「祖国戦争」からクリミア戦争へ』(成文社、二〇〇七年)には、私の大学院生の頃の問題意識がもっとも強く反映されていると思える。

 ラスコーリニコフの「罪の意識と罰の意識」については、「『罪と罰』における「良心」の構造」(『文明研究』、一九八七年)で詳しく分析し、その論文を元に国際ドストエフスキー学会(IDS)で発表を行い、そのことが機縁となってイギリスのブリストル大学に研究留学する機会を得た。イギリスの哲学や経済史の深い知識をふまえて、『地下室の手記』では西欧の歴史観や哲学の鋭い批判が行われていることを明らかにしていたピース教授の著作は、後期のドストエフスキー作品を読み解くために必要な研究書と思える(リチャード・ピース、池田和彦訳、高橋編『ドストエフスキイ「地下室の手記」を読む』のべる出版企画、二〇〇六年)。

 この時期に考えていた構想が『「罪と罰」を読む──「正義」の犯罪と文明の危機』(刀水書房、一九九六年、新版〈追記――『「罪と罰」を読む(新版)――〈知〉の危機とドストエフスキー』〉、二〇〇〇年)につながり、そこでラスコーリニコフの「良心」観に注意を払いつつ、「人類滅亡の夢」にいたる彼の夢の深まりを考察していたことが、映画《夢》の構造との類似性に気づくきっかけともなった。

 日露の近代化の類似性と問題点を考察した『欧化と国粋――日露の「文明開化」とドストエフスキー』(刀水書房、二〇〇二年)でも、雑誌『時代』に掲載された『虐げられた人々』、『死の家の記録』、『冬に記す夏の印象』などの作品を詳しく分析することで小林秀雄によって軽視されていた「大地主義」の意義を示そうとした。

 プーシキンの『ボリス・ゴドゥノフ』については授業では取りあげていたが、僭称者の問題を扱う予定の『悪霊』論で本格的に論じようとしていたためにこれまで言及してこなかった。今回、この作品における「夢」の問題にも言及したことで、『罪と罰』から『悪霊』に至る流れの一端を明らかにできたのではないかと考えている。

 「テキスト」という「事実」を自分の主観によって解釈し、大衆受けのする「物語」を「創作」するという小林の方法は、厳しい現実を直視しないで威勢のよい発言をしていた鼎談「英雄を語る」*などにおける歴史認識にも通じていると思える。このような方法の問題がきちんと認識されなければ、国民の生命を軽視した戦争や原発事故の悲劇が再び繰り返されることになるだろう。

 「『罪と罰』をめぐる静かなる決闘」という副題が浮かんだ際には、少し大げさではないかとの思いもあった。しかし、本書を書き進めるにつれて、映画《白痴》が小林の『白痴』論に対する映像をとおしての厳しい批判であり、映画《夢》における「夢」の構造も小林の『罪と罰』観を生涯にわたって批判的に考え続けていたことの結果だという思いを強くした。黒澤明は映画界に入る当初から小林秀雄のドストエフスキー観を強く意識しており、小林によって提起された重たい問題を最後まで持続して考え続けた監督だと思えるのである。

 時が経つと不満な点も出て来るとは思うが、現時点では本書がほぼ半世紀にもわたる私のドストエフスキー研究の集大成となったのではないかと感じている。

 黒澤明監督を文芸評論家・小林秀雄の批判者としてとらえることで、ドストエフスキー作品の意義を明らかにしようとした本書の方法については厳しい批判もあると思うので、忌憚のないご批判やご助言を頂ければ幸いである。

 

注 1940年8月に行われた鼎談「英雄を語る」で、「英雄とはなんだらう」という同人の林房雄の問いに「ナポレオンさ」と答えた小林秀雄は、ヒトラーも「小英雄」と呼んで、「歴史というやうなものは英雄の歴史であるといふことは賛成だ」と語っていた。

戦争に対して不安を抱いた林が「時に、米国と戦争をして大丈夫かネ」と問いかけると小林は、「大丈夫さ」と答え、「実に不思議な事だよ。国際情勢も識りもしないで日本は大丈夫だと言つて居るからネ。(後略)」と続けていたのである。この小林の言葉を聴いた林は「負けたら、皆んな一緒にほろべば宣いと思つてゐる」との覚悟を示していた。(「英雄を語る」『文學界』第7巻、11月号、42~58頁((不二出版、復刻版、2008~2011年)。

(2014年5月3日、注の加筆:7月14日)

 

黒澤映画《夢》と消えた「対談記事」の謎

   

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 一、フクシマの悲劇

 二〇一一年三月一一日に東日本大震災が起きたのは、大学の会議が終わった直後のことで、立っていることも出来ないような大きな揺れだった。慌てて会議室から外に出たあとでもう一度大きな揺れを感じながら、地殻変動でできた日本が地震大国であることを実感した。

 しかも、一九八六年のチェルノブィリ原発事故の際には長期留学生を引率してモスクワに滞在しており、風向きによっては被爆する可能性もあったが、ソ連のニュースだけでなく、日本大使館からもほとんど情報が伝わらずに、西欧から来た留学生たちが自国の大使館から得てくる情報に頼るしかなかったという経験をしていた*1。

 テレビやインターネットに映し出された福島第一原子力発電所の静止画像から目を離すことができずに食い入るように画像を見つめ続けていた私は、同僚の一人から日本の技術は進んでいるので大丈夫ですよと慰められた。

 しかし、イギリスのブリストル大学で研究をしていた一九九五年一月には、日本からの電話で慌ててテレビのニュースをつけると阪神淡路大震災で町中が燃えており、翌日には大地震でも大丈夫と喧伝されていた高速道路の橋桁が大きく曲がっている写真が大きく新聞に載っていた。その記事を読みながら、関東大震災から五〇年目の一九七三年に発表された小松左京の『日本沈没』を思い出して、日本では自然の恩恵は強調する一方でその猛威に対する認識はきわめて甘いのではないかという不安を強く持っていた。

 実際、大地震で止まった電車の回復を待っている時に福島第一原子力発電所の「炉心が冷却できない状態にある」ことを知った。翌朝も目覚めてからは三〇分おきにテレビのニュースで何事も起きていないことを確認していたが、午後四時過ぎに危惧していたことが起きた。

 一号機が水素爆発を起こしたあとで明らかになったのは、政・官・財が一体となって「絶対安全」だと宣伝していた原子力発電所には原子炉を冷やすために水を放水する消防車やきちんとした防護服もなく、さらに日本が最先端の技術を有すると誇っていたロボットも動かなかったことである。そして、使用済み核燃料が放置された古タイヤのように燃え出し、原子炉がメルトダウンして放射線が空気中に放出されただけでなく、被爆した大量の水が海に流れ出た。チェルノブイリ原発事故にも匹敵するような大事故は、核実験を続けてきたフランスやアメリカの技術支援によってようやく、最大の危機を脱したが、汚染水の流出は事故から三年経った現在も止まっていない。

二、黒澤映画《夢》と長編小説『罪と罰』における夢の構造

 刻一刻と悪化する福島第一原子力発電所の状況を見ながら思い起こしたのは、一九九〇年に公開された全八話からなるオムニバス形式の映画《夢》の第六話「赤富士」で今回の事故を予言していたとも思えるほどの迫力で原発事故が描かれていたことであった。

 アメリカの水爆実験によって被爆した「第五福竜丸」事件の後で撮った映画《生きものの記録》(シナリオの最初の題名は『死の灰』)では、原爆実験や核戦争の危険性を本能的に感じて日本からブラジルへと移住しようとした老人の決意と苦悩を描き、そのラスト・シーンでは精神を病んで精神病院に収容された主人公が夕日を見て「とうとう地球が燃えてしまった!!」と叫ぶシーンを描いていた*2(『全集 黒澤明』第四巻、一四〇頁――以下、巻数をローマ数字で、頁数を漢数字でかっこ内に記す)。

 その場面からは私は『罪と罰』のエピローグでラスコーリニコフが見る「人類滅亡の悪夢」を強く連想したが、富士山に建設された六つの原子力発電所が事故で次々と水素爆発を起こすという「赤富士」のシーンで黒澤明監督は、子供を連れて逃げ惑う母親に「原発は安全だ」と説明し原発を「国策」として推進してきた関係者を「縛り首にしなくちゃ、死んでも死にきれないよ!」と悲痛な声で批判させていた(Ⅶ・二〇)。

 それゆえ、制作費などさまざまな問題などを乗り越えて、この映画を公開していた黒澤明監督の先見の明を改めて強く感じるとともに、原発の危険性に気付きながらもあまり発言をしてこなかった自分の不明を深く恥じた。

 しかも事故後に『黒澤明の遺言「夢」』という著作を読んで、映画《夢》(一九九〇年、脚本・黒澤明)の「ノート」に、黒澤明監督がドストエフスキーの『罪と罰』に記された「やせ馬が殺される夢」の一節をそのまま書き写しただけでなく、その横に「夢というものの特質を把握しなければならない。現実を描くのではなく、夢を描くのだ。夢が持っている奇妙なリアリティをつかまえなければならない」というメモを記していたことを知った*3。  

 このことに注目してこの映画を見直すと、高利貸しの老婆を殺す前に見た「やせ馬が殺される夢」が、少年時代の体験と自然への畏れを描いた第一話「日照り雨」や、「桃の精」の苦しみが描かれている第二話「桃畑」などに対応していることに気づく。

 第三話「雪あらし」で描かれている「雪女」の哀しみは、『罪と罰』におけるソーニャの哀しみにも通じているだろう。主人公のラスコーリニコフが老婆を殺した後で見る「殺された老婆が笑う夢」は、死んだ兵士たちの亡霊が出て来る第四話「トンネル」につながっていると思える。

 第六話「赤富士」の後で描かれている第七話「鬼哭」では、ラスコーリニコフの「非凡人の理論」の根底にあった「弱肉強食の思想」や「自然支配の思想」と「人類滅亡の悪夢」との深い因果関係が示唆されている。

 さらに、第八話「水車のある村」において、「近頃の人間は、自分達も自然の一部だという事を忘れている」と語り、「特に学者には、頭がいいのかも知れないが、自然の深い心がさっぱりわからない者が多いので困る」と語る「モーゼの様な髭を生やした」老人の言葉は、血で「汚した大地に接吻なさい」と語ったソーニャの言葉に従って自首をしたラスコーリニコフがなぜ、シベリアで「復活」しえたのかという深い理由を説明しているとさえ思える。

 ではなぜ、偶然の一致とはいえないようなこれほどの類似が見られるのだろうか。

この意味で注目したいのは、一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林秀雄が、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」とし、エピローグは「半分は読者の為に書かれた」と解釈していたことである*4(『小林秀雄全集』第六巻、四五頁、五三頁── 以下、巻数と頁数を〔〕内に六・四五、五三のように表記する)。

 さらに小林は、第四章で詳しく見るように、一九三六年に書いた映画評ではスタンバーグ監督の映画《罪と罰》などに言及しながら、表現手段としての「文学」と「映画」を比較して、映画では『罪と罰』の深みを描くことはできないと批判していた〔四・二二四~二二六〕。

 一方、黒澤の映画における師といえる山本嘉次郎監督は、夏目漱石の『坊つちやん』を映画化して一九三五年に公開し、その翌年には『吾輩は猫である』を原作とした映画《吾輩は猫である》も公開していた。映画という表現手段を批判した小林の記述は、一九三六年にPCL映画撮影所(東宝の前身)に助監督として入社し、一九三八年には映画《綴方教室》に製作主任として参加する黒澤に、文学作品の映画化についての深い考察を迫っていたといえるだろう。

  実際、小林秀芥川龍之介を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していたが〔一・一五二〕、戦後の一九五〇年に公開した映画《羅生門》で黒澤は、夏目漱石の弟子にあたる芥川の深いドストエフスキー理解と芥川作品の現代的な意義を示していた。

 さらに最近になって、戦時中の一九四三年に公開された映画《愛の世界・山猫とみの話》の脚本に黒澤が深く関わっていたことが明らかになった*5。本論で詳しく見るように小林秀雄はシベリア流刑後にドストエフスキーが唱えた「大地主義」に否定的だったが、黒澤は『死の家の記録』などこの時期に書かれた作品を高く評価しており、彼が中心的な役割を担ったこの映画の脚本でも『虐げられた人々』からの影響がすでに強く見られる。

 ことに、沖縄で冤罪から死刑にされかかったことのある復員兵を主人公とした映画《白痴》の結末は、『白痴』の主人公ムィシキンがスイスからではなく、「シベリヤから還つた」とし、その結末についても「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間等は、その実行に何んの責任も持たない」と一九三四年に「『白痴』についてⅠ」で書いていた小林の記述とは正反対ともいえるほどに異なっていたのである〔六・一〇〇〕。

三、消えた「対談記事」

 小林秀雄は映画《白痴》を初めとする黒澤映画についてはほとんど語っていないので、彼が黒澤明監督のドストエフスキー観をどのように考えていたかは判らない。しかし小林は、映画《白痴》が公開された翌年の一九五二年から五三年にかけて八章からなる「『白痴』についてⅡ」を発表し、その後半では黒澤映画《白痴》ではあまり描かれていなかったレーベジェフやイッポリートに焦点をあてて論じていた。

 興味深いのは、その小林が一九五六年一二月に黒澤との対談を行っていたことである*6。この前年に黒澤は映画《生きものの記録》を公開していたが、「第五福竜丸」事件をきっかけに三千万以上の署名が集まるほど高まった反核の動きは、「ついに太陽をとらえた」と題して読売新聞に連載された特集や「原子力平和利用博覧会」の開始によって急速に流れが変わり、この時期には原爆の危険性を指摘することはすでに「季節外れ」のように見なされるようになっていた*7。

 しかし、第二章で詳しく見るように、小林秀雄は一九四八年に「人間の進歩について」と題して行われた物理学者の湯川秀樹との対談では、「原子力エネルギー」の「平和利用」という湯川の考えの危険性をいち早く指摘し、「道義心」の視点から厳しく批判していたが、その後に行われた黒澤明との対談で湯川秀樹は映画《生きものの記録》を高く評価していた。

 『白痴』の結末に対しては正反対の見解を示す一方で、「原子力エネルギー」の危険性を深く認識していた二人の巨匠がどのような対談を行っていたのだろうか。残念ながら、掲載されれば必ず売り上げを伸ばすと思われる二人の著名人による対談記事が雑誌に載らなかったために、対談の詳細な内容は明らかになっていない。

 しかし、飛行機事故などでは「ブラックボックス」を探し出して回収することが事故解明の第一歩とされるが、幸いこの時の対談については、その時の写真が残されているだけでなく*8、司会者などの短い回想も残されている。その後の二人の記述や映画などからは、『白痴』の結末の解釈などにたいする強いこだわりが感じられ、この時の対談が巨匠たちに残した痕跡の深さが感じられる。

 原発の推進が「国策」となると小林秀雄は「原子力エネルギー」の危険性についてほとんど語らなくなったが、映画《赤ひげ》の制作が発表された翌年の一九六四年に発行した『「白痴」について』(角川書店)では短い第九章を加えて、「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだらう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである(後略)」と書いていた〔傍線引用者。六・三四〇〕。名指しこそしてはいないものの、「不注意な読者」という表現は黒澤明監督を強く意識している可能性が高いと思われる。

 一方、映画《どですかでん》が営業的な失敗に終わった後で発作的に自殺を図っていた黒澤は、探検家アルセーニエフと自らをナナイ人(大地の人)と呼ぶ少数民族・ゴリド族の狩人デルスとの交流を描いた『デルスウ・ウザーラ』を原作とする映画《デルス・ウザーラ》をシベリアで撮って見事に復活した*9。    

この映画を一九七五年に日本で公開した後に若者たちと行った座談会で黒澤明は、「小林秀雄もドストエフスキーをいろいろ書いているけど、『白痴』について小林秀雄と競争したって負けないよ」と語ったが*10、その言葉に強い反発を覚えたかのように小林は、スリーマイル島の原発事故が起きた一九七九年に河上徹太郎と行った対談でも「『白痴』はシベリアから還ってきたんだよ」と繰り返して主張している*11。

 このような『白痴』の結末をめぐる互いを強く意識したと思われる両者の発言に注目するとき、映画《夢》はドストエフスキー作品の解釈をめぐるほぼ半生にわたる小林秀雄との「静かなる決闘」の成果だと言っても過言ではないとさえ思える。

 本書ではまず作者と主人公の問題に注目しながら、ムィシキンが「シベリヤから還つた」とする小林秀雄の『罪と罰』論と『白痴』論との関連を分析し、さらに主な登場人物の解釈の問題点を明らかにすることで、本論の方向性を確認する。第一章からは小林秀雄のドストエフスキー観と比較しつつ、映画の公開順に映画《白痴》から映画《夢》にいたる黒澤明監督のドストエフスキー理解の深まりに迫ることにしたい。

 消えた「対談記事」の謎に注目しつつ、小林秀雄と黒澤明のドストエフスキー観を具体的に比較することで、なぜ黒澤監督が映画《夢》で東京電力福島第一原子力発電所の悲劇を予言しえたかという「謎」にも迫ることができるだろう。

 

*1 チェルノブイリ原発事故については、「高橋誠一郎 公式ホームページ」の「映画・演劇評」、「劇《石棺》から映画《夢》へ」を参照。

*2 『全集 黒澤明』第四巻、岩波書店、一九八八年、一四〇頁。

*3 都築政昭『黒澤明の遺言「夢」』、近代文芸社、二〇〇五年参照。

*4 『小林秀雄全集』第六巻、新潮社、一九六七年、四五頁、五三頁。

*5 (編)石割平、円尾敏郎、谷輔次『はじめに喜劇ありき』ワイズ出版、二〇〇五年、一五一頁。

*6  黒澤明・浜野保樹『大系 黒澤明』第四巻、講談社、二〇一〇年、八一六頁(以下、『大系 黒澤明』と略記して、巻数と頁数のみを記す)。

*7  中日新聞社会部『日米同盟と原発──隠された核の戦後史』東京新聞、二〇一三年参照。

*8  黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、一九九九年、三六六頁。

*9  アルセーニエフ、長谷川四郎訳『デルスウ・ウザーラ──沿海州探検行』東洋文庫、一九六五年、三〇八頁、映画化に際しては日本語では発音しにくいことから、主人公のデルスウの名前はデルスと表記されたので、本書でも基本的にはデルスと記す。

*10  黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、一九九九年、二八八頁。

*11  小林秀雄『考える人』春季号/新潮社、二〇一三年、四五頁。

 

 

「生命の水の泉」と「大地」のイデア

 

(スラヴ圏)スラヴのコスモロジー

 〈「生命の水の泉」と「大地」のイデア〉

                           

はじめに――投げかけられた問い

 お手元にレジュメは届いていますでしょうか?

2枚目のところにスラヴの神話や民話に出てくる森の精や水の精などの絵があります。

私の専門はドストエフスキーなのですが、『罪と罰』とか『白痴』という世界がそういうロシアの民衆的な民話的な世界や宇宙観とも深く結びついており、それが普遍性をおびているために世界中で読まれて深い感動を与えているという話を今回はしたいと思いました。ただ、レジュメにも書きましたけれども、3月に起きた原発事故のために私のふるさとの福島県の二本松でも祖先の墓の上に放射能が降り注ぐなど、日本の大地、大気、川が汚されるという大変な事態がおきました。

さらに私は25年前にチェルノブイリで起きた原発事故の際にモスクワに滞在していましたが、そのときに留学生を引率していたので事故の情報の問題、当時のソ連から情報が流れてこないというのはわかるのですが、日本大使館からも流れてこない。それでヨーロッパの留学生たちがそれぞれの大使館から持ってくる情報を集めてどう対応すべきかなどを考えざるを得なかったということがありました。

実は司馬遼太郎の作品に入っていくきっかけも情報の問題からです。司馬さんは大地震の問題についてもたびたび書いています。たとえば、『竜馬がゆく』の中でも竜馬が大地震に際して深く感じることのできる詩人のような心を持っていたと冒頭近くで説明されています。原発は「国益」という形で進められてきましたが、果たして一部の人たちが握っている情報が我々にちゃんと伝えられているのか、その問題が明治以降もいまだに続いていると思えます。

一方、『坂の上の雲』の第3巻において司馬さんは、東京裁判におけるインド代表判事のパル氏の言葉を引用しつつ、「白人国家の都市に落とすことはためらわれたであろう」と原爆投下を厳しく批判しておりました。実はこの原爆の投下の問題は、原発の問題と結びついており、司馬さんはチェルノブイリ事故の後で「この事件は大気というものは地球を漂流していて人類は一つである、一つの大気を共有している、さらにいえばその生命は他の生命と同様もろいものだという思想を全世界に広く与えたと思います」と語っていました。

実際にチェルノブイリについてはヨーロッパ各国が大変な危機感を持ちました。私の場合は、幸い住んでいたモスクワの方には風の向きが違っていたので流れてこなかったのですが、風の向きが変わればどのような被害が及ぶかはわからなかったのです。それゆえ、今回はスラヴやロシアのコスモロジーを視野に入れることで民話的なレベルから見ても原発がおかしいということを明らかにしていきたいと思います。

*   *   *

先ほど見ていただいたのはギランの『ロシアの神話』という本に掲載されている絵ですが、スラヴでは自然崇拝が強く、ことに大地は「母なる湿潤の大地」というふうに讃えられており、このような世界観はドストエフスキーが『罪と罰』の後半で描いていますが、それよりも前にプーシキンがおとぎ話のような形で書いていました。

時間がないので、ごく一部を紹介します。「入り江には緑の樫の木があった。その樫の木には猫が繋がれていた。そして右に歩いては歌を歌い、左へ行ってはおとぎ話を語る。そこには不思議なことがある。森の精が徘徊し、水の妖精ルサールカが枝に座る」。こういう形で民話の主人公を紹介したプーシキンは、「そこにはロシアの精神がある、ロシアの匂いがする」と続け、物知りの猫が私に語った物語のひとつをこれからお話しましょうという形で『ルスランとリュドミーラ』というおとぎ話が始まります。

『罪と罰』のあらすじについては、ほとんどの方がご存知のことと思いますが、「人間は自然を修正している、悪い人間だって修正したてもかまわない、あいつは要らないやつだというなら排除してもかまわない」という考え方を持っていた主人公が、高利貸しの老婆を殺害するにいたる過程とその後の苦悩が描かれています。ここで重要なのは、この時期のドストエフスキーが「大地主義」という理念を唱えていたことであり、ソーニャをとおしてロシアの知識人というのはロシアの大地から切り離された人たちだと、民衆の感覚を失ってしまったという批判をしていることです。

たとえば、ソーニャは「血で汚した大地に接吻しなさい、あなたは殺したことで大地を汚してしまった」と諭し、それを受け入れた主人公は自首をしてシベリアに流されますが、最初のうちは「ただ一条の太陽の光、うっそうたる森、どこともしれぬ奥まった場所に湧き出る冷たい泉」が、どうして囚人たちによってそんなに大事なのかが彼にはわからなかったのです。しかし彼はシベリアの大自然の中で生活するうちに「森」や「泉」の意味を認識して復活することになるのです。

このような展開は一見、小説を読んでいるだけですとわかりにくいのですが、しかしロシアの民話を集めてロシアのグリムとも言われているアファナーシエフの『スラヴ民族の詩的自然観』の第一巻が既に『罪と罰』が書かれている時期に出版されていました。そのことを指摘した井桁貞義氏は、ウクライナやセルヴィアを初めスラヴには古くから聖なる大地という表現があり、さらに古い叙事詩の伝説によって育った庶民たちは、大地とは決して魂を持たない存在ではなく、つまり汚されたら怒ると考えていたことを指摘しています。つまり、富士山が大噴火するように、汚された大地も怒るのです。

さらにソーニャという存在が囚人たちから、「お前さんは私らのやさしい慈悲深いお母さんだ」と語られていることに注目して、ソーニャという女性が大地の神格であると同時に聖母の意味も背負っているという重要な指摘をしています。

 このようなロシアの自然観や宇宙観は民話などでやさしく語られており、日本でも知られているものがあるので幾つか紹介して、それが文学作品にどうかかわっているかを少し見てみます。

 まず、『イワンと仔馬』という作品は、これは永遠の生命を持つ火の鳥が出てくる作品で、手塚治虫の『火の鳥』にも影響を与えています。次に『森は生きている』もあちこちで上演されることもありますしアニメーションにもなっているので、知っている人も多くおられると思いますが、これは月の精の兄弟たちとみなしごの少女、そしてわがままな女王との物語です。

 わがままな若い女王の命令で少女は、大晦日に雪深い森の奥に春の花の待雪草を探しに行かされるのですが、たまたま焚き火を囲んでいた12人の兄弟(十二ヵ月の精)たちと出会い、少女が森を大切にして一生懸命に生きているのを知っていた彼らから待雪草を贈られるのです。

一方、人間関係のみで成立している「城」の世界しか知らなかったやはり孤児だった女王は、自分でも待雪草を摘みたいと願って、私も森に行くから案内しなさいと命令して森に行く。つまり、「支配する者」と「支配される者」からなる「城」において絶対的な権力者となった女王は、「自然」や「季節」をも「支配」しようとしたのです。つまり「城」というのは、ここでは現代の日本に言い換えれば「原子力村」と考えればわかりやすいでしょう。「原子力村」の論理だけで生きている人は、「自然」のことを理解できないために、「自然」や「季節」をも支配しようとする。しかし実際には、そういうことはあり得ないのです。そのために女王も「森」に行くと、一瞬にして再び冬の季節に戻って彼女は自分の無力さを感じるのですが、やさしい少女に救われるというストーリーです。

ここで注目したいのはやさしい少女を『罪と罰』のソーニャに、それから自然をも支配できると考えている女王をラスコーリニコフに置き換えると、骨格としては『罪と罰』と同じような自然観が浮かび上がってくるということになることです。

 それから『雪娘』というおとぎ話では「桃太郎」などと同じように、子供に恵まれなかった老夫婦が雪を丸めて雪だるまをつくるとその雪だるまの女の子は、老夫婦の気持ちを理解したかのように動き出して、その家の娘になります。しかし、「かぐや姫」が時間がたって、月に戻っていくように、その「雪娘」も春になると一筋の雲になって、天に昇ってしまうのです。

このおとぎ話について先ほどのアファナーシエフはこういうふうに解釈しています。「雨雲が雪雲に変わる冬、美しい雪の娘が大地に、人間が住むこの世に降りてきて、その白さで人々を感動させる。夏が訪れると娘は大気の新たな姿をとり、地上から天に昇って軽やかな翼を持つほかのニンフたちと共に天を飛翔する」。

 すなわち、雪娘は溶けて「亡くなる」のではなく、別な形を取って生き続け、さらにまた季節が巡れば、「復活」するという考え方が、ロシアの民話を通して語られているということになります。

一方、『罪と罰』のエピローグでは、知力と意志を授けられた旋毛虫に侵されて、自分だけが真理を知っていると思い込んだ人々が、互いに自分の真理を主張して殺し合いを始め、ついには地上に数名のものしか残っていないという主人公が見る「人類滅亡の悪夢」が描かれています。

実際、この作品が書かれた当時は、オーストリアとの戦いに勝ったプロシアが軍事力をつけたために、フランスとの間での戦争がおき、さらにロシアもまたそういう大戦争に巻き込まれるかもしれないという恐怖感が、欧州の世界で広まっていたのです。そして、軍事力の必要を各国が認識したために戦争に近代兵器が持ち込まれるのです。日露戦争では機関銃が登場し、第一次世界大戦でも用いられ、さらに第二次世界大戦では原子爆弾が用いられるということになります。

つまり長編小説『白痴』の時代は、ドストエフスキーにとって「ローマ帝国」の強力な軍事力でユダヤの反乱が鎮圧され、さらにキリスト教徒が弾圧された時代に書かれた『ヨハネの黙示録』の世界と重なるところが多く、「世界の終わり」への恐れとそれを救う「本当に美しい人」への熱烈な願いが記されていたといえます。

11月18日の新聞に「イラン攻撃現実に」という題で、イスラエルがイランの原発開発に強い危機感を抱いているという気になる記事があったので持ってきました。この記事は原爆と原発が結びついていることを物語っているでしょう。つまり、イランの原発開発はアメリカと仲がよかったときは認められていたのです。しかし革命後に政策が変わると、原発の開発は、いつ攻撃の対象になるかもしれないのです。つまり現代という「核の時代」では、原発が世界中の国で広まっていくということは、その国が政策を変えたときに核戦争のきっかけになりうるという危険性を持っているのです。

その意味で注目したいのは、『白痴』ではマルサスの人口論だけでなく、生存闘争の理論や、西欧近代の投機的な自由主義経済、さらに新しい科学技術の危険性が登場人物たちの会話をとおして批判されており、ことに近代文明を象徴する鉄道は『ヨハネ黙示録』の地上に落ちて「生命の水の泉」を混濁させる「苦よもぎ(チェルノブイリニク)の星」の話と結び付けられて解釈されていました。

それゆえ、チェルノブィリ原発事故が起きると『白痴』の予言性が話題となりましたが、それはチェルノブィリという地名が、「苦よもぎ」を意味する単語と非常に似ていたために、ロシアやウクライナ、ベラルーシなどでは原発がそういうのろわれたものであり、それを作ったソ連の政権が神の罰を受けたという批判が強く出たのです。そして、このような『黙示録』の解釈も影響して、この原発事故は神による共産党政権に対する罰だという解釈が広がったことや、原発事故による莫大な経済的損失は、ソ連政権が崩壊する一因となったのです。

 一方、非常に自然環境に恵まれている日本から見ると旧約聖書などで描かれている神の罰という考えは、非情に見えます。しかし古代からのことを考えると、神や天というのは、人智を超えた存在であって、富士山も単に美しくて高い存在であっただけではなくて、大噴火を起こして、我々日本人を深く畏怖させたのです。これについては明日のシンポジウムでも論じられると思います。

 こうして、大自然に対する畏怖というものは、これからの時代にも重要だと思えますが、放射能は水に流しても消えるものではなく「循環の思想」に反しており、大自然を汚すものだといえるでしょう。その意味でも早期の「脱原発」が求められており、そのためにはこの学会も含めて全力を尽くしていくべきではないかというのが、私の考えです。

 どうもありがとうございました。

黒澤映画《夢》と消えた「対談記事」の謎 

 

黒澤映画《夢》と消えた「対談記事」の謎         

 一、フクシマの悲劇

 二〇一一年三月一一日に東日本大震災が起きたのは、大学の会議が終わった直後のことで、立っていることも出来ないような大きな揺れだった。慌てて会議室から外に出たあとでもう一度大きな揺れを感じながら、地殻変動でできた日本が地震大国であることを実感した。

 しかも、一九八六年のチェルノブィリ原発事故の際には長期留学生を引率してモスクワに滞在しており、風向きによっては被爆する可能性もあったが、ソ連のニュースだけでなく、日本大使館からもほとんど情報が伝わらずに、西欧から来た留学生たちが自国の大使館から得てくる情報に頼るしかなかったという経験をしていた*1。

 テレビやインターネットに映し出された福島第一原子力発電所の静止画像から目を離すことができずに食い入るように画像を見つめ続けていた私は、同僚の一人から日本の技術は進んでいるので大丈夫ですよと慰められた。

 しかし、イギリスのブリストル大学で研究をしていた一九九五年一月には、日本からの電話で慌ててテレビのニュースをつけると阪神淡路大震災で町中が燃えており、翌日には大地震でも大丈夫と喧伝されていた高速道路の橋桁が大きく曲がっている写真が大きく新聞に載っていた。その記事を読みながら、関東大震災から五〇年目の一九七三年に発表された小松左京の『日本沈没』を思い出して、日本では自然の恩恵は強調する一方でその猛威に対する認識はきわめて甘いのではないかという不安を強く持っていた。

 実際、大地震で止まった電車の回復を待っている時に福島第一原子力発電所の「炉心が冷却できない状態にある」ことを知った。翌朝も目覚めてからは三〇分おきにテレビのニュースで何事も起きていないことを確認していたが、午後四時過ぎに危惧していたことが起きた。

 一号機が水素爆発を起こしたあとで明らかになったのは、政・官・財が一体となって「絶対安全」だと宣伝していた原子力発電所には原子炉を冷やすために水を放水する消防車やきちんとした防護服もなく、さらに日本が最先端の技術を有すると誇っていたロボットも動かなかったことである。そして、使用済み核燃料が放置された古タイヤのように燃え出し、原子炉がメルトダウンして放射線が空気中に放出されただけでなく、被爆した大量の水が海に流れ出た。チェルノブイリ原発事故にも匹敵するような大事故は、核実験を続けてきたフランスやアメリカの技術支援によってようやく、最大の危機を脱したが、汚染水の流出は事故から三年経った現在も止まっていない。

二、黒澤映画《夢》と長編小説『罪と罰』における夢の構造

 刻一刻と悪化する福島第一原子力発電所の状況を見ながら思い起こしたのは、一九九〇年に公開された全八話からなるオムニバス形式の映画《夢》の第六話「赤富士」で今回の事故を予言していたとも思えるほどの迫力で原発事故が描かれていたことであった。

 アメリカの水爆実験によって被爆した「第五福竜丸」事件の後で撮った映画《生きものの記録》(シナリオの最初の題名は『死の灰』)では、原爆実験や核戦争の危険性を本能的に感じて日本からブラジルへと移住しようとした老人の決意と苦悩を描き、そのラスト・シーンでは精神を病んで精神病院に収容された主人公が夕日を見て「とうとう地球が燃えてしまった!!」と叫ぶシーンを描いていた*2(『全集 黒澤明』第四巻、一四〇頁――以下、巻数をローマ数字で、頁数を漢数字でかっこ内に記す)。

 その場面からは私は『罪と罰』のエピローグでラスコーリニコフが見る「人類滅亡の悪夢」を強く連想したが、富士山に建設された六つの原子力発電所が事故で次々と水素爆発を起こすという「赤富士」のシーンで黒澤明監督は、子供を連れて逃げ惑う母親に「原発は安全だ」と説明し原発を「国策」として推進してきた関係者を「縛り首にしなくちゃ、死んでも死にきれないよ!」と悲痛な声で批判させていた(Ⅶ・二〇)。

 それゆえ、制作費などさまざまな問題などを乗り越えて、この映画を公開していた黒澤明監督の先見の明を改めて強く感じるとともに、原発の危険性に気付きながらもあまり発言をしてこなかった自分の不明を深く恥じた。

 しかも事故後に『黒澤明の遺言「夢」』という著作を読んで、映画《夢》(一九九〇年、脚本・黒澤明)の「ノート」に、黒澤明監督がドストエフスキーの『罪と罰』に記された「やせ馬が殺される夢」の一節をそのまま書き写しただけでなく、その横に「夢というものの特質を把握しなければならない。現実を描くのではなく、夢を描くのだ。夢が持っている奇妙なリアリティをつかまえなければならない」というメモを記していたことを知った*3。  

 このことに注目してこの映画を見直すと、高利貸しの老婆を殺す前に見た「やせ馬が殺される夢」が、少年時代の体験と自然への畏れを描いた第一話「日照り雨」や、「桃の精」の苦しみが描かれている第二話「桃畑」などに対応していることに気づく。

 第三話「雪あらし」で描かれている「雪女」の哀しみは、『罪と罰』におけるソーニャの哀しみにも通じているだろう。主人公のラスコーリニコフが老婆を殺した後で見る「殺された老婆が笑う夢」は、死んだ兵士たちの亡霊が出て来る第四話「トンネル」につながっていると思える。

 第六話「赤富士」の後で描かれている第七話「鬼哭」では、ラスコーリニコフの「非凡人の理論」の根底にあった「弱肉強食の思想」や「自然支配の思想」と「人類滅亡の悪夢」との深い因果関係が示唆されている。

 さらに、第八話「水車のある村」において、「近頃の人間は、自分達も自然の一部だという事を忘れている」と語り、「特に学者には、頭がいいのかも知れないが、自然の深い心がさっぱりわからない者が多いので困る」と語る「モーゼの様な髭を生やした」老人の言葉は、血で「汚した大地に接吻なさい」と語ったソーニャの言葉に従って自首をしたラスコーリニコフがなぜ、シベリアで「復活」しえたのかという深い理由を説明しているとさえ思える。

 ではなぜ、偶然の一致とはいえないようなこれほどの類似が見られるのだろうか。

この意味で注目したいのは、一九三四年に書いた「『罪と罰』についてⅠ」で小林秀雄が、「罪の意識も罰の意識も遂に彼(引用者注──ラスコーリニコフ)には現れぬ」とし、エピローグは「半分は読者の為に書かれた」と解釈していたことである*4(『小林秀雄全集』第六巻、四五頁、五三頁── 以下、巻数と頁数を〔〕内に六・四五、五三のように表記する)。

 さらに小林は、第四章で詳しく見るように、一九三六年に書いた映画評ではスタンバーグ監督の映画《罪と罰》などに言及しながら、表現手段としての「文学」と「映画」を比較して、映画では『罪と罰』の深みを描くことはできないと批判していた〔四・二二四~二二六〕。

 一方、黒澤の映画における師といえる山本嘉次郎監督は、夏目漱石の『坊つちやん』を映画化して一九三五年に公開し、その翌年には『吾輩は猫である』を原作とした映画《吾輩は猫である》も公開していた。映画という表現手段を批判した小林の記述は、一九三六年にPCL映画撮影所(東宝の前身)に助監督として入社し、一九三八年には映画《綴方教室》に製作主任として参加する黒澤に、文学作品の映画化についての深い考察を迫っていたといえるだろう。

  実際、小林秀芥川龍之介を「人間一人描き得なかつたエッセイスト」と規定していたが〔一・一五二〕、戦後の一九五〇年に公開した映画《羅生門》で黒澤は、夏目漱石の弟子にあたる芥川の深いドストエフスキー理解と芥川作品の現代的な意義を示していた。

 さらに最近になって、戦時中の一九四三年に公開された映画《愛の世界・山猫とみの話》の脚本に黒澤が深く関わっていたことが明らかになった*5。本論で詳しく見るように小林秀雄はシベリア流刑後にドストエフスキーが唱えた「大地主義」に否定的だったが、黒澤は『死の家の記録』などこの時期に書かれた作品を高く評価しており、彼が中心的な役割を担ったこの映画の脚本でも『虐げられた人々』からの影響がすでに強く見られる。

 ことに、沖縄で冤罪から死刑にされかかったことのある復員兵を主人公とした映画《白痴》の結末は、『白痴』の主人公ムィシキンがスイスからではなく、「シベリヤから還つた」とし、その結末についても「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間等は、その実行に何んの責任も持たない」と一九三四年に「『白痴』についてⅠ」で書いていた小林の記述とは正反対ともいえるほどに異なっていたのである〔六・一〇〇〕。

三、消えた「対談記事」

 小林秀雄は映画《白痴》を初めとする黒澤映画についてはほとんど語っていないので、彼が黒澤明監督のドストエフスキー観をどのように考えていたかは判らない。しかし小林は、映画《白痴》が公開された翌年の一九五二年から五三年にかけて八章からなる「『白痴』についてⅡ」を発表し、その後半では黒澤映画《白痴》ではあまり描かれていなかったレーベジェフやイッポリートに焦点をあてて論じていた。

 興味深いのは、その小林が一九五六年一二月に黒澤との対談を行っていたことである*6。この前年に黒澤は映画《生きものの記録》を公開していたが、「第五福竜丸」事件をきっかけに三千万以上の署名が集まるほど高まった反核の動きは、「ついに太陽をとらえた」と題して読売新聞に連載された特集や「原子力平和利用博覧会」の開始によって急速に流れが変わり、この時期には原爆の危険性を指摘することはすでに「季節外れ」のように見なされるようになっていた*7。

 しかし、第二章で詳しく見るように、小林秀雄は一九四八年に「人間の進歩について」と題して行われた物理学者の湯川秀樹との対談では、「原子力エネルギー」の「平和利用」という湯川の考えの危険性をいち早く指摘し、「道義心」の視点から厳しく批判していたが、その後に行われた黒澤明との対談で湯川秀樹は映画《生きものの記録》を高く評価していた。

 『白痴』の結末に対しては正反対の見解を示す一方で、「原子力エネルギー」の危険性を深く認識していた二人の巨匠がどのような対談を行っていたのだろうか。残念ながら、掲載されれば必ず売り上げを伸ばすと思われる二人の著名人による対談記事が雑誌に載らなかったために、対談の詳細な内容は明らかになっていない。

 しかし、飛行機事故などでは「ブラックボックス」を探し出して回収することが事故解明の第一歩とされるが、幸いこの時の対談については、その時の写真が残されているだけでなく*8、司会者などの短い回想も残されている。その後の二人の記述や映画などからは、『白痴』の結末の解釈などにたいする強いこだわりが感じられ、この時の対談が巨匠たちに残した痕跡の深さが感じられる。

 原発の推進が「国策」となると小林秀雄は「原子力エネルギー」の危険性についてほとんど語らなくなったが、映画《赤ひげ》の制作が発表された翌年の一九六四年に発行した『「白痴」について』(角川書店)では短い第九章を加えて、「お終ひに、不注意な読者の為に注意して置くのもいゝだらう。ムイシュキンがラゴオジンの家に行くのは共犯者としてである(後略)」と書いていた〔傍線引用者。六・三四〇〕。名指しこそしてはいないものの、「不注意な読者」という表現は黒澤明監督を強く意識している可能性が高いと思われる。

 一方、映画《どですかでん》が営業的な失敗に終わった後で発作的に自殺を図っていた黒澤は、探検家アルセーニエフと自らをナナイ人(大地の人)と呼ぶ少数民族・ゴリド族の狩人デルスとの交流を描いた『デルスウ・ウザーラ』を原作とする映画《デルス・ウザーラ》をシベリアで撮って見事に復活した*9。    

この映画を一九七五年に日本で公開した後に若者たちと行った座談会で黒澤明は、「小林秀雄もドストエフスキーをいろいろ書いているけど、『白痴』について小林秀雄と競争したって負けないよ」と語ったが*10、その言葉に強い反発を覚えたかのように小林は、スリーマイル島の原発事故が起きた一九七九年に河上徹太郎と行った対談でも「『白痴』はシベリアから還ってきたんだよ」と繰り返して主張している*11。

 このような『白痴』の結末をめぐる互いを強く意識したと思われる両者の発言に注目するとき、映画《夢》はドストエフスキー作品の解釈をめぐるほぼ半生にわたる小林秀雄との「静かなる決闘」の成果だと言っても過言ではないとさえ思える。

 本書ではまず作者と主人公の問題に注目しながら、ムィシキンが「シベリヤから還つた」とする小林秀雄の『罪と罰』論と『白痴』論との関連を分析し、さらに主な登場人物の解釈の問題点を明らかにすることで、本論の方向性を確認する。第一章からは小林秀雄のドストエフスキー観と比較しつつ、映画の公開順に映画《白痴》から映画《夢》にいたる黒澤明監督のドストエフスキー理解の深まりに迫ることにしたい。

 消えた「対談記事」の謎に注目しつつ、小林秀雄と黒澤明のドストエフスキー観を具体的に比較することで、なぜ黒澤監督が映画《夢》で東京電力福島第一原子力発電所の悲劇を予言しえたかという「謎」にも迫ることができるだろう。

 

*1 チェルノブイリ原発事故については、「高橋誠一郎 公式ホームページ」の「映画・演劇評」、「劇《石棺》から映画《夢》へ」を参照。

 *2 『全集 黒澤明』第四巻、岩波書店、一九八八年、一四〇頁。

 *3 都築政昭『黒澤明の遺言「夢」』、近代文芸社、二〇〇五年参照。

*4 『小林秀雄全集』第六巻、新潮社、一九六七年、四五頁、五三頁。

*5 (編)石割平、円尾敏郎、谷輔次『はじめに喜劇ありき』ワイズ出版、二〇〇五年、一五一頁。

*6  黒澤明・浜野保樹『大系 黒澤明』第四巻、講談社、二〇一〇年、八一六頁(以下、『大系 黒澤明』と略記して、巻数と頁数のみを記す)。

*7  中日新聞社会部『日米同盟と原発──隠された核の戦後史』東京新聞、二〇一三年参照。

*8  黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、一九九九年、三六六頁。

*9  アルセーニエフ、長谷川四郎訳『デルスウ・ウザーラ──沿海州探検行』東洋文庫、一九六五年、三〇八頁、映画化に際しては日本語では発音しにくいことから、主人公のデルスウの名前はデルスと表記されたので、本書でも基本的にはデルスと記す。

*10  黒澤明研究会編『黒澤明 夢のあしあと』共同通信社、一九九九年、二八八頁。

*11  小林秀雄『考える人』春季号/新潮社、二〇一三年、四五頁。

 

 

「研究活動・前史」と「引率時の体験とIDSでの発表」など

「研究活動・前史」

都立広尾高等学校に在学中はベトナム戦争の時期だったこともあり、文学作品だけでなく宗教書や哲学書を夢中になって読みふけっていた。このころに「他者」を殺すことで、「自分」を殺してしまったという哲学的な言葉が記されているドストエフスキーの『罪と罰』や、自己と他者との深い関わりが示唆されていた『白痴』と出会ったことがロシア文学に関心を持つきっかけとなった。

 東海大学文学部文明学科ヨーロッパ専攻に入学した後、ブルガリアのソフィア大学に2年間留学して、「辺境」の「小国」と思われていたこの国で学び、東ローマ帝国と「ブルガリア帝国」との関わりを詳しく知った。

この時期に東欧の視点から西欧やロシアを見ることができたことが私の文明観の形成したばかりでなく、『坂の上の雲』などの司馬遼太郎の作品への関心を深まる遠因ともなったと思える。

 大学院文学研究科(文明研究専攻)の時期には1年間モスクワ大学に留学してドストエフスキーの初期作品の研究をした。

   *   *   *

「引率時の体験とIDSでの発表」
引率教員としてモスクワを訪れた1986年にはチェルノブイリ事故と遭遇して、原子爆弾や原子力発電の問題の大きさを再認識することになった。

 国際ドストエーフスキイ・シンポジウム(IDS)への参加
リュブリャーナで行われた1989年の第7回大会では、『罪と罰』における「良心」の問題を発表したが、この時期には旧ユーゴスラヴィアの共和国間の対立が芽生えていた。その後の経過からは、それまで仲良く共存していた民族でも過去の問題を互いに非難し始めると戦争にまで到ることを痛感させられた。オスロで開かれた1992年の第8回大会の帰途では混乱期のロシアと遭遇した。             

1994年4月から1年間は、ロシアと日本の近代化の比較をテーマとして、イギリス・ブリストル大学のロシア学科で研究したが、この時にイギリスの近代化をも視野に入れた研究することができたことで私の視野も広がり、ほぼ私の文明観や研究方法が定まったと思える。

*   *   *

「追記」

中学時代の初めに読んだ本で印象に残っているのは、武者小路実篤の作品だった。今になってみるとこのときの読書体験が、『白痴』や『イワンの馬鹿』との出会いを準備していたと思える。下村湖人の『次郎物語』を読んだことで社会的な視野が広がり、夏目漱石の『坊っちゃん』や『三四郎』、島崎藤村の『破戒』や芥川龍之介の作品などの読書へとつながった。

高校時代には文芸部に入っていたこともあり文学書は乱読したが、『論語』や『聖書』、仏教書の他にキルケゴールの『死に至る病』なども頭をひねりながら読んだ。ドストエフスキーの長編小説を読み終えた後で、プーシキンの『エヴゲーニイ・オネーギン』やツルゲーネフの『その前夜』、さらにはトルストイの『戦争と平和』などを読んだことが現在の研究につながっていると思える。

(7月7日に記載、12月23日加筆)

ムィシキンの観察力とシナリオ『肖像』――小林秀雄と黒澤明のムィシキン観をめぐって

 

1,「シベリヤから還つた」ムィシキン

 「『罪と罰』についてⅠ」(1934)の冒頭で、「重要な事は、告白体といふ困難な道からこの広大な作品を書かうと努めたほど、ラスコオリニコフといふ人物が作者に親しい人物であつたといふ事である」と記していた文芸評論家の小林秀雄は、「ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」という解釈を示した(『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、62~63頁。全集第6巻からの引用に際しては旧漢字を新漢字になおすとともに、本文中の〔〕内に頁数をアラビア数字で示す)。

 「『白痴』についてⅠ」(1934)においても、「本当に美しい人間」を描こうとしたドストエフスキーの「明瞭な企図」と「その実現された処」の違いの激しさを指摘した小林は、「ムイシュキンはスイスから帰つたのではない、シベリヤから還つたのだ」と繰り返し強調している。

 そして、「『罪と罰』の終末を仔細に読んだ人は、あそこにゐるラスコオリニコフは未だ人間に触れないムイシュキンだといふことに気が付くであろう」と続けた小林は、「この小説の終りで、作者が復活の曙光とよんでゐるものは、恐らく僕等が一般に理解してゐる復活、即ち精神上の或は生活上のどういふ革新にも縁のないものだ」と断言した〔82~83頁〕。

 戦後に書いた「『白痴』についてⅡ」(1952~53)でもムィシキンがスイスから帰国する「汽車の中で、独り言を繰返す」ことに注意を促した小林は、「詮索するにも及ぶまい。当人が『これから人間の中に出て行く』と言つてゐるのだから、この男には過去なぞないのだらう」と断定している〔299頁〕。

 しかし、ここで小林は「これから人間の中に出て行く」というムイシュキンの言葉が、汽車の中での「独り言」と説明しているが、この言葉はエパンチン家の令嬢たちにスイスの村でのマリーと子供たちの逸話を説明した後で語られた言葉であり、しかもムィシキンは「ぼくは自分の仕事を誠実に、しっかりとやり遂げようと決めました」と続けていた(第1部第6章)。

 つまり、スイスでの治療をほぼ終えたムィシキン公爵が混沌としている祖国に帰国する決意をしたのは、母方の親戚の莫大な遺産を相続したとの知らせに接したためであり、ドストエフスキーは小説の冒頭で自分が得た遺産を苦しんでいるロシアの人々のために尽くしたいと考えていたムィシキンと、莫大な遺産で女性を自分のものにしようと願ったロゴージンという対照的な若者の出会いを描いていたのである。

 ムィシキンが「シベリヤから還つた」と解釈すると彼が西欧で見たギロチンによる死刑の場面もなくなり、『白痴』における主要なテーマの一つである「殺すなかれ」というイエスの言葉と、近代西欧文明の批判が読者の視界から抜け落ちてしまうことになる。

 「『白痴』についてⅠ」で『白痴』の結末の異常性を強調した小林秀雄は、「悪魔に魂を売り渡して了つたこれらの人間」によって「繰り広げられるものはたゞ三つの生命が滅んで行く無気味な光景だ」と記していた〔100~103頁〕。

 ムィシキンの帰国の理由を説明していたエパンチン家での会話の部分を読み落としたことが、このような陰惨な解釈にも直結していると思われる。

 

2,「アグラアヤの為に思ひ附いた画題」

 小林秀雄は「『白痴』についてⅠ」で「周知の事だが、作者はこの主人公を通じて、自分の二つの異常な生活経験を、熱烈に表現してゐる」として、癲癇の発作とともに死刑体験とを挙げていた〔90~91頁〕。

 戦後に書いた「『白痴』についてⅡ」でも、「この死刑の話は、執拗に、三通りの違つた形で繰返し語られ、恰も、作品の主音想(ライト・モチフ)が鳴るのを聞くやうだ」とした小林秀雄は、「ギロチンが落ちて来る一分間前の罪人の顔を描いてはどうか」という「三番目の話は、ムイシュキンがアグラアヤの為に思ひ附いた画題の話である」と続けている〔傍点引用者、281~2〕。

 しかし、ムィシキンが画題を示したのは絵の才能のある次女のアデライーダに対してであって、三女アグラーヤにではなかった。

 しかも、ムィシキンの「見る」能力を考察した川崎浹氏が指摘しているように、エパンチン家で「アデライーダに『見る』ことを示唆した」あとにスイスのことを話したムィシキン公爵は、スイスで見たギロチンの話をした後で死刑囚の顔を描きなさいと語っていたのである(第1部第5章、「『見る』という行為――ムイシュキン公爵とアデライーダ」、104頁)。

 この論考について木下豊房氏も「この物を見る目という本質的な問題を『白痴』のアデライーダの絵の題材への迷いに見て取り、背後に作家のリアリズム観の存在を指摘した川崎氏の慧眼を評価したい」と結論している。

 ドストエフスキー論の「大家」とされてきた文芸評論家の小林秀雄が、『白痴』においてきわめて重要な役割を演じているエパンチン家のアグラーヤとアデライーダの名前を取り違えていたことは、ムィシキンの「孤独」に焦点を絞って考察した小林秀雄の視野にはエパンチン家の家族関係だけではなく、ムィシキンの「観察力」も入っていなかったことを物語っているだろう。

 あるいは、「注意深い読者」であった小林秀雄の視野にはムィシキンの「観察力」も入っていたかもしれない。しかし、このような「事実」としての「テキスト」を忠実に読み解くことで「殺すなかれ」と語ったムィシキンを高く評価することは、戦争に走り出した当時の日本の「国策」に反することも知っていた。そのために、「軍国主義」を批判する評論の筆者として逮捕されることを逃れるために、「テキストから逃走」してしまった可能性も高いと思われる。

 問題は同じような事態が戦後にも起きていたと思われることである。よく知られているように小林秀雄は、科学者の湯川秀樹との対談では「原子力エネルギー」の危険性を「道義心」の視点から厳しく指摘していた。しかし、「第五福竜丸」事件の後で、「原子力の平和利用」が「国策」として打ち出されると、小林秀雄はこの問題を全く語らなくなってしまったのである(拙論「知識人の傲慢と民衆の英知――映画《生きものの記録》と『死の家の記録』」、『黒澤明研究会誌』第30号、参照)。

 一方、このような小林秀雄のムィシキン観とは異なり、長編小説『白痴』におけるムィシキンの観察力をきわめて高く評価したのが黒澤明監督の映画《白痴》であった。

 

3,映画《白痴》とシナリオ『肖像』

 黒澤映画《白痴》(脚本・久板栄二郎、黒澤明、1951年)の亀田(ムィシキン)には絵画を観察する能力は与えられていないが、戦争だけでなく死刑という極限的な体験をしていた亀田には人を見る直感的な観察力が与えられている。

 この意味で注目したいのは、この映画の3年前に黒澤明が木下恵介監督(1912~1998年)のために書いた映画《肖像》のシナリオの主人公の老年の画家がムィシキンを想起させるばかりでなく、老画家の家族を嫌がらせで追い出すためにその二階を間借りして住み込んだ悪徳不動産屋の愛人・ミドリも、ナスターシヤを思い起こさせることである。

 黒澤明監督は「僕は、映画におけるシナリオの地位は、米作における苗つくりのようなものだと思っている」と述べ、、「弱いシナリオから絶対に優れた映画は出来上がらない」と結んでいた(第3巻、286頁)。

 この言葉に留意するならば、シナリオ『肖像』は黒澤明監督の映画《白痴》におけるムィシキン理解の深さを知る上でも、きわめて重要な作品であるといえるだろう。

 井川邦子、小沢栄太郎、三宅邦子、三浦光子、菅井一郎、東山千栄子、佐田啓二などの出演で撮られ、1948年に公開されて第3回毎日映画コンクール監督賞を受賞したこの映画のシナリオの内容を簡単に見ておきたい(サイト「木下恵介生誕100年プロジェクト」の画像も参照)。

 

 まず注目したいのは、主人公の老画家から肖像画のモデルとなるように頼まれたミドリが、「でも、どうして、私なんか」と尋ねると、画家の野村は「なんて言いますかな……不思議なかげがあるんですよ、あなたの顔には」と説明していることである(『全集 黒澤明』第3巻、214頁)。この台詞は、写真館に掲示されている那須妙子(ナスターシヤ――原節子)の写真をみつめて、「綺麗ですねえ」と同意しながらも、「……しかし、何だかこの顔を見ていると胸が痛くなる」と続けた亀田(ムィシキン)の台詞を想起させる(シーン八)。

 一方、嫌々ながらもモデルを務めていたミドリは同じような境遇の芳子に「私ね、じっと座ってその画描きの綺麗な眼でじっと見られていると、なんだか、澄んだ冷い流れに身体をひたしている様な気がするの……自分の身体のいやなあぶらやあかみたいなものが洗い落されて行く様な……」と告白する。

 「いやだよ……お前さんその画描きに惚れるンじゃないのかい」と芳子から冷やかされると、ミドリは「その人、薄汚いお爺さんだわ」と言いながらも、「でも、私……その人好きよ……だんだん好きになって行くわ……初めは、随分まぬけな人だと思ってたけど……」と続けるのである。

 しかも、酔っぱらった勢いで自分が淑女ではなく愛人であると明かしてしまったミドリは、「こんなの私なものか……これが私の肖像だなんて……笑わせるわ」と言い放ち、「煙草を出して吸いつけると壁にもたれてあばずれたポーズ」を取ったが、画家の義理の娘・久美子から「いいえ……どんな不幸が今のような境遇に貴女を追い込んだのか知らないけれど……本当は……貴女はやっぱり、お父さんが描いたような貴女に違いないんです」と説得される。

 その台詞もムィシキンがナスターシヤに「あなたは苦しんだあげくに、ひどい地獄から清いままで出てきたのです」と語った言葉を思い起こさせるのである。そしてミドリは、結末近くで「死んだつもりで、出直して見るんだわ……私達、なんにもやって見もしないで、何もかも駄目だってきめてかかっていたような気がするわ」と語り、同じ稼業だった芳子に「弱虫なのは私達だわ」と続けて自立への決意を語ったのである。

 台詞自体は何人かの登場人物に分与されているが、画家の家族に励まされて苦しくとも自立しようとするミドリの決意は、ムィシキンに励まされたナスターシヤの思いとも対応しているだろう。

 こうして黒澤は老画家の肖像画をとおして、真実を見抜く観察眼の必要性と辛くても「事実」を見る勇気が、状況を変える唯一の方法であることをこの脚本で強調していたのであり、それは映画《白痴》の亀田(ムィシキン)像に直結している。 

「トルストイで司馬作品を読み解く――『坂の上の雲』と『翔ぶが如く』を中心に」(レジュメ)

 

Ⅰ.トルストイの受容と司馬遼太郎

a.「小さくなった」トルストイ――森鴎外『青年

「……日本人は色々な主義、色々なイズムを輸入して来て、それを弄んで目をしばだたいてゐる。何もかも日本人の手に入っては小さいおもちやになるのであるから、元が恐ろしいものであつたからと云つて、剛(こは)がるには当らない。何も山鹿素行や、四十七士や、水戸浪士を地下に起して、その小さくなつたイブセンやトルストイに対抗させるには及ばないのです」(『青年』)。

b.夏目漱石とトルストイの民話『イワンの馬鹿』

「どうかしてイワンの様な大馬鹿に逢つて見たいと存候。出来るならば一日でもなつて見たいと存候。近年感ずる事有之イワンが大変頼母しく相成候。イワンの教訓は西洋的にあらず寧ろ東洋的と存候」(内田魯庵訳の『イワンの馬鹿』への礼状)。

c.夏目漱石の日露戦争観と司馬遼太郎

長編小説『三四郎』で、夏目漱石は自分と同世代の登場人物広田先生に、「いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね」と語らせているばかりでなく、「然しこれからは日本も段々発展するでしょう」とした三四郎の反論にたいしては「亡びるね」と断言させていた。

司馬遼太郎は、広田の「予言が、わずか三十八年後の昭和二十年(一九四五)に的中する」と指摘して、「明治の日本というものの文明論的な本質を、これほど鋭くおもしろく描いた小説はない」と絶讃していた(『本郷界隈』『街道をゆく』第37巻)。

d.『坂の上の雲』から『翔ぶが如く』へ――「坂」という単語の両義性

「この時期、歴史はあたかも坂の上から巨岩をころがしたようにはげしく動こうとしている」(『翔ぶが如く』、第3巻「分裂」)。

 

Ⅱ.日本の近代化のモデルとしてのロシア――トルストイのドストエフスキー観

  a.徳冨蘆花の『トルストイ』と『戦争と平和』論

「露国政治上の圧政は万の迹出口を塞いで内に燃え立つ満腔の不平感懐は仮寓文字の安全管を通じて出るの外なかったのである」。

「『戦争と平和』は実に奈翁入寇前後露国社会の大パノラマである」。「花やかな人形の斬合や、小供役者の真似芝居でなくて、活人間の動く活社会が歴々と浮み出る」。

 b.司馬遼太郎の正岡子規観と徳冨蘆花観

  「少年のころの私は子規と蘆花によって明治を遠望した」(『この国のかたち』)。

 c.トルストイの『戦争と平和』観とダニレフスキーの評価

「愛国に過ぎたる所あり」(徳冨蘆花「順禮紀行」)。

ロシアの思想家ダニレフスキーは、大著『ロシアとヨーロッパ――スラヴ世界のゲルマン・ローマ世界にたいする文化的および政治的諸関係の概要』で、トルストイの『戦争と平和』を高く評価しながら、大国フランスに勝つことによって抑圧されていたスラヴの諸民族にも独立の気概を与えたと「祖国戦争」の意義を讃えていた。

d.トルストイの『罪と罰』観と「大地(土壌)主義」の評価

「甚佳甚佳(はなはだよし、はなはだよし)」(徳冨蘆花「順禮紀行」)。

「当時のロシアの現実は貴族であろうと民衆であろうと破滅させてしまうような厳しいもの」であり、「トルストイが情熱を注いだ教育活動は、貴族と民衆の融合・調和を目指していました」(川端香男里『100分de名著、トルストイ「戦争と平和」』)。

「われわれはこの上なく注目に値する重大な時代に生きている」としたドストエフスキーも、ピョートル大帝による「文明開化」以降に生まれた「民衆」と「知識人」との間の断絶を克服するためには、農奴制の中で遅れたままの状態に取り残されている民衆に対する「教育の普及」こそが「現代の主要課題である」と強調していた。

e.トルストイと『死の家の記録』――近代の制度としての法律、監獄、病院

「数日来病気で、暇にまかせて『死の家』を読みました。我を忘れてあるところは読み返したりしましたが、近代文学の中でプーシキンを含めてこれ以上の傑作を知りません。作の調子ではなく、観点に驚いたのです。誠意にあふれており、自然であり、キリスト教的で、申し分のない教訓の書です」(批評家のストラーホフへの手紙)。

f.『アンナ・カレーニナ』とドストエフスキーの『作家の日記』

「『アンナ・カレーニナ』は芸術作品としては、まさに時宜を得てさっと現われた完成された作品であって、現代のヨーロッパ文学中、何ひとつこれと比べることができないような作品である。第二に、これはその思想的内容から言って、何ともロシア的なものである。われわれ自身と血でつながっているものである」(『作家の日記』)。

しかし、主人公のリョーヴィンが次のように語る箇所を引用したドストエフスキーはトルコによる大量虐殺を指摘しながら、次のような考えをそれは「復讐」ではないと厳しく批判している。

「……自分の兄をもふくむ数十人の人びとが、首都からやって来た何百人かの口達者な義勇兵たちの話を根拠にして、民衆の意志と思想とを表現しているのは、新聞と、それから自分たちであると揚言する権利をもっているという考えには、彼はとうてい同意することはできなかった。しかもその思想たるや、復讐と殺人とによって表現されるものではないか。」

g.トルストイの『白痴』観と『イワンの馬鹿』

「その値打ちを知っている者にとっては何千というダイヤモンドに匹敵する」(『白痴』の主人公ムィシキン評)。

 

Ⅲ.『坂の上の雲』における「教育」と「軍隊」の制度の考察

a.「二つの祖国戦争」――『戦争と平和』の最近の評価と『坂の上の雲』

ロシア語書籍の最良作品リストのアンケート。

1位、トルストイ『戦争と平和』、32パーセント。

3位、ドストエフスキー『罪と罰』、16パーセント。

(2位、ブルガーコフの『巨匠とマルガリータ』、19パーセント。)

b.トルストイの困惑と司馬遼太郎の德富蘆花観

「日露戦争そのものは国民の心情においてはたしかに祖国防衛戦争であった」が、「近代を開いたはずの明治国家が、近代化のために江戸国家よりもはるかに国民一人々々にとって重い国家をつくらざるをえなかった」。「蘆花は、そういう国家の重苦しさに堪えられなかった。かれは国家が国民に対する検察機関になっていくことを嫌悪」した(『坂の上の雲』「あとがき五」)。

c.『戦争と平和』における主人公と作品の構成

d.『坂の上の雲』における主人公と作品の構成

e.ピエールの戦争観察と正岡子規の従軍

f.『坂の上の雲』における「普仏戦争」の考察

「プロシャ憲法をまねした」明治憲法には、「天皇は陸海軍を統率するという一項があり、いわゆる統帥権は首相に属して」おらず、「作戦は首相の権限外」だった。

「首相の伊藤博文も陸軍大臣の大山巌もあれほどおそれ、その勃発をふせごうとしてきた日清戦争を、参謀本部の川上操六が火をつけ、しかも手ぎわよく勝ってしまった」が、「昭和期に入り、この参謀本部独走によって明治憲法国家がほろんだことをおもえば、この憲法上の『統帥権』という毒物のおそるべき薬効と毒性がわかるであろう」(第2巻「日清戦争」)。

 

Ⅳ.『坂の上の雲』の広瀬武夫と『戦争と平和』

a.『坂の上の雲』における秋山真之の親友・広瀬武夫

「少尉当時からロシアに関心をもち、ロシア語を独習」していたために、兵学校の卒業席次がきわめて劣等だったにもかかわらず、ロシアに派遣された。広瀬武夫がロシアでは、「プーシキンの詩の幾編かを漢詩に訳したり、ゴーゴリの『隊長ブーリバ』」やアレクセイ・トルストイの全集に熱中するなど「日本人としては、ロシア文学をロシア語で読むことができたごく初期のひとびとの一人であろう」(第3巻「風雲」)。

b.「軍神・西住戦車長」と広瀬武夫

菊池寛の『西住戦車長伝』によりながら、「西住小次郎が篤実で有能な下級将校であったことはまちがいない」としながらも、西住戦車長が「軍神」になりえたのは、陸軍が「軍神を作って壮大な機甲兵団があるかのごとき宣伝をする必要があった」からであると冷徹な記述をした司馬氏は、その一方で比較文学者の島田謹二が描いた『ロシヤにおける広瀬武夫』を読んで「この個性的な明治の軍人がすぐれた文化人の一面をもっていたことを知った」と続けている(「軍神・西住戦車長」)。

c.広瀬武夫と『知恵の悲しみ』

トルストイの『復活』を読み、「叙事詩『ルスランとリュドミーラ』を脚色したミハイル・グリンカの楽劇をマリヤ座でみた」広瀬は、帝政ロシアの貴族社会を痛烈に批判してデカブリストたちにも影響を与えた「グリボエードフの『知恵の悲しみ』を見にいった。モスクワの上流社会を舞台にした風俗劇だ。…中略…セリフは口語にちかい言葉でありながら、りっぱな詩になっているのが耳にこころよい」との感想も記していた(『ロシアにおける広瀬武夫』)。

d.広瀬のロシア観とピエールへの共感

「いろいろな方面で、せまかった私の眼をロシヤは開いてくれました」と語った広瀬は、「あのころは日本からもっていった日本人の眼で、ロシヤの風俗を外から眺めて、日本人の心で判断して、笑ったり怒ったりしていたのだと思います」とし、「国家としては、日本の恐るべき敵でしょうが、個人的な交際を考えると、いい人が多いですな」とも続けたことが描かれている。

「とうとう僕も『戦争と平和』をよみあげました」と語った広瀬は『戦争と平和』の構造について、「ずいぶん長いもので、はじめは迷宮にはいったよな気がしましたが、だんだん家族と家族の結びつきがわかってきました。しまいにはボルコンスキー家と、ロストフ家の人々が記録の中からぬけだして、生きてきました」と分析した。

そして、「ピエール・ベズーホフがことにいい。結婚に失敗して、社交界のつまらぬことを知るでしょう。それから生き甲斐のあるものをいろいろ求めるでしょう。…中略…わが命一つをなげだして、圧制者ナポレオンを暗殺しようとするでしょう。あすこがいい」と、広瀬は激賞したと描かれている。

その言葉を聞いた川上が笑いながら、「君にもピエールのようなところがあるよ」というと、「そう。理想家というのでしょうね。ピエールは、神秘家でもなければ、聖者でもありません。ただ心をきよくして単純な生き方をしているうちに、満ちわたる生命(いのち)の光をあびたんです。澄んだ眼をしている男と書いてありますね。……」と分析した広瀬は、「日本の将校だから、日本のために戦うのは当然だが、同時に、ロシヤにも報いるような道をみつけたい。それが人道というものでしょうね」と続けたと描かれている。

e.『坂の上の雲』における『セヴァストーポリ』への言及

トルストイは「下級将校として従軍」して「籠城の陣地で小説『セヴァストーポリ』を書き、愛国と英雄的行動についての感動をあふれさせつつも、戦争というこの殺戮だけに価値を置く人類の巨大な衝動について痛酷なまでののろいの声をあげている」(第5巻「水師営」)。

 

Ⅴ.『翔ぶが如く』における「内務省」と「法律」の考察

a.「藩閥政治」の腐敗と「征韓論」

「孤絶した環境にある日本においては、外交は利害計算の技術よりも、多分に呪術性もしくは魔術性をもったものであった」。「明治初年になってふたたび朝鮮問題がもちあがったとき、桐野(利秋)など多くの壮士的征韓論者は、(豊臣)秀吉の無知の段階からすこしも出ていなかった」と続けている(括弧内は引用者の補注、第1巻「情念」)。

b.内務省の問題と木戸孝允の危惧

大久保利通は「プロシア風の政体をとり入れ、内務省を創設し、内務省のもつ行政警察力を中心として官の絶対的威権を確立しようとした」(第1巻「征韓論」)。

「内務省は各地方知事を指揮するという点で、その卿たる者は事実上日本の内政をにぎってしまうということになる。知事は地方警察をにぎっている。従って内務卿は知事を通して日本中の人民に捕縄(ほじょう)をかけることもできる」(第1巻「小さな国」)。

幕末に活躍していた木戸孝允(桂小五郎)には、「内務省がいかにおそるべき機能であるかということ」を「十分想像できた」ので、「欧州から帰ったあと憲政政治を主唱」した(第2巻「風雨」)。

 c.正岡子規の退寮問題と与謝野晶子の批判

内務官僚の佃一予が、「常磐会寄宿舎における子規の文学活動」を敵視し、「正岡に与(くみ)する者はわが郷党をほろぼす者ぞ」と批判したことを紹介した司馬は、「官界で栄達することこそ正義であった」佃にとっては、「大学に文科があるというのも不満であったろうし、日本帝国の伸長のためにはなんの役にも立たぬものと断じたかったにちがいない」とし、「この思想は佃だけではなく、日本の帝国時代がおわるまでの軍人、官僚の潜在的偏見となり、ときに露骨に顕在するにいたる」と続けている。

実際、日露戦争の最中に『君死にたまふことなかれ』を書いた与謝野晶子は、評論家の大町桂月によって「教育勅語」を非議したと激しく批判されることになる。

d.明六社と新聞紙条例

「『明六雑誌』は創刊の明治七年以来、毎月二回か三回発行されたが、初年度は毎号平均三千二百五部売れたという。明治初年の読書人口からいえば、驚異的な売れゆきといっていい。しかしながら、宮崎八郎が上京した明治八年夏には、この雑誌は早くも危機に在った」(第5巻「明治八年・東京」)。

「明治初年の太政官が、旧幕以上の厳格さで在野の口封じをしはじめたのは、明治八年『新聞紙条例』(讒謗律)を発布してからである。これによって、およそ政府を批判する言論は、この条例の中の教唆扇動によってからめとられるか、あるいは国家顛覆論、成法誹毀(ひき)ということでひっかかるか、どちらかの目に遭った」。

e.中江兆民と宮崎八郎――「壮士」から「民権論者」へ

「宮崎八郎は本来、思想的体質のもちぬしであったが、しかし文明とはたとえば人類共通の思想であるということを、この時期、わずかでも思ったことがない」(第5巻「壮士」)。

宮崎八郎がルソーの『民約論』を中江兆民訳で読んだ後では「泣いて読む、廬騒(ルソー)民約論」と「あたかも雷に打たれたような感動を発し」て大きく変わることを指摘した司馬は、「幕末にルソーの思想が入っていたとすれば、その革命像はもっと明快なものになっていたにちがいない。中江兆民という存在が、十五年前に出ていれば、明治維新という革命に、おそらく世界に共通する普遍性が付与されたに相違ない」と続けていた(第5巻「肥後荒尾村」)。

f.『坂の上の雲』から『翔ぶが如く』へ――近代国家の「原形」の考察

西南戦争がおさまったあとで、「もういっぺんこんなことがあったら明治政府はしまいだ」と考えた山県有朋がその翌年に「軍人訓戒」を出し、さらに西南戦争から五年たった明治15年には軍人勅諭が出されたが、それは「教育勅語」へと直結しているように見える。

デカブリスト事件を書き始めたトルストイが、その原点となった「祖国戦争」の時代へと関心を深めて『戦争と平和』を書くことになることはよく知られている。『坂の上の雲』で正岡子規の退寮問題で内務官僚にふれていた司馬も、その原点ともいうべき明治初期の時代を『翔ぶが如く』で描いたといえるだろう。

 

おわりに――「小さくされた」司馬遼太郎

学徒動員で満州の戦車部隊に配属された司馬遼太郎は、「防衛と日本史」という講演で、「日露戦争が終わると、日本人は戦争が強いんだという神秘的な思想が独り歩きした。小学校でも盛んに教育が行われた」が、自分もそのような教育を受けた「その一人です」とし、「迷信を教育の場で喧伝して回った。これが、国が滅んでしまったもと」であると分析している(「防衛と日本史」『司馬遼太郎が語る日本』第5巻)。

『坂の上の雲』を書く中で近代戦争の発生の仕組みや近代兵器の威力を観察し続けていた司馬は、「日本というこの自然地理的環境をもった国は、たとえば戦争というものをやろうとしてもできっこないのだという平凡な認識を冷静に国民常識としてひろめてゆく」ことが、「大事なように思える」とも書いていた(「大正生れの『故老』」『歴史と視点』)。

さらに司馬は自衛隊の海外への派遣には強く反対して、「私は戦後日本が好きである。ひょっとすると、これを守らねばならぬというなら死んでも(というとイデオロギーめくが)いいと思っているほどに好きである」と記している(『歴史の中の日本』)。

ここには『イワンの馬鹿』を高く評価した夏目漱石と同じようなトルストイの深い理解が反映されているように思える。

 

主な参考文献

阿部軍治『〔改訂増補版〕徳富蘆花とトルストイ――日露文学交流の足跡』、彩流社、2008年。

阿部軍治『白樺派とトルストイ――武者小路実篤・有島武郎・志賀直哉を中心に』、彩流社、2008年。

梅棹忠夫『近代世界における日本文明――比較文明学序説』、中央公論社、2000年。

大木昭男『漱石と「露西亜の小説」』ユーラシア・ブックレット、東洋書店、2010年。

川端香男里『100分de名著、トルストイ「戦争と平和」』、NHK出版、2013年。

グロスマン著、松浦健三訳編「年譜(伝記、日記と資料)『ドストエフスキー全集』(別巻)、新潮社、1980年。

司馬遼太郎『坂の上の雲』(全8巻)、文春文庫、1978年。

司馬遼太郎『「昭和」という国家』、NHK出版、1998年。

司馬遼太郎『翔ぶが如く』(全8巻)、文春文庫(新装版)、2002年。

島田謹二『ロシアにおける広瀬武夫』(上下)朝日選書、1976年。

Данилевский,Н.Я., Россия и Европа. СПб.,изд.Глагол и изд.С-Петербургского университета, 1995.

徳冨蘆花『トルストイ』(『徳冨蘆花集』第1巻)、日本図書センター、1999年。

徳冨蘆花「順禮紀行」、『明治文學学全集』(第42巻)、筑摩書房、昭和41年。

ドストエフスキー著、川端香男里訳『作家の日記』(『ドストエフスキー全集』第17巻~第19巻)、新潮社、1980年。

トルストイ著、藤沼貴訳『戦争と平和』(全6巻)、岩波文庫、2006年。

ヒングリー著、川端香男里訳『19世紀ロシアの作家と社会』、中公文庫、1984年。

藤沼貴『トルストイ』、第三文明社、2009年。

藤沼貴『トルストイ・クロニクル――生涯と活動』、ユーラシア・ブックレット、東洋書店、2010年。

法橋和彦『古典として読む 「イワンの馬鹿」』未知谷、2012年。

柳富子『トルストイと日本』、早稲田大学出版会、1998年。

米川哲夫「第四回日ソシンポジウムに参加して――報告の要約と雑感」『ソヴェート文学』第95号、群像社、1986年。

テキストからの逃走――小林秀雄の「『白痴』についてⅠ」を中心に (発表要旨)

 

作家の坂口安吾が、戦後間もない1947年に著した「教祖の文学 ――小林秀雄論」で、「思うに、小林の文章は心眼を狂わせるに妙を得た文章だ」と書き、小林秀雄が「生きた人間を自分の文学から締め出して」、「骨董の鑑定人」になってしまったと厳しく批判したことはよく知られている(『坂口安吾全集 5』、筑摩書房、1998年、239~243頁)。

しかし、小林秀雄とも同人誌『文科』の同人だった坂口は、この評論において「日本は小林の方法を学んで小林と一緒に育つて、近頃ではあべこべに先生の欠点が鼻につくやうになつたけれども、実は小林の欠点が分るやうになつたのも小林の方法を学んだせゐだといふことを、彼の果した文学上の偉大な役割を忘れてはならない」とも記していた(同上、232~233頁)。

実際、「『未成年』の独創性について」(1933)と題された論考など初期の論考にはきわめて深いドストエフスキー作品の理解が見られ、また『カラマアゾフの兄弟』論(1941)における「この最後の作も、まさしく行くところまで行つてゐる。完全な形式が、続編を拒絶してゐる」との適確な指摘は、現在の通俗的な理解をも凌駕しているといえるだろう(『小林秀雄全集』第6巻、新潮社、1967年、170頁。以下、全集からの引用に際しては旧漢字を新漢字になおすとともに、本文中の括弧内に頁数をアラビア数字で示した)。

それゆえ、本稿では小林秀雄が何も語らなかった黒澤映画《白痴》(1951)を参考にしながら、ドストエフスキーの作品と小林秀雄の評論とを具体的に比較することによって、小林のドストエフスキー論の意義と問題点を検証したい。

*   *   *

最初に『永遠の良人』論と『未成年』論における小林の独創的な分析とその特徴を確認する。次に小林秀雄が「『罪と罰』についてⅠ」では、『地下室の手記』の主人公の言説とドストエフスキー自身とを結び付けることで、ドストエフスキーが前期の作品と訣別しそれまでの「理性と良識」を捨てたと主張したシェストフの『悲劇の哲学』からの強い影響を受け始めていることを明らかにする。

すなわち、「第六章と終章とは、半分は読者の為に書かれたのである」と書いた小林は〔53〕、この評論の終わりで「ドストエフスキイは遂にラスコオリニコフ的憂愁を逃れ得ただらうか」と読者に問いかけていたのである〔63〕。

次の「『白痴』についてⅠ」で小林は、『罪と罰』の終りで「作者が復活の曙光とよんでゐるものは、恐らく僕等が一般に理解してゐる復活、即ち精神上の或は生活上のどういふ革新にも縁のないものだ」とラスコーリニコフの「悔悟」を否定し、「ラスコオリニコフは生きのびて来たドストエフスキイその人に他ならぬ」と断言していた〔83~84〕。

このような小林の解釈は、戦争に向けて走り出していた当時の日本社会では多くの読者に受け入れられた。なぜならば、「非凡人」には「悪人を殺す」ことも許されると考えて「高利貸しの老婆」を殺害したラスコーリニコフが、シベリアで自分の罪を深く反省してしまっては、「自国の正義」のために「敵」と戦う「戦争」も否定されることになってしまうからである。

最も問題なのは、『罪と罰』との連続性を強調するために小林が「来るべき『白痴』はこの憂愁の一段と兇暴な純化であつた。ムイシュキンはスイスから還つたのではない、シベリヤから還つたのである」とテキストとは全く違う、読者の予想を超えるような大胆な解釈をしていたことである〔傍線引用者、63〕。

「『白痴』についてⅠ」もこのような解釈に従って記述されているが、シベリアから帰還したことになると、ムィシキンが治療を受けていたスイスの村で体験したマリーのエピソードがなくなることで、判断力がつく前に妾にされていたナスターシヤの心理や行動を理解することが難しくなる。さらには、ムィシキンが西欧で見たギロチンによる死刑の場面もなくなり、『白痴』における主要なテーマの一つである「殺すなかれ」というイエスの言葉と、近代西欧文明の批判も読者の視界から抜け落ちてしまうことになる。

『白痴』のテキストが具体的に分析されている「『白痴』についてⅠ」の第三章で、小林は「ムイシュキンの正体といふものは読むに従つていよいよ無気味に思はれて来るのである」と書き、簡単な筋の紹介を行ってから「殆ど小説のプロットとは言ひ難い」と断じている〔87~88〕。しかし、それはスイスでのエピソードが省かれているばかりでなく、筋の紹介に際しても重要な登場人物が意図的に省略されているために、ムィシキンの言動の「謎」だけが浮かび上がっているからだと思われる。

*   *   *

研究者の相馬正一は、「教祖の文学」で「面と向かって評論界のボス・小林秀雄」を初めて「槍玉に挙げた」坂口安吾が、その直前に書いた「通俗と変貌と」(1947)でも、小林を「実は非常に鋭敏に外部からの影響を受けて、内部から変貌しつづけた人であり」、「勝利の変貌であるよりも、敗北の変貌であったようだ」と書いていたことを指摘している(『坂口安吾 戦後を駆け抜けた男』人文書館)。

領土問題などをめぐって近隣諸国との軋轢が強まっている現在、小林秀雄の評論が再び脚光を浴び始めている。本発表では坂口安吾のリアリズム観も紹介しながら具体的に小林の文章を引用しつつ論じることで、小林秀雄のドストエフスキー論の意義と問題点を明らかにしたい。忌憚のないご意見やご批判を頂ければ幸いである。(再掲に際しては、読みやすいように文体的な改訂を行った)。